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音楽

2020年7月28日 (火)

8トラック・カートリッジの成り立ちと当時のミュージック・テープ事情

今回は、6月2日にアップした記事「8トラック・カートリッジ・プレーヤー導入とカートリッジ・テープ修復の巻」でも触れた、内山田洋とクール・ファイブの8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』(アポロン)を紹介する予定だったが、その前提として8トラック・カートリッジの成り立ちと当時のミュージック・テープ事情について書き始めたところ、とても長くなってしまったので、結局『クールファイブ デラックス』の紹介は次回に回すことにした。

始めにお断りしておくと、本来であれば今回書いた内容は、国立国会図書館に赴くなどして各レコード/テープ・メーカーの総目録や雑誌『テープ・マンスリー』、ドライバー向けに出ていたという8トラックの情報誌などに当たって確認すべきところだが、なにしろコロナウイルスの影響で外出を控えている状況のため、ほとんど手元にある資料およびインターネットで得られた情報のみをベースとしている。そのため調査が不十分である点はご容赦いただきたい。

8トラック・カートリッジはアメリカ合衆国で、主にカー・ステレオでの使用を前提に1965年に製品化された。オープンリール・テープは車内での操作はほぼ不可能、1962年に開発されたコンパクト・カセット(我々が普通にカセットと呼んでいるもの)はその時点ではまだ音質的にも機能的にも未成熟で、オーディオ用としては認知されていなかった。8トラックの開発にも関わった米RCAは、1965年のうちに175タイトルのカートリッジを発売。大手自動車メーカーも8トラックを再生できるカー・ステレオを組み込んで、セールス・ポイントのひとつにするようになっていった。
当時の米RCAヴィクターのLPのカンパニー・スリーヴにはこんな広告も載っていた。

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8トラック・カートリッジとはどのようなものか、改めて書いておくと、オープンリールと同じ幅に8トラック分が録音されたテープが、横10cm×縦13.5cm×厚さ2.2cmほどのカートリッジ・ケースの中に1リールのエンドレスで巻かれたもので、内周部から窓の部分に送り出され、再生ヘッドと内蔵されたピンチローラーを経て外周部に巻き取られたテープが、ひと巻き分再生し終ってテープの繋ぎ目に貼られたセンシング箔を機械が感知する度に、再生ヘッドがガチャッと下に送られて4つのステレオ・プログラムを順番に再生していくというもの(4チャンネル録音の場合はプログラムは2つとなり、対応する再生機が必要)。4つ目のプログラムが終わると最初に戻り、ほっておくとずっとエンドレスで再生し続ける仕組みになっている。構造上巻き戻しは不可能、早送りも同様で、機種によってはできるものもあるようだが、いずれにしても高速ではできない。基本的に操作できるのはプログラム・チェンジだけだ。

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手間いらずのようでいて、この不自由さと大きさが、刻々と進化を遂げていったコンパクト・カセットに後々シェアを奪われる最大の要因となる。プログラムが進む前に長いブランクが発生しないよう、各プログラムの演奏時間はほぼ同じになるように編集されている。アルバム(LP)をそのまま8トラック化しようとしても、片面の演奏時間のちょうど真ん中に曲の切れ目がくることはまずないため、曲順が入れ替えられたり、中間に位置する曲がフェイド・アウト~フェイド・インで2つに泣き別れした形で収められたり、というケースが多く発生する。もっともそれはアメリカ合衆国など海外での話で、日本の場合は少し事情が異なっていた。

その日本では、ニッポン放送の系列会社として1966年10月に設立されたニッポン放送サービス(1970年にポニーと改称)が、既成のレコード会社からも音源提供を受ける形で1967年4月に「ポニーパック(PONY Pak)」の名称で販売を開始したのが最初。今のところ手元にあるカートリッジの数は微々たるものだが、当時のポニーパックが1本ある。

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山田太郎「友情のうた」(1965年9月)以外は1967年8月から10月までにリリースされたシングルおよびそのB面曲が並んでいるので、1967年11月頃の発売ではないだろうか。〈クラウン・ヤング・ヒット・パレード〉と、クラウンの音源を使用していることが売りになっている。

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同年には渡辺プロダクションと文化放送の合弁によるアポロン音楽工業も設立されている。ビクターなど旧来のレコード会社も8トラックのリリースを順次始めていったが、実際に普及が進んだのは1968年に入ってからだろう。手元にある雑誌『中南米音楽』1968年1月号には「オーディオ教室~テープ・トラック」(文:坪井謙旺)という記事があり、その中で8トラック・テープにも触れられているが、「我が国ではあまり見られませんが、カー・ステレオやBGM用に使用されています」とコメントされている。それが同誌でも3月号になると「タンゴとラテン 各社新譜リスト」に、キングから出るセルジオ・メンデス&ブラジル66の8トラックなどが他のLPに交じって掲載されるようになり、9月号には「最近はテープ界の進出がめざましく発展していますが、最近発売されたテープをリストにしてみました」として2ページにわたる単独の「各社テープ新譜リスト」が掲載されるに至った。タンゴや広義のラテンが対象なので、歌謡曲やポピュラー全般、ジャズ、クラシックと比べたら数的には微々たるものだろうが、紹介された本数をメーカー別(掲載順)、種類別に表にしてみた。

メーカー

4トラック

オープンリール

8トラック

カートリッジ

4トラック

カセット

合計

キング

2

   

2

ポリドール

2

 

1

3

東芝

1

4

 

5

ビクター

 

2

 

2

フィリップス

   

1

1

アポロン

   

2

2

エース・パック

 

3

 

3

メッカ

 

3

 

3

ポニー

 

1

 

1

合計

5

13

4

22

ここで注目すべきは2点。まず、数的には8トラックが優勢ながら、この時点で既にカセットもリリースされていたこと。実は同誌6月号には前述の坪井による「オーディオ教室~テープレコーダーの新方式――『カセット』」という記事が既に掲載されていて、この新しいメディアの将来性について語られている。文末で坪井は「一般用テープレコーダーはやがてカセットに統一される可能性が濃厚である」と書いているが、実際にその通りになるわけで、1968年の時点でこれを書いた坪井の先見の明も大したものである。もう1点は、既成のレコード会社以外に、先ほども触れたポニーやアポロン以下ミュージック・テープ専門メーカー(当時)各社の商品が登場していること。そう、これこそが海外と異なる日本の特殊事情の話に繋がってくるのだが、詳しい説明は後にして、1969年にかけてのリリース状況もみておこう。以後『中南米音楽』誌に毎月掲載されていた「各社テープ新譜リスト」は1969年5月号を最後に途絶えてしまうが、その間にはCBS・ソニーが新規に参入したり、日本ではビクターから出ていた海外RCA原盤が、日本でも同じ日本ビクター内のRCA事業部から出るようになったり(詳しくは「“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史」参照)、というような動きがあった。1968年9月号から1969年5月号までに掲載された全タイトルの合計は以下の通り。

メーカー

4トラック

オープンリール

8トラック

カートリッジ

4トラック

カセット

合計

キング

9

15

4

28

ポリドール

12

6

12

30

東芝

1

8

2

11

ビクター/RCA

2

19

2

23

フィリップス

1

1

15

17

CBS・ソニー

3

7

8

18

コロムビア

0

6

4

10

テイチク

0

2

0

2

アポロン

0

5

4

9

エース・パック

0

8

0

8

メッカ

0

15

0

15

ポニー

4

18

13

35

TDK

4

0

0

4

TBS

0

2

0

2

合計

36

112

64

212

こうしてみても、当時のトレンドは8トラックでありながら、カセットも意外と出ていたんだなということがわかる。メーカー毎のフォーマットの使い分けも様々で、単独のフォーマットでのみリリースされるもの、複数のフォーマットでリリースされるものなど様々だった。これは偶然だろうが、同じ日本ビクターでもビクター/RCAは8トラックが多く、フィリップス(日本フォノグラムとしてビクターから独立するのは1971年のこと)はカセットがメインだったりしている。

さて、ここからはメーカー/レーベルの話。上の表ではテイチクまでが既存のレコード・メーカー、アポロン以下がテープ専門メーカーとなり、それらも放送局系、オーディオ・テープ・メーカー、独立系の3つに分類できる(後にレコード制作まで手を伸ばしたところもいくつかある)。そのうち放送局系では、文化放送系のアポロン、ニッポン放送系のポニーに加え、TBS(東京放送)系のTBSサービスで制作されたものがトミー音芸制作工業から出ていた(ベルテック、クラリオンといったカー・オーディオ・メーカーからも出たようだが実態は不明)。またリスト外ではABC朝日放送系で制作音源がテイチクからレコード化もされていた朝日ミュージパック(朝日ミュージック・サービス)というのもあったが、TBSもABCも先行2つのようなシェアは築けないままに終わった。オーディオ・テープ・メーカーとしては、TDKのほかにオープンリールのみだがティアックも独自にミュージック・テープをリリースしていた(以前「キンテート・レアルによる日本の歌謡曲集」で触れたオープンリール作品『キンテート・レアル イン スタジオ』をその後入手できたので、どさくさ紛れに写真を載せておく)。

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それ以外は独立系で、ラテン系にも積極的だった名古屋のメッカレコード・パックなど、リスト外ではJASS(日本音楽工業)、GM PAK、DELLAなどがあった。使われる音源も、独自音源を制作したり、既存のレコード会社等から提供を受けたりと、様々だった。

そう、この辺りが、基本的には既存のレコード会社がLPと同内容のものを(曲順の変更等はあるにせよ)リリースしていた海外と異なる、日本固有の特殊事情ということになる。そして既存のメーカーからリリースされたタイトルも、ザッと見渡した限り、LPとは別のラインでの編集ものや独自テーマによる企画ものの方が数としては多かったようである。

独自制作の立場から音源を確保する上で、各レコード会社と密接な協力関係を持ったラジオ局系メーカーが有利であることはある意味当然だろう。どちらかというと、コロムビアやビクター、キング、テイチクといった古参メーカーは自社で、そこから枝分かれしたクラウンやミノルフォンといった新しめの会社はポニーなどに音源を提供し、というのが当初の傾向だったようである。

そしてアポロンの場合は更に、単なる放送局系に留まらない強力なアドヴァンテージがあった。それは先に触れたように、アポロンが渡辺プロダクション(ナベプロ)と文化放送の合弁によって誕生した会社だからである。ナベプロと言えば、1961年8月20日に東芝音工からリリースされた植木等「スーダラ節」を皮切りに、原盤権ビジネスを開始したことでも知られている。それ以前の日本では、原盤権はレコード会社にあるのが慣例だったが、ナベプロは企画制作からマスターテープ作成までを手掛け、東芝はプレスから販売までを受け持ったのである。1962年10月には渡辺音楽出版も設立され、アーティスト・マネージメントから音楽出版権管理、原盤制作まで含めたトータル・プロデュースを可能にしていく。原盤の提供先は、加山雄三やザ・ドリフターズ、奥村チヨなら東芝、ザ・ピーナッツや布施明ならキング、園まりやザ・タイガースならポリドール、森進一ならビクター、ジャッキー吉川とブルー・コメッツならコロムビア(CBS・ソニー発足まではCBSレーベル)というわけだ。アポロン発足後は、当然ながらミュージック・テープはアポロンからのリリースとなるわけだが(契約先の各レコード会社からテープが発売されるケースもある)、そうした中からレコードの形では出ないテープ独自企画も生まれるようになる。

ザ・タイガースを例にとると、1967年12月13日に東京・大手町のサンケイホールで行われた『ザ・タイガース・チャリティーショー』のライヴ録音が、1968年2月にアポロンからオープンリール・テープ『ザ・タイガース・チャリティーショー実況録音テープ』としてリリースされた。その後カセット『THE TIGERS A GO! GO!』と8トラック『LET’S GO THE TIGERS』でも出たが、なんとこの3種では曲目も曲順も異なっているという。それらの収録曲を網羅し演奏順に並べ直してCD化した復刻盤が、2000年6月にポリドールから出たCD12枚組BOX『1967-1971 THE TIGERS PERFECT CD BOX MILLENNIUM EDITION』のDisc 12『The Tigers A Go! Go!』である(下はそのジャケット写真で、オープンリールのパッケージを模したデザインになっていた)。

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1968年にアポロンから8トラックとカセットで出た伊東きよ子(コロムビアからCBS・ソニーに移籍する狭間)とザ・ハプニングス・フォー(東芝)の『花のマドンナ』は2000年12月に新星堂から『オー・ガンソ』としてCD化。1970年頃に8トラックで出たザ・ハプニングス・フォーの洋楽カヴァー企画(原題不明)は1999年にWEA JAPANから『決定版!R&Bベスト16』としてCD化。このほか、ブルー・コメッツや奥村チヨのカヴァー集なども複数がCD化されている。このように、グループ・サウンズやポップス系女性歌手のテープ独自音源の復刻はある程度進んでいるのに対し、演歌系などはまったく顧みられていないのではないか。ということで、ようやくクール・ファイブの話になるのだが、この続きは次回。

2020年6月24日 (水)

8トラック・カートリッジ・プレーヤー再生への道

【6月25日:文末に重要な追記あり】

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先月(5月)導入したSONYの8トラック・カートリッジ・プレーヤーのTC-6(導入記はこちら)、右チャンネルは普通に音が出ていたが、左チャンネルの方はレヴェルが低く、音もこもっていて、その程度はソフトによって多少差がある感じだった。

