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2020年3月16日 (月)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(6)~シングル「逢わずに愛して/捨ててやりたい」

デビュー・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』リリースの1か月後、内山田洋とクール・ファイブのシングル第3弾として、「逢わずに愛して」がアルバムからシングル・カットされる。

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● シングル03

A) 逢わずに愛して
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 捨ててやりたい
川内康範 作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1045 1969年12月5日発売

第4回の「一度だけなら」の項でも軽く触れたとおり、内山田洋は1978年12月リリースのメンバー自選ベスト『<スター・マイ・セレクション・シリーズ> 内山田洋とクール・ファイブ』のライナーでこの曲についてこう書いている。

実は、その当時シングル盤の候補曲が10数曲あり何度か熱っぽく討議を重ねた結果発売されたのがこの曲です。翌(昭和)45年シングル・カットされ大ヒットとなった「噂の女」と同じRCAレーベルの野村真樹君のデビュー・ヒットとなった「一度だけなら」が、その時の最終的に残った競争相手です。

一方、やはり第4回でも触れたとおり、RCAの山田競生は、3枚目のシングルまでは彩木雅夫に書いてもらう約束になっていたと言う。第2弾の「わかれ雨」を「あんな曲」と切り捨てた山田は、「逢わずに愛して」が届いた時のことをこう振り返る。「彩木さんが、曲ができたと喜び勇んで北海道から出て来たんです。その譜面を見た瞬間、ホッとしましたよ。彩木さんと会うについては、私は腹に晒を巻いている気持ちだったんですから。もし駄目な曲なら、身体を張っても、とさえ思っていたんですから。これで彩木さんと揉めずにすんだと、ホッとしました」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)。そして彩木は山田に対し、自分の匂いが付かないよう、これからは他の人に書いてもらうように、自分は2年後にまた書かせてもらうから、と告げたとのことだ。

1か月の違いではあるが、「逢わずに愛して」がシングルに先んじてアルバムに収録されたということは、アルバムのための曲集めと、次のシングルの準備が、だいたい同時進行で進められていたということになるのだろう。そして、シングル化に際しては、アルバムに収められたヴァージョンに手が加えられた。

まず、テナー・サックスとヴォーカルが差し替えられている。イントロ1発目のサックス、わかりやすくキーをCで表現してみると、アルバムでは

 ミミーーー ドドレミソソーーー

だったのが、シングルでは

 ミーーーー ドドレミソーーーー

と、音を伸ばしている。なので、頭の部分を聴くだけで、どちらのヴァージョンかは判断しやすい。音楽的な必然というよりは、区別をわかりやすくするための処理、という気もしないでもない。

そして前川清のヴォーカル。5枚目のシングルとなる「噂の女」でもヴォーカルは録り直され、かなり歌い方を変えることになるが、ここではさほどの目立ったニュアンスの違いはなく、よく聴かないとわからない程度。違いを感じやすい箇所としては、サビの

 あゝ 永久にちりばめ

の終わり方が挙げられる。アルバムでは「め」をそのまま短めに伸ばし、あっさり切っているが、シングルでは最後をやや丸めるような感じにしている。

ミックスもいじられ、イントロから歌に入る直前のサックスの後ろの「♪あー あー あー」というコーラスと、「♪夢の夢のかけらを」の所で左チャンネルに入るタンバリンの音量が上げられているが、この処理は正解。

かくして12月5日にリリースされた「逢わずに愛して」は、20日間で30万枚近くも売れたとのことだ。クール・ファイブを代表するシングルと言えばまず「長崎は今日も雨だった」、次いで「そして、神戸」「東京砂漠」が挙げられ、「噂の女」あたりがそれに続くのだろうが、売り上げという意味ではオリコン調べで69.9万枚、メーカー発表(1975年1月現在)で96.3万枚と、この曲が全シングル中の第2位であり、なによりも唯一のオリコン・シングル・チャート第1位獲得曲でもある。

