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2021年9月19日 (日)

アストル・ピアソラ・コレクション紹介/ディスクリート4チャンネル再生のその後

いろいろ書かねばならないことはあるのだが、クール・ファイブの連載だけでなく、なかなか思うように更新ができない。年とともに集中力がなくなってきているのも関係しているだろうか。ともあれ、最近のことを少しまとめておこう。

8月25日にはソニーから「アストル・ピアソラ・コレクション」全10タイトルが1枚1,400円というお買い得価格でリリースされ、選盤と解説(西村秀人さんと分担)を担当した。

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フランスのヴォーグ原盤が1枚、ミラン原盤が2枚、残り7枚がアルゼンチンRCA原盤。日本初紹介の音源はないが、ピアソラ史を彩る重要作が目白押しである。以下はその内容。

  • 『シンフォニア・デ・タンゴ』(SICP 6391)

1955年のパリ留学時、弦楽オーケストラ編成で録音した初のオリジナル・アルバム(10インチ)。オリジナル・モノラル・マスターを使用しての単独CDは世界初。

  • 『ピアソラ、ピアソラを弾く』(SICP 6385)

1960年に結成されたキンテート(五重奏団)による初のアルバム。「アディオス・ノニーノ」の初録音収録。ヴァイオリンはシモン・バジュール。

  • 『ピアソラか否か?』(SICP 6386)

古典タンゴのシンプルなアレンジを中心にしたキンテートのセカンド・アルバム(リリースはこちらが先)。ヴァイオリンはエルビーノ・バルダーロ。ボーナス・トラックとして歌手ダニエル・リオロボスとの2曲、エクトル・デ・ローサスとの4曲も収録。

  • 『レジーナ劇場のアストル・ピアソラ1970』(SICP 6387)

アントニオ・アグリ(ヴァイオリン)、カチョ・ティラオ(ギター)などを擁した最強のキンテートによる歴史的ライヴ。《ブエノスアイレスの四季》全曲収録、ピアソラ史上最高傑作。ボーナス・トラックとして映画『魂と生命をもって』サントラ4曲収録。

  • 『五重奏のためのコンチェルト』(SICP 6388)

キンテート10周年を記念したタイトル曲ほかと、ピアソラの敬愛する音楽家/作品に捧げた貴重なバンドネオン・ソロ(1曲のみレオポルド・フェデリコらとの四重奏)の組み合わせによる名盤。ボーナス・トラックとしてバンドネオン多重録音1曲、師アニバル・トロイロとのバンドネオン・デュオ2曲収録。

  • 『ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第一集』(SICP 6389) 
  • 『ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第二集』(SICP 6390)

ピアソラ究極のアンサンブル、コンフント9(ヌエベ)による傑作2タイトル。ピアノは第一集(1971年12月録音)がオスバルド・マンシ、第二集(1972年7月録音)がオスバルド・タランティーノ。第二集にはボーナス・トラック3曲収録。

  • 『天使の死~オデオン劇場1973~』(SICP 6392)

コンフント9解散後の1973年、オスバルド・タランティーノを擁したキンテートが残した貴重かつ壮絶なライヴ音源(1997年にミランからCD化)。実はブエノスアイレスのオデオン劇場での録音ではなかった? 真相は解説に。

  • 『ピアソラ=ゴジェネチェ・ライヴ1982』(SICP 6393)

イタリアでのエレクトリック・ピアソラ期を経て再結成されたキンテートによる1982年のライヴ。唯一無二のタンゴ歌手、ロベルト・ゴジェネチェとの貴重な共演を含む。ボーナス・トラックとしてピアソラ=ゴジェネチェ1969年のスタジオ録音「ロコへのバラード」他3曲収録。

  • 『バンドネオン・シンフォニコ~アストル・ピアソラ・ラスト・コンサート』(SICP 6394)

パリで脳梗塞に倒れる1か月前、生涯最後のコンサートは奇跡的に録音されていた! ギリシャの名匠マノス・ハジダキス、アテネ・カラーズ・オーケストラとの共演によるシンフォニー。

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9月に入り、ジャンルは全く異なるが、かつて親しくさせていただいたお二方の訃報が舞い込んでしまった。まずは日本を代表する名タンゴ歌手で、レコード・プロデューサーでもあった阿保郁夫さん。両面で素晴らしい実績を遺されたが、私のピアソラに関する執筆や復刻を褒めてくださったのも懐かしい想い出だ。もう一人は、吉野大作&プロスティテュートなどのベーシストで、水すましというバンドでは実際にご一緒されていただいた高橋ヨーカイさん。一時死亡説が流れ、心配はしていたのだが、何とも寂しい。

さて、今日書かねばと思ったのは、4月15日にアップした「新たな機材の導入でノイズのないディスクリート4チャンネル・レコードの再生が実現」の続きである。最後の方で

MC-3 Turboは出力電圧3.3mVの高出力MCカートリッジだから、ディモジュレーターのMM入力端子に直接繋ぐのが適切な接続方法なのだろうが、いろいろ試していて、繋ぎ換えが面倒だったのでヘッドアンプを挟んだ状態のままで鳴らしてみたら、何とこれがベストだった。

と書いたが、これが正しいやり方ではなかったことに気付いたので、私のやり方を参考にしている方はよもやいらっしゃらないとは思うが、訂正しておく必要を感じたというわけだ。