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いつ買ったかわからないオーディオテクニカのヘッドクリーニング液(写真左)でクリーニングは行っているが、とりあえずヘッドを消磁してみようと、消磁器を物色。またまたヤフオクでSONYのHE-3、取扱説明書付、動作確認済みというのが出品されていて、クーポンも使って1,000円ちょっとで落札できた。

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実際に消磁してみても、音の出方はほとんど変わらなかったが、どうせ必要なものだし、格安で買えたのはよかった。消磁器はTDKのカセットテープ型のを持っていたが、長いこと使っておらず、電池を交換しても表示ランプが付かなくなっていた。

現状のTC-6は出力が低く、まともに音が出る右チャンネルでも、アンプのヴォリュームが通常9時ぐらいの位置に対し、11時半ぐらいまで上げないと充分な音量にならず、左は更に音がまともに出ていないため、パソコン上で調整してみることにした。もともと、再生したアナログ盤をパソコンに取り込んでデジタル化するために、オーディオ・アンプのテープ入出力端子は、RMEのBabyfaceというインターフェース(A/DコンバーターとD/Aコンバーター)を経由してパソコンと繋がっている。

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そこでBabyface用のミキサーであるTotalMix FXの出番となったわけである。当初は左チャンネルのアナログ入力のゲインを33~36dB程度、右チャンネルを27~30dB程度で様子を見た。聴感上左右のエネルギーバランスは揃ってきたが、レヴェルインジケーターはむしろ左が高め。ヴォーカルがセンターにピタッと定位せず、どうにも違和感がある。先日まとめて安く購入したカートリッジに、1本だけモノラル音源(柳家三亀松の都々逸)があったので掛けてみると、まるで疑似ステレオのよう。

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そう、音がこもった感じがしたのは、中~高音域が出ていなかったからなのだ。そこでTotalMixのイコライザーの登場である。モノラル音源の右チャンネルの方をON/OFFしながらほぼ近い状態まで持っていったら、こんな感じになった(わかりづらいが、左チャンネルのイコライザー・カーヴに注目)。

Totalmix-fx-for-tc6

左右のゲインは結局30dBで揃えた。要するに左右の入力レヴェルは同じにして、左チャンネルの中音域以上を思い切り上げたところで、左右のバランスが取れたのである。左チャンネルだけ中高音域が出ていないのはなぜなのか。ヘッドの摩耗なのか、回路的な問題なのか。と思いつつ、ヘッドの写真を撮ってみたらすぐにピンときてしまった。

Img_8251

ヘッドの下側の右チャンネル読み取り部がほとんど無傷なのに対し、上側の左チャンネル読み取り部とその周囲は擦り傷だらけではないか。恐らくこれが原因だろう。パソコン側での増幅とイコライジングという対処療法でとりあえずはまともに聴けるようになったのだから、御の字である。

【以下 6月25日追記】

...と、ここまで書いたのが23日の夜のことだったが、ヘッドの傷がなんとかならないかと調べたりして、何の気なしに綿棒にいつものオーディオテクニカのヘッドクリーニング液を付けて、いつもよりは強めに丁寧にこすり続けてみたら、なんとこんな状態に!

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なんてこった。左チャンネル読み取り部周囲を覆って中高音域の減衰を招いていたのは、キズではなく頑固な汚れだったのだ。早速再生してみると、みごとに左右均等なバランスで音が流れだした。求めていたのはこの自然な音だ。アンプのヴォリュームを上げさえすれば、もはやコンバーターを通してイコライジングする必要はない。それにしても私はこの1か月半近く、いったい何をやっていたのだろう。

【更に6月25日夜追記】

原因と対応にたどり着くのに時間が掛かったのは、恐らく最初の時点で、実際には不十分極まりなかったがクリーニング液によるヘッド・クリーニングを一応行っていたため、汚れが原因という発想が持てなかったからだと思う。Facebookの方で、「テープの磁性体はこびりついたら頑固」というコメントをもらい、思い当たることがあった。プレーヤーの入手当初は、まだ左チャンネルの中高音域減衰は、それほどでもなかった印象もあるのだ。ヘッドの左チャンネル部分に磁性体がある程度こびりついていた状態で、それを落とせないまま再生を繰り返したことで、磁性体の更なる付着を招いたのだとすれば、おおよその流れの説明もつくように思う。ヘッドをピカピカにできたことで、音の出方が明確になり、音量も多少上がったようにも思える。あとはこの状態を保つことが大事だろう。

2020年6月 2日 (火)

8トラック・カートリッジ・プレーヤー導入とカートリッジ・テープ修復の巻

5月初旬のこと、内山田洋とクール・ファイブの『クールファイブ デラックス』という8トラック・カートリッジがヤフオクに出品されているのを見つけた。RCAではなくアポロンからリリースされていたもので、パッケージには見たことのない写真が使われていたが、曲目を見てビックリ。RCAではレコード化されていない曲が入っているではないか! それは菅原洋一がヒットさせた「知りたくないの」のカヴァーだった。

これまで8トラとはまったく無縁で、もちろん再生環境はないし、商品のコメント欄に「再生は確認していません。※ジャンクとして、宜しくお願い致します」との記載があったが、とりあえず入札し、そのまま競ることもなく800円で落札。さてどうしよう。機械をお持ちの方にデジタル化をお願いしようかと動き出しかけたが(最初に声を掛けた方にはご迷惑をお掛けしてしまった。申し訳ない)、念のためと思ってヤフオクで検索してみた。8トラの機械というとカラオケ用の仰々しいものが多いが、オーディオ・システムに繋げられるデッキ・タイプのものもいくつか出ていて、「古いSONYの8トラック ジャンク品」というのが目に留まった。たいていジャンクというと「通電のみ確認、動作未確認」というようなものがほとんどだろうが、コメント欄には「正常に音が出ます古い物ですジャンク扱いです」とあった。しかもたったの500円。もうこれは買うしかあるまいと入札し、こちらも競ることなく落札できた。

まず5月9日にクール・ファイブのカートリッジ・テープが届いた。劣化が多いというピンチローラーとパッド(スポンジ)は、とりあえず見た目では大丈夫そうだ。そして12日午前中にプレーヤーが到着。

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SONYのTC-6(呼称:カートリッジ プレーヤー8)という1968年9月発売のモデルで、ソニー初のホーム・オーディオ用再生専用機。付いているスイッチはプログラムのセレクター・ボタン1個だけ(4つのプログラムを順送りするだけ)。カートリッジの挿入で電源ON、引っこ抜けばOFFなので、電源ボタンもない。なんとシンプルなことか。ウッド・キャビネットで見た目も美しいし、ラックへの収まりも良い。

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これは読みにくいが当時のカタログからの画像で、ネットから拾ったもの。ちなみにSONYから、1971年にはイジェクト機能付きのTC-7(カートリッジプレーヤーNEW 8)と録音・再生ができるデッキのTC-8000、4ch再生ができるプレーヤーのTC-8040が出ている。

カートリッジ・テープも10本おまけに付いていて、最初は「別に要らないけどな」と思っていたが、これが実はとても役に立った。付いていたのはこんなカートリッジたちだった(最終的に2本は破棄)。

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[1]『有線リクエスト・ベスト16』ジャス・オールスターズによるインスト。詳しくは後述。
[2]『ラテンヒット16』カルロス・ロメス・オーケストラによるインスト。
[3]『夜空のトランペット』ルイ・コックランなる奏者によるインスト。
[4]『心のふるさと 童謡』天地総子、松島みのりほかの唄。
[5]『世紀のビートルズ・サウンズ 1962~1966』演奏者表記なしのインスト、外箱なし。
[6] ラベル剥がれ、外箱なし→あとからザ・ベンチャーズのベスト(タイトル不明)と判明。詳しくは後述。
[7] 同上→ザ・ベンチャーズ『ゴールデン・ポップス』と判明。これも後述。
[8]『SONY 8トラック・デモンストレーション・テープ』外箱なし。恐らくプレーヤー購入時の付属品。
[9] エレクトーンによるインスト(タイトル失念)。テープ・ダメージあり破棄。
[10] くだらない内容で、聴くに堪えないため破棄。

このうち[5][6][8]の3本は、テープが切れた(正しくは繋ぎ目のセンシング箔が剥がれて離れた)状態で、端も外に出ていないため繋げられず、このままでは再生不可。[8]はピンチローラーも割れてしまっていた。とりあえず[1]と[2](現在までトラブルなし)を掛けてみて、プレーヤーは特に問題なく正常に動作することを確認。これが、おまけが付いていて役に立ったことの1つ目。プログラム1のインジケータ―は点灯しないが、これは当初からコメントに書かれていたので、問題はない。中を見たらこんな感じだった。こんなパーツどこかにあるかな。

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そして肝心のクール・ファイブを掛けようとしたが、なんと再生できないではないか。テープが回っている様子がないのだ。これは中を開けてみないといけない。開けるためには、カートリッジに貼っているラベルを綺麗に剥がして、中央あたりにあるネジを外す必要があるのだが、シールタイプのラベルではなかったので、やりかけたがうまく剥がれず汚くなってしまった。紙質を考えれば、綺麗に剥がすのは無理だともっと早く判断できたはずなのに。

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仕方なく、ラベルのネジにあたる部分と、蓋と本体に跨っている背の部分に切り込みを入れることにした。ネジは外せたが、爪が引っ掛かっているようで、蓋がうまく開かない。おまけのカートリッジそれぞれを見比べると、規格の範囲内で蓋と本体を留める爪の位置や内部の形状などがいろいろ異なったりしている。その中で[9]の形状がクール・ファイブのと同じだったため、先に[9]を開けてみて、爪がどう引っ掛かっているかを確認し、不用意に爪を割ってしまったりすることがないようにできたのだ。これがおまけが役に立った2つ目。

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開けてみて、再生できない理由がわかった。内周からテープを引き出す部分が固く巻かれた状態で引き出せず、無理に引っ張ろうとするとテープが伸びてしまう危険な状態だった。そして巻かれている途中に巻きムラと言うか辺に浮いたようになっている部分があり、あとでわかったことだが、テープが何か所も、幾重にも折り畳まれた状態になってしまっていたのだ。これは巻き直しをする以外に解決方法がない。エンドレス・テープなので、とりあえず切らずに巻き直そうとリールから不用意に外してしまった。これが大きな間違いだった。切らずに巻き直すなんてことは現実的に不可能で、一度切って繋ぎ直すしか方法はないのだが、経験則がないことは恐ろしいことだ。

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画像のようなこんな状態のあと、どんどんねじれてこんがらがり、にっちもさっちも行かなくなってしまった。元に戻す方法としては、テープの任意の場所を1か所切断し、空のリールに反対向きに一度巻いてから、元のリールにきれいに巻き直す。そして切断個所をオープンリール用のスプライシング・テープで繋ぐ。これが正しいやり方ということになる。そのために、テープの切れた不要なカートリッジをどれか開けてテープを取り出し、一時巻取り用のリール代わりにする必要があった。本当はオープンリールのデッキがあればそんなこともせず作業は楽なのだが、ないので手作業するしかない。

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とりあえずテープ切れで得体の知れない[6]の蓋を開けてテープを抜き取り、リール替わりとしたが、収拾がつかず、[9]もバラしてリールをもう1つ用意し、根気よく作業を続けるしかなかった。

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巻き直しの途中で、センシング箔の貼られたテープの本来の端の部分を発見。

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折れ曲がった部分は反対向きに巻く時に注意深く巻いたが、やはりこれだけ癖がついてしまっている。

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とりあえず何とか巻き終わった。ここまでに少なくとも8時間以上掛かってしまった。

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繋ぎ直しのために買ったスプライシング・テープはこれ。1,650円なのでプレーヤーとカートリッジ・テープを足した金額より高い! もう45年ほど前の話だが、高校時代は放送部に在籍して番組作りなどをしていたので、オープンリール・テープを切ってスプライシング・テープで繋ぐ作業自体は経験済み。

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なんやかんやで修復はなんとか終了し、蓋をして恐る恐る再生してみると…。

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音が出た! 無事に再生出来た時には、安心するやら力が抜けるやら。とにかく元に戻せてよかったと、胸をなでおろすことができた。テープが折れた箇所のドロップアウトはまあ致し方ないが、さほど酷くはなく、鑑賞に支障はなかった。テープを切って繋いだ場所も、どこだかまったく聞き分けられない。クール・ファイブのテープの中身については、次回の「クール・ファイブのレコード(9)」で詳しく紹介する予定だが、「知りたくないの」は前川清が英語で歌っていた。そしてもう1曲、森進一のカヴァー「花と蝶」がレコードとはまったく別のヴァージョンだったのも大きな発見だった。

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そしてこれは偶然なのだが、クール・ファイブ絡みで言うと、おまけのカートリッジ[1]のインスト集は編曲がチャーリー石黒で、「ベスト16」と言いながら自分が書いたクール・ファイブのシングルB面曲を入れたり、やりたい放題だったので笑ってしまった。

ここまで修復できたのだからと、テープ切れ(センシング箔剥がれ)のカートリッジも、繋いで聴いてみることにした。当初再生できていた[3][4][7]も、その後同様の状態に陥っていたのだ。これにはスプライシング・テープは使えず(繋ぐことはできるが、プログラムが自動で切り替わらない)、センシング箔の代用品を作るしかない。で、今度は安くあげようと、こちらのサイトの記事を参考に、ロッテのチョコレート(包み紙のアルミを使うため)と両面テープを買いに行った。が、ここでまた失敗。DAISOに行ったのはよかったが、間違えてアクリルフォームの厚手の両面テープを買ってしまったのだ。翌日買い直した正しいテープはこちら。

