フォト
無料ブログはココログ

« 2019年11月 | トップページ | 2020年2月 »

2019年12月

2019年12月30日 (月)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(3)~シングル「長崎は今日も雨だった/涙こがした恋」

それでは今回から、内山田洋とクール・ファイブがデビューから1986年に前川清が脱退するまでの間にリリースしたすべてのレコードを、順を追って紹介していく。

Jrt1015_20191230003701

Jrt1015b

Jrt1015c

Jrt1015d

Jrt1015e

Jrt1015f

●シングル01

A) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 涙こがした恋
中山淳太郎・村上千秋 共作詞/城美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1015 1969年2月5日発売

「長崎は今日も雨だった」が出来上がるまでの経緯は、だいたい前回書いた通り。銀馬車のマネージャーだった吉田孝穂が、永田貴子のペンネームで「長崎の夜」という歌詞を書き、札幌の彩木雅夫に作曲を依頼したが、彩木は歌詞もほとんど書き換え、タイトルを「長崎は今日も雨だった」としたのだった。前川清によれば「ど素人が書いたひどい歌詞で、彩木先生は気に入らなくてずいぶん手直ししてた。元の歌詞に『雨』なんてなかったし、原型がなくなるほど8割くらい変わった。変なタイトルで意味が分からなかったし、メロディーラインもあまりしっくりこなくて、最初は気に入ってなかったです」(スポーツ報知『前川清、「長崎は今日も雨だった」は思い入れゼロだった』[2017年5月22日]より)とのことだ。

彩木雅夫(1933年8月5日帯広生まれ)は、これも前回書いた通り本業は北海道放送(HBC)のディレクターで、作曲家としては本名の新居一芳名義でジャッキー吉川とブルー・コメッツに書いたインスト曲「愛の終りに」(1966年4月シングル発売)が処女作。その後彩木を名乗り、1967年から68年にかけて森進一に「命かけても」「花と蝶」「年上の女(ひと)」を提供しヒットさせている。

編曲には、チャーリー石黒の推薦で森岡賢一郎(1934年3月4日八代市生まれ、2018年8月19日没)が起用された。前川が初対面の内山田洋に披露した曲でもある加山雄三「君といつまでも」(1965年12月発売)も、彩木が森に提供した「花と蝶」「年上の女」も、森岡の編曲だった。そしてこの出会いはクール・ファイブにとって非常に大きかった。これ以降クール・ファイブの主要曲の多くで森岡は腕を奮うことになる。

記念すべきこのデビュー曲のレコーディングは、1969年1月8日に東京のビクター築地スタジオ(第一スタジオ)で行われている。前川は語る。「寝台特急『さくら』で夜中に関門海峡を通って人生で初めて本州に入ったんです。僕は一番年下だから、3段ベッドの一番上。寝転がったら天井ギリギリで狭かった。一睡もできずに12時間以上かけて東京に着いて、その足で築地のビクタースタジオに行きました」(前掲のスポーツ報知記事より)。

Photo_20191230003901

録音エンジニアは内沼映二(1944年群馬県生まれ)。1960年代から現在に至る日本の商業録音の生き字引存在である内沼が本年(2019年)に著した「内沼映二が語るレコーディング・エンジニア史」(DU BOOKS)には興味深いエピソードが満載で、レコードやその録音に関心のある人々には必読の書と言えるが、彼がそれまでのテイチクからビクター(RCA)に移籍して最初に手掛けたのが「長崎は今日も雨だった」だった。以下は内沼の述懐。「初めて使うスタジオだったことで勝手がわからず苦労した記憶があります。築地のスタジオはブースがなく、すべてのミュージシャンが一同に介す同時録音でした(ライブでのステージ配置と思っていただければ)。発売当初あまり売れなかったために宣伝担当から『音が良くないから売れない』、『リヴァーブが多すぎる』など散々なことを言われましたが、結果的に記録的なセールスとなり、胸を撫で下ろしました」(前掲書より)。

