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2022年12月29日 (木)

Onkyo A-7VL導入の巻

拙宅のオーディオシステムについて、前回「再生環境の再構築に一区切り」と書いた舌の根も乾かぬうちに、今度こそ最後の(?)大きな変化が訪れた。プリメインアンプがゴールドムンドのMimesis SRからオンキヨーのA-7VLへと入れ替わったのである。

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前回書いたように、11月15日に新しいスピーカーとしてモニターオーディオのSilver RX2を導入したわけだが、そのポテンシャルを生かすべくシステムのあらゆる接点のクリーニング(賛否両論あるようだが、接点復活剤としてケイグのDeoxIT D5を使用)やセッティングの細かい調整を行ったところ、Mimesis SRに左右の音量差があることが明白になってしまったのである。

もともとステレオ再生時にはなんとなく左にエネルギーバランスが偏りがちだと感じていたし、4ch再生時には右フロントが弱く、右側の音全体がリア方向に引っ張られ気味に感じていた。実は接点クリーニングでケーブルを抜き差しした際、一瞬前後左右のバランスが良くなったように感じられたのだが、ジャクスン・ブラウン『Late For The Sky』の4ch盤を掛けてみて、あれっ?となった。右後方から聴こえるはずのデイヴィッド・リンドリーのギターが左後方から聴こえてくるではないか。そう、ディモジュレーターCD4-10改の出力を左右逆に繋いでいたのである。ということは、これはディモジュレーターの出力バランスの問題なのか? 試しにフォノケーブルも逆に繋いでみたところ、今度は盤によってキャリア信号の読み取り精度に問題が出て、この繋ぎ方では使えないことが判明。CD4-10改の入口と出口を正しい繋ぎ方に戻し、アンプの左右チャンネルを入れ替えてみた。するとどうだろう、フロントの音が完全に右寄りになったではないか。それまで左にエネルギーバランスが偏りがちだとなんとなく感じていた原因が、耳のせいでも部屋のせいでもスピーカーやケーブルのせいでもディモジュレーターのせいでもなく、アンプそのものの問題だったことがようやくはっきりした(気付くのが遅い!)。音そのものは気に入っていたが、もうこのままでは使えない。修理・調整も考えたが、時間も金額も掛かりそうだし、この際気分を新たにしようと、思い切ってアンプを買い替えることにした。

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Mimesis SRをヤフオクに出すためにシステムから外し(もちろん状態は表記したが、最終的に予想外の高値で落札された)、とりあえずサラウンド用のアンプであるフライングモールのCA-S3をSilver RX2に繋いでみた(CA-S3にバナナプラグはつかえないので、ケーブルはCardasのCrosslink 1S)。ヴォーカルがピタッと中央に定位し、ステレオイメージが左右にバランス良く広がるさまは心地よかったが、何か聴いていて楽しくない。音楽が生き生きしているようには感じにくいのだ。このアンプの限界なのか、少なくともRX2との相性はイマイチのようだったが、サラウンド用に使っている分には問題ないだろう。

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アンプの新機種選定にあたっては音質以外にも、セッティング上Mimesis SRに換わる役割が果たせるよういくつかの条件があった。まず、Silver RX2にバイワイヤーで繋いでいたスピーカーケーブル、Analysis PlusのSilver Oval Bi-Wire 3.6mをそのまま使用できるよう、バナナプラグ対応であること。オーディオインターフェイスのRME Babyfaceと接続するためのテープ入出力端子が付いていること。アナログ入力が3〜4系統あること(Mimesis SRは5系統)。トーンコントロールやバランスつまみは不要であること。そして購入可能な金額(低予算)であること。この条件で色々調べてみて、オンキヨーの2011年製のデジタルプリメインアンプ、A-7VLがピッタリであることが判明。デザインもシンプルでいい感じ。ちょうどヤフオクに取扱説明書、リモコン付で出ていたものがあり、12月19日に42,900円で落札。1,500円分のクーポンが使えたので、41,400円+送料で入手できた。22日に到着し、早速セッティング。電源ケーブルは、Mimesis SRに使っていたゴールドムンドのPower Cable (S)をそのまま使用。出てきた音はといえば、極めて自然。まったく無理なく細かいディテールまで丁寧に描いてくれる。広域から低域までRX2を充分に鳴らし切ってくれる感じで申し分なく、少なくとも個人的にはMimesis SRに負けている要素は感じられなかった

使いこなしの面では、フォノ入力(MM)端子は別にいらないと最初は思ったが、考えてみればディモジュレーターは調整が必要になることがあるかも知れず、その際の一時しのぎには便利だろう。そのディモジュレーターからの入力にはチューナー端子を使用。CDはアナログ端子のほかに、デジタル音声入力端子もあるので、オーディオテクニカの光デジタルケーブルAT-OPX1/1.0を用意して繋いだが、なかなか音がいい(SACDの出力はアナログのみなので、アナログのCD端子もやはり必要)。高級機でもなんでもないユニバーサルプレーヤーのDV-SP155だが、この組み合わせで充分使えるではないか。そう、このアンプはDAC搭載でデジタル入力にも対応する一方で、アナログ入力も必要な数が確保されているのが、購入の決め手のひとつでもあったのだ。

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上の写真でCA-S3が斜めに置いてあるのは、スピーカーケーブルの長さがギリギリになったためだ。パイオニアのカセットデッキT-D7とソニーの8トラックカートリッジプレーヤーTC-6は、アンプがMimesis SRの時は入力端子に余裕があったので別々に繋いでいたが、A-7VLではテープ入出力端子を除く残りのアナログ入力端子は、iPod用RIドックを接続するためのドック端子だけしかない。なのでそこにはカセットデッキからの出力を繋ぎ、8トラプレーヤーの出力をカセットデッキの入力に繋いだ。8トラは出力レベルが低いので、カセットデッキの入力レベルを上げてやると、アンプにちょうどいい出力レベルで送れることがわかり、それはそれで好都合だった。

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リモコンの上半分はドック用とチューナー用なので不要、CD用ボタンはオンキヨー製CDプレーヤーに伝えるとのことだったが、2004年製のDV-SP155は反応しなかった。結局使えるのはボリュームとミューティングのボタンだけだが、リスニングポジションとアンプはさほど離れていなくても、リモコンでのボリューム操作は意外と便利と実感した。

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今のところ唯一の不満は、アルミ削り出しの入力切替ツマミやボリュームツマミがキラキラと反射して、目盛りの位置が見えづらいことぐらいか。後は大満足、これでようやく落ち着いて音楽に没頭できそうだ(CD-4再生時、盤によって発生するノイズやキャリア信号読み取り精度に対する対策について、考えていることはあるが)。

2022年11月25日 (金)

モニターオーディオ Silver RX2の導入で再生環境の再構築に一区切り

前回の「洋楽聴き始めて50年、そのオーディオ遍歴など」では、8月26日にフロントとリアのスピーカーを入れ替えたところまで書いたが、その後新しくメインのスピーカーとしてモニターオーディオのSilver RX2を導入し、それによって2020年10月に4チャンネル再生をスタートさせてからの試行錯誤およびそれ以前からの低域不足問題にようやく区切りをつけることができたので、その報告をまとめておく。

8月に前後を入れ替えたのは、プリメインのGoldmund Mimesis SRではMonitor Audio 702PMCがまともに鳴らず、リア(サラウンド)用のデジタルプリメインアンプFlying Mole CA-S3と繋いだMonitor Audio Bronze BR1は元気が良すぎて、フロントとバランスが取れなかったからだったが、結局702PMCが鳴らなかったのはアンプのせいではなくスピーカー自身がヘタっていたのが原因だったようだ(それをなんとか鳴らしたCA-S3は、小さいのにそれだけ馬力があったということか)。Mimesis SRに繋ぎ直したBR1も健闘してくれていたが、もう少し余裕が欲しかったので、メインとなるスピーカーの新規導入を検討。同じモニターオーディオでBronzeの上のクラス、最も売れているSilverシリーズの、一回り大きいブックシェルフ・タイプに狙いを定めた。第7世代にあたる現行機種は2021年発売のSilver 100 7Gだが(今年10月には創業50周年記念のLimited Editionも登場)、20万前後するため予算不足の現状ではとても買えない。ということでいろいろ調べた結果、現在のそのSilver 100まで続くH375×W230×D300という大きめのサイズでは第1作にあたる、2009年発売の第4世代の戦略的モデル、Silver RX2(当初の価格は11万ほど)がよさそうということになった。当時のブログ記事を検索してみても、「RX2 の弟の RX1 はモニタースピーカー的なドライでナローな音ですが、RX2 は少し大きいこととウーファーがすごいので、低音にパンチとスピード感がありまして、非常に楽しいスピーカーとなっています」(遠隔画像診断医やすきーの日記)とか「過去のモニターオーディオが好きだった人、とにかく音の情報量、立ち上がりの早さが欲しい人はRX2以外を買うと、大変な損になってしまうでしょう」「逆に言えば、RX2はこの値段では考えられないくらいのレベルに到達していました」(情景都市)とまで書かれてあっては大いに気になるではないか。結局メルカリで、何色かある中でもベストに思われたローズウッドのモデルを38,000円で購入でき(ちなみにこの買物でメルカリくじの1等に当たり、条件をクリアしたので来月には10,000ポイントが貰えるらしい)、11月15日に到着。

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到着したSilver RX2を702PMCと並べてみた。幅だけでなく、奥行もだいぶ違う。

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部屋には昔TOSKA(現ヒガシ)のLB1000という組み立て家具シリーズで作ったCDや本の入るキャスター付ラック(幅78cm×高さ74.5cm×奥行16cm)が複数あって、BR1は背中合わせにした2台ずつの上に載せていたが、その場所にRX2を内向きにセット。オーディオテクニカのインシュレーターAT6099(3点支持)をあてがったら、サイズはピッタリだった。トゥイーターの高さも耳のやや下で申し分なし。

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そしてそこから放たれる音はといえば、解像度が極めて高く、上から下までしっかり出て、定位も明確で細かい音まで聞こえ、スタジオの空気のようなものもしっかりと感じられ、そして音楽が実に生き生きと鳴るという、申し分のないものだった。低域不足の702PMCを聴いてきた日々、もっとちゃんと低音を出すにはサブウーファーを追加するかトールボーイ型のスピーカーに換えるしかないのかと思ったりもしていたが、このサイズで十分に出せるとは、驚くやら嬉しいやら。

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23年間使い続けた702PMCとスピーカースタンド「弁慶」はついに処分することにして、その場所にBR1をセッティングすべく、HAMILeXの高さ70cmのスタンド、SB-967を購入。フロントのRX2とトゥイーターの高さを合わせるのにはまだ12cmほど足りないので、試しにスタンドの下にSPレコードのケース(もちろん中にはSP盤がビッシリ)2個ずつを挟んでみたところ、フロントとリアのトゥイーターの高さの差は1cm未満に収まり、ここまで変わるのかというくらい前後の一体感が出てビックリした。

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CA-S3とBR1の組み合わせでも、RX2が相手であれば、低域過多と感じる心配もない。これでバランスがビシッと整った。

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再生環境の再構築はようやくこれで一区切り。今やサラウンド以降のオーディオのトレンドは、天井にもスピーカーを設置して立体的な(3D)音響を楽しむ、ドルビーアトモスなどのイマーシヴオーディオに移っているようだが(実際にどの程度浸透しているのかはよく知らない)、そちらへの対応はまだできそうもないので、当面は今の環境を堪能していきたい。

というわけで、 現行の再生環境について、以下に整理しておく。オーディオ用の電源はブレーカーから単独で引き、Purist Audio DesignのコンセントCRYO-L2を設置。そこからAC Designの電源ケーブルZEROで、チクマのタップCPS-23MKII-CLに繋いでいる。各機器の電源はそのタップから取っているが、プリメインアンプのMimesis SRのみ、電源ケーブルのGoldmund Power Cable (S)でコンセントから直に取っている。ラックはクアドラスパイアのQ4D Hi-Fi Table。Mimesis SRはゴム脚が熱でダメになってしまったこともあり、IronAAのインシュレーター「義経」を3点支持で使っている。スピーカーケーブルはMimesis SRからSilver RX2までがAnalysis PlusのSilver Oval 3.6m Bi-Wire(アンプ側はバナナプラグ、スピーカー側はYラグ)。CA-S3からBronze BR1までがCardasのCrosslink 1S(スピーカー側のみYラグ)。

●アナログレコード

プレーヤーはC.E.C. ST930S。ケーブルはオーディオクラフトのSX-TP100に交換。ディモジュレーター兼フォノイコライザーはVictor CD4-10を改造したもの(詳しくはこちらの過去記事を)。Mimesis SRへのケーブルはAC Design WTC-1/III。

▼ステレオ:結果的にスピーカーの入れ替えでこの部分の再生能力が高まったが、盤によっては外周部と内周部の音質の差が露骨に出てしまうこともある。カートリッジはオーディオテクニカのVM750SH(詳しくはこちらの過去記事を)。ヘッドシェルは同じくテクニカのAT-LH15/OCC。ディモジュレーターでもあるCD4-10改は、フォノイコライザーとしても極めて優秀である。

▼モノラル:カートリッジはテクニカのVM610MONO。ヘッドシェルはAT-LH18/OCC。左チャンネル分のみ結線し、スピーカーも左のみで鳴らしているが、スピーカーを内振りにしているので違和感はない。

▼ディスクリート4ch(CD-4、UD-4):VM750SHとCD4-10改が本領を発揮するが、盤質や4chミックスの良し悪しも出てしまう。盤と針先のクリーニングも徹底しているが、内周付近でどうしても歪む盤も少なくない。リアチャンネルの音声はCD4-10改の出力をAD DesignのケーブルBasis 1.4でCA-S3に送っている。

▼マトリクス4ch(SQ、RM他):デコーダーを持っていないので、4ch再生のためにはWindowsパソコンに取り込んでWAVファイル化し、Max Console内のQuadraphonic Decorderというソフト(詳しい解説はこちら)で再生。ただしそのソフトでは複数のファイルの連続再生ができないので、アルバムを通して聴く場合は、アルバム全曲をひとつのWAVファイルにしておく必要がある。パソコンとオーディオを介しているインターフェイスはRMEのBabyfaceで、フロント分はメインのステレオ出力からMimesis SRに送り、リア音声はヘッドホンジャックからCA-S3に送っている。ステレオミニプラグのものはいろいろあるが、ステレオ標準プラグ⇔RCAピンプラグ×2というケーブルが意外に売ってなくて、ATL446Aというオーディオテクニカの安いケーブルを使っている。

▼SPレコード(78rpm):プレーヤーのST930Sは当然78回転に対応。カートリッジはテクニカのAT-MONO3/SPで、SP用ながらRIAAカーヴでの再生に適応しているのはありがたい(詳しくはこちらの過去記事を)。ヘッドシェルはモノラルと同様AT-LH18/OCC 。こちらは右チャンネル分のみ結線し、CD4-10改に送っているので、右のスピーカーからのみ音が出る。

●CD/SACD/DVD-Audio/dts-CD

ユニバーサルプレーヤーはオンキョーのDV-SP155。INTEC155というシステムコンポを構成するプレーヤーとして、2003年6月に6万程度の価格で発売された普及品で、去年の12月に5,000円で入手(リモコンがなくて別途手配したが)。アナログマルチ出力があるのが一番のポイントで、5.1chのソースもちゃんと4.0chで出力できる。フロント分はAD Design WTC-1/IIIでMimesis SRへ、サラウンド音声はテクニカの安めのケーブルでCA-S3へ。CA-S3は入力が1系統しかないので、CD4-10改から、Babyfaceから、DV-SP155からのそれぞれのケーブルはその都度差し替える必要があり、それはちょっと面倒だが仕方ない。CA-S3の本体背面のピンジャック直接の抜き差しだとダメージが怖いので、CA-S3にはテクニカのARTLINKケーブルを繋ぎ、その先にJVCのAP-302HFというプラグアダプターを接続、そこにそれぞれのケーブルを繋ぎ換えるようにした。

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DV-SP155はCDプレーヤーとしては大したことないという書き込みもネット上で見かけ、確かに702PMCでの再生時には高域がきつく感じたが、今は再生になんら支障はなく、普通にいい音で聴ける。それにしても、一時期消えかけたSACDも復活の兆し(?)は見えるものの、現行のハイエンドオーディオ用のプレーヤーでは、SACDの特徴のひとつであるマルチチャンネル再生が無視されているようで、なんともやりきれない。

●ダウンロード/ストリーミング他

SpotifyやYouTubeなど、あるいは手持ちの音声ファイルなどはすべてパソコン上で再生し、Babyface経由でMimesis SRに送っている。再生ソフトはFoobar 2000など。BabyfaceからのケーブルはMimesis SRのテープ入出力端子に接続している。アナログレコードなどを録音する場合は、アンプからBabyface経由でパソコンに送り、Audacityで録音しWAVファイルなどで保存。ブルーレイもDV-SP155は対応していないので、パソコン上で再生。

●カセット

パイオニアのT-D7を再生専用機として使用。録音済みのカセットは大量にあるが、もうブランクテープに録音することはない。

●8トラック・カートリッジ

ヤフオクで500円で落札したソニーの再生専用機TC-6を使用。音質は独特。最近使用頻度が少ないので、たまに回してあげないといけない。

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2022年10月19日 (水)

洋楽聴き始めて50年、そのオーディオ遍歴など

前回のエントリー「ピアソラ没後30周年、『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』改訂版のお知らせ」にてお知らせしたとおり、当初はピアソラ没後30周年の7月4日には間に合うように、その後なんとか年内にと目論んでいた拙著の改訂作業だが、遅々として進まず。もう10月も半ばを過ぎたというのに、本文の見直しはようやく全9章中第3章(パリ留学と弦楽オーケストラによる録音まで)までが終わったところ。とにかく直すところ、書き足すべきことが多すぎるのだ。他の仕事等との兼ね合い、そして年齢との闘いもあり、集中力も以前のようにはなかなか保てないというのが正直なところでもある。しかし改訂するのもこれが最後の機会だろうから、中途半端な形にはできない、出版社からも特に「いつまで」とは期限を定められていない、ということでお待ちいただけるよう、切に願う次第である。

それはともかく、これを書いている10月19日は、翌20日に64歳の誕生日を迎えようとしているところで、1972年の誕生日後ぐらいから意識的に洋楽を聴くようになってちょうど50年という節目の年にあたる。音楽を聴くのに欠かせないオーディオとの付き合いについてもこの機にまとめておこうと、少しずつ記憶を辿りながら、合間合間に書き溜めてきた。まぁ、備忘録のようなものだが、せっかくなので披露しておくことにする。

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今住んでいる鎌倉市の家に私と姉、両親の一家が引っ越してきたのは、私が4歳だった1963年2月のことだ。それまでは横浜市中区の社宅住まいだったが、父が閑静な今の場所を気に入って、2階建ての家を建てたのだった。

その新居にステレオがやってきたのは、私が5歳になって間もない1963年11月のこと。なぜ11月とはっきりしているかというと、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺のニュースが流れたのとほぼ同時で、後に家族がそれを話題にしていたからだ(22日の暗殺当日だったかどうかまではわからないが)。

そのステレオは脚の付いた家具調のコロムビアのアンサンブル・ステレオで、応接間にセットされた。今では型番もわからないが、扉が前面ではなく上部に付いていて、スプリングでフロートされたリムドライブのプレーヤーは16、33、45、78の4スピードだった。当時の流行りだったスプリング・リバーブが付き、FMはモノラル(まだステレオでの本放送自体が始まっていなかった)。確か別売のユニットを繋げば、AMステレオの試験放送も聴けるようになっていた。アンテナを屋根に設置したわけではなく、受信状況はそれなりだったような気がする。

私は大船駅前の大船ミュージック・ショップで『サンダーバード』のソノシートなどを買ってもらった記憶がある。よく家で流れていたのは『お茶の間名曲集』。東芝の赤盤で、ジャケットがモディリアーニの肖像画か何かで、「クシコス・ポスト」が入っていたこと、演奏者の中に平岡精二の名前があったことはぼんやりと覚えている(ネットで検索しても同じものは見当たらなかった)。8歳年上の姉は、イ・ムジチ合奏団のアルバム(『四季』だったか『ブランデンブルク協奏曲』だったか)、ザ・サベージやスパイダースの入ったコンパクト盤(7インチ4曲入り)のオムニバス、『ウエスト・サイド物語』サントラの4曲入り7インチ(「トゥナイト」「クール」「マリア」と「アメリカ」、これはよく聴いた)などを揃えていた。針を下ろそうとして盤の上でガーッと横に滑らせては、よく怒られた。

私が自分で最初に買ったのは、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」だったはずだが、ヒットしていたのは9歳の頃で、状況はよく覚えていない。買ったのはもっとずっと後だったかもしれないが、その後しばらくは何も買わなかった。

小学校4年生の時、父がどこかから貰ってきたソニーの小型・充電式の赤いAMラジオをくれた。ネットで確認したところ、1968年5月に発売されたIC搭載ラジオの2号機ICR-200という当時の最新鋭機だった。

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※画像はネットから

貰ったのはいいが、最初は何を聴いたらいいかわからなかった。デザインは良かったが性能はイマイチで、そのうちソニーの6石スーパーのトランジスタ・ラジオか何かと入れ替わったんだったと思う。

6年生になって学校からの帰り道、公団住宅に住むH君がラジオを見せてくれた。それは自分の持っていた小型のものとは全然違っていて、メーターが付き、FMも短波も入る、かっこいいデザインのものだった。どこのメーカーだったかは覚えていないが、世の中にはこんなものもあるのかと興奮した。土曜日に鵠沼まで自転車でピアノを習いに行った帰り道、藤沢駅近くのオーディオとレコードの店に立ち寄り、並ぶ商品を眺めたりカタログを貰ったりするのが楽しみになった。その頃よく聴いていた番組は、土曜夜10時からのTBSラジオ『ヤングタウンTOKYO』など。歌謡曲やフォークが好きでラジオで聴いたりしていたが、洋楽のことはまだほとんど何も知らなかった。

当時家にはソニーのオープンリールの“テープコーダー”もあって(ネットで検索したら、1964年5月発売のTC-221だったことが判明)、一時期はエアチェックもしていたが、どのラジオからどうやって録音していたかは覚えていない。

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※画像はネットから

3台目として買ってもらったラジオは、ソニーのスカイセンサー5400(ICF-5400)。1972年に登場したスカイセンサーは、先に出た5500が縦長の斬新なデザインと豊富な機能で人気だったが、私はあえてそれ以前のソリッドステートIC 11やTHE 11の流れを汲むオーソドックスな5400にしたのだった。

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※画像はネットから

中学2年だった1972年の夏、久しぶりにシングル盤を買った。山口崇、林隆三、津坂匡章の「月は東に日は西に」。楽しみに観ていたNHKドラマ『天下御免』の挿入歌だが、何故これ1枚だけを買ったのかは覚えていない。

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※画像はネットから

そして10月に誕生日のお祝いとして貰ったお金で、LPレコードを買おうと思い立ち、大船ミュージック・ショップに行った。ちょうどCBS・ソニーの年末商戦恒例のギフト・パック・シリーズが出たところで、壁の上の方にジャケットがずらりとディスプレイされていた。天地真理や南沙織があるなあ、と思いながら左の方向に視線を移していくと、洋楽が並んでいた。邦楽は1枚ものなのに、洋楽は銀色のボックス入りの2枚組で、それだけで特別感があった。そして通し番号の若い方に辿っていくと、①はサイモンとガーファンクルだった。これだ、これにしよう、と決めた。ほとんど聴いたこともないくせに。

だが、その場でそれを買ったわけではない。S&Gのコーナーを見てみると、いろんなアルバムが並んでいる。2枚組のベスト盤もギフト・パックは3,000円なのに『サイモンとガーファンクルのすべて』が3,600円である。この金額の差は何処から来ているのだろうかと、真剣に悩んだ。1枚もののベストも、『明日に架ける橋』登場前の音源を集めた『サイモンとガーファンクルのグレーテスト・ヒット』、後述の米国編集のベストが決まった時点で、その曲目のまま日本先行で発売された『サイモンとガーファンクル・グレーテスト・ヒットⅡ』、その内容を同タイトルのままゴールド・ディスク・シリーズに組み込んだもの、そして正真正銘の米国編集盤として発売されたばかりの、ライヴ・ヴァージョンやリミックスなどの未発表音源を含む『サイモンとガーファンクル・グレーテスト・ヒット』。迷った挙句、最終的に選んだのはその米国編集の『グレーテスト・ヒット』で、購入日は11月1日とメモした。同じ頃洋楽を聴き始めた同級生のTとIは、どちらもギフト・パックを買っていたけれども。

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ちょうどラジオ関東で始まったばかりの『全米トップ40』を聴いてチャートをチェックするようになり、リオン・ラッセルが表紙の11月号から雑誌『ミュージック・ライフ』を買い始め、LPはそうそう買えないから、シングルでギルバート・オサリヴァンの「アローン・アゲイン」やエルトン・ジョンの「クロコダイル・ロック」、ミッシェル・ポルナレフの「愛の休日」などを買った。

アンサンブル・ステレオは応接間にあって好き勝手には聴いていられなかったから、自室で聴けるラジオ(スカイセンサー5400)が大事なアイテムだった。そして恐らく高校に入学したタイミングで(1974年)、カセット・テープレコーダーを買ってもらった。ソニーのTC-2600で、ステレオ録音とLL録音(語学練習用に片チャンネルずつ録音や再生ができる)を備えた機種だった。

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※画像はネットから

スカイセンサーのMPX-OUT端子に繋げるステレオ・ヘッドホン・アダプターのSTA-50を買い、そのステレオ出力をTC-2600に接続すればFM放送のステレオ録音ができたので、この組み合わせは大変重宝した。

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※画像はネットから

また、TC-2600をアンサンブル・ステレオのDIN端子に接続すれば、一応カセット・デッキとしても使うことができたから、音質はともかくレコードからカセットに録音すれば、部屋でもヘッドホンで聴けたのである(モノラルでよければスピーカーからも流せた)。

高校では放送部に入ったが、放送室にあったコンポーネント・ステレオが、新たな憧れとなった。スピーカーは覚えていないが、アンプは確かパイオニア、そしてプレーヤーは間違いなくパイオニアのPL-1200。これはカッコよかったから、強烈な印象を残している。後は番組作りなどに活用したオープンリール・デッキだ。メインはティアックの10号リール用A-3300Sと7号リール用A-2300Sで、操作パネルが傾斜しているソニーのスラントタイプのもの(多分TC-6360A)もあった。オープンリール・テープに録音したピンク・フロイドの『狂気』やディープ・パープルの『紫の炎』を放課後に聴いた記憶がある。

私は1974年の夏にラジオでスティーリー・ダンの「リキの電話番号」を聴いてから彼らに夢中になり、東芝EMI公認スティーリー・ダン・ファン・クラブの最年少会員となったほどだったから、1975年の『嘘つきケイティ』、1976年の『幻想の摩天楼』、1977年の『彩(エイジャ)』は輸入したての米国オリジナル盤でまず買ったが、解説と対訳欲しさに国内盤にすぐ買い替えてしまった(その後CDが出た時に買い替え、最終的にアナログを買い戻した)。今思えばなんとももったいない話だが、家のアンサンブル・ステレオでは音の良し悪しがわからないどころか、その頃には片チャンネルからバリバリとノイズが出るなどして、瀕死の状態だったように思う。大学に入ったら自分用のコンポーネント・ステレオを揃え、姉が結婚して家を出てから使えるようになった2階北側の和室で聴くのが目標となった。そして1978年。一浪してなんとか大学に入り、自室用のアンプとプレーヤーをようやく用意できることとなった。選んだプリメイン・アンプはサンスイのAU-607(初代)、レコード・プレーヤーはビクターのクオーツロック式のQL-5(カートリッジはZ-1EBが付属)。

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※画像はネットから

カセット・デッキはとりあえずTC-2600をそのまま使用。チューナーは買わなかった。そして問題がスピーカーで、とりあえず使い物にならなくなったアンサンブル・ステレオを2階に持って上がり、スピーカー部をそのまま繋げた。無謀にも平面バッフルを試そうとしてアンサンブル・ステレオの筐体をばらし、部屋の長押(なげし)の上に45度の状態で置いてみたら、低音がまったく出なくて苦笑する場面もあった。ということで、ほどなくしてJBLのL40を購入、ようやくまともなシステムとなった。

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※画像はネットから

TC-2600には世話になったが、デッキも本格的なものにしようと、1980年頃にサンスイのSC-55を買った。これはカセットホルダーがなくテープを直接メカニズム部に装着する「ダイレクトマチック方式」のデッキだったが、テープによっては回転精度に支障をきたし、使いづらかった記憶の方が大きい。

Sc55
※画像はネットから

その後、はっきり覚えてはいないがカートリッジをオーディオテクニカのAT-ML150/OCCあたりに換えていたようだ。

1981年。横浜の鶴屋町にあった松本印刷の2階に松本社長が開いた「レコピア」という貸レコード店でバイトを始めた。三鷹に初の貸レコード店として黎紅堂がオープンしたのが1980年というから、まだ貸レコード店の黎明期の話だ。そこで使われていたのは、確かアンプがビクター、プレーヤーがテクニクス(SL-1200シリーズではない)だった。壁に掛けてあったスピーカーについては覚えていない。私は雇われ店長のような形で、仕入れから会報作りまで手掛けた。そのうちに社長がもう飽きたからやめるというので、中古レコード店にしたらどうですかと言ったところ、じゃあお前がやれというので、レンタルに使っていたレコードを買い取って商品として流用する形で、中古レコード店「レコピア」を開業した。1982年のことである。結局色々な事情で店は2年も続かなかったが、ラテン音楽好きのお客さんから買い取ったレコードの中にアストル・ピアソラの『レクエルド』(タンゴの歴史 第2集)やピアソラを含むオムニバス『われらのタンゴ』があり、それを聴いたことが、その後の私の人生を変えたのだった。

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使用済みとなった店のオーディオは、父親が引き取って事務所に置いた。父は会社を定年となるタイミングで資格を取り、かつてアンサンブル・ステレオが置かれていた10畳の応接間を事務所として使っていたのである。

1985年頃には、アンプをオンキョーのIntegra A-817RXに換えている。理由は覚えていないが、AU-607のフォノ・イコライザーがMM専用だったので、MCカートリッジも聴けるようにしたかったのかも知れない。そして1986年2月2日、ついにCDプレーヤーの登場となる。恐らく当時話題になっていたマランツのCD-34も候補だったはずだが、選んだのはパイオニアのPD-7010である。その日買った最初のCDは、ミルバ&アストル・ピアソラ"Live at the Bouffes du Nord"、スティーリー・ダンの"A Decade of Steely Dan"、ティアーズ・フォー・フィアーズの"The Hurting"の3枚だった。

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その後最初のMCカートリッジとしてオーディオテクニカのAT33ML/OCCを導入した。

1987年5月から1988年5月まではブエノスアイレスに滞在した。向こうで使うために確かアイワの海外仕様のラジカセを買い、日本語の歌を聴きたくなった時のために、斉藤由貴の『チャイム』などをカセットに入れて持って行ったのを覚えている。当時向こうの中古レコード店は宝の山で、大量のレコードを買うことになり、隣人から使っていないポータブルのプレーヤーを借りて聴いたりもした。ブエノスアイレスではSPレコードもかなり買い、蚤の市で買った小型の蓄音機共々持ち帰ったが(割とすぐに壊れた)、気軽に聴けるように、コロムビアのポータブル・レコード・プレーヤー、2190RMを購入した。