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次の写真は上が本来のセンシング箔、下が手作りの簡易センシング箔(LOTTEのロゴが見える)。

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この手作りのセンシング箔で再生とプログラム切り替えはできるようになったが(反応が鈍い時もあり、強度や耐久性にも問題はありそうなので、折を見てこちらのサイトで推奨しているアルミシートに交換した方がよさそうではある)、一部ピンチローラーに問題があり、[5]は回転ムラが出てしまうため、[10]からピンチローラーを移植。[3]はローラーの表面が削れて小さな屑が発生してしまうため、[9]から移植。[6]はパッドがボロボロだったため[3]から移し、[3]には[9]のパッドを当てた。[9][10]は破棄扱いとしたが、パーツはそのように他のカートリッジに生かされ、ケースとリールも残したので、無駄にはならなかった。ピンチローラーの割れていた[8]はケースがネジ止めではなく5か所が爪で留められていたが、この爪が固く、ケースをかなり痛めながらこじ開ける羽目に。一度は破棄しようとしたが、一応中身を確認したくて、回転ムラを覚悟で[5]のピンチローラーをはめて残すことにして再生してみたら、やはりムラは如何ともしがたかったが、手でカートリッジを押さえながらであれば、何とか聴くことはできた。

得体の知れなかった[6]をまた苦労して巻き直し(それでも作業は格段に早くなった)、再生してみたところ、いきなり「10番街の殺人」が飛び出したのでビックリ。そう、中身はベンチャーズだったのだ。調べてみたら、確かに東芝のカートリッジは基本的に邦楽が赤、洋楽が青で、リバティ・レーベルのものは黒だったようだ。私はベンチャーズのさほど熱心なファンというほどでもなく、持っているのは山下達郎が監修したCD2枚組『ベンチャーズ・フォーエバー』、オリジナルのCD化『ノック・ミー・アウト!』、それに貰い物の「ハワイ・ファイヴ・オー/スパイ大作戦」のシングルぐらいだったので、なんとか曲目を調べてみた。国立国会図書館に行って東芝の年度別総カタログか「テープ・マンスリー」を見れば一発でタイトルや番号までわかるのだが、今は行ける状況ではないので仕方がない。まだ全曲はわからないが、こんな感じ。

Program I
1. 10番街の殺人
2.
3. ブルドッグ
4. ペネトレーション
5. モア
Program II
1. ウォーク・ドント・ラン'64
2. テルスター
3. バンブル・ビー・ツイスト
4.
5.
Program III
1. パイプライン
2. 木の葉の子守唄
3. マンデー・マンデー
4.
5.
Program IV
1. ハワイ・ファイヴ・オー
2.
3. アウト・オブ・リミッツ
4. 日曜はダメよ
5. エスケイプ

そして[7]もベンチャーズだった。「京都の恋」から始まり「京都慕情」に終わるという流れで、歌謡曲のカヴァーが多くを占める。こちらも調べてみたら、どうも1970年のアルバム『ゴールデン・ポップス』のようだ。最初にその曲目を見て、「京都慕情」がないと思ったが、この曲は当初は「パレスの夜」という題だった。ただ、入っているはずの「真夜中のギター」(オリジナルは千賀かほる)がない。結局この曲は、1967年の『ポップス・イン・ジャパン』に収録されていた「涙のギター」(オリジナルは寺内タケシとブルー・ジーンズ、でいいのかな?)と差し替えられていたことが判明。これは曲名が似通っていたが故のミスなのか、あるいは意図的なものなのか? 曲目・曲順は以下の通り(曲名のわからないオリジナル2曲は、ネット上の画像などで確認できた演奏時間をもとに判断)。

Program I
1. 京都の恋 Kyoto Doll
2. 何故に二人はここに Why
3. 涙のギター Sentimental Guitar
Program II
1. 夜明けのスキャット Scat In The Dark
2. 或る日突然 Suddenly Someday
3. 禁じられた恋 Forbidden Love
Program III
1. 時には母のない子のように Sometimes I Feel Longing For A Motherless Child
2. この道を歩こう On A Narrow Street(オリジナル)
3. さすらいの心 The Wanderer(オリジナル)
Program IV
1. いいじゃないの幸せならば Why Do You Mind
2. 別れた人と Wakareta-Hito-To
3. パレスの夜(京都慕情) Reflections In A Place Lake

これがなかなか気に入ってしまった。「或る日突然」あたりのアレンジも良いし、オリジナル2曲も素晴らしい。苦労して繋いだ甲斐があったというものだ。

2020年5月30日 (土)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(8)~アルバム『夜のバラード』

前回ご紹介した内山田洋とクール・ファイブ4枚目のシングル「愛の旅路を/夜毎の誘惑」リリースと同じタイミングで、2枚目のアルバム『夜のバラード』がリリースされた。

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・アルバム02(カヴァー・アルバム01)

夜のバラード
RCA JRS-7075 1970年4月5日リリース

Side 1
1) 夜霧よ今夜もありがとう
浜口庫之助 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

2) 女の意地
鈴木道明 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

3) 京都の夜
秋田 圭 作詞/中島安敏 作曲/森岡賢一郎 編曲

4) ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー
鈴木道明 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

5) ひとり酒場で
吉川静夫 作詞/猪俣公章 作曲/森岡賢一郎 編曲

6) 霧にむせぶ夜
丹古晴巳 作詞/鈴木 淳 作曲/森岡賢一郎 編曲

Side 2
1) 港町ブルース
深津武志 作詞・なかにし礼 補作/猪俣公章 作曲/森岡賢一郎 編曲

2) 夢は夜ひらく
中村泰士 作詞/曽根幸明 作曲/森岡賢一郎 編曲

3) 赤坂の夜は更けて
鈴木道明 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

4) 夜霧の第二国道
宮川哲夫 作詞/吉田 正 作曲/森岡賢一郎 編曲

5) 池袋の夜
吉川静夫 作詞/渡久地政信 作曲/森岡賢一郎 編曲

6) グッド・ナイト・ベイビー
ひろ・まなみ 作詞/むつ・ひろし 作曲/森岡賢一郎 編曲

内山田洋とクール・ファイブ 唄/前川 清
Side 1(4) 唄/内山田洋
Side 2(6) 唄/小林正樹

ゲートフォールド(見開き)ジャケットで前川清の二つ折りポスター(写真提供:週刊「明星」)付。

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ジャケット内側には浅井英雄のライナーと歌詞、前月リリースの藤圭子のファーストなどRCAのアルバム3点のカタログが掲載されていて、そこでは彼らのファースト・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』が『魅惑のコーラス/内山田洋とクール・ファイブ』というタイトルで紹介されている(以後のアルバムのカタログ部分でも同様)。ファースト・アルバムそれ自体には『魅惑のコーラス』などという表記は一切見当たらないのだが。

また、本作のジャケットには紺がベースのものと白のものと2パターンあり、紺の方が初回盤だが、違いは色だけではない。

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紺盤ではジャケット内側のアーティスト表記が誤って「内山田洋とクール・フィブ」となっていたのが白盤で訂正され、

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歌詞カードも「港町ブルース」と「夢は夜ひらく」が実際に歌われている通りに改められた(詳細は曲目解説にて)。

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ファーストがオリジナル作品集だったのに対し、曲目をみればわかるように、本作はすべてカヴァーで構成されている。クール・ファイブのアルバムはこれ以降、基本的にオリジナル・アルバムとカヴァー・アルバム(とライヴ・アルバム)に分けてリリースされていく。

この中では、鈴木道明(どうめい、1920年11月12日東京生まれ、2015年12月23日没)の作詞・作曲作品が3曲取り上げられているのが目につく。発表順に行くとまず「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」。この曲と作者の鈴木については、音楽評論家の安倍寧が名古屋テレビ広報誌『若い11』1966年3月号に寄稿した文章(同年の著書『流行歌の世界』に再録)をご本人がブログ『好奇心をポケットに入れて』に転載されていたので、是非そちらもお読みいただきたい。以下はそこからの引用である。

昭和三十七年(1962年)のことである。
ひとり暮しだった鈴木道明氏は、日曜日だというのに愛車をガレージから引き出して食事に出掛けた。小雨がけぶる夕暮れどきで、フロント・グラスのワイパーが、忙しく動いていた。
「ちょうど表参道あたりだったかな。日曜日だけど、ゆきつけのレストランは、やってるかなと思いながらハンドルを握っていると、あのメロディーが、自然に湧いてきたんだ。もちろん、歌詞といっしょにね」

安倍によれば、東京放送(TBS)のテレビ・ディレクターでとりわけジャズに造詣の深い鈴木が、自身の手掛ける番組の中で“あまり有名でない”ジャズ歌手の水島照子にこの曲を歌わせたところ、各社からレコード化の依頼が殺到したとのこと。ちなみに水島の歌った録音は江崎実生監督、石原裕次郎主演の日活映画『黒い海峡』(1964年12月31日公開)の挿入歌として使われているはずだが、この音源はレコード化されておらず、DVDは出ているものの筆者は内容を確認できていない。各社競作となったこの曲は、1965年1月に日野てる子(ポリドール、編曲は前田憲男)と越路吹雪(東芝、編曲は藤家虹二、演奏は藤家虹二セクステット)、2月に和田弘とマヒナ・スターズ(ビクター、編曲は和田弘)とアイ・ジョージ(テイチク、編曲は中川昌、演奏は永尾公弘とノーカウンツ・オーケストラ)、3月にブレンダ・リー(テイチクのデッカ・レーベル、日本語ヴァージョンと英語ヴァージョンのカップリング、編曲者クレジットなし)とリリースが相次いだ。

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それぞれ歌はもとよりアレンジにも大いに趣向が凝らされていて、聴き比べも楽しいが、どう料理されても映えるメロディの良さは特筆すべきもの。ところがこの曲(日本語)には2種類のまったく異なる歌詞がついている。歌い出しはそれぞれこんな感じだ。

タイプA)
ワン・レイニーナイト・イン・トーキョー
濡れた舗道には
ゆれる灯(ともしび)が
何故か切なくて

タイプB)
小雨降る夜は
なぜか淋しくて
しんみりあなたと
お話ししたいの

英語)
One rainy night in Tokyo
One lonely boy  no place to go
One lovely girl  raindrops in hair
Two people meet  they make a pair

ジェフリー・セルドンとメンディ・ブラウンによる英語詞の元にもなったタイプAを歌っているのは日野、アイ・ジョージ(一番が英語、二番がタイプAの一番)、ブレンダ・リー、青江三奈(ビクター、アルバム『グッド・ナイト』、1969年、編曲は寺岡真三)、石原裕次郎(テイチク、アルバム『石原裕次郎 女心を歌う』、1972年12月、編曲は山倉たかし)など。タイプBは越路、マヒナ、西田佐知子(ポリドール、アルバム『愛ひとすじに』、1971年11月、編曲は広瀬雅一)など。時代を経て、2010年代になってから八代亜紀(タイプA、アルバム『夜のアルバム』、2012年12月)川上大輔(タイプB、アルバム『ベサメムーチョ~美しき恋唄』、2013年3月)、なかの綾(タイプA、アルバム『わるいくせ』、2014年9月)と話題作への収録が相次いだのも興味深い。

クール・ファイブはタイプBで、コーラス・ハーモニーを生かした森岡のジャジーなアレンジもいいが、リード・ヴォーカルを前川清ではなく内山田洋が担当し、ちょっとノスタルジックな響きのクルーナー・ヴォイスを披露しているのが最大のポイント。彼らは1974年8月18日に東京のロイヤル赤坂で録音されたライヴ・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ・リサイタル』の中でも、東京をテーマにした3曲メドレーの中で「ラブ・ユー東京」と「ウナ・セラ・ディ東京」に挟まれる形でこの曲(表記は「ワン・レイニ・ナイト・イン・トウキョウ」)を1コーラスのみ披露しているが、そこでは前川清がタイプAの歌詞の方を歌っているのが面白い。

ところでこの曲はハリー・ウォーレン作曲の映画『ムーラン・ルージュ』(1934年)主題歌「夢破れし並木道(Boulevard of Broken Dreams)」に類似しているとして、鈴木と日音がアメリカの音楽出版社、レミック・ミュージック・コーポレーションから訴えられた。最終的に最高裁まで争われたが、「偶然の暗合」は著作権侵害にはならないとして1978年に上告は棄却された。確かに原曲を聴いたときには、メロディーが「まぁ似てるかな」と思った程度だったが、ある人から教えられてアート・テイタムによるソロ・ピアノ演奏(恐らく1959年のアルバム『More Of The Greatest Piano Of Them All』収録)を聴いてみたら、ほとんど同じ曲としか思えなかったので、念のため書き添えておく。

「女の意地」も鈴木の代表作のひとつで、西田佐知子のヒット曲としてよく知られているが、実はオリジナルはマヒナ・スターズで、1965年9月に「女の恋ははかなくて」のタイトルでリリースされている(編曲は寺岡真三。歌詞は後の「女の意地」とまったく同じ)。そしてそのカップリングがやはり鈴木作の「赤坂の夜は更けて」(編曲は和田)だった。この2曲が生まれた経緯についても前述の安倍の文章から引用しておく。