シバタ針やラインコンタクト針を持ったカートリッジでディスクリート4チャンネル(CD-4)再生をする際は、カートリッジごとにCD-4ディモジュレーターのセパレーション調整をしなければならない。それはわかっていたのだが、MC-3 Turboをヘッドアップなしで直接接続した状態でセパレーション調整したまま、ヘッドアンプ経由で聴いていたのが問題だった。どうも前後のセパレーションが十分ではないような感じは受けていたのだが、8月の終わりに入手した”CD-4 Quadraphonic Experience” (WEA 228 008 (F))というドイツ盤オムニバスに含まれている、4か国語によるアナウンスなどを含むデモンストレーション・トラックを再生していて、定位がけっこうメチャクチャになっていたのに気付いた。

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早速セパレーション調整を行ったが、左右ともレベルをいっぱいまで下げても合わせ切らない感じになってしまった。30KHzのキャリア信号を拾って点灯するインジケーターも時々弱くなったり消えたりする。これはAT33PTG/II→ヘッドアンプでも同様だった。MCカートリッジをディモジュレーターのMM入力に入れる際にヘッドアンプや昇圧トランスを通すと、どうもキャリア信号の読み取りに支障が出やすいようだ。やはりCD-4再生にはMMカートリッジか高出力MCカートリッジということになるのか。ということで、MC-3 Turboからはヘッドアンプを通さず、直接CD4-10改造機に送ることにした。これでひとまず解決。

MC-3 Turboと「CD4-392」ICチップを搭載したCD4-10改造機の組み合わせにしてから、CD-4盤特有のノイズに悩まされることはほぼなくなったが、それでも針先や盤の汚れにはすこぶる敏感であることに変わりはない。盤のクリーニングにはVPIのバキュームクリーナーとオヤッグのレコードクリーナー液の組み合わせ、針先の汚れにはDS AudioのST-50が欠かせない。

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2021年6月27日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(13)~シングル「すべてを愛して」「女の意地」「女のくやしさ」とアルバム『影を慕いて』

前回、ライヴ・アルバム『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』を紹介した際、書き洩らしたことがあった。第9景のトーク・コーナーでの出来事だが、チャーリー石黒が司会の玉置宏から「清くんの魅力っていうのは、チャーリーさんはどう分析なさいますか?」と質問され、「よく彩木(雅夫)くんとも話したんですけど、要するに、日本人にない独特のヴィブラートとブレスですね、あの♪あ~あ~ っていうのはですね、あれはだいたいどっちかというと黒人的なムードですけど…」と話したところで、客席に笑いが起きるのである。すかさず「要するに、日本人にないカラーだと思います」と締め括ったチャーリーは、前川のことを黒人歌手にたとえて褒めているわけだが、客席の捉え方は残念ながら違ってしまったようだ。恐らくソウルやR&Bなどの熱心なファンは会場にはいたとしても極めて少なかっただろうし、当時は世間一般の中にまだ、黒人というものを笑ったり蔑んだりする対象として捉えてしまう傾向が強かったのではないか。その辺りが気になってしまい、些細なことかも知れないが書き留めておきたかった。

さて、1970年末以降のクール・ファイブの動きを追っておくと、11月から12月にかけて「噂の女」が第1回歌謡大賞・放送音楽賞、全国有線放送大賞、第12回日本レコード大賞・歌唱賞と、各賞を受賞している。年が明けて1971年1月1日から7日まで国際劇場で『森進一ショー』に出演。そして7枚目のシングルが発売となった。

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●シングル07

A) すべてを愛して
川内康範 作詞/鈴木 淳 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 愛のぬくもり
川内康範 作詞/内山田洋 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1135 1971年1月5日発売

作詞は「逢わずに愛して/捨ててやりたい」以来の川内康範。作曲の鈴木淳は音楽之友社の雑誌『ポップス』の元編集長でもある。伊東ゆかり「小指の思い出」(1967年)、ちあきなおみ「四つのお願い」(1970年)などのヒット曲があり、クール・ファイブはアルバム『夜のバラード』で黒木憲の「霧にむせぶ夜」を取り上げていたが、書き下ろしのシングル曲はこれが唯一となった(アルバム収録曲では1973年7月発売の『内山田洋とクール・ファイブ 第6集』に千家和也作詞の2曲を提供)。オリコンでの最高位は24位、売上9万2千枚(メーカー発表では25万1千枚)と伸び悩んだ。カントリー・タッチのピアノに導かれた3連のロッカ・バラードで、いい曲だがインパクトにはやや欠けるか。

同様に川内の作詞によるB面の「愛のぬくもり」は、内山田が作曲したマイナーな8ビートの曲。イントロや間奏でのテナー・サックスのフレーズの終止に多用されるCマイナー・メジャー7thの響きが印象に残る。

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●シングル08

A) 女の意地
鈴木道明 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 京都の夜
秋田 圭 作詞/中島安敏 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1155 1971年2月25日発売

両面ともカヴァー・アルバム『夜のバラード』からのシングル・カットで、ジャケットに使われた写真も流用されている。第8回で詳しく紹介したように、西田佐知子「女の意地」(1965年10月発売)の原曲は和田弘とマヒナ・スターズ「女の恋ははかなくて」(同年9月)である。1970年4月5日のアルバム発売から10か月も経って「女の意地」が急遽カットされたのは、10月に平浩二のカヴァーが出てオリコン42位、12月に出た西田の再録ヴァージョンが7位となったことにあやかろうとしたのが理由だろう。ひとつ前の「すべてを愛して」が1971年1月5日発売、次の「女のくやしさ」が4月5日発売と、両者の間隔はローテーション通りにきっちり3か月であり、その間に「女の意地」が臨発のような形で突っ込まれた感じだが、残念ながらオリコン43位、売上2万枚(メーカー発表13万6千枚)と、成果は上がらなかった。