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※画像はネットから

1989年3月10日に家を出て東京都世田谷区へ引っ越し。そのタイミングでだったかどうかは覚えていないが、スピーカーをソニーのラ・ヴォーチェSS-A5に換えた。SP盤は2190RMでも聴くには聴けたが、ちゃんとオーディオで再生したいと思い、1989年12月18日、3スピードのベルトドライブ・プレーヤー、C.E.C.のST930Sを購入。実に30余年後の今も元気で稼働中の、私にとってなくてはならない大切なプレーヤーだ。

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カートリッジはAT33ML/OCCともサイズの合うオーディオテクニカのAT-MONO3/SP(SP盤用)、その後AT-MONO3/LP(モノラル盤用)を用意した。

1990年6月16日には世田谷区から川崎市多摩区へ引っ越した。その頃、カセット・デッキがA&DのGX-Z7100EVに換わっている。1991年頃にはデノンのカートリッジ、DL-103GLを買っていたが、何故買ったのかまったく覚えておらず、ほとんど使わないまま10年後に処分するはめになった。1993年頃、DATウォークマンのソニーTCD-D7を購入したが、これは1995年8月と1997年9月に取材のためにブエノスアイレスに行った際にも活用した。1994年頃、CDプレーヤーがマランツのCD-16に置き換わり、1997年頃にはメインのカートリッジが同じオーディオテクニカのAT33PTGとなった。1998年4月、青土社から『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』を上梓。執筆や編集で酷使したそれまでのパソコン(NECの98MULTi CanBe、型番は不明)からコンパックのWindows98パソコン、Presario 2240に買い替え、波形編集ソフトのWabeLabとISAバス用サウンドボード、CreamwareのMMportのセットを購入。アナログ音源のパソコンへの取り込み・編集や、パソコン内音源のオーディオへの送り出しが可能となった。録音はパソコンで行うようになり、DATやカセット・デッキは基本的に再生専用となった。1998年頃にはアンプが同じオンキョーのIntegra A-929に換わっているが、状況は覚えていない。

1999年に入る頃、癌を患っていた父親が倒れた。母親の面倒もみる必要もあり、川崎と鎌倉の実家を行き来するようになる。入院した父は4月に亡くなり、私は最終的に7月10日に実家に戻った(母はその後施設に入る)。古くなっていた家を改修し、窓を木枠からサッシに替えた。かつてアンサンブル・ステレオが置かれ、その後父が事務所として使っていた10畳の応接間を、オーディオ・ルーム兼仕事部屋として使わせてもらうことにして、壁一面にはTOSKAのLB1000シリーズという組立家具でレコード棚を、その対角にはCD棚を組み上げた。

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この画像は、オーディオシステムを撮った一番古い写真だ。スピーカーはソニーのSS-A5、ラックの左側下段がオンキョーA-929、その上はアイワの全世界対応のVHSテープ・デッキHV-MX100(今回はAV機器の変遷には触れなかった)、右側は下からマランツCD-16、真ん中の黒いのがA&DのGX-Z7100EV、その上の薄いのはどこからか貰ったチューナーで、ほとんど使わなかったしメーカーも覚えていない。スピーカーの間にある黒いのはケンウッドのレーザーディスク・プレーヤー。

1999年9月、スピーカーを新しくした。雑誌『オーディオ・アクセサリー』で紹介されていた、当時日本ではまだ無名だったイギリスのメーカー、モニター・オーディオのブックシェルフである702PMCが気になって、数少ない取扱店のひとつだった関内の横浜サウンドに試聴しに行ってみたら、その音離れのよさが気に入ってしまったのだ。

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これは702PMCの導入直後の写真。そして702PMCの導入以降、そのポテンシャルを引き出そうと、怒涛の買い替えモードに入ることになる。まず、CDプレーヤーをティアックのVRDS-25XSにした。DATウォークマンの調子が悪かったため、デッキとしてDTC-ZE700を購入。

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バキューム式レコード・クリーナーにVPIのHW16.5を導入(これは今もしっかり現役)。ラックをクアドラスパイアにした。次にMC専用フォノ・イコライザーとしてリンのLINTOを用意、プリメイン・アンプを逸品館の小型・別電源式のAirbow LITTLE PLANETにしてハイスピード化を狙った。モノラル盤やSP用のフォノ・イコライザーとして、カーブ可変型のサウンドボックス Mozart Phonoを導入。それに合わせてSP再生を極めようと、ソノヴォックスのバリレラ型、MC-4を入手(針を換えればモノラルLPも再生可能)。ついでにデノンのDL-102SDの中古まで買っているが、これはほとんど使わなかった。

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LITTLE PLANET(右側の下から3段目左が本体、左側の下から2段目右が電源部)が写っている唯一の写真。この後ステレオ・カートリッジがベンツマイクロのREFERENCEとなった。2000年2月までに一気にここまで進んだ後、ステレオ盤とモノラル盤、SPを掛け換える度にフォノケーブルを繋ぎ直すのが面倒になったため、5月に2台目のプレーヤーとしてノッティンガムのTHE SPACEDECKまで購入、ステレオ用とモノラル用のアナログ2台体制とした。6月にはモノラル盤用にオルトフォンのSPU Mono-Gの中古を手に入れた(これはMozart Phonoとの相性が良かった)。SP再生時のスクラッチノイズ軽減のためにマランツのグラフィック・イコライザーEQ-580も買ったが、これは結局なくても支障はなかった(最終的に2020年12月に売却)。LITTLE PLANETは音が平板に感じるようになり、入力端子が少なくケーブルの繋ぎ換えもまた面倒になったところで、ゴールドムンドのMIMESIS SR(プリメイン)の中古を9月にオーディオ・ユニオンで見つけて購入。11月には702PMCのために超弩級のスピーカースタンド、京都のガレージメーカーIronAAの弁慶を設置。12月にはGX-Z7100EXが故障してしまったため、パイオニアのT-D7を購入。ケーブルや電源への投資を含め、今思えばこの時期が、システムが一番贅沢だった。

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2001年2月に結婚し、翌年には子供も誕生、オーディオへの投資はひとまず打ち止めとなった。さすがにREFERENCEが分不相応に思えてきて、2002年3月にはメインのカートリッジをリーズナブルなオーディオテクニカのAT-ART200に変更。SPU Mono-Gもそのうちに針先を飛ばしてしまい、しまってあったAT-MONO3/LPが復活した。2006年9月、パソコンをNECのValueOne MT600/4D3W(Windows XP)に買い替え。もはや時代遅れのISAスロットはなくPCIスロットのみで、Presario 2240に挿していたMMportは使えなくなってしまった。そのパソコンとボードを処分したのは、さていつのことだったか。

時は流れ2011年5月、レコード・プレーヤーの2台使いも贅沢と感じられるようになり、資金繰りの必要もあってTHE SPACEDECKは売却。一方でパソコンと繋ぐオーディオ・インターフェイスとしてRMEのBabyfaceを導入、MIMESIS SRのテープ入出力端子に繋いで、録音や再生を受け持つパソコンとの連携が復活した。9月にはパソコンをPCワンズというショップのBTOパソコン(Micro gear A3850/H)に買い替え。このパソコンは、その後SSD、ハードディスク、ブルーレイドライブをそれぞれ換装し、Windows 7から10にアップデートしたものの、現在もしっかり使えている。

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2012年2月、メインのカートリッジがテクニカのAT33PTG/IIとなる。後は2014年8月にモノラル・カートリッジを同じテクニカのAT33MONOにした程度で、同じ機器を大切に使い続ける日々が続いた。VRDS-25XSは2016年9月に不調となり、6万円かけて修理したが、結局2019年末までには再びエラー頻発となり処分。CDはパソコンで再生することにしたが、特に不満はなかった。DATデッキはしばらくぶりに使おうとしたら作動せず、2020年5月に処分。

2019年4月に関内のディスク・ユニオンのセールで『内山田洋とクール・ファイブ・ゴールデン・ヒット・デラックス16』を140円で買って衝撃を受けたことが、次の動きへの大きなきっかけとなった。彼らのレコードを集めるうち、8トラック・カートリッジ・オンリーの音源があることが発覚、入手したその『クールファイブ デラックス』を再生すべく、ソニー初のホーム・オーディオ用8トラック・カートリッジ再生専用機として1968年9月に発売された「カートリッジ プレーヤー8」TC-6をヤフオクで500円で落札した。2020年5月12日に到着、インジケーターがひとつ切れていてジャンク品扱いだったが、ヘッドのクリーニングが必要だったことを除けば、何の問題もなく使用できている。詳しくは「8トラック・カートリッジ・プレーヤー導入とカートリッジ・テープ修復の巻」を参照されたい。

そしてクール・ファイブのCD-4(ディスクリート4チャンネル)盤が増えたことで、知人の勧めもあり4チャンネル・ステレオの再生環境を構築していくことになった。ただし往時の4chアンプや現代の5.1chのAVアンプは使わず、従来のステレオ・システムにリア部を組み込む形での導入である。そこからの経緯は「CD-4を中心とした4チャンネル・レコードの再生」「新たな機材の導入でノイズのないディスクリート4チャンネル・レコードの再生が実現」「アストル・ピアソラ・コレクション紹介/ディスクリート4チャンネル再生のその後」「オーディオテクニカVM750SH ―CD-4再生用カートリッジとしての理想―」で紹介してきたが、かいつまんでまとめると次のようになる。まず2020年10月20日、リア再生用にメルカリで購入したタスカムのパワード・モニター・スピーカー、VL-S3が到着。

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Babyfaceのヘッドホン端子からリア・チャンネル分の音声が取り出せるので、パソコンでのマルチチャンネル音源(DVDやブルーレイなどの5.1ch音声をミキサーで4.0chにダウンミックスしたものや、SQ盤などのマトリクス音源のWAVファイルやMP3ファイルをデコード・ソフトで4ch化したもの)の再生が可能となった。

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当時のスピーカーの置き方はこんな感じだ。ビクターのMM型カートリッジMD-1016の中古とシバタ針のJICO 30-1Xの新品を用意し、10月29日にメンテナンス済みのビクターのディスク・ディモジュレーターCD4-30を、調整を施したAさんの事務所に引き取りに行った。

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LINTOの上がCD4-30。かくしてCD-4盤の再生環境は整ったが、MD-1016と30-1Xの組み合わせではCD-4盤特有の嫌なノイズが出やすかった。

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2021年2月14日、生産終了による在庫処分で安くなっていたオルトフォンの高出力MCカートリッジMC-3 Turboを入手し、ノイズ問題は解消に向かった。

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CD4-30はMM型フォノイコライザーとしての性能も優れていたからLINTOは手放し、MCカートリッジのAT33PTG/IIやAT33MONOをCD4-30でも聴けるようMC昇圧トランスとしてフェイズテックのT-3の中古を入手してみた(3月9日到着)。

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AT33PTG/IIはマイクロリニア針だからCD-4盤の再生もできるはずだったが、T-3を経由したCD4-30での4ch再生ではノイズが乗りやすかった。そんな折、CD4-30の上位機種であるCD4-10の改造機(中身を、耐ノイズ性能に優れた第3世代ディモジュレーター用ICチップを搭載した基板に換装したもの)をAさんから譲って貰えることになった。それは3月22日に到着し、ノイズの除去性能の高さを確認したが、T-3経由でのMCカートリッジの使用はやはり厳しかった。昇圧トランスがだめならMCヘッド・アンプはどうだろうと思い、ヤフオクで売られていたマーク・レビンソンJC-1DC(1974年発売)の回路をベースにしたという電池駆動式の自作ヘッド・アンプを入手。

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最初はいいように思えたが、結局CD-4盤の再生に関していえば、セパレーション調整がうまくできなかったり、正しく定位しないなどの問題が見つかり、トランス経由であれヘッドアンプ経由であれ、MCカートリッジによる4ch再生は実用的ではないという結論に達した。ということでMCカートリッジもトランスもヘッド・アンプも処分することにして、9月24日にテクニカのVM型(MM型と実質的に同じ)であるシバタ針のVM750SH(ステレオおよびCD-4用)と接合丸針のVM610MONO(モノラル用)を導入、これが大正解だった。

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ここまできて、簡易的に導入したリア・チャンネル用のVL-S3が非力となってきたので、リア用のアンプとして小型デジタル・プリメインのフライング・モールCA-S3を、スピーカーとしてモニター・オーディオのBronze BR1(2006年発売)をそれぞれ中古で調達。11月8日に揃い、格段にバランスが良くなった。

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12月18日、ユニバーサル・プレーヤーとして2004年製でアナログマルチ出力のあるオンキョーのDV-SP155を中古で入手。マルチチャンネルを含むSACDやdts-CDの再生が可能になった。

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これは現在のセッティングで、上が8トラック・カートリッジ・プレーヤーTC-6、その左はST930Sの電源部、下は左がCA-S3、右がDV-SP155。

2022年1月27日、調べ物をしていて意外な事実が判明した。オーディオテクニカのAT-MONO3/SPは、SP用であるにも関わらず、SP用のイコライザーカーブよりもRIAAでバランスよく聴けるように設計されているとテクニカの社員から聞いたという、複数の方からの証言に辿り着いたのである。なぜメーカーがそんな大事なことを公表しないのか謎だが、実際にCD4-10改で聴いてみたら、確かにバランスが良かった。道理でAT-MONO3/SPのMozart  PhonoでのSPカーブによる再生がイマイチだったはずだ。高出力とはいえMCだからか、とも思っていたがそういうことではなかった。Mozart PhonoはSP用として使えるだけでなく、RIAAに統一される前(1955年以前)の初期盤LPにも対応していたが(もともと機種的にはそちらがメイン)、そもそも手持ちの初期盤はごくわずか。カーブ切り替えの効果もそれほど感じていなかったので、こちらも処分することに。フォノ・ケーブルの繋ぎ換えも必要なくなってすっきりした。詳しくは「割れたSPレコードの修復、オーディオテクニカAT-MONO3/SPによるRIAAカーヴでの快適なSP再生」を参照されたい。バリレラ型のMC-4にも思い入れはあったが、これも結局処分した。

さて、ここまで書かなかったことだが、実はメイン(フロント)のシステムには以前から不満があった。いつの頃からかもうはっきりとわからないが、低域が弱いと感じるようになっていたのである。といって買い換える予算もなく、気にしないようにしていた。原因は年数の経ったMIMESIS SRかなと思ったりもしていた。それに対しCA-S3とBR1の組み合わせは、元気がいいばかりでなく、スピーカーも小さいのに低域が出過ぎるぐらいバンバン出てきて過剰なほど。4chで聴いても、通常の2chの音源を前後で鳴らしても、低域はグッとリアに寄り、フロントから低域がきちんと出ていないことが明白になってきた。それでもだましだまし聴いていたが、それも限界となり、もうMIMESIS SRは処分して(それでもある程度の金額では売れるだろうから)、その金額で別のアンプでも買おうか、と考えたのが8月26日のこと。とりあえずMIMESIS SRを外して繋ぎ換えようとしてBR1を702PMCの上に乗せ、ふとアンプからのケーブルを繋ぎ換えてみたところ、予想もしなかったことが起きた。

MIMESIS SR → Silver Oval(ケーブル)→ Bronze BR1…低域がちゃんと出る!

CA-S3 → Crosslink 1S(ケーブル)→ 702PMC…低域が出過ぎない!

というわけで、本などの詰まったラックの上にチョコンと乗せた小さなBR1がフロント(メイン)のスピーカーに、ごっついスタンドに乗った大き目の702PMCがリア(サラウンド)のスピーカーに、という普通ならありえないだろう形になった(CA-S3は入力1系統なので、CD4-10から、DV-SP155から、Babyfaceからのそれぞれのリア分のケーブルをその都度差し替えていて、いろいろ繋ぐ必要のあるメインには使えない)。それに伴い、スピーカーに囲まれたセンターに置かれた事務机を180度回転させたところ、ケーブルの引き回しや座る位置からの操作性など、いろいろ都合のいいことも多かった(詳しくは次のイラスト参照)。

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こちらがリアからフロントになったBronze BR1。

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リア・スピーカーとなった702PMC。これで前後のスピーカーの低域を含む全体の質は、厳密に言えばまったく同じということはないがかなり揃ったし、4chのイメージも定位もきちんと取れるようになった。なんでこんな風になったのかさっぱりわからないというのが正直なところだが、原因はMIMESIS SRではなく702PMCの方にあったと考えるのが自然だろうか。それにしても、当初はリア用に気軽に買ったBronze BR1が予想以上に頑張ってくれているのはうれしい誤算だった。通常のステレオ再生でも、超低域までは出ていないにしても必要な低域はしっかり出してくれるし、部屋のレイアウトや使い勝手からも、この大きさがちょうどいい。高域にピークが感じられ、ソースによってはちょっとキツイものもあるので、その解消が今後の課題ではある。

ということで、シンプルになってきた今のシステムを改めて書いておこう。

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レコード・プレーヤー:C.E.C. ST930S
ステレオ/4ch用カートリッジ:audio-technica VM750SH
モノラル用カートリッジ:audio-technica VM610MONO
SP盤用カートリッジ:audio-technica AT-MONO3/SP
ディスク・ディモジュレーター/フォノ・イコライザー:Victor CD4-10改
ユニバーサル・プレーヤー:Onkyo DV-SP155
プリメイン・アンプ(フロント用):Goldmund MIMESIS SR
プリメイン・アンプ(リア用):Flying Mole CA-S3
スピーカー(フロント用):Monitor Audio Bronze BR1
スピーカー(リア用):Monitor Audio 702PMC
カセット・デッキ:Pioneer T-D7
8トラック・カートリッジ・プレーヤー:Sony TC-6
オーディオ・インターフェイス:RME Babyface

2022年7月 4日 (月)

ピアソラ没後30周年、『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』改訂版のお知らせ

今日は2022年7月4日。アストル・ピアソラが亡くなってちょうど30年経った記念の日に、改めてお知らせしたいことがある。実は生誕101周年を迎えた3月11日にはFacebookやTwitterで告知済みだったのだが、1998年4月に上梓した『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』の改訂版を、同じ青土社から出版できることになった。

今改めて3月11日のFacebookへの書き込みを読み返すと、「没後30周年にあたる7月4日の刊行を目指し」などと書いているが、作業を始めてすぐ、とても間に合わないことが判明。年内に何とか出せるようにと、スケジュールを改めたほどだ。なにせ、巻末の資料作りにもう4か月も費やしていて、まだ終わらない。

巻末資料の中心がディスコグラフィーであること自体は変わらないが、細かい情報のアップデートだけでなく、内容はずいぶん変えてある。1998年当時は、まだ巷に様々なCDがあふれていた時代で、タイトル違いやジャケット違いで同じ内容のものが大量に出ていて、購買者の混乱を招いていた。そんなこともあり、海外盤、再発盤、編集盤など集められるだけの様々な種類のLPやCDを基本的にジャケット写真付きで掲載していた。だが、今回の改訂版ではそれらの情報はほぼ削った。情報はオリジナル盤(すべてジャケットまたはレーベルの写真付き)および近年のリイシューCDなどに絞り込んだが、その代わり、これは近年の一部音楽書籍にみられる傾向ではあるが、Spotifyなどサブスクリプションで聴ける音源にリンクするQRコードを掲載した。これが改訂版の大きな特徴となるだろう。なにせ、サブスクの方こそピアソラに関しては混乱状態で、他の演奏家によるものが幅を利かせ、本人の演奏に辿り着けないものも数多いのだ。また、CDの形では出ていないが配信のみで聴けるものも、数は極めて少ないが掲載してある(下に画像を載せたミルヴァとのライヴ録音もその一つ)。

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初版のディスコグラフィーの付録3「ピアソラ自身が録音しなかったピアソラ作品一覧」は極めて簡単なリストだったが、ここに載せられていた多くの曲目が、この20年余りの間に新たに取り上げられるようになっていることもあり、リスト自体も前回の4ページから今回は8ページへと広がった。そして新たに、それらの曲目の初演もしくは重要な録音(当然ジャンルも多岐にわたる)を100点近くジャケット写真付きで紹介するページを作った。こちらは、特に最近のものは配信のみのものも多い。正直に言って、これは世界にも例がない画期的なページになっていると思う。ここまでは一応完成している。

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そして、現在作成中なのが、フィルモグラフィー。ピアソラが音楽を担当した映画は全部で40タイトル弱だが、実はこれらのほぼすべてが、現在ではYouTubeや有料配信サイト、DVDなどのいずれかで観ることができるようになっていたのも驚きだった(今現在、視聴する手段が皆無なのは、1963年の"La fin del mundo"という一作品のみである)。というわけで、そのすべてを複数回観て(早口のスペイン語の聞き取り能力はほぼ皆無なので、YouTubeの自動翻訳機能などに頼りながら)、文章化するという作業を延々と続けているのである。

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初版からの訂正すべき点はそれこそ大量にあるが、タイトルの訳し方などもそうだ。例えばホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編の映画化である"A intrusa"(ブラジル映画なのでこれはポルトガル語。スペイン語では"La intrusa")。私は単純に「侵入者」と訳してしまっていたが、この短編が掲載された『ブロディーの報告書』(鼓直訳、白水社/岩波文庫)では「じゃま者」となっているではないか(上の画像のように修正)。こうした調査不足も、今回はできるだけ補っていかなければと考えている。まだまだ先は長い。

2022年2月11日 (金)

割れたSPレコードの修復、オーディオテクニカAT-MONO3/SPによるRIAAカーヴでの快適なSP再生

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昨年(2021年)11月の初め、某タンゴ・コレクターが手放したSPレコードおよそ3,000枚の大整理大会が某所で行われ、某有名タンゴ関係者2名と共に作業にあたった。私はそこから100枚ちょっとを選び出して引き取らせていただいたのだが、その自宅での整理が1月の終わりにようやく終了。

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すべてデータベースに入力し、すべてを最低1回は聴き、従来の手持ちと合わせたすべて(430枚ほど)に管理番号を付けて演奏者別・録音またはリリース順に並べ、ケース21箱にピッタリ収めた。データベースをみれば、何がどの箱に入っているか一目瞭然。

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という作業の終盤で、遠くに手を伸ばして無造作に持ち上げようとした1枚が、パリンと割れてしまった。しかもレーベルを確認すると、アニバル・トロイロ楽団の「勝利 (Triunfal)」(ピアソラ作編曲)ではないか。よりによって貴重な1枚を…。

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しかし、奇麗に割れてくれたので、後日修復作業を敢行。

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アロンアルファでの接着作業は無事に終わり、裏にはみ出して表面にこびりついた接着剤を削り取り(下の画像の白くなっている部分)、針飛びする部分もカッターまで使って修復。スクラッチノイズは出るものの、無事に再生できた。

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ところで、今回入手した100枚以上のSP盤の中には、反っているものもかなりあった。SP再生用のカートリッジにはSonovoxのMC-4というバリレラ型のものをメインで使っていたが、カンチレバーがほぼフラットなので反った盤だとカートリッジのボディの腹の部分で盤をこすってしまう(画像に写っている盤は反っていないが)。

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ということで、普段使っていなかったaudio-technicaの高出力MCカートリッジAT-MONO3/SPに替えてみた。再生は安定するが、高域の音が強めに感じた(理由は後述)。

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オーディオテクニカと言えば、昨年9月に入手して前回(もう4か月前になってしまった)紹介した、大当たりのVM型ステレオ・カートリッジVM750SHと一緒に、モノラルのVM610MONO(針はVMN10CB)も買っていたが、これは針をVMN70SPに替えることで、SP用のモノラル・カートリッジVM670SPと同等になる。

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この交換針は未入手だが果たしてどんな感じなのだろうか、同じテクニカで価格帯がほぼ一緒のMC型とVM型というこの2つのSP用カートリッジを誰か比較していないものかと思い、ネットを検索してみたが、まったくヒットせず。

ところが、検索中に思いもかけずAT-MONO3/SPについての貴重な情報に辿り着いた。このカートリッジはSP用であるにもかかわらず、SP用のイコライザーカーヴよりもむしろ、RIAAカーヴでの再生に適応しているというのである!

最初にみつけたのは、現5ちゃんねるの掲示板「[78rpm]SPレコードの電気的再生方法[65μ]」にあった甘木さんという方(この方の使っているプレーヤーも私同様CECのST930だという)の2006年4月の書き込み。ここの752がそう(これに関するやりとりは765あたりまで続いている)。該当箇所を以下に抜粋しておく。

イコライザーはRIAAで聴いてみたのですが
同じ演奏の復刻CDと比べて違和感を感じる事も無く、
素晴らしかったです。そのため今もMONO3/SPを使っています。

でもRIAAで使えるのが不思議だったのでテクニカに問い合わせて
みたところ、設計者の方から「あれはRIAAでSPを聴けるように
設計したカートリッジです」というお返事をいただきました。

だったら、何故それを売りにしないのか?とも思いますが
RIAAのイコライザーがそのまま使えるので、便利だと思います。

ウチではMC-4と組み合わせるSP対応のフォノイコライザーアンプ(モノラル)として、Sound BoxのMozart Phonoをちょうど22年間使用してきた。モノラルLP/EP用に6つのイコライザーポジションを備えたベーシックモデルに対し、私がオーダーしたのはAESとNABを78 USAと78 EU(米国系と欧州系のSP用)に置き換えたSPイコライザー搭載モデルだった。

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ポジション毎のターンオーヴァー(低域増幅周波数)とロールオフ(高域減衰周波数)は以下の通りとなる。

COLUMBIA 750Hz / 1590Hz
RCA  800Hz / 3000Hz
LONDON (ffrr) 500Hz / 3000Hz
RIAA 500Hz / 2120Hz
78 USA 500Hz / -
78 EU 250Hz / -

SP用に使われてきたカーヴも厳密にはいろんなパターンがあり、ロールオフもフラットとは限らないが、搭載されていたのは上記の2パターン。最近のイコライザーカーヴ可変フォノイコは、ターンオーヴァーとロールオフ(周波数よりもデシベル刻みのものが多い)をそれぞれ切り替えて数多くの組み合わせパターンを作れるものが主流となっているが、Mozart Phonoを入手した当時は、そのようなものは見当たらなかったように思う(存在を知らなかっただけかも知れないが)。

それはともかく、AT-MONO3/SPで聴く場合でも、当然のように78 USAポジションを選んでいたわけで、なんとなくバランスが悪いからRIAAで聴いてみよう、などという発想は浮かびもしないまま、あまり使わずに来てしまったのである。そんなわけで先の書き込みを目にして慌てて試してみたら、なるほど確かにRIAAで聴くとしっくりくるではないか。MC-4を78 USAポジションで聴いた時と、AT-MONO3/SPをRIAAで聴いた時とで、同じようなバランスになる。今まで感じていた違和感が払拭され、今更ながらようやくこのカートリッジの真価が理解できた感じだが、それにしてもどうしてこんな重要なことが今まで知られていなかったのか。もちろん取扱説明書にもカタログにもそんなことは一切書かれていない。

そう思って更に検索すると、「黄金のアンコールの音楽とオーディオの部屋」というブログの2016年8月の「Technics SL1200GAE」という記事に辿り着いた。ここで黄金のアンコール氏は

AudioTechnica AT-MONO3/SPは、通常のRIAAフォノイコライザを通すと普通にSP盤がバランス良く再生出来るような仕様になっているので、RIAAカーブと異なるSP用のイコライザは要らない。そうやって再生されたSP盤の中には、聴き慣れた蓄音機再生よりも電気再生の方が良いじゃないか、と思わせるものも多々ある。

と書く。その根拠は?と思い、掲示板で質問したところ、「オーディオ・テクニカの社員の方から聞きました」との回答が得られた。情報源は5ちゃんねるの甘木氏と同じである。

発言の裏付けは取れたが、公表されていない謎は深まるばかり。そして、そのように調整されたAT-MONO3/SPに対して、LP用のVM610MONOとは本体が同じで針が異なるだけのVM670SPは、RIAAでの再生には特に対応していないと考えるのが自然だろう、という一応の結論に達した。

それはともかく、AT-MONO3/SPがRIAAで聴けるということは、使い勝手が格段に良くなることを意味する。これまでSPを聴く際には、普段は ST930からディモジュレーター兼フォノイコライザーのVictor CD4-10改に繋いでいるフォノケーブルとアースを、いちいちMozart Phonoに繋ぎ換える必要があった。また、MC-4は針圧15gなのでトーンアームのウエイトを軽いものに取り替える必要があったが、AT-MONO3/SPの針圧は標準5g(3gから7gまでが適正値内)で、他のテクニカのカートリッジ用と同じウエイトのままで6gまで掛けられる。

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そしてこれも重要なことだが、Mozart PhonoのRIAAポジションよりも、CD4-10改に繋いだ方が音がよかったのである(以前も書いたが、これはモノラル盤をVM610MONOで聴いた時も同様)。実を言うと、モノラル初期盤LP再生時のColumbiaカーヴ等へのポジション切り替えの効果も、耳のせいか機械のせいかよくわからないがあまり感じられず、ということで22年間世話になったMozart Phonoはシステムから外した(早速ヤフオクに出したら、意外と高く売れてしまった)。

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MC-4はSP用としては当面の間本来の音では聴けなくなるが、針をLP用(1milと0.7milの2種類ある)に替えれば、それはそれで使える。

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ST930からのケーブルは、もうCD4-10改に繋ぎっぱなしでいい。ウエイトも替えなくていい。

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カートリッジというかヘッドシェルをパッと付け替えて針圧さえ調整すれば、SPを聴いたりモノラル盤を聴いたりステレオ盤やCD-4盤を聴いたり、ストレスなく移行できる。

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いや、この効果は実に大きい。細かく突き詰めるのも時に大事だろうが、手軽に聴けることの大切さを実感している。

2021年10月13日 (水)

オーディオテクニカVM750SH ―CD-4再生用カートリッジとしての理想―

9月24日に新しいカートリッジ、オーディオテクニカのVM750SHがやってきて、それ以来愛聴盤を聴き直しては新たに感動するという日々を過ごしている。これは無垢シバタ針を備えたVM型(扱いはMM型と同じ)の上位機種だが、ディスクリート4チャンネル(CD-4)の再生においても、通常の2チャンネルステレオの再生においても、最高のパフォーマンスぶりを示してくれている。

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CD-4の再生については、これまで2月23日の「CD-4を中心とした4チャンネル・レコードの再生」、4月15日の「新たな機材の導入でノイズのないディスクリート4チャンネル・レコードの再生が実現」、9月19日の「アストル・ピアソラ・コレクション紹介/ディスクリート4チャンネル再生のその後」という3つの記事で紹介してきたが、実は2月23日の記事の最後の方で

現行のMMカートリッジの中では、オルトフォンの2M Bronze(無垢ファインライン針、20Hz~29kHz)、オーディオテクニカのVM750SH(無垢シバタ針、20Hz~27kHz)あたりがCD-4の再生に対応できそうだ。テクニカはMCカートリッジのAT33シリーズをずっとメインで使ってきたので、VM750SHもいつかは試してみたいものだが、当面はMC-3 Turboをじっくりと味わっていきたい。

