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2021年3月

2021年3月 2日 (火)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その6 タンゴあれこれ~アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ

旧サイト「tangodelic!」に連載していた記事「タンゴ入門講座」再掲載の第6回(元の連載の第17~18回分)。今回はコラム。

タンゴあれこれ(1)「アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ」その1
(初出:2001年8月1日)

タンゴは19世紀の終わり近く、アルゼンチンの首都であり南米屈指の貿易港でもあったブエノスアイレスの、船員や娼婦などがたむろする場末のいかがわしい界隈で発生した踊り、およびその音楽である。ただし、ラ・プラタ川を挟んだ小国ウルグアイの首都モンテビデオ(距離的にも近い)でも、タンゴにまつわる現象は同時発生的に起こっていたと思われ、著名なタンゴ人も多く排出している。それでも、経済的な規模などが違い過ぎるために、ブエノスアイレスが文化の中心となるのは必然だった。アルゼンチンは広大な国土を持つが、タンゴが盛んなのはブエノスアイレス及び2~3の地方都市に限られた。地方に生まれてタンゴを演奏したいと思った者は、ブエノスアイレスに出る以外にほとんど方法はなかった。あくまでもタンゴは、都会の音楽であり、ブエノスアイレスに暮らす人々の感情の拠りどころともなったのである。そうしたこともあって、タンゴ・アルヘンティーノ(アルゼンチン・タンゴ)ではなく、タンゴ・リオプラテンセ(ラ・プラタ流域のタンゴ)と呼ぶべきだと主張する人もいるくらいである。

1910年前後から、ヨーロッパに渡って活動するタンゴの演奏家や踊り手が増え始めたことで、フランスやドイツなどにもタンゴの種が蒔かれ始めた。そして、1925年のフランシスコ・カナロ楽団によるパリ公演の成功を機に、大きなブームが起こる。ヨーロッパ独自のタンゴ文化が生まれ、1920年代後半から30年代にかけて、各国でオリジナルのタンゴが作られるようになったのである。有名な作品といえぱ、「ジェラシー Jalousie」(デンマークのヤコブ・ガーデ作)と「碧空 Blauer Himmel」(ドイツのヨゼフ・リクスナー作)が双璧だろう。当時の演奏家としては、ドイツのヴァイオリン奏者バルナバス・フォン・ゲッツィ(1897~1971)率いる楽団が特に有名である。こうしたヨーロッパ製タンゴのことは、コンチネンタル・タンゴと呼ばれるが、実はこの呼称は日本独特のものである。

ヨーロッパで独自に発展したタンゴは、まさにヨーロッパ的と言える優雅で美しい旋律を特徴とするものが多い。反面、アルゼンチン・タンゴが本来持っていたリズムの面白さはほとんど感じることができない。曲の構造も違えば、演奏スタイルも異なり、弦楽器が主体で、通常バンドネオンは入らず、代わりにアコーディオンが入ったりする。1940年代、ブエノスアイレスではフアン・ダリエンソやアニバル・トロイロ、オスバルド・プグリエーセらの台頭などによってタンゴが音楽的に成熟し、大衆の幅広い人気を得たのに対し、ヨーロッパのタンゴは第二次世界大戦の影響などもあり、音楽的に発展することが出来ず、大衆音楽としては明らかに衰退していった。

そのコンチネンタル・タンゴが、いささか歪んだ形で紹介されたのが、戦後の日本だった。日本では戦前からタンゴが親しまれていたが、アルゼンチンのタンゴもヨーロッパのタンゴもひとまとめにしてヨーロッパ経由で紹介されることが多く、コンチネンタル・タンゴのファンも多かった。そうした経緯があったことから、一部のレコード会社やプロモーターが、ヨーロッパでは既に落ち目のコンチネンタル・タンゴを盛んにプッシュしたのである。そのピークは1960年代半ばのことだった。日本でのコンチネンタル・タンゴ・ブームの立役者となったのが、西ドイツ(当時)のアルフレッド・ハウゼ(指揮)と、オランダのマランド(アコーディオン、指揮)。例えばハウゼは、本国では放送局のオーケストラの指揮者を務めていて、タンゴはレパートリーの一部に過ぎなかったが、日本ではタンゴ専門の楽団として売り出され、成功したのである。しかし、ハウゼやマランドの音楽は、形骸化したムード音楽に過ぎず、タンゴ本来の魅力からは極めて遠い位置にあった。そして、日本でのコンチネンタル・タンゴ人気は、更なる弊害をも生み出した。日本の制作サイドが、例えばエンリケ・マリオ・フランチーニのようなアルゼンチンの一流のタンゴの演奏家に、日本向けにコンチネンタル・タンゴのレパートリーを演奏させる現象まで起きてしまったのである。本人たちは、普段とは違うレパートリーを楽しんで演奏したのかも知れないし、それなりにアレンジの面白さも感じられるものの、やはりどこか本質を見誤っていた気がしてならない。