「赤坂の夜は更けて」は、夜の赤坂界隈のものうい雰囲気を伝えてあまりある曲だが、氏の頭にこのメロディーが浮かんだのは、仕事があって会社のデスクにおそくまで残っていたときだったという。(いうまでもなく東京放送は赤坂・一ツ木通りにある)
「会社を出たとき、時計を見たら十一時十五分だった。銀座で一杯やりたいけれど、十一時半がカンバンの銀座にゆくには、時間がない。どうしようかなと思いまどっているときに、でてきたんだ」
マヒナ・スターズのヒット曲、「女の恋ははかなくて」を作ったときも、会社でおそくまで残業していたときだった。人気のない部屋に、ひとりぽつんといると、たぶん「東芝日曜劇場」カメリハでも終わったのだろう、池内淳子が石井ふく子プロデューサーといっしょに入ってきた。
深夜、編成局の片隅から、いくぶん疲れの見える池内淳子を暼見したとしたら、道明氏でなくても「柳沢真一との結婚生活に破れてからの彼女は、しあわせなのだろうか。仕事はうまくいっているけれども、私生活では幸福なんだろうか」と思わずにいられないだろう。「女の恋は」のモデルが池内だというのではないが、深夜、垣間見た彼女に触発されて、この歌ができたことだけは、間違いないようである。

西田はマヒナのシングルにあった2曲のAB面を入れ替え、B面のタイトルを「女の意地」として1965年10月5日にリリース(編曲は2曲とも川上義彦)。「赤坂の夜は更けて」は同時期に島倉千代子もコロムビアから出しているが、売れたのは西田の方だった。鈴木の描く都会的な雰囲気と、西田のクールな歌唱は相性もピッタリだった。「女の意地」は最初B面だったものの、西田のお気に入りとなり、彼女は大切に歌い続けていた。そんなこともあって、クール・ファイブも2曲とも取り上げることにしたのだろうが、この『夜のバラード』リリースから半年後の1970年10月5日、3枚目のシングルで「女の意地」を取り上げたのが、1972年に「バス・ストップ」をヒットさせることになる平(たいら)浩二である(編曲は有明春樹)。佐世保出身で前川清とは小・中学校で同級生だった平にとって、このカヴァーが初のヒット(オリコン42位)となった。この動きに刺激されてか、西田もオケはそのまま歌を録音し直したシングルを12月1日にリリース、改めて大ヒットとなった(オリコン7位)。当初この『夜のバラード』からシングルは切られなかったが、リリースから1年近く経過した1971年2月25日になって「女の意地」がクール・ファイブ8枚目のシングルとしてカットされたのには、そんな事情もあったのである(オリコン43位)。

歌われた歌手とヴァリエーションの多さで群を抜くのが「夢は夜ひらく」だろう。私もすべては把握できていないし、リストアップするだけで膨大な量になってしまうため、ここでは簡単な紹介に留めておく。作曲したのは曽根幸明(1933年12月28日世田谷生まれ、2017年4月20日没)。未成年の時に事件を起こし、東京少年鑑別所(通称:ネリカン)に9か月間収監されていた時、シャバにあこがれてふと口をついて出て来たのが、あのメロディーとこんな歌詞だった。

いやな看守に にらまれて
朝も早よから ふきそうじ
作業終わって 夜がくりゃ
夢は夜ひらく

曽根は1959年に藤田功の芸名で歌手デビューしたが売れず、1966年に藤原伸として再デビューするが、そのデビュー曲「ひとりぽっちの唄」とは、ネリカンで作ったあの曲だった。自身で新たな詞を付け、作詞家としては川上貞次を名乗った。「ひとりぽっちの唄」は高橋英樹と和泉雅子主演の日活映画『男の紋章 竜虎無情』(1966年1月14日公開)の主題歌に起用されたが、やはり売れなかった。そんなこの曲に目を付けたのが当時ポリドールのディレクターだった(のちに音楽プロデューサー)松村慶子で、担当していた園まりにこの曲を歌わせることにした。新たな歌詞を中村泰士と富田清吾が書き、最初の歌詞にあった「夢は夜ひらく」をタイトルにして意匠替え。1966年9月にリリースされた園のレコード(作曲クレジットに曽根の名はなく、「中村泰士 採譜補曲」となっている)は大ヒットとなり、たちまち何組かの歌手との競作となったが、みんなそれぞれ違う歌詞を歌っている。組み合わせを見てみると、緑川アコ(クラウン、デビュー盤)が水島哲作詞、バーブ佐竹(キング)が藤間哲郎作詞、梅宮辰夫(テイチク)が志賀大介作詞、という塩梅である。芸名を藤田功に戻した曽根自身も愛真知子とのデュエットの形でリリースしたが(テイチク)、こちらの作詞は大高ひさをである。

独自詞によるインパクトといえば、やはり石坂まさをが作詞した藤圭子(RCA)の「圭子の夢は夜ひらく」にとどめを刺すだろう。このシングルの発売は『夜のバラード』と同日の1970年4月5日で、前月の3月5日リリースの藤のデビュー・アルバム『新宿の女/“演歌の星”藤 圭子のすべて』にも「夢は夜ひらく」として収録されていたが、実は1969年9月に彼女が「新宿の女」でデビューする時点で既にこの曲は用意済だったという。最初にバンと売れてしまって失速しないよう、シングルのリリース・スケジュールは「新宿の女」~「女のブルース」~「圭子の夢は夜ひらく」と周到に計算されていたというのである。

このような独自の歌詞によるリリースは主にシングルの場合で、アルバムにカヴァー曲として収録する場合は、誰かのヴァージョンを歌うというパターンが多かったはず。クール・ファイブもここでは園まり版に準じた内容で歌っているが、歌詞が六番まであるうち、歌われているのは一、三、五、六番のみである。ところが、紺盤の時点ではジャケット内側に一、二、三番の歌詞が掲載されてしまったため、白盤で改められた。一方、作詞は中村・富田の2名のはずだが、白盤では富田の名前が消えてしまった(レーベル面は最初から中村の名前しかない)。

以上4曲の解説に手間取ってしまったので、あとはさらっと流していく。オープニングを飾る「夜霧よ今夜もありがとう」(本来のタイトルは「夜霧よ今夜も有難う」)は1967年2月にテイチクからリリースされた石原裕次郎の代表曲のひとつ。浅丘ルリ子と共演した3月公開の同名日活映画(1942年の米映画『カサブランカ』の翻案。監督は前述の『黒い海峡』同様江崎実生)主題歌として、浜口庫之助が作詞・作曲した(編曲:山倉たかし)。

「京都の夜」は、京都府出身の愛田健二のセカンド・シングルとして1967年6月にポリドールからリリースされ、ヒットを記録した(編曲:川上義彦)。作曲の中島安敏は、エミー・ジャクソン「涙の太陽」や黛ジュン「霧のかなたに」など主にポップス系の作品で知られる。作詞の秋田圭の他の作品については調べがつかなかった。“馬鹿だなぁ”で始まる間奏の語りの部分は省略されているが歌詞カードには載っていて、これは白盤でも訂正されなかった。

猪俣公章が作曲した森進一(ビクター)のヒット曲が2曲。「ひとり酒場で」は1968年7月にリリースされた10枚目のシングルで、森にとって初のワルツだった。そして「年上の女」を挟んで1969年4月にリリースされた「港町ブルース」は100万枚を超え、最大のヒットとなった。雑誌「平凡」同年2月号で歌詞が一般公募され、優秀作として選ばれた7人(一番を書いた深津武志が全員を代表して作詞者としてクレジットされた)の書いた歌詞をなかにし礼が再構成した。それまで森の歌う猪俣作品はすべて猪俣自身がアレンジしていたが、この曲では初めて森岡賢一郎が担当し、どちらかといえばストイックな猪俣アレンジに対し、カラフルでスケールの大きな作品に仕上げた。『夜のバラード』に選ばれ森岡がアレンジした12曲の内、原曲も森岡が編曲を手掛けていた唯一の曲で、もちろんクール・ファイブ向きにコーラス・パートなども加えて独自の色に染め上げているが、アレンジの完成度ではさすがに森のオリジナルに分があるだろうか。ちなみにここでは歌詞が六番まであるうち三番と四番は歌われていないが、紺盤では歌詞カードにすべて掲載され、「※印のみ唄っています」と一、二、五、六番の頭に印が付いていた。白盤では実際に歌われている部分のみの掲載に改められたが、この注釈が意味なく残ってしまっていた。ところでこのアルバムのあと、森岡は森のアルバム用に「港町ブルース」の新アレンジを2度も書いている。

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1970年7月5日リリースの『森進一のブルース』にはクール・ジャズ風。

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1974年7月25日リリースの『森進一グランド・デラックス』にはカントリー・ロック風と、それぞれ趣が異なるテイストに仕上げていて面白い。

「霧にむせぶ夜」は1968年4月にリリースされた黒木憲(東芝)のセカンド・シングル(編曲:湯野カオル)で、オリコン第3位を記録し、彼の代名詞となった。作曲の鈴木淳は、後にクール・ファイブに7枚目のシングルとなる「すべてを愛して」を提供することになる。

フランク永井の「夜霧の第二国道」(ビクター)は作品としては最も古く、1957年10月にSP盤(78回転)およびドーナツ盤(45回転)でリリースされている(編曲:寺岡真三。ステレオ再録音は1962年1月の10インチLP『ステレオ・魅惑の低音傑作集』に収録)。1か月後にリリースされた「有楽町で逢いましょう」と並び、ジャズを愛する豊かな“魅惑の低音”の持ち主である永井と、洗練されたメロディーを編み出すことに長けた吉田正の出会いによって生まれた、都会派ムード歌謡の先駆的傑作。第二国道とは、国道1号線のうち、品川区西五反田から横浜市神奈川区までを走る第二京浜のことだそうだ。

「池袋の夜」は青江三奈(ビクター)の16枚目のシングルとして1969年7月にリリースされ(編曲:寺岡真三)、「伊勢佐木町ブルース」や「長崎ブルース」を凌ぐ彼女最大のヒットとなった。作曲の渡久地政信は沖縄出身。

ここまではすべてソロ歌手のヒット曲が並んだが、それぞれをクール・ファイブ流にうまくアレンジし、表現してきている。厳密にいえばマヒナ・スターズがオリジナルの鈴木作品も2曲あったが、そもそもマヒナとクールではヴォーカル・パートの組み立て方がまったく異なるので、そのまま置き換えるということはありえない。そして他のグループのヒット曲を取り上げた唯一の曲が、最後を飾るザ・キング・トーンズの「グッド・ナイト・ベイビー」ということになる。リーダーの内田正人を中心に1960年からステージ活動を続けてきた彼らは、1968年5月にポリドールからこの曲でデビューし、1969年3月まで掛かってオリコン第2位まで押し上げている。作曲のむつ・ひろしとはポリドールで担当ディレクターだった松村孝司のペンネームで、作詞のひろ・まなみは後に大日向俊子として野口五郎や和田アキ子に多くの作品を提供することになる。キング・トーンズは直接的にドゥ・ワップ・スタイルを取り入れていて、この曲にも当然ながらそのエッセンスは十二分に盛り込まれている。一方クール・ファイブにおいて通常、ドゥ・ワップ的な要素は隠し味的なものに留まっているが、この曲ではファルセット担当の小林正樹を(いささか不安定ながら)リード・ヴォーカルに据えることで、普段とは違う色合いを出そうとしているのがよくわかる。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年4月13日 (月)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(7)~シングル「愛の旅路を/夜毎の誘惑」

大ヒットとなった「逢わずに愛して」に続く、内山田洋とクール・ファイブ4枚目のシングルは、「噂の女」ではなく、この曲だった。

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●  シングル04

A) 愛の旅路を
山口あかり 作詞/藤本卓也 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 夜毎の誘惑
山口あかり 作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1075 1970年4月5日発売

かねてからの話の通り、彩木雅夫の手を離れて初のシングルとなった第4弾「愛の旅路を」では、作曲に藤本卓也が起用された。1990年代には評論家の湯浅学、漫画家の根本敬ら「幻の名盤解放同盟」により再評価され、“夜のワーグナー”の称号も付けられた藤本(本名:柚木公一)は、1940年生まれ。生地について、湯浅は藤本の歌手としての初アルバム『相棒』(1996年)のライナーで「中国の大蓮」(大連―中国語表記では大连―の間違い?)としているが、安田謙一は『昭和歌謡職業作曲家ガイド』(馬飼野元宏監修、2018年)で北海道としている。

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1958年4月に、この時は本名で、岡田朝光とザ・キャラバンというロカビリー・バンドの歌手としてデビュー。ちなみにザ・キャラバンは1967年になってザ・ヴァン・ドッグスというGSバンドとしてユニオン(テイチク)からデビューするが、そのサード・シングル「雪国の誓い」(1968年2月5日発売)の作曲は新居一芳(=彩木雅夫)だった。藤本がまだ柚木公一を名乗っていた1962年秋には、第5回で紹介したゴールデン・ヴェール=由木まなみが波多マユミ時代に参加していたのと同じオムニバス『カッコイイ10人 ―東京ジャズ喫茶めぐり―』に参加し、クラリネット奏者アッカー・ビルクの「白い渚のブルース」(もとはインスト曲で、ヴォーカル版はドリフターズなど)をカヴァーしているが(編曲のチャーリー石黒ともここで繋がる)、これが初レコーディングだったということだ。その後作家に転じ、1965年にはザ・キャラバンが伴奏を受け持つなどしていた紀本ヨシオに「だから泣かないで」(『相棒』にセルフ・カヴァーを収録)を提供。これは作詞・作曲のみだったが、以降は紀本や他の歌手への提供作品の多くで編曲まで手掛けるようになる。

