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音楽

2024年5月10日 (金)

とりあえず

11か月も更新が止まったままで、「1年間未更新のブログについては、記事の追加や編集ができなくなります」とココログ本体から脅されてしまったので、とりあえず更新しておく。

更新が止まっている理由はいろいろあるが、拙著『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ 完全版』の作業がずっと継続中だから、というのが大きい(まだ刊行予定は見えません、申し訳ないですが)。

あとは、ココログフリーはやたら広告が多く見づらいので、読んでくださる方にも申し訳ないという思いが強い。

ということで、こちらの更新は中止して新たにnoteに書く場所を設け(ここにも当然リンクは貼ります)、旧記事の移動もしていこうと考えている。

『闘うタンゴ 完全版』刊行後の訂正や追加情報を載せる場所としても、noteを活用できればと思うので、またそちらの方でよろしくお願いします。

2023年6月 6日 (火)

フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ、CD44枚組+LP1枚を収録した究極のBOXセット、満を持して登場!

数年前から予告されていた、フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズの壮大なる集大成BOXセット、"WORKING OUR WAY BACK TO YOU - THE ULTIMATE COLLECTION" (SMABX1132) が、英国のSNAPPER MUSIC / MADFISHから6月2日、ついにリリースされた。全世界2,500セット限定、CD44枚、LP1枚、内容充実のブックレット3冊からなる超豪華な箱である。

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内容は、1962年のフォー・シーズンズとしてのデビュー・アルバム "SHERRY & 11 OTHERS"から、フランキー・ヴァリの2016年のアルバム"'TIS THE SEASONS"までのオリジナル・アルバム31タイトル(CD32枚)に、別ヴァージョンを多く含む1968年のベスト・アルバム"EDIZIONE D'ORO"1993年と1995年のリミックス・アルバム2枚、子供向け企画の"JERSEY BABYS"2008年)、今回の目玉でもあるレア音源や未発表曲などを収録した編集盤5枚、1972年、73年、74年の未発表ライヴ盤各1枚という構成。アルバム未収録のシングルや別テイク、未発表音源などは、編集盤だけでなく、オリジナル・アルバムのボーナス・トラックにも振り分けられている。

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それに加え、未発表モノラル・マスターを使用した1969年のコンセプト・アルバム"THE GENUINE IMITATION LIFE GAZETTE"(以下GILGと表記)のアナログ盤(新聞を模した変形ジャケットの再現も素晴らしい)が付く。下の写真は左がオリジナル、右が今回のモノラル盤。

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Vee-Jay時代からPhilips中期までのアルバムは、モノラルとステレオの両方で発売されていたが、今回は両方の音源が2 in 1の形で収録されている(全部はチェックしていないが、ステレオ・マスターが存在せずステレオ盤にもモノラルで収録されていた曲は、モノラルのまま収録されている模様)。ただし例外があり、フランキー・ヴァリの最初のソロ・アルバム"THE FOUR SEASONS PRESENT FRANKIE VALLI SOLO"1967年)はステレオのみで収録(といっても10曲中8曲はシングルでも出ていて、モノラル・シングル・ヴァージョンは収録されている)。そしてフォー・シーズンズのGILGとフランキー・ヴァリ/フォー・シーズンズの"HALF AND HALF"1970年)はもともとステレオのみの発売だったが、今回発見されたモノラル・マスターも併せて収録。しかもGILGは前述のとおり、アナログとCD(演奏時間が長いため、モノラルとステレオは2 in 1ではなく2枚のCDに分けられた)の両方で収録されることとなった。

枚数も多く、まだまだ部分的にしか聴けていないが、特に未発表曲の数々には驚くばかり。そして一部のレア音源を除けば、音質もかなり良い。

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この中で一番の目玉は、MoWest / Motown時代(197174年)の未発表音源集だろう。未発表曲は未完成のものも含めると40曲にも及ぶと言われていたが、今回完成された形で復刻されたのは13曲で(それらの曲の別ヴァージョンも一部あり)、どれもが驚くべき素晴らしさ。それだけに、これらを持て余し、結局お蔵入りさせてしまったMotownに対しては、改めて怒りがこみあげてくるほどだ。また、マスターが残っておらず、メンバーが所持していたカセットからリマスターされた"I Wonder Why"のような貴重なトラックもボーナス・トラックとして収録されている。一方、2008年の編集盤"THE MOTOWN YEARS"に収録されていた"Charisma"のエクステンテッド・ヴァージョンは今回収録されなかったが、このあたりは権利を持つFour Seasons Partnership(つまりフランキー・ヴァリとボブ・ゴーディオ)の意向のようだ。

まだ聴き込めていないが、1979年に制作される予定だったディスコ・アルバム"BACK IN ACTION"が日の目を見たのも喜ばしい。

フランキー・ヴァリの2枚目のソロ"TIMELESS"1968年)はステレオ盤のみの発売だったが、シングル曲以外のほとんどの曲のモノラル・アウトテイクが発見されたとのことで、今回収録されている。未発表の"Stranger In Paradise""Natural Morning"なんていう曲もある。

GILGのモノラルも素晴らしく、"Wonder What You'll Be"のイントロにはステレオ盤にはないピアノの音が付け加えられている。"Genuine Imitation Life"の最初の1音にマスターの損傷があるが、アナログ盤にはあえてそのまま収録、CDでは普通に聴けるが、どうもその1音だけステレオ・マスターからダウンミックスして差し替えたらしい。そんな細かい配慮もみられる。

フランク・シナトラの"WATERTOWN"用のデモから、作詞のジェイク・ホームズとフランキー・ヴァリが歌う"Michael And Peter"なんていうのも収録されていてビックリ。

"HALF & HALF"のモノラル・マスターでは、"Circles In The Sand"がヴァージョン違いだったのにも驚いた。この曲のシングル・ヴァージョンは後半のパートをオルガンやホーン・セクションの入った別録音と編集と繋げてあり、これまで未復刻だったが、それともかなり違う。今回のDisc 19 "RARE AND UNRELEASED 1966 - 1971"の、本来そのシングル・ヴァージョンが入るべき場所には、前述のアルバムのモノラル・ヴァージョンの方が再度収録される形となってしまった。また、1970年のシングル曲"Lay Me Down (Wake Me Up)"は、その形では復刻されておらず、これまでにCD化されているのは、1990年の"RARITIES VOL. 2"で初登場した6分以上あるフル・ヴァージョンと、シングル・エディットを再現しようとして鋏を入れる箇所とフェイドアウトのタイミングが違ってしまった2007年の"JERSEY BEAT - THE MUSIC OF FRANKIE VALLI & THE 4 SEASONS"収録ヴァージョンの2つ。今回もシングル・ヴァージョンの復刻は叶わず、フル・ヴァージョンのみが収録されたが、もしかするとこのあたりのシングル・マスターはFSPのアーカイヴから失われてしまったのかも知れない。

しかしながら、例えばDisc 19に収録された完全未発表曲の数々を聴けば、そんな些細な点は吹き飛んでしまう。"Just Can't Help Believin'"(バリー・マンと61日に亡くなってしまったシンシア・ワイルのコンビの作品)だとか、"What Good Am I""Just How Loud (Can The Music Play)""The Goose""One Man"など、素晴らしいものばかり。

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1970年代以降の未発表録音にも注目したい。様々なアーティストによるビートルズ・ナンバーを集めた1976年の映画『第2次世界大戦』All This and WWII には"A Day In The Life""We Can Work It Out"を提供しているが(もちろんその2曲も今回収録)、それ以外の3曲のリハーサル録音が今回初めて公開された。そのうち"Golden Slumbers"はこれまでYouTubeにも音の悪い状態で上げられたりしていたが、"And I Love Her""Fool On The Hill"は今回初めて聴くことができた。どちらもいいアレンジだ。また、"Who Loves You"(愛はまぼろし)の、最初にドン・シコーニが歌ったヴァージョンにも驚かされた。また、アルバムを作れなかった1983年の幻の曲で、公式録音に至らなかった"You're Never Too Old To Rock 'n' Roll"も、リハーサルのデモ録音とライヴ録音の形で無事に収録された。…と、気付いたところを拾っただけでもこれだけあるし、まだまだいろいろ出てくるだろう。

ブックレットについてはまだ吟味できていないが、これも充実している。

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とにかくいくらでも楽しめそうな奥が深い箱である。

2022年10月19日 (水)

洋楽聴き始めて50年、そのオーディオ遍歴など

前回のエントリー「ピアソラ没後30周年、『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』改訂版のお知らせ」にてお知らせしたとおり、当初はピアソラ没後30周年の7月4日には間に合うように、その後なんとか年内にと目論んでいた拙著の改訂作業だが、遅々として進まず。もう10月も半ばを過ぎたというのに、本文の見直しはようやく全9章中第3章(パリ留学と弦楽オーケストラによる録音まで)までが終わったところ。とにかく直すところ、書き足すべきことが多すぎるのだ。他の仕事等との兼ね合い、そして年齢との闘いもあり、集中力も以前のようにはなかなか保てないというのが正直なところでもある。しかし改訂するのもこれが最後の機会だろうから、中途半端な形にはできない、出版社からも特に「いつまで」とは期限を定められていない、ということでお待ちいただけるよう、切に願う次第である。

それはともかく、これを書いている10月19日は、翌20日に64歳の誕生日を迎えようとしているところで、1972年の誕生日後ぐらいから意識的に洋楽を聴くようになってちょうど50年という節目の年にあたる。音楽を聴くのに欠かせないオーディオとの付き合いについてもこの機にまとめておこうと、少しずつ記憶を辿りながら、合間合間に書き溜めてきた。まぁ、備忘録のようなものだが、せっかくなので披露しておくことにする。

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今住んでいる鎌倉市の家に私と姉、両親の一家が引っ越してきたのは、私が4歳だった1963年2月のことだ。それまでは横浜市中区の社宅住まいだったが、父が閑静な今の場所を気に入って、2階建ての家を建てたのだった。

その新居にステレオがやってきたのは、私が5歳になって間もない1963年11月のこと。なぜ11月とはっきりしているかというと、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺のニュースが流れたのとほぼ同時で、後に家族がそれを話題にしていたからだ(22日の暗殺当日だったかどうかまではわからないが)。

そのステレオは脚の付いた家具調のコロムビアのアンサンブル・ステレオで、応接間にセットされた。今では型番もわからないが、扉が前面ではなく上部に付いていて、スプリングでフロートされたリムドライブのプレーヤーは16、33、45、78の4スピードだった。当時の流行りだったスプリング・リバーブが付き、FMはモノラル(まだステレオでの本放送自体が始まっていなかった)。確か別売のユニットを繋げば、AMステレオの試験放送も聴けるようになっていた。アンテナを屋根に設置したわけではなく、受信状況はそれなりだったような気がする。

私は大船駅前の大船ミュージック・ショップで『サンダーバード』のソノシートなどを買ってもらった記憶がある。よく家で流れていたのは『お茶の間名曲集』。東芝の赤盤で、ジャケットがモディリアーニの肖像画か何かで、「クシコス・ポスト」が入っていたこと、演奏者の中に平岡精二の名前があったことはぼんやりと覚えている(ネットで検索しても同じものは見当たらなかった)。8歳年上の姉は、イ・ムジチ合奏団のアルバム(『四季』だったか『ブランデンブルク協奏曲』だったか)、ザ・サベージやスパイダースの入ったコンパクト盤(7インチ4曲入り)のオムニバス、『ウエスト・サイド物語』サントラの4曲入り7インチ(「トゥナイト」「クール」「マリア」と「アメリカ」、これはよく聴いた)などを揃えていた。針を下ろそうとして盤の上でガーッと横に滑らせては、よく怒られた。

私が自分で最初に買ったのは、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」だったはずだが、ヒットしていたのは9歳の頃で、状況はよく覚えていない。買ったのはもっとずっと後だったかもしれないが、その後しばらくは何も買わなかった。

小学校4年生の時、父がどこかから貰ってきたソニーの小型・充電式の赤いAMラジオをくれた。ネットで確認したところ、1968年5月に発売されたIC搭載ラジオの2号機ICR-200という当時の最新鋭機だった。

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※画像はネットから

貰ったのはいいが、最初は何を聴いたらいいかわからなかった。デザインは良かったが性能はイマイチで、そのうちソニーの6石スーパーのトランジスタ・ラジオか何かと入れ替わったんだったと思う。

6年生になって学校からの帰り道、公団住宅に住むH君がラジオを見せてくれた。それは自分の持っていた小型のものとは全然違っていて、メーターが付き、FMも短波も入る、かっこいいデザインのものだった。どこのメーカーだったかは覚えていないが、世の中にはこんなものもあるのかと興奮した。土曜日に鵠沼まで自転車でピアノを習いに行った帰り道、藤沢駅近くのオーディオとレコードの店に立ち寄り、並ぶ商品を眺めたりカタログを貰ったりするのが楽しみになった。その頃よく聴いていた番組は、土曜夜10時からのTBSラジオ『ヤングタウンTOKYO』など。歌謡曲やフォークが好きでラジオで聴いたりしていたが、洋楽のことはまだほとんど何も知らなかった。

当時家にはソニーのオープンリールの“テープコーダー”もあって(ネットで検索したら、1964年5月発売のTC-221だったことが判明)、一時期はエアチェックもしていたが、どのラジオからどうやって録音していたかは覚えていない。

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※画像はネットから

3台目として買ってもらったラジオは、ソニーのスカイセンサー5400(ICF-5400)。1972年に登場したスカイセンサーは、先に出た5500が縦長の斬新なデザインと豊富な機能で人気だったが、私はあえてそれ以前のソリッドステートIC 11やTHE 11の流れを汲むオーソドックスな5400にしたのだった。

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※画像はネットから

中学2年だった1972年の夏、久しぶりにシングル盤を買った。山口崇、林隆三、津坂匡章の「月は東に日は西に」。楽しみに観ていたNHKドラマ『天下御免』の挿入歌だが、何故これ1枚だけを買ったのかは覚えていない。

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※画像はネットから

そして10月に誕生日のお祝いとして貰ったお金で、LPレコードを買おうと思い立ち、大船ミュージック・ショップに行った。ちょうどCBS・ソニーの年末商戦恒例のギフト・パック・シリーズが出たところで、壁の上の方にジャケットがずらりとディスプレイされていた。天地真理や南沙織があるなあ、と思いながら左の方向に視線を移していくと、洋楽が並んでいた。邦楽は1枚ものなのに、洋楽は銀色のボックス入りの2枚組で、それだけで特別感があった。そして通し番号の若い方に辿っていくと、①はサイモンとガーファンクルだった。これだ、これにしよう、と決めた。ほとんど聴いたこともないくせに。

