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2019年12月 5日 (木)

“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史

内山田洋とクール・ファイブのレコードについての連載が始まったばかりだが、いきなり脱線させていただく。というのも、クール・ファイブがデビューしたのが、歴史ある日本ビクター内に発足して間もなかったRCAレーベルからだったので、“RCA”と“ビクター”とその商標“ニッパー”との、わかっているようでわかりにくい関係について、一度整理しておく必要があると感じたからだ(長文ご容赦)。なお本稿では、Victorの称号に対して、英語圏のものは「ヴィクター」、スペイン語圏のものは「ビクトル」、日本国内のものについては「ビクター」と表記させていただく。

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蓄音機とそのラッパを覗き込むフォックス・テリア犬“ニッパー”のイラストは、1898年に英国の画家、フランシス・バロウが描いた絵が元になっている。当時は、1877年にトマス・エディスンが発明したシリンダー型の蝋管蓄音機(フォノグラフ)と、1887年にエミール・ベルリナーが発明したディスク型の蓄音機(グラモフォン)が、それぞれに改良を続けながらフォーマット争いを繰り広げていた時代。最終的には、一台で録音と再生が可能なシリンダー型に対し、ソフトの複製と収納が容易なディスク型が勝利を収めることになるわけだが、バロウが当初描いたのはシリンダー型の蓄音器の方だった。

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ニッパーはもともと、亡くなったバロウの兄のマークの飼い犬で、バロウがイメージしたのは、シリンダーに刻まれた亡き飼い主の声に不思議そうに耳を傾けるニッパーの姿であり、“ヒズ・マスターズ・ヴォイス”(HMV)という標語もそこから採られている。

1899年、バロウは絵を買い取ってもらおうと、ロンドンにあるエディスンの会社、エディスン・ベル・コンソリデーテッド・フォノグラムに持ち込むが断られる。改めて出向いたのが同じくロンドンのグラモフォン・カンパニー。ワシントンDCにユナイテッド・ステイツ・グラモフォン・カンパニーを設立していたベルリナーからディスク型蓄音器のヨーロッパでの特許権を委託されたウィリアム・オーウェンが1898年に設立した会社である。バロウが蓄音器をグラモフォン社の新製品に描き直すことで、オーウェンとの交渉が成立した。

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ベルリナーは1900年にロンドンを訪れた際、ニッパーの絵を見て気に入り、アメリカ合衆国での使用権を買い取ったが、この頃には自身の米国グラモフォン社は立ち行かなくなっていた。その一方、ベルリナーの協力者だったエルドリッジ・ジョンスンはコンソリデーテッド・トーキング・マシーン・カンパニーを設立し、そこから発展する形で1901年、ニュージャージー州キャムデンを本拠地とするヴィクター・トーキング・マシーン・カンパニーが誕生した。ジョンスンが60%、ベルリナーが40%の株を所有し、この時点で米国グラモフォンは消滅。ニッパーの権利は英国ではグラモフォン(ヨーロッパから中近東、インドまでエリアを拡げ、1931年にはEMIに発展)が、米国ではヴィクターがそれぞれ所有することになった。

グラモフォンでは当初、ニッパーの図案を広告やポスターにのみ使用していた。オーウェンが自身の考案したエンジェルのレーベル・マークに拘っていたためだ。先行して使われたHis Master's Voiceのロゴとともに、ニッパーのマークがレーベル・デザインに採用されるのは、オーウェン退陣後の1909年のことだった。なお今回はこれ以降の、主にヨーロッパでのHMV~EMI系の話は割愛する。

一方1902年からニッパーのマークをレーベルに使い始めたヴィクターは、米国を代表するメジャー・レーベルにまで発展していくことになるが、カナダなどのほか、南米の拠点となるアルゼンチンにも支社を置き、勢力を伸ばしていく。手元にある78回転のSP盤は、ほとんどがアルゼンチン“ビクトル”盤なので、ここからは主にそれらを通して変遷を見ていく。