と書いていた。このVM750SHは、時々お邪魔しているanalog BeatのJDさんも評価されるなど(該当記事はこちらこちら)音質面でとりわけ評判のいい機種だが、実際にCD-4の再生を試した実例はネット上にはなく(その後海外のフォーラムで一人これを推奨しているユーザーを発見)、果たしてCD-4の再生に威力を発揮してくれるか、一抹の不安はあった。もっとも、海外のQuadマニアの間では、テクニカのこれよりランクの下の機種のさらに旧タイプであるAT440MLb(シバタ針ではなくマイクロリニア針)というのが、ヴィンテージではない今のカートリッジの中でCD-4再生の定番となっているとのことなので、大丈夫だろうと思いつつ購入したわけである。そして購入を決断したのにはもうひとつ理由があった。2月の購入以来気に入って使っていた高出力MCカートリッジのortofon MC-3 Turboではあったが、内周近くでキャリア信号を読み切れずインジケーターが付いたり消えたりする盤が複数出てきたり、内周近くで歪みやすいのが気になり出していたのである。

そしてVM750SHを実際に聴いてビックリ。現在新品として入手できるカートリッジ(そもそもCD-4再生を謳った機種は皆無)としてはこれこそが最強と判断できるほどの能力の高さを瞬時に示してくれたのである。スペック上の再生周波数は上が27KHzだが、30KHzのキャリア信号を難なく読み取れることもあるのだろう、音の粒立ちがしっかりして定位の明確さが際立ち、歪みが少なく、情報量が多く、音楽を実に生き生きと表現してくれる。比べてしまうとMC-3 Turboは、ノイズ耐性は高いものの、残念ながらここまでの次元には達していなかった。

そしてこれはCD-4だけでなく、通常の2チャンネル再生にも言えることだった。単に音が良いだけでなく、コンディションの悪い盤、プレスに問題がありそうな盤をいかにまともに再生してくれるかというのを重要視しながら、この10年近く、同じテクニカのMC型AT33PTG/II(マイクロリニア針)とMC専用フォノイコライザーLINN LINTOの組み合わせをリファレンスにしてきたが、その組み合わせでもついぞ聴けなかった音が軽々と出てきたのには驚いた。歪みに強く、ノイズを抑え、必要な音は漏らさずきっちりと出してくるという、私が求める理想の姿がそこにはあった。もっともこれは、カートリッジ自体の性能だけでなく、シバタ針という針先の形状によるところも大きいかも知れないし、4月15日の記事で詳しく紹介したCD-4ディモジュレーター(兼フォノイコライザー)Victor CD4-10改造機との組み合わせも実にいい方向に作用しているようだ。

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実は今回同時に、同じシリーズのモノラルカートリッジVM610MONOも購入。これまで使っていたMC型AT33MONOの無垢丸針から接合丸針へとグレードダウンした形となったが、使い勝手などを考えてのこと。まだ十分には聴き込んでいないが、こちらもまったく問題なし。イコライザーカーヴ可変の管球式モノラル専用フォノイコライザーMozart Phonoよりも、RIAA固定だがCD4-10改(片チャンネルのみ使用)の方が、VM610MONOの持つ力はより明確に発揮されるようだ。

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昨年10月末の4チャンネル再生環境づくり開始からまもなく1年になるが、その間の変遷を表にすると次のようになる(AT33PTG/IIによるCD-4再生を目指しての、MC昇圧トランスやヘッドアンプの一時的な導入は省略)。

  カートリッジ ディモジュレーター
2020/10/29

Victor MD-1016+ JICO 30-1X


Victor CD4-30

2021/2/14

ortofon MC-3 Turbo

2021/3/22

Victor CD4-10改造機

2021/9/24

audio-technica VM750SH

ということで、VM750SHの導入でようやく一応の終着点に辿り着けた感じだ。しかも通常の2チャンネルステレオの再生環境まで進化したのだから、言うことはない。

2021年9月19日 (日)

アストル・ピアソラ・コレクション紹介/ディスクリート4チャンネル再生のその後

いろいろ書かねばならないことはあるのだが、クール・ファイブの連載だけでなく、なかなか思うように更新ができない。年とともに集中力がなくなってきているのも関係しているだろうか。ともあれ、最近のことを少しまとめておこう。

8月25日にはソニーから「アストル・ピアソラ・コレクション」全10タイトルが1枚1,400円というお買い得価格でリリースされ、選盤と解説(西村秀人さんと分担)を担当した。

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フランスのヴォーグ原盤が1枚、ミラン原盤が2枚、残り7枚がアルゼンチンRCA原盤。日本初紹介の音源はないが、ピアソラ史を彩る重要作が目白押しである。以下はその内容。

  • 『シンフォニア・デ・タンゴ』(SICP 6391)

1955年のパリ留学時、弦楽オーケストラ編成で録音した初のオリジナル・アルバム(10インチ)。オリジナル・モノラル・マスターを使用しての単独CDは世界初。

  • 『ピアソラ、ピアソラを弾く』(SICP 6385)

1960年に結成されたキンテート(五重奏団)による初のアルバム。「アディオス・ノニーノ」の初録音収録。ヴァイオリンはシモン・バジュール。

  • 『ピアソラか否か?』(SICP 6386)

古典タンゴのシンプルなアレンジを中心にしたキンテートのセカンド・アルバム(リリースはこちらが先)。ヴァイオリンはエルビーノ・バルダーロ。ボーナス・トラックとして歌手ダニエル・リオロボスとの2曲、エクトル・デ・ローサスとの4曲も収録。

  • 『レジーナ劇場のアストル・ピアソラ1970』(SICP 6387)

アントニオ・アグリ(ヴァイオリン)、カチョ・ティラオ(ギター)などを擁した最強のキンテートによる歴史的ライヴ。《ブエノスアイレスの四季》全曲収録、ピアソラ史上最高傑作。ボーナス・トラックとして映画『魂と生命をもって』サントラ4曲収録。

  • 『五重奏のためのコンチェルト』(SICP 6388)

キンテート10周年を記念したタイトル曲ほかと、ピアソラの敬愛する音楽家/作品に捧げた貴重なバンドネオン・ソロ(1曲のみレオポルド・フェデリコらとの四重奏)の組み合わせによる名盤。ボーナス・トラックとしてバンドネオン多重録音1曲、師アニバル・トロイロとのバンドネオン・デュオ2曲収録。

  • 『ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第一集』(SICP 6389) 
  • 『ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第二集』(SICP 6390)

ピアソラ究極のアンサンブル、コンフント9(ヌエベ)による傑作2タイトル。ピアノは第一集(1971年12月録音)がオスバルド・マンシ、第二集(1972年7月録音)がオスバルド・タランティーノ。第二集にはボーナス・トラック3曲収録。

  • 『天使の死~オデオン劇場1973~』(SICP 6392)

コンフント9解散後の1973年、オスバルド・タランティーノを擁したキンテートが残した貴重かつ壮絶なライヴ音源(1997年にミランからCD化)。実はブエノスアイレスのオデオン劇場での録音ではなかった? 真相は解説に。

  • 『ピアソラ=ゴジェネチェ・ライヴ1982』(SICP 6393)

イタリアでのエレクトリック・ピアソラ期を経て再結成されたキンテートによる1982年のライヴ。唯一無二のタンゴ歌手、ロベルト・ゴジェネチェとの貴重な共演を含む。ボーナス・トラックとしてピアソラ=ゴジェネチェ1969年のスタジオ録音「ロコへのバラード」他3曲収録。

  • 『バンドネオン・シンフォニコ~アストル・ピアソラ・ラスト・コンサート』(SICP 6394)

パリで脳梗塞に倒れる1か月前、生涯最後のコンサートは奇跡的に録音されていた! ギリシャの名匠マノス・ハジダキス、アテネ・カラーズ・オーケストラとの共演によるシンフォニー。

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9月に入り、ジャンルは全く異なるが、かつて親しくさせていただいたお二方の訃報が舞い込んでしまった。まずは日本を代表する名タンゴ歌手で、レコード・プロデューサーでもあった阿保郁夫さん。両面で素晴らしい実績を遺されたが、私のピアソラに関する執筆や復刻を褒めてくださったのも懐かしい想い出だ。もう一人は、吉野大作&プロスティテュートなどのベーシストで、水すましというバンドでは実際にご一緒されていただいた高橋ヨーカイさん。一時死亡説が流れ、心配はしていたのだが、何とも寂しい。

さて、今日書かねばと思ったのは、4月15日にアップした「新たな機材の導入でノイズのないディスクリート4チャンネル・レコードの再生が実現」の続きである。最後の方で

MC-3 Turboは出力電圧3.3mVの高出力MCカートリッジだから、ディモジュレーターのMM入力端子に直接繋ぐのが適切な接続方法なのだろうが、いろいろ試していて、繋ぎ換えが面倒だったのでヘッドアンプを挟んだ状態のままで鳴らしてみたら、何とこれがベストだった。

と書いたが、これが正しいやり方ではなかったことに気付いたので、私のやり方を参考にしている方はよもやいらっしゃらないとは思うが、訂正しておく必要を感じたというわけだ。

シバタ針やラインコンタクト針を持ったカートリッジでディスクリート4チャンネル(CD-4)再生をする際は、カートリッジごとにCD-4ディモジュレーターのセパレーション調整をしなければならない。それはわかっていたのだが、MC-3 Turboをヘッドアップなしで直接接続した状態でセパレーション調整したまま、ヘッドアンプ経由で聴いていたのが問題だった。どうも前後のセパレーションが十分ではないような感じは受けていたのだが、8月の終わりに入手した”CD-4 Quadraphonic Experience” (WEA 228 008 (F))というドイツ盤オムニバスに含まれている、4か国語によるアナウンスなどを含むデモンストレーション・トラックを再生していて、定位がけっこうメチャクチャになっていたのに気付いた。

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早速セパレーション調整を行ったが、左右ともレベルをいっぱいまで下げても合わせ切らない感じになってしまった。30KHzのキャリア信号を拾って点灯するインジケーターも時々弱くなったり消えたりする。これはAT33PTG/II→ヘッドアンプでも同様だった。MCカートリッジをディモジュレーターのMM入力に入れる際にヘッドアンプや昇圧トランスを通すと、どうもキャリア信号の読み取りに支障が出やすいようだ。やはりCD-4再生にはMMカートリッジか高出力MCカートリッジということになるのか。ということで、MC-3 Turboからはヘッドアンプを通さず、直接CD4-10改造機に送ることにした。これでひとまず解決。

MC-3 Turboと「CD4-392」ICチップを搭載したCD4-10改造機の組み合わせにしてから、CD-4盤特有のノイズに悩まされることはほぼなくなったが、それでも針先や盤の汚れにはすこぶる敏感であることに変わりはない。盤のクリーニングにはVPIのバキュームクリーナーとオヤッグのレコードクリーナー液の組み合わせ、針先の汚れにはDS AudioのST-50が欠かせない。

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2021年6月27日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(13)~シングル「すべてを愛して」「女の意地」「女のくやしさ」とアルバム『影を慕いて』

前回、ライヴ・アルバム『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』を紹介した際、書き洩らしたことがあった。第9景のトーク・コーナーでの出来事だが、チャーリー石黒が司会の玉置宏から「清くんの魅力っていうのは、チャーリーさんはどう分析なさいますか?」と質問され、「よく彩木(雅夫)くんとも話したんですけど、要するに、日本人にない独特のヴィブラートとブレスですね、あの♪あ~あ~ っていうのはですね、あれはだいたいどっちかというと黒人的なムードですけど…」と話したところで、客席に笑いが起きるのである。すかさず「要するに、日本人にないカラーだと思います」と締め括ったチャーリーは、前川のことを黒人歌手にたとえて褒めているわけだが、客席の捉え方は残念ながら違ってしまったようだ。恐らくソウルやR&Bなどの熱心なファンは会場にはいたとしても極めて少なかっただろうし、当時は世間一般の中にまだ、黒人というものを笑ったり蔑んだりする対象として捉えてしまう傾向が強かったのではないか。その辺りが気になってしまい、些細なことかも知れないが書き留めておきたかった。

さて、1970年末以降のクール・ファイブの動きを追っておくと、11月から12月にかけて「噂の女」が第1回歌謡大賞・放送音楽賞、全国有線放送大賞、第12回日本レコード大賞・歌唱賞と、各賞を受賞している。年が明けて1971年1月1日から7日まで国際劇場で『森進一ショー』に出演。そして7枚目のシングルが発売となった。

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●シングル07

A) すべてを愛して
川内康範 作詞/鈴木 淳 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 愛のぬくもり
川内康範 作詞/内山田洋 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1135 1971年1月5日発売

作詞は「逢わずに愛して/捨ててやりたい」以来の川内康範。作曲の鈴木淳は音楽之友社の雑誌『ポップス』の元編集長でもある。伊東ゆかり「小指の思い出」(1967年)、ちあきなおみ「四つのお願い」(1970年)などのヒット曲があり、クール・ファイブはアルバム『夜のバラード』で黒木憲の「霧にむせぶ夜」を取り上げていたが、書き下ろしのシングル曲はこれが唯一となった(アルバム収録曲では1973年7月発売の『内山田洋とクール・ファイブ 第6集』に千家和也作詞の2曲を提供)。オリコンでの最高位は24位、売上9万2千枚(メーカー発表では25万1千枚)と伸び悩んだ。カントリー・タッチのピアノに導かれた3連のロッカ・バラードで、いい曲だがインパクトにはやや欠けるか。

同様に川内の作詞によるB面の「愛のぬくもり」は、内山田が作曲したマイナーな8ビートの曲。イントロや間奏でのテナー・サックスのフレーズの終止に多用されるCマイナー・メジャー7thの響きが印象に残る。

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●シングル08

A) 女の意地
鈴木道明 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 京都の夜
秋田 圭 作詞/中島安敏 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1155 1971年2月25日発売

両面ともカヴァー・アルバム『夜のバラード』からのシングル・カットで、ジャケットに使われた写真も流用されている。第8回で詳しく紹介したように、西田佐知子「女の意地」(1965年10月発売)の原曲は和田弘とマヒナ・スターズ「女の恋ははかなくて」(同年9月)である。1970年4月5日のアルバム発売から10か月も経って「女の意地」が急遽カットされたのは、10月に平浩二のカヴァーが出てオリコン42位、12月に出た西田の再録ヴァージョンが7位となったことにあやかろうとしたのが理由だろう。ひとつ前の「すべてを愛して」が1971年1月5日発売、次の「女のくやしさ」が4月5日発売と、両者の間隔はローテーション通りにきっちり3か月であり、その間に「女の意地」が臨発のような形で突っ込まれた感じだが、残念ながらオリコン43位、売上2万枚(メーカー発表13万6千枚)と、成果は上がらなかった。

カップリングの「京都の夜」は愛田健二のヒット曲(1967年6月発売)のカヴァー。

3月23日から29日までは国際劇場で『内山田洋とクール・ファイブ~すべてを愛して』公演。共演は中尾ミエ、大船渡、君夕子、吹雪ひろみ、ギャグメッセンジャーズ、宮尾たかし、ハッピー&ブルー、ブルー・ソックスとのこと。

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●シングル09

A) 女のくやしさ
鳥井みのる 作詞/猪俣公章 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 夢を捨てた女
有馬三恵子 作詞/内山田洋 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1157 1971年4月5日発売

コンビで『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』にも2曲を提供していた、鳥井みのる(「わかれ雨」)と猪俣公章(「噂の女」)の作詞・作曲による9枚目のシングル。オリコンの最高位は26位、売上は14万5千枚(メーカー発表27万3千枚)と、こちらも伸び悩み。スタイルは出来上がっているが、その分冒険している感じが弱いように感じられる。

内山田が作曲したカップリングの「夢を捨てた女」で、作詞に有馬三恵子が初登場。作詞家としては前述の伊東ゆかり「小指の思い出」や小川知子「初恋のひと」(1969年1月発売)など、当時夫だった鈴木淳とのコンビで作品を残した後離婚し、筒美京平と組んで南沙織の一連の作品を手掛けていく直前だった(「17才」のレコーディングは1971年4月末か5月初め、リリースは6月1日)。以降のクール・ファイブへの提供作品は、内山田を初めとするメンバーたちとの共作が大半を占めることになる。ここでの手応えは、内山田作品が初めてA面を飾ることになる次の「港の別れ唄」で早速実を結ぶことになるのだが、その話は次回。

そして5月、1971年最初のアルバムとして、『夜のバラード』以来のカヴァー集が登場した。

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アルバム05(カヴァー・アルバム02)

影を慕いて
RCA JRS-7127 1971年5月5日発売

Side 1
1) 影を慕いて
古賀政男 作詞・作曲/竹村次郎 編曲

2) 男の純情
佐藤惣之助 作詞/古賀政男 作曲/竹村次郎 編曲

3) 無情の夢
佐伯孝夫 作詞/佐々木俊一 作曲/竹村次郎 編曲

4) 君恋し
時雨音羽 作詞/佐々紅華 作曲/竹村次郎 編曲

5) 人生の並木道
佐藤惣之助 作詞/古賀政男 作曲/竹村次郎 編曲

6) 長崎物語
梅木三郎 作詞/佐々木俊一 作曲/竹村次郎 編曲

Side 2
1) 夜霧のブルース
島田磐也 作詞/大久保徳二郎 作曲/竹村次郎 編曲

2) 裏町人生
島田磐也 作詞/阿部武雄 作曲/竹村次郎 編曲

3) カスバの女
大高ひさを 作詞/久我山明 作曲/竹村次郎 編曲

4) 鈴懸の径
佐伯孝夫 作詞/灰田有紀彦 作曲/竹村次郎 編曲

5) 船頭小唄
野口雨情 作詞/中山晋平 作曲/竹村次郎 編曲

6) 城ヶ島の雨
北原白秋 作詞/梁田 貞 作曲/竹村次郎 編曲

『夜のバラード』がおおむね1960年代のヒット曲のカヴァーで占められていたのに対し、カヴァー・アルバム第2弾である本作は、大正時代から昭和30年(1955年)頃までの、いわゆる“懐メロ”と呼ばれた作品で構成されている。この手の企画の先駆けとなったのは、森進一の古賀政男作品集『影を慕いて』(1968年5月発売)あたりではないかと思われるが、そこでは作詞・作曲家のレコード会社専属制の縛りを解き、ビクターの森がコロムビアの古賀作品を取り上げたことでも話題となった。

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クール・ファイブのアルバムの方は、古賀作品はいずれも森の『影を慕いて』にも収録されていた3曲だけだが、森を意識してか同じタイトルが付けられた。全曲の編曲を竹村次郎が手掛けているが、バラエティーに富んだ秀逸なアレンジが施され、価値を高めている。アルバム収録12曲のうち「人生の並木道」「夜霧のブルース」を除く10曲は、1973年7月に4チャンネル盤としてもリリースされ(ジャケットと曲順は変更)、1975年9月にはBOX入りLP4枚組の好企画盤『昭和の歌謡五十年史』にも全曲が再収録された。

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以下の曲目解説は、その『昭和の歌謡五十年史』付属ブックレットに掲載された上山敬三による解説を一部参照させて頂いた。

「影を慕いて」は古賀政男の処女作。1929年、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会でギター合奏曲として初演。翌年の佐藤千夜子(ビクター)による初録音は不発に終わったが、藤山一郎(本名:増永丈夫。当時は東京音楽学校生で、校外活動は禁止されていたためこの変名を使用した)のコロムビア盤でヒットした。藤山との出会いが、古賀のその後を決定づけた。

「男の純情」は1936年の日活映画『魂』の主題歌として、ビクターを経てテイチクに移籍していた時期の藤山一郎が歌った。

「無情の夢」は1935年にイタリア帰りの児玉好雄(ビクター)が歌った。憂鬱な味が時局にそぐわないと当局から厳重注意を受けたという。ホーンを活かしてリズミカルに仕上げた竹村の編曲が秀逸。

「君恋し」はレコード時代の幕開けを告げた1929年の大ヒット曲。その前年にあたる1928年は、それぞれ外国資本の日本コロムビア(明治創業の日本蓄音器商会を母体として1927年設立)と日本ビクター(詳しくは過去記事『“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史』を参照されたい)が揃って国内制作の新譜をリリースし始めた年で、流行歌の企画・制作・販売というそれまでにない新しい手法を確立することにより、この2社が日本のレコード業界をリードしていくことになる。ビクターは浅草オペラで人気を博していた二村定一をスカウト、1928年秋には「アラビアの唄」もヒットさせていたが、それに続く1929年の大ヒットとなったのが「君恋し」である(発売は1928年12月20日)。作曲家の佐々紅華がこの曲を作詞作曲したのは1922年のことで、作者自身は「出来上がった曲は二村定一に練習して貰って東京レコードに吹き込んだ」と語っているが、この東京レコードの現物の存在は確認されていないようだ。その後浅草オペラの女性歌手、高井ルビーがニッポノホンに吹き込んだが関東大震災の影響もあってヒットせず。昭和に入り、人気者になっていた二村が改めてビクターで録音するに際し、佐々が元大蔵省の役人でビクターに入社して間もない時雨音羽に作詞を依頼したという経緯があった。時は流れて1961年、フランク永井が寺岡信三のアレンジを得てモダンなムード歌謡としてリニューアル。こちらも大ヒットとなり、同年の第3回日本レコード大賞を獲得。クール・ファイブ盤は、それをベースにまたひとひねりしたもので、シャッフル・アレンジが素晴らしい。

「人生の並木道」は1937年の日活映画『検事とその妹』主題歌。ディック・ミネのテイチク盤で大ヒット。

「長崎物語」は既に『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』でのメドレーの中の1曲として前回紹介した。そこでは1939年に由利あけみが歌い全国的にヒットしたと書いたが、改めて確認したところ、戦前から戦中・戦後にかけてタンゴを中心にした軽音楽の楽団として活躍したサクライ・イ・ス・オルケスタ(桜井潔とその楽団)による1940年のビクターへの録音の方が広く知られていたとのことだった。

「夜霧のブルース」は、これも前回「長崎エレジー」の項で紹介した、1947年の映画『地獄の顔』の主題歌の一つ。ディック・ミネとしては戦後最初のヒット曲となった。

「裏町人生」については、『昭和の歌謡五十年史』の上山敬三による解説をそのまま引用しておく。

作詞した岩田磐也は「新宿・神田あたりの裏町の酒場に働く女性の生態を描いた」といっている。かつて神田の酒場で働いた経験があるのでそれを生かしたもの、作曲の阿部武雄は古い職人気質と奇行で鳴った人だが、このときも横浜のチャブ屋街をくずれた皮のジャンパーにヴァイオリンで流しながら曲想を練ったという。上原敏がうらぶれた女の心情をよく歌い結城道子がそれに和して大流行。今も演歌調流行歌の代表の一つである。

「カスバの女」は1955年の芸映プロ『深夜の女』主題歌。エト邦枝の歌でリリース。作曲の久我山明は孫牧人のペンネーム。沢たまきら多数のカヴァーあり。

「鈴懸の径」は第二次世界大戦真っただ中の1943年に発売された灰田勝彦のビクター盤がオリジナル。学生生活への郷愁が歌われた、戦時色のない歌だったが、皮肉にも発売後まもなく、学徒動員令が下ったのだった。

「船頭小唄」は、近代日本の流行歌の基礎を築いた中山晋平、1921年の作品。歌詞に出てくる“枯れすすき”が1923年の関東大震災を招いたのではないかといわれなき非難を浴びたことから、以後1952年の中山の死まで、レコード化は封印されたという。クール・ファイブの演奏はギター伴奏からスタート、徐々に楽器が増え、ストリングスも加わった2番では3連のロッカ・バラード・スタイルになるという見事なアレンジで、それに乗せた前川の歌も実にエモーショナル。内山田はレコーディング後、「僕は、清とつきあって4年半になるけど、あいつの歌で泣かされたのは、今日がはじめてだ」と解説のタカタカシにしみじみ語ったそうである。

「城ヶ島の雨」についても上山の解説から引用。

「大正2年(1913年)の夏、早稲田音楽会から頼まれてこの舟唄一篇を作った」と北原白秋は書いている。白秋の母校早大の関係者で結成されている新劇の劇団芸術座が第一回公演として同年9月有楽座で『モンナ・バンナ』を上演したが、その前宣伝の音楽会のために、知友の詩人・相馬御風を通じて頼まれたもの。白秋は愛情問題のもつれから神奈川県三崎(今の三浦市)の見桃寺で失意の生活を送っていたときである。劇団の主宰者・島村抱月の書生・中山晋平が東京音楽学校(今の芸大音楽学部)の同級生・梁田貞を推せんして作曲が完成された。大正期を代表する名歌曲の一つで流行歌のように普及し、昭和に入っても歌われた。レコードは昭和10年代に斎田愛子、内本実、奥田良三その他の独唱で各社から出ているが、梁田の高弟、奥田の音域に合わせたものが標準とされている。他に山田耕筰、橋本国彦、小林三三らの作曲もあるが梁田版が最もよく知られている。

(文中敬称略、次回に続く)

2021年6月 6日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(12)~ライヴ・アルバム『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』

内山田洋とクール・ファイブの全レコード紹介、前回の更新から半年以上も間が開いてしまった。このペースだと永遠に終わらないので、あまり深入りせずにサクサク紹介していく形に切り替えていきたいと思うが、果たして上手くいくかどうか。今回は初のライヴ・アルバムを紹介する。

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●アルバム04(ライヴ・アルバム01)

豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」~1970年9月27日 日劇に於ける実況録音
RCA JRS-9043~44 1970年12月25日リリース

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1) オープニング

2) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲

3) わかれ雨
鳥井 実 作詞/彩木雅夫 作曲

4) 涙こがした恋
中山淳太郎・村上千秋 共作詞/城 美好 作曲

5) 捨ててやりたい
川内康範 作詞/城 美好 作曲

Side 2
1) 長崎のザボン売り
石本美由起 作詞/江口夜詩 作曲

2) 長崎シャンソン(誤)→長崎エレジー(正)
内田つとむ 作詞/上原げんと 作曲(誤)→島田磐也 作詞/大久保徳二郎 作曲(正)

3) 長崎の女
たなかゆきを 作詞/林伊佐緒 作曲

4) 長崎ブルース
藤浦 洸 作詞/古賀政男 作曲(誤)→吉川静夫 作詞/渡久地政信 作曲(正)

5) 長崎物語
梅木三郎 作詞/佐々木俊一 作曲

6) 長崎詩情
中山貴美 作詞・村上千秋 補作詞/城 美好 作曲

JRS-9044 Side 1
1) ヴィーナス Venus
R.V. Leeuwen

2) 男と女 Un Homme et une Femme
F. Lai - P. Barouh

3) アンド・アイ・ラブ・ハー And I Love Her
J. Lennon - P. McCartney

4) 白い恋人たち 13 Jours en France
F. Lai - P. Barouh

5) イエスタデイ Yesterday
J. Lennon - P. McCartney

6) ちっちゃな恋人
なかやままり 作詞/井上かつを 作曲(正しくは かつお)

Side 2
1) 君といつまでも
岩谷時子 作詞/弾 厚作 作曲

2) 愛のいたずら
安井かずみ 作詞/彩木雅夫 作曲

3) 愛の旅路を
山口あかり 作詞/藤本卓也 作曲

4) 逢わずに愛して
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲

5) 噂の女
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲

6) フィナーレ

内山田洋とクール・ファイブ
唄/前川 清
9043 Side 2 (2) 唄/内山田洋
9043 Side 2 (3) 唄/小林正樹
9044 Side 1 (6) 唄/前川 清、辺見マリ
演奏/チャーリー石黒と東京パンチョス
構成・演出 広田康男
音楽 森岡賢一郎、内山田洋
司会 玉置 宏

2枚組で、副題にもあるように東京・有楽町の日劇で 1970年9月24日から7日間行われた「クール・ファイブ・ショー――やめて!噂の女」から、27日の公演を収録したものだ。浅井英雄の解説によれば、出演は内山田洋とクール・ファイブ、辺見マリ、獅子てんや・瀬戸わんや、大船渡。演奏はチャーリー石黒と東京パンチョス(封入された見開きカラーのシートには、公演中劇場に掲げられた看板の写真も載っていて、そこには司会の玉置宏のほか、ザ・シャンパーズの文字もみえるが、裏ジャケのステージ写真に写っているダンサーたちだろうか)。そしてショーの内容は次のようだったという。

第1景:クール・ファイブ登場
第2景:辺見マリ登場
第3景:新人、大船渡の初舞台
第4景:クール・ファイブ、ふるさとを歌う
第9景:クール・ファイブ、ポピュラーを歌う
第10景:秋空に向かって
第11景:ヒット・パレード

第3景の大船渡については連載第9回の8トラック・カートリッジ『演歌』の項を参照頂きたいが、第5景から第8景までがごっそり抜けていて、ステージの紹介文としては何とも不十分である。抜けているうちの一つはてんや・わんやの漫才だろうが、それ以外は不明。アルバムでは1枚目のA面に第1景、B面に第4景、2枚目のA面に第9景、B面に第10景~第11景が収められている。

まずは第1景。東京パンチョスによるオープニング・テーマの演奏、SEとナレーションに続いての「長崎は今日も雨だった」以下4曲では、クール・ファイブのメンバー自身、すなわち前川清(ヴォーカル)、内山田洋(ギター、コーラス)、岩城茂美(テナー・サックス、フルート、コーラス)、宮本悦朗(オルガン、ピアノ、コーラス)、小林正樹(ベース、コーラス)、森本繁(ドラムス)の6人による演奏を聴くことができる。2曲目は、第4回でも触れたようにセールスは伸びなかったが、内山田がMCで「大変私たちは素敵な曲だと信じております」と紹介しているセカンド・シングル「わかれ雨」。続いて、デビューのきっかけとなった曲で「長崎は今日も雨だった」のカップリングにもなったジャジーな「涙こがした恋」、サード・シングル「逢わずに愛して」のカップリングだった「捨ててやりたい」。この2曲のライヴ録音はここでしか聴けない貴重なもの。とりわけ「捨ててやりたい」のスウィンギーな演奏は白眉で、洋楽をベースに持つ彼らの知られざる実力が垣間見れる。

第4景は長崎をテーマにした曲が並んでいて、この内容は後にアルバム『長崎詩情』(1972年3月25日発売)に発展することになる。ここでは東京パンチョスの伴奏により、まず5曲がメドレーで演奏されるが、重大な表記ミスがあり、2曲目は正しくは「長崎エレジー」だが、誤って「長崎シャンソン」(1946年の樋口静雄のヒット曲)となっていて、歌詞も同曲のものが載り、解説にも堂々と書かれてしまっている。このアルバムにはジャケットの意匠を若干変更したセカンド・プレスもあるが、一切修正はされなかった。

メドレーを構成する5曲を紹介しておくと、まず「長崎のザボン売り」は作詞家・石本美由起の処女作となった1948年の作品で、歌謡同人誌『歌謡文芸』への投稿が作曲家・江口夜詩に認められ、小畑実の唄でヒットした。

続く「長崎シャンソン」ならぬ「長崎エレジー」は、ディック・ミネと藤原千多歌が歌った1947年の松竹映画『地獄の顔』主題歌。菊田一夫の戯曲『長崎』を原作に大曾根辰夫が監督したこの映画には、主題歌・劇中歌が全部で4曲ある。他の3曲はディック・ミネ「夜霧のブルース」(「長崎エレジー」同様作詞は島田磐也、作曲は映画全体の音楽も手掛けた大久保徳二郎で、クール・ファイブも後にカヴァー)、渡辺はま子「雨のオランダ坂」、伊藤久男「夜更けの街」(この2曲は菊田一夫作詞、古関裕而作曲)で、いずれもヒットした。この「長崎エレジー」の本来のタイトルは「長崎エレヂー―順三とみち子の唄―」で、西脇順三(水島道太郎)はならず者の主人公、香月みち子(月丘千秋)は順三に思いを寄せる孤児院の保母。ここでのヴォーカルは内山田で、後の『長崎詩情』でのスタジオ録音も同様である。

続いて小林が歌う「長崎の女(ひと)」は1963年の春日八郎の大ヒット曲。前川の歌に戻って、「長崎ブルース」は青江三奈1968年の大ヒット曲だが、レーベル面の作者クレジットは正しいものの、歌詞カードの作者表記と歌詞がまたしても誤りで、1954年に藤山一郎が歌った同名異曲(作詞は藤浦洸、作曲は古賀政男)のものになってしまっている。

メドレーの最後は「長崎物語」。原曲は1937年に橘良江が歌った「ばてれん娘」(作詞は佐藤松雄、作曲は佐々木俊一)で、これは天草での混血児の受難がテーマだったがヒットしなかった。その2年後の1939年、新聞記者だった梅木三郎がやはり混血児の“じゃがたらお春”をテーマに書いた歌詞を見たビクターのディレクターが、「ばてれん娘」のメロディに歌詞を当てはめてもらって仕上げたのが「長崎物語」で、由利あけみが歌い、全国的にヒットした長崎の歌としては第一号となった。戦後の1947年に改めてビクターが「長崎物語」をプッシュするに際し、由利は結婚して引退していたこともあり、「ばてれん娘」のオリジナル歌手である橘改め斎田愛子が歌うことになった。

最後に単独でファースト・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』に収録されていた「長崎詩情(ロマン)」を前川が歌い、このコーナーは締め括られる。

洋楽カヴァーを並べた第9景も、当時の彼らを知る上では重要。まずはオランダから世界に飛び出したショッキング・ブルーの「ヴィーナス」。ギターのロビー・ファン・レーベンの作品で、オランダ本国では1969年7月にリリース、1970年2月にアメリカのビルボード誌で第1位を獲得、日本でも春に大ヒットとなった。それを半年後に取り上げていたわけだが、このクール・ファイブの「ヴィーナス」、なんだか変だと最初から感じていた。最初のドラムスのタム回し、ギターのカッティング、エンディングに乱れがあるのである。それと同時に気になっていたのは、カラー・シートに載ったドラムスを叩く前川の写真。謎がある程度解決したつもりになったのは、1972年2月発売の2枚組ベスト『豪華盤「内山田洋とクール・ファイブ デラックス」第1集』内ジャケに掲載されていたこの写真を見た時だ。

Stage01

ステージ前方に内山田、森本、小林がハンド・マイクを持って立ち、前川がドラムスを叩き、岩城がギターを弾いている。本来の楽器の前にいるのは、オルガンの宮本だけだ。スーツではなく、ポロシャツやカラーシャツを着ていることからも、洋楽コーナーでの写真であることを物語っている。楽器の持ち替えであれば、余興的な位置づけと理解できる。だがこれで謎が解けたわけではない。「ヴィーナス」のヴォーカルは前川だが、トラム・セットの場所にはヴォーカル・マイクがないのである。そしてベースは誰が弾いているのか。サックス・ソロもちゃんとある。そして謎はまだある。裏ジャケットの写真も同じ衣装でのもので、前述の通り女性のダンサーたちも映っているが、前川はステージ中央でスポットライトを浴びて歌っている。だが、この洋楽コーナーで前川がソロで歌っているのは、「ヴィーナス」だけなのである。やはり「ヴィーナス」は持ち替えではなかったのか。それではあの写真は?