だが、その場でそれを買ったわけではない。S&Gのコーナーを見てみると、いろんなアルバムが並んでいる。2枚組のベスト盤もギフト・パックは3,000円なのに『サイモンとガーファンクルのすべて』が3,600円である。この金額の差は何処から来ているのだろうかと、真剣に悩んだ。1枚もののベストも、『明日に架ける橋』登場前の音源を集めた『サイモンとガーファンクルのグレーテスト・ヒット』、後述の米国編集のベストが決まった時点で、その曲目のまま日本先行で発売された『サイモンとガーファンクル・グレーテスト・ヒットⅡ』、その内容を同タイトルのままゴールド・ディスク・シリーズに組み込んだもの、そして正真正銘の米国編集盤として発売されたばかりの、ライヴ・ヴァージョンやリミックスなどの未発表音源を含む『サイモンとガーファンクル・グレーテスト・ヒット』。迷った挙句、最終的に選んだのはその米国編集の『グレーテスト・ヒット』で、購入日は11月1日とメモした。同じ頃洋楽を聴き始めた同級生のTとIは、どちらもギフト・パックを買っていたけれども。

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ちょうどラジオ関東で始まったばかりの『全米トップ40』を聴いてチャートをチェックするようになり、リオン・ラッセルが表紙の11月号から雑誌『ミュージック・ライフ』を買い始め、LPはそうそう買えないから、シングルでギルバート・オサリヴァンの「アローン・アゲイン」やエルトン・ジョンの「クロコダイル・ロック」、ミッシェル・ポルナレフの「愛の休日」などを買った。

アンサンブル・ステレオは応接間にあって好き勝手には聴いていられなかったから、自室で聴けるラジオ(スカイセンサー5400)が大事なアイテムだった。そして恐らく高校に入学したタイミングで(1974年)、カセット・テープレコーダーを買ってもらった。ソニーのTC-2600で、ステレオ録音とLL録音(語学練習用に片チャンネルずつ録音や再生ができる)を備えた機種だった。

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※画像はネットから

スカイセンサーのMPX-OUT端子に繋げるステレオ・ヘッドホン・アダプターのSTA-50を買い、そのステレオ出力をTC-2600に接続すればFM放送のステレオ録音ができたので、この組み合わせは大変重宝した。

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※画像はネットから

また、TC-2600をアンサンブル・ステレオのDIN端子に接続すれば、一応カセット・デッキとしても使うことができたから、音質はともかくレコードからカセットに録音すれば、部屋でもヘッドホンで聴けたのである(モノラルでよければスピーカーからも流せた)。

高校では放送部に入ったが、放送室にあったコンポーネント・ステレオが、新たな憧れとなった。スピーカーは覚えていないが、アンプは確かパイオニア、そしてプレーヤーは間違いなくパイオニアのPL-1200。これはカッコよかったから、強烈な印象を残している。後は番組作りなどに活用したオープンリール・デッキだ。メインはティアックの10号リール用A-3300Sと7号リール用A-2300Sで、操作パネルが傾斜しているソニーのスラントタイプのもの(多分TC-6360A)もあった。オープンリール・テープに録音したピンク・フロイドの『狂気』やディープ・パープルの『紫の炎』を放課後に聴いた記憶がある。

私は1974年の夏にラジオでスティーリー・ダンの「リキの電話番号」を聴いてから彼らに夢中になり、東芝EMI公認スティーリー・ダン・ファン・クラブの最年少会員となったほどだったから、1975年の『嘘つきケイティ』、1976年の『幻想の摩天楼』、1977年の『彩(エイジャ)』は輸入したての米国オリジナル盤でまず買ったが、解説と対訳欲しさに国内盤にすぐ買い替えてしまった(その後CDが出た時に買い替え、最終的にアナログを買い戻した)。今思えばなんとももったいない話だが、家のアンサンブル・ステレオでは音の良し悪しがわからないどころか、その頃には片チャンネルからバリバリとノイズが出るなどして、瀕死の状態だったように思う。大学に入ったら自分用のコンポーネント・ステレオを揃え、姉が結婚して家を出てから使えるようになった2階北側の和室で聴くのが目標となった。そして1978年。一浪してなんとか大学に入り、自室用のアンプとプレーヤーをようやく用意できることとなった。選んだプリメイン・アンプはサンスイのAU-607(初代)、レコード・プレーヤーはビクターのクオーツロック式のQL-5(カートリッジはZ-1EBが付属)。

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※画像はネットから

カセット・デッキはとりあえずTC-2600をそのまま使用。チューナーは買わなかった。そして問題がスピーカーで、とりあえず使い物にならなくなったアンサンブル・ステレオを2階に持って上がり、スピーカー部をそのまま繋げた。無謀にも平面バッフルを試そうとしてアンサンブル・ステレオの筐体をばらし、部屋の長押(なげし)の上に45度の状態で置いてみたら、低音がまったく出なくて苦笑する場面もあった。ということで、ほどなくしてJBLのL40を購入、ようやくまともなシステムとなった。

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※画像はネットから

TC-2600には世話になったが、デッキも本格的なものにしようと、1980年頃にサンスイのSC-55を買った。これはカセットホルダーがなくテープを直接メカニズム部に装着する「ダイレクトマチック方式」のデッキだったが、テープによっては回転精度に支障をきたし、使いづらかった記憶の方が大きい。

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※画像はネットから

その後、はっきり覚えてはいないがカートリッジをオーディオテクニカのAT-ML150/OCCあたりに換えていたようだ。

1981年。横浜の鶴屋町にあった松本印刷の2階に松本社長が開いた「レコピア」という貸レコード店でバイトを始めた。三鷹に初の貸レコード店として黎紅堂がオープンしたのが1980年というから、まだ貸レコード店の黎明期の話だ。そこで使われていたのは、確かアンプがビクター、プレーヤーがテクニクス(SL-1200シリーズではない)だった。壁に掛けてあったスピーカーについては覚えていない。私は雇われ店長のような形で、仕入れから会報作りまで手掛けた。そのうちに社長がもう飽きたからやめるというので、中古レコード店にしたらどうですかと言ったところ、じゃあお前がやれというので、レンタルに使っていたレコードを買い取って商品として流用する形で、中古レコード店「レコピア」を開業した。1982年のことである。結局色々な事情で店は2年も続かなかったが、ラテン音楽好きのお客さんから買い取ったレコードの中にアストル・ピアソラの『レクエルド』(タンゴの歴史 第2集)やピアソラを含むオムニバス『われらのタンゴ』があり、それを聴いたことが、その後の私の人生を変えたのだった。

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使用済みとなった店のオーディオは、父親が引き取って事務所に置いた。父は会社を定年となるタイミングで資格を取り、かつてアンサンブル・ステレオが置かれていた10畳の応接間を事務所として使っていたのである。

1985年頃には、アンプをオンキョーのIntegra A-817RXに換えている。理由は覚えていないが、AU-607のフォノ・イコライザーがMM専用だったので、MCカートリッジも聴けるようにしたかったのかも知れない。そして1986年2月2日、ついにCDプレーヤーの登場となる。恐らく当時話題になっていたマランツのCD-34も候補だったはずだが、選んだのはパイオニアのPD-7010である。その日買った最初のCDは、ミルバ&アストル・ピアソラ"Live at the Bouffes du Nord"、スティーリー・ダンの"A Decade of Steely Dan"、ティアーズ・フォー・フィアーズの"The Hurting"の3枚だった。

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その後最初のMCカートリッジとしてオーディオテクニカのAT33ML/OCCを導入した。

1987年5月から1988年5月まではブエノスアイレスに滞在した。向こうで使うために確かアイワの海外仕様のラジカセを買い、日本語の歌を聴きたくなった時のために、斉藤由貴の『チャイム』などをカセットに入れて持って行ったのを覚えている。当時向こうの中古レコード店は宝の山で、大量のレコードを買うことになり、隣人から使っていないポータブルのプレーヤーを借りて聴いたりもした。ブエノスアイレスではSPレコードもかなり買い、蚤の市で買った小型の蓄音機共々持ち帰ったが(割とすぐに壊れた)、気軽に聴けるように、コロムビアのポータブル・レコード・プレーヤー、2190RMを購入した。

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※画像はネットから

1989年3月10日に家を出て東京都世田谷区へ引っ越し。そのタイミングでだったかどうかは覚えていないが、スピーカーをソニーのラ・ヴォーチェSS-A5に換えた。SP盤は2190RMでも聴くには聴けたが、ちゃんとオーディオで再生したいと思い、1989年12月18日、3スピードのベルトドライブ・プレーヤー、C.E.C.のST930Sを購入。実に30余年後の今も元気で稼働中の、私にとってなくてはならない大切なプレーヤーだ。

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カートリッジはAT33ML/OCCともサイズの合うオーディオテクニカのAT-MONO3/SP(SP盤用)、その後AT-MONO3/LP(モノラル盤用)を用意した。

1990年6月16日には世田谷区から川崎市多摩区へ引っ越した。その頃、カセット・デッキがA&DのGX-Z7100EVに換わっている。1991年頃にはデノンのカートリッジ、DL-103GLを買っていたが、何故買ったのかまったく覚えておらず、ほとんど使わないまま10年後に処分するはめになった。1993年頃、DATウォークマンのソニーTCD-D7を購入したが、これは1995年8月と1997年9月に取材のためにブエノスアイレスに行った際にも活用した。1994年頃、CDプレーヤーがマランツのCD-16に置き換わり、1997年頃にはメインのカートリッジが同じオーディオテクニカのAT33PTGとなった。1998年4月、青土社から『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』を上梓。執筆や編集で酷使したそれまでのパソコン(NECの98MULTi CanBe、型番は不明)からコンパックのWindows98パソコン、Presario 2240に買い替え、波形編集ソフトのWabeLabとISAバス用サウンドボード、CreamwareのMMportのセットを購入。アナログ音源のパソコンへの取り込み・編集や、パソコン内音源のオーディオへの送り出しが可能となった。録音はパソコンで行うようになり、DATやカセット・デッキは基本的に再生専用となった。1998年頃にはアンプが同じオンキョーのIntegra A-929に換わっているが、状況は覚えていない。

1999年に入る頃、癌を患っていた父親が倒れた。母親の面倒もみる必要もあり、川崎と鎌倉の実家を行き来するようになる。入院した父は4月に亡くなり、私は最終的に7月10日に実家に戻った(母はその後施設に入る)。古くなっていた家を改修し、窓を木枠からサッシに替えた。かつてアンサンブル・ステレオが置かれ、その後父が事務所として使っていた10畳の応接間を、オーディオ・ルーム兼仕事部屋として使わせてもらうことにして、壁一面にはTOSKAのLB1000シリーズという組立家具でレコード棚を、その対角にはCD棚を組み上げた。

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この画像は、オーディオシステムを撮った一番古い写真だ。スピーカーはソニーのSS-A5、ラックの左側下段がオンキョーA-929、その上はアイワの全世界対応のVHSテープ・デッキHV-MX100(今回はAV機器の変遷には触れなかった)、右側は下からマランツCD-16、真ん中の黒いのがA&DのGX-Z7100EV、その上の薄いのはどこからか貰ったチューナーで、ほとんど使わなかったしメーカーも覚えていない。スピーカーの間にある黒いのはケンウッドのレーザーディスク・プレーヤー。

1999年9月、スピーカーを新しくした。雑誌『オーディオ・アクセサリー』で紹介されていた、当時日本ではまだ無名だったイギリスのメーカー、モニター・オーディオのブックシェルフである702PMCが気になって、数少ない取扱店のひとつだった関内の横浜サウンドに試聴しに行ってみたら、その音離れのよさが気に入ってしまったのだ。

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これは702PMCの導入直後の写真。そして702PMCの導入以降、そのポテンシャルを引き出そうと、怒涛の買い替えモードに入ることになる。まず、CDプレーヤーをティアックのVRDS-25XSにした。DATウォークマンの調子が悪かったため、デッキとしてDTC-ZE700を購入。

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バキューム式レコード・クリーナーにVPIのHW16.5を導入(これは今もしっかり現役)。ラックをクアドラスパイアにした。次にMC専用フォノ・イコライザーとしてリンのLINTOを用意、プリメイン・アンプを逸品館の小型・別電源式のAirbow LITTLE PLANETにしてハイスピード化を狙った。モノラル盤やSP用のフォノ・イコライザーとして、カーブ可変型のサウンドボックス Mozart Phonoを導入。それに合わせてSP再生を極めようと、ソノヴォックスのバリレラ型、MC-4を入手(針を換えればモノラルLPも再生可能)。ついでにデノンのDL-102SDの中古まで買っているが、これはほとんど使わなかった。

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LITTLE PLANET(右側の下から3段目左が本体、左側の下から2段目右が電源部)が写っている唯一の写真。この後ステレオ・カートリッジがベンツマイクロのREFERENCEとなった。2000年2月までに一気にここまで進んだ後、ステレオ盤とモノラル盤、SPを掛け換える度にフォノケーブルを繋ぎ直すのが面倒になったため、5月に2台目のプレーヤーとしてノッティンガムのTHE SPACEDECKまで購入、ステレオ用とモノラル用のアナログ2台体制とした。6月にはモノラル盤用にオルトフォンのSPU Mono-Gの中古を手に入れた(これはMozart Phonoとの相性が良かった)。SP再生時のスクラッチノイズ軽減のためにマランツのグラフィック・イコライザーEQ-580も買ったが、これは結局なくても支障はなかった(最終的に2020年12月に売却)。LITTLE PLANETは音が平板に感じるようになり、入力端子が少なくケーブルの繋ぎ換えもまた面倒になったところで、ゴールドムンドのMIMESIS SR(プリメイン)の中古を9月にオーディオ・ユニオンで見つけて購入。11月には702PMCのために超弩級のスピーカースタンド、京都のガレージメーカーIronAAの弁慶を設置。12月にはGX-Z7100EXが故障してしまったため、パイオニアのT-D7を購入。ケーブルや電源への投資を含め、今思えばこの時期が、システムが一番贅沢だった。