カップリングの「京都の夜」は愛田健二のヒット曲(1967年6月発売)のカヴァー。

3月23日から29日までは国際劇場で『内山田洋とクール・ファイブ~すべてを愛して』公演。共演は中尾ミエ、大船渡、君夕子、吹雪ひろみ、ギャグメッセンジャーズ、宮尾たかし、ハッピー&ブルー、ブルー・ソックスとのこと。

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●シングル09

A) 女のくやしさ
鳥井みのる 作詞/猪俣公章 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 夢を捨てた女
有馬三恵子 作詞/内山田洋 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1157 1971年4月5日発売

コンビで『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』にも2曲を提供していた、鳥井みのる(「わかれ雨」)と猪俣公章(「噂の女」)の作詞・作曲による9枚目のシングル。オリコンの最高位は26位、売上は14万5千枚(メーカー発表27万3千枚)と、こちらも伸び悩み。スタイルは出来上がっているが、その分冒険している感じが弱いように感じられる。

内山田が作曲したカップリングの「夢を捨てた女」で、作詞に有馬三恵子が初登場。作詞家としては前述の伊東ゆかり「小指の思い出」や小川知子「初恋のひと」(1969年1月発売)など、当時夫だった鈴木淳とのコンビで作品を残した後離婚し、筒美京平と組んで南沙織の一連の作品を手掛けていく直前だった(「17才」のレコーディングは1971年4月末か5月初め、リリースは6月1日)。以降のクール・ファイブへの提供作品は、内山田を初めとするメンバーたちとの共作が大半を占めることになる。ここでの手応えは、内山田作品が初めてA面を飾ることになる次の「港の別れ唄」で早速実を結ぶことになるのだが、その話は次回。

そして5月、1971年最初のアルバムとして、『夜のバラード』以来のカヴァー集が登場した。

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アルバム05(カヴァー・アルバム02)

影を慕いて
RCA JRS-7127 1971年5月5日発売

Side 1
1) 影を慕いて
古賀政男 作詞・作曲/竹村次郎 編曲

2) 男の純情
佐藤惣之助 作詞/古賀政男 作曲/竹村次郎 編曲

3) 無情の夢
佐伯孝夫 作詞/佐々木俊一 作曲/竹村次郎 編曲

4) 君恋し
時雨音羽 作詞/佐々紅華 作曲/竹村次郎 編曲

5) 人生の並木道
佐藤惣之助 作詞/古賀政男 作曲/竹村次郎 編曲

6) 長崎物語
梅木三郎 作詞/佐々木俊一 作曲/竹村次郎 編曲

Side 2
1) 夜霧のブルース
島田磐也 作詞/大久保徳二郎 作曲/竹村次郎 編曲

2) 裏町人生
島田磐也 作詞/阿部武雄 作曲/竹村次郎 編曲

3) カスバの女
大高ひさを 作詞/久我山明 作曲/竹村次郎 編曲

4) 鈴懸の径
佐伯孝夫 作詞/灰田有紀彦 作曲/竹村次郎 編曲

5) 船頭小唄
野口雨情 作詞/中山晋平 作曲/竹村次郎 編曲

6) 城ヶ島の雨
北原白秋 作詞/梁田 貞 作曲/竹村次郎 編曲

『夜のバラード』がおおむね1960年代のヒット曲のカヴァーで占められていたのに対し、カヴァー・アルバム第2弾である本作は、大正時代から昭和30年(1955年)頃までの、いわゆる“懐メロ”と呼ばれた作品で構成されている。この手の企画の先駆けとなったのは、森進一の古賀政男作品集『影を慕いて』(1968年5月発売)あたりではないかと思われるが、そこでは作詞・作曲家のレコード会社専属制の縛りを解き、ビクターの森がコロムビアの古賀作品を取り上げたことでも話題となった。

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クール・ファイブのアルバムの方は、古賀作品はいずれも森の『影を慕いて』にも収録されていた3曲だけだが、森を意識してか同じタイトルが付けられた。全曲の編曲を竹村次郎が手掛けているが、バラエティーに富んだ秀逸なアレンジが施され、価値を高めている。アルバム収録12曲のうち「人生の並木道」「夜霧のブルース」を除く10曲は、1973年7月に4チャンネル盤としてもリリースされ(ジャケットと曲順は変更)、1975年9月にはBOX入りLP4枚組の好企画盤『昭和の歌謡五十年史』にも全曲が再収録された。

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以下の曲目解説は、その『昭和の歌謡五十年史』付属ブックレットに掲載された上山敬三による解説を一部参照させて頂いた。

「影を慕いて」は古賀政男の処女作。1929年、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会でギター合奏曲として初演。翌年の佐藤千夜子(ビクター)による初録音は不発に終わったが、藤山一郎(本名:増永丈夫。当時は東京音楽学校生で、校外活動は禁止されていたためこの変名を使用した)のコロムビア盤でヒットした。藤山との出会いが、古賀のその後を決定づけた。

「男の純情」は1936年の日活映画『魂』の主題歌として、ビクターを経てテイチクに移籍していた時期の藤山一郎が歌った。

「無情の夢」は1935年にイタリア帰りの児玉好雄(ビクター)が歌った。憂鬱な味が時局にそぐわないと当局から厳重注意を受けたという。ホーンを活かしてリズミカルに仕上げた竹村の編曲が秀逸。

