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2021年5月15日 (土)

『今日は一日“ピアソラ”三昧』で紹介したピアソラの先達たち~“タンゴのど真ん中”アルフレド・ゴビを中心に

5月4日にNHK-FMで8時間半にわたりオンエアーされた『今日は一日“ピアソラ”三昧』。リアルタイムであれ、らじる★らじるの聴き逃し配信(14日正午で終了)であれ、番組をお聴きくださった方であれば、案内役の小松亮太氏が伝えたかった重要なテーゼの一つが、「踊りの伴奏に過ぎなかったタンゴを、ピアソラが聴くための芸術に改革した」という、世間に広く浸透している誤解を明確に否定していくことだったことがおわかりいただけただろう。

「ピアソラと先輩たち、基礎を作った人たちの演奏、交流」をテーマに、他のコーナーよりも時間を多めに取ったコーナーの冒頭で、彼が力説した内容を書き起してみよう。

「ピアソラという人を紹介するときに、ダンスの伴奏に過ぎなかったタンゴを聴くための芸術に改革したという風に、今世界中でまことしやかに言われてるんですけれども、これはまったく間違いで、タンゴを聴くための音楽に改革しようよというムーヴメントは、ピアソラさんが小学生の頃からずっと行われていたことなんです。例えばダンスホールに行ったって、お客さんはみんながみんな踊っているわけじゃないんですね。座って聴いている人だっているわけです。だから聴いても良し、踊っても良し、あるいは完全に聴くため、完全に踊るためっていう風に、いろんなカテゴリーがあったわけなんですよね。ピアソラさんだけが凄い、昔のタンゴっていうのは単なる踊りの伴奏に過ぎなかったっていうこの誤解は、タンゴといえば「黒猫のタンゴ」かなぁとか、そういうイメージを持ってたかなり知識の浅い人たちが、ピアソラを持ち上げるための対比効果として、半ば過剰演出みたいな感じで広めてしまった誤解なわけなんですよ。ですからこんなこともあって、ピアソラは最早ピアソラというジャンルなんだから、南米の踊りの伴奏とかと結びつける必要はないだろうみたいな雰囲気になっちゃっているけれども、実はピアソラっていう人はタンゴの中の天才であるということをわかっておかないと、ピアソラさんがやった業績の意味というのはわかんなくなっちゃうんですね」

という前提で、まずピアソラとは対極にある保守本流の圧倒的名演として紹介されたのが、フアン・ダリエンソ楽団の「ラ・ビコーカ」という曲だった。楽団の黄金期を支えたピアニスト、フルビオ・サラマンカ参加後の1940年8月に録音されたこの曲は、しかしながらまったく有名な曲ではない。こんな演奏がいくらでも隠れているのが当時のタンゴ界だった。ちなみに、作者のホセ・アルトゥーロ・セベリーノは1900~10年代を中心に活動していたバンドネオン奏者で、まだ一介のヴァイオリン奏者だったダリエンソとも一緒に演奏していた人物である。

そしてダリエンソの紹介の後、ピアソラの先駆的な存在であり彼に多大な影響を与えてきた重要人物として、エルビーノ・バルダーロ、アルフレド・ゴビ、フリオ・デ・カロ、オスバルド・プグリエーセといった巨匠たちが一人ずつ、「点」としてピアソラとの関わりとともに紹介されたわけだが、番組後半の「ピアソラから広がる新たな響き」のコーナーで登場したエドゥアルド・ロビーラ(ゴビ楽団出身)やロドルフォ・メデーロス(1969年から1974年までプグリエーセ楽団メンバー)も含めて、彼ら全員は、実は「線」で繋がるのである。さらに言えば、ピアソラ作「フヒティーバ」を歌ったマリア・デ・ラ・フエンテ、「日本とピアソラ」のコーナーで紹介されたフアン・カナロまでも、含むことができる。ピアソラ本人も、もちろん含まれる。そして本当はこの中心に、番組では演奏を紹介できなかったアニバル・トロイロを据えなければいけないのだが、順を追って説明しておこう。