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2001年2月に結婚し、翌年には子供も誕生、オーディオへの投資はひとまず打ち止めとなった。さすがにREFERENCEが分不相応に思えてきて、2002年3月にはメインのカートリッジをリーズナブルなオーディオテクニカのAT-ART200に変更。SPU Mono-Gもそのうちに針先を飛ばしてしまい、しまってあったAT-MONO3/LPが復活した。2006年9月、パソコンをNECのValueOne MT600/4D3W(Windows XP)に買い替え。もはや時代遅れのISAスロットはなくPCIスロットのみで、Presario 2240に挿していたMMportは使えなくなってしまった。そのパソコンとボードを処分したのは、さていつのことだったか。

時は流れ2011年5月、レコード・プレーヤーの2台使いも贅沢と感じられるようになり、資金繰りの必要もあってTHE SPACEDECKは売却。一方でパソコンと繋ぐオーディオ・インターフェイスとしてRMEのBabyfaceを導入、MIMESIS SRのテープ入出力端子に繋いで、録音や再生を受け持つパソコンとの連携が復活した。9月にはパソコンをPCワンズというショップのBTOパソコン(Micro gear A3850/H)に買い替え。このパソコンは、その後SSD、ハードディスク、ブルーレイドライブをそれぞれ換装し、Windows 7から10にアップデートしたものの、現在もしっかり使えている。

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2012年2月、メインのカートリッジがテクニカのAT33PTG/IIとなる。後は2014年8月にモノラル・カートリッジを同じテクニカのAT33MONOにした程度で、同じ機器を大切に使い続ける日々が続いた。VRDS-25XSは2016年9月に不調となり、6万円かけて修理したが、結局2019年末までには再びエラー頻発となり処分。CDはパソコンで再生することにしたが、特に不満はなかった。DATデッキはしばらくぶりに使おうとしたら作動せず、2020年5月に処分。

2019年4月に関内のディスク・ユニオンのセールで『内山田洋とクール・ファイブ・ゴールデン・ヒット・デラックス16』を140円で買って衝撃を受けたことが、次の動きへの大きなきっかけとなった。彼らのレコードを集めるうち、8トラック・カートリッジ・オンリーの音源があることが発覚、入手したその『クールファイブ デラックス』を再生すべく、ソニー初のホーム・オーディオ用8トラック・カートリッジ再生専用機として1968年9月に発売された「カートリッジ プレーヤー8」TC-6をヤフオクで500円で落札した。2020年5月12日に到着、インジケーターがひとつ切れていてジャンク品扱いだったが、ヘッドのクリーニングが必要だったことを除けば、何の問題もなく使用できている。詳しくは「8トラック・カートリッジ・プレーヤー導入とカートリッジ・テープ修復の巻」を参照されたい。

そしてクール・ファイブのCD-4(ディスクリート4チャンネル)盤が増えたことで、知人の勧めもあり4チャンネル・ステレオの再生環境を構築していくことになった。ただし往時の4chアンプや現代の5.1chのAVアンプは使わず、従来のステレオ・システムにリア部を組み込む形での導入である。そこからの経緯は「CD-4を中心とした4チャンネル・レコードの再生」「新たな機材の導入でノイズのないディスクリート4チャンネル・レコードの再生が実現」「アストル・ピアソラ・コレクション紹介/ディスクリート4チャンネル再生のその後」「オーディオテクニカVM750SH ―CD-4再生用カートリッジとしての理想―」で紹介してきたが、かいつまんでまとめると次のようになる。まず2020年10月20日、リア再生用にメルカリで購入したタスカムのパワード・モニター・スピーカー、VL-S3が到着。

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Babyfaceのヘッドホン端子からリア・チャンネル分の音声が取り出せるので、パソコンでのマルチチャンネル音源(DVDやブルーレイなどの5.1ch音声をミキサーで4.0chにダウンミックスしたものや、SQ盤などのマトリクス音源のWAVファイルやMP3ファイルをデコード・ソフトで4ch化したもの)の再生が可能となった。

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当時のスピーカーの置き方はこんな感じだ。ビクターのMM型カートリッジMD-1016の中古とシバタ針のJICO 30-1Xの新品を用意し、10月29日にメンテナンス済みのビクターのディスク・ディモジュレーターCD4-30を、調整を施したAさんの事務所に引き取りに行った。

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LINTOの上がCD4-30。かくしてCD-4盤の再生環境は整ったが、MD-1016と30-1Xの組み合わせではCD-4盤特有の嫌なノイズが出やすかった。

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2021年2月14日、生産終了による在庫処分で安くなっていたオルトフォンの高出力MCカートリッジMC-3 Turboを入手し、ノイズ問題は解消に向かった。

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CD4-30はMM型フォノイコライザーとしての性能も優れていたからLINTOは手放し、MCカートリッジのAT33PTG/IIやAT33MONOをCD4-30でも聴けるようMC昇圧トランスとしてフェイズテックのT-3の中古を入手してみた(3月9日到着)。

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AT33PTG/IIはマイクロリニア針だからCD-4盤の再生もできるはずだったが、T-3を経由したCD4-30での4ch再生ではノイズが乗りやすかった。そんな折、CD4-30の上位機種であるCD4-10の改造機(中身を、耐ノイズ性能に優れた第3世代ディモジュレーター用ICチップを搭載した基板に換装したもの)をAさんから譲って貰えることになった。それは3月22日に到着し、ノイズの除去性能の高さを確認したが、T-3経由でのMCカートリッジの使用はやはり厳しかった。昇圧トランスがだめならMCヘッド・アンプはどうだろうと思い、ヤフオクで売られていたマーク・レビンソンJC-1DC(1974年発売)の回路をベースにしたという電池駆動式の自作ヘッド・アンプを入手。

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最初はいいように思えたが、結局CD-4盤の再生に関していえば、セパレーション調整がうまくできなかったり、正しく定位しないなどの問題が見つかり、トランス経由であれヘッドアンプ経由であれ、MCカートリッジによる4ch再生は実用的ではないという結論に達した。ということでMCカートリッジもトランスもヘッド・アンプも処分することにして、9月24日にテクニカのVM型(MM型と実質的に同じ)であるシバタ針のVM750SH(ステレオおよびCD-4用)と接合丸針のVM610MONO(モノラル用)を導入、これが大正解だった。

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ここまできて、簡易的に導入したリア・チャンネル用のVL-S3が非力となってきたので、リア用のアンプとして小型デジタル・プリメインのフライング・モールCA-S3を、スピーカーとしてモニター・オーディオのBronze BR1(2006年発売)をそれぞれ中古で調達。11月8日に揃い、格段にバランスが良くなった。

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12月18日、ユニバーサル・プレーヤーとして2004年製でアナログマルチ出力のあるオンキョーのDV-SP155を中古で入手。マルチチャンネルを含むSACDやdts-CDの再生が可能になった。

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これは現在のセッティングで、上が8トラック・カートリッジ・プレーヤーTC-6、その左はST930Sの電源部、下は左がCA-S3、右がDV-SP155。

2022年1月27日、調べ物をしていて意外な事実が判明した。オーディオテクニカのAT-MONO3/SPは、SP用であるにも関わらず、SP用のイコライザーカーブよりもRIAAでバランスよく聴けるように設計されているとテクニカの社員から聞いたという、複数の方からの証言に辿り着いたのである。なぜメーカーがそんな大事なことを公表しないのか謎だが、実際にCD4-10改で聴いてみたら、確かにバランスが良かった。道理でAT-MONO3/SPのMozart  PhonoでのSPカーブによる再生がイマイチだったはずだ。高出力とはいえMCだからか、とも思っていたがそういうことではなかった。Mozart PhonoはSP用として使えるだけでなく、RIAAに統一される前(1955年以前)の初期盤LPにも対応していたが(もともと機種的にはそちらがメイン)、そもそも手持ちの初期盤はごくわずか。カーブ切り替えの効果もそれほど感じていなかったので、こちらも処分することに。フォノ・ケーブルの繋ぎ換えも必要なくなってすっきりした。詳しくは「割れたSPレコードの修復、オーディオテクニカAT-MONO3/SPによるRIAAカーヴでの快適なSP再生」を参照されたい。バリレラ型のMC-4にも思い入れはあったが、これも結局処分した。

さて、ここまで書かなかったことだが、実はメイン(フロント)のシステムには以前から不満があった。いつの頃からかもうはっきりとわからないが、低域が弱いと感じるようになっていたのである。といって買い換える予算もなく、気にしないようにしていた。原因は年数の経ったMIMESIS SRかなと思ったりもしていた。それに対しCA-S3とBR1の組み合わせは、元気がいいばかりでなく、スピーカーも小さいのに低域が出過ぎるぐらいバンバン出てきて過剰なほど。4chで聴いても、通常の2chの音源を前後で鳴らしても、低域はグッとリアに寄り、フロントから低域がきちんと出ていないことが明白になってきた。それでもだましだまし聴いていたが、それも限界となり、もうMIMESIS SRは処分して(それでもある程度の金額では売れるだろうから)、その金額で別のアンプでも買おうか、と考えたのが8月26日のこと。とりあえずMIMESIS SRを外して繋ぎ換えようとしてBR1を702PMCの上に乗せ、ふとアンプからのケーブルを繋ぎ換えてみたところ、予想もしなかったことが起きた。

MIMESIS SR → Silver Oval(ケーブル)→ Bronze BR1…低域がちゃんと出る!

CA-S3 → Crosslink 1S(ケーブル)→ 702PMC…低域が出過ぎない!

というわけで、本などの詰まったラックの上にチョコンと乗せた小さなBR1がフロント(メイン)のスピーカーに、ごっついスタンドに乗った大き目の702PMCがリア(サラウンド)のスピーカーに、という普通ならありえないだろう形になった(CA-S3は入力1系統なので、CD4-10から、DV-SP155から、Babyfaceからのそれぞれのリア分のケーブルをその都度差し替えていて、いろいろ繋ぐ必要のあるメインには使えない)。それに伴い、スピーカーに囲まれたセンターに置かれた事務机を180度回転させたところ、ケーブルの引き回しや座る位置からの操作性など、いろいろ都合のいいことも多かった(詳しくは次のイラスト参照)。

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こちらがリアからフロントになったBronze BR1。

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リア・スピーカーとなった702PMC。これで前後のスピーカーの低域を含む全体の質は、厳密に言えばまったく同じということはないがかなり揃ったし、4chのイメージも定位もきちんと取れるようになった。なんでこんな風になったのかさっぱりわからないというのが正直なところだが、原因はMIMESIS SRではなく702PMCの方にあったと考えるのが自然だろうか。それにしても、当初はリア用に気軽に買ったBronze BR1が予想以上に頑張ってくれているのはうれしい誤算だった。通常のステレオ再生でも、超低域までは出ていないにしても必要な低域はしっかり出してくれるし、部屋のレイアウトや使い勝手からも、この大きさがちょうどいい。高域にピークが感じられ、ソースによってはちょっとキツイものもあるので、その解消が今後の課題ではある。

ということで、シンプルになってきた今のシステムを改めて書いておこう。

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レコード・プレーヤー:C.E.C. ST930S
ステレオ/4ch用カートリッジ:audio-technica VM750SH
モノラル用カートリッジ:audio-technica VM610MONO
SP盤用カートリッジ:audio-technica AT-MONO3/SP
ディスク・ディモジュレーター/フォノ・イコライザー:Victor CD4-10改
ユニバーサル・プレーヤー:Onkyo DV-SP155
プリメイン・アンプ(フロント用):Goldmund MIMESIS SR
プリメイン・アンプ(リア用):Flying Mole CA-S3
スピーカー(フロント用):Monitor Audio Bronze BR1
スピーカー(リア用):Monitor Audio 702PMC
カセット・デッキ:Pioneer T-D7
8トラック・カートリッジ・プレーヤー:Sony TC-6
オーディオ・インターフェイス:RME Babyface

2022年7月 4日 (月)

ピアソラ没後30周年、『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』改訂版のお知らせ

今日は2022年7月4日。アストル・ピアソラが亡くなってちょうど30年経った記念の日に、改めてお知らせしたいことがある。実は生誕101周年を迎えた3月11日にはFacebookやTwitterで告知済みだったのだが、1998年4月に上梓した『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』の改訂版を、同じ青土社から出版できることになった。

今改めて3月11日のFacebookへの書き込みを読み返すと、「没後30周年にあたる7月4日の刊行を目指し」などと書いているが、作業を始めてすぐ、とても間に合わないことが判明。年内に何とか出せるようにと、スケジュールを改めたほどだ。なにせ、巻末の資料作りにもう4か月も費やしていて、まだ終わらない。

巻末資料の中心がディスコグラフィーであること自体は変わらないが、細かい情報のアップデートだけでなく、内容はずいぶん変えてある。1998年当時は、まだ巷に様々なCDがあふれていた時代で、タイトル違いやジャケット違いで同じ内容のものが大量に出ていて、購買者の混乱を招いていた。そんなこともあり、海外盤、再発盤、編集盤など集められるだけの様々な種類のLPやCDを基本的にジャケット写真付きで掲載していた。だが、今回の改訂版ではそれらの情報はほぼ削った。情報はオリジナル盤(すべてジャケットまたはレーベルの写真付き)および近年のリイシューCDなどに絞り込んだが、その代わり、これは近年の一部音楽書籍にみられる傾向ではあるが、Spotifyなどサブスクリプションで聴ける音源にリンクするQRコードを掲載した。これが改訂版の大きな特徴となるだろう。なにせ、サブスクの方こそピアソラに関しては混乱状態で、他の演奏家によるものが幅を利かせ、本人の演奏に辿り着けないものも数多いのだ。また、CDの形では出ていないが配信のみで聴けるものも、数は極めて少ないが掲載してある(下に画像を載せたミルヴァとのライヴ録音もその一つ)。

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初版のディスコグラフィーの付録3「ピアソラ自身が録音しなかったピアソラ作品一覧」は極めて簡単なリストだったが、ここに載せられていた多くの曲目が、この20年余りの間に新たに取り上げられるようになっていることもあり、リスト自体も前回の4ページから今回は8ページへと広がった。そして新たに、それらの曲目の初演もしくは重要な録音(当然ジャンルも多岐にわたる)を100点近くジャケット写真付きで紹介するページを作った。こちらは、特に最近のものは配信のみのものも多い。正直に言って、これは世界にも例がない画期的なページになっていると思う。ここまでは一応完成している。