Mixers-lab

興味深いのは、これが6チャンネル録音だったと書かれていたこと。アンペックスの300シリーズというレコーダーで、1チャンネルと2チャンネルには3~6チャンネル以外の楽器をステレオで録音、3チャンネルがベースとドラム、4チャンネルがテナー・サックスとエレキ・ギター、5チャンネルがコーラス、6チャンネルがヴォーカルという振り分けだった。クール・ファイブのメンバーは楽器は弾かずコーラスを受け持っただけだが、森岡が手掛けた編曲というか楽器編成は、当然ながらメンバー自身によるライヴ演奏も想定してのものだろう。

レコーディングについて前川は、「ヘッドホンがなくて、スピーカーから小さいカラオケの音が流れる中で歌って、自分の声はモニターできない。戸惑いながら4~5時間歌いました。徹夜で調子が悪くて、声の伸びも最悪。翌日もう一回歌わせてもらったけど、不思議なことに初日の方が声の仕上がりが良くて採用された。上京した直後で必死に一生懸命、何も考えずに歌ったのが良かったのかな。あの歌い方はもうできない」(前掲記事より)と語る。一方、内山田がこの曲に託したイメージは「プラターズのコーラスのようにポップス的に」というものだったという。

カップリングの「涙こがした恋」は、これも前回触れたようにチャーリー石黒(=城美好)が書いた「涙こがして」が、彩木の推薦でクール・ファイブの手に渡り、内山田がアレンジした自主制作録音(「西海ブルース」もそうだが、存在したのはオープンリールのテープのみで、盤としてはプレスされていないはずだ)が長崎の有線放送で1位となったもの。編曲は森岡だが、内山田のオリジナル・アレンジがベースになっているのではないかと推測される。録音データも不明だが、「長崎は今日も雨だった」と同日だったと考えるのが自然だろう。作詞の中山淳太郎には守屋浩「田舎教師」(1963年)、山田太郎「明日を信じよう」(1964年)といった作品がある。共作者の村上千秋は、11月にリリースされるクール・ファイブのファースト・アルバムでも、何曲かに共作者や補作者として登場することになる。作家の村上春樹の父親(国語教師だった)と同姓同名だが、さすがに同一人物ではないだろう。

「長崎は今日も雨だった」は1969年2月5日にリリース。ジャケットには「RCA流行歌路線第1弾!」「有線放送で、人気第1位のムード・コーラス艶歌の決定盤!」とキャッチコピーが躍り、グループ名表記の内山田洋にはルビが振られていた。だが、RCAからのデビューが決まっても、あくまでも地元長崎を拠点にするのか、安定した生活を捨てて東京に進出するのか、メンバーの間でも迷いはあったようだ。進出を決断した内山田の説得に応じ、全員で長崎を後にしたのが2月10日。翌11日には恵比寿のマンションで男6人の合宿生活が開始された。2月15日にはフジTV系『歌のスターパレード』でテレビ初出演。2月21日から27日までは国際劇場での『森進一ショー』に出演。長崎から彩木のいる札幌まで全国縦断キャンペーンも行われたが、なかなか火は点かなかった。

それが一転するのは、渡辺プロダクションで彼らのマネージャーとなった和久井保が、テレビ露出を利用したキャンペーンを展開してからのこと。4月中旬(または下旬)の1週間、コント55号の番組『お昼のゴールデン・ショー』(フジTV系)に今週の歌のコーナー等で出演したのだ。RCAの山田競生は当時をこう語る。「連休明けに私が会社に出ると、電話が鳴りっ放しなんです。それが〈長崎は今日も…〉のオーダーで、営業の連中が電話を受けながら、私にサインを送っているんです。これは一生忘れられない感激です。涙が出るほどでした」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)

シングルはゴールデン・ウィーク明けにオリコンにチャート・イン。5月23日には東京プリンスホテルにて初めてのファン・クラブの集いが開催。6月23日付オリコン・チャートで最高位2位を記録(1位は森進一「港町ブルース」)。7月9日には長崎公会堂で凱旋公演。そして7月31日には「長崎は今日も雨だった」100万枚突破記念パーティーが開催された。10月28日には新宿音楽祭で新人賞を受賞。11月12日には日本有線大賞で新人賞獲得。そして12月31日にはレコード大賞の新人賞を受賞し、NHK『紅白歌合戦』への初出場を果たした。