続く4曲はメドレーで、前川はお休み。メンバーのスキャットやヴォーカル・ハーモニーで進行していく。1曲目と3曲目はクロード・ルルーシュ監督の映画のためにフランシス・レイが作曲、ピエール・バルーが作詞した映画音楽で、彼らにとって出世作となった1966年の『男と女』のテーマ、そして1968年にフランスのグルノーブルで開催された第10回冬季オリンピックの記録映画『白い恋人たち―グルノーブルの13日―』のテーマ。

Hit1972

2曲目と4曲目はザ・ビートルズの「アンド・アイ・ラブ・ハー」と「イエスタデイ」。どちらもポール・マッカートニーの作品だが、よく考えてみれば「アンド・アイ・ラブ・ハー」も映画『ア・ハード・デイズ・ナイト(旧邦題:ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!)』に使われていたから、映画音楽絡みと言えなくもない。「男と女」は例の♪シャバダバダ~のスキャット、「アンド・アイ・ラブ・ハー」はサックスが奏でるメロディにスキャットを絡ませ、「白い恋人たち」は宮本のピアノ中心、「イエスタデイ」はジャジーなアレンジに乗せたメンバーのコーラス・ハーモニーがいい雰囲気を醸し出す。内山田のギター・ソロもあり。

最後の「ちっちゃな恋人」は、オズモンド・ブラザーズの末弟であるジミー・オズモンドが7歳になる直前に、たどたどしい日本語で録音した和製ナンバー。1970年4月5日にシングル・リリースされ、オリコン2位の大ヒットに。

Cd62

ここではクール・ファイブの演奏をバックに、前川と辺見がたどたどしさを真似ながらデュエットしている。

第10景は司会の玉置を中心にチャーリー、内山田らによる思い出話からスタートし、歌はここでは1曲だけ。前川が初めて内山田と出会った時に披露したという加山雄三の「君といつまでも」(1965年12月発売)を、前川が東京パンチョスの演奏で歌う。

続いて第11景。当時最新ヒットだった「愛のいたずら」、そして「愛の旅路を」は再びクール・ファイブ自身による演奏。東京パンチョスの演奏に切り替わって「逢わずに愛して」「噂の女」で締めくくり。内山田の挨拶のあと、東京パンチョスによる「長崎は今日も雨だった」をモチーフにした短いエンディング・テーマで終了となる。

(文中敬称略、次回に続く)

2021年5月15日 (土)

『今日は一日“ピアソラ”三昧』で紹介したピアソラの先達たち~“タンゴのど真ん中”アルフレド・ゴビを中心に

5月4日にNHK-FMで8時間半にわたりオンエアーされた『今日は一日“ピアソラ”三昧』。リアルタイムであれ、らじる★らじるの聴き逃し配信(14日正午で終了)であれ、番組をお聴きくださった方であれば、案内役の小松亮太氏が伝えたかった重要なテーゼの一つが、「踊りの伴奏に過ぎなかったタンゴを、ピアソラが聴くための芸術に改革した」という、世間に広く浸透している誤解を明確に否定していくことだったことがおわかりいただけただろう。

「ピアソラと先輩たち、基礎を作った人たちの演奏、交流」をテーマに、他のコーナーよりも時間を多めに取ったコーナーの冒頭で、彼が力説した内容を書き起してみよう。

「ピアソラという人を紹介するときに、ダンスの伴奏に過ぎなかったタンゴを聴くための芸術に改革したという風に、今世界中でまことしやかに言われてるんですけれども、これはまったく間違いで、タンゴを聴くための音楽に改革しようよというムーヴメントは、ピアソラさんが小学生の頃からずっと行われていたことなんです。例えばダンスホールに行ったって、お客さんはみんながみんな踊っているわけじゃないんですね。座って聴いている人だっているわけです。だから聴いても良し、踊っても良し、あるいは完全に聴くため、完全に踊るためっていう風に、いろんなカテゴリーがあったわけなんですよね。ピアソラさんだけが凄い、昔のタンゴっていうのは単なる踊りの伴奏に過ぎなかったっていうこの誤解は、タンゴといえば「黒猫のタンゴ」かなぁとか、そういうイメージを持ってたかなり知識の浅い人たちが、ピアソラを持ち上げるための対比効果として、半ば過剰演出みたいな感じで広めてしまった誤解なわけなんですよ。ですからこんなこともあって、ピアソラは最早ピアソラというジャンルなんだから、南米の踊りの伴奏とかと結びつける必要はないだろうみたいな雰囲気になっちゃっているけれども、実はピアソラっていう人はタンゴの中の天才であるということをわかっておかないと、ピアソラさんがやった業績の意味というのはわかんなくなっちゃうんですね」

という前提で、まずピアソラとは対極にある保守本流の圧倒的名演として紹介されたのが、フアン・ダリエンソ楽団の「ラ・ビコーカ」という曲だった。楽団の黄金期を支えたピアニスト、フルビオ・サラマンカ参加後の1940年8月に録音されたこの曲は、しかしながらまったく有名な曲ではない。こんな演奏がいくらでも隠れているのが当時のタンゴ界だった。ちなみに、作者のホセ・アルトゥーロ・セベリーノは1900~10年代を中心に活動していたバンドネオン奏者で、まだ一介のヴァイオリン奏者だったダリエンソとも一緒に演奏していた人物である。

そしてダリエンソの紹介の後、ピアソラの先駆的な存在であり彼に多大な影響を与えてきた重要人物として、エルビーノ・バルダーロ、アルフレド・ゴビ、フリオ・デ・カロ、オスバルド・プグリエーセといった巨匠たちが一人ずつ、「点」としてピアソラとの関わりとともに紹介されたわけだが、番組後半の「ピアソラから広がる新たな響き」のコーナーで登場したエドゥアルド・ロビーラ(ゴビ楽団出身)やロドルフォ・メデーロス(1969年から1974年までプグリエーセ楽団メンバー)も含めて、彼ら全員は、実は「線」で繋がるのである。さらに言えば、ピアソラ作「フヒティーバ」を歌ったマリア・デ・ラ・フエンテ、「日本とピアソラ」のコーナーで紹介されたフアン・カナロまでも、含むことができる。ピアソラ本人も、もちろん含まれる。そして本当はこの中心に、番組では演奏を紹介できなかったアニバル・トロイロを据えなければいけないのだが、順を追って説明しておこう。

まずは、近代タンゴの祖と呼ばれたフリオ・デ・カロ(ヴァイオリン)である。1924年、バンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ピアノ、コントラバスという六重奏団(オルケスタ・ティピカの原型)をスタートさせ、編曲というそれまでタンゴにはほとんどみられなかった概念を取り入れることで、その編成ならではの各楽器の特性を最大限に生かした個性的な演奏スタイルを定めた。各メンバーの自作曲を多く演奏したこともポイント。そのようなデ・カロのことを、小松氏は番組で「第一次の革命をした人」と紹介した。厳密に言うと、デ・カロもいきなり自分たちだけで革命を起こしたわけではなく、その先駆として、エドゥアルド・アローラス(バンドネオン)、オスバルド・フレセド(バンドネオン)、フアン・カルロス・コビアン(ピアノ)らの存在があったことも忘れてはいけないのだが、細かく言い出すとキリがないので、まずは大きな流れの起点にデ・カロを据えても何ら問題はない。ピアソラが捧げたチャーミングな「デカリシモ」(とってもデ・カロ的という意味)は番組で紹介し、リクエストも多かった。

初期のデ・カロ楽団メンバーでは、番組で紹介した「黒い花」(初演と初録音は1927年)の作曲者でもあり、1954年の楽団解散まで弟フリオと行動を共にした兄でピアニストのフランシスコ・デ・カロも重要だが、1924年から26年までバンドネオン・セクションを担ったペドロ・マフィアとペドロ・ラウレンスの二人は、近代的バンドネオン奏法を確立した点でも大変重要である(ピアソラはこの二人に、「ペドロとペドロ」というバンドネオン独奏曲を捧げている)。そのマフィアは1926年に独立して楽団を結成したが、そこに参加していたのがエルビーノ・バルダーロ(ヴァイオリン)とオスバルド・プグリエーセ(ピアノ)である。マフィア楽団が録音を開始したのは1929年だが、この時点でバルダーロとプグリエーセは脱退し、二人の連名によるバルダーロ=プグリエーセ六重奏団を結成(バルダーロは7月に24歳、プグリエーセは12月に24歳)。1930年にこの楽団に参加したのが、マフィアの弟子だった当時わずか16歳のアニバル・トロイロ(バンドネオン)、そしてデ・カロに憧れてタンゴ界入りしていた18歳のアルフレド・ゴビ(ヴァイオリン)だった。そう、ちょうどピアソラ一家がニューヨークからアルゼンチンのマル・デル・プラタに一時帰国して、9歳のアストルがタンゴにはまだ馴染めないまま、初めてまともなバンドネオンの先生に習い始めた頃、ブエノスアイレスではバルダーロとプグリエーセとゴビとトロイロが一緒に組んで(!)、新しいタンゴを模索していたのだった。だが、バルダーロ=プグリエーセ楽団は、1枚のレコードも残せずに解散(だからどんな音だったかを知る術はない)。世界大恐慌のあおりを受け、ジャズやトーキー映画など北米からのエンターテインメントの流入もあり(トーキーのお陰でタンゴ楽団は映画館でのアトラクションという仕事の場を失った)、タンゴは商業的にも音楽的にも曲がり角に差し掛かっていたのだ。先鋭的な新人アーティストに出番はなかった。

それでもバルダーロは、1933年に改めて六重奏団を結成。第1バンドネオンにはデ・カロ楽団に移籍していたトロイロが戻り、第2ヴァイオリンには、後にピアソラの盟友となるウーゴ・バラリスが参加。ピアニストでアレンジャーのホセ・パスクアルも、大成はしなかった人物だがここで重要な役割を果たした。この時期のバルダーロ六重奏団も、レコードは1枚も残せなかったが、番組でも紹介した、音の悪い「老いた虎」の超貴重なアセテート盤へのテスト録音を残している。既にラジオ局への出演は果たしていたが、よりメジャーな局へ出演するためのオーディション目的だった。結果は「商業的ではない」として却下。解散時期は資料によってバラつきがあるが、マル・デル・プラタに帰国後くすぶっていたピアソラが、1938年5月に偶然ラジオでバルダーロ楽団の演奏(当然、あの「老いた虎」の録音ではない。曲目は不明)を耳にしたのは、奇跡的な偶然としか言いようがない。

バルダーロは、1938年にピアニストのルシオ・デマーレ(名曲「マレーナ」の作曲者)と連名でデマーレ=バルダーロ楽団を結成するが、それも短命に終わっている。その後は断続的に楽団を率い、1953年に録音した2曲のみが、彼自身の名義によるレコードとして残された。プレイヤーとしては数多くの録音に参加しているので、彼の演奏自体はいろいろ残されている。ピアソラのグループでは、1956~57年の弦楽オーケストラ、1961年の五重奏団に参加。1971年に亡くなった彼に、ピアソラは「バルダリート」を捧げた。

プグリエーセは、バルダーロ=プグリエーセ楽団の解散後、ゴビとの二重奏(または楽団?)を経て1934年にデ・カロから独立後のペドロ・ラウレンス楽団に参加。1936年以来何度か自身の楽団を立ち上げようとしては失敗し、1939年にようやくデビュー。1941年にラジオ出演開始、1943年から録音を開始し、1946年に独自のリズム理念を凝縮した自作曲「ラ・ジュンバ」を初録音。1948年録音の自作曲「ネグラーチャ」は3-3-2のリズムを多用したもので、1951年の「タングアンゴ」から顕著になるピアソラの音作りに影響を与えたのは一目瞭然。ピアソラ自身、1956年に弦楽オーケストラでその「ネグラーチャ」をかなり忠実に再現している。実は番組の中で「ネグラーチャ」の聴き比べもやりたかったのだが、時間の関係で断念。プグリエーセのジュンバのリズムを意識したピアソラの「スム」(1971年12月のコンフント9での演奏)と、プグリエーセ楽団による解釈(ロドルフォ・メデーロス編曲、1973年12月録音)の比較に留めた。1989年6月には、プグリエーセ楽団とピアソラ六重奏団のステージ上での共演がオランダで実現している。

トロイロは、1935年にはバルダーロ楽団を離れ、いくつかの楽団を経て1937年に自己の楽団を旗揚げ。1938年にオデオンに2曲のみ録音。1941年からRCAに本格的に録音を始める。アルゼンチンが第二次世界大戦に参加しなかったことで輸出が伸び、バブル景気に見舞われたことが、1940年代にタンゴが新たな黄金時代を迎える大きな要因となったことは、番組でも紹介されていたが、それに先駆けたタンゴ界の動きとして、1934~35年のダリエンソ楽団の再デビューがあった。そもそもダリエンソは1928年に一度デビューしているが、その時は特に特徴のない平均的なスタイルだった。それがレパートリーを古典に絞り、スタッカートを極端に強調して“電撃のリズム”と呼ばれたスタイルに大胆に転換、自身はヴァイオリンを置いて指揮に専念する。そして1935年にロドルフォ・ビアジ(ピアノ)が参加してその手法に磨きが掛けられて、ダリエンソはタンゴ復興の象徴となった。その影響もあり、初期のトロイロは、デ・カロやバルダーロの流れを汲みながら、ダリエンソを意識したかのような、軽快でテンポの早いスタイルも持ち合わせていた。そのエネルギーのほとばしりには、初期のトロイロ・サウンドを担った天才ピアニスト、オルランド・ゴニ(トロイロと組む前、ゴビともトリオで活動)と、ピアソラも愛したタンゴ史上最強のコントラバス奏者、エンリケ・“キチョ”・ディアスの力も存分に反映されていた。

バルダーロ楽団で第2ヴァイオリンを務めたバラリスは、1938年にトロイロ楽団に参加。1939年、毎日演奏を聴きにやってくるピアソラに目を付け、年末には楽団参加の仲立ちもした。ピアソラがトロイロ楽団脱退後、1940年代後半~1950年代前半に率いた楽団(50年代前半は録音活動のみ)では第1ヴァイオリンを務め、1954年のフアン・カナロ楽団の日本公演(ピアソラが多くの編曲を提供。歌手としてマリア・デ・ラ・フエンテも参加)では実質的なリーダーを務めた。時期は不明だがアルフレド・ゴビ楽団にも参加。ピアソラのオクテート・ブエノスアイレス(1955~57年)やコンフント9(1971年~1972年)では第2ヴァイオリンを務めている。

そして、アルフレド・ゴビ。彼について小松氏は番組で次のように熱く語っている。

「アルフレド・ゴビという人が忘れられていくということがあってはならないと思うし、ある意味ではアストル・ピアソラよりももっと偉い人です。なんでかと言うと、タンゴというジャンルそのもののど真ん中を作った人。もちろん、軽いものから重いものから、いろんなタンゴがあるんだけれども、タンゴというのは基本的にこうであるという、すべてのタンゴに共通する価値観というものを確立した人だと思うんですよね」

アルフレド・ゴビ(ミドル・ネームはフリオ、1912年5月14日~1965年5月21日)はパリ生まれ。同名の父親アルフレド・ゴビ(ミドル・ネームはエウセビオ)と母親のフローラ・ロドリゲスはタンゴ黎明期の歌手コンビで、「ゴビ夫婦 (Los Gobbi)」もしくは「ゴビと妻 (Gobbi y señora)」という名前で活動。同時期に活動を共にしたアンヘル・ビジョルドは、タンゴ界最初のシンガー・ソングライターとして「エル・チョクロ」などを残している。1907年にはゴビ夫婦とビジョルドでパリに渡り、録音活動も行う。手元に当時のレコードが1枚あるが、夫婦漫才のような雰囲気だ。

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息子アルフレドがパリ生まれなのは、そういう理由による。1912年末には帰国、6歳からピアノやヴァイオリンを学んでいる。前述の通りデ・カロに憧れてタンゴ界入りし、1927年にバンドネオン奏者フアン・マグリオ・“パチョ”の楽団に参加。バルダーロ=プグリエーセ楽団参加前には、オルランド・ゴニ、バンドネオンのドミンゴ・トリゲーロ(特に有名な人ではない)とのトリオでも活動している(ゴビ以上にボヘミアンだったゴニは1945年に31歳で死んでしまい、ゴビは「オルランド・ゴニに捧ぐ」を書いて追悼した)。バルダーロ=プグリエーセ楽団解散後は、プグリエーセとのデュオ(または楽団?)を経て、1935年にはプグリエーセの後を追って(?)ペドロ・ラウレンス楽団に参加。その後もいくつかの楽団を転々とした後、1942年に自己の楽団を結成する。

以前「アストル・ピアソラ五重奏団、1973年の超貴重映像」という記事で紹介したウルグアイのテレビ番組『タンゴの土曜日』出演の際、「アルフレド・ゴビの肖像」の演奏前にピアソラが司会のミゲル・アンヘル・マンシに語ったエピソードが、小松亮太著『タンゴの真実』(旬報社)に翻訳されている(p143~144)。詳しくは同書を読んで頂くとして(必読なので!)、近所に住んでいたゴビの家を訪れて「アレンジ譜を買わせてほしい」と頼む話が出てくる。ピアソラは「私の記憶では19歳の頃(1940年)だ」「まだ私が独身で…」と述懐しているが、ゴビ楽団の結成は1942年だ。ピアソラが結婚するのは1942年10月なので、その直前の出来事だとすれば、何とか辻褄は合う。ゴビの初録音は結成5年後の1947年5月だが、ブエノスアイレスの事情通の間で語られてきたのが、ゴビが本当に凄かったのは、まだレコード会社と契約できる前のことだったという話。それでも、残された録音で聴くゴビは特別だ。ただし、タンゴ界にありがちなボヘミアン気質その他いろいろな事情があり、ゴビ楽団が公式に残した録音は、決して多くはなく、1958年7月までの82曲がすべてだ。

小松氏は『タンゴの真実』の中で、ゴビについてこう書いている。「僕の実家にもゴビの音源はひとつもなかった。両親やその周辺の人たちがゴビという人の話をしていた記憶もない」「理由は「中庸だから」、いや、「中庸に見えているから」。これに尽きる」。まあ、確かにそうなのかも知れないし、日本で出たゴビのアルバムは、オムニバスに収められた以外の単独盤は『黄金時代のアルフレド・ゴビ』(1969年9月発売)ただ1枚だけだったので、仕方のないことだったのかも知れないが、実はもう一つ理由がある。戦後のタンゴ評論の世界を牛耳っていた高山正彦氏や、その一番弟子だった大岩祥浩氏が、ゴビのことをまったく評価していなかったのである。1954年発行の高山正彦著『タンゴ』(新興楽譜出版社)では、「現代タンゴ界の展望」と題されたパートで、個別の項目ではなくその他の扱いで、次のように記されている。

「同様にRCAヴィクトルに属する、アルフレド・ゴビは、「ヴィオリン・ロマンティコ・デル・タンゴ」の通り名がありますが、実の所は一向それらしくもない、むしろキメの荒い感じのヴァイオリンで、演奏も決して非力ではないのでありますが、魅力に乏しいうらみがあります」

たったこれだけである。その後の石川浩司氏や高場将美氏の登場によって、ようやくゴビへの正当な評価への兆しが表れたと言えるだろう。「中南米音楽」の1969年1月増刊『タンゴのすべて2』には「アルゼンチン一線評論家が選んだタンゴ十大楽団・十大歌手」という記事があり、そこでは次の楽団が選ばれている(順位はなし)。

フリオ・デ・カロ楽団
カルロス・ディ・サルリ楽団
オスバルド・プグリエーセ楽団
アニバル・トロイロ楽団
アルフレド・ゴビ楽団
オラシオ・サルガン楽団
オスバルド・フレセド楽団
アストル・ピアソラ
フランシスコ・カナロ楽団
アルマンド・ポンティエル楽団(またはフランチーニ=ポンティエル楽団)

ダリエンソが入っていないのが面白いが、納得の結果である。編集部(おそらく高場氏)によるゴビ楽団へのコメントを読んでみよう。

「1940年代から活動し、ムラはありましたが、1965年にゴビが没するまで存続しました。日本ではレコードがほとんどないこともあり、一般には良く知られていない楽団ですが、アルゼンチンでの評価は、この選出にあらわれた通りです。レコードは、ビクターの「黄金時代のタンゴ」シリーズ第三期のなかで発売されるので、それに期待しましょう」

そして「中南米音楽」1969年9月号の『黄金時代のアルフレド・ゴビ』紹介欄(下の写真は同内容のアルゼンチン盤)。

Cal2989

高場氏は見出しで「日本ではほとんど認識されていなかった一流楽団ゴビのオルケスタの真価を問うもの」と書き、本文では「気持のよいスイング感が、ゴビ楽団のいちばん大きな魅力だろう。その上に展開される演奏は、誇張や気取りがなく、タンゴの本当の楽しさにあふれている。古典タンゴと現代のスタイルとの融和としては、もっとも理想的なもののひとつといえよう」と評価する。石川氏も著書『タンゴの歴史』(青土社、2001年)で「評価を見直したいアルフレド・ゴビ」と見出しを付け、「筆者は現在では40年代のゴビ楽団はトロイロには及ばないもののプグリエーセよりは上だったのではないかと考えている」と書く。もっとも、プグリエーセが真価を発揮するのは1950年代になってから、という前提での評価ではあるが。

不肖ながら私も、岩岡吾郎編『タンゴ…世紀を超えて』(音楽之友社、1999年)の「タンゴの名流100撰」でゴビを担当させてもらい、次のように書いた。

「アルフレド・ゴビの例えようのない素晴らしさを、どのように書けばいいのだろう。ゴビのサウンドの中には、デ・カロもトロイロもディ・サルリもプグリエーセもある。そうした様々な要素、しかもおいしい部分が魔法のようにミックスされ、それが独特のスウィング感に乗って展開されていくのである。理論では説明不可能で、これはまさに天才的感性の賜物としか言いようがない」

なお、ゴビ楽団を支えた重要なメンバーとして、バンドネオンのマリオ・デマルコを挙げておこう。優れた作曲家で編曲家でもあったデマルコは、結成から1951年まで楽団を支えた後に独立、ゴビのスタイルを継承した自己の楽団を結成したが、1954年に解散。解散間際のデ・カロ楽団、再びゴビ楽団に短期間参加した後、プグリエーセ楽団に参加し、1959年まで力を揮った。その他楽団に去来したメンバーには、セサル・サニョーリ、エルネスト・ロメロ、ロベルト・シカレ、オスバルド・タランティーノ(以上ピアノ)、エデルミーロ・ダマリオ、アルベルト・ガラルダ、エドゥアルド・ロビーラ(ゴビ楽団に提供した「ゴビ風に(El engobbiao)」は傑作!)、オスバルド・ピーロ(以上バンドネオン)、アルシーデス・ロッシ、オスバルド・モンテレオーネ(以上コントラバス)、アントニオ・ブランコ、ウーゴ・バラリス(以上ヴァイオリン)などがいる。歌手はホルヘ・マシエル、エクトル・マシエル、アンヘル・ディアス、エクトル・コラル、アルフレド・デル・リオ、ティト・ランドーほか。

ゴビの録音は、全曲が次の5枚に収められてCD化されているが、入手はやや難しいか。

Eu17008
Colección 78 RPM - Alfredo Gobbi 1947/1953 (Euro EU 17008)

Eu17028
Colección 78 RPM - Alfredo Gobbi 1949/1957 (Euro EU 17028)

Eu16012
Archivo RCA - Alfredo Gobbi y sus cantores (Euro EU 16012)

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Archivo Columbia - José Sala 1953/1954 - Alfredo Gobbi 1958 (Euro EU 18007)

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“Entrador” Alfredo Gobbi Instrumental (1947-1958) (Euro EU 14027)

このうち、インストゥルメンタル全曲とエクトル・マシエルが歌う「ティエリータ」を収めた最後のCDが、現在Spotifyに挙げられている。とにかく聴くべし。

ピアソラは1961年4月、キンテート(ヴァイオリンはバルダーロ、コントラバスはキチョ・ディアス)によるアルバム『ピアソラか否か』に、ゴビが自身の楽団では録音できなかった「私の贖罪 Redención」を収録するにあたり、当時極度のアル中で録音活動から見放されていた 作者ゴビをスタジオに招いた。ピアソラはゴビのスタイルに忠実に演奏し、ゴビは演奏を聴きながら泣いていたそうである。トロイロが「悲しきミロンゲーロ (Milonguero triste)」を捧げた1965年、ゴビは亡くなった(同曲の録音は1月、亡くなったのは5月)。ピアソラは、自身もスランプにあえいでいた1967年に「アルフレド・ゴビの肖像」を初録音。ゴビの「放浪者(El andariego)」のフレーズをそこに織り込んだことは、小松氏が番組で語っていたとおりである。

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2021年5月 5日 (水)

NHK-FM「今日は1日“ピアソラ”三昧」放送の巻

【5月6日追記】NHKラジオ「らじる★らじる 聴き逃し」で5月7日(金)正午から1週間の配信が決定! リンクはこちら!【追記ここまで】

【5月8日追記】らじる★らじるの配信で番組をすべて聴き直した。自分の話したことは大体覚えていて、あまり変なことは言っていなかったが、唯一残念だったのが、ミルバ&ピアソラ「行こうニーナ」の紹介の際、小松さんから「ニーナって誰のことでしょうね」と聞かれ、「ちょっとわからない」と答えてしまったこと。記憶が飛んでいたが、ライヴ盤のライナーにはしっかり書いていた。以下はアメリータ・バルタールの証言だ。「このタンゴは1971年7月にパリで書かれたの。セーヌ川に面したパリ市庁舎の近くにトラック運転手のための大衆食堂があって、そこで私たちがいつも見ていた人物が描かれている。とても美しい昔ながらの店で、私たち3人はいつも食事をしたものよ。そこに、黒い身なりで厚化粧の、小犬を両腕に抱いた酔っ払いのお婆ちゃんが現れるの。彼女のことを『ニーナ』と名付けたのはオラシオ(・フェレール)よ、自分の言葉で彼女のことを歌にするためにね。みんなで帰国してから、レジーナ劇場で初演したの」。【追記ここまで】

こちらでは告知できないままに終わってしまったが、昨日5月4日(火・祝)、NHK-FMで12時15分から21時15分まで、ニュース中断30分を挟んで8時間30分にわたり、「今日は一日“ピアソラ”三昧」がオンエアーされた。私は、案内役を務めたバンドネオン奏者の小松亮太さん(先日出版された著書『タンゴの真実』は必読!)から依頼を受け、企画から選曲まで、全面的に携わらせていただいた。番組の前半は裏でリクエストの仕分けと選曲・選盤を手伝い、後半には一緒に出演してトークも担当した。

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長時間のこのプログラム、いくつかのコーナーを設け、テーマごとに解説しながら曲を掛けていった。以下はそのプレイリスト。

●オープニング

01. Revirado / Astor Piazzolla y su Quinteto Tango Nuevo(オープニングテーマ)(『ライヴ・イン・ウィーン』より)

02. Milonga del ángel〈天使のミロンガ〉 / Astor Piazzolla y su Quinteto Nuevo Tango(ブエノスアイレス滞在経験のある竹内香苗アナウンサーからのリクエスト、『ニューヨークのアストル・ピアソラ』より)

●リクエスト・コーナー

03. Escualo〈鮫〉 / Astor Piazzolla y su Quinteto(『Live in Tokyo 1982』より)

04. Oblivion / 小松亮太、イ・ムジチ合奏団

●ピアソラの音楽の魅力(ゲスト:国府弘子)