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そして、現在作成中なのが、フィルモグラフィー。ピアソラが音楽を担当した映画は全部で40タイトル弱だが、実はこれらのほぼすべてが、現在ではYouTubeや有料配信サイト、DVDなどのいずれかで観ることができるようになっていたのも驚きだった(今現在、視聴する手段が皆無なのは、1963年の"La fin del mundo"という一作品のみである)。というわけで、そのすべてを複数回観て(早口のスペイン語の聞き取り能力はほぼ皆無なので、YouTubeの自動翻訳機能などに頼りながら)、文章化するという作業を延々と続けているのである。

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初版からの訂正すべき点はそれこそ大量にあるが、タイトルの訳し方などもそうだ。例えばホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編の映画化である"A intrusa"(ブラジル映画なのでこれはポルトガル語。スペイン語では"La intrusa")。私は単純に「侵入者」と訳してしまっていたが、この短編が掲載された『ブロディーの報告書』(鼓直訳、白水社/岩波文庫)では「じゃま者」となっているではないか(上の画像のように修正)。こうした調査不足も、今回はできるだけ補っていかなければと考えている。まだまだ先は長い。

2022年2月11日 (金)

割れたSPレコードの修復、オーディオテクニカAT-MONO3/SPによるRIAAカーヴでの快適なSP再生

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昨年(2021年)11月の初め、某タンゴ・コレクターが手放したSPレコードおよそ3,000枚の大整理大会が某所で行われ、某有名タンゴ関係者2名と共に作業にあたった。私はそこから100枚ちょっとを選び出して引き取らせていただいたのだが、その自宅での整理が1月の終わりにようやく終了。

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すべてデータベースに入力し、すべてを最低1回は聴き、従来の手持ちと合わせたすべて(430枚ほど)に管理番号を付けて演奏者別・録音またはリリース順に並べ、ケース21箱にピッタリ収めた。データベースをみれば、何がどの箱に入っているか一目瞭然。

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という作業の終盤で、遠くに手を伸ばして無造作に持ち上げようとした1枚が、パリンと割れてしまった。しかもレーベルを確認すると、アニバル・トロイロ楽団の「勝利 (Triunfal)」(ピアソラ作編曲)ではないか。よりによって貴重な1枚を…。

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しかし、奇麗に割れてくれたので、後日修復作業を敢行。

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アロンアルファでの接着作業は無事に終わり、裏にはみ出して表面にこびりついた接着剤を削り取り(下の画像の白くなっている部分)、針飛びする部分もカッターまで使って修復。スクラッチノイズは出るものの、無事に再生できた。

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ところで、今回入手した100枚以上のSP盤の中には、反っているものもかなりあった。SP再生用のカートリッジにはSonovoxのMC-4というバリレラ型のものをメインで使っていたが、カンチレバーがほぼフラットなので反った盤だとカートリッジのボディの腹の部分で盤をこすってしまう(画像に写っている盤は反っていないが)。

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ということで、普段使っていなかったaudio-technicaの高出力MCカートリッジAT-MONO3/SPに替えてみた。再生は安定するが、高域の音が強めに感じた(理由は後述)。

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オーディオテクニカと言えば、昨年9月に入手して前回(もう4か月前になってしまった)紹介した、大当たりのVM型ステレオ・カートリッジVM750SHと一緒に、モノラルのVM610MONO(針はVMN10CB)も買っていたが、これは針をVMN70SPに替えることで、SP用のモノラル・カートリッジVM670SPと同等になる。

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この交換針は未入手だが果たしてどんな感じなのだろうか、同じテクニカで価格帯がほぼ一緒のMC型とVM型というこの2つのSP用カートリッジを誰か比較していないものかと思い、ネットを検索してみたが、まったくヒットせず。

ところが、検索中に思いもかけずAT-MONO3/SPについての貴重な情報に辿り着いた。このカートリッジはSP用であるにもかかわらず、SP用のイコライザーカーヴよりもむしろ、RIAAカーヴでの再生に適応しているというのである!

最初にみつけたのは、現5ちゃんねるの掲示板「[78rpm]SPレコードの電気的再生方法[65μ]」にあった甘木さんという方(この方の使っているプレーヤーも私同様CECのST930だという)の2006年4月の書き込み。ここの752がそう(これに関するやりとりは765あたりまで続いている)。該当箇所を以下に抜粋しておく。

イコライザーはRIAAで聴いてみたのですが
同じ演奏の復刻CDと比べて違和感を感じる事も無く、
素晴らしかったです。そのため今もMONO3/SPを使っています。

でもRIAAで使えるのが不思議だったのでテクニカに問い合わせて
みたところ、設計者の方から「あれはRIAAでSPを聴けるように
設計したカートリッジです」というお返事をいただきました。

だったら、何故それを売りにしないのか?とも思いますが
RIAAのイコライザーがそのまま使えるので、便利だと思います。

ウチではMC-4と組み合わせるSP対応のフォノイコライザーアンプ(モノラル)として、Sound BoxのMozart Phonoをちょうど22年間使用してきた。モノラルLP/EP用に6つのイコライザーポジションを備えたベーシックモデルに対し、私がオーダーしたのはAESとNABを78 USAと78 EU(米国系と欧州系のSP用)に置き換えたSPイコライザー搭載モデルだった。

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ポジション毎のターンオーヴァー(低域増幅周波数)とロールオフ(高域減衰周波数)は以下の通りとなる。

COLUMBIA 750Hz / 1590Hz
RCA  800Hz / 3000Hz
LONDON (ffrr) 500Hz / 3000Hz
RIAA 500Hz / 2120Hz
78 USA 500Hz / -
78 EU 250Hz / -

SP用に使われてきたカーヴも厳密にはいろんなパターンがあり、ロールオフもフラットとは限らないが、搭載されていたのは上記の2パターン。最近のイコライザーカーヴ可変フォノイコは、ターンオーヴァーとロールオフ(周波数よりもデシベル刻みのものが多い)をそれぞれ切り替えて数多くの組み合わせパターンを作れるものが主流となっているが、Mozart Phonoを入手した当時は、そのようなものは見当たらなかったように思う(存在を知らなかっただけかも知れないが)。

それはともかく、AT-MONO3/SPで聴く場合でも、当然のように78 USAポジションを選んでいたわけで、なんとなくバランスが悪いからRIAAで聴いてみよう、などという発想は浮かびもしないまま、あまり使わずに来てしまったのである。そんなわけで先の書き込みを目にして慌てて試してみたら、なるほど確かにRIAAで聴くとしっくりくるではないか。MC-4を78 USAポジションで聴いた時と、AT-MONO3/SPをRIAAで聴いた時とで、同じようなバランスになる。今まで感じていた違和感が払拭され、今更ながらようやくこのカートリッジの真価が理解できた感じだが、それにしてもどうしてこんな重要なことが今まで知られていなかったのか。もちろん取扱説明書にもカタログにもそんなことは一切書かれていない。

そう思って更に検索すると、「黄金のアンコールの音楽とオーディオの部屋」というブログの2016年8月の「Technics SL1200GAE」という記事に辿り着いた。ここで黄金のアンコール氏は

AudioTechnica AT-MONO3/SPは、通常のRIAAフォノイコライザを通すと普通にSP盤がバランス良く再生出来るような仕様になっているので、RIAAカーブと異なるSP用のイコライザは要らない。そうやって再生されたSP盤の中には、聴き慣れた蓄音機再生よりも電気再生の方が良いじゃないか、と思わせるものも多々ある。

と書く。その根拠は?と思い、掲示板で質問したところ、「オーディオ・テクニカの社員の方から聞きました」との回答が得られた。情報源は5ちゃんねるの甘木氏と同じである。

発言の裏付けは取れたが、公表されていない謎は深まるばかり。そして、そのように調整されたAT-MONO3/SPに対して、LP用のVM610MONOとは本体が同じで針が異なるだけのVM670SPは、RIAAでの再生には特に対応していないと考えるのが自然だろう、という一応の結論に達した。

それはともかく、AT-MONO3/SPがRIAAで聴けるということは、使い勝手が格段に良くなることを意味する。これまでSPを聴く際には、普段は ST930からディモジュレーター兼フォノイコライザーのVictor CD4-10改に繋いでいるフォノケーブルとアースを、いちいちMozart Phonoに繋ぎ換える必要があった。また、MC-4は針圧15gなのでトーンアームのウエイトを軽いものに取り替える必要があったが、AT-MONO3/SPの針圧は標準5g(3gから7gまでが適正値内)で、他のテクニカのカートリッジ用と同じウエイトのままで6gまで掛けられる。

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そしてこれも重要なことだが、Mozart PhonoのRIAAポジションよりも、CD4-10改に繋いだ方が音がよかったのである(以前も書いたが、これはモノラル盤をVM610MONOで聴いた時も同様)。実を言うと、モノラル初期盤LP再生時のColumbiaカーヴ等へのポジション切り替えの効果も、耳のせいか機械のせいかよくわからないがあまり感じられず、ということで22年間世話になったMozart Phonoはシステムから外した(早速ヤフオクに出したら、意外と高く売れてしまった)。

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MC-4はSP用としては当面の間本来の音では聴けなくなるが、針をLP用(1milと0.7milの2種類ある)に替えれば、それはそれで使える。

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ST930からのケーブルは、もうCD4-10改に繋ぎっぱなしでいい。ウエイトも替えなくていい。

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カートリッジというかヘッドシェルをパッと付け替えて針圧さえ調整すれば、SPを聴いたりモノラル盤を聴いたりステレオ盤やCD-4盤を聴いたり、ストレスなく移行できる。

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いや、この効果は実に大きい。細かく突き詰めるのも時に大事だろうが、手軽に聴けることの大切さを実感している。

2021年10月13日 (水)

オーディオテクニカVM750SH ―CD-4再生用カートリッジとしての理想―

9月24日に新しいカートリッジ、オーディオテクニカのVM750SHがやってきて、それ以来愛聴盤を聴き直しては新たに感動するという日々を過ごしている。これは無垢シバタ針を備えたVM型(扱いはMM型と同じ)の上位機種だが、ディスクリート4チャンネル(CD-4)の再生においても、通常の2チャンネルステレオの再生においても、最高のパフォーマンスぶりを示してくれている。

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CD-4の再生については、これまで2月23日の「CD-4を中心とした4チャンネル・レコードの再生」、4月15日の「新たな機材の導入でノイズのないディスクリート4チャンネル・レコードの再生が実現」、9月19日の「アストル・ピアソラ・コレクション紹介/ディスクリート4チャンネル再生のその後」という3つの記事で紹介してきたが、実は2月23日の記事の最後の方で

現行のMMカートリッジの中では、オルトフォンの2M Bronze(無垢ファインライン針、20Hz~29kHz)、オーディオテクニカのVM750SH(無垢シバタ針、20Hz~27kHz)あたりがCD-4の再生に対応できそうだ。テクニカはMCカートリッジのAT33シリーズをずっとメインで使ってきたので、VM750SHもいつかは試してみたいものだが、当面はMC-3 Turboをじっくりと味わっていきたい。

と書いていた。このVM750SHは、時々お邪魔しているanalog BeatのJDさんも評価されるなど(該当記事はこちらこちら)音質面でとりわけ評判のいい機種だが、実際にCD-4の再生を試した実例はネット上にはなく(その後海外のフォーラムで一人これを推奨しているユーザーを発見)、果たしてCD-4の再生に威力を発揮してくれるか、一抹の不安はあった。もっとも、海外のQuadマニアの間では、テクニカのこれよりランクの下の機種のさらに旧タイプであるAT440MLb(シバタ針ではなくマイクロリニア針)というのが、ヴィンテージではない今のカートリッジの中でCD-4再生の定番となっているとのことなので、大丈夫だろうと思いつつ購入したわけである。そして購入を決断したのにはもうひとつ理由があった。2月の購入以来気に入って使っていた高出力MCカートリッジのortofon MC-3 Turboではあったが、内周近くでキャリア信号を読み切れずインジケーターが付いたり消えたりする盤が複数出てきたり、内周近くで歪みやすいのが気になり出していたのである。

そしてVM750SHを実際に聴いてビックリ。現在新品として入手できるカートリッジ(そもそもCD-4再生を謳った機種は皆無)としてはこれこそが最強と判断できるほどの能力の高さを瞬時に示してくれたのである。スペック上の再生周波数は上が27KHzだが、30KHzのキャリア信号を難なく読み取れることもあるのだろう、音の粒立ちがしっかりして定位の明確さが際立ち、歪みが少なく、情報量が多く、音楽を実に生き生きと表現してくれる。比べてしまうとMC-3 Turboは、ノイズ耐性は高いものの、残念ながらここまでの次元には達していなかった。

そしてこれはCD-4だけでなく、通常の2チャンネル再生にも言えることだった。単に音が良いだけでなく、コンディションの悪い盤、プレスに問題がありそうな盤をいかにまともに再生してくれるかというのを重要視しながら、この10年近く、同じテクニカのMC型AT33PTG/II(マイクロリニア針)とMC専用フォノイコライザーLINN LINTOの組み合わせをリファレンスにしてきたが、その組み合わせでもついぞ聴けなかった音が軽々と出てきたのには驚いた。歪みに強く、ノイズを抑え、必要な音は漏らさずきっちりと出してくるという、私が求める理想の姿がそこにはあった。もっともこれは、カートリッジ自体の性能だけでなく、シバタ針という針先の形状によるところも大きいかも知れないし、4月15日の記事で詳しく紹介したCD-4ディモジュレーター(兼フォノイコライザー)Victor CD4-10改造機との組み合わせも実にいい方向に作用しているようだ。

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実は今回同時に、同じシリーズのモノラルカートリッジVM610MONOも購入。これまで使っていたMC型AT33MONOの無垢丸針から接合丸針へとグレードダウンした形となったが、使い勝手などを考えてのこと。まだ十分には聴き込んでいないが、こちらもまったく問題なし。イコライザーカーヴ可変の管球式モノラル専用フォノイコライザーMozart Phonoよりも、RIAA固定だがCD4-10改(片チャンネルのみ使用)の方が、VM610MONOの持つ力はより明確に発揮されるようだ。