(文中敬称略、次回に続く)

2019年12月13日 (金)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(2)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜

【2020年3月9日追記】本記事の内容について、追加及び訂正が多数あります。詳細については最新の記事『内山田洋とクール・ファイブのレコード(5)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜についての再検証』をご参照ください。

Photo_20191212235901

1967年9月に結成された内山田洋とクール・ファイブは、グランド・キャバレー「銀馬車」の専属バンドとして活動を開始した。当時どのようなレパートリーを演奏していたのかという詳細なデータは手元にないが、もともと各メンバーは洋楽志向が強く、新旧様々な洋楽を取り上げていたようだ。その幅広さは、デビュー以降に残された各種ライヴ盤に散りばめられた洋楽カヴァーの数々からも感じ取ることができる。一方で客のリクエストに応じる必要から歌謡曲も演奏する中で、歌謡曲への興味や志向も強くなっていったというのが、だいたいの流れだったのではないかと思われる。

1968年、銀馬車のマネージャーである吉田孝穂が、佐世保で流しのギタリストとして活動していた尾形義康(よしやす)の書いた「西海ブルース」という曲を地元の有線放送経由で見つけてきた。吉田は永田貴子(たかし)の筆名で自ら歌詞を書き直し、クール・ファイブに歌わせることにした。自主制作で録音された「西海ブルース」のテープは長崎放送や地元の有線放送に持ち込まれて評判となり、ローカル・ヒットを記録したのである。

この後「長崎は今日も雨だった」を作曲することになる札幌在住の作曲家、彩木雅夫(本名:新居一芳、本業は北海道放送のディレクター)とクール・ファイブとの繋がりがどの時点で出来たのかは不明だが、「西海ブルース」の評判は遠い長崎から伝わっていたのかも知れないし、クール・ファイブ側からのアプローチが先だったかのかも知れない。【2020年3月9日追記】これは1968年1月頃、吉田が彩木に何度か電話をしたのがきっかけだった。詳しくは第5回参照。

クール・ファイブを中央の音楽シーンにスカウトすることになるチャーリー石黒(ラテン・バンド、東京パンチョスのリーダー。作曲家としてのペンネームは城美好)がクール・ファイブのことを知るのも、彩木からの電話だった。曰く、君の書いた「涙こがして」はいい曲だから、グループに歌わせてヒットさせたいと。この曲は内山田のアレンジで自主制作されて「涙こがした恋」(作詞は中山淳太郎と村上千秋)となり、1968年秋には長崎の有線放送で1位を記録した。【2020年3月9日追記】第5回に追加情報あり。

TBS系の番組「ロッテ歌のアルバム」で伴奏を担当していた石黒は、公開放送収録のために長崎を訪れた際に銀馬車に立ち寄り、実際にクール・ファイブの生演奏に触れている。渡辺プロダクションに籍を置き、新人発掘の役割も担っていた石黒には、森進一を発掘し育てた実績もあり、クール・ファイブの将来を確信した。

クール・ファイブは石黒の紹介で渡辺プロダクションと契約を結ぶことになり、メジャー・デビュー曲には「西海ブルース」が候補に挙がったが、作者の尾形が別の歌詞によるレコード化を認めなかったために却下(1977年になって再録音が実現し、30枚目のシングルとなる)。競合する十二番館からご当地ソングの「思案橋ブルース」でヒットを飛ばした高橋勝とコロラティーノに対抗し得る、新たな長崎ものを準備する必要に迫られた吉田(=永田)は、「長崎の夜」という歌詞を書き、札幌の彩木のもとに飛ぶ。【2020年3月9日追記】第5回に訂正あり。