手元にある最も古いビクトルのSP盤は、1917年に録音されたエドゥアルド・アローラス楽団の「ラウソン」あたりだが、この頃はまだブエノスアイレスで録音された原盤を米国キャムデンの工場でプレスし、逆輸入するという形だった。

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フリオ・デ・カロ楽団の「ブエン・アミーゴ」は1925年5月12日録音。INDUSTRIA ARGENTINAと記されている通り、このあたりからプレスもアルゼンチン本国で行われるようになる。

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そしてSP時代の大変革といえば、アコースティック録音から電気録音への進化である。1924年に電気録音法の特許を取ったウェスタン・エレクトリックのシステムによる最初の電気録音を米国のヴィクターが実現したのは、1925年3月のことだった。アルゼンチンのビクトルでもその1年後には電気録音への切替が行われた。タンゴでは1926年3月1日に録音されたロシータ・キロガの「ラ・ムーサ・ミストンガ」が最初の電気録音である。

フリオ・デ・カロ楽団の「アグア・カリエンテ」は1926年5月11日録音。上下2か所にある、電気録音であることを示すVEの文字のほか、Grabación Ortofónica(英語で言う“オーソフォニック”とは“正しい音”という意味の造語で、ヴィクター製の蓄音器の名称などでも使われた)とも書かれ、新方式による録音であることが謳われている。

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電気録音開始から2年後の1927年(昭和2年)9月13日、米国ヴィクターの全額出資により日本ビクター蓄音器株式会社が設立され、翌1928年2月1日に第1回新譜が発売された。この時点でヴィクター・トーキング・マシーンは創立者ジョンスンの手を離れ、2つの銀行の傘下にあったが、1929年には、1919年に電機メーカーとして創業し、ラジオ放送(NBC)まで事業を拡大していたレイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)に買収され、その一部門となった。

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これは1930年5月23日録音のカルロス・マルクッチ楽団「ミ・ドロール」。アルゼンチンでは、それまでヴィクター・トーキング・マシーンのアルゼンチン支社と書かれていた下部の社名表記が、RCAビクトル・アルヘンティーナという独立した会社名に変わっているのがわかる。

資本は変わったものの、社名にRCAの文字は入らなかった日本ビクター蓄音器は、東芝(の前身)と三井財閥から出資を受ける一方、RCAからは技術支援を受け、1931年には蓄音器の製造も始めている。1936年には日米関係の悪化からRCAが資本を撤退(以降も協力関係は続く)、日産コンツェルン傘下を経て1937年には東京電気(1939年に芝浦製作所と合併し東京芝浦電気となる)傘下となる。戦時中の1943年、日本音響へと改称を余儀なくされるが、レーベルのVictor表記は守られた。1945年に第二次世界大戦が終わり、日本ビクター株式会社となるが、戦災による設備の損傷は甚大だった。同じく日産~東芝傘下にありながらスタジオと工場が無傷だった日本コロムビアへの委託プレスという形で、新譜の発売に漕ぎ着けられたのは1946年9月だった。

ちょうどその頃、米ヴィクターや亜ビクトルでは、レーベルの表記が変更された。1929年にRCA傘下となって以降も長く使われていたシンプルなVictorの表記が、RCA Victorに改められたのだ。米国では1946年の春頃、そしてアルゼンチンでは、オスマル・マデルナ楽団で見てみると1947年3月20日録音の「ティエンポ」までVictor、そして4月25日録音の「ファンタシア・エン・ティエンポ・デ・タンゴ」からRCA Victorとなっている。

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日本ビクターの親会社は1949年に東芝から日本興業銀行へ、1953年春には松下電器産業へと移り変わるが、戦後のビクターの復活を印象付けたのは、1947年4月にリリースされた平野愛子の「港が見える丘」だろう。RCAとの提携も復活したが、国内制作、RCA原盤を含め、この時点でRCAの付かないVictorの名称をニッパーと共に使い続けるのは世界でも日本のみとなった。