まずは、近代タンゴの祖と呼ばれたフリオ・デ・カロ(ヴァイオリン)である。1924年、バンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ピアノ、コントラバスという六重奏団(オルケスタ・ティピカの原型)をスタートさせ、編曲というそれまでタンゴにはほとんどみられなかった概念を取り入れることで、その編成ならではの各楽器の特性を最大限に生かした個性的な演奏スタイルを定めた。各メンバーの自作曲を多く演奏したこともポイント。そのようなデ・カロのことを、小松氏は番組で「第一次の革命をした人」と紹介した。厳密に言うと、デ・カロもいきなり自分たちだけで革命を起こしたわけではなく、その先駆として、エドゥアルド・アローラス(バンドネオン)、オスバルド・フレセド(バンドネオン)、フアン・カルロス・コビアン(ピアノ)らの存在があったことも忘れてはいけないのだが、細かく言い出すとキリがないので、まずは大きな流れの起点にデ・カロを据えても何ら問題はない。ピアソラが捧げたチャーミングな「デカリシモ」(とってもデ・カロ的という意味)は番組で紹介し、リクエストも多かった。

初期のデ・カロ楽団メンバーでは、番組で紹介した「黒い花」(初演と初録音は1927年)の作曲者でもあり、1954年の楽団解散まで弟フリオと行動を共にした兄でピアニストのフランシスコ・デ・カロも重要だが、1924年から26年までバンドネオン・セクションを担ったペドロ・マフィアとペドロ・ラウレンスの二人は、近代的バンドネオン奏法を確立した点でも大変重要である(ピアソラはこの二人に、「ペドロとペドロ」というバンドネオン独奏曲を捧げている)。そのマフィアは1926年に独立して楽団を結成したが、そこに参加していたのがエルビーノ・バルダーロ(ヴァイオリン)とオスバルド・プグリエーセ(ピアノ)である。マフィア楽団が録音を開始したのは1929年だが、この時点でバルダーロとプグリエーセは脱退し、二人の連名によるバルダーロ=プグリエーセ六重奏団を結成(バルダーロは7月に24歳、プグリエーセは12月に24歳)。1930年にこの楽団に参加したのが、マフィアの弟子だった当時わずか16歳のアニバル・トロイロ(バンドネオン)、そしてデ・カロに憧れてタンゴ界入りしていた18歳のアルフレド・ゴビ(ヴァイオリン)だった。そう、ちょうどピアソラ一家がニューヨークからアルゼンチンのマル・デル・プラタに一時帰国して、9歳のアストルがタンゴにはまだ馴染めないまま、初めてまともなバンドネオンの先生に習い始めた頃、ブエノスアイレスではバルダーロとプグリエーセとゴビとトロイロが一緒に組んで(!)、新しいタンゴを模索していたのだった。だが、バルダーロ=プグリエーセ楽団は、1枚のレコードも残せずに解散(だからどんな音だったかを知る術はない)。世界大恐慌のあおりを受け、ジャズやトーキー映画など北米からのエンターテインメントの流入もあり(トーキーのお陰でタンゴ楽団は映画館でのアトラクションという仕事の場を失った)、タンゴは商業的にも音楽的にも曲がり角に差し掛かっていたのだ。先鋭的な新人アーティストに出番はなかった。