クール・ファイブより一足早く、1968年12月に日本ビクターのRCAレーベルからデビューしたコーラス・グループに、渚一郎とルナ・ジェーナ(R&B系GSの4人組ザ・ホークスとブルー・ジーンズ~マヒナ・スターズのヴォーカル、渚一郎が合体してできたグループ)がいる。そのデビュー曲「銀座の恋をサッポロに」の札幌でのキャンペーンのために、RCA営業部の久野義治はマスコミ用の航空券を2枚手配した。ところが前日になり取材予定の1名がキャンセルしたため、折角のチケットを無駄にしないよう、課長の永田章蔵(RCA設立前はビクター内のフィリップス洋楽部門のディレクター)が同行することになった。札幌に着いた永田は、年末の挨拶をすべく彩木を訪れたところ、「長崎に自主制作のテープで地元の有線放送リクエスト1位になっているグループがいますョ。マネージしている作詞家の吉田孝穂氏に、新曲の作曲を依頼されてるんですが、ご紹介しましょうか」(『内山田洋とクール・ファイブ全100曲集』ブックレット掲載の「クール・ファイブと私」[文:久野義治]より)と言われ、「涙こがした恋」のテープを持ち帰る。

一方、クール・ファイブの地元事務所代表の針尾洋一郎から「涙こがした恋」のテープを取り寄せた石黒も、各レコード会社への売り込みを続けた末、かつて森進一を育てたビクターの永野恒男(後にRVC社長)にたどり着いたという。この2つのエピソードの前後関係は不明だが、ともかくクール・ファイブは日本ビクターに新設されて間もないRCAレーベルから全国デビューすることが決まった。

このRCAレコード事業部設立の経緯については、前回のブログ記事「“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史」を参照して頂きたいが、基本的にすべて新人アーティストからなる邦楽セクションを立ち上げるにあたり、3人の有能なディレクターが揃えられた。和田アキ子やシング・アウト(樋口康雄在籍)、シモンズ、そして西城秀樹などを手掛けることになるロビー和田。日本コロムビアのデノンからデビュー予定だった藤圭子を、粘り強い交渉の末に引っ張ってきた榎本襄。そして、クール・ファイブを担当することになるのが、山田競生である。

1933年生まれの山田は、学生時代からハワイアン・バンドでウッド・ベースを弾き、ポス宮崎とコニー・アイランダーズを経て、1958年から和田弘とマヒナ・スターズのメンバーとして活動。1967年、マヒナがビクターから東芝に移籍するタイミングで脱退し、ビクターに残ってマハロ・エコーズを結成したが、1年ほどで活動休止。その後ディレクターとしてRCAにスカウトされたのである。

「こういうコーラス・グループがあるけど、ディレクションしてみないか、という話があったとき、あー、嫌だなと思いました。私自身、コーラス・グループにいましたから、コーラス・グループだけは手がけたくないと思っていたんです。(中略)テープの〈長崎は今日も雨だった〉を聴かされまして、それまで持っていた歌謡コーラスへの固定観念みたいなものが、ふっ飛んでしまったんです。何だ、こいつらは、と興味が湧いたのがきっかけなんです」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)

この1981年のインタヴューで山田は、「長崎は…」のテープが長崎の有線放送で一位になっていることは知っていた、とも発言している。ただしこれは状況からみて、再録音されて「長崎は…」のB面になった「涙こがした恋」の事例と記憶がゴッチャになっていたのではないかと思われるが、どうだろうか。

一方、作曲を依頼されていた彩木は、3連の魅力的なロッカ・バラードを書き上げた。吉田が書いてきた歌詞もほとんど書き換え、タイトルを「長崎は今日も雨だった」とした。新しい歴史がこの曲から始まろうとしていた。

Jrt1015

(文中敬称略、次回に続く)

2019年12月 5日 (木)

“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史

内山田洋とクール・ファイブのレコードについての連載が始まったばかりだが、いきなり脱線させていただく。というのも、クール・ファイブがデビューしたのが、歴史ある日本ビクター内に発足して間もなかったRCAレーベルからだったので、“RCA”と“ビクター”とその商標“ニッパー”との、わかっているようでわかりにくい関係について、一度整理しておく必要があると感じたからだ(長文ご容赦)。なお本稿では、Victorの称号に対して、英語圏のものは「ヴィクター」、スペイン語圏のものは「ビクトル」、日本国内のものについては「ビクター」と表記させていただく。