カルト的な名作・迷作も数多いが、藤本と言えばやはり矢吹健だろう。藤本に弟子入りしてきた矢吹に書いたデビュー曲「あなたのブルース」(1968年6月5日発売)はヒットし、第10回日本レコード大賞で新人賞を獲得。作詞・作曲・編曲ともに藤本によるもので、矢吹の刹那的な歌唱、女声ソプラノのハミングも効果的なアレンジともあいまって、強烈な世界観が表現されていた。

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これは「あなたのブルース」「蒸発のブルース」から山口洋子=筒美京平作品「他人のままで」までを収録した1970年のベスト盤。なお、クール・ファイブは後のカヴァー企画アルバムで、矢吹の歌った藤本作品から「あなたのブルース」「私にだって」を取り上げている。

「愛の旅路を」では藤本は作曲のみで、作詞には山口あかり(本名:山崎裕世、1934年05月26日長野県上田市生まれ、2007年05月10日没)が起用された。山口は平尾昌晃とコンビを組んで、じゅん&ネネ「愛するってこわい」(1968年7月1日発売)、伊東ゆかり「知らなかったの」(1969年2月1日発売)などをヒットさせている。クール・ファイブ人脈関連では、森進一「おんな」(1969年7月25日発売)が山口作詞/城美好(=石黒)作曲/森岡賢一郎編曲というラインナップだったので、彼女の起用にはそこからの流れもあったのかも知れない。山口=藤本コンビの作品は、恐らく「愛の旅路を」が唯一。サビの「♪あなたと あなーたぁーとー」の部分は、「あなたのブルース」を意識している? 編曲は森岡賢一郎で、藤本作詞・作曲、森岡編曲という組み合わせでは過去に早坂紘子「こんな筈では」(1967年)というのがあったとのことだが、残念ながら未聴。

ロマンチックなロッカバラードの「愛の旅路を」では、前川清のヴォーカルと分厚めのバック・コーラスとのコンビネーションも良く、江藤勲と思われるゴリゴリのベースと森岡お得意の美しいストリングスとの対比もまた見事で、オリコンでは第4位を記録。藤本作品では最高のチャート・アクションを示したが、彼の代表作というと「あなたのブルース」や1972年に五木ひろしに続けて提供したソウル~グルーヴ歌謡の傑作「待っている女」「夜汽車の女」(いずれも作詞は山口洋子、編曲は藤本)ばかりが挙がり、「愛の旅路を」はやや忘れられた形だ。まとまりが良い分、歌謡マニアが彼の作品に求める(?)情念というか凄みのようなものが弱いせいだろうか。

カップリングの「夜毎の誘惑」は山口=城=森岡という組み合わせ(つまり前述の森「おんな」と同じ)による佳曲で、「一度だけなら」に近いリズムの、シャッフルするワルツ。城はこれでシングルB面に4作連続で作品を提供したことになる。シングル両面とも、後にアルバム『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』に収録される。

このシングルから歌詞カードの末尾に(ディレクター 山田 競)というクレジットが掲載されるようになった。元和田弘とマヒナ・スターズの山田哲也は、この時点では後の競生(きそお)ではなく競(きそう)を名乗っていたことになる。

なお余談だが、1970年になってRCAのカンパニー・スリーヴに登場するアーティストの顔ぶれが入れ替わった。日本ビクター内にRCAレーベルが設立された1968年10月25日以降、邦楽部門から掲載されていたのは、第1回リリース組だったザ・リード、新藤恵美、ザ・ブルーインパルス、和田アキ子の4組である(写真下)。

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クール・ファイブではこの「愛の旅路を」から使用されたはずの新スリーヴでは、その4組の中で和田のみが生き残り、1969年にデビューした内山田洋とクール・ファイブ、森田健作、藤圭子、シング・アウト、北野ルミ(デビュー順)と併せて6組が掲載され、洋楽の方も一部入れ替えが行われた。

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このスリーヴが使われたのは1971年夏ぐらいまでで(クール・ファイブでは7月25日発売の「港の別れ唄」まで)、以降はRCAのロゴのみのデザインとなる。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年3月16日 (月)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(6)~シングル「逢わずに愛して/捨ててやりたい」

デビュー・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』リリースの1か月後、内山田洋とクール・ファイブのシングル第3弾として、「逢わずに愛して」がアルバムからシングル・カットされる。

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● シングル03

A) 逢わずに愛して
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 捨ててやりたい
川内康範 作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1045 1969年12月5日発売

第4回の「一度だけなら」の項でも軽く触れたとおり、内山田洋は1978年12月リリースのメンバー自選ベスト『<スター・マイ・セレクション・シリーズ> 内山田洋とクール・ファイブ』のライナーでこの曲についてこう書いている。

実は、その当時シングル盤の候補曲が10数曲あり何度か熱っぽく討議を重ねた結果発売されたのがこの曲です。翌(昭和)45年シングル・カットされ大ヒットとなった「噂の女」と同じRCAレーベルの野村真樹君のデビュー・ヒットとなった「一度だけなら」が、その時の最終的に残った競争相手です。

一方、やはり第4回でも触れたとおり、RCAの山田競生は、3枚目のシングルまでは彩木雅夫に書いてもらう約束になっていたと言う。第2弾の「わかれ雨」を「あんな曲」と切り捨てた山田は、「逢わずに愛して」が届いた時のことをこう振り返る。「彩木さんが、曲ができたと喜び勇んで北海道から出て来たんです。その譜面を見た瞬間、ホッとしましたよ。彩木さんと会うについては、私は腹に晒を巻いている気持ちだったんですから。もし駄目な曲なら、身体を張っても、とさえ思っていたんですから。これで彩木さんと揉めずにすんだと、ホッとしました」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)。そして彩木は山田に対し、自分の匂いが付かないよう、これからは他の人に書いてもらうように、自分は2年後にまた書かせてもらうから、と告げたとのことだ。

1か月の違いではあるが、「逢わずに愛して」がシングルに先んじてアルバムに収録されたということは、アルバムのための曲集めと、次のシングルの準備が、だいたい同時進行で進められていたということになるのだろう。そして、シングル化に際しては、アルバムに収められたヴァージョンに手が加えられた。

まず、テナー・サックスとヴォーカルが差し替えられている。イントロ1発目のサックス、わかりやすくキーをCで表現してみると、アルバムでは

 ミミーーー ドドレミソソーーー

だったのが、シングルでは

 ミーーーー ドドレミソーーーー

と、音を伸ばしている。なので、頭の部分を聴くだけで、どちらのヴァージョンかは判断しやすい。音楽的な必然というよりは、区別をわかりやすくするための処理、という気もしないでもない。

そして前川清のヴォーカル。5枚目のシングルとなる「噂の女」でもヴォーカルは録り直され、かなり歌い方を変えることになるが、ここではさほどの目立ったニュアンスの違いはなく、よく聴かないとわからない程度。違いを感じやすい箇所としては、サビの

 あゝ 永久にちりばめ

の終わり方が挙げられる。アルバムでは「め」をそのまま短めに伸ばし、あっさり切っているが、シングルでは最後をやや丸めるような感じにしている。

ミックスもいじられ、イントロから歌に入る直前のサックスの後ろの「♪あー あー あー」というコーラスと、「♪夢の夢のかけらを」の所で左チャンネルに入るタンバリンの音量が上げられているが、この処理は正解。

かくして12月5日にリリースされた「逢わずに愛して」は、20日間で30万枚近くも売れたとのことだ。クール・ファイブを代表するシングルと言えばまず「長崎は今日も雨だった」、次いで「そして、神戸」「東京砂漠」が挙げられ、「噂の女」あたりがそれに続くのだろうが、売り上げという意味ではオリコン調べで69.9万枚、メーカー発表(1975年1月現在)で96.3万枚と、この曲が全シングル中の第2位であり、なによりも唯一のオリコン・シングル・チャート第1位獲得曲でもある。

確かに「わかれ雨」と比べて曲のイメージは明快で、グループとして安定した活動を続けていく上でも重要なヒット曲となった。山田は語る。「<長崎は今日も雨だった>でクール・ファイブに向きかけたお客が、<わかれ雨>でそっぽを向いちゃった状況の中で、こうした売れ方をしたことは、他人事のようないい方ですけど、とにかく不思議な現象でした」(前掲書)

更に、この曲を語る上で欠かせない重要な要素がもう一つ、その直情的な歌詞にある。

作詞は川内康範(かわうち・こうはん、本名:川内潔、1920年2月26日函館市生まれ、2008年4月6日没)。履歴書に堂々と記した通りの高等小学校卒。家庭環境故ではなく、自分の意志で中学には進まず独学を貫き、職を転々とした後、作家を目指して17歳で無一文で上京。苦労の末に日活撮影所に入り、その後東宝の演劇部へ。海軍に応召するが太平洋戦争開戦直前に病気理由で除隊。その後散っていった戦友たちへの思いが、戦後自費で10年間続けた海外戦没者遺骨収集活動に繋がっているという。1941年には文芸誌に作品が掲載され、作家デビューを果たす。戦後は、恋愛ものなどの小説や映画の原作・脚本などを多く手掛けるが、代表作はテレビドラマの草分けでもある『月光仮面』だろう。極めて低予算で制約も大きかったが、輸入ものに頼らない国産のヒーローものを作りたいというスタッフたちの強い意志のもと、大道具や照明の経験も豊富な川内はそれに見合った脚本を書き、主題歌2曲も作詞した。なお、番組を制作した宣弘社の社員募集に応じてきた若者の中には、後の作詞家・阿久悠もいた。「憎むな、殺すな、赦しましょう」がキャッチフレーズの『月光仮面』は、1958年2月からラジオ東京テレビ(KRT、後のTBS)で放映が開始され、電気店の店頭のテレビに子どもたちが群がる人気番組となった。ところが、子どもたちが月光仮面の真似をして高所から飛び降りては怪我をする事故が続いて、PTAや良識派からの反発を招き、番組は1959年7月で打ち切りとなった。

川内が作詞家としても本格的に活動を開始したのはその後のこと。出世作となった「誰よりも君を愛す」は、月刊『明星』に1958年から連載中だった同名の小説をもとにしたもので、ビクターの磯部健雄ディレクターと作曲した吉田正からの求めに応じ、小説のエッセンスを歌詞にまとめた。当初は和田弘とマヒナ・スターズのみでレコーディングの予定だったが、新宿のクラブ歌手だった松尾和子の歌を聴いて惚れ込んだ川内が強く推薦し、マヒナと松尾の共演となったシングルは1959年12月にリリース。目論見通りに大ヒットとなり、1960年の第2回レコード大賞を受賞した。

「恍惚のブルース」(作曲:浜口庫之助)は『週刊現代』に連載していた『恍惚』がベースとなっている。やはりクラブで歌っているところを川内に発掘され、この曲で1966年5月30日にビクターからデビューした青江三奈は、その芸名自体が『恍惚』のヒロインの名前から採られている。川内は以降も、1968年の第10回日本レコード大賞・歌唱賞を受賞した「伊勢佐木町ブルース」(作曲:鈴木庸一)を含む、1968年春までの彼女のシングルの大半を作詞している。

そのほか、1966年1月東芝から再デビューの城卓也(実力はありながらテイチクで低迷していた歌手、菊地正夫にこの新しい芸名を授けたのも川内)「骨まで愛して」(当時の妻の川内和子名義。作曲:文れいじ―城卓也の兄、北原じゅんの別名―)は『女性自身』に、才能を持て余して借金とスキャンダルまみれだった水原弘にとって起死回生作となった1967年2月の「君こそわが命」(作曲:猪俣公章)は『アサヒ芸能』に、それぞれ連載していた小説がもとになっている。

そして森進一。川内は森の芸能活動の様々な局面でバックアップ役を務めるほど、繋がりは深かった。森が歌った川内作品は全部で33曲とのことだが、シングルA面曲に限ると「花と蝶」(作曲:彩木雅夫、1968年5月5日発売)「花と涙」(作曲:宮川泰、1969年10月5日発売)「銀座の女」(作曲:曽根幸明、1970年9月15日発売)「おふくろさん」(作曲:猪俣公章、1971年5月5日発売)「火の女」(作曲:彩木雅夫、1971年9月5日発売)「命あたえて」(作曲:猪俣公章、1981年9月21日)「語りかけ」(作曲も、1999年8月2日発売)の7曲だけで、意外と少ない感じがする。ちなみに「花と涙」リリース後の1969年10月27日、NET『アフタヌーン・ショー』に出演予定だったが森が体調を崩したため、代わりに前川清が初めてグループから離れて一人で急遽代役を務め、この曲を披露している。

森と川内といえば、川内の晩年、2007年1月に巻き起こった「おふくろさん」騒動が記憶に新しい。森が冒頭に新しい語りの部分を付けて歌っているのを知った川内が不快感を表明したのだが、改変が原作者に対する冒涜だという思いだけでなく、そのことを知らされていなかったことに対しての憤りでもあった。そしてその指摘に対する森側の煮え切らない、突き放したような態度が、更に問題を大きくした。結局和解に至らないまま川内は他界、その後川内の遺族とは話がついて、騒動以来森が封印していた川内作品を「おふくろさん」を含めオリジナルのまま歌い続けるという方向で落ち着いた。