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この頃の世界での大きな出来事が、マイクログルーヴ・レコードの登場、そしてテープ・レコーダーによるレコーディングの開始である。1948年6月、米国のコロンビアが33 1/3回転で30cm(12インチ)および25cm(10インチ)の長時間レコード(LP)を公式に発表し、8月からリリースを始めた。コロンビアは各社にLPへの参入を呼びかけたが、それに唯一応じなかったのが、別のフォーマットを準備していたRCAヴィクターだった。RCAは1949年2月に17cm(7インチ)で45回転のレコード(EP)を発売したのである。幸運だったのは両者に互換性があったことで、LPはクラシックを中心に長時間演奏に、EPはポピュラーなどの曲単位の演奏に対応した。結局RCAヴィクターは1950年1月からLPのリリースを始め、コロンビアなど各社も45回転盤を出し始める。

アルゼンチンではやや遅れて、1952年頃からLPのリリースが始まるが、SPも1963年まで存続していた。この時期のSP盤のレーベルにはいろんなパターンがあるので、並べておこう。

アルフレド・ゴビ楽団「エル・アンダリエゴ」(1951年6月録音だが、これは1952年終わりか1953年初め頃の再発盤)

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同「トリステ・デスティーノ」(1954年12月14日録音)

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同「カマンドゥラーヘ」(1955年6月13日録音)

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ロベルト・カロー楽団「ラドリージョ」(1956年10月17日録音)

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アルフレド・ゴビ楽団「エントラドール」(1956年7月16日録音)

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オスマル・マデルナ象徴楽団「ノ、ノ・ジョレス・マス」(1959年6月17日録音)

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ここからは、EPおよびシングルは割愛して、LPを米盤、亜盤、国内盤を取り混ぜて紹介していく。1954年の米RCAヴィクター盤のレーベル・デザインとジャケットのロゴはこんな感じだ。

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アルゼンチンも同様だったが、この時期のものは今は手元にないので、既に手放してしまった10インチ盤を写真に撮っておいたものを載せておく。これは色違い(緑)もあるようだ。

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米RCAヴィクター盤のレーベル・デザインは、1955年頃にはニッパーがカラーのものになり、細部の変更はあっても1968年まで変わらなかった。

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手元にある1950年代後半リリースのアルゼンチン盤LPはこのデザインに差し替えられたセカンド・プレスばかりなので、正確な変更時期は特定しがたい。こちらも1968年まで大きな変更はなし。

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復興した日本ビクターがLPのマスタリングとプレスを開始したのは1953年9月からだが、これは1956年11月1日に発売され話題となったタンゴのオムニバス『タンゴの歴史』。当時ビクターは、東京芝浦電気(1960年10月から東芝音楽工業)が1958年頃から発売し始めることになる赤盤に先駆けて、青いヴィニール盤でリリースしていた。

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日本ビクターの青盤の時代は短く、1961年5月発売のこのオムニバスの時点で、レーベルも黒になっている。

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このデザインはこの後もあまり変わらず、ニッパーはカラーにならなかった。

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なお、ステレオ盤は米国も日本も1958年に発売開始、アルゼンチンも海外原盤のリリースについてはそうそう遅れなかったのではないかと思うが、タンゴに限ればブエノスアイレスでのステレオ録音は1963年4月のアニバル・トロイロ楽団まで待たなければならなかった。

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RCAをめぐる大きな変化は、1968年後半(国によっては1969年前半)に起こった。企業イメージの大胆な刷新を図ったのだ。

それまで日本以外ではおおむねRCA Victorと表記されていたものが、RCAの新しいロゴがメインになり、Victorの文字はサブ的に添えられる形に変わった。そしてなによりも、あのニッパーが消えてしまった。米国での社名はレイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカからRCAコーポレーションに変わる。

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ジャケットの表記は当初はこのような感じで、左上にRCA、右上にVictorの文字が置かれる。これは米国もアルゼンチンも、もともとニッパーの使えなかったイギリスも同様だ。

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その後はRCAとVictorが上下になる。

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最終的にVictorの文字はジャケットから消える。

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ただしそれは米国での話で、アルゼンチンではVictorの文字はそのまま残った。