Francini2
エンリケ・マリオ・フランチーニ
タンゴ界最高のヴァイオリン奏者は、どんな思いでコンチネンタル・タンゴを弾いたのだろうか。

タンゴあれこれ(2)「アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ」その2
(初出:2001年8月8日)

戦前のヨーロッパで特にタンゴが盛んだったのは、フランスとドイツである。戦後のドイツでコンチネンタル・タンゴが衰退していったのは、前回書いた通りだが、フランスでは少し事情が違っていた。アニバル・トロイロやマリアーノ・モーレスなど、アルゼンチンでの新世代台頭の影響を受けて、ヨーロッパ風にアレンジされた従来のタンゴとは異なる、アルゼンチンのタンゴ本来のスタイルにより近い演奏をする楽団がいくつか現れたのである。モーレスは1953年から翌年にかけてパリに滞在し、演奏活動やレコーディングを行っているし、アストル・ピアソラも1954年、モーレスと入れ替わるようにパリに渡った。ピアソラの渡仏の目的はクラシックの勉強だったが、結果的には弦楽オーケストラ編成(パリ・オペラ座の楽団員が中心)で16曲の録音を行い、自身の新しいタンゴを世に問うことになった。こうしたモーレスやピアソラのパリでの活動が、当地のミュージシャンたちに刺激を与えただろうことは、想像に難くない。

1950年代のフランスで、アルゼンチン・スタイルの演奏を得意としていたのは、プリモ・コルチア楽団やマルセル・フェイジョー楽団などである。バンドネオン奏者フェイジョーはアルジェリア生まれのフランス人で、楽団を結成したのは1945年のこと。ピアソラとフェイジョーはパリで「S.V.P.(シル・ヴ・プレ)」を合作し、お互いに自分の楽団で録音した。またピアソラはフェイジョーに「バンドー」を捧げている。パリでのピアソラはほかにも「ミ・テンタシオン(わが欲望)」(ラモン・シロエとホセ・モラネス作)、「エスタモス・リストス(用意はできた)」(アンジェロ・ブルリ作)といったパリのタンゴ人たちの作品を取り上げていて、様々な交流があったことが伺える。一方、ピアソラがパリで書いた作品には、例えば「グアルディア・ヌエバ」や「セーヌ川」など、コンチネンタル・タンゴ風とまでは言わないまでもヨーロッパ的な雰囲気を漂わせたものが目につく。ピアソラのパリ滞在(~1955年)を契機にタンゴ・ブームが起こる、というようなことはなかったものの、ピアソラの影響力はじわじわとフランスの音楽界に浸透していった。

Feijoo
(左)マルセル・フェイジョー
(右)録音スタジオのピアソラ(手前)とフェイジョー(1955年)

そのフランスを中心に新しいタンゴの波が起こったのは、1970年代以降のことである。ピアソラは1974年、イタリアのローマに移住し、ミラノのスタジオ・ミュージシャンたちをバックにアルバム『リベルタンゴ』を録音、76年からはパリに移り、他ジャンルの音楽家との共演を含めて積極的な演奏活動を続けた。77年、歌手スサーナ・リナルディのバックでパリを訪れたバンドネオンのフアン・ホセ・モサリーニは、亡命する形でそのままパリに残る(1976年から83年までアルゼンチンは軍事政権下にあり、自由な活動を制約された多くの文化人が亡命した)。ほかにもフアン・セドロンなど何人もの音楽家がこの時期にヨーロッパに移り住み、70年代後半から80年代にかけて前述のスサーナ・リナルディやセステート・マジョール、オラシオ・サルガンとウバルド・デ・リオ、オスバルド・プグリエーセ楽団などが、頻繁に演奏旅行で各地を訪れたことから、ヨーロッパのタンゴ・シーンが活性化されていった。特にモサリーニは、演奏家としてのみならず、バンドネオンの教授として後進の指導にも大きな役割を果たしてきた。