確かに「わかれ雨」と比べて曲のイメージは明快で、グループとして安定した活動を続けていく上でも重要なヒット曲となった。山田は語る。「<長崎は今日も雨だった>でクール・ファイブに向きかけたお客が、<わかれ雨>でそっぽを向いちゃった状況の中で、こうした売れ方をしたことは、他人事のようないい方ですけど、とにかく不思議な現象でした」(前掲書)

更に、この曲を語る上で欠かせない重要な要素がもう一つ、その直情的な歌詞にある。

作詞は川内康範(かわうち・こうはん、本名:川内潔、1920年2月26日函館市生まれ、2008年4月6日没)。履歴書に堂々と記した通りの高等小学校卒。家庭環境故ではなく、自分の意志で中学には進まず独学を貫き、職を転々とした後、作家を目指して17歳で無一文で上京。苦労の末に日活撮影所に入り、その後東宝の演劇部へ。海軍に応召するが太平洋戦争開戦直前に病気理由で除隊。その後散っていった戦友たちへの思いが、戦後自費で10年間続けた海外戦没者遺骨収集活動に繋がっているという。1941年には文芸誌に作品が掲載され、作家デビューを果たす。戦後は、恋愛ものなどの小説や映画の原作・脚本などを多く手掛けるが、代表作はテレビドラマの草分けでもある『月光仮面』だろう。極めて低予算で制約も大きかったが、輸入ものに頼らない国産のヒーローものを作りたいというスタッフたちの強い意志のもと、大道具や照明の経験も豊富な川内はそれに見合った脚本を書き、主題歌2曲も作詞した。なお、番組を制作した宣弘社の社員募集に応じてきた若者の中には、後の作詞家・阿久悠もいた。「憎むな、殺すな、赦しましょう」がキャッチフレーズの『月光仮面』は、1958年2月からラジオ東京テレビ(KRT、後のTBS)で放映が開始され、電気店の店頭のテレビに子どもたちが群がる人気番組となった。ところが、子どもたちが月光仮面の真似をして高所から飛び降りては怪我をする事故が続いて、PTAや良識派からの反発を招き、番組は1959年7月で打ち切りとなった。

川内が作詞家としても本格的に活動を開始したのはその後のこと。出世作となった「誰よりも君を愛す」は、月刊『明星』に1958年から連載中だった同名の小説をもとにしたもので、ビクターの磯部健雄ディレクターと作曲した吉田正からの求めに応じ、小説のエッセンスを歌詞にまとめた。当初は和田弘とマヒナ・スターズのみでレコーディングの予定だったが、新宿のクラブ歌手だった松尾和子の歌を聴いて惚れ込んだ川内が強く推薦し、マヒナと松尾の共演となったシングルは1959年12月にリリース。目論見通りに大ヒットとなり、1960年の第2回レコード大賞を受賞した。

「恍惚のブルース」(作曲:浜口庫之助)は『週刊現代』に連載していた『恍惚』がベースとなっている。やはりクラブで歌っているところを川内に発掘され、この曲で1966年5月30日にビクターからデビューした青江三奈は、その芸名自体が『恍惚』のヒロインの名前から採られている。川内は以降も、1968年の第10回日本レコード大賞・歌唱賞を受賞した「伊勢佐木町ブルース」(作曲:鈴木庸一)を含む、1968年春までの彼女のシングルの大半を作詞している。

そのほか、1966年1月東芝から再デビューの城卓也(実力はありながらテイチクで低迷していた歌手、菊地正夫にこの新しい芸名を授けたのも川内)「骨まで愛して」(当時の妻の川内和子名義。作曲:文れいじ―城卓也の兄、北原じゅんの別名―)は『女性自身』に、才能を持て余して借金とスキャンダルまみれだった水原弘にとって起死回生作となった1967年2月の「君こそわが命」(作曲:猪俣公章)は『アサヒ芸能』に、それぞれ連載していた小説がもとになっている。

