内山田洋とクール・ファイブのレコード(5)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜についての再検証
3枚目のシングル「逢わずに愛して/捨ててやりたい」に進む前に、書いておかなければいけないことができたので、少し時間を戻す。
「長崎は今日も雨だった」を遠く札幌の地で作曲した彩木雅夫が、2010年4月28日にリリースされたCD3枚組『GOLDEN☆BEST deluxe 内山田洋とクール・ファイブ A面ヒット曲集』(GT Music MHCL-1730)のブックレットに『「長崎は今日も雨だった」に寄せて』という一文を寄稿していた。私はこのCDを持っていなかったのだが、さる方のご協力を得て読むことができ、いろいろなことがわかってきたので、これまでに(特に第2回)書いてきたものに追加・訂正する形で紹介しておく。
彩木によれば、森進一「命かれても」(1967年9月10日発売)をヒットさせていた彼がクール・ファイブのことを知るのは、1968年1月頃、銀馬車の吉田孝穂が繰り返し掛けてきた電話からだった。最初は無視していたが、あまりにしつこいので話を聞いてみると、競合する十二番館所属の中井昭・高橋勝とコロラティーノが「思案橋ブルース」で大ヒット(最終的にオリコン3位となるが、コロムビアからのリリースはこの先の4月25日なので、実際には、評判となりメジャー・デビューも決まり、ぐらいのニュアンスだったか)、われわれ銀馬車としては見過ごせないので、ぜひ作曲をお願いしたい、という内容だった。彩木としては森進一「花と蝶」のレコーディングが進行中で(発売は1968年5月5日)、「見知らぬ長崎のキャバレー戦争に参加する理由はないとの思いから丁重にお断り」したが、やがて送られてきた「西海ブルース」のテープを聴いてみたところ、「バックコーラスがとても新鮮に聞こえ、プラターズ<オンリー・ユー>のコーラスを聴いているような気が」したのだと言う。
その後のやりとりを経て、吉田が直接彩木のもとを訪れたのは5月初旬頃のことだという。彩木は何編かの歌詞を預かり、代わりに1枚のレコードを手渡す。それがこれだ。
彩木の寄稿を読んであわてて検索するまで気づかなかったが(そして運よく、速攻で入手できたが)、チャーリー石黒が城美好のペンネームで書いた「涙こがして」は、1967年7月には既にこうしてポリドールからレコードが出ていたのだった(後のクール・ファイブ盤「涙こがした恋」では作詞は中山淳太郎と村上千秋の共作詞とクレジットされるが、ここでは中山作詞、村上補作詞となっている)。アルトの歌声で気だるく歌っている由木まなみについては後述するが、これが何故売れないのか石黒から分析を依頼されていたものだという。彩木は閃いたのだろう、この曲を吉田に託してみたのだった。
話がそれるが、ここで石黒について改めて紹介しておくと、チャーリー石黒(本名:石黒寿和)は1928年1月20日東京都港区芝生まれ(1984年12月14日没)。小学生の時にトランペットを始め、ブラス・バンドで活躍、早稲田大学に進学後、音楽部で研鑽を積み、ブラス・バンドのキャプテンとなる。慶応義塾大学のグループと合流してレッド・ハット・ボーイズに参加し、当初はトランペット、その後はヴァイブやドラムスを手掛ける。そして1954年、19人編成のラテン・バンド、チャーリー石黒と東京パンチョスを結成し、ダンスホール飯田橋松竹、銀座ハーレムの専属となる。1959年から日本グラモフォン(レーベルはポリドール)でレコーディングも開始し、歌謡曲の伴奏なども多く手掛けるようになる。渡辺プロダクションでは音楽プロデューサーとして、森進一のほか中尾ミエや布施明なども手掛けた。テレビの歌番組での伴奏でも活躍したが、TBS系特撮テレビドラマ『仮面ライダーストロンガー』第9話「悪魔の音楽隊がやって来た!!』(1975年5月31日放映)には本人役でバンドごと出演しているそうである。【2020年3月11日追記】『仮面ライターストロンガー』は大阪の毎日放送制作だったので訂正。詳しくはコメント欄の中澤さんの投稿参照。
彩木は文中で「涙こがして」の歌手名を由木まなみではなく、誤って香月サコとしていたが、香月も由木も同じ石黒門下で同じポリドール専属だったので記憶違いをしたのだろう。ちなみに北上川サコ名義での録音もあった香月のデビュー・シングル「赤い夕日/白い肌」は1968年6月25日リリースなので、吉田と会った時点では出ていないし、彼女のディスコグラフィーに「涙こがして」は存在しない。
