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2019年12月30日 (月)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(3)~シングル「長崎は今日も雨だった/涙こがした恋」

それでは今回から、内山田洋とクール・ファイブがデビューから1986年に前川清が脱退するまでの間にリリースしたすべてのレコードを、順を追って紹介していく。

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A) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 涙こがした恋
中山淳太郎・村上千秋 共作詞/城美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1015 1969年2月5日発売

「長崎は今日も雨だった」が出来上がるまでの経緯は、だいたい前回書いた通り。銀馬車のマネージャーだった吉田孝穂が、永田貴子のペンネームで「長崎の夜」という歌詞を書き、札幌の彩木雅夫に作曲を依頼したが、彩木は歌詞もほとんど書き換え、タイトルを「長崎は今日も雨だった」としたのだった。前川清によれば「ど素人が書いたひどい歌詞で、彩木先生は気に入らなくてずいぶん手直ししてた。元の歌詞に『雨』なんてなかったし、原型がなくなるほど8割くらい変わった。変なタイトルで意味が分からなかったし、メロディーラインもあまりしっくりこなくて、最初は気に入ってなかったです」(スポーツ報知『前川清、「長崎は今日も雨だった」は思い入れゼロだった』[2017年5月22日]より)とのことだ。

彩木雅夫(1933年8月5日帯広生まれ)は、これも前回書いた通り本業は北海道放送(HBC)のディレクターで、作曲家としては本名の新居一芳名義でジャッキー吉川とブルー・コメッツに書いたインスト曲「愛の終りに」(1966年4月シングル発売)が処女作。その後彩木を名乗り、1967年から68年にかけて森進一に「命かけても」「花と蝶」「年上の女(ひと)」を提供しヒットさせている。

編曲には、チャーリー石黒の推薦で森岡賢一郎(1934年3月4日八代市生まれ、2018年8月19日没)が起用された。前川が初対面の内山田洋に披露した曲でもある加山雄三「君といつまでも」(1965年12月発売)も、彩木が森に提供した「花と蝶」「年上の女」も、森岡の編曲だった。そしてこの出会いはクール・ファイブにとって非常に大きかった。これ以降クール・ファイブの主要曲の多くで森岡は腕を奮うことになる。

記念すべきこのデビュー曲のレコーディングは、1969年1月8日に東京のビクター築地スタジオ(第一スタジオ)で行われている。前川は語る。「寝台特急『さくら』で夜中に関門海峡を通って人生で初めて本州に入ったんです。僕は一番年下だから、3段ベッドの一番上。寝転がったら天井ギリギリで狭かった。一睡もできずに12時間以上かけて東京に着いて、その足で築地のビクタースタジオに行きました」(前掲のスポーツ報知記事より)。

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録音エンジニアは内沼映二(1944年群馬県生まれ)。1960年代から現在に至る日本の商業録音の生き字引存在である内沼が本年(2019年)に著した「内沼映二が語るレコーディング・エンジニア史」(DU BOOKS)には興味深いエピソードが満載で、レコードやその録音に関心のある人々には必読の書と言えるが、彼がそれまでのテイチクからビクター(RCA)に移籍して最初に手掛けたのが「長崎は今日も雨だった」だった。以下は内沼の述懐。「初めて使うスタジオだったことで勝手がわからず苦労した記憶があります。築地のスタジオはブースがなく、すべてのミュージシャンが一同に介す同時録音でした(ライブでのステージ配置と思っていただければ)。発売当初あまり売れなかったために宣伝担当から『音が良くないから売れない』、『リヴァーブが多すぎる』など散々なことを言われましたが、結果的に記録的なセールスとなり、胸を撫で下ろしました」(前掲書より)。

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興味深いのは、これが6チャンネル録音だったと書かれていたこと。アンペックスの300シリーズというレコーダーで、1チャンネルと2チャンネルには3~6チャンネル以外の楽器をステレオで録音、3チャンネルがベースとドラム、4チャンネルがテナー・サックスとエレキ・ギター、5チャンネルがコーラス、6チャンネルがヴォーカルという振り分けだった。クール・ファイブのメンバーは楽器は弾かずコーラスを受け持っただけだが、森岡が手掛けた編曲というか楽器編成は、当然ながらメンバー自身によるライヴ演奏も想定してのものだろう。