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昨年10月末の4チャンネル再生環境づくり開始からまもなく1年になるが、その間の変遷を表にすると次のようになる(AT33PTG/IIによるCD-4再生を目指しての、MC昇圧トランスやヘッドアンプの一時的な導入は省略)。

  カートリッジ ディモジュレーター
2020/10/29

Victor MD-1016+ JICO 30-1X


Victor CD4-30

2021/2/14

ortofon MC-3 Turbo

2021/3/22

Victor CD4-10改造機

2021/9/24

audio-technica VM750SH

ということで、VM750SHの導入でようやく一応の終着点に辿り着けた感じだ。しかも通常の2チャンネルステレオの再生環境まで進化したのだから、言うことはない。

2021年9月19日 (日)

アストル・ピアソラ・コレクション紹介/ディスクリート4チャンネル再生のその後

いろいろ書かねばならないことはあるのだが、クール・ファイブの連載だけでなく、なかなか思うように更新ができない。年とともに集中力がなくなってきているのも関係しているだろうか。ともあれ、最近のことを少しまとめておこう。

8月25日にはソニーから「アストル・ピアソラ・コレクション」全10タイトルが1枚1,400円というお買い得価格でリリースされ、選盤と解説(西村秀人さんと分担)を担当した。

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フランスのヴォーグ原盤が1枚、ミラン原盤が2枚、残り7枚がアルゼンチンRCA原盤。日本初紹介の音源はないが、ピアソラ史を彩る重要作が目白押しである。以下はその内容。

  • 『シンフォニア・デ・タンゴ』(SICP 6391)

1955年のパリ留学時、弦楽オーケストラ編成で録音した初のオリジナル・アルバム(10インチ)。オリジナル・モノラル・マスターを使用しての単独CDは世界初。

  • 『ピアソラ、ピアソラを弾く』(SICP 6385)

1960年に結成されたキンテート(五重奏団)による初のアルバム。「アディオス・ノニーノ」の初録音収録。ヴァイオリンはシモン・バジュール。

  • 『ピアソラか否か?』(SICP 6386)

古典タンゴのシンプルなアレンジを中心にしたキンテートのセカンド・アルバム(リリースはこちらが先)。ヴァイオリンはエルビーノ・バルダーロ。ボーナス・トラックとして歌手ダニエル・リオロボスとの2曲、エクトル・デ・ローサスとの4曲も収録。

  • 『レジーナ劇場のアストル・ピアソラ1970』(SICP 6387)

アントニオ・アグリ(ヴァイオリン)、カチョ・ティラオ(ギター)などを擁した最強のキンテートによる歴史的ライヴ。《ブエノスアイレスの四季》全曲収録、ピアソラ史上最高傑作。ボーナス・トラックとして映画『魂と生命をもって』サントラ4曲収録。

  • 『五重奏のためのコンチェルト』(SICP 6388)

キンテート10周年を記念したタイトル曲ほかと、ピアソラの敬愛する音楽家/作品に捧げた貴重なバンドネオン・ソロ(1曲のみレオポルド・フェデリコらとの四重奏)の組み合わせによる名盤。ボーナス・トラックとしてバンドネオン多重録音1曲、師アニバル・トロイロとのバンドネオン・デュオ2曲収録。

  • 『ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第一集』(SICP 6389) 
  • 『ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第二集』(SICP 6390)

ピアソラ究極のアンサンブル、コンフント9(ヌエベ)による傑作2タイトル。ピアノは第一集(1971年12月録音)がオスバルド・マンシ、第二集(1972年7月録音)がオスバルド・タランティーノ。第二集にはボーナス・トラック3曲収録。

  • 『天使の死~オデオン劇場1973~』(SICP 6392)

コンフント9解散後の1973年、オスバルド・タランティーノを擁したキンテートが残した貴重かつ壮絶なライヴ音源(1997年にミランからCD化)。実はブエノスアイレスのオデオン劇場での録音ではなかった? 真相は解説に。

  • 『ピアソラ=ゴジェネチェ・ライヴ1982』(SICP 6393)

イタリアでのエレクトリック・ピアソラ期を経て再結成されたキンテートによる1982年のライヴ。唯一無二のタンゴ歌手、ロベルト・ゴジェネチェとの貴重な共演を含む。ボーナス・トラックとしてピアソラ=ゴジェネチェ1969年のスタジオ録音「ロコへのバラード」他3曲収録。

  • 『バンドネオン・シンフォニコ~アストル・ピアソラ・ラスト・コンサート』(SICP 6394)

パリで脳梗塞に倒れる1か月前、生涯最後のコンサートは奇跡的に録音されていた! ギリシャの名匠マノス・ハジダキス、アテネ・カラーズ・オーケストラとの共演によるシンフォニー。

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9月に入り、ジャンルは全く異なるが、かつて親しくさせていただいたお二方の訃報が舞い込んでしまった。まずは日本を代表する名タンゴ歌手で、レコード・プロデューサーでもあった阿保郁夫さん。両面で素晴らしい実績を遺されたが、私のピアソラに関する執筆や復刻を褒めてくださったのも懐かしい想い出だ。もう一人は、吉野大作&プロスティテュートなどのベーシストで、水すましというバンドでは実際にご一緒されていただいた高橋ヨーカイさん。一時死亡説が流れ、心配はしていたのだが、何とも寂しい。

さて、今日書かねばと思ったのは、4月15日にアップした「新たな機材の導入でノイズのないディスクリート4チャンネル・レコードの再生が実現」の続きである。最後の方で

MC-3 Turboは出力電圧3.3mVの高出力MCカートリッジだから、ディモジュレーターのMM入力端子に直接繋ぐのが適切な接続方法なのだろうが、いろいろ試していて、繋ぎ換えが面倒だったのでヘッドアンプを挟んだ状態のままで鳴らしてみたら、何とこれがベストだった。

と書いたが、これが正しいやり方ではなかったことに気付いたので、私のやり方を参考にしている方はよもやいらっしゃらないとは思うが、訂正しておく必要を感じたというわけだ。

シバタ針やラインコンタクト針を持ったカートリッジでディスクリート4チャンネル(CD-4)再生をする際は、カートリッジごとにCD-4ディモジュレーターのセパレーション調整をしなければならない。それはわかっていたのだが、MC-3 Turboをヘッドアップなしで直接接続した状態でセパレーション調整したまま、ヘッドアンプ経由で聴いていたのが問題だった。どうも前後のセパレーションが十分ではないような感じは受けていたのだが、8月の終わりに入手した”CD-4 Quadraphonic Experience” (WEA 228 008 (F))というドイツ盤オムニバスに含まれている、4か国語によるアナウンスなどを含むデモンストレーション・トラックを再生していて、定位がけっこうメチャクチャになっていたのに気付いた。

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早速セパレーション調整を行ったが、左右ともレベルをいっぱいまで下げても合わせ切らない感じになってしまった。30KHzのキャリア信号を拾って点灯するインジケーターも時々弱くなったり消えたりする。これはAT33PTG/II→ヘッドアンプでも同様だった。MCカートリッジをディモジュレーターのMM入力に入れる際にヘッドアンプや昇圧トランスを通すと、どうもキャリア信号の読み取りに支障が出やすいようだ。やはりCD-4再生にはMMカートリッジか高出力MCカートリッジということになるのか。ということで、MC-3 Turboからはヘッドアンプを通さず、直接CD4-10改造機に送ることにした。これでひとまず解決。

MC-3 Turboと「CD4-392」ICチップを搭載したCD4-10改造機の組み合わせにしてから、CD-4盤特有のノイズに悩まされることはほぼなくなったが、それでも針先や盤の汚れにはすこぶる敏感であることに変わりはない。盤のクリーニングにはVPIのバキュームクリーナーとオヤッグのレコードクリーナー液の組み合わせ、針先の汚れにはDS AudioのST-50が欠かせない。

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2021年6月27日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(13)~シングル「すべてを愛して」「女の意地」「女のくやしさ」とアルバム『影を慕いて』

前回、ライヴ・アルバム『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』を紹介した際、書き洩らしたことがあった。第9景のトーク・コーナーでの出来事だが、チャーリー石黒が司会の玉置宏から「清くんの魅力っていうのは、チャーリーさんはどう分析なさいますか?」と質問され、「よく彩木(雅夫)くんとも話したんですけど、要するに、日本人にない独特のヴィブラートとブレスですね、あの♪あ~あ~ っていうのはですね、あれはだいたいどっちかというと黒人的なムードですけど…」と話したところで、客席に笑いが起きるのである。すかさず「要するに、日本人にないカラーだと思います」と締め括ったチャーリーは、前川のことを黒人歌手にたとえて褒めているわけだが、客席の捉え方は残念ながら違ってしまったようだ。恐らくソウルやR&Bなどの熱心なファンは会場にはいたとしても極めて少なかっただろうし、当時は世間一般の中にまだ、黒人というものを笑ったり蔑んだりする対象として捉えてしまう傾向が強かったのではないか。その辺りが気になってしまい、些細なことかも知れないが書き留めておきたかった。

さて、1970年末以降のクール・ファイブの動きを追っておくと、11月から12月にかけて「噂の女」が第1回歌謡大賞・放送音楽賞、全国有線放送大賞、第12回日本レコード大賞・歌唱賞と、各賞を受賞している。年が明けて1971年1月1日から7日まで国際劇場で『森進一ショー』に出演。そして7枚目のシングルが発売となった。

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●シングル07

A) すべてを愛して
川内康範 作詞/鈴木 淳 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 愛のぬくもり
川内康範 作詞/内山田洋 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1135 1971年1月5日発売

作詞は「逢わずに愛して/捨ててやりたい」以来の川内康範。作曲の鈴木淳は音楽之友社の雑誌『ポップス』の元編集長でもある。伊東ゆかり「小指の思い出」(1967年)、ちあきなおみ「四つのお願い」(1970年)などのヒット曲があり、クール・ファイブはアルバム『夜のバラード』で黒木憲の「霧にむせぶ夜」を取り上げていたが、書き下ろしのシングル曲はこれが唯一となった(アルバム収録曲では1973年7月発売の『内山田洋とクール・ファイブ 第6集』に千家和也作詞の2曲を提供)。オリコンでの最高位は24位、売上9万2千枚(メーカー発表では25万1千枚)と伸び悩んだ。カントリー・タッチのピアノに導かれた3連のロッカ・バラードで、いい曲だがインパクトにはやや欠けるか。

同様に川内の作詞によるB面の「愛のぬくもり」は、内山田が作曲したマイナーな8ビートの曲。イントロや間奏でのテナー・サックスのフレーズの終止に多用されるCマイナー・メジャー7thの響きが印象に残る。

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●シングル08

A) 女の意地
鈴木道明 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 京都の夜
秋田 圭 作詞/中島安敏 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1155 1971年2月25日発売

両面ともカヴァー・アルバム『夜のバラード』からのシングル・カットで、ジャケットに使われた写真も流用されている。第8回で詳しく紹介したように、西田佐知子「女の意地」(1965年10月発売)の原曲は和田弘とマヒナ・スターズ「女の恋ははかなくて」(同年9月)である。1970年4月5日のアルバム発売から10か月も経って「女の意地」が急遽カットされたのは、10月に平浩二のカヴァーが出てオリコン42位、12月に出た西田の再録ヴァージョンが7位となったことにあやかろうとしたのが理由だろう。ひとつ前の「すべてを愛して」が1971年1月5日発売、次の「女のくやしさ」が4月5日発売と、両者の間隔はローテーション通りにきっちり3か月であり、その間に「女の意地」が臨発のような形で突っ込まれた感じだが、残念ながらオリコン43位、売上2万枚(メーカー発表13万6千枚)と、成果は上がらなかった。

カップリングの「京都の夜」は愛田健二のヒット曲(1967年6月発売)のカヴァー。

3月23日から29日までは国際劇場で『内山田洋とクール・ファイブ~すべてを愛して』公演。共演は中尾ミエ、大船渡、君夕子、吹雪ひろみ、ギャグメッセンジャーズ、宮尾たかし、ハッピー&ブルー、ブルー・ソックスとのこと。

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●シングル09

A) 女のくやしさ
鳥井みのる 作詞/猪俣公章 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 夢を捨てた女
有馬三恵子 作詞/内山田洋 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1157 1971年4月5日発売

コンビで『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』にも2曲を提供していた、鳥井みのる(「わかれ雨」)と猪俣公章(「噂の女」)の作詞・作曲による9枚目のシングル。オリコンの最高位は26位、売上は14万5千枚(メーカー発表27万3千枚)と、こちらも伸び悩み。スタイルは出来上がっているが、その分冒険している感じが弱いように感じられる。

内山田が作曲したカップリングの「夢を捨てた女」で、作詞に有馬三恵子が初登場。作詞家としては前述の伊東ゆかり「小指の思い出」や小川知子「初恋のひと」(1969年1月発売)など、当時夫だった鈴木淳とのコンビで作品を残した後離婚し、筒美京平と組んで南沙織の一連の作品を手掛けていく直前だった(「17才」のレコーディングは1971年4月末か5月初め、リリースは6月1日)。以降のクール・ファイブへの提供作品は、内山田を初めとするメンバーたちとの共作が大半を占めることになる。ここでの手応えは、内山田作品が初めてA面を飾ることになる次の「港の別れ唄」で早速実を結ぶことになるのだが、その話は次回。

そして5月、1971年最初のアルバムとして、『夜のバラード』以来のカヴァー集が登場した。

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アルバム05(カヴァー・アルバム02)

影を慕いて
RCA JRS-7127 1971年5月5日発売

Side 1
1) 影を慕いて
古賀政男 作詞・作曲/竹村次郎 編曲

2) 男の純情
佐藤惣之助 作詞/古賀政男 作曲/竹村次郎 編曲

3) 無情の夢
佐伯孝夫 作詞/佐々木俊一 作曲/竹村次郎 編曲

4) 君恋し
時雨音羽 作詞/佐々紅華 作曲/竹村次郎 編曲

5) 人生の並木道
佐藤惣之助 作詞/古賀政男 作曲/竹村次郎 編曲

6) 長崎物語
梅木三郎 作詞/佐々木俊一 作曲/竹村次郎 編曲

Side 2
1) 夜霧のブルース
島田磐也 作詞/大久保徳二郎 作曲/竹村次郎 編曲

2) 裏町人生
島田磐也 作詞/阿部武雄 作曲/竹村次郎 編曲

3) カスバの女
大高ひさを 作詞/久我山明 作曲/竹村次郎 編曲

4) 鈴懸の径
佐伯孝夫 作詞/灰田有紀彦 作曲/竹村次郎 編曲

5) 船頭小唄
野口雨情 作詞/中山晋平 作曲/竹村次郎 編曲

6) 城ヶ島の雨
北原白秋 作詞/梁田 貞 作曲/竹村次郎 編曲

『夜のバラード』がおおむね1960年代のヒット曲のカヴァーで占められていたのに対し、カヴァー・アルバム第2弾である本作は、大正時代から昭和30年(1955年)頃までの、いわゆる“懐メロ”と呼ばれた作品で構成されている。この手の企画の先駆けとなったのは、森進一の古賀政男作品集『影を慕いて』(1968年5月発売)あたりではないかと思われるが、そこでは作詞・作曲家のレコード会社専属制の縛りを解き、ビクターの森がコロムビアの古賀作品を取り上げたことでも話題となった。