それでもバルダーロは、1933年に改めて六重奏団を結成。第1バンドネオンにはデ・カロ楽団に移籍していたトロイロが戻り、第2ヴァイオリンには、後にピアソラの盟友となるウーゴ・バラリスが参加。ピアニストでアレンジャーのホセ・パスクアルも、大成はしなかった人物だがここで重要な役割を果たした。この時期のバルダーロ六重奏団も、レコードは1枚も残せなかったが、番組でも紹介した、音の悪い「老いた虎」の超貴重なアセテート盤へのテスト録音を残している。既にラジオ局への出演は果たしていたが、よりメジャーな局へ出演するためのオーディション目的だった。結果は「商業的ではない」として却下。解散時期は資料によってバラつきがあるが、マル・デル・プラタに帰国後くすぶっていたピアソラが、1938年5月に偶然ラジオでバルダーロ楽団の演奏(当然、あの「老いた虎」の録音ではない。曲目は不明)を耳にしたのは、奇跡的な偶然としか言いようがない。

バルダーロは、1938年にピアニストのルシオ・デマーレ(名曲「マレーナ」の作曲者)と連名でデマーレ=バルダーロ楽団を結成するが、それも短命に終わっている。その後は断続的に楽団を率い、1953年に録音した2曲のみが、彼自身の名義によるレコードとして残された。プレイヤーとしては数多くの録音に参加しているので、彼の演奏自体はいろいろ残されている。ピアソラのグループでは、1956~57年の弦楽オーケストラ、1961年の五重奏団に参加。1971年に亡くなった彼に、ピアソラは「バルダリート」を捧げた。

プグリエーセは、バルダーロ=プグリエーセ楽団の解散後、ゴビとの二重奏(または楽団?)を経て1934年にデ・カロから独立後のペドロ・ラウレンス楽団に参加。1936年以来何度か自身の楽団を立ち上げようとしては失敗し、1939年にようやくデビュー。1941年にラジオ出演開始、1943年から録音を開始し、1946年に独自のリズム理念を凝縮した自作曲「ラ・ジュンバ」を初録音。1948年録音の自作曲「ネグラーチャ」は3-3-2のリズムを多用したもので、1951年の「タングアンゴ」から顕著になるピアソラの音作りに影響を与えたのは一目瞭然。ピアソラ自身、1956年に弦楽オーケストラでその「ネグラーチャ」をかなり忠実に再現している。実は番組の中で「ネグラーチャ」の聴き比べもやりたかったのだが、時間の関係で断念。プグリエーセのジュンバのリズムを意識したピアソラの「スム」(1971年12月のコンフント9での演奏)と、プグリエーセ楽団による解釈(ロドルフォ・メデーロス編曲、1973年12月録音)の比較に留めた。1989年6月には、プグリエーセ楽団とピアソラ六重奏団のステージ上での共演がオランダで実現している。

トロイロは、1935年にはバルダーロ楽団を離れ、いくつかの楽団を経て1937年に自己の楽団を旗揚げ。1938年にオデオンに2曲のみ録音。1941年からRCAに本格的に録音を始める。アルゼンチンが第二次世界大戦に参加しなかったことで輸出が伸び、バブル景気に見舞われたことが、1940年代にタンゴが新たな黄金時代を迎える大きな要因となったことは、番組でも紹介されていたが、それに先駆けたタンゴ界の動きとして、1934~35年のダリエンソ楽団の再デビューがあった。そもそもダリエンソは1928年に一度デビューしているが、その時は特に特徴のない平均的なスタイルだった。それがレパートリーを古典に絞り、スタッカートを極端に強調して“電撃のリズム”と呼ばれたスタイルに大胆に転換、自身はヴァイオリンを置いて指揮に専念する。そして1935年にロドルフォ・ビアジ(ピアノ)が参加してその手法に磨きが掛けられて、ダリエンソはタンゴ復興の象徴となった。その影響もあり、初期のトロイロは、デ・カロやバルダーロの流れを汲みながら、ダリエンソを意識したかのような、軽快でテンポの早いスタイルも持ち合わせていた。そのエネルギーのほとばしりには、初期のトロイロ・サウンドを担った天才ピアニスト、オルランド・ゴニ(トロイロと組む前、ゴビともトリオで活動)と、ピアソラも愛したタンゴ史上最強のコントラバス奏者、エンリケ・“キチョ”・ディアスの力も存分に反映されていた。