そして由木まなみである。この名義でのシングルは「涙こがして/別れ別れて」1枚きりだが、1943年4月25日北京生まれの彼女の最初の芸名は波多マユミだった。ザ・ベビーズというバンドを経て1960年4月に東京パンチョスの専属歌手となり、1961年4月にポリドールから「シュシュシューベルト」でデビュー。1962年秋には石黒が編曲と案内役を務めた10インチのオムニバス『カッコイイ10人 ―東京ジャズ喫茶めぐり―』(1997年11月にPヴァインからCD化)に参加して「可愛い子チャン」を歌っている。その後芸名を波多まゆみと改め、「夜霧のしのび逢い」などのカヴァー・ポップスのリリースを続けていた。ところが何を思ったか、1967年4月にはゴールデン・ヴェールという覆面歌手として「命こがして/私、明日はないの」をリリースしている。
このB面の曲名をみてビックリ。アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』のB面最後に収録されていた「明日(あした)はないの」は、これのリメイクだったとは! メロディーに手を加えられているほか、歌詞も一部異なっていて、ゴールデン・ヴェール盤では新野新作詞、村上千秋補作詞、クール・ファイブ盤では村上千秋単独の作詞となっていた(クレジット・ミスではないのだろうか)。歌詞の変更は次のような感じ。
二番(ゴールデン・ヴェール):
死ぬまで一緒に 暮らそうと
口づけされて 云われたら
二番(クール・ファイブ):
死ぬまで一緒と 口づけされて
恋の炎が 燃えました
三番(ゴールデン・ヴェール):
恋と恋との 明け暮れに
涙も声も 枯れました
三番(クール・ファイブ):
嘘と真実(まこと)が この世のさだめ
愛も涙も 枯れました
また、編曲は全面的に異なるが、手掛けたのはここでも宮川泰であり(補作曲編曲とクレジット)、彼の名前がクール・ファイブのレコードで唯一クレジットされていた理由もなんとなく理解できた。
このシングルの3か月後に由木まなみとして「涙こがして」をリリースするわけだが、名前の横には小さく(ゴールデン・ヴェール)と書かれ、その正体を明かしている。作者は異なっても、「涙こがして」というタイトルは「命こがして」から繋がっているが、結局これが彼女にとって最後のシングルとなってしまった。
さて、彩木から吉田の手に渡った「涙こがして」は、内山田洋の編曲でクール・ファイブによって録音されたわけだが、受け取った彩木は「狙い違わず素晴らしい出来でした。早速故チャーリー石黒氏に届け、折り返し絶賛の言葉が返ってきました」と、当時を振り返る。由木盤では歌詞は六番まであったが、クール・ファイブはややテンポを落とし、元の歌詞のうち四番と五番を省いて六番を四番とし、全部で四番までの構成にしている。歌詞の変更はなし(二番の「弱いわ女」を「弱いは女」に、音は同じで表記のみ変更)。
ここからの流れは、彩木の書いたものと、第2回で引用したRCAの久野義治がかいたものとでかなり異なっていて、どちらがより正確か判断するのは難しい。
彩木によれば、8月頃タレントキャンペーンがあり、RCAのディレクターも同行してきたので、テープを聴いてもらった。東京に戻ったそのディレクターが慌てて電話してきて、長崎の有線放送で「涙こがして」(どの時点で「涙こがした恋」と改題されたかは記述によって異なる)が1位となっているので至急RCAからデビューさせたい、なのでB面の曲を作曲して送ってほしいとの依頼を受けた、ということだ。
一方繰り返しにはなるが、久野によれば、年末に札幌でキャンペーンがあり、同行したRCAの永田章蔵が彩木のもとを訪れたところ、「長崎に自主制作のテープで地元の有線放送リクエスト1位になっているグループがいますョ。マネージしている作詞家の吉田孝穂氏に、新曲の作曲を依頼されてるんですが、ご紹介しましょうか」と言われ、テープを持ち帰った、となる。
興味深いのは、RCAからの当初の依頼は、B面用の曲だったということ。そして「涙こがして」が有線で1位となった1968年秋には、彩木は作曲を始めていたのだった。以下、少し長くなるが彩木の文章を引用しておく。