「君恋し」はレコード時代の幕開けを告げた1929年の大ヒット曲。その前年にあたる1928年は、それぞれ外国資本の日本コロムビア(明治創業の日本蓄音器商会を母体として1927年設立)と日本ビクター(詳しくは過去記事『“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史』を参照されたい)が揃って国内制作の新譜をリリースし始めた年で、流行歌の企画・制作・販売というそれまでにない新しい手法を確立することにより、この2社が日本のレコード業界をリードしていくことになる。ビクターは浅草オペラで人気を博していた二村定一をスカウト、1928年秋には「アラビアの唄」もヒットさせていたが、それに続く1929年の大ヒットとなったのが「君恋し」である(発売は1928年12月20日)。作曲家の佐々紅華がこの曲を作詞作曲したのは1922年のことで、作者自身は「出来上がった曲は二村定一に練習して貰って東京レコードに吹き込んだ」と語っているが、この東京レコードの現物の存在は確認されていないようだ。その後浅草オペラの女性歌手、高井ルビーがニッポノホンに吹き込んだが関東大震災の影響もあってヒットせず。昭和に入り、人気者になっていた二村が改めてビクターで録音するに際し、佐々が元大蔵省の役人でビクターに入社して間もない時雨音羽に作詞を依頼したという経緯があった。時は流れて1961年、フランク永井が寺岡信三のアレンジを得てモダンなムード歌謡としてリニューアル。こちらも大ヒットとなり、同年の第3回日本レコード大賞を獲得。クール・ファイブ盤は、それをベースにまたひとひねりしたもので、シャッフル・アレンジが素晴らしい。

「人生の並木道」は1937年の日活映画『検事とその妹』主題歌。ディック・ミネのテイチク盤で大ヒット。

「長崎物語」は既に『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』でのメドレーの中の1曲として前回紹介した。そこでは1939年に由利あけみが歌い全国的にヒットしたと書いたが、改めて確認したところ、戦前から戦中・戦後にかけてタンゴを中心にした軽音楽の楽団として活躍したサクライ・イ・ス・オルケスタ(桜井潔とその楽団)による1940年のビクターへの録音の方が広く知られていたとのことだった。

「夜霧のブルース」は、これも前回「長崎エレジー」の項で紹介した、1947年の映画『地獄の顔』の主題歌の一つ。ディック・ミネとしては戦後最初のヒット曲となった。

「裏町人生」については、『昭和の歌謡五十年史』の上山敬三による解説をそのまま引用しておく。

作詞した岩田磐也は「新宿・神田あたりの裏町の酒場に働く女性の生態を描いた」といっている。かつて神田の酒場で働いた経験があるのでそれを生かしたもの、作曲の阿部武雄は古い職人気質と奇行で鳴った人だが、このときも横浜のチャブ屋街をくずれた皮のジャンパーにヴァイオリンで流しながら曲想を練ったという。上原敏がうらぶれた女の心情をよく歌い結城道子がそれに和して大流行。今も演歌調流行歌の代表の一つである。

「カスバの女」は1955年の芸映プロ『深夜の女』主題歌。エト邦枝の歌でリリース。作曲の久我山明は孫牧人のペンネーム。沢たまきら多数のカヴァーあり。

「鈴懸の径」は第二次世界大戦真っただ中の1943年に発売された灰田勝彦のビクター盤がオリジナル。学生生活への郷愁が歌われた、戦時色のない歌だったが、皮肉にも発売後まもなく、学徒動員令が下ったのだった。

「船頭小唄」は、近代日本の流行歌の基礎を築いた中山晋平、1921年の作品。歌詞に出てくる“枯れすすき”が1923年の関東大震災を招いたのではないかといわれなき非難を浴びたことから、以後1952年の中山の死まで、レコード化は封印されたという。クール・ファイブの演奏はギター伴奏からスタート、徐々に楽器が増え、ストリングスも加わった2番では3連のロッカ・バラード・スタイルになるという見事なアレンジで、それに乗せた前川の歌も実にエモーショナル。内山田はレコーディング後、「僕は、清とつきあって4年半になるけど、あいつの歌で泣かされたのは、今日がはじめてだ」と解説のタカタカシにしみじみ語ったそうである。

「城ヶ島の雨」についても上山の解説から引用。

「大正2年(1913年)の夏、早稲田音楽会から頼まれてこの舟唄一篇を作った」と北原白秋は書いている。白秋の母校早大の関係者で結成されている新劇の劇団芸術座が第一回公演として同年9月有楽座で『モンナ・バンナ』を上演したが、その前宣伝の音楽会のために、知友の詩人・相馬御風を通じて頼まれたもの。白秋は愛情問題のもつれから神奈川県三崎(今の三浦市)の見桃寺で失意の生活を送っていたときである。劇団の主宰者・島村抱月の書生・中山晋平が東京音楽学校(今の芸大音楽学部)の同級生・梁田貞を推せんして作曲が完成された。大正期を代表する名歌曲の一つで流行歌のように普及し、昭和に入っても歌われた。レコードは昭和10年代に斎田愛子、内本実、奥田良三その他の独唱で各社から出ているが、梁田の高弟、奥田の音域に合わせたものが標準とされている。他に山田耕筰、橋本国彦、小林三三らの作曲もあるが梁田版が最もよく知られている。

(文中敬称略、次回に続く)

2021年6月 6日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(12)~ライヴ・アルバム『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』

内山田洋とクール・ファイブの全レコード紹介、前回の更新から半年以上も間が開いてしまった。このペースだと永遠に終わらないので、あまり深入りせずにサクサク紹介していく形に切り替えていきたいと思うが、果たして上手くいくかどうか。今回は初のライヴ・アルバムを紹介する。

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●アルバム04(ライヴ・アルバム01)

豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」~1970年9月27日 日劇に於ける実況録音
RCA JRS-9043~44 1970年12月25日リリース