そんな波乱万丈な人生を歩んでいた川内への作詞の依頼は、逆転ホームランを狙う山田のアイディアだったのか。衒いのない愛のかたちをストレートに表現する川内の歌詞が、ヒットの要因の一つであることは確かだろう。

なお、今回川内の軌跡を紹介するにあたり、主に次の2つの記事を大いに参照させて頂いた。素晴らしい内容なので併読をお勧めする(マンガショップのサイトからリンクが張られた東奥日報の画像は、小さくてとても読みづらいが)。

関川夏央『人間晩年図巻』2000年代編<第1回-2>「生涯助ッ人」―川内康範―

東奥日報 2006年10月27日~『あおもり はやり歌 人もよう』作詞家 川内康範(1)~(12)

大ヒット曲となった「逢わずに愛して」は、この後リリースされた彼らのベスト盤にはもれなく収録されることになるが、実はシングル・ヴァージョンではなくアルバム・ヴァージョンで収められてしまったものも少なからずあるのでご注意を。手元に盤があって確認できただけでも、1971年10月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ(パネル・デラックス)』(RP-9115~6)、1972年8月5日発売の『内山田洋とクール・ファイブ・オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集』(JRX-1)、同年11月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ・ベスト24』(JRS-9121~2)、1973年11月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ・オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集』(JRX-9)、1978年9月5日発売の『内山田洋とクール・ファイブ 10年の軌跡』(RVL-4013~7)の5種が該当する。

「逢わずに愛して」の影に隠れがちだが、森岡賢一郎による軽快なボサ・ノヴァ風のアレンジが施されたB面の「捨ててやりたい」も、少なくとも個人的には極めて重要な曲である。作詞はA面同様川内、作曲はB面への提供がこれも3枚連続となる城美好(=チャーリー石黒)。これまで紹介してきた曲はすべて3連のリズムで書かれていたので、これはそこから離れた初めての曲となり、サックスではなくフルートがフィーチャーされている。そんな洒脱なアレンジに、川内の濃厚な歌詞と前川のいつもの歌い方が乗っかるというミスマッチ感がたまらない。この録音ももちろん良い出来なのだが、第4回で「わかれ雨」を紹介する内山田のMCについて触れたのと同じ、1970年9月27日の日劇でのリサイタルを収録した2枚組『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』で聴ける、クール・ファイブ自身の演奏によるライヴ・ヴァージョンの方にこそ、洋楽をベースに持つ彼らならではの特質が、より色濃く現れていると思う。

最後に、これはまったくの余談だが、「逢わずに愛して」はブラジルRCAからもリリースされている(ジャケット写真はネットから拝借)。

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どうやら4曲入り17cm盤らしく、他の収録曲目も不明だが、ブラジルの日系人向けのリリースだったのだろうか。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年3月 8日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(5)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜についての再検証

3枚目のシングル「逢わずに愛して/捨ててやりたい」に進む前に、書いておかなければいけないことができたので、少し時間を戻す。

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「長崎は今日も雨だった」を遠く札幌の地で作曲した彩木雅夫が、2010年4月28日にリリースされたCD3枚組『GOLDEN☆BEST deluxe 内山田洋とクール・ファイブ A面ヒット曲集』(GT Music MHCL-1730)のブックレットに『「長崎は今日も雨だった」に寄せて』という一文を寄稿していた。私はこのCDを持っていなかったのだが、さる方のご協力を得て読むことができ、いろいろなことがわかってきたので、これまでに(特に第2回)書いてきたものに追加・訂正する形で紹介しておく。

彩木によれば、森進一「命かれても」(1967年9月10日発売)をヒットさせていた彼がクール・ファイブのことを知るのは、1968年1月頃、銀馬車の吉田孝穂が繰り返し掛けてきた電話からだった。最初は無視していたが、あまりにしつこいので話を聞いてみると、競合する十二番館所属の中井昭・高橋勝とコロラティーノが「思案橋ブルース」で大ヒット(最終的にオリコン3位となるが、コロムビアからのリリースはこの先の4月25日なので、実際には、評判となりメジャー・デビューも決まり、ぐらいのニュアンスだったか)、われわれ銀馬車としては見過ごせないので、ぜひ作曲をお願いしたい、という内容だった。彩木としては森進一「花と蝶」のレコーディングが進行中で(発売は1968年5月5日)、「見知らぬ長崎のキャバレー戦争に参加する理由はないとの思いから丁重にお断り」したが、やがて送られてきた「西海ブルース」のテープを聴いてみたところ、「バックコーラスがとても新鮮に聞こえ、プラターズ<オンリー・ユー>のコーラスを聴いているような気が」したのだと言う。

その後のやりとりを経て、吉田が直接彩木のもとを訪れたのは5月初旬頃のことだという。彩木は何編かの歌詞を預かり、代わりに1枚のレコードを手渡す。それがこれだ。

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彩木の寄稿を読んであわてて検索するまで気づかなかったが(そして運よく、速攻で入手できたが)、チャーリー石黒が城美好のペンネームで書いた「涙こがして」は、1967年7月には既にこうしてポリドールからレコードが出ていたのだった(後のクール・ファイブ盤「涙こがした恋」では作詞は中山淳太郎と村上千秋の共作詞とクレジットされるが、ここでは中山作詞、村上補作詞となっている)。アルトの歌声で気だるく歌っている由木まなみについては後述するが、これが何故売れないのか石黒から分析を依頼されていたものだという。彩木は閃いたのだろう、この曲を吉田に託してみたのだった。

話がそれるが、ここで石黒について改めて紹介しておくと、チャーリー石黒(本名:石黒寿和)は1928年1月20日東京都港区芝生まれ(1984年12月14日没)。小学生の時にトランペットを始め、ブラス・バンドで活躍、早稲田大学に進学後、音楽部で研鑽を積み、ブラス・バンドのキャプテンとなる。慶応義塾大学のグループと合流してレッド・ハット・ボーイズに参加し、当初はトランペット、その後はヴァイブやドラムスを手掛ける。そして1954年、19人編成のラテン・バンド、チャーリー石黒と東京パンチョスを結成し、ダンスホール飯田橋松竹、銀座ハーレムの専属となる。1959年から日本グラモフォン(レーベルはポリドール)でレコーディングも開始し、歌謡曲の伴奏なども多く手掛けるようになる。渡辺プロダクションでは音楽プロデューサーとして、森進一のほか中尾ミエや布施明なども手掛けた。テレビの歌番組での伴奏でも活躍したが、TBS系特撮テレビドラマ『仮面ライダーストロンガー』第9話「悪魔の音楽隊がやって来た!!』(1975年5月31日放映)には本人役でバンドごと出演しているそうである。【2020年3月11日追記】『仮面ライターストロンガー』は大阪の毎日放送制作だったので訂正。詳しくはコメント欄の中澤さんの投稿参照。

彩木は文中で「涙こがして」の歌手名を由木まなみではなく、誤って香月サコとしていたが、香月も由木も同じ石黒門下で同じポリドール専属だったので記憶違いをしたのだろう。ちなみに北上川サコ名義での録音もあった香月のデビュー・シングル「赤い夕日/白い肌」は1968年6月25日リリースなので、吉田と会った時点では出ていないし、彼女のディスコグラフィーに「涙こがして」は存在しない。

そして由木まなみである。この名義でのシングルは「涙こがして/別れ別れて」1枚きりだが、1943年4月25日北京生まれの彼女の最初の芸名は波多マユミだった。ザ・ベビーズというバンドを経て1960年4月に東京パンチョスの専属歌手となり、1961年4月にポリドールから「シュシュシューベルト」でデビュー。1962年秋には石黒が編曲と案内役を務めた10インチのオムニバス『カッコイイ10人 ―東京ジャズ喫茶めぐり―』(1997年11月にPヴァインからCD化)に参加して「可愛い子チャン」を歌っている。その後芸名を波多まゆみと改め、「夜霧のしのび逢い」などのカヴァー・ポップスのリリースを続けていた。ところが何を思ったか、1967年4月にはゴールデン・ヴェールという覆面歌手として「命こがして/私、明日はないの」をリリースしている。

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このB面の曲名をみてビックリ。アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』のB面最後に収録されていた「明日(あした)はないの」は、これのリメイクだったとは! メロディーに手を加えられているほか、歌詞も一部異なっていて、ゴールデン・ヴェール盤では新野新作詞、村上千秋補作詞、クール・ファイブ盤では村上千秋単独の作詞となっていた(クレジット・ミスではないのだろうか)。歌詞の変更は次のような感じ。

二番(ゴールデン・ヴェール):
死ぬまで一緒に 暮らそうと
口づけされて 云われたら

二番(クール・ファイブ):
死ぬまで一緒と 口づけされて
恋の炎が 燃えました

三番(ゴールデン・ヴェール):
恋と恋との 明け暮れに
涙も声も 枯れました

三番(クール・ファイブ):
嘘と真実(まこと)が この世のさだめ
愛も涙も 枯れました

また、編曲は全面的に異なるが、手掛けたのはここでも宮川泰であり(補作曲編曲とクレジット)、彼の名前がクール・ファイブのレコードで唯一クレジットされていた理由もなんとなく理解できた。

このシングルの3か月後に由木まなみとして「涙こがして」をリリースするわけだが、名前の横には小さく(ゴールデン・ヴェール)と書かれ、その正体を明かしている。作者は異なっても、「涙こがして」というタイトルは「命こがして」から繋がっているが、結局これが彼女にとって最後のシングルとなってしまった。

さて、彩木から吉田の手に渡った「涙こがして」は、内山田洋の編曲でクール・ファイブによって録音されたわけだが、受け取った彩木は「狙い違わず素晴らしい出来でした。早速故チャーリー石黒氏に届け、折り返し絶賛の言葉が返ってきました」と、当時を振り返る。由木盤では歌詞は六番まであったが、クール・ファイブはややテンポを落とし、元の歌詞のうち四番と五番を省いて六番を四番とし、全部で四番までの構成にしている。歌詞の変更はなし(二番の「弱いわ女」を「弱いは女」に、音は同じで表記のみ変更)。

ここからの流れは、彩木の書いたものと、第2回で引用したRCAの久野義治がかいたものとでかなり異なっていて、どちらがより正確か判断するのは難しい。

彩木によれば、8月頃タレントキャンペーンがあり、RCAのディレクターも同行してきたので、テープを聴いてもらった。東京に戻ったそのディレクターが慌てて電話してきて、長崎の有線放送で「涙こがして」(どの時点で「涙こがした恋」と改題されたかは記述によって異なる)が1位となっているので至急RCAからデビューさせたい、なのでB面の曲を作曲して送ってほしいとの依頼を受けた、ということだ。

一方繰り返しにはなるが、久野によれば、年末に札幌でキャンペーンがあり、同行したRCAの永田章蔵が彩木のもとを訪れたところ、「長崎に自主制作のテープで地元の有線放送リクエスト1位になっているグループがいますョ。マネージしている作詞家の吉田孝穂氏に、新曲の作曲を依頼されてるんですが、ご紹介しましょうか」と言われ、テープを持ち帰った、となる。

興味深いのは、RCAからの当初の依頼は、B面用の曲だったということ。そして「涙こがして」が有線で1位となった1968年秋には、彩木は作曲を始めていたのだった。以下、少し長くなるが彩木の文章を引用しておく。

作曲は孤独な作業です、1フレーズ毎、自分に問いかけ、自分で回答を、当時は勤務中ですので土曜日の朝3時頃から始め、日曜日も同じく朝早くからと、出来なければまた翌週の早朝土曜日へ、こんな作業ぶりですので1曲を作曲するのに3ヶ月はかけていました。そんな日々のくり返しの中で一つの発想にたどり着きました。それは今までマイナーの曲(短調)ばかりで作曲していたのをメジャー(長調)で、そしてプラターズのコーラスのようにポップス的に、それに長崎のイメージを重ね合わせながら、また「前川 清」の落ちついた歌唱が似合うように考えた作曲でした。もともと私の作曲法はメロディー先行なので詞の字数は重要ではないのですが、いざ預かった詞の中から当て込むのには大変苦労し、言葉の足りないところは2回繰り返し、あまり演歌調にならぬように言葉を選びながら加えたりしました。特に歌の終わりには無謀にも4拍目に5個の音を入れ印象を強くしました。何せ預かった何編かの中から当て込んだ詞のタイトルは「長崎の夜」でしたから……。

5月に手渡された数篇の歌詞の中に「長崎の夜」があったということは、その時点で「西海ブルース」のレコード化は作者の尾形よしやすから却下されていたという解釈でいいだろうか。第2回でも書いたように、クール・ファイブは1977年になってようやくこの曲をシングルにするわけだが、実は1969年の時点でこれもレコードになっていたのを見落としていた。

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「佐世保観光協会推薦盤」と書かれているが、歌っている花菱エコーズは九州のグループではない。元黒沢明とロス・プリモスの福田徳朗(サックス)と大川光久(ギター)を中心に、品川芳輝(ヴォーカル)、原田時美(ベース)、藤村隆(ドラムス)というメンバーで結成された彼らは、落語家の林家三平が名付け親となり、1968年6月1日に東芝音工から「泣いても泣いても/女の泣く町」でデビューしている。「西海ブルース/新宿のふたり」(TP-2129)は「あき子はひとり/夜に咲く花」に続く3枚目のシングルだと思われる。発売日は特定できないが、一つ番号の若い黒木憲「夢はいずこに」(TP-2128)が1969年3月1日発売なので、そのあたりだろう。それにしても、作者の尾形がクール・ファイブによるレコード化を拒んだ「西海ブルース」を、どうして彼らはレコーディングすることができたのか。しかも歌詞は尾形によるオリジナルではなく、拒む理由となった、永田貴子が書き換えた方なのである(クール・ファイブの1977年録音ともかなり異なっているが、これがデビュー前のクール・ファイブが歌っていた本来の歌詞だと思われる)。尾形はクール・ファイブに提供しなかったことを悔やんだのではないか。後のクール・ファイブ盤で聴きなれた耳には、ユニゾンやハモリが多用された花菱エコーズの歌は新鮮にも聴こえるが、ヒットには至らなかった。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年2月15日 (土)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(4)~シングル「わかれ雨/不知火の女」とアルバム『内山田洋とクール・ファイブ』