作曲は孤独な作業です、1フレーズ毎、自分に問いかけ、自分で回答を、当時は勤務中ですので土曜日の朝3時頃から始め、日曜日も同じく朝早くからと、出来なければまた翌週の早朝土曜日へ、こんな作業ぶりですので1曲を作曲するのに3ヶ月はかけていました。そんな日々のくり返しの中で一つの発想にたどり着きました。それは今までマイナーの曲(短調)ばかりで作曲していたのをメジャー(長調)で、そしてプラターズのコーラスのようにポップス的に、それに長崎のイメージを重ね合わせながら、また「前川 清」の落ちついた歌唱が似合うように考えた作曲でした。もともと私の作曲法はメロディー先行なので詞の字数は重要ではないのですが、いざ預かった詞の中から当て込むのには大変苦労し、言葉の足りないところは2回繰り返し、あまり演歌調にならぬように言葉を選びながら加えたりしました。特に歌の終わりには無謀にも4拍目に5個の音を入れ印象を強くしました。何せ預かった何編かの中から当て込んだ詞のタイトルは「長崎の夜」でしたから……。
5月に手渡された数篇の歌詞の中に「長崎の夜」があったということは、その時点で「西海ブルース」のレコード化は作者の尾形よしやすから却下されていたという解釈でいいだろうか。第2回でも書いたように、クール・ファイブは1977年になってようやくこの曲をシングルにするわけだが、実は1969年の時点でこれもレコードになっていたのを見落としていた。
「佐世保観光協会推薦盤」と書かれているが、歌っている花菱エコーズは九州のグループではない。元黒沢明とロス・プリモスの福田徳朗(サックス)と大川光久(ギター)を中心に、品川芳輝(ヴォーカル)、原田時美(ベース)、藤村隆(ドラムス)というメンバーで結成された彼らは、落語家の林家三平が名付け親となり、1968年6月1日に東芝音工から「泣いても泣いても/女の泣く町」でデビューしている。「西海ブルース/新宿のふたり」(TP-2129)は「あき子はひとり/夜に咲く花」に続く3枚目のシングルだと思われる。発売日は特定できないが、一つ番号の若い黒木憲「夢はいずこに」(TP-2128)が1969年3月1日発売なので、そのあたりだろう。それにしても、作者の尾形がクール・ファイブによるレコード化を拒んだ「西海ブルース」を、どうして彼らはレコーディングすることができたのか。しかも歌詞は尾形によるオリジナルではなく、拒む理由となった、永田貴子が書き換えた方なのである(クール・ファイブの1977年録音ともかなり異なっているが、これがデビュー前のクール・ファイブが歌っていた本来の歌詞だと思われる)。尾形はクール・ファイブに提供しなかったことを悔やんだのではないか。後のクール・ファイブ盤で聴きなれた耳には、ユニゾンやハモリが多用された花菱エコーズの歌は新鮮にも聴こえるが、ヒットには至らなかった。
(文中敬称略、次回に続く)
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本筋と全然関係ない事で、どうでもいいことですが。
「仮面ライダーストロンガー」の制作キー局はTBSではなく、大阪の毎日放送です。この時期の仮面ライダーシリーズは全てそうです。昭和49年までは所謂「腸捻転」状態だったので大阪毎日放送の関東でのネット局はNET(現・テレビ朝日)でした。なので、「仮面ライダー」「仮面ライダーV3」「仮面ライダーX」「仮面ライダーアマゾン」までは関東ではNETで放送。昭和50年の「腸捻転解消」によってTBSとのネットになり、「ストロンガー」だけTBSで放送されました。
「仮面ライダー」という有力コンテンツを失った形になったNETは、製作していた東映にその穴を埋める作品を要求、その結果が「5人ライダー」とも言える「秘密戦隊ゴレンジャー」となり、今に続く戦隊シリーズになります。
以上、どうでもいい特撮小ネタでした。
投稿: 中澤 | 2020年3月11日 (水) 01時25分
中澤さん、貴重なコメントをありがとうございます。私はテレビっ子ではなく(親がNHKびいきで、民放の番組はほとんどみせてくれなかったのも一因)、仮面ライダーシリーズも観てはいなかったのですが、NETでやっていたというのは、おぼろげながら記憶にあります。
投稿: 斎藤充正 | 2020年3月11日 (水) 10時53分