Sleeve

蓄音機とそのラッパを覗き込むフォックス・テリア犬“ニッパー”のイラストは、1898年に英国の画家、フランシス・バロウが描いた絵が元になっている。当時は、1877年にトマス・エディスンが発明したシリンダー型の蝋管蓄音機(フォノグラフ)と、1887年にエミール・ベルリナーが発明したディスク型の蓄音機(グラモフォン)が、それぞれに改良を続けながらフォーマット争いを繰り広げていた時代。最終的には、一台で録音と再生が可能なシリンダー型に対し、ソフトの複製と収納が容易なディスク型が勝利を収めることになるわけだが、バロウが当初描いたのはシリンダー型の蓄音器の方だった。

Originalnipper-1

ニッパーはもともと、亡くなったバロウの兄のマークの飼い犬で、バロウがイメージしたのは、シリンダーに刻まれた亡き飼い主の声に不思議そうに耳を傾けるニッパーの姿であり、“ヒズ・マスターズ・ヴォイス”(HMV)という標語もそこから採られている。

1899年、バロウは絵を買い取ってもらおうと、ロンドンにあるエディスンの会社、エディスン・ベル・コンソリデーテッド・フォノグラムに持ち込むが断られる。改めて出向いたのが同じくロンドンのグラモフォン・カンパニー。ワシントンDCにユナイテッド・ステイツ・グラモフォン・カンパニーを設立していたベルリナーからディスク型蓄音器のヨーロッパでの特許権を委託されたウィリアム・オーウェンが1898年に設立した会社である。バロウが蓄音器をグラモフォン社の新製品に描き直すことで、オーウェンとの交渉が成立した。

His_masters_voice

ベルリナーは1900年にロンドンを訪れた際、ニッパーの絵を見て気に入り、アメリカ合衆国での使用権を買い取ったが、この頃には自身の米国グラモフォン社は立ち行かなくなっていた。その一方、ベルリナーの協力者だったエルドリッジ・ジョンスンはコンソリデーテッド・トーキング・マシーン・カンパニーを設立し、そこから発展する形で1901年、ニュージャージー州キャムデンを本拠地とするヴィクター・トーキング・マシーン・カンパニーが誕生した。ジョンスンが60%、ベルリナーが40%の株を所有し、この時点で米国グラモフォンは消滅。ニッパーの権利は英国ではグラモフォン(ヨーロッパから中近東、インドまでエリアを拡げ、1931年にはEMIに発展)が、米国ではヴィクターがそれぞれ所有することになった。

グラモフォンでは当初、ニッパーの図案を広告やポスターにのみ使用していた。オーウェンが自身の考案したエンジェルのレーベル・マークに拘っていたためだ。先行して使われたHis Master's Voiceのロゴとともに、ニッパーのマークがレーベル・デザインに採用されるのは、オーウェン退陣後の1909年のことだった。なお今回はこれ以降の、主にヨーロッパでのHMV~EMI系の話は割愛する。

一方1902年からニッパーのマークをレーベルに使い始めたヴィクターは、米国を代表するメジャー・レーベルにまで発展していくことになるが、カナダなどのほか、南米の拠点となるアルゼンチンにも支社を置き、勢力を伸ばしていく。手元にある78回転のSP盤は、ほとんどがアルゼンチン“ビクトル”盤なので、ここからは主にそれらを通して変遷を見ていく。

手元にある最も古いビクトルのSP盤は、1917年に録音されたエドゥアルド・アローラス楽団の「ラウソン」あたりだが、この頃はまだブエノスアイレスで録音された原盤を米国キャムデンの工場でプレスし、逆輸入するという形だった。

69587

フリオ・デ・カロ楽団の「ブエン・アミーゴ」は1925年5月12日録音。INDUSTRIA ARGENTINAと記されている通り、このあたりからプレスもアルゼンチン本国で行われるようになる。

