フォト
無料ブログはココログ

« 2019年9月 | トップページ | 2019年12月 »

2019年11月

2019年11月17日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(1)

だいぶ間が開いてしまったが、3つ前の記事、「ホセ・リベルテーラによる日本の歌謡曲集」で予告したように、今回からしばらく、内山田洋とクール・ファイブのレコードを順を追って紹介していきたいと思う。

長崎のグランドキャバレー「銀馬車」で活動していたクール・ファイブは、1969年2月にRCAから「長崎は今日も雨だった」で全国デビュー、またたく間に歌謡界の人気グループとなった。リード・ヴォーカルの前川清は1980年9月にソロでの初コンサート(ライヴ録音あり)を行って以降、グループと平行してソロ活動も行うが、彼が1986年に正式に脱退するまで、クール・ファイブは一度もメンバー・チェンジすることなく活動を続けた。

前川の脱退後もクール・ファイブはヴォーカリストを入れ替えたりしながら活動を続け、現在まで続く前川のソロ・キャリアはクール・ファイブ時代よりも長くなった。2006年11月、リーダーの内山田洋が死去。前川清は残りのオリジナル・メンバー4人に声を掛け、同年末の紅白歌合戦で一夜限りの再結成を果たすが、これが評判となり、現在までソロと平行して「前川清とクール・ファイブ」としての活動も続けている。

このブログで当面取り上げていくのは、前川在籍時のオリジナル・クール・ファイブの時代が対象である。人気グループだったからレコードの種類は大変多い。リアル・タイムでリリースされたすべてのアナログ盤を分類別に整理してみると、以下の通りとなる(4曲入り17センチ33回転盤は除外)。

 (1) シングル…50タイトル(A面曲同士のカップリング替え再発除く)

 (2) オリジナル・アルバム…18タイトル

 (3) カヴァー中心のアルバム…10タイトル(うち4枚組ボックス1タイトル)

 (4) ライヴ・アルバム…9タイトル

 (5) テーマ別の編集盤(シングル曲、(2)(3)収録曲などを組み替えたもの)…13タイトル

 (うち(3)の4枚組のバラ売り4タイトル、非LP化音源含むカセット1タイトル)

 (6) ベスト・アルバム…39タイトル(うち3枚組以上のボックス5タイトル)

 (7) 4チャンネル盤…15タイトル

 (8) 藤圭子とのスプリット・アルバム…11タイトル(うち4ch盤1タイトル)

 (9) RCA所属歌手集合のライヴ・オムニバス…1タイトル

 (10) 通販商品(8枚組ボックス)…1タイトル

このうちメインで紹介していくのは当然(1)と(2)(すでに蒐集は完了)、そして(3)と(4)(未入手のものが各1タイトルずつ)である。これらと曲目の重複する(5)と(6)は特に収集対象としていないため、基本的には曲目紹介に留めておくが、初出音源を含む場合などに関しては適宜紹介していく。

125

2650

これらは、一部のものを除けば中古での入手は比較的容易である。それだけ世間に広く浸透していたわけだし、今でもカラオケで歌う、という人たちもいらっしゃるだろう。だが、「評価」という意味ではどうだろう。彼らの革新性、オリジナリティはどこまで語られてきたのか。そもそもシングルA面曲以外のオリジナル・アルバム収録曲は、ほとんどCD化すらされていない。テレビの画面では後ろの方で「♪ワワワワ~」と歌っているだけに見えたメンバーたちの存在意義は? そのあたりにも触れていければと考えている。

まずは、グループの結成からデビューまでの動きを追っておきたいが、実は詳しく書かれた資料が極めて少ない。ここでは、1975年3月リリースのLP7枚組+1『内山田洋とクール・ファイブ全100曲集』(RCA JRS-9251~7)のブックレットに掲載されたメンバー座談会「我れらクール・ファイブ」(司会:玉置 宏)で語られている内容をベースに、他の資料に書かれた内容と照合しながら整理してみたいが、複数の資料で記述が異なり、当事者間の発言内容にも食い違いがみられるなど、整合性が取れない部分が実は多く、この拙文を公開することで、より正しい情報に修正していけることを期待している。