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クール・ファイブのアルバムの方は、古賀作品はいずれも森の『影を慕いて』にも収録されていた3曲だけだが、森を意識してか同じタイトルが付けられた。全曲の編曲を竹村次郎が手掛けているが、バラエティーに富んだ秀逸なアレンジが施され、価値を高めている。アルバム収録12曲のうち「人生の並木道」「夜霧のブルース」を除く10曲は、1973年7月に4チャンネル盤としてもリリースされ(ジャケットと曲順は変更)、1975年9月にはBOX入りLP4枚組の好企画盤『昭和の歌謡五十年史』にも全曲が再収録された。

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以下の曲目解説は、その『昭和の歌謡五十年史』付属ブックレットに掲載された上山敬三による解説を一部参照させて頂いた。

「影を慕いて」は古賀政男の処女作。1929年、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会でギター合奏曲として初演。翌年の佐藤千夜子(ビクター)による初録音は不発に終わったが、藤山一郎(本名:増永丈夫。当時は東京音楽学校生で、校外活動は禁止されていたためこの変名を使用した)のコロムビア盤でヒットした。藤山との出会いが、古賀のその後を決定づけた。

「男の純情」は1936年の日活映画『魂』の主題歌として、ビクターを経てテイチクに移籍していた時期の藤山一郎が歌った。

「無情の夢」は1935年にイタリア帰りの児玉好雄(ビクター)が歌った。憂鬱な味が時局にそぐわないと当局から厳重注意を受けたという。ホーンを活かしてリズミカルに仕上げた竹村の編曲が秀逸。

「君恋し」はレコード時代の幕開けを告げた1929年の大ヒット曲。その前年にあたる1928年は、それぞれ外国資本の日本コロムビア(明治創業の日本蓄音器商会を母体として1927年設立)と日本ビクター(詳しくは過去記事『“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史』を参照されたい)が揃って国内制作の新譜をリリースし始めた年で、流行歌の企画・制作・販売というそれまでにない新しい手法を確立することにより、この2社が日本のレコード業界をリードしていくことになる。ビクターは浅草オペラで人気を博していた二村定一をスカウト、1928年秋には「アラビアの唄」もヒットさせていたが、それに続く1929年の大ヒットとなったのが「君恋し」である(発売は1928年12月20日)。作曲家の佐々紅華がこの曲を作詞作曲したのは1922年のことで、作者自身は「出来上がった曲は二村定一に練習して貰って東京レコードに吹き込んだ」と語っているが、この東京レコードの現物の存在は確認されていないようだ。その後浅草オペラの女性歌手、高井ルビーがニッポノホンに吹き込んだが関東大震災の影響もあってヒットせず。昭和に入り、人気者になっていた二村が改めてビクターで録音するに際し、佐々が元大蔵省の役人でビクターに入社して間もない時雨音羽に作詞を依頼したという経緯があった。時は流れて1961年、フランク永井が寺岡信三のアレンジを得てモダンなムード歌謡としてリニューアル。こちらも大ヒットとなり、同年の第3回日本レコード大賞を獲得。クール・ファイブ盤は、それをベースにまたひとひねりしたもので、シャッフル・アレンジが素晴らしい。

「人生の並木道」は1937年の日活映画『検事とその妹』主題歌。ディック・ミネのテイチク盤で大ヒット。

「長崎物語」は既に『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』でのメドレーの中の1曲として前回紹介した。そこでは1939年に由利あけみが歌い全国的にヒットしたと書いたが、改めて確認したところ、戦前から戦中・戦後にかけてタンゴを中心にした軽音楽の楽団として活躍したサクライ・イ・ス・オルケスタ(桜井潔とその楽団)による1940年のビクターへの録音の方が広く知られていたとのことだった。

「夜霧のブルース」は、これも前回「長崎エレジー」の項で紹介した、1947年の映画『地獄の顔』の主題歌の一つ。ディック・ミネとしては戦後最初のヒット曲となった。

「裏町人生」については、『昭和の歌謡五十年史』の上山敬三による解説をそのまま引用しておく。

作詞した岩田磐也は「新宿・神田あたりの裏町の酒場に働く女性の生態を描いた」といっている。かつて神田の酒場で働いた経験があるのでそれを生かしたもの、作曲の阿部武雄は古い職人気質と奇行で鳴った人だが、このときも横浜のチャブ屋街をくずれた皮のジャンパーにヴァイオリンで流しながら曲想を練ったという。上原敏がうらぶれた女の心情をよく歌い結城道子がそれに和して大流行。今も演歌調流行歌の代表の一つである。

「カスバの女」は1955年の芸映プロ『深夜の女』主題歌。エト邦枝の歌でリリース。作曲の久我山明は孫牧人のペンネーム。沢たまきら多数のカヴァーあり。

「鈴懸の径」は第二次世界大戦真っただ中の1943年に発売された灰田勝彦のビクター盤がオリジナル。学生生活への郷愁が歌われた、戦時色のない歌だったが、皮肉にも発売後まもなく、学徒動員令が下ったのだった。

「船頭小唄」は、近代日本の流行歌の基礎を築いた中山晋平、1921年の作品。歌詞に出てくる“枯れすすき”が1923年の関東大震災を招いたのではないかといわれなき非難を浴びたことから、以後1952年の中山の死まで、レコード化は封印されたという。クール・ファイブの演奏はギター伴奏からスタート、徐々に楽器が増え、ストリングスも加わった2番では3連のロッカ・バラード・スタイルになるという見事なアレンジで、それに乗せた前川の歌も実にエモーショナル。内山田はレコーディング後、「僕は、清とつきあって4年半になるけど、あいつの歌で泣かされたのは、今日がはじめてだ」と解説のタカタカシにしみじみ語ったそうである。

「城ヶ島の雨」についても上山の解説から引用。

「大正2年(1913年)の夏、早稲田音楽会から頼まれてこの舟唄一篇を作った」と北原白秋は書いている。白秋の母校早大の関係者で結成されている新劇の劇団芸術座が第一回公演として同年9月有楽座で『モンナ・バンナ』を上演したが、その前宣伝の音楽会のために、知友の詩人・相馬御風を通じて頼まれたもの。白秋は愛情問題のもつれから神奈川県三崎(今の三浦市)の見桃寺で失意の生活を送っていたときである。劇団の主宰者・島村抱月の書生・中山晋平が東京音楽学校(今の芸大音楽学部)の同級生・梁田貞を推せんして作曲が完成された。大正期を代表する名歌曲の一つで流行歌のように普及し、昭和に入っても歌われた。レコードは昭和10年代に斎田愛子、内本実、奥田良三その他の独唱で各社から出ているが、梁田の高弟、奥田の音域に合わせたものが標準とされている。他に山田耕筰、橋本国彦、小林三三らの作曲もあるが梁田版が最もよく知られている。

(文中敬称略、次回に続く)

2021年6月 6日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(12)~ライヴ・アルバム『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』

内山田洋とクール・ファイブの全レコード紹介、前回の更新から半年以上も間が開いてしまった。このペースだと永遠に終わらないので、あまり深入りせずにサクサク紹介していく形に切り替えていきたいと思うが、果たして上手くいくかどうか。今回は初のライヴ・アルバムを紹介する。

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●アルバム04(ライヴ・アルバム01)

豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」~1970年9月27日 日劇に於ける実況録音
RCA JRS-9043~44 1970年12月25日リリース

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1) オープニング

2) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲

3) わかれ雨
鳥井 実 作詞/彩木雅夫 作曲

4) 涙こがした恋
中山淳太郎・村上千秋 共作詞/城 美好 作曲

5) 捨ててやりたい
川内康範 作詞/城 美好 作曲

Side 2
1) 長崎のザボン売り
石本美由起 作詞/江口夜詩 作曲

2) 長崎シャンソン(誤)→長崎エレジー(正)
内田つとむ 作詞/上原げんと 作曲(誤)→島田磐也 作詞/大久保徳二郎 作曲(正)

3) 長崎の女
たなかゆきを 作詞/林伊佐緒 作曲

4) 長崎ブルース
藤浦 洸 作詞/古賀政男 作曲(誤)→吉川静夫 作詞/渡久地政信 作曲(正)

5) 長崎物語
梅木三郎 作詞/佐々木俊一 作曲

6) 長崎詩情
中山貴美 作詞・村上千秋 補作詞/城 美好 作曲

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1) ヴィーナス Venus
R.V. Leeuwen

2) 男と女 Un Homme et une Femme
F. Lai - P. Barouh

3) アンド・アイ・ラブ・ハー And I Love Her
J. Lennon - P. McCartney

4) 白い恋人たち 13 Jours en France
F. Lai - P. Barouh

5) イエスタデイ Yesterday
J. Lennon - P. McCartney

6) ちっちゃな恋人
なかやままり 作詞/井上かつを 作曲(正しくは かつお)

Side 2
1) 君といつまでも
岩谷時子 作詞/弾 厚作 作曲

2) 愛のいたずら
安井かずみ 作詞/彩木雅夫 作曲

3) 愛の旅路を
山口あかり 作詞/藤本卓也 作曲

4) 逢わずに愛して
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲

5) 噂の女
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲

6) フィナーレ

内山田洋とクール・ファイブ
唄/前川 清
9043 Side 2 (2) 唄/内山田洋
9043 Side 2 (3) 唄/小林正樹
9044 Side 1 (6) 唄/前川 清、辺見マリ
演奏/チャーリー石黒と東京パンチョス
構成・演出 広田康男
音楽 森岡賢一郎、内山田洋
司会 玉置 宏

2枚組で、副題にもあるように東京・有楽町の日劇で 1970年9月24日から7日間行われた「クール・ファイブ・ショー――やめて!噂の女」から、27日の公演を収録したものだ。浅井英雄の解説によれば、出演は内山田洋とクール・ファイブ、辺見マリ、獅子てんや・瀬戸わんや、大船渡。演奏はチャーリー石黒と東京パンチョス(封入された見開きカラーのシートには、公演中劇場に掲げられた看板の写真も載っていて、そこには司会の玉置宏のほか、ザ・シャンパーズの文字もみえるが、裏ジャケのステージ写真に写っているダンサーたちだろうか)。そしてショーの内容は次のようだったという。

第1景:クール・ファイブ登場
第2景:辺見マリ登場
第3景:新人、大船渡の初舞台
第4景:クール・ファイブ、ふるさとを歌う
第9景:クール・ファイブ、ポピュラーを歌う
第10景:秋空に向かって
第11景:ヒット・パレード

第3景の大船渡については連載第9回の8トラック・カートリッジ『演歌』の項を参照頂きたいが、第5景から第8景までがごっそり抜けていて、ステージの紹介文としては何とも不十分である。抜けているうちの一つはてんや・わんやの漫才だろうが、それ以外は不明。アルバムでは1枚目のA面に第1景、B面に第4景、2枚目のA面に第9景、B面に第10景~第11景が収められている。

まずは第1景。東京パンチョスによるオープニング・テーマの演奏、SEとナレーションに続いての「長崎は今日も雨だった」以下4曲では、クール・ファイブのメンバー自身、すなわち前川清(ヴォーカル)、内山田洋(ギター、コーラス)、岩城茂美(テナー・サックス、フルート、コーラス)、宮本悦朗(オルガン、ピアノ、コーラス)、小林正樹(ベース、コーラス)、森本繁(ドラムス)の6人による演奏を聴くことができる。2曲目は、第4回でも触れたようにセールスは伸びなかったが、内山田がMCで「大変私たちは素敵な曲だと信じております」と紹介しているセカンド・シングル「わかれ雨」。続いて、デビューのきっかけとなった曲で「長崎は今日も雨だった」のカップリングにもなったジャジーな「涙こがした恋」、サード・シングル「逢わずに愛して」のカップリングだった「捨ててやりたい」。この2曲のライヴ録音はここでしか聴けない貴重なもの。とりわけ「捨ててやりたい」のスウィンギーな演奏は白眉で、洋楽をベースに持つ彼らの知られざる実力が垣間見れる。

第4景は長崎をテーマにした曲が並んでいて、この内容は後にアルバム『長崎詩情』(1972年3月25日発売)に発展することになる。ここでは東京パンチョスの伴奏により、まず5曲がメドレーで演奏されるが、重大な表記ミスがあり、2曲目は正しくは「長崎エレジー」だが、誤って「長崎シャンソン」(1946年の樋口静雄のヒット曲)となっていて、歌詞も同曲のものが載り、解説にも堂々と書かれてしまっている。このアルバムにはジャケットの意匠を若干変更したセカンド・プレスもあるが、一切修正はされなかった。

メドレーを構成する5曲を紹介しておくと、まず「長崎のザボン売り」は作詞家・石本美由起の処女作となった1948年の作品で、歌謡同人誌『歌謡文芸』への投稿が作曲家・江口夜詩に認められ、小畑実の唄でヒットした。

続く「長崎シャンソン」ならぬ「長崎エレジー」は、ディック・ミネと藤原千多歌が歌った1947年の松竹映画『地獄の顔』主題歌。菊田一夫の戯曲『長崎』を原作に大曾根辰夫が監督したこの映画には、主題歌・劇中歌が全部で4曲ある。他の3曲はディック・ミネ「夜霧のブルース」(「長崎エレジー」同様作詞は島田磐也、作曲は映画全体の音楽も手掛けた大久保徳二郎で、クール・ファイブも後にカヴァー)、渡辺はま子「雨のオランダ坂」、伊藤久男「夜更けの街」(この2曲は菊田一夫作詞、古関裕而作曲)で、いずれもヒットした。この「長崎エレジー」の本来のタイトルは「長崎エレヂー―順三とみち子の唄―」で、西脇順三(水島道太郎)はならず者の主人公、香月みち子(月丘千秋)は順三に思いを寄せる孤児院の保母。ここでのヴォーカルは内山田で、後の『長崎詩情』でのスタジオ録音も同様である。