バルダーロ楽団で第2ヴァイオリンを務めたバラリスは、1938年にトロイロ楽団に参加。1939年、毎日演奏を聴きにやってくるピアソラに目を付け、年末には楽団参加の仲立ちもした。ピアソラがトロイロ楽団脱退後、1940年代後半~1950年代前半に率いた楽団(50年代前半は録音活動のみ)では第1ヴァイオリンを務め、1954年のフアン・カナロ楽団の日本公演(ピアソラが多くの編曲を提供。歌手としてマリア・デ・ラ・フエンテも参加)では実質的なリーダーを務めた。時期は不明だがアルフレド・ゴビ楽団にも参加。ピアソラのオクテート・ブエノスアイレス(1955~57年)やコンフント9(1971年~1972年)では第2ヴァイオリンを務めている。

そして、アルフレド・ゴビ。彼について小松氏は番組で次のように熱く語っている。

「アルフレド・ゴビという人が忘れられていくということがあってはならないと思うし、ある意味ではアストル・ピアソラよりももっと偉い人です。なんでかと言うと、タンゴというジャンルそのもののど真ん中を作った人。もちろん、軽いものから重いものから、いろんなタンゴがあるんだけれども、タンゴというのは基本的にこうであるという、すべてのタンゴに共通する価値観というものを確立した人だと思うんですよね」

アルフレド・ゴビ(ミドル・ネームはフリオ、1912年5月14日~1965年5月21日)はパリ生まれ。同名の父親アルフレド・ゴビ(ミドル・ネームはエウセビオ)と母親のフローラ・ロドリゲスはタンゴ黎明期の歌手コンビで、「ゴビ夫婦 (Los Gobbi)」もしくは「ゴビと妻 (Gobbi y señora)」という名前で活動。同時期に活動を共にしたアンヘル・ビジョルドは、タンゴ界最初のシンガー・ソングライターとして「エル・チョクロ」などを残している。1907年にはゴビ夫婦とビジョルドでパリに渡り、録音活動も行う。手元に当時のレコードが1枚あるが、夫婦漫才のような雰囲気だ。

T39

息子アルフレドがパリ生まれなのは、そういう理由による。1912年末には帰国、6歳からピアノやヴァイオリンを学んでいる。前述の通りデ・カロに憧れてタンゴ界入りし、1927年にバンドネオン奏者フアン・マグリオ・“パチョ”の楽団に参加。バルダーロ=プグリエーセ楽団参加前には、オルランド・ゴニ、バンドネオンのドミンゴ・トリゲーロ(特に有名な人ではない)とのトリオでも活動している(ゴビ以上にボヘミアンだったゴニは1945年に31歳で死んでしまい、ゴビは「オルランド・ゴニに捧ぐ」を書いて追悼した)。バルダーロ=プグリエーセ楽団解散後は、プグリエーセとのデュオ(または楽団?)を経て、1935年にはプグリエーセの後を追って(?)ペドロ・ラウレンス楽団に参加。その後もいくつかの楽団を転々とした後、1942年に自己の楽団を結成する。

以前「アストル・ピアソラ五重奏団、1973年の超貴重映像」という記事で紹介したウルグアイのテレビ番組『タンゴの土曜日』出演の際、「アルフレド・ゴビの肖像」の演奏前にピアソラが司会のミゲル・アンヘル・マンシに語ったエピソードが、小松亮太著『タンゴの真実』(旬報社)に翻訳されている(p143~144)。詳しくは同書を読んで頂くとして(必読なので!)、近所に住んでいたゴビの家を訪れて「アレンジ譜を買わせてほしい」と頼む話が出てくる。ピアソラは「私の記憶では19歳の頃(1940年)だ」「まだ私が独身で…」と述懐しているが、ゴビ楽団の結成は1942年だ。ピアソラが結婚するのは1942年10月なので、その直前の出来事だとすれば、何とか辻褄は合う。ゴビの初録音は結成5年後の1947年5月だが、ブエノスアイレスの事情通の間で語られてきたのが、ゴビが本当に凄かったのは、まだレコード会社と契約できる前のことだったという話。それでも、残された録音で聴くゴビは特別だ。ただし、タンゴ界にありがちなボヘミアン気質その他いろいろな事情があり、ゴビ楽団が公式に残した録音は、決して多くはなく、1958年7月までの82曲がすべてだ。