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1) オープニング

2) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲

3) わかれ雨
鳥井 実 作詞/彩木雅夫 作曲

4) 涙こがした恋
中山淳太郎・村上千秋 共作詞/城 美好 作曲

5) 捨ててやりたい
川内康範 作詞/城 美好 作曲

Side 2
1) 長崎のザボン売り
石本美由起 作詞/江口夜詩 作曲

2) 長崎シャンソン(誤)→長崎エレジー(正)
内田つとむ 作詞/上原げんと 作曲(誤)→島田磐也 作詞/大久保徳二郎 作曲(正)

3) 長崎の女
たなかゆきを 作詞/林伊佐緒 作曲

4) 長崎ブルース
藤浦 洸 作詞/古賀政男 作曲(誤)→吉川静夫 作詞/渡久地政信 作曲(正)

5) 長崎物語
梅木三郎 作詞/佐々木俊一 作曲

6) 長崎詩情
中山貴美 作詞・村上千秋 補作詞/城 美好 作曲

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1) ヴィーナス Venus
R.V. Leeuwen

2) 男と女 Un Homme et une Femme
F. Lai - P. Barouh

3) アンド・アイ・ラブ・ハー And I Love Her
J. Lennon - P. McCartney

4) 白い恋人たち 13 Jours en France
F. Lai - P. Barouh

5) イエスタデイ Yesterday
J. Lennon - P. McCartney

6) ちっちゃな恋人
なかやままり 作詞/井上かつを 作曲(正しくは かつお)

Side 2
1) 君といつまでも
岩谷時子 作詞/弾 厚作 作曲

2) 愛のいたずら
安井かずみ 作詞/彩木雅夫 作曲

3) 愛の旅路を
山口あかり 作詞/藤本卓也 作曲

4) 逢わずに愛して
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲

5) 噂の女
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲

6) フィナーレ

内山田洋とクール・ファイブ
唄/前川 清
9043 Side 2 (2) 唄/内山田洋
9043 Side 2 (3) 唄/小林正樹
9044 Side 1 (6) 唄/前川 清、辺見マリ
演奏/チャーリー石黒と東京パンチョス
構成・演出 広田康男
音楽 森岡賢一郎、内山田洋
司会 玉置 宏

2枚組で、副題にもあるように東京・有楽町の日劇で 1970年9月24日から7日間行われた「クール・ファイブ・ショー――やめて!噂の女」から、27日の公演を収録したものだ。浅井英雄の解説によれば、出演は内山田洋とクール・ファイブ、辺見マリ、獅子てんや・瀬戸わんや、大船渡。演奏はチャーリー石黒と東京パンチョス(封入された見開きカラーのシートには、公演中劇場に掲げられた看板の写真も載っていて、そこには司会の玉置宏のほか、ザ・シャンパーズの文字もみえるが、裏ジャケのステージ写真に写っているダンサーたちだろうか)。そしてショーの内容は次のようだったという。

第1景:クール・ファイブ登場
第2景:辺見マリ登場
第3景:新人、大船渡の初舞台
第4景:クール・ファイブ、ふるさとを歌う
第9景:クール・ファイブ、ポピュラーを歌う
第10景:秋空に向かって
第11景:ヒット・パレード

第3景の大船渡については連載第9回の8トラック・カートリッジ『演歌』の項を参照頂きたいが、第5景から第8景までがごっそり抜けていて、ステージの紹介文としては何とも不十分である。抜けているうちの一つはてんや・わんやの漫才だろうが、それ以外は不明。アルバムでは1枚目のA面に第1景、B面に第4景、2枚目のA面に第9景、B面に第10景~第11景が収められている。

まずは第1景。東京パンチョスによるオープニング・テーマの演奏、SEとナレーションに続いての「長崎は今日も雨だった」以下4曲では、クール・ファイブのメンバー自身、すなわち前川清(ヴォーカル)、内山田洋(ギター、コーラス)、岩城茂美(テナー・サックス、フルート、コーラス)、宮本悦朗(オルガン、ピアノ、コーラス)、小林正樹(ベース、コーラス)、森本繁(ドラムス)の6人による演奏を聴くことができる。2曲目は、第4回でも触れたようにセールスは伸びなかったが、内山田がMCで「大変私たちは素敵な曲だと信じております」と紹介しているセカンド・シングル「わかれ雨」。続いて、デビューのきっかけとなった曲で「長崎は今日も雨だった」のカップリングにもなったジャジーな「涙こがした恋」、サード・シングル「逢わずに愛して」のカップリングだった「捨ててやりたい」。この2曲のライヴ録音はここでしか聴けない貴重なもの。とりわけ「捨ててやりたい」のスウィンギーな演奏は白眉で、洋楽をベースに持つ彼らの知られざる実力が垣間見れる。

第4景は長崎をテーマにした曲が並んでいて、この内容は後にアルバム『長崎詩情』(1972年3月25日発売)に発展することになる。ここでは東京パンチョスの伴奏により、まず5曲がメドレーで演奏されるが、重大な表記ミスがあり、2曲目は正しくは「長崎エレジー」だが、誤って「長崎シャンソン」(1946年の樋口静雄のヒット曲)となっていて、歌詞も同曲のものが載り、解説にも堂々と書かれてしまっている。このアルバムにはジャケットの意匠を若干変更したセカンド・プレスもあるが、一切修正はされなかった。

メドレーを構成する5曲を紹介しておくと、まず「長崎のザボン売り」は作詞家・石本美由起の処女作となった1948年の作品で、歌謡同人誌『歌謡文芸』への投稿が作曲家・江口夜詩に認められ、小畑実の唄でヒットした。