そして森進一。川内は森の芸能活動の様々な局面でバックアップ役を務めるほど、繋がりは深かった。森が歌った川内作品は全部で33曲とのことだが、シングルA面曲に限ると「花と蝶」(作曲:彩木雅夫、1968年5月5日発売)「花と涙」(作曲:宮川泰、1969年10月5日発売)「銀座の女」(作曲:曽根幸明、1970年9月15日発売)「おふくろさん」(作曲:猪俣公章、1971年5月5日発売)「火の女」(作曲:彩木雅夫、1971年9月5日発売)「命あたえて」(作曲:猪俣公章、1981年9月21日)「語りかけ」(作曲も、1999年8月2日発売)の7曲だけで、意外と少ない感じがする。ちなみに「花と涙」リリース後の1969年10月27日、NET『アフタヌーン・ショー』に出演予定だったが森が体調を崩したため、代わりに前川清が初めてグループから離れて一人で急遽代役を務め、この曲を披露している。

森と川内といえば、川内の晩年、2007年1月に巻き起こった「おふくろさん」騒動が記憶に新しい。森が冒頭に新しい語りの部分を付けて歌っているのを知った川内が不快感を表明したのだが、改変が原作者に対する冒涜だという思いだけでなく、そのことを知らされていなかったことに対しての憤りでもあった。そしてその指摘に対する森側の煮え切らない、突き放したような態度が、更に問題を大きくした。結局和解に至らないまま川内は他界、その後川内の遺族とは話がついて、騒動以来森が封印していた川内作品を「おふくろさん」を含めオリジナルのまま歌い続けるという方向で落ち着いた。

そんな波乱万丈な人生を歩んでいた川内への作詞の依頼は、逆転ホームランを狙う山田のアイディアだったのか。衒いのない愛のかたちをストレートに表現する川内の歌詞が、ヒットの要因の一つであることは確かだろう。

なお、今回川内の軌跡を紹介するにあたり、主に次の2つの記事を大いに参照させて頂いた。素晴らしい内容なので併読をお勧めする(マンガショップのサイトからリンクが張られた東奥日報の画像は、小さくてとても読みづらいが)。

関川夏央『人間晩年図巻』2000年代編<第1回-2>「生涯助ッ人」―川内康範―

東奥日報 2006年10月27日~『あおもり はやり歌 人もよう』作詞家 川内康範(1)~(12)

大ヒット曲となった「逢わずに愛して」は、この後リリースされた彼らのベスト盤にはもれなく収録されることになるが、実はシングル・ヴァージョンではなくアルバム・ヴァージョンで収められてしまったものも少なからずあるのでご注意を。手元に盤があって確認できただけでも、1971年10月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ(パネル・デラックス)』(RP-9115~6)、1972年8月5日発売の『内山田洋とクール・ファイブ・オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集』(JRX-1)、同年11月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ・ベスト24』(JRS-9121~2)、1973年11月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ・オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集』(JRX-9)、1978年9月5日発売の『内山田洋とクール・ファイブ 10年の軌跡』(RVL-4013~7)の5種が該当する。

「逢わずに愛して」の影に隠れがちだが、森岡賢一郎による軽快なボサ・ノヴァ風のアレンジが施されたB面の「捨ててやりたい」も、少なくとも個人的には極めて重要な曲である。作詞はA面同様川内、作曲はB面への提供がこれも3枚連続となる城美好(=チャーリー石黒)。これまで紹介してきた曲はすべて3連のリズムで書かれていたので、これはそこから離れた初めての曲となり、サックスではなくフルートがフィーチャーされている。そんな洒脱なアレンジに、川内の濃厚な歌詞と前川のいつもの歌い方が乗っかるというミスマッチ感がたまらない。この録音ももちろん良い出来なのだが、第4回で「わかれ雨」を紹介する内山田のMCについて触れたのと同じ、1970年9月27日の日劇でのリサイタルを収録した2枚組『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』で聴ける、クール・ファイブ自身の演奏によるライヴ・ヴァージョンの方にこそ、洋楽をベースに持つ彼らならではの特質が、より色濃く現れていると思う。

最後に、これはまったくの余談だが、「逢わずに愛して」はブラジルRCAからもリリースされている(ジャケット写真はネットから拝借)。

Jcd14002

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どうやら4曲入り17cm盤らしく、他の収録曲目も不明だが、ブラジルの日系人向けのリリースだったのだろうか。

(文中敬称略、次回に続く)

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