前回、1969年2月5日にリリースされた内山田洋とクール・ファイブのデビュー・シングル「長崎は今日も雨だった」を紹介した際、大事なことを書き忘れていた。伴奏に参加した主要メンバーが判明していたのだ。ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫による、サックス奏者村岡建(たける)へのインタヴュー「【証言で綴る日本のジャズ】村岡建<第3話>」(詳しくはこちら)によれば、彼はスタジオ・ミュージシャンとして最初に加山雄三の「君といつまでも」(1965年12月リリース、編曲は森岡賢一郎)に参加した後、沢田駿吾クインテット(ギターの沢田、テナー・サックスの村岡のほか、ベースが池田芳夫、ピアノが徳山陽、ドラムスが日野元彦)のメンバーとして、1967年2月にリリースされた石原裕次郎のシングル「夜霧よ今夜も有難う」(浜口庫之助作詞・作曲/山倉たかし編曲)のレコーディングに参加したという。そして「長崎は今日も雨だった」について、「日本ビクターがまだ築地にあったときで、これも沢田さんのバンド」と語っている。ただし、少なくともベースの池田は1968年頃にはバンドを抜けていて(彼は本来アコースティック・ベース奏者である)、ここで印象的なエレキ・ベースを弾いているのは、すでに日本を代表するスタジオ・ミュージシャンとして活躍中だった江藤勲である。

さて、前回触れたように「長崎は…」は、5月に入ってからチャートを上昇。これを受けての第2弾として7月5日にリリースされたのが「わかれ雨」である。

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●シングル02

A) わかれ雨
鳥井 実 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 不知火の女
新野 新・村上千秋 共作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1027 1969年7月5日発売

作曲は「長崎は…」に引き続いての彩木雅夫、作詞は1967年9月の森進一6枚目のシングル「命かれても」で彩木と組んでいた北海道出身の鳥井実(1935年生まれ、2018年8月30日没)が起用された。「長崎は…」でエンジニアを務めた内沼映二は、以降独立後の前川清のソロも含め、一部の例外を除く大半のレコーディングでエンジニアを務めることになる。この曲も築地のビクター・スタジオでの録音のはずだ。

「わかれ雨」は、ハープとグロッケンシュピールによる幻想的な導入部も印象的な3連のロッカバラード。「♪帰らぬ恋ぃと~」の「と~」と伸ばす部分、そしてサビの部分の「♪イヤイヤ~」のところなど、「長崎は…」ではまだ抑え気味だった、前川清独特のある種過剰なヴィブラートが、この曲で初めて表出されている。ただ、大ヒット曲に続く第2弾としては、曲調も歌詞もかなり渋いとも言える。実際のところ「長崎は…」のチャート2位、72.8万枚(オリコン調べ。公称では100万枚)に対し、「わかれ雨」はチャート32位、12.8万枚(同。公称で30万枚以下)という結果で、売り上げはかなり伸び悩んだ。

担当ディレクターの山田競生は1981年のインタヴューでこう語る。「作曲の彩木さんとは、三作まで書いてもらう約束になっていたんです。これは私のレベルではなく、私がクール・ファイブ担当に決まる前に、上の方で約束していた話なんです。<長崎は今日も雨だった>に関しては、私は後から乗ったんですから、二作目の<わかれ雨>があんな曲でしたので、もし三作目が駄目な曲だったら彩木さんに降りてもらうしかない、と思っていました」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)

担当者に「あんな曲」と言われてしまった「わかれ雨」だが、少年時代の桑田佳祐がとりわけ夢中になった曲でもある。そして1970年9月27日の日劇でのリサイタルを収録した2枚組『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』(1970年12月25日リリース)では彼ら自身の演奏によるこの曲が聴けるが、内山田洋はMCで「大変私たちは素敵な曲だと信じております」と紹介してからこの曲を演奏し始める。そこには「あまり売れませんでしたが、でも…」という言外のニュアンスが込められているように思えるのだ。

同じ3連のロッカバラードでも、より親しみやすいカップリングの「不知火の女」は、城美好(チャーリー石黒)の作曲。有明海をテーマにしたご当地ソングだが、作詞の新野新(しんの・しん。1935年生まれ)は大阪市生まれの放送作家。「涙こがした恋」同様、共作詞者として村上千秋が名を連ねている。

そして、いよいよアルバムが登場する。

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●アルバム01(オリジナル・アルバム01)

内山田洋とクール・ファイブ
RCA JRS-7045 1969年11月5日リリース

A面
1) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

2) わかれ雨
鳥井 実 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

3) 涙こがした恋
中山淳太郎・村上千秋 共作詞/城美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

4) 噂の女
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲/毛利 猛 編曲

5) 長崎詩情
中山貴美 作詞・村上千秋 補作/城美好 作曲/竹村次郎 編曲

6) あなたが欲しい
内山田洋 作詞・作曲・編曲

B面
1) 逢わずに愛して
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

2) 不知火の女
新野 新・村上千秋 共作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

3) 一度だけなら
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲/毛利 猛 編曲

4) 女のまごころ
宮本悦朗 作詞・村上千秋 補作/宮本悦朗 作曲・編曲

5) 恋の花火
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

6) 明日はないの
村上千秋 作詞/城 美好 作曲/宮川 泰 編曲

記念すべきデビュー・アルバム。何よりも画期的だったのは、全曲オリジナルであること。当時の歌謡界では、アルバムといえば自身のシングル曲以外は、他の人気歌手のヒット曲のカヴァー、過去の名曲などで構成するのが常だったからだ。

山田は語る。「オリジナルとカヴァー、並の歌手ならそれでよかった。でもクール・ファイブは違う。稀に見る逸材だ、これからの会社を背負って立つアーティストだ、そのファースト・アルバムは絶対にオリジナルでなくては、というのが僕の信念でしたね」(CDボックス『結成40周年メモリアルBOX こ・い・う・た~内山田洋とクール・ファイブBEST100~』ブックレットより。2007年8月7日、BMG JAPANにて。聞き手:鈴木啓之、高護)

過去2枚のシングルAB面曲4曲以外は、すべてクール・ファイブのための書き下ろしだが、そもそも並のラインナップでなかったことは、その後の彼らにとっていずれも重要なヒット曲となった「逢わずに愛して」(第3弾シングル)「噂の女」(第5弾シングル)がすでに含まれていることからもわかるだろう。その2曲については、シングル紹介の項で詳しく書くことにしよう。

それらに続く重要曲は「一度だけなら」。「噂の女」と同じ作詞・作曲家コンビ、すなわち東映ニュー・フェイスからクラブ・ホステスを経て作詞家に転身したばかりだった山口洋子(1937年5月10日名古屋市生まれ、2014年9月6日没)と、古賀政男門下からスタートし森進一の一連のヒット曲を手掛けていた猪俣公章(1938年4月11日福島県会津生まれ、1993年6月10日没)による、同じ3連でも12拍子のロッカバラードではなく9拍子のワルツ風の曲。内山田洋によれば、「逢わずに愛して」が次のシングルとなる際、候補として最後まで争ったのが「噂の女」と「一度だけなら」だったということである。結果的にこの曲は、同じRCAから“歌謡界の若獅子”のキャッチフレーズで1970年6月5日にデビューした野村真樹(現:将希)の最初のシングルとなり、オリコン10位の大ヒットとなった。1952年11月13日北九州市生まれ、尼崎市育ちで、前川清と共通する感覚もありながら、より線の細い野村は、担当も同じ山田ということもあり、クール・ファイブの面々にも可愛がられた。楽曲の行き来も少なからずあったが、牧歌的な雰囲気もある「一度だけなら」に関しては、野村のキャラクターによりフィットしていたということは言えるだろう。なお野村は、このクール・ファイブのファースト・アルバム収録曲からは「涙こがした恋」「不知火の女」「噂の女」も後にアルバムの中で取り上げることになる。

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(これは1975年リリースのベスト・アルバム『野村真樹大全集』。クール・ファイブと関係する曲目がまとめて聴ける)

森進一「年上の女」を書いた中山貴美の作詞、城美好作曲による「長崎詩情」は、ロマンチックなロッカバラード。編曲は、クール・ファイブでは主にカヴァー曲でその手腕を振るうことになる竹村次郎(1933年8月26日東京生まれ)。この曲はメンバーたちも大変気に入っていたようで、長崎をテーマにした企画アルバム『長崎詩情』(1972年3月25日リリース)のタイトルおよびリード曲(録音は同じ)となるほか、1978年12月5日リリースのメンバー自選ベスト『<スター・マイ・セレクション・シリーズ> 内山田洋とクール・ファイブ』にも「長崎は今日も雨だった」「逢わずに愛して」と共に収められている。そのライナーで内山田は、「我々にとっては切っても切れない“長崎”の四季を歌い込んだ曲で、望郷の想いを慰めてくれる、いわば我々の心のテーマ・ソングと云えるものです」とコメントしている。

クール・ファイブの音楽的中心となる内山田洋と宮本悦朗、それぞれのオリジナル作品が収録されたのも大きなポイント。「港の別れ唄」「東京砂漠」など、折々で重要曲を作曲することになるリーダーの内山田だが、作詞も編曲も手掛けたのは、「あなたが欲しい」が唯一。どこか可愛らしい風情の曲だ。もちろんクニ・河内が書いたザ・ハプニングス・フォーの同名の曲(1967年11月5日リリース)とは何の関係もない。

一方、洋楽的なセンスがなかなかお洒落な「女のまごころ」は、主にステージで編曲や音楽監督的なポジションを担っていくことになる宮本が、村上の手を借りながら同様に作詞までこなした作品。

「恋の花火」は、川内康範作詞、彩木雅夫作曲、森岡賢一郎編曲という「逢わずに愛して」と同じ組み合わせによる佳曲。川内については、「逢わずに愛して」のシングル紹介の折に、詳しく触れたい。そして最後の「明日(あした)はないの」は、村上が単独で歌詞を書き、城が作曲したもの。ザ・ピーナッツの育ての親としてもお馴染みの宮川泰(ひろし。1931年3月18日北海道留萌市生まれ、2006年3月21日没)が編曲しているが、彼がクール・ファイブのレコードを手掛けたのはこの曲が唯一。【2020年3月21日追記】「明日はないの」は、ゴールデン・ヴェールの1967年4月のシングル「命こがして」のB面曲「私、明日はないの」(新野新作詞、村上千秋補作詞)のリメイクだった。詳しくは第5回参照。

以上12曲、すべて3連のリズムで書かれながらバラエティーにも富み、クール・ファイブの魅力を広くアピールする力を持ったこのデビュー・アルバムは、30万枚を超える売り上げを記録した。クール・ファイブの全LPの中で、オリジナル・フォーマットのままCD化されたことのある唯一のアルバムでもある。

ところでこのアルバム、今は手元に2枚あるが、B面最後のマトリクス番号が刻まれた送り溝の幅が大きく異なっているのが興味深い。JRS 7045 B 111+++のものはかなり幅広く(つまり曲中の溝と溝の間が狭い)、

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JRS 7045 B 122+++の方は逆にかなり狭い。

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A面はどちらもその中間の通常のバランスとなっている。カッティングによるこのような差は、どうして生じたのだろうか。

(文中敬称略、次回に続く)



2019年12月30日 (月)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(3)~シングル「長崎は今日も雨だった/涙こがした恋」

それでは今回から、内山田洋とクール・ファイブがデビューから1986年に前川清が脱退するまでの間にリリースしたすべてのレコードを、順を追って紹介していく。

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●シングル01

A) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 涙こがした恋
中山淳太郎・村上千秋 共作詞/城美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1015 1969年2月5日発売

「長崎は今日も雨だった」が出来上がるまでの経緯は、だいたい前回書いた通り。銀馬車のマネージャーだった吉田孝穂が、永田貴子のペンネームで「長崎の夜」という歌詞を書き、札幌の彩木雅夫に作曲を依頼したが、彩木は歌詞もほとんど書き換え、タイトルを「長崎は今日も雨だった」としたのだった。前川清によれば「ど素人が書いたひどい歌詞で、彩木先生は気に入らなくてずいぶん手直ししてた。元の歌詞に『雨』なんてなかったし、原型がなくなるほど8割くらい変わった。変なタイトルで意味が分からなかったし、メロディーラインもあまりしっくりこなくて、最初は気に入ってなかったです」(スポーツ報知『前川清、「長崎は今日も雨だった」は思い入れゼロだった』[2017年5月22日]より)とのことだ。

彩木雅夫(1933年8月5日帯広生まれ)は、これも前回書いた通り本業は北海道放送(HBC)のディレクターで、作曲家としては本名の新居一芳名義でジャッキー吉川とブルー・コメッツに書いたインスト曲「愛の終りに」(1966年4月シングル発売)が処女作。その後彩木を名乗り、1967年から68年にかけて森進一に「命かけても」「花と蝶」「年上の女(ひと)」を提供しヒットさせている。