79553

そしてSP時代の大変革といえば、アコースティック録音から電気録音への進化である。1924年に電気録音法の特許を取ったウェスタン・エレクトリックのシステムによる最初の電気録音を米国のヴィクターが実現したのは、1925年3月のことだった。アルゼンチンのビクトルでもその1年後には電気録音への切替が行われた。タンゴでは1926年3月1日に録音されたロシータ・キロガの「ラ・ムーサ・ミストンガ」が最初の電気録音である。

フリオ・デ・カロ楽団の「アグア・カリエンテ」は1926年5月11日録音。上下2か所にある、電気録音であることを示すVEの文字のほか、Grabación Ortofónica(英語で言う“オーソフォニック”とは“正しい音”という意味の造語で、ヴィクター製の蓄音器の名称などでも使われた)とも書かれ、新方式による録音であることが謳われている。

79654

電気録音開始から2年後の1927年(昭和2年)9月13日、米国ヴィクターの全額出資により日本ビクター蓄音器株式会社が設立され、翌1928年2月1日に第1回新譜が発売された。この時点でヴィクター・トーキング・マシーンは創立者ジョンスンの手を離れ、2つの銀行の傘下にあったが、1929年には、1919年に電機メーカーとして創業し、ラジオ放送(NBC)まで事業を拡大していたレイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)に買収され、その一部門となった。

47363

これは1930年5月23日録音のカルロス・マルクッチ楽団「ミ・ドロール」。アルゼンチンでは、それまでヴィクター・トーキング・マシーンのアルゼンチン支社と書かれていた下部の社名表記が、RCAビクトル・アルヘンティーナという独立した会社名に変わっているのがわかる。

資本は変わったものの、社名にRCAの文字は入らなかった日本ビクター蓄音器は、東芝(の前身)と三井財閥から出資を受ける一方、RCAからは技術支援を受け、1931年には蓄音器の製造も始めている。1936年には日米関係の悪化からRCAが資本を撤退(以降も協力関係は続く)、日産コンツェルン傘下を経て1937年には東京電気(1939年に芝浦製作所と合併し東京芝浦電気となる)傘下となる。戦時中の1943年、日本音響へと改称を余儀なくされるが、レーベルのVictor表記は守られた。1945年に第二次世界大戦が終わり、日本ビクター株式会社となるが、戦災による設備の損傷は甚大だった。同じく日産~東芝傘下にありながらスタジオと工場が無傷だった日本コロムビアへの委託プレスという形で、新譜の発売に漕ぎ着けられたのは1946年9月だった。

ちょうどその頃、米ヴィクターや亜ビクトルでは、レーベルの表記が変更された。1929年にRCA傘下となって以降も長く使われていたシンプルなVictorの表記が、RCA Victorに改められたのだ。米国では1946年の春頃、そしてアルゼンチンでは、オスマル・マデルナ楽団で見てみると1947年3月20日録音の「ティエンポ」までVictor、そして4月25日録音の「ファンタシア・エン・ティエンポ・デ・タンゴ」からRCA Victorとなっている。

60_1255

60_1289

日本ビクターの親会社は1949年に東芝から日本興業銀行へ、1953年春には松下電器産業へと移り変わるが、戦後のビクターの復活を印象付けたのは、1947年4月にリリースされた平野愛子の「港が見える丘」だろう。RCAとの提携も復活したが、国内制作、RCA原盤を含め、この時点でRCAの付かないVictorの名称をニッパーと共に使い続けるのは世界でも日本のみとなった。

V40007

この頃の世界での大きな出来事が、マイクログルーヴ・レコードの登場、そしてテープ・レコーダーによるレコーディングの開始である。1948年6月、米国のコロンビアが33 1/3回転で30cm(12インチ)および25cm(10インチ)の長時間レコード(LP)を公式に発表し、8月からリリースを始めた。コロンビアは各社にLPへの参入を呼びかけたが、それに唯一応じなかったのが、別のフォーマットを準備していたRCAヴィクターだった。RCAは1949年2月に17cm(7インチ)で45回転のレコード(EP)を発売したのである。幸運だったのは両者に互換性があったことで、LPはクラシックを中心に長時間演奏に、EPはポピュラーなどの曲単位の演奏に対応した。結局RCAヴィクターは1950年1月からLPのリリースを始め、コロンビアなど各社も45回転盤を出し始める。