05. Adiós Nonino / 国府弘子(小松亮太参加)

06. Tres minutos con la realidad〈現実との3分間〉 / Astor Piazzolla (& The New Tango Sextet) (『現実との57分間』より)

07. Libertango / Yo-Yo Ma

●リクエスト・コーナー

08. Tangata / Astor Piazzolla y su Quinteto Tango Nuevo(『AA印の悲しみ』1986年ライヴより)

●ピアソラと先輩たち、基礎を作った人たちの演奏、交流

09. La bicoca / Juan D'Arienzo y su Orquesta Típica(1940年録音)

10. Tigre viejo〈老いた虎〉 / Elvino Vardaro y su Orquesta(1933年録音、アセテート音源)

11. Se armó / Astor Piazzolla y su Orquesta Típica(1947年録音)

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12. Fugitiva / María de la Fuente(1952年録音、ピアソラ伴奏指揮)

13. El andariego〈放浪者〉 / Alfredo Gobbi y su Orquesta Típica(1951年録音)

14. Retrato de Alfredo Gobbi〈アルフレド・ゴビの肖像〉 / Astor Piazzolla y su Quinteto(『レジーナ劇場のアストル・ピアソラ1970』より)

15. Flores negras〈黒い花〉 / Julio De Caro y su Orquesta Típica(1927年録音)

16. Decarisimo / Astor Piazzolla y su Quinteto(『ピアソラ、ピアソラを弾く』より)

17. Zum / Astor Piazzolla y su Conjunto 9(『ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第1集』より)

18. Zum / Osvaldo Pugliese y su Orquesta Típica(『サン・テルモの夜』より)

●コメントとリクエスト:鈴木明子さん

19. Libertango / Astor Piazzolla y su Quinteto Tango Nuevo(『ライヴ・イン・ウイーン』より)

●革命のピアソラ

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20. Tanguango / Ahmed Ratip y sus Cotton Pickers(1951年録音)

21. Marron y azul〈栗色と青色〉 / Octeto Buenos Aires("Tango moderno"より)

22. La cumparsita / Astor Piazzolla, su Bandoneón y su Orquesta de Cuerdas("Tango en Hi-Fi"より)

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23. Azabache / Astor Piazzolla, su Bandoneón y su Orquesta de Cuerdas(1956年録音)

24. A fuego lento〈とろ火で〉 / Quinteto Real("Quinteto Real"より)

●美輪明宏×小松亮太対談(事前収録)

25. Mi Buenos Aires querido〈わが懐かしのブエノスアイレス〉 / Carlos Gardel(1934年録音)

26. Caminito / Libertad Lamarque(1953年メキシコ録音)

27. Nostargias / 藤沢嵐子 伴奏=早川真平とオルケスタ・ティピカ東京(『タンゴとともに20年』より、ピアソラ編曲)

28. 夜のプラットホーム / 藤沢嵐子 (伴奏)ミゲル・カロとオルケスタ・ティピカ(『ブエノス・アイレスの藤沢嵐子』より)

29. Poema / 美輪明宏

●彷徨えるピアソラ(ここから斎藤も参加)

30. Suite para piano - Preludio / 黒田亜樹(『Tango Prelude - Piazzolla Piano Works』より)

31. Tres Movimientos Sinfónicos, Buenos Aires - Moderato / Conductor: Gisèle Ben Dor, Bandoneón: Juanjo Mosalini, Santa Barbara Symphony("The Soul of Tango"より)

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32. Les amoureux de novembre〈11月の恋人たち〉 / Michèle Arnaud(1961年録音)

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33. Orchids in the Moonlight〈月下の蘭〉 / Astor Piazzolla and his Orchestra(『イヴニング・イン・ブエノスアイレス』より)

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34. Lullaby of Birdland〈バードランドの子守唄〉 / Astor Piazzolla, His Quintet & Rhythms(『テイク・ミー・ダンシング!』より)

35. La Muerte del Angel〈天使の死〉 / Astor Piazzolla & Gary Burton(『ニュー・タンゴ(モントルー・ライヴ)』より)

●リクエスト・コーナー

36. Concierto Para Bandoneón - I. Allegro marcato〈バンドネオン協奏曲 第一楽章〉 / バンドネオン:小松亮太 指揮:ミシェル・プラッソン 管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団(小松亮太5月5日発売新譜『ピアソラ:バンドネオン協奏曲 他』より)

37. El día que me quieras〈想いの届く日〉 / Astor Piazzolla(『タンゴ ガルデルの亡命』サウンドトラックより)

●コラボのピアソラ

38. Summit / Gerry Mulligan - Astor Piazzolla(『サミット』より)

39. Nous avons le temps〈コンドルは飛んで行く〉 / Georges Moustaki(『ムスタキ(詩人の叫び)』より)

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40. Siempre se vuelve a Buenos Aires〈いつもブエノスアイレスに帰る〉 / Astor Piazzolla y su Quinteto, Canta: José Angel Trelles("Volver"サウンドトラックより)

41. Introducción a héroes y tumbas〈英雄と墓へのイントロダクション〉 / Astor Piazzolla y su Nuevo Octeto, recita: Ernesto Sábato(『タンゴ・コンテンポラネオ』より)

42. Fábula para Gardel〈ガルデルへの寓話〉 / Astor Piazzolla - Horacio Ferrer(『エン・ペルソナ』より)

●コメントとリクエスト:米倉涼子さん

43. Yo soy María / María Volonté("Yo soy María"より)

●リクエスト・コーナー

44. Milonga de la anunciación〈受胎告知のミロンガ〉 / Astor Piazzolla - Amelita Baltar(『ブエノスアイレスのマリア』より)

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45. Il Pleut Sur Santiago〈サンチェゴに雨が降る〉 / Astor Piazzolla(『サンチャゴに雨が降る』サウンドトラックより)

●小松亮太五重奏団スタジオ・ライブ

46. La calle 92〈92丁目通り〉 / 小松亮太五重奏団(ライブ)

47. Prepárense〈プレパレンセ〉 / 小松亮太五重奏団(ライブ)

48. Contrabajeando〈コントラバヘアンド〉 / 小松亮太五重奏団(ライブ)

49. Coral〈コラール〉 / 小松亮太五重奏団(ライブ)

50. Concierto para quinteto〈五重奏のためのコンチェルト〉 / 小松亮太五重奏団(ライブ)

~ニュース中断~

●コメントとリクエスト:椎名林檎さん

51. El choclo / Astor Piazzolla y su Gran Orquesta(『タンゴの歴史 第1集~グアルディア・ビエハ』より)

●ピアソラから広がる新たな響き

52. Sónico / Eduardo Rovira y su Agrupación de Tango Moderno("Sónico"より)

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53. Al diablo con el diablo〈悪魔なんかくそくらえ〉 / Rodolfo Mederos y Generaci ón Cero("Fuera de broma"より)

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54. Ballade pour un fou (Loco, Loco)〈ロコ・ロコのバラード〉 / Julien Clerc(1975年録音)

55. La primera palabra〈最初の言葉〉 / Chany Suarez("En caso de vida"より)

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56. Le diable (El diablo)〈悪魔〉 / Jairo("Le diable"より)

●ピアソラと日本

57. Inspiración〈霊感〉/ Orquesta Juan Canaro(1954年録音、"El tango en Japón"より)

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58. Lo que vendrá〈来るべきもの〉 / 早川真平とオルケスタ・ティピカ・東京(『タンゴ・エン・トウキョウ(タンゴ喫茶店巡り)』より)

59. Mort〈死〉 / Tee & Company(『Dragon Garden』より)

60. Che bandoneón / Astor Piazzolla with Ranko Fujisawa(『Live in Tokyo 1982』より)

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61. Vamos, Nina〈行こうニーナ〉 / Milva & Astor Piazzolla(『Live in Tokyo 1988』より)

●リクエスト・コーナー

62. Buenos Aires hora cero〈ブエノスアイレス零時〉 / Astor Piazzolla y su Quinteto Nuevo Tango(『ある街へのタンゴ』より)

63. Vuelvo al Sur〈南へ帰ろう〉 / Astor Piazzolla et son Quintette, chante par Roberto Goyeneche(『スール その先は…愛』サウンドトラックより)

64. Invierno Porteño〈ブエノスアイレスの冬〉 / Astor Piazzolla y su quinteto(『レジーナ劇場のアストル・ピアソラ1970』より)

●エンディング

65. Concierto para Bandoneón y Orquesta - Presto〈バンドネオン協奏曲 第三楽章 プレスト〉 / Astor Piazzolla with The Athens Colours Orchestra, Conducted by Manos Hadjidakis(『バンドネオン・シンフォニコ~アストル・ピアソラ・ラスト・コンサート』より)

66. Adiós Nonino / Astor Piazzolla with The Athens Colours Orchestra, Conducted by Manos Hadjidakis(『バンドネオン・シンフォニコ~アストル・ピアソラ・ラスト・コンサート』より)

盛りだくさんの内容、「踊りの伴奏に過ぎなかったタンゴを芸術の域に高めた」的な誤ったピアソラの神格化に異議を唱え(それは私もまったく同感だ)、たくさんの例証とともに丁寧な説明を繰り出していく小松さんの熱いトークで、常に時間と闘いながらの進行だった。有名曲、アメリータ・バルタールやロベルト・ゴジェネチェの歌はあえてプログラムに入れずにリクエストに期待するという方法で、なんとか乗り切った。それでも、リクエストの多かった「ミケランジェロ70」やアサド兄弟の演奏など、入りきらないものも多かった(アサド兄弟の「タンゴ組曲」は、ニュース中断前のエンディングで、かろうじてバックに流れた)。生涯最後の録音となった最後の「アディオス・ノニーノ」、完奏する予定だったがクライマックスで時間切れ、フェイド・アウトとなったのは残念だったが。

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とにもかくにも無事に終了し、最後に小松さん、美しい声を聴かせてくださったアナウンサーの竹内香苗さんと記念撮影。皆さんお疲れさまでした。

 

2021年4月15日 (木)

新たな機材の導入でノイズのないディスクリート4チャンネル・レコードの再生が実現

※過去の記事『CD-4を中心とした4チャンネル・レコードの再生』と併せてお読みください。

2月23日に前掲記事をアップした際、最後に「CD4-30をフォノイコとしての通常のステレオ盤再生もいい感じなので」と書いた。これは実際にその通りで、調整されたAさんによればはっきりとした理由があるという。

「RIAA補正というのは御存じのように、レコード作成時に低域を抑え、高域を持ち上げた特性でレコード溝を作成し、再生時にイコライザアンプで低域をブーストし、高域をカットして録音時と同じ平坦な特性に戻すことを指します。
イコライザアンプは世界規約であるRIAA特性カーブを忠実に補正(イコライズ)するのが一番重要な要素となるので、高級アンプでは高価な誤差の少ないコンデンサや抵抗部品をあえて使用して実現させています。
通常のプリアンプ部では一つのイコライザ回路でこれをやるのですが、RIAA特性をさらに忠実に再現するため、さらに高級なアンプでは低域のブースト部と高域のカット部を分けた2段構成のイコライザアンプを用意して、低歪率と正確なRIAA補正を実現しています。
CD-4デモジュレータではイコライザアンプで高域をカットしたら30KHzで変調された4CHのサブ信号がなくなってしまうことになりますので、何と超高級アンプに使用されている方法と同じ2段構成のイコライザアンプを用意しているのです。
(中略)
CD-4デモジュレータには2CH出力に切り替えられるスイッチポジションもありますから、MMカートリッジでレコードを聴きたいなら高価なイコライザアンプを用意しなくても、4CHとか関係なしに落札されずに残っているCD-4デモジュレータが一番お勧めとなります。
でも世間の人は、CD-4デモジュレータとイコライザアンプは別物と思っている人が多いようですが・・」

ということで、長年愛用してきたMC専用のフォノイコライザー、LINNのLINTOは思い切って手放すことにした。そしてメインのMCカートリッジであるaudio-technicaのAT33PTG/IIやモノラル用カートリッジの同AT33MONOをCD4-30でも鳴らせるよう、初めてのMC昇圧トランスの購入を検討し、Phase TechのT-3の中古をヤフオクで落札。それが届いたのが3月8日だった。

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一聴して実在感が増した感じで、最初の感触は良かった。

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AT33PTG/IIはマイクロリニア針(ラインコンタクト針の一種)で再生周波数15~50,000Hzだったので、実際に繋いでみてCD-4盤の4ch再生も可能なことがわかったが、残念ながらノイズが乗りやすかった。

そのノイズの原因を探っていた矢先、またもやAさんから中澤さん経由で願ってもいない情報がもたらされた。とある4chレシーヴァーに第3世代ディモジュレーター用の例の「CD4-392」ICチップが搭載されていることに気付き、「IC自体が生きている事は確認出来たそうで、今後、それの載った基板を単体CD-4デモジュレイターに移植して使えるかどうかを探っていく」のだという。それが3月17日の夜のこと。その夜遅くAさんにリクエストを送り、「うまく動作させられるかは現時点では未知数です。移植先としてはCD4-10のケースを使用することを考えています。うまくいったときには改めてお声かけさせていただきます」とのお返事を頂いたのが18日の午前中。それがなんと19日の夕方には「作業が完了しました」とのメールが届いたので驚いてしまった。ただし予定よりも費用が掛かってしまったので、とりあえず貸し出すから使ってみてほしいとのことで送っていただき、3月22日の午前中に到着。

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早速そのCD4-10“改造機”をセッティングし、ortofon MC-3 Turboで聴いてみて、ノイズの除去性能が極めて高いことを瞬時に確認できた。ノイズに強いMC-3 Turboでの再生であっても、盤によって特にそれまで目立っていた、ハイハットやシンバル、サ行、その他高音部への強烈な付帯ノイズはほぼ完璧に消え、チリチリしたノイズも目立たなくなり、結果的に全体の見通しがぐんと良くなった。

具体的にどのような改造が行われたのか。まず、Aさん提供によるデフォルトのCD4-10の内部写真を見てみよう(キャプションもAさんによる)。

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・左側基板:電源基板
・中央大きな基板:CD4デコーダ及びANR(Auto Noise Reduction)回路基板
・上部基板:信号分離用基板

ここに、レシーヴァーから取り出した、CD4-392を搭載した次の基板を組み込むのだという(これも画像はAさん提供)。

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CD4-392の特徴をまとめると、「PLL(Phase Locked Loop)内蔵でCD4デモジュレート機能はもちろんの事30KHzキャリア信号の自動補正機能、ANR(Auto Noise Reduction)機能、信号分離・混合機能まですべて含んだものであり、第二世代のCD4-10やCD4-30の機能のほとんどがこのICの中で実現されてしまっていることになる」とのこと。技術的なことは私にはわからないのだが、Aさんの詳細な改造作業メモから、作業工程の大まかな要点を私なりに整理してみた。

(1) レシーヴァー側のマザー基板を調査し、CD4ディモジュレーター基板ソケットの役割を見つける

(2) CD4-10の改造:使用しない基板の撤去、電源部のメンテナンス、配線、ランプのLED化など

(3) CD4-392 ICチップ使用のデコーダー基板組み込み、調整

改造後の内部はこんな感じで(Aさん提供画像はここまで)、本来の基板のうち「利用するのは電源基板と第一イコライザ基板(RIAAのLOW-UP)のみ」で、組み込まれた上部の基板にディモジュレーター機能が集約されているため、このようにスカスカになるのだという。

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改造の効果は絶大だったが、そもそもなぜこのような七面倒くさい改造が必要なのか。CD4-392 ICチップを使用したディモジュレーターを最初から探せばいいのではないか、と思われるかも知れないが、そのようなものは手の届くところには存在していないのだ。1974年、CD4-392の開発によりCD-4再生の大きな弱点であったノイズ発生が克服されたというのに、その事実も知られないまま、既に4chは終焉期を迎え、各オーディオメーカーも見切りをつけていた。それでもビクターからは業務用のCD4-1000(当時の価格で48万円!)が出て、1976年にはその設計思想を受け継いだという民生用ディモジュレーターの最終機CD4-50(99,800円)が登場したが、受注生産品であり、幻の存在と化しているという。ただしCD4-392を載せた基板は、いくつかのレシーヴァーにひっそりと使用されていた。なのでこの改造は、そうした現実に即しているという意味で理に叶っているというわけだ。

CD-4の再生能力のみならず、CD4-10改造機はフォノイコライザーとしての性能も向上しているように感じたが、これについてAさんからは「CD4-392 ICには前後の和信号と差信号をMIXする部分も搭載しているので、ロールオフ部はCD4-392の基板上になります。ローアップのイコライザ部は底蓋を開けると見えます。CD4-30ではオペアンプを使用した簡易型のものでしたが、CD4-10では3石ディスクリート構成の立派なものが搭載されています」とのコメントを頂いた。

ただし、通常の2chステレオはともかく、AT33PTG/IIから昇圧トランスT-3を経由してのCD-4再生は、期待してみたもののやはり無理だった。CD4-30で聴くよりはだいぶまともだったが、内周近くでは全体にノイズが乗り、歪みっぽくなってしまう(後に判明したその理由については後述)。トランス経由での再生について、改造機をリクエストした際にAさんに尋ねてみたところ、Aさん自身はトランス経由でCD4再生した経験はないと前置きされた上で「トランスはインダクタンスを持っており、周波数が上がればインピーダンスが増加します。なのでCD4のように50KHzまで平坦な特性が要求される用途には不向きであるような気がします」との返答を得ていた。

ということで、昇圧トランスに換えてMCヘッドアンプの導入を検討することになった。VenetorのVT-MCTLというのが良さそうだったが、8万円台ではいかんせん高過ぎ、というか予算がない。ヤフオクで検索してみても、トランスと比較してヘッドアンプの選択肢はより少ない感じだったのだが、マークレビンソン JC-1DC(1974年発売)の回路をベースにしたという電池駆動式の自作ヘッドアンプが目に留まった。即決価格27,000円で、コンスタントに売れているようだった。評価欄のコメントのみが頼りだったが、思い切って落札し、3月29日に到着。

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CD4-10改造機の上に載っているのが、その無印のヘッドアンプ。実は昇圧トランスのノイズの原因の一つは、AT33PTG/IIを取り付けたカートリッジとアームとの接点の汚れだったことが後からわかったのだが、それを解決してもノイズは完全には消えなかった。結局昇圧トランスは入手から1か月足らずで手放すことになったが、ヘッドアンプとの聴き比べの様子を以下にまとめておく。ハムノイズが出やすいのはトランスの方で、ヘッドアンプはヴォリュームを最大にしても問題なかった。

AT33PTG/IIからのステレオ再生:
トランスとヘッドアンプでは一長一短。ポップス系のマルチトラックレコーディングではトランスにやや分があった。太田裕美のシングル「九月の雨」の右チャンネルのギターのカッティングがトランスでは浮き上がって聴こえるが、ヘッドアンプでは埋もれがち。一方タンゴやクラシックなどのアコースティック録音の表現力はヘッドアンプの方が上だった。この結果は予想とは逆だった。

AT33PTG/IIからの4ch再生:
トランスよりヘッドアンプの方が、ノイズの出方はいくらか抑えられた。このノイズというのは、CD4-30での再生時にみられた、CD-4盤特有の不快なノイズとはまったく性格が異なり、ひび割れ、ザラツキ、かすれのようなものであり、特定の盤、特定の個所に現れる。また、キャリア信号を読み取るレーダーランプが時折弱くなることがある。

AT33MONOからのモノラル再生:
トランスとヘッドアンプの違いよりも(あまり突き詰めて比較しなかったが)、CD4-10の片チャンネル再生とMozart Phono(管球式モノラル専用フォノイコライザー)の違いの方がいくらか大きく、RIAAカーヴに限定すればCD4-10の方がより生き生きと鳴る。

MC-3 Turboによる再生:
ステレオであれ4chであれ、AT33PTG/IIを遥かに凌駕するクリアでワイドで生き生きとした再生能力を発揮。この差はなんだろう。そもそもAT33PTG/IIを長年リファレンスとして使ってきたのは、ソースや盤のコンディションをあまり選ばず、クリアでフラットな再生をしてくれるところが気に入っていたからなのだが、そのお株をすべてMC-3 Turboに奪われた形になってしまった。だとすると、今使っているAT33PTG/IIには何か問題があるのだろうか。今のは二代目で、2019年6月に新品で購入したもの。針先はジェルタイプのスタイラスクリーナー(DS Audio ST-50)で常にきれいにしているので、トラブルは考えにくいのだが。

MC-3 Turboは出力電圧3.3mVの高出力MCカートリッジだから、ディモジュレーターのMM入力端子に直接繋ぐのが適切な接続方法なのだろうが、いろいろ試していて、繋ぎ換えが面倒だったのでヘッドアンプを挟んだ状態のままで鳴らしてみたら、何とこれがベストだった。ヘッドアンプを通すことで余裕が生まれるのだろう、ステレオでも4chでも、より堂々とした力強い表現が聴けるようになったし、ノイズにも更に強くなった。主にAT33PTG/IIのために用意したヘッドアンプがMC-3 Turboのよりよい再生に役立つとは、まったく思いも寄らなかったことだが、結果良ければすべて良し。ノイズと無縁になったCD-4サウンドを最強の組み合わせで聴けるのは実に恵まれたことだが、この感動を容易に他者と分かち合えないのが歯がゆくもある。

【2021年9月19日追記】上に書いた、ヘッドアンプを通してのMC-3 Turboの再生には問題があることが判明した。詳しくは9月18日の記事「アストル・ピアソラ・コレクション紹介/ディスクリート4チャンネル再生のその後」を併読されたい。

2021年3月 2日 (火)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その6 タンゴあれこれ~アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ

旧サイト「tangodelic!」に連載していた記事「タンゴ入門講座」再掲載の第6回(元の連載の第17~18回分)。今回はコラム。

タンゴあれこれ(1)「アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ」その1
(初出:2001年8月1日)

タンゴは19世紀の終わり近く、アルゼンチンの首都であり南米屈指の貿易港でもあったブエノスアイレスの、船員や娼婦などがたむろする場末のいかがわしい界隈で発生した踊り、およびその音楽である。ただし、ラ・プラタ川を挟んだ小国ウルグアイの首都モンテビデオ(距離的にも近い)でも、タンゴにまつわる現象は同時発生的に起こっていたと思われ、著名なタンゴ人も多く排出している。それでも、経済的な規模などが違い過ぎるために、ブエノスアイレスが文化の中心となるのは必然だった。アルゼンチンは広大な国土を持つが、タンゴが盛んなのはブエノスアイレス及び2~3の地方都市に限られた。地方に生まれてタンゴを演奏したいと思った者は、ブエノスアイレスに出る以外にほとんど方法はなかった。あくまでもタンゴは、都会の音楽であり、ブエノスアイレスに暮らす人々の感情の拠りどころともなったのである。そうしたこともあって、タンゴ・アルヘンティーノ(アルゼンチン・タンゴ)ではなく、タンゴ・リオプラテンセ(ラ・プラタ流域のタンゴ)と呼ぶべきだと主張する人もいるくらいである。

1910年前後から、ヨーロッパに渡って活動するタンゴの演奏家や踊り手が増え始めたことで、フランスやドイツなどにもタンゴの種が蒔かれ始めた。そして、1925年のフランシスコ・カナロ楽団によるパリ公演の成功を機に、大きなブームが起こる。ヨーロッパ独自のタンゴ文化が生まれ、1920年代後半から30年代にかけて、各国でオリジナルのタンゴが作られるようになったのである。有名な作品といえぱ、「ジェラシー Jalousie」(デンマークのヤコブ・ガーデ作)と「碧空 Blauer Himmel」(ドイツのヨゼフ・リクスナー作)が双璧だろう。当時の演奏家としては、ドイツのヴァイオリン奏者バルナバス・フォン・ゲッツィ(1897~1971)率いる楽団が特に有名である。こうしたヨーロッパ製タンゴのことは、コンチネンタル・タンゴと呼ばれるが、実はこの呼称は日本独特のものである。

ヨーロッパで独自に発展したタンゴは、まさにヨーロッパ的と言える優雅で美しい旋律を特徴とするものが多い。反面、アルゼンチン・タンゴが本来持っていたリズムの面白さはほとんど感じることができない。曲の構造も違えば、演奏スタイルも異なり、弦楽器が主体で、通常バンドネオンは入らず、代わりにアコーディオンが入ったりする。1940年代、ブエノスアイレスではフアン・ダリエンソやアニバル・トロイロ、オスバルド・プグリエーセらの台頭などによってタンゴが音楽的に成熟し、大衆の幅広い人気を得たのに対し、ヨーロッパのタンゴは第二次世界大戦の影響などもあり、音楽的に発展することが出来ず、大衆音楽としては明らかに衰退していった。

そのコンチネンタル・タンゴが、いささか歪んだ形で紹介されたのが、戦後の日本だった。日本では戦前からタンゴが親しまれていたが、アルゼンチンのタンゴもヨーロッパのタンゴもひとまとめにしてヨーロッパ経由で紹介されることが多く、コンチネンタル・タンゴのファンも多かった。そうした経緯があったことから、一部のレコード会社やプロモーターが、ヨーロッパでは既に落ち目のコンチネンタル・タンゴを盛んにプッシュしたのである。そのピークは1960年代半ばのことだった。日本でのコンチネンタル・タンゴ・ブームの立役者となったのが、西ドイツ(当時)のアルフレッド・ハウゼ(指揮)と、オランダのマランド(アコーディオン、指揮)。例えばハウゼは、本国では放送局のオーケストラの指揮者を務めていて、タンゴはレパートリーの一部に過ぎなかったが、日本ではタンゴ専門の楽団として売り出され、成功したのである。しかし、ハウゼやマランドの音楽は、形骸化したムード音楽に過ぎず、タンゴ本来の魅力からは極めて遠い位置にあった。そして、日本でのコンチネンタル・タンゴ人気は、更なる弊害をも生み出した。日本の制作サイドが、例えばエンリケ・マリオ・フランチーニのようなアルゼンチンの一流のタンゴの演奏家に、日本向けにコンチネンタル・タンゴのレパートリーを演奏させる現象まで起きてしまったのである。本人たちは、普段とは違うレパートリーを楽しんで演奏したのかも知れないし、それなりにアレンジの面白さも感じられるものの、やはりどこか本質を見誤っていた気がしてならない。

Francini2
エンリケ・マリオ・フランチーニ
タンゴ界最高のヴァイオリン奏者は、どんな思いでコンチネンタル・タンゴを弾いたのだろうか。

タンゴあれこれ(2)「アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ」その2
(初出:2001年8月8日)

戦前のヨーロッパで特にタンゴが盛んだったのは、フランスとドイツである。戦後のドイツでコンチネンタル・タンゴが衰退していったのは、前回書いた通りだが、フランスでは少し事情が違っていた。アニバル・トロイロやマリアーノ・モーレスなど、アルゼンチンでの新世代台頭の影響を受けて、ヨーロッパ風にアレンジされた従来のタンゴとは異なる、アルゼンチンのタンゴ本来のスタイルにより近い演奏をする楽団がいくつか現れたのである。モーレスは1953年から翌年にかけてパリに滞在し、演奏活動やレコーディングを行っているし、アストル・ピアソラも1954年、モーレスと入れ替わるようにパリに渡った。ピアソラの渡仏の目的はクラシックの勉強だったが、結果的には弦楽オーケストラ編成(パリ・オペラ座の楽団員が中心)で16曲の録音を行い、自身の新しいタンゴを世に問うことになった。こうしたモーレスやピアソラのパリでの活動が、当地のミュージシャンたちに刺激を与えただろうことは、想像に難くない。

1950年代のフランスで、アルゼンチン・スタイルの演奏を得意としていたのは、プリモ・コルチア楽団やマルセル・フェイジョー楽団などである。バンドネオン奏者フェイジョーはアルジェリア生まれのフランス人で、楽団を結成したのは1945年のこと。ピアソラとフェイジョーはパリで「S.V.P.(シル・ヴ・プレ)」を合作し、お互いに自分の楽団で録音した。またピアソラはフェイジョーに「バンドー」を捧げている。パリでのピアソラはほかにも「ミ・テンタシオン(わが欲望)」(ラモン・シロエとホセ・モラネス作)、「エスタモス・リストス(用意はできた)」(アンジェロ・ブルリ作)といったパリのタンゴ人たちの作品を取り上げていて、様々な交流があったことが伺える。一方、ピアソラがパリで書いた作品には、例えば「グアルディア・ヌエバ」や「セーヌ川」など、コンチネンタル・タンゴ風とまでは言わないまでもヨーロッパ的な雰囲気を漂わせたものが目につく。ピアソラのパリ滞在(~1955年)を契機にタンゴ・ブームが起こる、というようなことはなかったものの、ピアソラの影響力はじわじわとフランスの音楽界に浸透していった。

Feijoo
(左)マルセル・フェイジョー
(右)録音スタジオのピアソラ(手前)とフェイジョー(1955年)

そのフランスを中心に新しいタンゴの波が起こったのは、1970年代以降のことである。ピアソラは1974年、イタリアのローマに移住し、ミラノのスタジオ・ミュージシャンたちをバックにアルバム『リベルタンゴ』を録音、76年からはパリに移り、他ジャンルの音楽家との共演を含めて積極的な演奏活動を続けた。77年、歌手スサーナ・リナルディのバックでパリを訪れたバンドネオンのフアン・ホセ・モサリーニは、亡命する形でそのままパリに残る(1976年から83年までアルゼンチンは軍事政権下にあり、自由な活動を制約された多くの文化人が亡命した)。ほかにもフアン・セドロンなど何人もの音楽家がこの時期にヨーロッパに移り住み、70年代後半から80年代にかけて前述のスサーナ・リナルディやセステート・マジョール、オラシオ・サルガンとウバルド・デ・リオ、オスバルド・プグリエーセ楽団などが、頻繁に演奏旅行で各地を訪れたことから、ヨーロッパのタンゴ・シーンが活性化されていった。特にモサリーニは、演奏家としてのみならず、バンドネオンの教授として後進の指導にも大きな役割を果たしてきた。

後にブロードウェイを席巻し、タンゴ・ダンス・ショーのブームの先駆けとなった『タンゴ・アルゼンチーノ』のスタートは、1983年のパリだった。84年には、イタリアの人気歌手ミルバとピアソラ五重奏団とのショー『エル・タンゴ』がパリでスタートし、スイスの室内楽団イ・サロニスティがアルゼンチンのバンドネオン奏者オスカル・ギディをゲストに迎えて秀逸なタンゴ・アルバムをリリース…。もはやここまでくると、かつてのコンチネンタル・タンゴの面影は微塵もない。アルゼンチン・タンゴの世界的な展開といった感じである。そしてヨーロッパのあちこちから新しいグループが登場し様々なアプローチを展開、90年代半ばに始まるピアソラ・ブーム以降は、クラシック界からの新規参入も盛んになって現在に至るというわけだ。

ヨーロッパといっても広く、どこの国でも同じような状況だったわけではない。たとえばフィンランドは、いわゆるコンチネンタル・タンゴとはまったく別のところで独自のタンゴ文化を築いてきた国である。フィンランドではタンゴは国民音楽のように親しまれて来たが、レパートリーはほとんどが自国で作られた歌入りのタンゴだった。それが10年ほど前からは、ピアソラの作品やアルゼンチン・タンゴ全般、あるいは過去のフィンランド・タンゴの人気曲などをインストゥルメンタルで演奏するグループがいくつも登場している。果たしてヨーロッパのタンゴは、これからどのように展開していくのだろうか。