続く「長崎シャンソン」ならぬ「長崎エレジー」は、ディック・ミネと藤原千多歌が歌った1947年の松竹映画『地獄の顔』主題歌。菊田一夫の戯曲『長崎』を原作に大曾根辰夫が監督したこの映画には、主題歌・劇中歌が全部で4曲ある。他の3曲はディック・ミネ「夜霧のブルース」(「長崎エレジー」同様作詞は島田磐也、作曲は映画全体の音楽も手掛けた大久保徳二郎で、クール・ファイブも後にカヴァー)、渡辺はま子「雨のオランダ坂」、伊藤久男「夜更けの街」(この2曲は菊田一夫作詞、古関裕而作曲)で、いずれもヒットした。この「長崎エレジー」の本来のタイトルは「長崎エレヂー―順三とみち子の唄―」で、西脇順三(水島道太郎)はならず者の主人公、香月みち子(月丘千秋)は順三に思いを寄せる孤児院の保母。ここでのヴォーカルは内山田で、後の『長崎詩情』でのスタジオ録音も同様である。

続いて小林が歌う「長崎の女(ひと)」は1963年の春日八郎の大ヒット曲。前川の歌に戻って、「長崎ブルース」は青江三奈1968年の大ヒット曲だが、レーベル面の作者クレジットは正しいものの、歌詞カードの作者表記と歌詞がまたしても誤りで、1954年に藤山一郎が歌った同名異曲(作詞は藤浦洸、作曲は古賀政男)のものになってしまっている。

メドレーの最後は「長崎物語」。原曲は1937年に橘良江が歌った「ばてれん娘」(作詞は佐藤松雄、作曲は佐々木俊一)で、これは天草での混血児の受難がテーマだったがヒットしなかった。その2年後の1939年、新聞記者だった梅木三郎がやはり混血児の“じゃがたらお春”をテーマに書いた歌詞を見たビクターのディレクターが、「ばてれん娘」のメロディに歌詞を当てはめてもらって仕上げたのが「長崎物語」で、由利あけみが歌い、全国的にヒットした長崎の歌としては第一号となった。戦後の1947年に改めてビクターが「長崎物語」をプッシュするに際し、由利は結婚して引退していたこともあり、「ばてれん娘」のオリジナル歌手である橘改め斎田愛子が歌うことになった。

最後に単独でファースト・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』に収録されていた「長崎詩情(ロマン)」を前川が歌い、このコーナーは締め括られる。

洋楽カヴァーを並べた第9景も、当時の彼らを知る上では重要。まずはオランダから世界に飛び出したショッキング・ブルーの「ヴィーナス」。ギターのロビー・ファン・レーベンの作品で、オランダ本国では1969年7月にリリース、1970年2月にアメリカのビルボード誌で第1位を獲得、日本でも春に大ヒットとなった。それを半年後に取り上げていたわけだが、このクール・ファイブの「ヴィーナス」、なんだか変だと最初から感じていた。最初のドラムスのタム回し、ギターのカッティング、エンディングに乱れがあるのである。それと同時に気になっていたのは、カラー・シートに載ったドラムスを叩く前川の写真。謎がある程度解決したつもりになったのは、1972年2月発売の2枚組ベスト『豪華盤「内山田洋とクール・ファイブ デラックス」第1集』内ジャケに掲載されていたこの写真を見た時だ。

Stage01

ステージ前方に内山田、森本、小林がハンド・マイクを持って立ち、前川がドラムスを叩き、岩城がギターを弾いている。本来の楽器の前にいるのは、オルガンの宮本だけだ。スーツではなく、ポロシャツやカラーシャツを着ていることからも、洋楽コーナーでの写真であることを物語っている。楽器の持ち替えであれば、余興的な位置づけと理解できる。だがこれで謎が解けたわけではない。「ヴィーナス」のヴォーカルは前川だが、トラム・セットの場所にはヴォーカル・マイクがないのである。そしてベースは誰が弾いているのか。サックス・ソロもちゃんとある。そして謎はまだある。裏ジャケットの写真も同じ衣装でのもので、前述の通り女性のダンサーたちも映っているが、前川はステージ中央でスポットライトを浴びて歌っている。だが、この洋楽コーナーで前川がソロで歌っているのは、「ヴィーナス」だけなのである。やはり「ヴィーナス」は持ち替えではなかったのか。それではあの写真は?

続く4曲はメドレーで、前川はお休み。メンバーのスキャットやヴォーカル・ハーモニーで進行していく。1曲目と3曲目はクロード・ルルーシュ監督の映画のためにフランシス・レイが作曲、ピエール・バルーが作詞した映画音楽で、彼らにとって出世作となった1966年の『男と女』のテーマ、そして1968年にフランスのグルノーブルで開催された第10回冬季オリンピックの記録映画『白い恋人たち―グルノーブルの13日―』のテーマ。

Hit1972

2曲目と4曲目はザ・ビートルズの「アンド・アイ・ラブ・ハー」と「イエスタデイ」。どちらもポール・マッカートニーの作品だが、よく考えてみれば「アンド・アイ・ラブ・ハー」も映画『ア・ハード・デイズ・ナイト(旧邦題:ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!)』に使われていたから、映画音楽絡みと言えなくもない。「男と女」は例の♪シャバダバダ~のスキャット、「アンド・アイ・ラブ・ハー」はサックスが奏でるメロディにスキャットを絡ませ、「白い恋人たち」は宮本のピアノ中心、「イエスタデイ」はジャジーなアレンジに乗せたメンバーのコーラス・ハーモニーがいい雰囲気を醸し出す。内山田のギター・ソロもあり。