後にブロードウェイを席巻し、タンゴ・ダンス・ショーのブームの先駆けとなった『タンゴ・アルゼンチーノ』のスタートは、1983年のパリだった。84年には、イタリアの人気歌手ミルバとピアソラ五重奏団とのショー『エル・タンゴ』がパリでスタートし、スイスの室内楽団イ・サロニスティがアルゼンチンのバンドネオン奏者オスカル・ギディをゲストに迎えて秀逸なタンゴ・アルバムをリリース…。もはやここまでくると、かつてのコンチネンタル・タンゴの面影は微塵もない。アルゼンチン・タンゴの世界的な展開といった感じである。そしてヨーロッパのあちこちから新しいグループが登場し様々なアプローチを展開、90年代半ばに始まるピアソラ・ブーム以降は、クラシック界からの新規参入も盛んになって現在に至るというわけだ。

ヨーロッパといっても広く、どこの国でも同じような状況だったわけではない。たとえばフィンランドは、いわゆるコンチネンタル・タンゴとはまったく別のところで独自のタンゴ文化を築いてきた国である。フィンランドではタンゴは国民音楽のように親しまれて来たが、レパートリーはほとんどが自国で作られた歌入りのタンゴだった。それが10年ほど前からは、ピアソラの作品やアルゼンチン・タンゴ全般、あるいは過去のフィンランド・タンゴの人気曲などをインストゥルメンタルで演奏するグループがいくつも登場している。果たしてヨーロッパのタンゴは、これからどのように展開していくのだろうか。

2021年3月 1日 (月)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その5 タンゴの音楽形式~ワルツ/カンドンベその他

旧サイト「tangodelic!」に連載していた記事「タンゴ入門講座」再掲載の第5回(元の連載の第14~16回分)。音楽形式の最終回。

タンゴの音楽形式(6) 「ワルツ」
(初出:2001年7月11日)

ワルツは4分の3拍子の曲。スペイン語では「バルス Vals」となるので、タンゴ・ファンの中には、この呼び方を好む人も少なくない。タンゴは、ハバネラやミロンガなどの他に、ヨーロッパのダンス音楽であるワルツやポルカなどの要素も含んでおり、タンゴ楽団も自然とワルツをレパートリーに取り入れるようになった。ブエノスアイレスで、主にタンゴ楽団のレパートリーとして書かれたワルツは、バルス・クリオージョ(南米風もしくは土地っ子のワルツ)と形容されるものが多いが、特にタンゴの初期においては、ヨーロッパから伝えられたウィンナ・ワルツもよく演奏されていたようだ。エドゥアルド・アローラスのCD "Homenaje a la guardia vieja del tango" (El bandoneon EBCD 125)には、アローラス楽団が1913年から1918年にかけて録音した貴重な20曲が復刻されているが、この中にワルツが3曲あり、うち2曲は後述のバルス・クリオージョ、残り1曲は「スケートをする人々(スケーター・ワルツ)」で有名なフランスのエミル・ワルトトイフェルの「愛と青春」という曲だった。

現在も聴かれるアルゼンチンのワルツで、時代の古いものというと、だいたい1910年代の作品ということになる。主なものを挙げてみよう。

 フランシア(オクタビオ・バルベーロ作曲、1910年)
 トゥ・ディアグノスティコ(ホセ・ベティノッティ作曲作詞、1910年)
 ラグリマス・イ・ソンリサス(涙と笑い)(パスクアル・デ・グージョ作曲、1913年)*
 エル・アエロプラーノ(飛行機)(ペドロ・ダッタ作曲、1915年)
 パベジョン・デ・ラス・ロサス(バラの館)(ホセ・フェリペッティ作曲、1915年)*
 デスデ・エル・アルマ(心の底から)(ロシータ・メロ作曲、1917年)