2021年3月 1日 (月)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その5 タンゴの音楽形式~ワルツ/カンドンベその他

旧サイト「tangodelic!」に連載していた記事「タンゴ入門講座」再掲載の第5回(元の連載の第14~16回分)。音楽形式の最終回。

タンゴの音楽形式(6) 「ワルツ」
(初出:2001年7月11日)

ワルツは4分の3拍子の曲。スペイン語では「バルス Vals」となるので、タンゴ・ファンの中には、この呼び方を好む人も少なくない。タンゴは、ハバネラやミロンガなどの他に、ヨーロッパのダンス音楽であるワルツやポルカなどの要素も含んでおり、タンゴ楽団も自然とワルツをレパートリーに取り入れるようになった。ブエノスアイレスで、主にタンゴ楽団のレパートリーとして書かれたワルツは、バルス・クリオージョ(南米風もしくは土地っ子のワルツ)と形容されるものが多いが、特にタンゴの初期においては、ヨーロッパから伝えられたウィンナ・ワルツもよく演奏されていたようだ。エドゥアルド・アローラスのCD "Homenaje a la guardia vieja del tango" (El bandoneon EBCD 125)には、アローラス楽団が1913年から1918年にかけて録音した貴重な20曲が復刻されているが、この中にワルツが3曲あり、うち2曲は後述のバルス・クリオージョ、残り1曲は「スケートをする人々(スケーター・ワルツ)」で有名なフランスのエミル・ワルトトイフェルの「愛と青春」という曲だった。

現在も聴かれるアルゼンチンのワルツで、時代の古いものというと、だいたい1910年代の作品ということになる。主なものを挙げてみよう。

 フランシア(オクタビオ・バルベーロ作曲、1910年)
 トゥ・ディアグノスティコ(ホセ・ベティノッティ作曲作詞、1910年)
 ラグリマス・イ・ソンリサス(涙と笑い)(パスクアル・デ・グージョ作曲、1913年)*
 エル・アエロプラーノ(飛行機)(ペドロ・ダッタ作曲、1915年)
 パベジョン・デ・ラス・ロサス(バラの館)(ホセ・フェリペッティ作曲、1915年)*
 デスデ・エル・アルマ(心の底から)(ロシータ・メロ作曲、1917年)

*印の2曲が、アローラスのCDに含まれていたバルス・クリオージョである。「トゥ・ディアグノスティコ」はアニバル・アリアスとオスバルド・モンテスのCDなどで聴ける。続いて、1930年前後にもワルツの傑作がまとまって世に出ている。

 コラソン・デ・オロ(黄金の心)(フランスシコ・カナロ作曲、ヘスス・フェルナンデス・ブランコ作詞、1928年)
 ラ・プルペーラ・デ・サンタ・ルシア(サンタルシアの酒場の娘)(エンリケ・マシエル作曲、エクトル・ブロンベルグ作詞、1929年)
 パロミータ・ブランカ(白い子鳩)(アンセルモ・アイエータ作曲、フランシスコ・ガルシーア・ヒメネス作詞、1929年)
 スエニョ・デ・フベントゥー(青春の夢)(エンリケ・サントス・ディセポロ作曲作詞、1931年)

1940年代には、オルケスタ・ティピカと専属歌手たちが個性も華やかに活躍し、多くの優れたタンゴ歌曲が生まれた。この時代を代表するワルツとしては、次のようなものがある。いずれ劣らぬ傑作揃いで、特に「カセロン・デ・テハス」は最近でも多くの歌手が取り上げている。

 カセロン・デ・テハス(瓦屋根の家)(セバスティアン・ピアナ作曲、カトゥロ・カスティージョ作詞、1941年)
 ペダシート・デ・シエロ(空のひとかけら)(エクトル・スタンポーニ、エンリケ・マリオ・フランチーニ作曲、オメロ・エスポシト作詞、1942年)
 ロマンセ・デ・バリオ(下町のロマンス)(アニバル・トロイロ作曲、オメロ・マンシ作詞、1947年)

1953年にアルフレド・デ・アンジェリス楽団(歌:カルロス・ダンテ)でヒットした「ケ・ナディエ・セパ・ミ・スフリール(誰も知らない私の悩み)」と言う曲は、ペルー人アンヘル・カブラルが作曲し、アルゼンチン人エンリケ・ディセオが作詞したバルス・ペルアーノ(ペルー風のワルツ)である。バルス・ペルアーノは、8分の6拍子と4分の3拍子が組み合わされているなど、それまでのアルゼンチンのワルツに比べて異なった雰囲気を持っていた。なおこの曲は後にエディット・ピアフによって、シャンソン「群衆 La foule」として生まれ変わっている。ペルーのワルツといえば、ペルーを代表する女性シンガー・ソングライターであるチャブーカ・グランダの代表作のひとつ「ラ・フロール・デ・ラ・カネーラ(肉桂の花)」が、50年代末にマリアーノ・モーレス楽団やアニバル・トロイロ楽団によって取り上げられている。

そして、アストル・ピアソラも、数は少ないが意欲的なワルツを書いている。1950年、当時の妻に捧げて書いた「デデ」は、オーボエをフィーチャーした斬新な作品だったし、オラシオ・フェレールと組んで1968年に発表した「チキリン・デ・バチン」も、新しいスタイルの歌曲として幅広い人気を得た。翌69年の作品で、ピアソラ=フェレールの最高傑作と名高い「バラーダ・パラ・ウン・ロコ(ロコへのバラード)」も、基本はタンゴだが、途中にワルツのパートが挟まっている。

タンゴ楽団が演奏するワルツは、タンゴほどに楽団の個性を写し出すものではないし、どこか息抜きのようなところもあるが、やはりないと寂しい気がする。そんな中で、見事なアレンジとオーケストレーションで古典ワルツに新しい解釈を施し、聴き手に強烈な印象を与えた演奏として、オスバルド・プグリエーセ楽団の「デスデ・エル・アルマ」(上記1910年代の作品一覧参照、プグリエーセ楽団の録音は1979年)を挙げておこう。

Desdeelalma
「デスデ・エル・アルマ(心の底から)」の楽譜表紙
形式名が「バルス・ボストン」と書かれているが、特に音楽的な意味合いはなさそう。

タンゴの音楽形式(7) 「カンドンベほか」その1
(初出:2001年7月18日)

タンゴ楽団や歌手のレパートリーには、これまでにご紹介したタンゴ、ミロンガ、ワルツ以外に、どんなものがあるのだろうか。演奏される機会は少ないものの、幾つかの音楽形式があり、それらは大きく二つに分類出来る。ひとつは、タンゴ楽団のダンス・バンドとしての性格上演奏された外来のダンス音楽で、例えば次のようなものがある。

【フォックストロット】 1910年代にアメリカ合衆国で流行ったダンス音楽。1920年代からアルゼンチンでも好まれた。
【ポルカ】 19世紀前半にヨーロッパで生まれた2拍子の舞曲。初期のタンゴにも影響を与え、19世紀末にはアルゼンチンでも流行した。
【パソ・ドブレ】 スペイン生まれの舞曲。行進曲風の2拍子もしくは3拍子で、1920年代にはアルゼンチンやフランスでも流行した。
【ルンバ】 19世紀にキューバで生まれた音楽だが、1930年代には形を変えて、社交ダンスとしてアメリカやヨーロッパで流行した。

また、マズルカ(ポーランド生まれの舞曲)などの影響のもと、ブエノスアイレスで生まれた音楽形式にランチェーラがある。2拍目にアクセントがある民謡調の3拍子で、1920年代から30年代にかけて流行した。女性歌手アダ・ファルコンが歌ってヒットした「メ・エナモレ・ウナ・ベス(一度恋に落ちた)」(フランシスコ・カナロ作曲、イボ・ペライ作詞、1932年)のように、作品として生き残ったものもあるが、音楽としては完全に過去のものである。

今挙げたようなダンス音楽は、フランシスコ・ロムート楽団やオスバルド・フレセド楽団などが1930年代前後に比較的多く取り上げていたし、1940~50年代にも、タンゴやワルツと共にこうした曲を専門に演奏していたエンリケ・ロドリゲス楽団のような存在もあったが、一般的に幅広く演奏されるほどの内容があったとは言い難い。

もうひとつの流れは、新しい音楽形式の開拓といえるもので、代表的な例としてはカンドンベがある。カンドンベはもともと、18世紀後半から19世紀前半にかけて、ウルグアイのアフリカ系黒人たちの儀式として始まった。その後黒人の減少とともに本来の形は失われ、19世紀末には、3種の太鼓(それぞれチコ、レピーケ、ピアノと呼ばれる)によるリズム・パターンとしてカーニヴァルの中に取り込まれていった。カンドンベはタンゴの成立にも多少の影響を与えたとも考えられていて、タンゴのルーツ指向が強まった1930年代後半から、新しい形のカンドンベが生み出されるようになった。この動きは、1930年代にセバスティアン・ピアナらの手によってミロンガが蘇生したのとも関連している。

新しいカンドンベは、ミロンガのリズムを基本に、先に触れた3種の太鼓によるリズム・パターンを加えてアフロ色を強くしたものである。ただしそれは、カンドンベの文化的背景をより強く持つウルグアイでの話で、アルゼンチンの作品のほとんどはそこまで本格的なものではなかった。だいたいはミロンガにカンドンベ的なビート感を加味した作品で、形式名もミロンガもしくはミロンガ・カンドンベとなっていた。セバスティアン・ピアナのいくつかの作品のほか、1942年にミゲル・カロー楽団が初演、ピアソラによるユニークな録音もある「アサバーチェ」(エンリケ・フランチーニ、エクトル・スタンポーニ作曲、オメロ・エスポシト作詞)などが知られている。一方ウルグアイでカンドンベ復活の立役者となったのは、<「ミロンガ」その2>にも登場したピアニスト、ピンティン・カステジャーノスで、「カンドンベ・オリエンタル(ウルグアイのカンドンベ)」(1940年)などの作品を残している。

ウルグアイとアルゼンチンでは演奏スタイルも異なり、カンドンベを得意としたウルグアイのロメオ・ガビオリ楽団は、3種の太鼓を加え複雑なリズムを表現したのに対し、アルゼンチンの楽団はせいぜいパーカッションを補強する程度だった。フアン・ダリエンソ楽団の「カンドンベ・オリエンタル」にはパーカッションが入っておらず、多少ビートの強いミロンガにしか聞こえない。アルゼンチンでのカンドンベ普及に一役買ったのは歌手のアルベルト・カスティージョで、ウルグアイで作られた作品を積極的に取り上げて、それがトレードマークのひとつとなった。

Gavioli
ヴァイオリン奏者/楽団指揮者/作曲家のロメオ・ガビオリ(1912~1957)

タンゴの音楽形式(8) 「カンドンベほか」その2
(初出:2001年7月25日)

アルゼンチン産のユニークなカンドンベとしては、マリアーノ・モーレスが1954年に映画『わが街の声』の中の1曲として発表した器楽曲「ファンダンゴ」がある。この曲のモーレスによる最初の録音は、バンドネオン抜きでオルガンの入ったタンゴ管弦楽団+打楽器+コーラスという編成だった。次いで1956年、アストル・ピアソラは弦楽オーケストラを率いてウルグアイでLPを録音したが、その中にピアソラが書いた唯一のカンドンベ、「ジョ・ソイ・エル・ネグロ(オレは黒人)」(カルロス・グロスティーサ作詞、歌はホルヘ・ソブラル)が含まれていた。ウルグアイでの録音というのがミソで、ちょっと聴き取りにくいが、ちゃんと3種の太鼓を使っている。曲調はミロンガ的ではない2拍子で、ピアソラ流のモダニズムと伝統的なカンドンベ本来のリズムがうまく結びついている。また、最近では、1980年代にダニエル・ビネリbnとウーゴ・ロメロgのデュオが、ウルグアイのパーカッション奏者カチョ・テヘラらのサポートを得てカンドンベの現代化に取り組んでいた。

Piazzolla56 
アストル・ピアソラ(1956年)
「ジョ・ソイ・ネグロ」を含む10インチLP"Lo Que Vendra"(Antar PLP-2001)の裏ジャケットより

カンドンベ以外では、フランシスコ・カナロがタンゴン(ミロンガ+ルンバといった感じ)など、カナロ楽団出身のマリアーノ・モーレスがバイアンゴ(バイオン+タンゴ)など、いくつかの新しい音楽形式を発表したが、これは単なる思いつきというか企画倒れの感もあり、それなりの面白さはあっても、新しい形式としての必然性を感じるところまではいかない。実際のところ、ほかには普及することなく終っている。そうした一連の作品と一線を画するものとして、アストル・ピアソラが1951年に発表した「タングアンゴ」を挙げておこう。この曲は当時アニバル・トロイロ楽団とオスバルド・フレセド楽団が録音している。トロイロ楽団のレコード(SP盤)に表記された形式名は“ヌエボ・リトゥモ・パラ・トーダ・オルケスタ”(すべての楽団のための新しいリズム)となっていた。フレセド楽団のレコードでの表記は未確認だが、資料によれば単に“ヌエボ・リトゥモ”(新しいリズム)と書かれていたようだ。ピアソラがこの形式名を用いたのはこの異色作のみだが、<「タンゴ」その3>でもご紹介したように、この曲には後にピアソラのトレードマークとなる3-3-2のリズムが大々的に使われていた。ピアソラは、その後の多くの作品に於いて3-3-2のリズムを曲の要所要所で使うようになるのだが、全体をそのリズムで押し切るという作り方はせず、タンゴの基本である4ビートなどとうまく組み合わせることによって、より効果的なアプローチを見せるようになったわけである。それが「タングアンゴ」ではほぼ全編がそのリズムで構成されていて、しかもそれがパーカッションによって強調されていたところが、実験作たる所以(ゆえん)である。

最後に、2回に分けて紹介して来た2つの流れ(外来のダンス音楽と、新たに創造されたリズム)のどちらにも属さない音楽形式として、カンシオンを挙げなければならない。カンシオンとはずばり、「歌」である。基本的にはタンゴでも、より自由なスタイルを持ち、ほかの音楽形式にも転用可能な歌曲は、タンゴ・カンシオンなどと呼ばれたが、更に自由度を高めたものが単なるカンシオンであり、間違いなくその代表作と言えるのが、カルロス・ガルデル一世一代の名曲「エル・ディア・ケ・メ・キエラス(想いのとどく日)」(カルロス・ガルデル作曲、アルフレド・レ・ペラ作詞、1935年)。この曲は作者たちの意図通り、タンゴの枠を遥かに越えて中南米諸国全体で歌われ愛されるスタンダードになったのである。

2021年2月27日 (土)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その4 タンゴの音楽形式~タンゴ

旧サイト「tangodelic!」に連載していた記事「タンゴ入門講座」再掲載の第4回(元の連載の第11~13回分)。音楽形式の第2回は、そのものずばりタンゴだ。

タンゴの音楽形式(3) 「タンゴ」その1
(初出:2001年6月20日)

「ミロンガ」の項では、ミロンガという言葉の持ついくつかの意味について説明したが、タンゴという言葉も、広義の意味での“ジャンルとしてのタンゴ”と、その中の“音楽形式としてのタンゴ”とに分けて考えてみた方が判りやすい。あるいはそこに、“精神論としてのタンゴ”という項目を付け加えてもいいかも知れない。音楽形式の話をする前に、ジャンルと精神論について少し説明しておこう。

タンゴの楽団や歌手が演奏したり歌ったりするレパートリーは、そのほとんどが(形式としての)タンゴ、ミロンガ、ワルツ(スペイン語だとバルス)に分類される。これらの音楽が主にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス及びウルグアイの首都モンテビデオ(この二つの都市はそれぞれラ・プラタ川を挟んだ対岸に位置する)で育まれて来たことから、これらを総称して“ムシカ・ポルテーニャ”(ポルテーニャ音楽。ポルテーニョ/ポルテーニャとは「港の」という意味の形容詞だが、転じて「ブエノスアイレスの」という意味で使われる)とか“ムシカ・リオプラテンセ”(ラ・プラタ川流域の音楽)などと呼ぶこともあるが、一般的ではないしなかなか判りにくい。ミロンガやワルツもひっくるめて、“タンゴ”と総称して全然構わないのである。

もうひとつの“精神論としてのタンゴ”だが、要するに、伝統的な形式に捕われずにタンゴのスピリットを持ち得た音楽のこと。その代表選手こそ、かのアストル・ピアソラである。ピアソラがきっかけでタンゴを聴き始めた方には信じ難い話かも知れないが、未だに多くの古典タンゴ・ファンにとって、ピアソラの音楽は「タンゴではない」のである。何故そういう話になるのか。それは、何を基準として、あるいはどこに視点を置いてタンゴに接するかという話にまでなるのだが、そのあたりはいずれ別項で詳しく触れるとして、ここではとりあえず、そういう考え方もあるということを記憶の隅に留めて頂きたい。

さて、本題に入ろう。タンゴ、あるいはその前身としてのミロンガの成り立ちは、「ミロンガ」の項でも簡単に書いたが、繰り返しておくと、19世紀の半ばから後半にかけて、同じリズムを持った3つの音楽、すなわちキューバから主にヨーロッパ経由で伝えられたハバネラ、スペインのアンダルシア地方から伝えられた(フラメンコの中の)タンゴ、パンパの吟遊詩人たちが歌うミロンガが、渾然一体となった中から、徐々に形作られてきたとされている。もちろんそこにはほかの様々な要素も複雑に絡んでいて、例えばヨーロッパ経由のダンス音楽であるワルツやポルカ、更にはウルグアイの黒人の間に伝えられて来たカンドンベなどからの影響も少なくなかった。ただし、レコードもない時代の、ブエノスアイレスの場末にあるボカという地区で起きた話であり、こうした経緯が正確な記録として残っているわけでない。後から研究者たちによっておおよその流れが解明されたような、曖昧さを残した物語なのである。

初めてタンゴという形式名で書かれた楽譜が出版されたのは1880年のこと。「バルトーロ」という曲で、今日演奏されることはまずない。今日まで演奏される最も古い曲といえば、1897年にロセンド・メンディサーバルpが作曲した「エル・エントレリアーノ(エントレリオス州の人)」。力強いリズム、自然な展開が印象的な作品で、後にアニバル・トロイロ楽団(編曲はピアソラ)やフアン・ダリエンソ楽団などによって立派な器楽タンゴに仕立て上げられた。手元にあるこの曲の一番古い録音は、1913年頃のターノ・ヘナロbnの五重奏によるもの。その録音時点で既に作曲されてから15年以上経過し、タンゴ界にバンドネオンが導入されたこともあって、演奏スタイル自体が作曲当時とは形を変えているはずだが、ミロンガ的なシンコペーションがベースになったその演奏は、今日の耳では随分のどかに聞こえる。それが後年のトロイロやダリエンソの演奏となると、ミロンガ的な感覚は一掃され、タンゴのリズムで押し切る感じになる。つまり、同じ曲でも演奏される時代によってリズム・パターンが変化したりするわけである。

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「エル・エントレリアーノ」の楽譜表紙

タンゴの音楽形式(4) 「タンゴ」その2
(初出:2001年6月27日)

タンゴにとって黎明期といえる1900年代から1910年代前半ぐらいに演奏されていた、タンゴのベーシックなリズム・パターンは、だいたい次の3つが1曲の中に組み合わされたような感じだったと思われる。

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Aがミロンガ的なパターン、Bはその変形(細かいパターン違いはほかにもあり、ここでは一つの例として挙げてみた)、Cが1910年代後半以降定着するタンゴの基本パターンである。Aは、ミロンガ的とはいっても、1930年代以降のミロンガのようにテンポは速くない。楽団編成にバンドネオンが加わり、フルートが淘汰され、ギターがピアノにその座を譲るのと歩調を合わせるかのように、タンゴの演奏パターンはA主体からC主体へと変わっていくのである。

ここで、前回ご紹介した「エル・エントレリアーノ」以降、1900年代までに生まれ、今日まで演奏され続けている主なタンゴをいくつか挙げておこう。

 ドン・フアン(エルネスト・ポンシオ作曲、1898年頃作曲)
 ウニオン・シビカ(市民連合)(ドミンゴ・サンタ・クルス作曲、1904年)
 ラ・モローチャ(エンリケ・サボリード作曲、アンヘル・ビジョルド作詞、1905年)
 (グラン・)オテル・ビクトリア(フェリシアーノ・ラタサ作曲、1906年)
 フェリシア(エンリケ・サボリード作曲、1907年)
 ヌエベ・デ・フリオ(7月9日)(ホセ・ルイス・パドゥラ作曲、1908年)

これらの曲は、いずれも作曲当時はAパターン主体で演奏されていたと思われるが、今日では、当時の雰囲気を再現する意図での演奏を除けば、通常はCパターンで演奏される。曲の根底を成すリズムパターンが変わっても命脈を保ち続けて来た、これらタンゴ黎明期の作品の生命力には、感嘆してしまう。

有名な「エル・チョクロ」(1903年)の作曲者であるアンヘル・ビジョルド(1861~1919)は、タンゴ界初のヒット・メーカーと言える存在である。代表作には「エル・エスキナーソ(街角)」(1902年?)「エル・ポルテニート」(1903年)などがある。そのビジョルドの一連の作品は、先に挙げた同時期の他の作曲家の作品と比べて、やや性格が異なる。彼の作品は、形式名が“タンゴ”と表記されていても、実際にはかなりミロンガに近く、上記の作品群のようにCパターンで演奏しても、どこかしっくりこない。それは、ビジョルドならではの個性が現れた結果とも言えるだろう。確かに「エル・チョクロ」は、Aパターン(というか、テンポの速いミロンガ)でもCパターンでも、どちらの演奏にもいいものがある。前者にはフルートをフィーチャーしたアルマンド・ポンティエル楽団の演奏などがあり、後者ではカルロス・ディ・サルリ楽団の演奏が定番だろう。一方、例えば「エル・ポルテニート」は、ミロンガ風に演奏しないとなかなか雰囲気が出ない。Cパターンで押し切るフアン・ダリエンソ楽団の演奏には違和感すら覚えるほどである。

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「エル・チョクロ」の楽譜表紙と作曲者のアンヘル・ビジョルド

ビジョルドに続く世代の優れた作曲家としては、ビセンテ・グレコ(1888~1924)、エドゥアルド・アローラス(1892~1924)の二人が挙げられよう。いずれもバンドネオン奏者であるところが、時代の変化を物語っている。グレコの出世作は「ロドリゲス・ペーニャ」「オホス・ネグロス(黒い瞳)」の2曲(いずれも1910年発表)。リズミカルで古典的な「ロドリゲス・ペーニャ」は割とどんな演奏も似合うが、美しいメロディを持ちスケールの大きな「黒い瞳」は、Cパターン、それもある程度凝ったアレンジの演奏でこそ映える。実際にこの曲は、モダン派の演奏家たちに特に好まれているのである。1911年の「ラ・ビルータ(カンナくず)」、1914年の「ラシング・クルブ(レーシング・クラブ)」は、いずれもアルフレド・ゴビ楽団の名演奏があり、もはや堂々たるタンゴといった印象が強い。一方のアローラスは、「バンドネオンの虎」の異名をとり、1910年代後半に「ラ・カチーラ」「デレーチョ・ビエホ」「エル・マルネ」など傑作の数々を残した大人物。処女作は、1909年の「ウナ・ノーチェ・デ・ガルーファ(酒宴の一夜)」で、アローラス自身の楽団による1913年のレコードが残されているが、既にAパターンよりCパターンの方の比重が大きくなっている。1916年の作品「ラ・ギタリータ」の自作自演盤(1917年録音)になると、もう完全にCパターンのみ。

グレコもアローラスも、30代でその短い命を閉じた。彼らが活躍したのは短い期間だったが、それはタンゴにとって最初の激動期と、見事に重なっていたのだった。この時代のほかのアーティストや作品の解説は、また次回。

タンゴの音楽形式(5) 「タンゴ」その3
(初出:2001年7月4日)

ビセンテ・グレコやエドゥアルド・アローラスに続いて作曲面で1910年代の立役者となったのは、ロベルト・フィルポ(「夜明け」「アルマ・デ・ボエミオ」)やフランシスコ・カナロ(「エル・チャムージョ」「エル・インテルナード」ほか)だったが(「コンフント」その1参照)、ここではもう一人の重要な作曲家であるアグスティン・バルディ(1884~1941)を紹介しておこう。本職は鉄道会社のサラリーマンで、演奏活動はほんの片手間に行った程度のバルディだが、作曲の才に恵まれ、1910年代から20年代にかけて「ティンタ・ベルデ(緑のインク)」「ロレンソ」「ケ・ノーチェ(何という夜)」「C.T.V.(セ・テ・ベ)」「エル・バケアーノ」「ティエリータ」「ラ・ウルティマ・シータ(最後の逢いびき)」「ヌンカ・トゥーボ・ノビオ(恋人もなく)」といった名作を残した。

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タンゴ史上最高の作曲家のひとり、アグスティン・バルディ
オラシオ・サルガンは「ドン・アグスティン・バルディ」を、オスバルド・プグリエーセは「アディオス・バルディ」を作曲し捧げている。

バルディの代表作のひとつに、1917年に発表された「ガジョ・シエゴ(盲目の雄鳥)」がある。この曲の第1部は次の譜例集のパターン〔a〕のような譜割りのモチーフの繰り返しで成り立っている。

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同じ譜割りのパターンは、例えばアローラス(バルディの親友でもあった)が同時期に書いた「レティンティン」や「ラ・ギタリータ」のメロディにも登場するが、バルディの「ガジョ・シエゴ」のほうがパターンが長く繰り返され、よりリズミカルである。この曲のように、メロディライン(あるいはそれ以外の対旋律など)に細かいリズムを構成する要素が内包されている作品が、タンゴには多い。メロディの譜割り〔a〕に対応する「ガジョ・シエゴ」の基本的なリズムは〔c〕と考えていいが、〔d〕や〔e〕への応用も可能である。そして、〔a〕もアクセントの位置を〔b〕のように変えてみると、また違ったビート感が生まれて来る。実際にオスバルド・プグリエーセ楽団による「ガジョ・シエゴ」では、〔b〕のアクセントのイントロが付いている。

さて、1910年代から20年代へと向かうにつれ、作曲家や作品の数も飛躍的に増え、タンゴの楽団演奏は、4分の2拍子から8分の4拍子へと変化していく。1920年代のカナロやフィルポの楽団などの録音を聴くと、譜例〔f〕のような、踏み締めるような4拍子の演奏が主体となっている。ただしそれは、ややもすると一本調子となりがちで、今日の耳には変化に乏しく感じる。そんな20年代において、一早くアレンジの重要性に着目し、メリハリの効いた個性的な音作りを目指したのがフリオ・デ・カロ六重奏団だった。デ・カロは、1曲の演奏の中にいくつものリズムパターンを散りばめた。先に挙げた〔c〕パターンや〔d〕パターンなども、曲の中で効果的に使われている。ちなみに、デ・カロ楽団の演奏で、彼ららしさが特によく出ているのは、優れた作曲家でもあったデ・カロ自身やメンバーたちによる作品の数々である。

時は流れ、個性的なオルケスタ・ティピカの数々が覇を競った1940年代以降、古典から当時の新しいレパートリーに至るまで、さまざまなアレンジが施されるようになり、それだけリズムパターンも多彩になった。基本となる4拍子〔f〕も、20年代の諸楽団に比べると表情は豊かである。オスバルド・プグリエーセが1946年に発表した「ラ・ジュンバ」は、プグリエーセのリズムに対するコンセプトが明快に提示された傑作。最初に耳に飛び込んで来るのは、バンドネオン・セクションを中心に繰り出される1拍3拍の強烈なスタッカートだが、その間を縫うように2拍4拍では、ピアノを弾くプグリエーセの左手が譜例〔g〕のように最低音部の鍵盤に叩き付けられ、ビート感を更に際立たせていた。そのプグリエーセ楽団の主要メンバーたちが楽団を脱退して1968年に結成したセステート・タンゴは、プグリエーセからの影響を明らかにしつつ独自の方向性を打ち出すために、2拍4拍に全体のアクセントを置いた演奏スタイルを打ち出していた。

ほかにもいろいろな例があるが、ちょっと変わったものでは、オラシオ・サルガンとウバルド・デ・リオがキンテート・レアルなどで多用する、シンコペーションの効いた〔h〕パターンがある。これは「ウンパ・ウンパ」と呼ばれるもので、4拍目と次の小節の1拍目とは、スラーで繋がっている。

最後に、アストル・ピアソラが得意とする3+3+2のパターン(譜例〔k〕)について説明しておこう。「アディオス・ノニーノ」や「リベルタンゴ」をはじめとして、多くの曲に登場するこのパターンの元になったのは、譜例〔i〕および〔j〕のパターンである。〔i〕は《「ミロンガ」その2》でご紹介した、セバスティアン・ピアナ作曲の「悲しきミロンガ」(ゆったりしたテンポのミロンガ)などのパターン。また、〔j〕はプグリエーセが1940年代後半に作曲し、ピアソラも1956年に弦楽オーケストラ編成で録音した「ネグラーチャ」などに使われていたパターンである。〔k〕のパターンは、ピアソラ自身の作品では、1948年の「ビジェギータ」に最初に現れ、1951年の実験作「タングアンゴ」(パーカッションを含む編成による録音)で大々的に使われた。以後、このパターンはピアソラのトレードマークのひとつとなり、モダン派のアーティストたちにも流用されている。

2021年2月23日 (火)

CD-4を中心とした4チャンネル・レコードの再生

オーディオの黒歴史とすら言われた4チャンネル・レコードの再生環境づくりが進んでいる。きっかけは、昨年(2020年)10月4日のFacebookへの次の書き込みだった。

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家では4チャンネルを聴ける環境にないのに、「資料だから」と集めているクール・ファイブの4ch盤。それでも、通常のステレオで聴いてもミックス違いが楽しめる曲もある。鳴り物入りでの発売から衰退までが短かった4chだが、ちょうど彼らの全盛期とダブっているので、全部で15タイトルも出ている。先日ようやくここまで揃った。残りはライヴ1種、カヴァー2種だから、彼らのオリジナル曲は一応カヴァーできたことになる。

これを書いた時点では、実際に“4チャンネルを聴ける環境”が作れるとはまったく考えていなかったし、どうすればいいかという知識もなかった。ところが、これに対して「是非、家で4chを聴ける環境にしましょう」とコメントしてきたのが、“4ちゃんねらー”として4チャンネル愛好家に知られる中澤邦明氏であった。躊躇する私に「リアスピーカーは小さいものでもいいと思います。後ろから音を出せる事が重要なので」と畳み掛けられ、心が大きく動いた。もしかしたら実現できるのか?