続いて小林が歌う「長崎の女(ひと)」は1963年の春日八郎の大ヒット曲。前川の歌に戻って、「長崎ブルース」は青江三奈1968年の大ヒット曲だが、レーベル面の作者クレジットは正しいものの、歌詞カードの作者表記と歌詞がまたしても誤りで、1954年に藤山一郎が歌った同名異曲(作詞は藤浦洸、作曲は古賀政男)のものになってしまっている。

メドレーの最後は「長崎物語」。原曲は1937年に橘良江が歌った「ばてれん娘」(作詞は佐藤松雄、作曲は佐々木俊一)で、これは天草での混血児の受難がテーマだったがヒットしなかった。その2年後の1939年、新聞記者だった梅木三郎がやはり混血児の“じゃがたらお春”をテーマに書いた歌詞を見たビクターのディレクターが、「ばてれん娘」のメロディに歌詞を当てはめてもらって仕上げたのが「長崎物語」で、由利あけみが歌い、全国的にヒットした長崎の歌としては第一号となった。戦後の1947年に改めてビクターが「長崎物語」をプッシュするに際し、由利は結婚して引退していたこともあり、「ばてれん娘」のオリジナル歌手である橘改め斎田愛子が歌うことになった。

最後に単独でファースト・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』に収録されていた「長崎詩情(ロマン)」を前川が歌い、このコーナーは締め括られる。

洋楽カヴァーを並べた第9景も、当時の彼らを知る上では重要。まずはオランダから世界に飛び出したショッキング・ブルーの「ヴィーナス」。ギターのロビー・ファン・レーベンの作品で、オランダ本国では1969年7月にリリース、1970年2月にアメリカのビルボード誌で第1位を獲得、日本でも春に大ヒットとなった。それを半年後に取り上げていたわけだが、このクール・ファイブの「ヴィーナス」、なんだか変だと最初から感じていた。最初のドラムスのタム回し、ギターのカッティング、エンディングに乱れがあるのである。それと同時に気になっていたのは、カラー・シートに載ったドラムスを叩く前川の写真。謎がある程度解決したつもりになったのは、1972年2月発売の2枚組ベスト『豪華盤「内山田洋とクール・ファイブ デラックス」第1集』内ジャケに掲載されていたこの写真を見た時だ。

Stage01

ステージ前方に内山田、森本、小林がハンド・マイクを持って立ち、前川がドラムスを叩き、岩城がギターを弾いている。本来の楽器の前にいるのは、オルガンの宮本だけだ。スーツではなく、ポロシャツやカラーシャツを着ていることからも、洋楽コーナーでの写真であることを物語っている。楽器の持ち替えであれば、余興的な位置づけと理解できる。だがこれで謎が解けたわけではない。「ヴィーナス」のヴォーカルは前川だが、トラム・セットの場所にはヴォーカル・マイクがないのである。そしてベースは誰が弾いているのか。サックス・ソロもちゃんとある。そして謎はまだある。裏ジャケットの写真も同じ衣装でのもので、前述の通り女性のダンサーたちも映っているが、前川はステージ中央でスポットライトを浴びて歌っている。だが、この洋楽コーナーで前川がソロで歌っているのは、「ヴィーナス」だけなのである。やはり「ヴィーナス」は持ち替えではなかったのか。それではあの写真は?

続く4曲はメドレーで、前川はお休み。メンバーのスキャットやヴォーカル・ハーモニーで進行していく。1曲目と3曲目はクロード・ルルーシュ監督の映画のためにフランシス・レイが作曲、ピエール・バルーが作詞した映画音楽で、彼らにとって出世作となった1966年の『男と女』のテーマ、そして1968年にフランスのグルノーブルで開催された第10回冬季オリンピックの記録映画『白い恋人たち―グルノーブルの13日―』のテーマ。

Hit1972

2曲目と4曲目はザ・ビートルズの「アンド・アイ・ラブ・ハー」と「イエスタデイ」。どちらもポール・マッカートニーの作品だが、よく考えてみれば「アンド・アイ・ラブ・ハー」も映画『ア・ハード・デイズ・ナイト(旧邦題:ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!)』に使われていたから、映画音楽絡みと言えなくもない。「男と女」は例の♪シャバダバダ~のスキャット、「アンド・アイ・ラブ・ハー」はサックスが奏でるメロディにスキャットを絡ませ、「白い恋人たち」は宮本のピアノ中心、「イエスタデイ」はジャジーなアレンジに乗せたメンバーのコーラス・ハーモニーがいい雰囲気を醸し出す。内山田のギター・ソロもあり。

最後の「ちっちゃな恋人」は、オズモンド・ブラザーズの末弟であるジミー・オズモンドが7歳になる直前に、たどたどしい日本語で録音した和製ナンバー。1970年4月5日にシングル・リリースされ、オリコン2位の大ヒットに。

Cd62

ここではクール・ファイブの演奏をバックに、前川と辺見がたどたどしさを真似ながらデュエットしている。

第10景は司会の玉置を中心にチャーリー、内山田らによる思い出話からスタートし、歌はここでは1曲だけ。前川が初めて内山田と出会った時に披露したという加山雄三の「君といつまでも」(1965年12月発売)を、前川が東京パンチョスの演奏で歌う。

続いて第11景。当時最新ヒットだった「愛のいたずら」、そして「愛の旅路を」は再びクール・ファイブ自身による演奏。東京パンチョスの演奏に切り替わって「逢わずに愛して」「噂の女」で締めくくり。内山田の挨拶のあと、東京パンチョスによる「長崎は今日も雨だった」をモチーフにした短いエンディング・テーマで終了となる。

(文中敬称略、次回に続く)

2021年5月15日 (土)

『今日は一日“ピアソラ”三昧』で紹介したピアソラの先達たち~“タンゴのど真ん中”アルフレド・ゴビを中心に

5月4日にNHK-FMで8時間半にわたりオンエアーされた『今日は一日“ピアソラ”三昧』。リアルタイムであれ、らじる★らじるの聴き逃し配信(14日正午で終了)であれ、番組をお聴きくださった方であれば、案内役の小松亮太氏が伝えたかった重要なテーゼの一つが、「踊りの伴奏に過ぎなかったタンゴを、ピアソラが聴くための芸術に改革した」という、世間に広く浸透している誤解を明確に否定していくことだったことがおわかりいただけただろう。

「ピアソラと先輩たち、基礎を作った人たちの演奏、交流」をテーマに、他のコーナーよりも時間を多めに取ったコーナーの冒頭で、彼が力説した内容を書き起してみよう。

「ピアソラという人を紹介するときに、ダンスの伴奏に過ぎなかったタンゴを聴くための芸術に改革したという風に、今世界中でまことしやかに言われてるんですけれども、これはまったく間違いで、タンゴを聴くための音楽に改革しようよというムーヴメントは、ピアソラさんが小学生の頃からずっと行われていたことなんです。例えばダンスホールに行ったって、お客さんはみんながみんな踊っているわけじゃないんですね。座って聴いている人だっているわけです。だから聴いても良し、踊っても良し、あるいは完全に聴くため、完全に踊るためっていう風に、いろんなカテゴリーがあったわけなんですよね。ピアソラさんだけが凄い、昔のタンゴっていうのは単なる踊りの伴奏に過ぎなかったっていうこの誤解は、タンゴといえば「黒猫のタンゴ」かなぁとか、そういうイメージを持ってたかなり知識の浅い人たちが、ピアソラを持ち上げるための対比効果として、半ば過剰演出みたいな感じで広めてしまった誤解なわけなんですよ。ですからこんなこともあって、ピアソラは最早ピアソラというジャンルなんだから、南米の踊りの伴奏とかと結びつける必要はないだろうみたいな雰囲気になっちゃっているけれども、実はピアソラっていう人はタンゴの中の天才であるということをわかっておかないと、ピアソラさんがやった業績の意味というのはわかんなくなっちゃうんですね」

という前提で、まずピアソラとは対極にある保守本流の圧倒的名演として紹介されたのが、フアン・ダリエンソ楽団の「ラ・ビコーカ」という曲だった。楽団の黄金期を支えたピアニスト、フルビオ・サラマンカ参加後の1940年8月に録音されたこの曲は、しかしながらまったく有名な曲ではない。こんな演奏がいくらでも隠れているのが当時のタンゴ界だった。ちなみに、作者のホセ・アルトゥーロ・セベリーノは1900~10年代を中心に活動していたバンドネオン奏者で、まだ一介のヴァイオリン奏者だったダリエンソとも一緒に演奏していた人物である。

そしてダリエンソの紹介の後、ピアソラの先駆的な存在であり彼に多大な影響を与えてきた重要人物として、エルビーノ・バルダーロ、アルフレド・ゴビ、フリオ・デ・カロ、オスバルド・プグリエーセといった巨匠たちが一人ずつ、「点」としてピアソラとの関わりとともに紹介されたわけだが、番組後半の「ピアソラから広がる新たな響き」のコーナーで登場したエドゥアルド・ロビーラ(ゴビ楽団出身)やロドルフォ・メデーロス(1969年から1974年までプグリエーセ楽団メンバー)も含めて、彼ら全員は、実は「線」で繋がるのである。さらに言えば、ピアソラ作「フヒティーバ」を歌ったマリア・デ・ラ・フエンテ、「日本とピアソラ」のコーナーで紹介されたフアン・カナロまでも、含むことができる。ピアソラ本人も、もちろん含まれる。そして本当はこの中心に、番組では演奏を紹介できなかったアニバル・トロイロを据えなければいけないのだが、順を追って説明しておこう。

まずは、近代タンゴの祖と呼ばれたフリオ・デ・カロ(ヴァイオリン)である。1924年、バンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ピアノ、コントラバスという六重奏団(オルケスタ・ティピカの原型)をスタートさせ、編曲というそれまでタンゴにはほとんどみられなかった概念を取り入れることで、その編成ならではの各楽器の特性を最大限に生かした個性的な演奏スタイルを定めた。各メンバーの自作曲を多く演奏したこともポイント。そのようなデ・カロのことを、小松氏は番組で「第一次の革命をした人」と紹介した。厳密に言うと、デ・カロもいきなり自分たちだけで革命を起こしたわけではなく、その先駆として、エドゥアルド・アローラス(バンドネオン)、オスバルド・フレセド(バンドネオン)、フアン・カルロス・コビアン(ピアノ)らの存在があったことも忘れてはいけないのだが、細かく言い出すとキリがないので、まずは大きな流れの起点にデ・カロを据えても何ら問題はない。ピアソラが捧げたチャーミングな「デカリシモ」(とってもデ・カロ的という意味)は番組で紹介し、リクエストも多かった。

初期のデ・カロ楽団メンバーでは、番組で紹介した「黒い花」(初演と初録音は1927年)の作曲者でもあり、1954年の楽団解散まで弟フリオと行動を共にした兄でピアニストのフランシスコ・デ・カロも重要だが、1924年から26年までバンドネオン・セクションを担ったペドロ・マフィアとペドロ・ラウレンスの二人は、近代的バンドネオン奏法を確立した点でも大変重要である(ピアソラはこの二人に、「ペドロとペドロ」というバンドネオン独奏曲を捧げている)。そのマフィアは1926年に独立して楽団を結成したが、そこに参加していたのがエルビーノ・バルダーロ(ヴァイオリン)とオスバルド・プグリエーセ(ピアノ)である。マフィア楽団が録音を開始したのは1929年だが、この時点でバルダーロとプグリエーセは脱退し、二人の連名によるバルダーロ=プグリエーセ六重奏団を結成(バルダーロは7月に24歳、プグリエーセは12月に24歳)。1930年にこの楽団に参加したのが、マフィアの弟子だった当時わずか16歳のアニバル・トロイロ(バンドネオン)、そしてデ・カロに憧れてタンゴ界入りしていた18歳のアルフレド・ゴビ(ヴァイオリン)だった。そう、ちょうどピアソラ一家がニューヨークからアルゼンチンのマル・デル・プラタに一時帰国して、9歳のアストルがタンゴにはまだ馴染めないまま、初めてまともなバンドネオンの先生に習い始めた頃、ブエノスアイレスではバルダーロとプグリエーセとゴビとトロイロが一緒に組んで(!)、新しいタンゴを模索していたのだった。だが、バルダーロ=プグリエーセ楽団は、1枚のレコードも残せずに解散(だからどんな音だったかを知る術はない)。世界大恐慌のあおりを受け、ジャズやトーキー映画など北米からのエンターテインメントの流入もあり(トーキーのお陰でタンゴ楽団は映画館でのアトラクションという仕事の場を失った)、タンゴは商業的にも音楽的にも曲がり角に差し掛かっていたのだ。先鋭的な新人アーティストに出番はなかった。

それでもバルダーロは、1933年に改めて六重奏団を結成。第1バンドネオンにはデ・カロ楽団に移籍していたトロイロが戻り、第2ヴァイオリンには、後にピアソラの盟友となるウーゴ・バラリスが参加。ピアニストでアレンジャーのホセ・パスクアルも、大成はしなかった人物だがここで重要な役割を果たした。この時期のバルダーロ六重奏団も、レコードは1枚も残せなかったが、番組でも紹介した、音の悪い「老いた虎」の超貴重なアセテート盤へのテスト録音を残している。既にラジオ局への出演は果たしていたが、よりメジャーな局へ出演するためのオーディション目的だった。結果は「商業的ではない」として却下。解散時期は資料によってバラつきがあるが、マル・デル・プラタに帰国後くすぶっていたピアソラが、1938年5月に偶然ラジオでバルダーロ楽団の演奏(当然、あの「老いた虎」の録音ではない。曲目は不明)を耳にしたのは、奇跡的な偶然としか言いようがない。

