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2019年12月13日 (金)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(2)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜

【2020年3月9日追記】本記事の内容について、追加及び訂正が多数あります。詳細については最新の記事『内山田洋とクール・ファイブのレコード(5)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜についての再検証』をご参照ください。

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1967年9月に結成された内山田洋とクール・ファイブは、グランド・キャバレー「銀馬車」の専属バンドとして活動を開始した。当時どのようなレパートリーを演奏していたのかという詳細なデータは手元にないが、もともと各メンバーは洋楽志向が強く、新旧様々な洋楽を取り上げていたようだ。その幅広さは、デビュー以降に残された各種ライヴ盤に散りばめられた洋楽カヴァーの数々からも感じ取ることができる。一方で客のリクエストに応じる必要から歌謡曲も演奏する中で、歌謡曲への興味や志向も強くなっていったというのが、だいたいの流れだったのではないかと思われる。

1968年、銀馬車のマネージャーである吉田孝穂が、佐世保で流しのギタリストとして活動していた尾形義康(よしやす)の書いた「西海ブルース」という曲を地元の有線放送経由で見つけてきた。吉田は永田貴子(たかし)の筆名で自ら歌詞を書き直し、クール・ファイブに歌わせることにした。自主制作で録音された「西海ブルース」のテープは長崎放送や地元の有線放送に持ち込まれて評判となり、ローカル・ヒットを記録したのである。

この後「長崎は今日も雨だった」を作曲することになる札幌在住の作曲家、彩木雅夫(本名:新居一芳、本業は北海道放送のディレクター)とクール・ファイブとの繋がりがどの時点で出来たのかは不明だが、「西海ブルース」の評判は遠い長崎から伝わっていたのかも知れないし、クール・ファイブ側からのアプローチが先だったかのかも知れない。【2020年3月9日追記】これは1968年1月頃、吉田が彩木に何度か電話をしたのがきっかけだった。詳しくは第5回参照。

クール・ファイブを中央の音楽シーンにスカウトすることになるチャーリー石黒(ラテン・バンド、東京パンチョスのリーダー。作曲家としてのペンネームは城美好)がクール・ファイブのことを知るのも、彩木からの電話だった。曰く、君の書いた「涙こがして」はいい曲だから、グループに歌わせてヒットさせたいと。この曲は内山田のアレンジで自主制作されて「涙こがした恋」(作詞は中山淳太郎と村上千秋)となり、1968年秋には長崎の有線放送で1位を記録した。【2020年3月9日追記】第5回に追加情報あり。

TBS系の番組「ロッテ歌のアルバム」で伴奏を担当していた石黒は、公開放送収録のために長崎を訪れた際に銀馬車に立ち寄り、実際にクール・ファイブの生演奏に触れている。渡辺プロダクションに籍を置き、新人発掘の役割も担っていた石黒には、森進一を発掘し育てた実績もあり、クール・ファイブの将来を確信した。

クール・ファイブは石黒の紹介で渡辺プロダクションと契約を結ぶことになり、メジャー・デビュー曲には「西海ブルース」が候補に挙がったが、作者の尾形が別の歌詞によるレコード化を認めなかったために却下(1977年になって再録音が実現し、30枚目のシングルとなる)。競合する十二番館からご当地ソングの「思案橋ブルース」でヒットを飛ばした高橋勝とコロラティーノに対抗し得る、新たな長崎ものを準備する必要に迫られた吉田(=永田)は、「長崎の夜」という歌詞を書き、札幌の彩木のもとに飛ぶ。【2020年3月9日追記】第5回に訂正あり。

クール・ファイブより一足早く、1968年12月に日本ビクターのRCAレーベルからデビューしたコーラス・グループに、渚一郎とルナ・ジェーナ(R&B系GSの4人組ザ・ホークスとブルー・ジーンズ~マヒナ・スターズのヴォーカル、渚一郎が合体してできたグループ)がいる。そのデビュー曲「銀座の恋をサッポロに」の札幌でのキャンペーンのために、RCA営業部の久野義治はマスコミ用の航空券を2枚手配した。ところが前日になり取材予定の1名がキャンセルしたため、折角のチケットを無駄にしないよう、課長の永田章蔵(RCA設立前はビクター内のフィリップス洋楽部門のディレクター)が同行することになった。札幌に着いた永田は、年末の挨拶をすべく彩木を訪れたところ、「長崎に自主制作のテープで地元の有線放送リクエスト1位になっているグループがいますョ。マネージしている作詞家の吉田孝穂氏に、新曲の作曲を依頼されてるんですが、ご紹介しましょうか」(『内山田洋とクール・ファイブ全100曲集』ブックレット掲載の「クール・ファイブと私」[文:久野義治]より)と言われ、「涙こがした恋」のテープを持ち帰る。

一方、クール・ファイブの地元事務所代表の針尾洋一郎から「涙こがした恋」のテープを取り寄せた石黒も、各レコード会社への売り込みを続けた末、かつて森進一を育てたビクターの永野恒男(後にRVC社長)にたどり着いたという。この2つのエピソードの前後関係は不明だが、ともかくクール・ファイブは日本ビクターに新設されて間もないRCAレーベルから全国デビューすることが決まった。

このRCAレコード事業部設立の経緯については、前回のブログ記事「“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史」を参照して頂きたいが、基本的にすべて新人アーティストからなる邦楽セクションを立ち上げるにあたり、3人の有能なディレクターが揃えられた。和田アキ子やシング・アウト(樋口康雄在籍)、シモンズ、そして西城秀樹などを手掛けることになるロビー和田。日本コロムビアのデノンからデビュー予定だった藤圭子を、粘り強い交渉の末に引っ張ってきた榎本襄。そして、クール・ファイブを担当することになるのが、山田競生である。

1933年生まれの山田は、学生時代からハワイアン・バンドでウッド・ベースを弾き、ポス宮崎とコニー・アイランダーズを経て、1958年から和田弘とマヒナ・スターズのメンバーとして活動。1967年、マヒナがビクターから東芝に移籍するタイミングで脱退し、ビクターに残ってマハロ・エコーズを結成したが、1年ほどで活動休止。その後ディレクターとしてRCAにスカウトされたのである。

「こういうコーラス・グループがあるけど、ディレクションしてみないか、という話があったとき、あー、嫌だなと思いました。私自身、コーラス・グループにいましたから、コーラス・グループだけは手がけたくないと思っていたんです。(中略)テープの〈長崎は今日も雨だった〉を聴かされまして、それまで持っていた歌謡コーラスへの固定観念みたいなものが、ふっ飛んでしまったんです。何だ、こいつらは、と興味が湧いたのがきっかけなんです」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)

この1981年のインタヴューで山田は、「長崎は…」のテープが長崎の有線放送で一位になっていることは知っていた、とも発言している。ただしこれは状況からみて、再録音されて「長崎は…」のB面になった「涙こがした恋」の事例と記憶がゴッチャになっていたのではないかと思われるが、どうだろうか。

一方、作曲を依頼されていた彩木は、3連の魅力的なロッカ・バラードを書き上げた。吉田が書いてきた歌詞もほとんど書き換え、タイトルを「長崎は今日も雨だった」とした。新しい歴史がこの曲から始まろうとしていた。

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(文中敬称略、次回に続く)

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