1970年代前半に登場した4チャンネル・レコードには、大きく分けて2つの方式があった。ひとつは周波数シフト応用のディスクリート(完全分離)方式で、ビクターが開発し商品化したCD-4が代表的なもの。もうひとつは位相シフト応用のマトリクス方式で、サンスイが開発したQSとそこから派生して業界の標準となったRM(レギュラー・マトリクス)、ソニーと米CBSが提唱したSQが中心だが、互換性が確保されながらも微妙に異なる他の方式もある。こうした方式の乱立ぶりとソフトの不揃いさが音楽ファン、オーディオ・ファンの間での混乱を招き、普及を妨げた大きな要因であるとは、広く言われていることである。

SQおよびQS/RM方式のレコードは、通常の2チャンネル・ステレオとしても再生できるが、クール・ファイブはRCAからのリリースだから、4ch盤はCD-4方式である。ステレオ再生は可能だが盤がダメージを受けやすく、あまり勧められるものではない(詳しくは後述)。中澤さんがまず教えてくれたのは、CD-4の再生には何が必要で、それを入手するにはどうすればいいかということだった。

CD-4は、左右それぞれのチャンネルの可聴帯域(20Hz~15kHz)にフロント+リアの和信号、可聴帯域外である30kHzのキャリア(搬送波)にFM変調された差信号が記録されているため、その帯域以上を読み取れる特殊なレコード針(シバタ針またはラインコンタクト針)を備えたカートリッジと、そこからの信号をフォノイコライザー機能も兼ねながら4チャンネル分の信号に復調して出力するディスク・ディモジュレーターが必要だ。対応するMM型カートリッジは、当時ビクターが開発し主力商品としたMD-1016の中古が比較的出回っているのでそれを入手できればよく、針に関してはビクターの4ch用シバタ針4DT-1Xと同等品のJICO 30-1Xが今でも新品として買えるということだった。

問題はディモジュレーターの方だが、中澤さんから思いがけない情報が得られた。多くはジャンク品としてオークションに出品されているディモジュレーターや4chアンプなど1970年代当時の機器を落札しては修理・調整してしまうという奇特な方と知り合いになり、中澤さんにとって“4chの師匠”だというそのAさんに、周囲で4chに興味を持った人を既に何人も紹介しているというのだ。機器の良し悪しも修理に関しても皆目見当がつかないこちらとしては、これ程ありがたい話はない。早速問い合わせてもらうと、修理済みのビクターのディモジュレーターCD4-30(1972年秋の発売。ちなみに海外でのブランドと品番はJVC 4DD-5)が1台あるという。これを適価で譲って頂けることになった。

さて、入り口の方はわかったが、出口まで、つまりアンプとスピーカーをどうするか。予算やスペースの問題もあり、往年の4chアンプもしくは現在普及している5.1chのAVシステムを導入して、システムを肥大化させるつもりはなかった。現在のオーディオシステムをそのままフロント部として使い、簡易的なリア部をそこに組み込んでしまえばいいと考えたわけで、ヒントになったのは、先に紹介した中澤さんの「リアスピーカーは小さいものでもいいと思います」の一言だった。当初4chなんて無理と思っていたのは、リアスピーカーなんて置く場所もないと考えていたからだが、卓上タイプの小さいものなら、可動式CDラックの上に置けそうだ。もともと部屋のオーディオはニアフィールド・リスニング用のセッティングだから、スピーカーは隅に置くのではなく、中央寄りに小ぢんまりと置けばいいのではないか。ということでアンプ内蔵のパワードモニタースピーカーで手軽な物はないかなと検討し、TASCAMのVL-S3に決定。実売9,000円程度だが、メルカリで6,000円で買えた。

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CD4-30をAさんのところに引き取りに行く1週間ほど前にVL-S3が届いたので、パソコンからの4ch再生を先に始めることになった。パソコンからの再生については、パソコンとオーディオを繋いでデジタル⇔アナログ変換を担うオーディオ・インターフェイスとしてRMEのBabyfaceを使っていたのが、結果的に大変役に立った。調べてみると、パソコン上のBabyface用オーディオミキサーTotalMix Fxで、パソコンで再生したDVDやブルーレイの5.1chを4.0チャンネルにダウンミックスすることが可能だった。そしてBabyfaceのアナログ側のステレオ入出力ケーブルはオーディオ・アンプのテープ入出力端子と繋いでいるのだが、それとは別にリアの音声をヘッドホン端子から取り出せることがわかった。前後のヴォリュームは別々に調整しなければならないが、分けて出せればとりあえずOK。

また、SQ/QSデコーダーがなくても、パソコンに取り込んだマトリクス音源(エンコードされたものであれば、ソースはLPでもCDでもYouTubeでも良い)のWAVファイルをデコードソフトを使って4ch化できることもわかった。これを実践するにあたり、尾上祐一さんのブログ記事『昔あった4チャンネル・ステレオ・レコードを聴く』が大変参考になった。4chレコードで一番流通量が多いのがCBS・ソニーのSQ盤だが、手持ちは多くないので、このやり方で今のところ間に合っている。

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そして10月29日、念願のCD4-30をAさんの事務所から持ち帰ってセッティング。Facebookには翌日このように報告した。

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昨日、調整済みのビクターのCD-4ディモジュレーター、CD4-30が我が家にやってきた(CD-4は、日本ビクターが開発したディスクリート方式4チャンネル・レコード)。準備しておいたCD-4用カートリッジ(MD-1016+JICOの新品シバタ針30-1X)をセットし、セパレーション調整を行い、ついに再生環境が整った。その2日前までには、ビクターが1972年から75年にかけて国内向けに制作したタンゴの4チャンネル・レコード、それも状態の良いもの9点が一気に揃えられたのも嬉しかった。ということで我が家でのCD-4リスニングはこの25枚(+テスト・レコード1枚)からスタート。

かくしてCD-4の再生環境が整ったのだが、いろいろと気になることも出てきた。一番厄介だったのは、特に内周部のレベルの高い部分に頻繁に付帯するバリバリという非常に耳障りなノイズだ。CD-4盤は高周波数帯まで再生する必要もあり、線速度が遅くなるだけでもノイズの影響を受けやすく、キャリアの読み取り精度も落ちることから、内周の送り溝の部分は通常のレコードよりも幅を広くしてある。

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それでも中古のCD-4盤には、見た目は奇麗でも実際に4チャンネル再生すると酷いノイズを発生する盤も多いと聞いていた。専用ではない一般のカートリッジを使い、針先の形状と針圧が適切でなかった場合にダメージを受けやすいというのが主な原因のようだ。

本来CD-4盤の再生には、専用のカートリッジを使用しなければならないはずだった。Aさんがディモジュレーターのおまけに付けてくれた調整用テスト・レコードには「このレコードは、CD-4用カートリッジで再生して下さい。従来のステレオ用カートリッジでこのレコードを演奏しますとレコードを痛めますので絶対に御使用にならぬようお願い致します(針圧は2.0g以下で演奏して下さい)」との注意書きがあった。だが実際に商品として販売されたものには「このレコードを従来のステレオ装置にかけますと、2チャンネル・ステレオとしてお楽しみいただけます」と書かれた下に小さく「将来、4チャンネルでお聞きになる場合も考えて、できるだけ針圧の軽いピック・アップをご使用ください」と遠慮がちに書いてあり、米RCAのquadradisc(CD-4の商標)にも"THIS COMPATIBLE STEREO / 4-CHANNEL RECORD is designed for performance on stereo or discrete CD-4 quadraphonic systems"と書いてあった。恐らくは間口を広げないとなかなか売上げに結びつかないという事情が背景にあったのではないかと推察される。

もともと4chは定位が不明確になりがちだが、もうひとつ気になったのが、フロント左右の音量差。どうも右が弱いので、ヴォーカルがセンターに定位せず左に寄ってしまい(リアは問題なし)、原因もこの時はわからないまま。先のノイズの発生率の高さ、スクラッチノイズがやたら増幅される点などとも相まって、落ち着いて音楽に没頭できる雰囲気ではなくなり、段々と聴く機会も減っていってしまった。

そんな折の12月下旬、またも中澤さん経由でAさんから驚くべき情報がもたらされた。要約すると、私も入手したCD4-30はビクターのディモジュレーターの中でも第2世代に当たり、普及率は高かったが耐ノイズ性能にはまだ問題があったという。1975年に登場した第3世代ディモジュレーター用のCD4-392というICチップでは大幅な改善がみられたが、既にCD-4の衰退期にあたり、これが使われた機器はほとんど普及せず、あっても非常に高価である。Aさんは、たまたま入手した「名もない4チャンネルレシーバー」にそのICチップを載せた基板が使われているのを発見し、手持ちのCD4-10(CD4-30と同世代の上位機)を改造してその基板を移植してみたところ、ノイズが酷くて死蔵していたレコードや、内周付近でノイズが目立っていたレコードが「全くノイズを発生することなく再生可能となった」というのである。

この話に私も色めき立ったが、かといってどうすることもできない。私なりに調べてみたところ、そのICを載せた基板が使われた機種はいくつか特定できたが、いずれもサンスイやアカイといった国産メーカー製ながら、海外市場向けで日本国内では販売されておらず、eBayなどに出ていても高価である。海外(主に米国)向けということは、向こうの方が4ch衰退の速度が緩やかだったということだろう。

中澤さんが年末から年始にかけて、Aさんが改造したそのCD4-10を自宅で試聴しレポートされていたが、その中で気になったのが「カートリッジをオルトフォンMC-3 Turboに交換する事でもノイズをかなり減らす事が出来ました」と書かれた部分。中澤さんは、ファインライン針(=ラインコンタクト針)付きでフォノイコライザーのMM入力に直結できる高出力MCカートリッジであるMC-3 Turbo(海外では1997年、国内では1999年発売)を、安くなっていたから4ch用ではない普段聴き用のカートリッジとして買ったのに、再生周波数帯域20Hz~30kHzというスペックをみてCD-4を再生できるのではないかと思い、試してみたところ問題なく再生できてしまった、という話だった(これは昨年11月の話)。だが、改造版CD4-10との相乗効果の話としては、この時点では私はまだディモジュレーターの改造による改善の方に気を取られていたのだった。だから、1月24日の時点で中澤さんの「残念ながら、MC-3 Turboは生産終了だそうです」という書き込みを目にした時も、そうか、ぐらいにしか思わなかった。

それが一変するのは、2月13日のこと。中澤さんが、生産終了になったMC-3 Turboが某ショップの通販で61%引きの17,800円で売られている、在庫処分だろうから買うなら今のうちだと教えてくれたのだ。書き込みがあったのが午前3時前。朝その情報を見た私が「通常の第2世代ディモジュレーターではビクターのカートリッジと比較してどうですか?」と質問したところ、「私はこちらの方が良いと思いました。なんと言っても、経年劣化に怯えなくてもいいというのが利点です」との答え。これはもう買うしかあるまい。11時過ぎに注文を済ませ、18時にはもう販売は終了していた。危なかった。

翌2月14日、商品が無事到着。早速余っていたオーディオテクニカのヘッドシェルに取り付けて音出し。いきなり衝撃を受けて、思わずFacebookの4チャンネルのグループにこう書き込んだ。

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いやこれ凄い! まだ聴き始めたばかりですが、音がクッキリして空間表現力に優れ、ノイズが激減しました。
思うに、私の買ったMD-1016+4DT-1Xは明らかに問題があったような気がします。

あれほど悩まされていた嫌なノイズが、100%とは言わないが90%以上消えたのだから、驚くやら嬉しいやら。これがディスクリート4チャンネルの世界かと、その表現に初めて納得がいった。第3世代ディモジュレーター用のICチップに頼らずとも、ここまで再生できれば何の文句もない。MC-3 Turboと完璧に調整されたCD4-30との組み合わせは、実に強力だったのだ。MD-1016の方は、往年の名器とはいえ、個体差はあるだろうが少なくとも私の入手したものに限って言えば、さすがに経年劣化はかなりのものだったようだ。

そして、これは私一人の感想ではなかった。私にとって4ch再生では中澤さん同様先輩にあたるKさんも同時にMC-3 Turboを購入され、「こ、これは凄い!ノイズ感ゼロで、低域もふくよか。もう4MD-1Xに戻れない!」「なんと今までのビクターのカートリッジと比べようもないノイズと歪み感のないすばらしい4チャンネル再生。コレクション、全部聴き直します!」とFacebookにコメントされたのである。ちなみに4MD-1Xというのは、当時MD-1016と4DT-1Xとのセット販売の際に付けられた品番。

さて、このように高いポテンシャルをいきなり発揮したMC-3 Turboだが、4ch再生についての評価をネットで探してみても、何も見つからなかった。見つけたと思ったら、どれも中澤さんが書かれたと思われるものばかりだった。もちろんオルトフォンはこのカートリッジをCD-4再生可能という名目で売っていたわけではない。中澤さんも偶然発見したわけだが、今まで本当に、誰一人としてそのことに気付かなかったのだろうか。

もっともこれは日本国内での話。海外のフォーラム quadraphonicquad.com を覗いてみてもMC-3 Turboの名前を挙げていたのは見つけた限りではオルトフォンの米国でのディーラーだという一人だけだったが(書き込みはこちら)、海外の根強いCD-4ユーザーの間では、オルトフォンのMC(例えばMC20 Super)を含めた様々なカートリッジが使われていることがわかった。原則的にシバタ針かラインコンタクト針のものに限るのは自明として、使用例が報告されているカートリッジの中には周波数帯域の上限が30kHzに満たないものも含まれているのだが、これについてはある人が、カタログに載っているスペックは最低保証で実際にはそれ以上の対応能力があるので、30kHzのキャリア信号も大抵読み取れると書いていた。むしろMCおよび組み合わせる昇圧トランスからの出力レベルが高すぎたり低かったり、トランス不要の高出力MCが実際にはディモジュレーター側から見て必要なレベルに満たないことなどにより、うまく動作しないこともあるとのことだ。そこでのいくつかの情報から拾い出すと、現行のMMカートリッジの中では、オルトフォンの2M Bronze(無垢ファインライン針、20Hz~29kHz)、オーディオテクニカのVM750SH(無垢シバタ針、20Hz~27kHz)あたりがCD-4の再生に対応できそうだ。テクニカはMCカートリッジのAT33シリーズをずっとメインで使ってきたので、VM750SHもいつかは試してみたいものだが、当面はMC-3 Turboをじっくりと味わっていきたい。CD4-30をフォノイコとしての通常のステレオ盤再生もいい感じなので。

2021年2月17日 (水)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その3 タンゴの音楽形式~ミロンガ

旧サイト「tangodelic!」に連載していた記事「タンゴ入門講座」再掲載の第3回(元の連載の第9~10回分)。今回から3回に分けて、タンゴの音楽形式を紹介する。今回はミロンガで、この後タンゴ、ワルツとカンドンベその他と続く。

タンゴの音楽形式(1) 「ミロンガ」その1
(初出:2001年6月6日)

「ミロンガ」という言葉はタンゴで頻繁に使われるが、その意味はひとつではないので、整理しておく必要がある。ただし、それら複数の意味も裏では繋がっていると言えなくもない。一つ目は音楽形式としてのミロンガ。これは本稿のメイン・テーマであり、後で詳しく説明する。二つ目は、いわゆるダンスホールを指す言葉。「今日はミロンガに(タンゴを)踊りにいこう」といった感じで使われる。

そしてこれが重要なのだが、三つ目は、気分としてのミロンガというか、ある種の演奏傾向を指す。つまり、力強くはっきりしたリズムのタンゴの演奏に対して使われる言葉であり、具体的にはピアノの低音部の強調などにその傾向が現れる。もともとは1910年代にフランシスコ・カナロがリズムを強調したタンゴのことを「タンゴ・ミロンガ」と呼んだのが始まりだと思われるが、今日では、ピアノの低音部を強調した1940年代頃のオルケスタ・ティピカ、例えばカルロス・ディ・サルリ、オスバルド・プグリエーセ、アルフレド・ゴビらに対して「ミロンゲーロ(ミロンガ的な人、もの)である」といった形容がなされることが多い。ミロンゲーロの象徴的な存在といえば、アニバル・トロイロ楽団の初代ピアニスト、オルランド・ゴニがまず思い浮かぶ。1941年にトロイロ楽団(もちろんピアノはゴニ)が初演して、作曲者アルマンド・ポンティエルの出世作となった「ミロンゲアンド・エン・エル・40(クアレンタ)」には、「華麗なる40年代」とか「1940年代のミロンガ」といった邦題が付けられているが、直訳すれば「40年代にミロンガしながら」といった感じになるだろうか。

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タンゴ界きってのミロンゲーロ、オルランド・ゴニ(1914~1945)
僅か31歳で夭折したのが惜しまれる。

それでは、本題に入ろう。音楽形式としてのミロンガは、4分の2拍子のリズムで成り立っている。そしてそのリズムは、キューバからヨーロッパ経由で伝えられたハバネラ(フランスのビゼエの歌劇『カルメン』に流用されたスペインのイラディエル作「ラ・パロマ」などが有名)や、スペインのアンダルシア地方から伝えられたタンゴ(フラメンコの中の一形式)と同じである。簡単に音符で表すと、次のようになる。

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ミロンガの起源は、だいたい1870年頃まで遡る。ブエノスアイレス周辺のパンパ(大草原)のバジャドール(吟遊詩人)が、ギターを鳴らしながら即興的に歌う音楽形式のひとつとして、この頃ミロンガが流行していたのである。パジャドールが歌うミロンガはブエノスアイレスやモンテビデオ(ウルグアイの首都。ブエノスアイレスとはラ・プラタ川を挟んで対岸に位置する)の場末に伝えられて、ダンス音楽として徐々に発展していく。同じリズムを持ったハバネラやスペインのタンゴやミロンガは、ほかの様々な要素と混ざりながら、19世紀の終りまでには“タンゴ”という一つの名のもとに集約されていく。その詳しい経緯については「タンゴ」の項に譲るが、そんなタンゴの前身としてのミロンガは、タンゴに吸収合併(?)されて、その役割を一旦終えるのである。

1900年代から1910年代前半にかけての(形式名としての)タンゴは、曲にもよるが、まだミロンガ的なシンコペーションを含んだ4分の2拍子のものが多かった(例えば1903年のアンヘル・ビジョルド作「エル・チョクロ」)。それが、1915年頃を境に8分の4拍子へと変化して行く。前身であるミロンガの痕跡は、どんどん薄れていき、タンゴの第1次黄金時代と言われる1920年代には、ミロンガはほとんど忘れられた存在だった。ミロンガが劇的な復活を遂げるには、1930年代の到来まで待たなければならなかったのである。

タンゴの音楽形式(2) 「ミロンガ」その2
(初出:2001年6月13日)

忘れられた存在だったミロンガを復活させたのは、ピアニストで作曲家のセバスティアン・ピアナ(1903~1994)だった。ピアナは1931年、作詞のオメロ・マンシ(1907~1951)と組んで「ミロンガ・センティメンタル」を発表する。このミロンガは、かつての素朴な形のものではなく、音楽的に洗練された新しいものだった。またこの作品はマンシにとっても出世作となった。後年の「スール」などで高い評価を得る彼も、当時はまだ駆け出しの新人だったのである。「ミロンガ・センティメンタル」は、翌年ペドロ・マフィアの大編成オルケスタが演奏してから評判となり、多くの歌手や楽団が取り上げる人気曲となった。ピアナ=マンシのコンビは続いて「1900年のミロンガ(ミロンガ・デル・ノベシエントス)」を発表。この2曲はテンポの早いミロンガだが、ピアナ=マンシのもうひとつの傑作ミロンガである「悲しきミロンガ(ミロンガ・トリステ)」はタイプが異なり、ゆったりとしたテンポで牧歌的な香りを漂わせている。かつてパジャドールたちが歌った草原のミロンガは、タンゴとフォルクローレ(民謡)に枝分かれしていったわけだが、フォルクローレの分野でもアタウアルパ・ユパンキらによって、音楽的にはシンプルながら文学性を備えた新しい形に生まれ変わりつつあった。「悲しきミロンガ」には、そうしたフォルクローレ界の新しい動きからの影響も反映されていたのである。

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ミロンガ復興の功労者、セバスティアン・ピアナ(1937年)

1930年代のミロンガというと、「ラ・プニャラーダ」(邦題は「ナイフで一突き」または「刃物さわぎ」)をめぐるエピソードが面白い。ウルグアイのピアニスト、ピンティン・カステジャーノス(1905~1983)は1933年、この曲をタンゴ・ミロンゴンという形式名で発表した。これは前回ご紹介したタンゴ・ミロンガ(昔風の力強いリズムのタンゴ)を更に強調した言い方らしい。発表して3年後の1936年、カステジャーノスがモンテビデオを訪れたフアン・ダリエンソにこの曲を聴かせたところ、ダリエンソ楽団のピアニスト、ロドルフォ・ビアジがミロンガにアレンジし直して楽団のレパートリーとしたのである。37年4月に録音されたダリエンソ楽団の「ラ・ブニャラーダ」は大ヒットし、それ以降この曲はミロンガの定番のひとつとなった。なお、フランシスコ・カナロ楽団は1937年6月にこの曲をもとのタンゴのまま演奏しているが、何とも間の抜けた感じで、全く面白くない。

それでは、1930年代以降に書かれたミロンガから、現在までよく演奏される代表的な作品をいくつか挙げてみよう。

 わが愛のミロンガ(ミロンガ・デ・ミス・アモーレス)(ペドロ・ラウレンス作曲、1937年発表)
 マノ・ブラバ(すご腕)(マヌエル・ブソン作曲、1940年頃)
 ラ・トランペーラ(うそつき女)(アニバル・トロイロ作曲、1950年)
 タキート・ミリタール(軍靴の響き)(マリアーノ・モーレス作曲、1952年)
 コラレーラ(アンセルモ・アイエータ、1950年代半ば)
 エル・フィルレーテ(マリアーノ・モーレス作曲、1950年代後半)
 ノクトゥルナ(フリアン・プラサ作曲、1959年)

いま挙げたのは、すべてテンポの早いミロンガである。「悲しきミロンガ」のようなゆったりしたものは、作品の数自体が少ない。その一方で、例えばユパンキ作「牛車にゆられて(ロス・エヘス・デ・ミ・カレータ)」のように、フォルクローレのミロンガをタンゴ楽団がレパートリーに加える場合もある。こうした作品は、タンゴに於けるミロンガと区別するために、ミロンガ・カンペーラ(田園のミロンガ)とかミロンガ・パンペアーナ(パンパのミロンガ)などと呼ばれたりする。

オスバルド・プグリエーセ楽団のバンドネオン奏者、オスバルド・ルジェーロが作曲し、1962年に同楽団が録音した「ボルドネオ・イ・900(ノベシエントス)」は、テンポの遅い部分と早い部分とで構成される、かなり凝った作りのミロンガである。タイトルのボルドネオとは、かつてのミロンガの土台をなした、ギターの低音弦のこと。900は1900年を指す。様々な要素を複合的に絡ませたこの作品の芸術的価値は高い。最後に、ミロンガといえばピアソラ作品も忘れてはならないが、ピアソラはテンポの早い一般的なイメージのミロンガは1曲も書いていない。「天使のミロンガ」「悪魔のロマンス」「ミロンガ・フォー・スリー」といった代表的なミロンガは、どれもテンポが遅い。かといってフォルクローレ的な雰囲気を漂わせているわけでもなく、これはピアソラ独自の表現というべきだろう。

2021年2月13日 (土)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その2 タンゴの楽団編成~コンフント/グラン・オルケスタ

旧サイト「tangodelic!」に連載していた旧記事「タンゴ入門講座」再掲載の第2回。今回は第4回から第7回まで4回に分けて掲載した「コンフント」と、第8回に掲載した「グラン・オルケスタ」をまとめて紹介する。

タンゴの楽団編成(4) 「コンフント」その1
(初出:2001年5月2日)

“コンフント”というのは、スペイン語でバンドとか楽団といった意味。同じく楽団を意味する“オルケスタ”よりも小編成のものを指すことが多いが、はっきりと人数で線引き出来るわけではない。フリオ・デ・カロ型の六重奏団をオルケスタと呼んでもかまわないわけだし、アストル・ピアソラの九重奏団の名称は“コンフント9(ヌエベ)”である。まあ、二重奏から五重奏ぐらいまでは明らかにコンフントと呼ぶべきだろう。六重奏以上の編成は、楽器の組み合わせや音楽性などから判断して、オルケスタの小規模なものか、コンフントの大きめのものか、という分け方をすればいいのではないかと思う。

オルケスタ・ティピカ誕生以前の話をしておくと、だいたい1890年代から1900年代にかけてのタンゴは非常に素朴なもので、主にメロディを奏でるヴァイオリン、リズムを刻むギター、メロディを装飾するフルートという感じでトリオで演奏されることが多かった。このほかにはハープやマンドリン、アコーディオンなどが使われることもあったらしい。ヴァイオリン、ギター、フルートの編成にバンドネオンが加わって四重奏になるのはだいたい1910年頃で、それ以降バンドネオンはタンゴの演奏に欠かせない楽器になっていく。ピアノは当時は高級品で、この頃まではほとんどソロでしか演奏されることはなかった。ピアノ入りの楽団の登場は、1913年にピアノ奏者ロベルト・フィルポが楽団(当初はバンドネオン、ヴァイオリンとのトリオだったが、すぐに編成は大きくなっていった)を率いてデビューするまで待たなければならなかった。こうした、タンゴ黎明期の小編成楽団は、オルケスタ・ティピカが生まれるまでの過渡期的な存在といえる。今回ご紹介するのは、ティピカが一般的となってから登場したさまざまな形のコンフントについて、である。

ティピカ全盛期のコンフントで最も有名なものは、ロベルト・フィルポ四重奏団と、フランシスコ・カナロ率いるピリンチョ五重奏団である。先程名前を挙げたばかりのフィルポが再び登場したことにお気付きだろうか。フィルポは1884年、カナロは1888年生まれ。つまり二人は同年代で、共に1900年代半ばから演奏活動を始め、1910年代には楽団を率いて第一線で活躍するようになった、いわば好敵手である。二人は徐々に大型化するオルケスタ・ティピカを率いて活躍を続けていたが、1930年代半ば、相次いでコンフントを結成して演奏活動を開始する。フィルポの四重奏団はバンドネオン、ピアノ、ヴァイオリン×2という編成、ピリンチョ五重奏団はこれにコントラバスを加えた編成である。いずれもコンセプトは明解で、タンゴの行き詰まりを打破すべく、古典(具体的には1910~20年代の作品および演奏スタイル)の完全復興を目指したものだった。演奏技術は格段に進歩していたが(特にバンドネオン)、音楽的には特に新しいものを生み出したわけではない。

今日に繋がるコンフントの最初のものは、トロイロ=グレラ四重奏団である。アニバル・トロイロは1953年、タンゴの歴史を回顧した音楽劇『モローチャの中庭』を上演した。トロイロはオルケスタ・ティピカにハープや木管楽器、金管楽器まで加えた大編成の楽団(ピアソラが編曲を担当)を率いて舞台に立ったが、その中で古典タンゴを象徴する役回りとして、トロイロのバンドネオンとロベルト・グレラのギターをメインに、第2ギターとコントラバスを加えた四重奏団の演奏場面が設定された。ただし、素材は古典であっても、その解釈の仕方が、フィルポやピリンチョのように脱古典のベクトルを持たないものとは根本的に異なっていた。つまり、トロイロ=グレラの演奏には、アンサンブルにおける楽器の生かし方の斬新さなどのモダンな感覚が、自然な形で現れていたのである。結局この四重奏は大きな人気を呼び、劇の終了後も演奏活動を続けることになった。

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トロイロ=グレラ四重奏団
左からロベルト・グレラ(ギター)、エクトル・アジャラ(第2ギター)、アニバル・トロイロ(バンドネオン)、キチョ・ディアス(コントラバス)。

タンゴの楽団編成(5) 「コンフント」その2
(初出:2001年5月9日)

小編成のもっとも規模が小さいものはドゥオ(スペイン語で二重奏。英語ではデュオ)だが、これは気心の知れたミュージシャン二人がその気になれば、原則的にはどんな組み合わせも可能だろう。演奏者自身の楽しみや余興の範囲に留まったものが多いため、意外に残されたレコードは少ないのだが、昔から随分いろいろなコンビが存在した。バンドネオン×2(ペドロ・マフィアとペドロ・ラウレンスなど)、ギター×2(ラス・ギターラス・デ・オロなど)、ピアノ×2(オスバルド・ベリンジェリとオスバルド・タランティーノなど)のように同じ楽器の組み合わせもあるし、バンドネオン+ギター、バンドネオン+ピアノ、ヴァイオリン+ピアノ、ピアノ+ギターといった比較的オーソドックスなものから、ヴァイオリン+オルガンとか、ヴァイオリン+コントラバスのように風変わりなものまで実に多彩である。

コンフントの基本といえば、やはりトリオ(三重奏。スペイン語も英語も同じ)だろう。タンゴのトリオ編成というと、現代ではバンドネオン、ピアノ、コントラバスの組み合わせがまず思い浮かぶが、これはそれほど歴史のある編成ではない。正確な記録がないが、ウルグアイのピアノ奏者セサル・サニョーリが、ブエノスアイレスでのいくつかのオルケスタ・ティピカでの演奏活動を終えて帰国した1954年にバンドネオンのルイス・ディ・マテオらと組んだトリオが、恐らく最初ではないかと思われる。レパートリーは古典曲が中心で、特にモダンな指向を持っていたわけではないサニョーリ・トリオだが、がっしりと骨太で重心の低い演奏は、それまでの古典指向のコンフントのそれとは明らかに異なっていた。

Zagnoli
トリオを率いてモンテビデオ大学で演奏するセサル・サニョーリ(1961年)
ピアノの向こう側、横顔が見えるのがルイス・ディ・マテオ(バンドネオン)。

その後ブエノスアイレスでもこの編成のトリオがいくつも登場するようになったが、技術的にも音楽的にも特に秀でていたのは、1970年に結成されたトリオ・フェデリコ=ベリンジェリだろう。バンドネオン奏者の最高峰に位置するレオポルド・フェデリコ、トロイロ楽団出身でジャズの素養もあるテクニシャンのオスバルド・ベリンジェリにコントラバスのフェルナンド・カバルコスという顔合わせのこのトリオによる凄みのある演奏は、この編成でどこまで音楽的に豊かになれるかという実験のようでもあった。また、演奏と編曲の両面における斬新さという点では、やはり70年代に活躍したバングアトリオ(オマール・バレンテp、ネストル・マルコーニbn、エクトル・コンソーレb)も忘れ難いし、ピアソラ以降のモダンな感覚を追求したトリオとして、モサリーニ=ベイテルマン=カラティーニ(80年代にパリを拠点に活躍)の存在も重要である。

バンドネオン+ピアノ+コントラバス以外にも、バンドネオン+ギター×2(シリアコ・オルティス・トリオ、このトリオは歴史が古い)、バンドネオン+ギター+コントラバス(エドゥアルド・ロビーラ・トリオ)、ピアノ+ギター+コントラバス(タンゴスール・トリオ)、ピアノ+ヴァイオリン+コントラバス(エル・タンゴ・ビーボ+近藤久美子)など様々な組み合わせのトリオが存在するが、どれもあまり一般的とは言えないだろう。

クアルテート(四重奏。英語でクァルテット)となると、組み合わせのパターンは更に増えるが、バンドネオン+ピアノ+コントラバスのトリオにもう1つの楽器が加わるパターンが多い。やはり特に多いのはヴァイオリンが加わった編成で(つまりこれでオルケスタ・ティピカを構成する最低限の楽器が揃う)、エストレージャス・デル・タンゴやレイナルド・ニチェーレ四重奏団などが代表格。また、エレキ・ギターが加わったものとしては、アニバル・トロイロ四重奏団(前回ご紹介したトロイロ=グレラ四重奏団とは別物)などがある。トロイロ=グレラ四重奏団のようにバンドネオン+ギター×2(もしくはギターとギタロン〔大型の低音ギター〕)+コントラバスという編成(フェデリコ=グレラ四重奏団など)もあれば、フルートやチェロなどが加わったものもありと、やはり例を挙げていったらキリがない。また、クラシックの弦楽4重奏と同じヴァイオリン×2+ヴィオラ+チェロという編成の、プリメール・クアルテート・デ・カマラ・デル・タンゴというグループもあった。