最後の「ちっちゃな恋人」は、オズモンド・ブラザーズの末弟であるジミー・オズモンドが7歳になる直前に、たどたどしい日本語で録音した和製ナンバー。1970年4月5日にシングル・リリースされ、オリコン2位の大ヒットに。

Cd62

ここではクール・ファイブの演奏をバックに、前川と辺見がたどたどしさを真似ながらデュエットしている。

第10景は司会の玉置を中心にチャーリー、内山田らによる思い出話からスタートし、歌はここでは1曲だけ。前川が初めて内山田と出会った時に披露したという加山雄三の「君といつまでも」(1965年12月発売)を、前川が東京パンチョスの演奏で歌う。

続いて第11景。当時最新ヒットだった「愛のいたずら」、そして「愛の旅路を」は再びクール・ファイブ自身による演奏。東京パンチョスの演奏に切り替わって「逢わずに愛して」「噂の女」で締めくくり。内山田の挨拶のあと、東京パンチョスによる「長崎は今日も雨だった」をモチーフにした短いエンディング・テーマで終了となる。

(文中敬称略、次回に続く)

2021年5月15日 (土)

『今日は一日“ピアソラ”三昧』で紹介したピアソラの先達たち~“タンゴのど真ん中”アルフレド・ゴビを中心に

5月4日にNHK-FMで8時間半にわたりオンエアーされた『今日は一日“ピアソラ”三昧』。リアルタイムであれ、らじる★らじるの聴き逃し配信(14日正午で終了)であれ、番組をお聴きくださった方であれば、案内役の小松亮太氏が伝えたかった重要なテーゼの一つが、「踊りの伴奏に過ぎなかったタンゴを、ピアソラが聴くための芸術に改革した」という、世間に広く浸透している誤解を明確に否定していくことだったことがおわかりいただけただろう。

「ピアソラと先輩たち、基礎を作った人たちの演奏、交流」をテーマに、他のコーナーよりも時間を多めに取ったコーナーの冒頭で、彼が力説した内容を書き起してみよう。

「ピアソラという人を紹介するときに、ダンスの伴奏に過ぎなかったタンゴを聴くための芸術に改革したという風に、今世界中でまことしやかに言われてるんですけれども、これはまったく間違いで、タンゴを聴くための音楽に改革しようよというムーヴメントは、ピアソラさんが小学生の頃からずっと行われていたことなんです。例えばダンスホールに行ったって、お客さんはみんながみんな踊っているわけじゃないんですね。座って聴いている人だっているわけです。だから聴いても良し、踊っても良し、あるいは完全に聴くため、完全に踊るためっていう風に、いろんなカテゴリーがあったわけなんですよね。ピアソラさんだけが凄い、昔のタンゴっていうのは単なる踊りの伴奏に過ぎなかったっていうこの誤解は、タンゴといえば「黒猫のタンゴ」かなぁとか、そういうイメージを持ってたかなり知識の浅い人たちが、ピアソラを持ち上げるための対比効果として、半ば過剰演出みたいな感じで広めてしまった誤解なわけなんですよ。ですからこんなこともあって、ピアソラは最早ピアソラというジャンルなんだから、南米の踊りの伴奏とかと結びつける必要はないだろうみたいな雰囲気になっちゃっているけれども、実はピアソラっていう人はタンゴの中の天才であるということをわかっておかないと、ピアソラさんがやった業績の意味というのはわかんなくなっちゃうんですね」

という前提で、まずピアソラとは対極にある保守本流の圧倒的名演として紹介されたのが、フアン・ダリエンソ楽団の「ラ・ビコーカ」という曲だった。楽団の黄金期を支えたピアニスト、フルビオ・サラマンカ参加後の1940年8月に録音されたこの曲は、しかしながらまったく有名な曲ではない。こんな演奏がいくらでも隠れているのが当時のタンゴ界だった。ちなみに、作者のホセ・アルトゥーロ・セベリーノは1900~10年代を中心に活動していたバンドネオン奏者で、まだ一介のヴァイオリン奏者だったダリエンソとも一緒に演奏していた人物である。

そしてダリエンソの紹介の後、ピアソラの先駆的な存在であり彼に多大な影響を与えてきた重要人物として、エルビーノ・バルダーロ、アルフレド・ゴビ、フリオ・デ・カロ、オスバルド・プグリエーセといった巨匠たちが一人ずつ、「点」としてピアソラとの関わりとともに紹介されたわけだが、番組後半の「ピアソラから広がる新たな響き」のコーナーで登場したエドゥアルド・ロビーラ(ゴビ楽団出身)やロドルフォ・メデーロス(1969年から1974年までプグリエーセ楽団メンバー)も含めて、彼ら全員は、実は「線」で繋がるのである。さらに言えば、ピアソラ作「フヒティーバ」を歌ったマリア・デ・ラ・フエンテ、「日本とピアソラ」のコーナーで紹介されたフアン・カナロまでも、含むことができる。ピアソラ本人も、もちろん含まれる。そして本当はこの中心に、番組では演奏を紹介できなかったアニバル・トロイロを据えなければいけないのだが、順を追って説明しておこう。