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日本では日本ビクター内にRCA事業部が発足したが、これは世界的な統一を図ろうとした米国RCAからの指示によるものだろう。そして、1968年10月25日にRCAレーベルから最初の新譜が発売された。

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それまでビクターのレーベルで出ていたRCA原盤の洋楽は、すべてRCAレーベルからの発売に切り替えられたが、日本ビクターからの発売であっても、RCAのものは「RCAビクター」となったりVictorの文字が使われたりはせず、単に「RCA」と表記された。新設されたRCA邦楽からはまず、和田アキ子を含む新人4組がデビュー。一方、ビクター邦楽のアーティストはなんら変更なく、そのままビクター・レーベルからニッパーのマーク付きでのリリースが継続された。

日本ビクターでは50年代以降、ドット、エレクトラ、リプリーズ、プレスティッジ、ヴォーグなどRCA以外のレーベルの洋楽も扱ってきたが、それらはビクター・ワールド・グループという括りでのリリースだった(別扱いのものに1960年スタートのフィリップスもあった)。また、RCAと区別なくビクター・レーベルとしてリリースされていたものには、ダンヒル原盤などもあった。もちろんビクター洋楽はぼRCA原盤というのが基本的な図式だったが、RCAが独立したため、来日アーティストと直接契約しての単発の日本録音や、海外からの買取などで個別のレーベルを設けるまでもないもの、その他邦楽ジャズなどに関しては、旧ビクター洋楽と差別化を計るためか、これ以降ビクター・ワールド・グループのレーベルが使われるようになる。

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ビクター・ワールド・グループ・レーベルの盤が手元には1枚もなかったので、Discogsから写真を拝借した。

1972年4月25日、日本ビクターの音楽ソフト制作部門が独立し、ビクター音楽産業株式会社となった。RCAもビクター音産内の一部門となる。そしてこの時点でビクター・ワールド・グループの名称が使われなくなり、日本制作や原盤買取などの洋楽に、初めてカラーのビクター・レーベルが使われるようになる。

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ただしビクター邦楽は、黒ではないにせよ割と地味なレーベル・デザインのままだった。

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1975年9月、RVC株式会社(RVCはRCA Victor Corporationの略)が設立され、関連会社ではあるものの、RCAが遂にビクターから離れることになった。会社が替わってもRCAのデザインに変更はなく、アナログ時代の終りまで続くことになる。米国では1976年から、アルゼンチンでも1977年にはRCAのレーベル・デザインはこのように変わり、ニッパーが復活する。

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米国盤のジャケットのロゴはRCAのままだったが、アルゼンチンではRCAとビクトルの表記のほか、こちらにもニッパーが再登場する。

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ビクター音楽産業のロゴとレーベル・デザインは、創立50周年を迎えた1977年9月に大きく変わる。赤は邦楽、青は洋楽で、ニッパーが小さくなってしまった。これはアナログ時代の終焉まで続く。

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1986年、RCAの経営危機により、レコード部門は西ドイツのベルテルスマン傘下となり、RCA/アリオラ・インターナショナルを経てBMGミュージックとなった。日本でもベルテルスマンとビクターの合弁で1987年10月にBMGビクターが設立されるが、既にCD時代に突入していた時期でもあり、各レーベル共通デザインの紙のレーベル(ラベルと言った方がわかりやすいか)が盤面を飾っていた時代は終わりを告げる。以後、BMGがかつてのライヴァルだったソニーに完全に吸収されてしまうまでの話は、さすがに追う気力もない。

ビクター音楽産業がJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントとなった今も、日本ではニッパーはロゴとして生き続けているが、キャラクター商品の発売や認知活動はともかく、着ぐるみの「ニッパーくん」が登場するに至っては、違和感を感じざるを得ないのが正直なところだ。

参考文献:
岡敏雄『レコードの世界史 ―SPからCDまで―』音楽之友社 音楽選書(1986年8月第2刷)
中村とうよう「EMIという会社のこと」レコード・コレクターズ1988年7月号
ほか

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