タンゴの楽団編成(6) 「コンフント」その3
(初出:2001年5月16日)

最近のタンゴ・ファンに最も親しまれているコンフントと言えば、やはりアストル・ピアソラ五重奏団(五重奏団はスペイン語でキンテート、英語ではクィンテット)にとどめを刺すだろう。いくつものアンサンブルを作っては壊したピアソラにとって、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、エレキ・ギター、コントラバスという五重奏団(1960年結成)は最も理想的な編成となり、長い期間にわたって安定した活動を続けることになった。ピアソラは五重奏団結成後も、八重奏団(ヌエボ・オクテート、1963年)や九重奏団(コンフント・ヌエベ、1971~72年)など、より編成の大きなコンフントを率いての活動も行っているが、これは五重奏団に楽器を増やしたものである。逆に五重奏より少ない編成では活動することはなかった。このことからも、五重奏がピアソラにとっての基本だったことが判る。

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アストル・ピアソラ五重奏団(1966年頃)
(左から)オスバルド・タランティーノ(ピアノ)、アントニオ・アグリ(ヴァイオリン)、アストル・ピアソラ(バンドネオン)、キチョ・ディアス(コントラバス)、オスカル・ロペス・ルイス(エレキ・ギター)。

ピアソラ五重奏団の登場以降、ピアソラの後を追って、いくつもの同じ編成の五重奏団が登場し、今日に至っている。最近のものでは、モサリーニ=アントニオ・アグリ五重奏団(ギターはエレキではなくアコースティック)や小松亮太&ザ・タンギスツ(彼らも自由自在にその編成を変えるが、やはり基本は五重奏にあると見るべきだろう)などがお馴染みだろう。だが、この編成の五重奏は、ピアソラが最初に始めたわけではなかった。ピアソラ五重奏団の結成に先立つ1年前の1959年に誕生したキンテート・レアルが、その先駆である。

同じ編成といっても、キンテート・レアルとピアソラ五重奏団とでは、その音楽的構造がかなり異なるのが面白い。そもそもキンテート・レアルは、オラシオ・サルガン(ピアノ)とウバルド・デ・リオ(エレキ・ギター)のデュオをベースに生まれたグループなので、五重奏になっても、あくまでもサウンドの要はピアノとギター。そこに他の楽器が絡んで来る感じで、例えばバンドネオンはさほど前面に出て来る感じではない。一方ピアソラ五重奏団は、バンドネオンを中心に各楽器が自己主張し合い、緊張感を保ちながら演奏を展開していくが、その中でギターだけは縁の下の力持ち的な役割を担っている。

これまでにご紹介して来たように、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバスはいずれもオルケスタ・ティピカ以来使われてきた基本的な楽器だが、エレキ・ギターはそうではない。ピアソラが1955年にブエノスアイレス八重奏団を結成した時に初めて導入され(奏者はオラシオ・マルビチーノ)、物議をかもしたのがこの楽器。ピアソラによる伝統破壊の象徴とすらみなされたのである。だが、「すべて異なる楽器の五重奏」によるアンサンブルを組み立てる上で、エレキ・ギターが極めて有効に機能することを、ピアソラやサルガンは証明してみせた。この編成は、コンフントの一つの理想とすら言えるだろう。ただ、サルガンもピアソラも類稀な個性の持ち主であるが故に、この編成による五重奏の新たな在り方を提示できる才能がその後現れていないのも、また事実である。

彼ら以外の編成というと、やはり第4回で紹介したピリンチョ五重奏団のような、バンドネオン+ヴァイオリン×2+ピアノ+コントラバスという古典的な編成のものが多いが、それ以外にもヴァイオリンではなくバンドネオンが2台のもの(キンテート・グローリアなど)、フルートなどが加わった古典復興傾向のもの、弦楽器のみのもの(キンテート・アルヘンティーノ・デ・クエルダス)など、様々なタイプの五重奏団が存在する。

タンゴの楽団編成(7) 「コンフント」その4
(初出:2001年5月23日)

これまでドゥオ(二重奏)、トリオ(三重奏)、クアルテート(四重奏)、キンテート(五重奏)とご紹介して来たが、セステート(六重奏、英語ではセクステット)になると、様子が変わって来る。様々な種類の楽器の組み合わせによるものは少なく、多くの六重奏がバンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ピアノ、コントラバスという編成に落ち着くのである。つまりそれは、《「オルケスタ・ティピカ」その1》でご紹介した、1920年代のフリオ・デ・カロ楽団(六重奏団)と同じ編成ということである。そのデ・カロ自身の楽団をはじめとして、オルケスタ・ティピカ編成が大型化していった1930年代以降も、この編成の楽団は実際に存在していたのだが(例えばピアソラに多大な影響を与えたエルビーノ・バルダロ六重奏団など)、ここでは比較的新しい時代のものに話をしぼることにしよう。

この編成の楽団で特に有名なのが、セステート・タンゴ(1968年結成)とセステート・マジョール(1973年結成)の二つである。オスバルド・プグリエーセ楽団の主力メンバーたち(オスバルド・ルジェーロ、ビクトル・ラバジェン、フリアン・プラサ、エミリオ・バルカルセほか)が独立して作ったセステート・タンゴは、プグリエーセ譲りの豪快さと緻密さが交錯する音作りに定評があった。一方、バンドネオンのホセ・リベルテーラとルイス・スタソを中心に結成されたセステート・マジョールは、現代的な感覚をエンターテインメント性豊かにアピールすることで、幅広い人気を獲得してきた。彼らに共通していたのは、演奏と編曲の両面で特に優れた技術を持ったメンバーが集まっていたことで(両方とも、特にリーダーは定めていない)、たった6人でもかつてのオルケスタ・ティピカに匹敵する、重厚で迫力あるサウンドを奏でることができることを証明してみせたのである。つまり彼らは、コンフントというよりもむしろ、オルケスタ・ティピカの縮小現代版と呼ぶ方がふさわしく、実際にこの編成であればオルケスタと名乗ることが多い。

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セステート・マジョール(1980年頃)
(左から)ホセ・リベルテーラ(バンドネオン)、オスカル・パレルモ(ピアノ)、ルイス・スタソ(バンドネオン)、キチョ・ディアス(コントラバス)、マウリシオ・ミセ(ヴァイオリン)、マリオ・アブラモビッチ(ヴァイオリン)。

現在活躍中のこの編成の楽団には、セステート・スール(音楽的にはちょっと納得できないが)、オランダのセステート・カンジェンゲなどがある。また、この編成にキーボードを加えたオルケスタ・コロール・タンゴや、エレキ・ギターを加えたオルケスタ・エル・アランケは、いずれも七重奏団(スペイン語でセプティミノもしくはセプテート)ではあるが同じ流れに属するものと考えて構わない。コロール・タンゴは、セステート・タンゴ同様にプグリエーセの流れを汲む楽団、一方のエル・アランケは成長著しく現在最も注目すべき若手楽団のホープである。

もちろんこうした編成以外の、オルケスタではなくコンフントと呼ぶにふさわしい六重奏団にもいくつかあって、例えばバンドネオン1台でチェロを加えたもの(エンリケ・フランチーニvnの六重奏)、ヴァイオリンを1本にしてエレキ・ギターを加えたもの(オマール・バレンテpやホセ・コランジェロpの六重奏)などがある。短命に終ったアストル・ピアソラ六重奏団(セステート・ヌエボ・タンゴ、1989年)は、バンドネオン×2、チェロ、ピアノ、エレキ・ギター、コントラバスという変則的な編成だった。また、重要なコンフントのひとつであるマリアーノ・モーレスpのセステート・リトゥミコ・モデルノ(モダン・リズム六重奏団、1963年~)は、その名に反してピアノ、バンドネオン、オルガン、エレキ・ギター、ヴィブラフォン、コントラバス、ドラムスという七重奏である。

六重奏よりも編成の大きなコンフントにも様々なものがあり、一つ一つ紹介することは困難だが、その中では1950年代後半に画期的な方法論を打ち出した2つのグループが極めて重要である。ひとつはピアソラが1955年に結成したオクテート・ブエノスアイレス(デ・カロ型の六重奏にチェロとエレキ・ギターを加えた八重奏団)、もうひとつは卓越した編曲家であったアルヘンティーノ・ガルバンが音楽監督を務めた七重奏団、ロス・アストロス・デル・タンゴ(ヴァイオリン×2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、バンドネオン、ピアノという編成)で、いずれもそれまでにない斬新な編曲と演奏でセンセーションを巻き起こした。彼らは、オルケスタ・ティピカの時代からコンフントの時代へと移り変わる過渡期を象徴する存在とも言え、タンゴ史上に果たした役割は非常に大きかった。オクテート・ブエノスアイレスにおけるピアソラの実験は、やがてピアソラ五重奏団の結成で実を結び、ロス・アストロス・デル・タンゴのようなバンドネオン+ピアノ+弦楽セクションの組み合わせによるコンフントは、エドゥアルド・ロビーラのアグルパシオン・デ・タンゴ・モデルノ(現代タンゴ集団)などに引き継がれていったのである。

タンゴの楽団編成(8) 「グラン・オルケスタ」
(初出:2001年5月30日)

「タンゴの楽団編成」の章では、これまでオルケスタ・ティピカとコンフントについてご紹介してきた。最後に、そのどちらにも属さないものとして、ティピカとは異なるタイプの大編成楽団を紹介しておこう。具体的には、オルケスタ・ティピカでは通常使われない管楽器や打楽器などの楽器を加えるなどして、ティピカよりも編成を大きくした楽団などが対象となる。こうした楽団に対しては“グラン・オルケスタ”という呼び方があるが、その定義はあってないようなもので、その名称が使われるとは限らない。大編成ゆえの経済的な問題などから、決してタンゴの主流にはならなかったにせよ、その存在を覚えておくことは無駄ではないだろう。

こうした大編成への試みは、既に1930年代から行われていた。例えば1936年にフリオ・デ・カロが率いたオルケスタ・メロディカ・インテルナシオナル(インターナショナル・メロディック・オーケストラ)は、金管楽器やドラムスを加えた16人編成だったが、実を言うとこれは大変評判が悪かった。1930年代のタンゴ界は、アメリカ合衆国から押し寄せてきたジャズの猛威にさらされながら、変革を求められていた時期で、そうした中での迷いが中途半端な編成に表れたといえる。タンゴ史に偉大な足跡を残したデ・カロでも、このような試行錯誤の時期があったのである。また、こうした流れとは全く別のものとして、「カミニート」や「バンドネオンの嘆き」の作者として知られるフアン・デ・ディオス・フィリベルトが1932年に結成したオルケスタ・ポルテーニャがある。これは通常のティピカで使われる楽器にフルートとクラリネットを加えた14人編成の楽団だった。

より音楽的な必然性を持った形で大編成楽団が登場するのは、1950年代半ば以降である。最も重要な楽団として、アストル・ピアソラの弦楽オーケストラ(オルケスタ・デ・クエルダス)と、マリアーノ・モーレスのグラン・オルケスタ・リリカ・ポプラールの二つを挙げておこう。ピアソラが最初に弦楽オーケストラを結成したのはパリ留学中の1955年。オペラ座の管弦楽団の団員を中心としたこの楽団は、バンドネオン、ピアノ、ヴァイオリン×8、ヴィオラ×2、チェロ×2、ハープ、コントラバスという16人編成だった。ピアソラは帰国後にはタンゴ界の腕利きを集めて同様の楽団を組織、その豊かな響きは、それまでのピアソラの集大成とも言えるほどの充実したものだった。一方、芸術指向のピアソラに対して、「タンゴを世界に」のモットーのもと、大衆指向を持ちながら新しいタンゴの創造に燃えていたモーレスは、自らのピアノを中心に金管楽器、木管楽器、弦楽器、打楽器、コーラスまで取り入れたカラフルなオーケストラ・サウンドを作り上げた。それはさながら映画音楽のような雰囲気を醸し出していたのである。なお、ピアソラは1967年に、グラン・オルケスタ名義で古典曲ばかりを集めた2枚のアルバムを制作したが、これは彼の五重奏団に弦楽器やヴィブラフォンなどを加えたもので、かつての弦楽オーケストラとは性格が異なる。

その後のグラン・オルケスタ的なものというと、ピアソラはもとより、《「コンフント」その4》で紹介したロス・アストロス・デル・タンゴやエドゥアルド・ロビーラの現代タンゴ集団などの流れを汲むものが多い。すなわち、バンドネオン+ピアノ+弦楽セクション+αという編成である。例えばアティリオ・スタンポーネpやラウル・ガレーロなどが代表的な例に挙げられるだろう。1977年の日本公演用に特別に編成されたエンリケ・フランチーニとシンフォニック・タンゴ・オーケストラ(ヴァイオリン×12、ヴィオラ×2、チェロ×2、コントラバス、フルート、オーボエ、ホルン、ピアノ、エレキ・ギター、バンドネオン)というのもあった。

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フランチーニとシンフォニック・タンゴ・オーケストラ
中央に立っているのがエンリケ・フランチーニ(ヴァイオリン)。その向かって左はバンドネオンと編曲のディノ・サルーシ。

タンゴを大編成で演奏するには、それなりの難しさが付きまとうと思われる。大編成になればなるほど、タンゴ的な微妙なニュアンスが出しにくくなり、ムード音楽的に流されてしまう危険性が出て来るからである。指揮者や編曲者の力量が問われるところだ。運営の難しい大編成楽団だが、現在では例えばクラシックのオーケストラ+バンドネオンなどのゲスト、という在り方が一般的になりつつある。それを実践しているのがウルグアイのモンテビデオ・フィルハーモニー管弦楽団だ。今年(2001年)4月に人知れず来日したフェデリコ・ガルシーア・ビヒルが指揮を、トト・ダマリオが第1バンドネオンと編曲を担当しているのがこの楽団。ただし彼らの場合、管楽器も打楽器も入らず、バンドネオンは5台なので、サウンドは極めてオルケスタ・ティピカ的である。

2021年2月12日 (金)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その1 タンゴの楽団編成~オルケスタ・ティピカ

ピアソラ生誕100年と、先日紹介したユニバーサルミュージックからのピアソラ7タイトル復刻とに絡めて、同社のサイトに「ピアソラが貫いたタンゴのモダン化とブエノスアイレスへのこだわり」という一文を寄稿した。ご一読いただければ幸いである。

さて、かつて2019年2月12日の記事「メールアドレスの変更とブログの引っ越し」でも触れたように、私自身の不注意から、自分のサイト「tangodelic!」は2016年11月に消滅してしまった。旧サイトでは2001年1年間かけて、全34回の「タンゴ入門講座」というのを連載していたのだが、最近とあるところから、学生向けにタンゴをわかりやすく解説してあるサイトはないかと相談を受け、思い出したのがその連載。幸い旧サイトのhtmlのイメージだけはパソコンに保存してあったので、今でも見ることができる。読み返したら、ネタ的に古い部分は当然あるものの、このまま使えないこともないのではないかということで、当時の原稿をそのまま当ブログに再掲することにした。全34回分を12回程度にまとめ、明らかに古い記述には注釈を付け加えることにした。今回は最初の3回分、オルケスタ・ティピカについてである。

タンゴの楽団編成(1) 「オルケスタ・ティピカ」その1
(初出:2001年2月14日)

オルケスタ・ティピカとは、アルゼンチン・タンゴでもっとも基本となる編成の楽団のこと。英語で言うとティピカル・オーケストラ、つまりスペイン語で“標準的楽団”という意味だが、中南米各国でそれぞれ自国の音楽を演奏する上での標準的な編成のことを指しているので(現在では頻繁に使われているとは言い難いが)、タンゴの場合は「アルゼンチンでの標準」ということになる。

タンゴの世界で初めてオルケスタ・ティピカを名乗ったのは、1910年のビセンテ・グレコ(バンドネオン)の楽団が最初だが、これは今日で言うところのティピカ編成とは異なる。あくまでも大まかな「当時の標準」だったということだ。この時の編成は、バンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ギター、フルートという6重奏だった。ギターとフルートは、いずれも初期のタンゴ(特にバンドネオンの本格的な導入以前)のアンサンブルでは重宝された楽器だが、ギターはピアノに取って変わられ、またフルートはバンドネオンにその役割を奪われて、基本的な編成から姿を消していく。ギターの低音弦(ボルドーナ)が奏でていた響き(ボルドネオ)は、コントラバスの導入などで補われていった。

バンドネオンとヴァイオリン、ピアノ、コントラバスという組み合わせによる、現代の標準となるオルケスタ・ティピカの基本的な形は、1910年代後半から1920年代初頭にかけてエドゥアルド・アローラス(バンドネオン)やオスバルド・フレセド(バンドネオン)、フアン・カルロス・コビアン(ピアノ)らがそれぞれ率いていた楽団(おおむね5重奏から6重奏)によって徐々に形づくられていったが、歴史的に見て最も重要なオルケスタ・ティピカは、1924年に結成されたフリオ・デ・カロ楽団(6重奏)である。アローラス、フレセド、コビアンといずれの楽団にも参加して腕を磨いてきたヴァイオリン奏者のデ・カロは、兄で楽団のピアニストを務めたフランシスコ・デ・カロらの協力のもと、バンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ピアノ、コントラバスという6重奏のスタイルを完成の域にまで高めることに成功した。

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フリオ・デ・カロ楽団(1926年)
(左から)フリオ・デ・カロ(コルネット・ヴァイオリン、指揮)、フランシスコ・デ・カロ(ピアノ)、ペドロ・マフィア(バンドネオン)、エンリケ・クラウス(コントラバス)、ペドロ・ラウレンス(バンドネオン)、エミリオ・デ・カロ(ヴァイオリン)

それまでのタンゴの演奏は、乱暴に言ってしまえば、単純な「合奏」に近いものだった。それをデ・カロはこの6重奏団で大きく進歩させた。和声や対位法を駆使して豊かな響きを生み出し、楽団に於ける各楽器の役割を明確にさせたのである。1920年代当時の先端をいき、タンゴに於ける編曲という概念を作り上げたデ・カロこそは、後のアニバル・トロイロやオスバルド・プグリエーセ、更にはアストル・ピアソラにまで至る現代タンゴの基礎を築いた大人物と言えよう。後年ピアソラはデ・カロに捧げて「デカリシモ」(「とてもデ・カロ的な」という意味)という曲を書いている。

1930年代に入ると、他の楽団もデ・カロ自身も、更に豊かな響きを求めて、バンドネオンやヴァイオリンの数を増やし始める。そして1940年代にさしかかる頃には、バンドネオンが4人程度、ヴァイオリンに多くはヴィオラもしくはチェロ1本を加えた弦セクション4~5人程度、ピアノ、コントラバスという編成が一般的となる。これがオルケスタ・ティピカ編成の最終的な形である。あと、忘れてはならないことは、40年代当時のすべてのティピカが専属歌手制を採っていたことで、1~2名程度の歌手が楽団のもうひとつの看板となった。

要約すると、1920年代にはデ・カロ型の6重奏がオルケスタ・ティピカと呼ばれたが、現在では、オルケスタ・ティピカといえば1940年代以降定着したおおむね10~11人前後の編成のことを指し、例えば20年代のデ・カロ楽団のことは「デ・カロ6重奏団」などと呼んで区別するのが一般的、ということになる。

タンゴの楽団編成(2) 「オルケスタ・ティピカ」その2
(初出:2001年4月18日)

1940年代のオルケスタ・ティピカ人気の立役者となったのが、1935年に「電撃のリズム」をひっさげて登場したフアン・ダリエンソである。テンポを速くし、ダンス向けのタンゴのリズムを極端なまでにデフォルメしたスタイルのダリエンソは、瞬く間に人気を集め、1940年前後には、ほとんどの楽団がダリエンソの影響で演奏のテンポが速くなっていたほどである。

そして、1940年代のタンゴ黄金時代を名実共に代表したのが、バンドネオン奏者、アニバル・トロイロのオルケスタ・ティピカ。若き日のピアソラもトロイロの楽団で修業していたほか、数多くの優れた人材を排出したことでも知られている。デ・カロ・サウンドを継承する大きな存在であるトロイロ楽団は、50年代から60年代へと時代を経るごとにそのサウンドに重厚さを増していくのだが、歌手にフランシスコ・フィオレンティーノを擁し、躍動感に溢れたフレッシュなサウンドを奏でていた40年代前半の演奏はひときわ魅力的。そこで重要な役割を果たしていたのが、ピアノのオルランド・ゴニやコントラバスのキチョ・ディアスといった天才的なプレイヤーたちだった。ピアソラがそこで経験を積んだのは、非常に大きなことだったのである。

Troilo60s
1960年代のアニバル・トロイロ楽団
この時期は弦セクションをかなり増強しているのが判る。歌手ロベルト・ルフィーノの向こう側に立っているのがトロイロで、この時は指揮に専念しバンドネオンは弾いていない。第1バンドネオン(向かって一番左)はエルネスト・バッファ、その隣は若き日のラウル・ガレーロ。ピアノはオスバルド・ベリンジェリである。

1940~50年代を代表するオルケスタ・ティピカとしては、オスバルド・プグリエーセ、カルロス・ディ・サルリ、アルフレド・ゴビなどの楽団も重要だが、彼らについては別項にまとめておくことにしよう。この時期には、彼ら以外にも多くの人気楽団が活躍していたが、特に強い個性を持ったわけではない、あまり知られていないような楽団の演奏にも、注目すべきもの、ティピカ・サウンドの真髄と言えるものが数多く存在しており、当時のタンゴ界の裾野の広さを物語っている。

また、当時のオルケスタ・ティピカを語る上で欠かせないのが専属歌手の存在である。歌手は楽団の顔となり、楽団指揮者と人気を二分した。録音されたレパートリーを見ても、楽団によってその比率にバラ付きはあるものの、インストゥルメンタルよりも歌ものの方が多い。当時はタンゴ歌曲の名作が数多く生まれた時期でもあり、作曲ではトロイロやマリアーノ・モーレス、作詞ではオメロ・マンシやエンリケ・カディカモをはじめとする多くの作家たちが活躍、そうした当時の新曲を各楽団が競って取り上げるという形で、ヒット曲が次々と生まれていった。

インストゥルメンタルも同様ながら、新曲と並んで1900年代初頭の作品(例えば「エル・チョクロ」)以降の様々な時期に書かれた作品も、幅広く演奏されていた。また、各楽団の指揮者や演奏メンバーによる作品もどんどん発表されていて、自らの楽団はもとより、ほかの楽団に取り上げられることも多かった。なお、1960年代中期以降のピアソラのように、基本的に自分で書いたオリジナル作品しか演奏しないというケースは、タンゴ界では極めて例外的である。

結果的に同じ曲をさまざまな楽団が演奏することになるわけで、各楽団は編曲に趣向を凝らして差別化を計っていくことになるわけだが、そこで重要になってくるのが編曲家の存在である。指揮者や楽団員が自ら編曲を手掛けるケースがほとんどだが、アルヘンティーノ・ガルバンのような専属編曲家も活躍するようになった。ピアソラやエミリオ・バルカルセなども、自らの演奏活動以外に様々な楽団に編曲を提供していたのである。

タンゴの楽団編成(3) 「オルケスタ・ティピカ」その3
(初出:2001年4月25日)

これまでにも説明した通り、4台程度のバンドネオンに4~5本程度の弦楽器、ピアノ、コントラバスに歌手というのが、最終的に固まったオルケスタ・ティピカの編成であるが、いくつかの楽団の写真などを見たりしていると、この定型にはこだわらずに楽器を増やしているケースもあったことがわかる。前回のアニバル・トロイロ楽団の写真にもあるように、弦楽器を増やしたものが特に多いが、珍しい例としては、バンドネオンを10台以上もずらりと並べたものまであった。これは音に厚みを加えるのが主な目的だが、見た目の派手さ、豪華さを狙う側面もあったようだ。また、楽団によっては上記以外にクラリネット、ヴィブラフォン、ハープ、ドラムスなどの楽器を、あくまでも隠し味的にだが加えることもあった。そのように編成がより大きくなった場合には“グラン・オルケスタ・ティピカ”(大オルケスタ・ティピカ)などの名称が使われたりしていたが、その辺の定義はけっこう曖昧である。

全体的にオルケスタ・ティピカの演奏力が最高潮に達したのは1950年代前半だった。様々な可能性が試みられた結果として音楽的にも成熟していったわけだが、編成の制約からくる表現上の限界も見え隠れするようになっていた。それをいち早く見抜いたのが他ならぬアストル・ピアソラだった。ピアソラがブエノスアイレス八重奏団を結成してタンゴ革命ののろしを上げ、タンゴを擁護してきたペロン政権が失脚した1955年以降、新しいティピカの登場は著しく減少し、トロイロ、プグリエーセなどの一流どころを除けばティピカの解散が相次いだ。需要の減少による経済的な問題と、音楽的な飽和状態の両面から、オルケスタ・ティピカの時代は終わりを告げ、経済的な負担も少なく音楽的な自由度も高い小編成楽団の時代へと移行していったのである。

オルケスタ・ティピカは、若い演奏家たちにとっては、タンゴのエッセンスを修得する重要な場所であったし、聴き手にとっても、タンゴのダイナミズムを体感させてくれる大きな存在だった。例えば、オルケスタ・ティピカの演奏を聴く醍醐味のひとつは、バンドネオン・セクションによるバリエーション(変奏)だろう。バリエーションとは、主に曲の終盤に登場する細かい音のパッセージのことで、基本的には、バンドネオン全員が同じフレーズを一糸乱れぬ状態で紡いでいくのである。粒がビシッとそろっていながら音にふくらみもあるバリエーション、そのスリリングな盛り上がりは、感情の高まりを呼び起こしてくれる。オルケスタ・ティピカの減少は歴史の必然であったとはいえ、やはり残念な気がしてならない。

Darienzo
1959年のフアン・ダリエンソ楽団。
5人いるバンドネオン陣の手前から2人目が第1バンドネオンのカルロス・ラサリ。
バンドネオン・セクションの迫力ある演奏は、オルケスタ・ティピカの醍醐味のひとつだ。

60年代以降もオルケスタ・ティピカを率いていた巨匠たちがこの世を去っていく中、現在までティピカを率い続けているのはレオポルド・フェデリコぐらいになってしまったが(レギュラーでの演奏活動はさすがに行っていない)[注1]、最近ではフアン・ホセ・モサリーニのように、オルケスタ・ティピカ編成での演奏活動を行うケースが徐々に出て来ている。エミリオ・バルカルセのタンゴ学校オーケストラは、その名の通り、若手タンゴ・ミュージシャンにティピカでの演奏経験を積ませるのが目的で結成された楽団である。小松亮太は5月にオルケスタ・ティピカを率いてのコンサートを開催するが[注2]、これは必見だろう。オルケスタ・ティピカに果たして未来はあるのか? いや、そんなことよりも、とにかくティピカの生演奏に接する喜びを感じてみて欲しいのである。

注1:レオポルド・フェデリコは2014年12月28日に死去
注2:この翌年、2002年6月の小松亮太&オルケスタ・ティピカによるブルーノート東京での公演は『ライヴ・イン・Tokyo~2002』としてリリース

2021年2月 8日 (月)

ユニバーサルミュージックよりアストル・ピアソラの復刻CD7タイトルが登場

来る3月11日、アストル・ピアソラが生誕100年を迎える。ということで、ここのところ原稿依頼などが続き、おかげさまで忙しい日々を過ごしている。そんな中で残念なこともあって、品切れになったままの拙訳『ピアソラ 自身を語る』(ナタリオ・ゴリン著)を増刷してもらえないかと河出書房新社の担当者に打診してみたのだが、蹴られてしまった。「この本を出したころとは音楽書をめぐる状況も変わってしまいました」だそうだ。読みたい方には、古本で探していただくしか、今は手だてがない。面白いのにね。

腰の重かったユニバーサルからは、ついに『アストル・ピアソラ フィリップス&ポリドール・イヤーズ』全7Wが3月3日に出ることになり、1月中はデータチェック、全オリジナル・ジャケット貸出、ライナー執筆等の作業に忙殺されていた。音源自体はアルゼンチンで2012年から14年にかけてリリースされた"Astor Piazzolla Completo en Philips y Polydor"シリーズで使われたリマスターと同じだが、今回の国内復刻は、やはりオリジナル・ジャケットでの復刻がポイントだろう。なかなかCDが出しづらくなっている状況の中、できる範囲で頑張ったので、ぜひご贔屓に願いたい。ラインナップは以下の通り。

Uccm45001
『モダン・タンゴの20年』UCCM-45001
<Tower Records> <amazon>
デビューからの20年間に率いてきた楽団の変遷を自ら再現した1964年の画期的企画。
単なる回顧に留まらず、幻の「タンゴ・バレエ」から五重奏団用新曲まで初録音曲も多数収録。

Uccm45002
『エル・タンゴ』UCCM-45002
(ステレオでは世界初単独CD化)

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文豪ホルヘ・ルイス・ボルヘスの詩や散文に曲を付け、音楽と文学の劇的な融合が実現。
壮大な企画を彩るもう一人の主役は、タンゴ界きっての名歌手エドムンド・リベーロだ。

Uccm45003
『ニューヨークのアストル・ピアソラ+6』UCCM-45003
(オリジナル・ジャケットでは世界初CD化)
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文化使節として訪れた五重奏団NY公演の成功を受け、帰国後にスタジオ録音した大傑作。
ボーナス・トラックとして「ブエノスアイレスの夏」初録音など貴重な6曲を収録。

Uccm45004
『タンゴの歴史 第1集/グアルディア・ビエハ』UCCM-45004
(オリジナル・ジャケットでは世界初CD化)

<Tower Records> <amazon>
タンゴ勃興期を彩った古典名曲の数々を大編成オーケストラで大胆に料理する企画第1弾。
「エル・チョクロ」「ラ・クンパルシータ」がアッと驚く奇抜なアレンジで生まれ変わる。

Uccm45005
『タンゴの歴史 第2集/ロマンティック時代+7』UCCM-45005
(オリジナル・ジャケットでは世界初CD化)

<Tower Records> <amazon>
タンゴ名曲の編曲企画第2弾は、ピアソラのルーツと言える好みの音楽家たちの作品中心。
ボーナス・トラックとして、頓挫した『第3集/1940年代』用録音など貴重な7曲を収録。

Uccm45006
『コラボレーションズ』UCCM-45006
(2014年編集、世界初単独CD化)

<Tower Records> <amazon>
1974年以降拠点を欧州に移したピアソラと各国の歌手たちとの貴重な共演を1枚に編集。
ジョルジュ・ムスタキ(ギリシャ)からネイ・マトグロッソ(ブラジル)まで顔ぶれも多彩。

Uccm45007
『オランピア '77』UCCM-45007
(世界初単独CD化)

<Tower Records> <amazon>
短命に終わった1970年代“エレクトリック・ピアソラ”期では最高の内容を誇る白熱のライヴ。
息子ダニエルや故国のロック系若手と「リベルタンゴ」「アディオス・ノニーノ」を披露。

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