*印の2曲が、アローラスのCDに含まれていたバルス・クリオージョである。「トゥ・ディアグノスティコ」はアニバル・アリアスとオスバルド・モンテスのCDなどで聴ける。続いて、1930年前後にもワルツの傑作がまとまって世に出ている。

 コラソン・デ・オロ(黄金の心)(フランスシコ・カナロ作曲、ヘスス・フェルナンデス・ブランコ作詞、1928年)
 ラ・プルペーラ・デ・サンタ・ルシア(サンタルシアの酒場の娘)(エンリケ・マシエル作曲、エクトル・ブロンベルグ作詞、1929年)
 パロミータ・ブランカ(白い子鳩)(アンセルモ・アイエータ作曲、フランシスコ・ガルシーア・ヒメネス作詞、1929年)
 スエニョ・デ・フベントゥー(青春の夢)(エンリケ・サントス・ディセポロ作曲作詞、1931年)

1940年代には、オルケスタ・ティピカと専属歌手たちが個性も華やかに活躍し、多くの優れたタンゴ歌曲が生まれた。この時代を代表するワルツとしては、次のようなものがある。いずれ劣らぬ傑作揃いで、特に「カセロン・デ・テハス」は最近でも多くの歌手が取り上げている。

 カセロン・デ・テハス(瓦屋根の家)(セバスティアン・ピアナ作曲、カトゥロ・カスティージョ作詞、1941年)
 ペダシート・デ・シエロ(空のひとかけら)(エクトル・スタンポーニ、エンリケ・マリオ・フランチーニ作曲、オメロ・エスポシト作詞、1942年)
 ロマンセ・デ・バリオ(下町のロマンス)(アニバル・トロイロ作曲、オメロ・マンシ作詞、1947年)

1953年にアルフレド・デ・アンジェリス楽団(歌:カルロス・ダンテ)でヒットした「ケ・ナディエ・セパ・ミ・スフリール(誰も知らない私の悩み)」と言う曲は、ペルー人アンヘル・カブラルが作曲し、アルゼンチン人エンリケ・ディセオが作詞したバルス・ペルアーノ(ペルー風のワルツ)である。バルス・ペルアーノは、8分の6拍子と4分の3拍子が組み合わされているなど、それまでのアルゼンチンのワルツに比べて異なった雰囲気を持っていた。なおこの曲は後にエディット・ピアフによって、シャンソン「群衆 La foule」として生まれ変わっている。ペルーのワルツといえば、ペルーを代表する女性シンガー・ソングライターであるチャブーカ・グランダの代表作のひとつ「ラ・フロール・デ・ラ・カネーラ(肉桂の花)」が、50年代末にマリアーノ・モーレス楽団やアニバル・トロイロ楽団によって取り上げられている。

そして、アストル・ピアソラも、数は少ないが意欲的なワルツを書いている。1950年、当時の妻に捧げて書いた「デデ」は、オーボエをフィーチャーした斬新な作品だったし、オラシオ・フェレールと組んで1968年に発表した「チキリン・デ・バチン」も、新しいスタイルの歌曲として幅広い人気を得た。翌69年の作品で、ピアソラ=フェレールの最高傑作と名高い「バラーダ・パラ・ウン・ロコ(ロコへのバラード)」も、基本はタンゴだが、途中にワルツのパートが挟まっている。

タンゴ楽団が演奏するワルツは、タンゴほどに楽団の個性を写し出すものではないし、どこか息抜きのようなところもあるが、やはりないと寂しい気がする。そんな中で、見事なアレンジとオーケストレーションで古典ワルツに新しい解釈を施し、聴き手に強烈な印象を与えた演奏として、オスバルド・プグリエーセ楽団の「デスデ・エル・アルマ」(上記1910年代の作品一覧参照、プグリエーセ楽団の録音は1979年)を挙げておこう。

Desdeelalma
「デスデ・エル・アルマ(心の底から)」の楽譜表紙
形式名が「バルス・ボストン」と書かれているが、特に音楽的な意味合いはなさそう。

タンゴの音楽形式(7) 「カンドンベほか」その1
(初出:2001年7月18日)