Jrs9251booklet

恐らくは1964年の前半頃、福岡の米軍キャンプで活動していたキーボード奏者、高橋勝(1934年10月12日、山口県宇部市生まれ)が、ヴォーカルの中井昭(1936年7月8日、下関生まれ)に声を掛け、ムード・コーラス・グループ、高橋勝とコロラティーノが結成される。結成時のメンバーとしてギターの山下昭二(1942年8月31日生まれ)のほか、もう1人のギタリストとして福岡県柳川出身の内山田洋(1936年6月6日-2006年11月3日)も参加していたようだ。

彼らは結成して間もなく長崎のクラブに出向くのだが、そこで働いていたのがベースの小林正樹(1943年1月1日、長崎県佐世保生まれ)だった。コロラティーノを初めて観た時の印象を、小林はこう語っている。「まだ全国的なコーラス・グループというのはマヒナスターズをのぞいてはなかった時代でしたから、ビックリしましたね。イヤーッ、こんなグループが長崎にもあるんかいなと」(前述の座談会より)。小林はウッド・ベース担当としてコロラティーノに参加するが、ドラムスに転向して福岡に叩きに行っていた時期もあったという。小林にドラムスを勧めたのが、後にコロラティーノのフルート/サックス奏者として「思案橋ブルース」をはじめレパートリーの多くを作詞・作曲した川原弘(1939年10月23日長崎生まれ)だというから、彼もこの頃にはグループに参加していたのだろう。

その後、コロラティーノからメンバーのひとりが脱退したため、ドラマーとして森本繁(1942年10月23日、鹿児島県鹿児島生まれ)がスカウトされた。話があったのが、森本が福岡から地元鹿児島に戻った翌日だったので、一度は断ろうとしたところを、福岡にいるドラムの師匠から「コロラティーノはいいバンドだから行け」と進言されたのだとか。次いで、福岡のキャバレーにいたサックス/フルートの岩城茂美(1942年1月5日、熊本県八代生まれ)を内山田が引き抜いた。内山田は「彼はそのときアルトを吹いていたんだけど、デスモンドのようなトーンで、この音は僕らもほしかったんです」と語る。デスモンドとはもちろん、デイヴ・ブルーベック(p)との共演で知られるポール・デスモンドのこと。

それから半年ほどして(1966年)、従妹に連れられて内山田のところにやってきたのが、エルヴィス・プレスリーに憧れていた前川清(1948年8月19日、長崎県佐世保出身)だった。真偽の程は不明だが、その時前川がまともに歌うことができたのは、加山雄三の「君といつまでも」たった1曲だったというエピソードも残っている。当時内山田のもとにはギタリスト志望の若者が20人ほど習いに来ていたというが、そんな中からヴェンチャーズ風のエレキ・バンドが結成され、前川もヴォーカルとして加えてもらえることになった。そのグループが、サンライズである。

ダンスホール「八十番館」で演奏活動を開始したサンライズにはオルガン奏者が必要ということになり、「ムーンライト」というダンスホールでピアノを弾いていた宮本悦朗(1948年1月15日、長崎県対馬出身)を内山田がスカウトしてきた。「〈マイアミ・ビーチ・ルンバ〉かなんかを、一生けんめいひいてたな。ちょっと古いスタイルだが、ああ、これは基礎をちゃんとやってるなと思った」と内山田が語り、「僕はクラシックしかやれなかったものだから、サンライズの舞台を見てビックリし、僕にやれるかなと思いましたよ」と宮本が続ける。

その後中井昭・高橋勝とコロラティーノは分裂し、内山田ら4人がグループを飛び出す。コロラティーノは残った高橋、中井、山下、川原に加えて菊池宏典(ベース)、浜島純昭(ドラム)というメンバーでクラブ「十二番館」を根城に活動を続け、1968年4月には日本コロムビアから前述の「思案橋ブルース」でデビューする。

Sas1105

そして、コロラティーノを脱退した内山田、小林、森本、岩城の4人と、サンライズの前川、宮本が合体する形で、内山田洋とクール・ファイブが誕生するのが、1967年9月のことである。彼らは、十二番館と競合する銀馬車の専属バンドとして活動を開始する。

(文中敬称略、次回に続く)

« 2019年9月 | トップページ | 2019年12月 »

2020年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31