小松氏は『タンゴの真実』の中で、ゴビについてこう書いている。「僕の実家にもゴビの音源はひとつもなかった。両親やその周辺の人たちがゴビという人の話をしていた記憶もない」「理由は「中庸だから」、いや、「中庸に見えているから」。これに尽きる」。まあ、確かにそうなのかも知れないし、日本で出たゴビのアルバムは、オムニバスに収められた以外の単独盤は『黄金時代のアルフレド・ゴビ』(1969年9月発売)ただ1枚だけだったので、仕方のないことだったのかも知れないが、実はもう一つ理由がある。戦後のタンゴ評論の世界を牛耳っていた高山正彦氏や、その一番弟子だった大岩祥浩氏が、ゴビのことをまったく評価していなかったのである。1954年発行の高山正彦著『タンゴ』(新興楽譜出版社)では、「現代タンゴ界の展望」と題されたパートで、個別の項目ではなくその他の扱いで、次のように記されている。

「同様にRCAヴィクトルに属する、アルフレド・ゴビは、「ヴィオリン・ロマンティコ・デル・タンゴ」の通り名がありますが、実の所は一向それらしくもない、むしろキメの荒い感じのヴァイオリンで、演奏も決して非力ではないのでありますが、魅力に乏しいうらみがあります」

たったこれだけである。その後の石川浩司氏や高場将美氏の登場によって、ようやくゴビへの正当な評価への兆しが表れたと言えるだろう。「中南米音楽」の1969年1月増刊『タンゴのすべて2』には「アルゼンチン一線評論家が選んだタンゴ十大楽団・十大歌手」という記事があり、そこでは次の楽団が選ばれている(順位はなし)。

フリオ・デ・カロ楽団
カルロス・ディ・サルリ楽団
オスバルド・プグリエーセ楽団
アニバル・トロイロ楽団
アルフレド・ゴビ楽団
オラシオ・サルガン楽団
オスバルド・フレセド楽団
アストル・ピアソラ
フランシスコ・カナロ楽団
アルマンド・ポンティエル楽団(またはフランチーニ=ポンティエル楽団)

ダリエンソが入っていないのが面白いが、納得の結果である。編集部(おそらく高場氏)によるゴビ楽団へのコメントを読んでみよう。

「1940年代から活動し、ムラはありましたが、1965年にゴビが没するまで存続しました。日本ではレコードがほとんどないこともあり、一般には良く知られていない楽団ですが、アルゼンチンでの評価は、この選出にあらわれた通りです。レコードは、ビクターの「黄金時代のタンゴ」シリーズ第三期のなかで発売されるので、それに期待しましょう」

そして「中南米音楽」1969年9月号の『黄金時代のアルフレド・ゴビ』紹介欄(下の写真は同内容のアルゼンチン盤)。

Cal2989

高場氏は見出しで「日本ではほとんど認識されていなかった一流楽団ゴビのオルケスタの真価を問うもの」と書き、本文では「気持のよいスイング感が、ゴビ楽団のいちばん大きな魅力だろう。その上に展開される演奏は、誇張や気取りがなく、タンゴの本当の楽しさにあふれている。古典タンゴと現代のスタイルとの融和としては、もっとも理想的なもののひとつといえよう」と評価する。石川氏も著書『タンゴの歴史』(青土社、2001年)で「評価を見直したいアルフレド・ゴビ」と見出しを付け、「筆者は現在では40年代のゴビ楽団はトロイロには及ばないもののプグリエーセよりは上だったのではないかと考えている」と書く。もっとも、プグリエーセが真価を発揮するのは1950年代になってから、という前提での評価ではあるが。