タンゴ楽団や歌手のレパートリーには、これまでにご紹介したタンゴ、ミロンガ、ワルツ以外に、どんなものがあるのだろうか。演奏される機会は少ないものの、幾つかの音楽形式があり、それらは大きく二つに分類出来る。ひとつは、タンゴ楽団のダンス・バンドとしての性格上演奏された外来のダンス音楽で、例えば次のようなものがある。

【フォックストロット】 1910年代にアメリカ合衆国で流行ったダンス音楽。1920年代からアルゼンチンでも好まれた。
【ポルカ】 19世紀前半にヨーロッパで生まれた2拍子の舞曲。初期のタンゴにも影響を与え、19世紀末にはアルゼンチンでも流行した。
【パソ・ドブレ】 スペイン生まれの舞曲。行進曲風の2拍子もしくは3拍子で、1920年代にはアルゼンチンやフランスでも流行した。
【ルンバ】 19世紀にキューバで生まれた音楽だが、1930年代には形を変えて、社交ダンスとしてアメリカやヨーロッパで流行した。

また、マズルカ(ポーランド生まれの舞曲)などの影響のもと、ブエノスアイレスで生まれた音楽形式にランチェーラがある。2拍目にアクセントがある民謡調の3拍子で、1920年代から30年代にかけて流行した。女性歌手アダ・ファルコンが歌ってヒットした「メ・エナモレ・ウナ・ベス(一度恋に落ちた)」(フランシスコ・カナロ作曲、イボ・ペライ作詞、1932年)のように、作品として生き残ったものもあるが、音楽としては完全に過去のものである。

今挙げたようなダンス音楽は、フランシスコ・ロムート楽団やオスバルド・フレセド楽団などが1930年代前後に比較的多く取り上げていたし、1940~50年代にも、タンゴやワルツと共にこうした曲を専門に演奏していたエンリケ・ロドリゲス楽団のような存在もあったが、一般的に幅広く演奏されるほどの内容があったとは言い難い。

もうひとつの流れは、新しい音楽形式の開拓といえるもので、代表的な例としてはカンドンベがある。カンドンベはもともと、18世紀後半から19世紀前半にかけて、ウルグアイのアフリカ系黒人たちの儀式として始まった。その後黒人の減少とともに本来の形は失われ、19世紀末には、3種の太鼓(それぞれチコ、レピーケ、ピアノと呼ばれる)によるリズム・パターンとしてカーニヴァルの中に取り込まれていった。カンドンベはタンゴの成立にも多少の影響を与えたとも考えられていて、タンゴのルーツ指向が強まった1930年代後半から、新しい形のカンドンベが生み出されるようになった。この動きは、1930年代にセバスティアン・ピアナらの手によってミロンガが蘇生したのとも関連している。

新しいカンドンベは、ミロンガのリズムを基本に、先に触れた3種の太鼓によるリズム・パターンを加えてアフロ色を強くしたものである。ただしそれは、カンドンベの文化的背景をより強く持つウルグアイでの話で、アルゼンチンの作品のほとんどはそこまで本格的なものではなかった。だいたいはミロンガにカンドンベ的なビート感を加味した作品で、形式名もミロンガもしくはミロンガ・カンドンベとなっていた。セバスティアン・ピアナのいくつかの作品のほか、1942年にミゲル・カロー楽団が初演、ピアソラによるユニークな録音もある「アサバーチェ」(エンリケ・フランチーニ、エクトル・スタンポーニ作曲、オメロ・エスポシト作詞)などが知られている。一方ウルグアイでカンドンベ復活の立役者となったのは、<「ミロンガ」その2>にも登場したピアニスト、ピンティン・カステジャーノスで、「カンドンベ・オリエンタル(ウルグアイのカンドンベ)」(1940年)などの作品を残している。

ウルグアイとアルゼンチンでは演奏スタイルも異なり、カンドンベを得意としたウルグアイのロメオ・ガビオリ楽団は、3種の太鼓を加え複雑なリズムを表現したのに対し、アルゼンチンの楽団はせいぜいパーカッションを補強する程度だった。フアン・ダリエンソ楽団の「カンドンベ・オリエンタル」にはパーカッションが入っておらず、多少ビートの強いミロンガにしか聞こえない。アルゼンチンでのカンドンベ普及に一役買ったのは歌手のアルベルト・カスティージョで、ウルグアイで作られた作品を積極的に取り上げて、それがトレードマークのひとつとなった。