アルゼンチンではやや遅れて、1952年頃からLPのリリースが始まるが、SPも1963年まで存続していた。この時期のSP盤のレーベルにはいろんなパターンがあるので、並べておこう。

アルフレド・ゴビ楽団「エル・アンダリエゴ」(1951年6月録音だが、これは1952年終わりか1953年初め頃の再発盤)

68_0489

同「トリステ・デスティーノ」(1954年12月14日録音)

68_1953

同「カマンドゥラーヘ」(1955年6月13日録音)

68_2081

ロベルト・カロー楽団「ラドリージョ」(1956年10月17日録音)

68_2472

アルフレド・ゴビ楽団「エントラドール」(1956年7月16日録音)

1a0975

オスマル・マデルナ象徴楽団「ノ、ノ・ジョレス・マス」(1959年6月17日録音)

1a1773

ここからは、EPおよびシングルは割愛して、LPを米盤、亜盤、国内盤を取り混ぜて紹介していく。1954年の米RCAヴィクター盤のレーベル・デザインとジャケットのロゴはこんな感じだ。

Lpm1019

Logo17

アルゼンチンも同様だったが、この時期のものは今は手元にないので、既に手放してしまった10インチ盤を写真に撮っておいたものを載せておく。これは色違い(緑)もあるようだ。

Aylt2d_20191205211501

米RCAヴィクター盤のレーベル・デザインは、1955年頃にはニッパーがカラーのものになり、細部の変更はあっても1968年まで変わらなかった。

Lpm1479

手元にある1950年代後半リリースのアルゼンチン盤LPはこのデザインに差し替えられたセカンド・プレスばかりなので、正確な変更時期は特定しがたい。こちらも1968年まで大きな変更はなし。

Avl3068

Avl3068t

復興した日本ビクターがLPのマスタリングとプレスを開始したのは1953年9月からだが、これは1956年11月1日に発売され話題となったタンゴのオムニバス『タンゴの歴史』。当時ビクターは、東京芝浦電気(1960年10月から東芝音楽工業)が1958年頃から発売し始めることになる赤盤に先駆けて、青いヴィニール盤でリリースしていた。

Avl5001

Avl5001t

Photo_20191205214401

日本ビクターの青盤の時代は短く、1961年5月発売のこのオムニバスの時点で、レーベルも黒になっている。

Ra5018

このデザインはこの後もあまり変わらず、ニッパーはカラーにならなかった。

Shp5631

なお、ステレオ盤は米国も日本も1958年に発売開始、アルゼンチンも海外原盤のリリースについてはそうそう遅れなかったのではないかと思うが、タンゴに限ればブエノスアイレスでのステレオ録音は1963年4月のアニバル・トロイロ楽団まで待たなければならなかった。

Logo20

RCAをめぐる大きな変化は、1968年後半(国によっては1969年前半)に起こった。企業イメージの大胆な刷新を図ったのだ。

それまで日本以外ではおおむねRCA Victorと表記されていたものが、RCAの新しいロゴがメインになり、Victorの文字はサブ的に添えられる形に変わった。そしてなによりも、あのニッパーが消えてしまった。米国での社名はレイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカからRCAコーポレーションに変わる。

Lsp4289

ジャケットの表記は当初はこのような感じで、左上にRCA、右上にVictorの文字が置かれる。これは米国もアルゼンチンも、もともとニッパーの使えなかったイギリスも同様だ。

Logo1

その後はRCAとVictorが上下になる。

Logo3_20191205212201

最終的にVictorの文字はジャケットから消える。

Lpl1_5002_20191205212601

ただしそれは米国での話で、アルゼンチンではVictorの文字はそのまま残った。

Logo13

日本では日本ビクター内にRCA事業部が発足したが、これは世界的な統一を図ろうとした米国RCAからの指示によるものだろう。そして、1968年10月25日にRCAレーベルから最初の新譜が発売された。