バルダーロは、1938年にピアニストのルシオ・デマーレ(名曲「マレーナ」の作曲者)と連名でデマーレ=バルダーロ楽団を結成するが、それも短命に終わっている。その後は断続的に楽団を率い、1953年に録音した2曲のみが、彼自身の名義によるレコードとして残された。プレイヤーとしては数多くの録音に参加しているので、彼の演奏自体はいろいろ残されている。ピアソラのグループでは、1956~57年の弦楽オーケストラ、1961年の五重奏団に参加。1971年に亡くなった彼に、ピアソラは「バルダリート」を捧げた。

プグリエーセは、バルダーロ=プグリエーセ楽団の解散後、ゴビとの二重奏(または楽団?)を経て1934年にデ・カロから独立後のペドロ・ラウレンス楽団に参加。1936年以来何度か自身の楽団を立ち上げようとしては失敗し、1939年にようやくデビュー。1941年にラジオ出演開始、1943年から録音を開始し、1946年に独自のリズム理念を凝縮した自作曲「ラ・ジュンバ」を初録音。1948年録音の自作曲「ネグラーチャ」は3-3-2のリズムを多用したもので、1951年の「タングアンゴ」から顕著になるピアソラの音作りに影響を与えたのは一目瞭然。ピアソラ自身、1956年に弦楽オーケストラでその「ネグラーチャ」をかなり忠実に再現している。実は番組の中で「ネグラーチャ」の聴き比べもやりたかったのだが、時間の関係で断念。プグリエーセのジュンバのリズムを意識したピアソラの「スム」(1971年12月のコンフント9での演奏)と、プグリエーセ楽団による解釈(ロドルフォ・メデーロス編曲、1973年12月録音)の比較に留めた。1989年6月には、プグリエーセ楽団とピアソラ六重奏団のステージ上での共演がオランダで実現している。

トロイロは、1935年にはバルダーロ楽団を離れ、いくつかの楽団を経て1937年に自己の楽団を旗揚げ。1938年にオデオンに2曲のみ録音。1941年からRCAに本格的に録音を始める。アルゼンチンが第二次世界大戦に参加しなかったことで輸出が伸び、バブル景気に見舞われたことが、1940年代にタンゴが新たな黄金時代を迎える大きな要因となったことは、番組でも紹介されていたが、それに先駆けたタンゴ界の動きとして、1934~35年のダリエンソ楽団の再デビューがあった。そもそもダリエンソは1928年に一度デビューしているが、その時は特に特徴のない平均的なスタイルだった。それがレパートリーを古典に絞り、スタッカートを極端に強調して“電撃のリズム”と呼ばれたスタイルに大胆に転換、自身はヴァイオリンを置いて指揮に専念する。そして1935年にロドルフォ・ビアジ(ピアノ)が参加してその手法に磨きが掛けられて、ダリエンソはタンゴ復興の象徴となった。その影響もあり、初期のトロイロは、デ・カロやバルダーロの流れを汲みながら、ダリエンソを意識したかのような、軽快でテンポの早いスタイルも持ち合わせていた。そのエネルギーのほとばしりには、初期のトロイロ・サウンドを担った天才ピアニスト、オルランド・ゴニ(トロイロと組む前、ゴビともトリオで活動)と、ピアソラも愛したタンゴ史上最強のコントラバス奏者、エンリケ・“キチョ”・ディアスの力も存分に反映されていた。

バルダーロ楽団で第2ヴァイオリンを務めたバラリスは、1938年にトロイロ楽団に参加。1939年、毎日演奏を聴きにやってくるピアソラに目を付け、年末には楽団参加の仲立ちもした。ピアソラがトロイロ楽団脱退後、1940年代後半~1950年代前半に率いた楽団(50年代前半は録音活動のみ)では第1ヴァイオリンを務め、1954年のフアン・カナロ楽団の日本公演(ピアソラが多くの編曲を提供。歌手としてマリア・デ・ラ・フエンテも参加)では実質的なリーダーを務めた。時期は不明だがアルフレド・ゴビ楽団にも参加。ピアソラのオクテート・ブエノスアイレス(1955~57年)やコンフント9(1971年~1972年)では第2ヴァイオリンを務めている。

そして、アルフレド・ゴビ。彼について小松氏は番組で次のように熱く語っている。

「アルフレド・ゴビという人が忘れられていくということがあってはならないと思うし、ある意味ではアストル・ピアソラよりももっと偉い人です。なんでかと言うと、タンゴというジャンルそのもののど真ん中を作った人。もちろん、軽いものから重いものから、いろんなタンゴがあるんだけれども、タンゴというのは基本的にこうであるという、すべてのタンゴに共通する価値観というものを確立した人だと思うんですよね」

アルフレド・ゴビ(ミドル・ネームはフリオ、1912年5月14日~1965年5月21日)はパリ生まれ。同名の父親アルフレド・ゴビ(ミドル・ネームはエウセビオ)と母親のフローラ・ロドリゲスはタンゴ黎明期の歌手コンビで、「ゴビ夫婦 (Los Gobbi)」もしくは「ゴビと妻 (Gobbi y señora)」という名前で活動。同時期に活動を共にしたアンヘル・ビジョルドは、タンゴ界最初のシンガー・ソングライターとして「エル・チョクロ」などを残している。1907年にはゴビ夫婦とビジョルドでパリに渡り、録音活動も行う。手元に当時のレコードが1枚あるが、夫婦漫才のような雰囲気だ。

T39

息子アルフレドがパリ生まれなのは、そういう理由による。1912年末には帰国、6歳からピアノやヴァイオリンを学んでいる。前述の通りデ・カロに憧れてタンゴ界入りし、1927年にバンドネオン奏者フアン・マグリオ・“パチョ”の楽団に参加。バルダーロ=プグリエーセ楽団参加前には、オルランド・ゴニ、バンドネオンのドミンゴ・トリゲーロ(特に有名な人ではない)とのトリオでも活動している(ゴビ以上にボヘミアンだったゴニは1945年に31歳で死んでしまい、ゴビは「オルランド・ゴニに捧ぐ」を書いて追悼した)。バルダーロ=プグリエーセ楽団解散後は、プグリエーセとのデュオ(または楽団?)を経て、1935年にはプグリエーセの後を追って(?)ペドロ・ラウレンス楽団に参加。その後もいくつかの楽団を転々とした後、1942年に自己の楽団を結成する。

以前「アストル・ピアソラ五重奏団、1973年の超貴重映像」という記事で紹介したウルグアイのテレビ番組『タンゴの土曜日』出演の際、「アルフレド・ゴビの肖像」の演奏前にピアソラが司会のミゲル・アンヘル・マンシに語ったエピソードが、小松亮太著『タンゴの真実』(旬報社)に翻訳されている(p143~144)。詳しくは同書を読んで頂くとして(必読なので!)、近所に住んでいたゴビの家を訪れて「アレンジ譜を買わせてほしい」と頼む話が出てくる。ピアソラは「私の記憶では19歳の頃(1940年)だ」「まだ私が独身で…」と述懐しているが、ゴビ楽団の結成は1942年だ。ピアソラが結婚するのは1942年10月なので、その直前の出来事だとすれば、何とか辻褄は合う。ゴビの初録音は結成5年後の1947年5月だが、ブエノスアイレスの事情通の間で語られてきたのが、ゴビが本当に凄かったのは、まだレコード会社と契約できる前のことだったという話。それでも、残された録音で聴くゴビは特別だ。ただし、タンゴ界にありがちなボヘミアン気質その他いろいろな事情があり、ゴビ楽団が公式に残した録音は、決して多くはなく、1958年7月までの82曲がすべてだ。

小松氏は『タンゴの真実』の中で、ゴビについてこう書いている。「僕の実家にもゴビの音源はひとつもなかった。両親やその周辺の人たちがゴビという人の話をしていた記憶もない」「理由は「中庸だから」、いや、「中庸に見えているから」。これに尽きる」。まあ、確かにそうなのかも知れないし、日本で出たゴビのアルバムは、オムニバスに収められた以外の単独盤は『黄金時代のアルフレド・ゴビ』(1969年9月発売)ただ1枚だけだったので、仕方のないことだったのかも知れないが、実はもう一つ理由がある。戦後のタンゴ評論の世界を牛耳っていた高山正彦氏や、その一番弟子だった大岩祥浩氏が、ゴビのことをまったく評価していなかったのである。1954年発行の高山正彦著『タンゴ』(新興楽譜出版社)では、「現代タンゴ界の展望」と題されたパートで、個別の項目ではなくその他の扱いで、次のように記されている。

「同様にRCAヴィクトルに属する、アルフレド・ゴビは、「ヴィオリン・ロマンティコ・デル・タンゴ」の通り名がありますが、実の所は一向それらしくもない、むしろキメの荒い感じのヴァイオリンで、演奏も決して非力ではないのでありますが、魅力に乏しいうらみがあります」

たったこれだけである。その後の石川浩司氏や高場将美氏の登場によって、ようやくゴビへの正当な評価への兆しが表れたと言えるだろう。「中南米音楽」の1969年1月増刊『タンゴのすべて2』には「アルゼンチン一線評論家が選んだタンゴ十大楽団・十大歌手」という記事があり、そこでは次の楽団が選ばれている(順位はなし)。

フリオ・デ・カロ楽団
カルロス・ディ・サルリ楽団
オスバルド・プグリエーセ楽団
アニバル・トロイロ楽団
アルフレド・ゴビ楽団
オラシオ・サルガン楽団
オスバルド・フレセド楽団
アストル・ピアソラ
フランシスコ・カナロ楽団
アルマンド・ポンティエル楽団(またはフランチーニ=ポンティエル楽団)

ダリエンソが入っていないのが面白いが、納得の結果である。編集部(おそらく高場氏)によるゴビ楽団へのコメントを読んでみよう。

「1940年代から活動し、ムラはありましたが、1965年にゴビが没するまで存続しました。日本ではレコードがほとんどないこともあり、一般には良く知られていない楽団ですが、アルゼンチンでの評価は、この選出にあらわれた通りです。レコードは、ビクターの「黄金時代のタンゴ」シリーズ第三期のなかで発売されるので、それに期待しましょう」

そして「中南米音楽」1969年9月号の『黄金時代のアルフレド・ゴビ』紹介欄(下の写真は同内容のアルゼンチン盤)。

Cal2989

高場氏は見出しで「日本ではほとんど認識されていなかった一流楽団ゴビのオルケスタの真価を問うもの」と書き、本文では「気持のよいスイング感が、ゴビ楽団のいちばん大きな魅力だろう。その上に展開される演奏は、誇張や気取りがなく、タンゴの本当の楽しさにあふれている。古典タンゴと現代のスタイルとの融和としては、もっとも理想的なもののひとつといえよう」と評価する。石川氏も著書『タンゴの歴史』(青土社、2001年)で「評価を見直したいアルフレド・ゴビ」と見出しを付け、「筆者は現在では40年代のゴビ楽団はトロイロには及ばないもののプグリエーセよりは上だったのではないかと考えている」と書く。もっとも、プグリエーセが真価を発揮するのは1950年代になってから、という前提での評価ではあるが。

不肖ながら私も、岩岡吾郎編『タンゴ…世紀を超えて』(音楽之友社、1999年)の「タンゴの名流100撰」でゴビを担当させてもらい、次のように書いた。

「アルフレド・ゴビの例えようのない素晴らしさを、どのように書けばいいのだろう。ゴビのサウンドの中には、デ・カロもトロイロもディ・サルリもプグリエーセもある。そうした様々な要素、しかもおいしい部分が魔法のようにミックスされ、それが独特のスウィング感に乗って展開されていくのである。理論では説明不可能で、これはまさに天才的感性の賜物としか言いようがない」

なお、ゴビ楽団を支えた重要なメンバーとして、バンドネオンのマリオ・デマルコを挙げておこう。優れた作曲家で編曲家でもあったデマルコは、結成から1951年まで楽団を支えた後に独立、ゴビのスタイルを継承した自己の楽団を結成したが、1954年に解散。解散間際のデ・カロ楽団、再びゴビ楽団に短期間参加した後、プグリエーセ楽団に参加し、1959年まで力を揮った。その他楽団に去来したメンバーには、セサル・サニョーリ、エルネスト・ロメロ、ロベルト・シカレ、オスバルド・タランティーノ(以上ピアノ)、エデルミーロ・ダマリオ、アルベルト・ガラルダ、エドゥアルド・ロビーラ(ゴビ楽団に提供した「ゴビ風に(El engobbiao)」は傑作!)、オスバルド・ピーロ(以上バンドネオン)、アルシーデス・ロッシ、オスバルド・モンテレオーネ(以上コントラバス)、アントニオ・ブランコ、ウーゴ・バラリス(以上ヴァイオリン)などがいる。歌手はホルヘ・マシエル、エクトル・マシエル、アンヘル・ディアス、エクトル・コラル、アルフレド・デル・リオ、ティト・ランドーほか。

ゴビの録音は、全曲が次の5枚に収められてCD化されているが、入手はやや難しいか。

Eu17008
Colección 78 RPM - Alfredo Gobbi 1947/1953 (Euro EU 17008)

Eu17028
Colección 78 RPM - Alfredo Gobbi 1949/1957 (Euro EU 17028)

Eu16012
Archivo RCA - Alfredo Gobbi y sus cantores (Euro EU 16012)

Eu18007
Archivo Columbia - José Sala 1953/1954 - Alfredo Gobbi 1958 (Euro EU 18007)

Eu14027
“Entrador” Alfredo Gobbi Instrumental (1947-1958) (Euro EU 14027)

このうち、インストゥルメンタル全曲とエクトル・マシエルが歌う「ティエリータ」を収めた最後のCDが、現在Spotifyに挙げられている。とにかく聴くべし。

ピアソラは1961年4月、キンテート(ヴァイオリンはバルダーロ、コントラバスはキチョ・ディアス)によるアルバム『ピアソラか否か』に、ゴビが自身の楽団では録音できなかった「私の贖罪 Redención」を収録するにあたり、当時極度のアル中で録音活動から見放されていた 作者ゴビをスタジオに招いた。ピアソラはゴビのスタイルに忠実に演奏し、ゴビは演奏を聴きながら泣いていたそうである。トロイロが「悲しきミロンゲーロ (Milonguero triste)」を捧げた1965年、ゴビは亡くなった(同曲の録音は1月、亡くなったのは5月)。ピアソラは、自身もスランプにあえいでいた1967年に「アルフレド・ゴビの肖像」を初録音。ゴビの「放浪者(El andariego)」のフレーズをそこに織り込んだことは、小松氏が番組で語っていたとおりである。

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