Gavioli
ヴァイオリン奏者/楽団指揮者/作曲家のロメオ・ガビオリ(1912~1957)

タンゴの音楽形式(8) 「カンドンベほか」その2
(初出:2001年7月25日)

アルゼンチン産のユニークなカンドンベとしては、マリアーノ・モーレスが1954年に映画『わが街の声』の中の1曲として発表した器楽曲「ファンダンゴ」がある。この曲のモーレスによる最初の録音は、バンドネオン抜きでオルガンの入ったタンゴ管弦楽団+打楽器+コーラスという編成だった。次いで1956年、アストル・ピアソラは弦楽オーケストラを率いてウルグアイでLPを録音したが、その中にピアソラが書いた唯一のカンドンベ、「ジョ・ソイ・エル・ネグロ(オレは黒人)」(カルロス・グロスティーサ作詞、歌はホルヘ・ソブラル)が含まれていた。ウルグアイでの録音というのがミソで、ちょっと聴き取りにくいが、ちゃんと3種の太鼓を使っている。曲調はミロンガ的ではない2拍子で、ピアソラ流のモダニズムと伝統的なカンドンベ本来のリズムがうまく結びついている。また、最近では、1980年代にダニエル・ビネリbnとウーゴ・ロメロgのデュオが、ウルグアイのパーカッション奏者カチョ・テヘラらのサポートを得てカンドンベの現代化に取り組んでいた。

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アストル・ピアソラ(1956年)
「ジョ・ソイ・ネグロ」を含む10インチLP"Lo Que Vendra"(Antar PLP-2001)の裏ジャケットより

カンドンベ以外では、フランシスコ・カナロがタンゴン(ミロンガ+ルンバといった感じ)など、カナロ楽団出身のマリアーノ・モーレスがバイアンゴ(バイオン+タンゴ)など、いくつかの新しい音楽形式を発表したが、これは単なる思いつきというか企画倒れの感もあり、それなりの面白さはあっても、新しい形式としての必然性を感じるところまではいかない。実際のところ、ほかには普及することなく終っている。そうした一連の作品と一線を画するものとして、アストル・ピアソラが1951年に発表した「タングアンゴ」を挙げておこう。この曲は当時アニバル・トロイロ楽団とオスバルド・フレセド楽団が録音している。トロイロ楽団のレコード(SP盤)に表記された形式名は“ヌエボ・リトゥモ・パラ・トーダ・オルケスタ”(すべての楽団のための新しいリズム)となっていた。フレセド楽団のレコードでの表記は未確認だが、資料によれば単に“ヌエボ・リトゥモ”(新しいリズム)と書かれていたようだ。ピアソラがこの形式名を用いたのはこの異色作のみだが、<「タンゴ」その3>でもご紹介したように、この曲には後にピアソラのトレードマークとなる3-3-2のリズムが大々的に使われていた。ピアソラは、その後の多くの作品に於いて3-3-2のリズムを曲の要所要所で使うようになるのだが、全体をそのリズムで押し切るという作り方はせず、タンゴの基本である4ビートなどとうまく組み合わせることによって、より効果的なアプローチを見せるようになったわけである。それが「タングアンゴ」ではほぼ全編がそのリズムで構成されていて、しかもそれがパーカッションによって強調されていたところが、実験作たる所以(ゆえん)である。

最後に、2回に分けて紹介して来た2つの流れ(外来のダンス音楽と、新たに創造されたリズム)のどちらにも属さない音楽形式として、カンシオンを挙げなければならない。カンシオンとはずばり、「歌」である。基本的にはタンゴでも、より自由なスタイルを持ち、ほかの音楽形式にも転用可能な歌曲は、タンゴ・カンシオンなどと呼ばれたが、更に自由度を高めたものが単なるカンシオンであり、間違いなくその代表作と言えるのが、カルロス・ガルデル一世一代の名曲「エル・ディア・ケ・メ・キエラス(想いのとどく日)」(カルロス・ガルデル作曲、アルフレド・レ・ペラ作詞、1935年)。この曲は作者たちの意図通り、タンゴの枠を遥かに越えて中南米諸国全体で歌われ愛されるスタンダードになったのである。

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