レコーディングについて前川は、「ヘッドホンがなくて、スピーカーから小さいカラオケの音が流れる中で歌って、自分の声はモニターできない。戸惑いながら4~5時間歌いました。徹夜で調子が悪くて、声の伸びも最悪。翌日もう一回歌わせてもらったけど、不思議なことに初日の方が声の仕上がりが良くて採用された。上京した直後で必死に一生懸命、何も考えずに歌ったのが良かったのかな。あの歌い方はもうできない」(前掲記事より)と語る。一方、内山田がこの曲に託したイメージは「プラターズのコーラスのようにポップス的に」というものだったという。

カップリングの「涙こがした恋」は、これも前回触れたようにチャーリー石黒(=城美好)が書いた「涙こがして」が、彩木の推薦でクール・ファイブの手に渡り、内山田がアレンジした自主制作録音(「西海ブルース」もそうだが、存在したのはオープンリールのテープのみで、盤としてはプレスされていないはずだ)が長崎の有線放送で1位となったもの。編曲は森岡だが、内山田のオリジナル・アレンジがベースになっているのではないかと推測される。録音データも不明だが、「長崎は今日も雨だった」と同日だったと考えるのが自然だろう。作詞の中山淳太郎には守屋浩「田舎教師」(1963年)、山田太郎「明日を信じよう」(1964年)といった作品がある。共作者の村上千秋は、11月にリリースされるクール・ファイブのファースト・アルバムでも、何曲かに共作者や補作者として登場することになる。作家の村上春樹の父親(国語教師だった)と同姓同名だが、さすがに同一人物ではないだろう。

「長崎は今日も雨だった」は1969年2月5日にリリース。ジャケットには「RCA流行歌路線第1弾!」「有線放送で、人気第1位のムード・コーラス艶歌の決定盤!」とキャッチコピーが躍り、グループ名表記の内山田洋にはルビが振られていた。だが、RCAからのデビューが決まっても、あくまでも地元長崎を拠点にするのか、安定した生活を捨てて東京に進出するのか、メンバーの間でも迷いはあったようだ。進出を決断した内山田の説得に応じ、全員で長崎を後にしたのが2月10日。翌11日には恵比寿のマンションで男6人の合宿生活が開始された。2月15日にはフジTV系『歌のスターパレード』でテレビ初出演。2月21日から27日までは国際劇場での『森進一ショー』に出演。長崎から彩木のいる札幌まで全国縦断キャンペーンも行われたが、なかなか火は点かなかった。

それが一転するのは、渡辺プロダクションで彼らのマネージャーとなった和久井保が、テレビ露出を利用したキャンペーンを展開してからのこと。4月中旬(または下旬)の1週間、コント55号の番組『お昼のゴールデン・ショー』(フジTV系)に今週の歌のコーナー等で出演したのだ。RCAの山田競生は当時をこう語る。「連休明けに私が会社に出ると、電話が鳴りっ放しなんです。それが〈長崎は今日も…〉のオーダーで、営業の連中が電話を受けながら、私にサインを送っているんです。これは一生忘れられない感激です。涙が出るほどでした」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)

シングルはゴールデン・ウィーク明けにオリコンにチャート・イン。5月23日には東京プリンスホテルにて初めてのファン・クラブの集いが開催。6月23日付オリコン・チャートで最高位2位を記録(1位は森進一「港町ブルース」)。7月9日には長崎公会堂で凱旋公演。そして7月31日には「長崎は今日も雨だった」100万枚突破記念パーティーが開催された。10月28日には新宿音楽祭で新人賞を受賞。11月12日には日本有線大賞で新人賞獲得。そして12月31日にはレコード大賞の新人賞を受賞し、NHK『紅白歌合戦』への初出場を果たした。

(文中敬称略、次回に続く)

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