不肖ながら私も、岩岡吾郎編『タンゴ…世紀を超えて』(音楽之友社、1999年)の「タンゴの名流100撰」でゴビを担当させてもらい、次のように書いた。

「アルフレド・ゴビの例えようのない素晴らしさを、どのように書けばいいのだろう。ゴビのサウンドの中には、デ・カロもトロイロもディ・サルリもプグリエーセもある。そうした様々な要素、しかもおいしい部分が魔法のようにミックスされ、それが独特のスウィング感に乗って展開されていくのである。理論では説明不可能で、これはまさに天才的感性の賜物としか言いようがない」

なお、ゴビ楽団を支えた重要なメンバーとして、バンドネオンのマリオ・デマルコを挙げておこう。優れた作曲家で編曲家でもあったデマルコは、結成から1951年まで楽団を支えた後に独立、ゴビのスタイルを継承した自己の楽団を結成したが、1954年に解散。解散間際のデ・カロ楽団、再びゴビ楽団に短期間参加した後、プグリエーセ楽団に参加し、1959年まで力を揮った。その他楽団に去来したメンバーには、セサル・サニョーリ、エルネスト・ロメロ、ロベルト・シカレ、オスバルド・タランティーノ(以上ピアノ)、エデルミーロ・ダマリオ、アルベルト・ガラルダ、エドゥアルド・ロビーラ(ゴビ楽団に提供した「ゴビ風に(El engobbiao)」は傑作!)、オスバルド・ピーロ(以上バンドネオン)、アルシーデス・ロッシ、オスバルド・モンテレオーネ(以上コントラバス)、アントニオ・ブランコ、ウーゴ・バラリス(以上ヴァイオリン)などがいる。歌手はホルヘ・マシエル、エクトル・マシエル、アンヘル・ディアス、エクトル・コラル、アルフレド・デル・リオ、ティト・ランドーほか。

ゴビの録音は、全曲が次の5枚に収められてCD化されているが、入手はやや難しいか。

Eu17008
Colección 78 RPM - Alfredo Gobbi 1947/1953 (Euro EU 17008)

Eu17028
Colección 78 RPM - Alfredo Gobbi 1949/1957 (Euro EU 17028)

Eu16012
Archivo RCA - Alfredo Gobbi y sus cantores (Euro EU 16012)

Eu18007
Archivo Columbia - José Sala 1953/1954 - Alfredo Gobbi 1958 (Euro EU 18007)

Eu14027
“Entrador” Alfredo Gobbi Instrumental (1947-1958) (Euro EU 14027)

このうち、インストゥルメンタル全曲とエクトル・マシエルが歌う「ティエリータ」を収めた最後のCDが、現在Spotifyに挙げられている。とにかく聴くべし。

ピアソラは1961年4月、キンテート(ヴァイオリンはバルダーロ、コントラバスはキチョ・ディアス)によるアルバム『ピアソラか否か』に、ゴビが自身の楽団では録音できなかった「私の贖罪 Redención」を収録するにあたり、当時極度のアル中で録音活動から見放されていた 作者ゴビをスタジオに招いた。ピアソラはゴビのスタイルに忠実に演奏し、ゴビは演奏を聴きながら泣いていたそうである。トロイロが「悲しきミロンゲーロ (Milonguero triste)」を捧げた1965年、ゴビは亡くなった(同曲の録音は1月、亡くなったのは5月)。ピアソラは、自身もスランプにあえいでいた1967年に「アルフレド・ゴビの肖像」を初録音。ゴビの「放浪者(El andariego)」のフレーズをそこに織り込んだことは、小松氏が番組で語っていたとおりである。

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