編曲には、チャーリー石黒の推薦で森岡賢一郎(1934年3月4日八代市生まれ、2018年8月19日没)が起用された。前川が初対面の内山田洋に披露した曲でもある加山雄三「君といつまでも」(1965年12月発売)も、彩木が森に提供した「花と蝶」「年上の女」も、森岡の編曲だった。そしてこの出会いはクール・ファイブにとって非常に大きかった。これ以降クール・ファイブの主要曲の多くで森岡は腕を奮うことになる。

記念すべきこのデビュー曲のレコーディングは、1969年1月8日に東京のビクター築地スタジオ(第一スタジオ)で行われている。前川は語る。「寝台特急『さくら』で夜中に関門海峡を通って人生で初めて本州に入ったんです。僕は一番年下だから、3段ベッドの一番上。寝転がったら天井ギリギリで狭かった。一睡もできずに12時間以上かけて東京に着いて、その足で築地のビクタースタジオに行きました」(前掲のスポーツ報知記事より)。

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録音エンジニアは内沼映二(1944年群馬県生まれ)。1960年代から現在に至る日本の商業録音の生き字引存在である内沼が本年(2019年)に著した「内沼映二が語るレコーディング・エンジニア史」(DU BOOKS)には興味深いエピソードが満載で、レコードやその録音に関心のある人々には必読の書と言えるが、彼がそれまでのテイチクからビクター(RCA)に移籍して最初に手掛けたのが「長崎は今日も雨だった」だった。以下は内沼の述懐。「初めて使うスタジオだったことで勝手がわからず苦労した記憶があります。築地のスタジオはブースがなく、すべてのミュージシャンが一同に介す同時録音でした(ライブでのステージ配置と思っていただければ)。発売当初あまり売れなかったために宣伝担当から『音が良くないから売れない』、『リヴァーブが多すぎる』など散々なことを言われましたが、結果的に記録的なセールスとなり、胸を撫で下ろしました」(前掲書より)。

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興味深いのは、これが6チャンネル録音だったと書かれていたこと。アンペックスの300シリーズというレコーダーで、1チャンネルと2チャンネルには3~6チャンネル以外の楽器をステレオで録音、3チャンネルがベースとドラム、4チャンネルがテナー・サックスとエレキ・ギター、5チャンネルがコーラス、6チャンネルがヴォーカルという振り分けだった。クール・ファイブのメンバーは楽器は弾かずコーラスを受け持っただけだが、森岡が手掛けた編曲というか楽器編成は、当然ながらメンバー自身によるライヴ演奏も想定してのものだろう。

レコーディングについて前川は、「ヘッドホンがなくて、スピーカーから小さいカラオケの音が流れる中で歌って、自分の声はモニターできない。戸惑いながら4~5時間歌いました。徹夜で調子が悪くて、声の伸びも最悪。翌日もう一回歌わせてもらったけど、不思議なことに初日の方が声の仕上がりが良くて採用された。上京した直後で必死に一生懸命、何も考えずに歌ったのが良かったのかな。あの歌い方はもうできない」(前掲記事より)と語る。一方、内山田がこの曲に託したイメージは「プラターズのコーラスのようにポップス的に」というものだったという。

カップリングの「涙こがした恋」は、これも前回触れたようにチャーリー石黒(=城美好)が書いた「涙こがして」が、彩木の推薦でクール・ファイブの手に渡り、内山田がアレンジした自主制作録音(「西海ブルース」もそうだが、存在したのはオープンリールのテープのみで、盤としてはプレスされていないはずだ)が長崎の有線放送で1位となったもの。編曲は森岡だが、内山田のオリジナル・アレンジがベースになっているのではないかと推測される。録音データも不明だが、「長崎は今日も雨だった」と同日だったと考えるのが自然だろう。作詞の中山淳太郎には守屋浩「田舎教師」(1963年)、山田太郎「明日を信じよう」(1964年)といった作品がある。共作者の村上千秋は、11月にリリースされるクール・ファイブのファースト・アルバムでも、何曲かに共作者や補作者として登場することになる。作家の村上春樹の父親(国語教師だった)と同姓同名だが、さすがに同一人物ではないだろう。

「長崎は今日も雨だった」は1969年2月5日にリリース。ジャケットには「RCA流行歌路線第1弾!」「有線放送で、人気第1位のムード・コーラス艶歌の決定盤!」とキャッチコピーが躍り、グループ名表記の内山田洋にはルビが振られていた。だが、RCAからのデビューが決まっても、あくまでも地元長崎を拠点にするのか、安定した生活を捨てて東京に進出するのか、メンバーの間でも迷いはあったようだ。進出を決断した内山田の説得に応じ、全員で長崎を後にしたのが2月10日。翌11日には恵比寿のマンションで男6人の合宿生活が開始された。2月15日にはフジTV系『歌のスターパレード』でテレビ初出演。2月21日から27日までは国際劇場での『森進一ショー』に出演。長崎から彩木のいる札幌まで全国縦断キャンペーンも行われたが、なかなか火は点かなかった。

それが一転するのは、渡辺プロダクションで彼らのマネージャーとなった和久井保が、テレビ露出を利用したキャンペーンを展開してからのこと。4月中旬(または下旬)の1週間、コント55号の番組『お昼のゴールデン・ショー』(フジTV系)に今週の歌のコーナー等で出演したのだ。RCAの山田競生は当時をこう語る。「連休明けに私が会社に出ると、電話が鳴りっ放しなんです。それが〈長崎は今日も…〉のオーダーで、営業の連中が電話を受けながら、私にサインを送っているんです。これは一生忘れられない感激です。涙が出るほどでした」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)

シングルはゴールデン・ウィーク明けにオリコンにチャート・イン。5月23日には東京プリンスホテルにて初めてのファン・クラブの集いが開催。6月23日付オリコン・チャートで最高位2位を記録(1位は森進一「港町ブルース」)。7月9日には長崎公会堂で凱旋公演。そして7月31日には「長崎は今日も雨だった」100万枚突破記念パーティーが開催された。10月28日には新宿音楽祭で新人賞を受賞。11月12日には日本有線大賞で新人賞獲得。そして12月31日にはレコード大賞の新人賞を受賞し、NHK『紅白歌合戦』への初出場を果たした。

(文中敬称略、次回に続く)

2019年12月13日 (金)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(2)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜

【2020年3月9日追記】本記事の内容について、追加及び訂正が多数あります。詳細については最新の記事『内山田洋とクール・ファイブのレコード(5)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜についての再検証』をご参照ください。

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1967年9月に結成された内山田洋とクール・ファイブは、グランド・キャバレー「銀馬車」の専属バンドとして活動を開始した。当時どのようなレパートリーを演奏していたのかという詳細なデータは手元にないが、もともと各メンバーは洋楽志向が強く、新旧様々な洋楽を取り上げていたようだ。その幅広さは、デビュー以降に残された各種ライヴ盤に散りばめられた洋楽カヴァーの数々からも感じ取ることができる。一方で客のリクエストに応じる必要から歌謡曲も演奏する中で、歌謡曲への興味や志向も強くなっていったというのが、だいたいの流れだったのではないかと思われる。

1968年、銀馬車のマネージャーである吉田孝穂が、佐世保で流しのギタリストとして活動していた尾形義康(よしやす)の書いた「西海ブルース」という曲を地元の有線放送経由で見つけてきた。吉田は永田貴子(たかし)の筆名で自ら歌詞を書き直し、クール・ファイブに歌わせることにした。自主制作で録音された「西海ブルース」のテープは長崎放送や地元の有線放送に持ち込まれて評判となり、ローカル・ヒットを記録したのである。

この後「長崎は今日も雨だった」を作曲することになる札幌在住の作曲家、彩木雅夫(本名:新居一芳、本業は北海道放送のディレクター)とクール・ファイブとの繋がりがどの時点で出来たのかは不明だが、「西海ブルース」の評判は遠い長崎から伝わっていたのかも知れないし、クール・ファイブ側からのアプローチが先だったかのかも知れない。【2020年3月9日追記】これは1968年1月頃、吉田が彩木に何度か電話をしたのがきっかけだった。詳しくは第5回参照。

クール・ファイブを中央の音楽シーンにスカウトすることになるチャーリー石黒(ラテン・バンド、東京パンチョスのリーダー。作曲家としてのペンネームは城美好)がクール・ファイブのことを知るのも、彩木からの電話だった。曰く、君の書いた「涙こがして」はいい曲だから、グループに歌わせてヒットさせたいと。この曲は内山田のアレンジで自主制作されて「涙こがした恋」(作詞は中山淳太郎と村上千秋)となり、1968年秋には長崎の有線放送で1位を記録した。【2020年3月9日追記】第5回に追加情報あり。

TBS系の番組「ロッテ歌のアルバム」で伴奏を担当していた石黒は、公開放送収録のために長崎を訪れた際に銀馬車に立ち寄り、実際にクール・ファイブの生演奏に触れている。渡辺プロダクションに籍を置き、新人発掘の役割も担っていた石黒には、森進一を発掘し育てた実績もあり、クール・ファイブの将来を確信した。

クール・ファイブは石黒の紹介で渡辺プロダクションと契約を結ぶことになり、メジャー・デビュー曲には「西海ブルース」が候補に挙がったが、作者の尾形が別の歌詞によるレコード化を認めなかったために却下(1977年になって再録音が実現し、30枚目のシングルとなる)。競合する十二番館からご当地ソングの「思案橋ブルース」でヒットを飛ばした高橋勝とコロラティーノに対抗し得る、新たな長崎ものを準備する必要に迫られた吉田(=永田)は、「長崎の夜」という歌詞を書き、札幌の彩木のもとに飛ぶ。【2020年3月9日追記】第5回に訂正あり。

クール・ファイブより一足早く、1968年12月に日本ビクターのRCAレーベルからデビューしたコーラス・グループに、渚一郎とルナ・ジェーナ(R&B系GSの4人組ザ・ホークスとブルー・ジーンズ~マヒナ・スターズのヴォーカル、渚一郎が合体してできたグループ)がいる。そのデビュー曲「銀座の恋をサッポロに」の札幌でのキャンペーンのために、RCA営業部の久野義治はマスコミ用の航空券を2枚手配した。ところが前日になり取材予定の1名がキャンセルしたため、折角のチケットを無駄にしないよう、課長の永田章蔵(RCA設立前はビクター内のフィリップス洋楽部門のディレクター)が同行することになった。札幌に着いた永田は、年末の挨拶をすべく彩木を訪れたところ、「長崎に自主制作のテープで地元の有線放送リクエスト1位になっているグループがいますョ。マネージしている作詞家の吉田孝穂氏に、新曲の作曲を依頼されてるんですが、ご紹介しましょうか」(『内山田洋とクール・ファイブ全100曲集』ブックレット掲載の「クール・ファイブと私」[文:久野義治]より)と言われ、「涙こがした恋」のテープを持ち帰る。

一方、クール・ファイブの地元事務所代表の針尾洋一郎から「涙こがした恋」のテープを取り寄せた石黒も、各レコード会社への売り込みを続けた末、かつて森進一を育てたビクターの永野恒男(後にRVC社長)にたどり着いたという。この2つのエピソードの前後関係は不明だが、ともかくクール・ファイブは日本ビクターに新設されて間もないRCAレーベルから全国デビューすることが決まった。

このRCAレコード事業部設立の経緯については、前回のブログ記事「“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史」を参照して頂きたいが、基本的にすべて新人アーティストからなる邦楽セクションを立ち上げるにあたり、3人の有能なディレクターが揃えられた。和田アキ子やシング・アウト(樋口康雄在籍)、シモンズ、そして西城秀樹などを手掛けることになるロビー和田。日本コロムビアのデノンからデビュー予定だった藤圭子を、粘り強い交渉の末に引っ張ってきた榎本襄。そして、クール・ファイブを担当することになるのが、山田競生である。

1933年生まれの山田は、学生時代からハワイアン・バンドでウッド・ベースを弾き、ポス宮崎とコニー・アイランダーズを経て、1958年から和田弘とマヒナ・スターズのメンバーとして活動。1967年、マヒナがビクターから東芝に移籍するタイミングで脱退し、ビクターに残ってマハロ・エコーズを結成したが、1年ほどで活動休止。その後ディレクターとしてRCAにスカウトされたのである。

「こういうコーラス・グループがあるけど、ディレクションしてみないか、という話があったとき、あー、嫌だなと思いました。私自身、コーラス・グループにいましたから、コーラス・グループだけは手がけたくないと思っていたんです。(中略)テープの〈長崎は今日も雨だった〉を聴かされまして、それまで持っていた歌謡コーラスへの固定観念みたいなものが、ふっ飛んでしまったんです。何だ、こいつらは、と興味が湧いたのがきっかけなんです」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)

この1981年のインタヴューで山田は、「長崎は…」のテープが長崎の有線放送で一位になっていることは知っていた、とも発言している。ただしこれは状況からみて、再録音されて「長崎は…」のB面になった「涙こがした恋」の事例と記憶がゴッチャになっていたのではないかと思われるが、どうだろうか。

一方、作曲を依頼されていた彩木は、3連の魅力的なロッカ・バラードを書き上げた。吉田が書いてきた歌詞もほとんど書き換え、タイトルを「長崎は今日も雨だった」とした。新しい歴史がこの曲から始まろうとしていた。

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(文中敬称略、次回に続く)

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