Shp6060

それまでビクターのレーベルで出ていたRCA原盤の洋楽は、すべてRCAレーベルからの発売に切り替えられたが、日本ビクターからの発売であっても、RCAのものは「RCAビクター」となったりVictorの文字が使われたりはせず、単に「RCA」と表記された。新設されたRCA邦楽からはまず、和田アキ子を含む新人4組がデビュー。一方、ビクター邦楽のアーティストはなんら変更なく、そのままビクター・レーベルからニッパーのマーク付きでのリリースが継続された。

日本ビクターでは50年代以降、ドット、エレクトラ、リプリーズ、プレスティッジ、ヴォーグなどRCA以外のレーベルの洋楽も扱ってきたが、それらはビクター・ワールド・グループという括りでのリリースだった(別扱いのものに1960年スタートのフィリップスもあった)。また、RCAと区別なくビクター・レーベルとしてリリースされていたものには、ダンヒル原盤などもあった。もちろんビクター洋楽はぼRCA原盤というのが基本的な図式だったが、RCAが独立したため、来日アーティストと直接契約しての単発の日本録音や、海外からの買取などで個別のレーベルを設けるまでもないもの、その他邦楽ジャズなどに関しては、旧ビクター洋楽と差別化を計るためか、これ以降ビクター・ワールド・グループのレーベルが使われるようになる。

R802282815346173746096jpeg

ビクター・ワールド・グループ・レーベルの盤が手元には1枚もなかったので、Discogsから写真を拝借した。

1972年4月25日、日本ビクターの音楽ソフト制作部門が独立し、ビクター音楽産業株式会社となった。RCAもビクター音産内の一部門となる。そしてこの時点でビクター・ワールド・グループの名称が使われなくなり、日本制作や原盤買取などの洋楽に、初めてカラーのビクター・レーベルが使われるようになる。

Swg7262

ただしビクター邦楽は、黒ではないにせよ割と地味なレーベル・デザインのままだった。

Sf1024

Sjx10194

1975年9月、RVC株式会社(RVCはRCA Victor Corporationの略)が設立され、関連会社ではあるものの、RCAが遂にビクターから離れることになった。会社が替わってもRCAのデザインに変更はなく、アナログ時代の終りまで続くことになる。米国では1976年から、アルゼンチンでも1977年にはRCAのレーベル・デザインはこのように変わり、ニッパーが復活する。

Avs4504

米国盤のジャケットのロゴはRCAのままだったが、アルゼンチンではRCAとビクトルの表記のほか、こちらにもニッパーが再登場する。

Logo12

ビクター音楽産業のロゴとレーベル・デザインは、創立50周年を迎えた1977年9月に大きく変わる。赤は邦楽、青は洋楽で、ニッパーが小さくなってしまった。これはアナログ時代の終焉まで続く。

Sjx20077

Vip9543

1986年、RCAの経営危機により、レコード部門は西ドイツのベルテルスマン傘下となり、RCA/アリオラ・インターナショナルを経てBMGミュージックとなった。日本でもベルテルスマンとビクターの合弁で1987年10月にBMGビクターが設立されるが、既にCD時代に突入していた時期でもあり、各レーベル共通デザインの紙のレーベル(ラベルと言った方がわかりやすいか)が盤面を飾っていた時代は終わりを告げる。以後、BMGがかつてのライヴァルだったソニーに完全に吸収されてしまうまでの話は、さすがに追う気力もない。

ビクター音楽産業がJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントとなった今も、日本ではニッパーはロゴとして生き続けているが、キャラクター商品の発売や認知活動はともかく、着ぐるみの「ニッパーくん」が登場するに至っては、違和感を感じざるを得ないのが正直なところだ。

参考文献:
岡敏雄『レコードの世界史 ―SPからCDまで―』音楽之友社 音楽選書(1986年8月第2刷)
中村とうよう「EMIという会社のこと」レコード・コレクターズ1988年7月号
ほか

« 2019年11月 | トップページ | 2020年2月 »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31