まずは、近代タンゴの祖と呼ばれたフリオ・デ・カロ(ヴァイオリン)である。1924年、バンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ピアノ、コントラバスという六重奏団(オルケスタ・ティピカの原型)をスタートさせ、編曲というそれまでタンゴにはほとんどみられなかった概念を取り入れることで、その編成ならではの各楽器の特性を最大限に生かした個性的な演奏スタイルを定めた。各メンバーの自作曲を多く演奏したこともポイント。そのようなデ・カロのことを、小松氏は番組で「第一次の革命をした人」と紹介した。厳密に言うと、デ・カロもいきなり自分たちだけで革命を起こしたわけではなく、その先駆として、エドゥアルド・アローラス(バンドネオン)、オスバルド・フレセド(バンドネオン)、フアン・カルロス・コビアン(ピアノ)らの存在があったことも忘れてはいけないのだが、細かく言い出すとキリがないので、まずは大きな流れの起点にデ・カロを据えても何ら問題はない。ピアソラが捧げたチャーミングな「デカリシモ」(とってもデ・カロ的という意味)は番組で紹介し、リクエストも多かった。

初期のデ・カロ楽団メンバーでは、番組で紹介した「黒い花」(初演と初録音は1927年)の作曲者でもあり、1954年の楽団解散まで弟フリオと行動を共にした兄でピアニストのフランシスコ・デ・カロも重要だが、1924年から26年までバンドネオン・セクションを担ったペドロ・マフィアとペドロ・ラウレンスの二人は、近代的バンドネオン奏法を確立した点でも大変重要である(ピアソラはこの二人に、「ペドロとペドロ」というバンドネオン独奏曲を捧げている)。そのマフィアは1926年に独立して楽団を結成したが、そこに参加していたのがエルビーノ・バルダーロ(ヴァイオリン)とオスバルド・プグリエーセ(ピアノ)である。マフィア楽団が録音を開始したのは1929年だが、この時点でバルダーロとプグリエーセは脱退し、二人の連名によるバルダーロ=プグリエーセ六重奏団を結成(バルダーロは7月に24歳、プグリエーセは12月に24歳)。1930年にこの楽団に参加したのが、マフィアの弟子だった当時わずか16歳のアニバル・トロイロ(バンドネオン)、そしてデ・カロに憧れてタンゴ界入りしていた18歳のアルフレド・ゴビ(ヴァイオリン)だった。そう、ちょうどピアソラ一家がニューヨークからアルゼンチンのマル・デル・プラタに一時帰国して、9歳のアストルがタンゴにはまだ馴染めないまま、初めてまともなバンドネオンの先生に習い始めた頃、ブエノスアイレスではバルダーロとプグリエーセとゴビとトロイロが一緒に組んで(!)、新しいタンゴを模索していたのだった。だが、バルダーロ=プグリエーセ楽団は、1枚のレコードも残せずに解散(だからどんな音だったかを知る術はない)。世界大恐慌のあおりを受け、ジャズやトーキー映画など北米からのエンターテインメントの流入もあり(トーキーのお陰でタンゴ楽団は映画館でのアトラクションという仕事の場を失った)、タンゴは商業的にも音楽的にも曲がり角に差し掛かっていたのだ。先鋭的な新人アーティストに出番はなかった。

それでもバルダーロは、1933年に改めて六重奏団を結成。第1バンドネオンにはデ・カロ楽団に移籍していたトロイロが戻り、第2ヴァイオリンには、後にピアソラの盟友となるウーゴ・バラリスが参加。ピアニストでアレンジャーのホセ・パスクアルも、大成はしなかった人物だがここで重要な役割を果たした。この時期のバルダーロ六重奏団も、レコードは1枚も残せなかったが、番組でも紹介した、音の悪い「老いた虎」の超貴重なアセテート盤へのテスト録音を残している。既にラジオ局への出演は果たしていたが、よりメジャーな局へ出演するためのオーディション目的だった。結果は「商業的ではない」として却下。解散時期は資料によってバラつきがあるが、マル・デル・プラタに帰国後くすぶっていたピアソラが、1938年5月に偶然ラジオでバルダーロ楽団の演奏(当然、あの「老いた虎」の録音ではない。曲目は不明)を耳にしたのは、奇跡的な偶然としか言いようがない。

バルダーロは、1938年にピアニストのルシオ・デマーレ(名曲「マレーナ」の作曲者)と連名でデマーレ=バルダーロ楽団を結成するが、それも短命に終わっている。その後は断続的に楽団を率い、1953年に録音した2曲のみが、彼自身の名義によるレコードとして残された。プレイヤーとしては数多くの録音に参加しているので、彼の演奏自体はいろいろ残されている。ピアソラのグループでは、1956~57年の弦楽オーケストラ、1961年の五重奏団に参加。1971年に亡くなった彼に、ピアソラは「バルダリート」を捧げた。

プグリエーセは、バルダーロ=プグリエーセ楽団の解散後、ゴビとの二重奏(または楽団?)を経て1934年にデ・カロから独立後のペドロ・ラウレンス楽団に参加。1936年以来何度か自身の楽団を立ち上げようとしては失敗し、1939年にようやくデビュー。1941年にラジオ出演開始、1943年から録音を開始し、1946年に独自のリズム理念を凝縮した自作曲「ラ・ジュンバ」を初録音。1948年録音の自作曲「ネグラーチャ」は3-3-2のリズムを多用したもので、1951年の「タングアンゴ」から顕著になるピアソラの音作りに影響を与えたのは一目瞭然。ピアソラ自身、1956年に弦楽オーケストラでその「ネグラーチャ」をかなり忠実に再現している。実は番組の中で「ネグラーチャ」の聴き比べもやりたかったのだが、時間の関係で断念。プグリエーセのジュンバのリズムを意識したピアソラの「スム」(1971年12月のコンフント9での演奏)と、プグリエーセ楽団による解釈(ロドルフォ・メデーロス編曲、1973年12月録音)の比較に留めた。1989年6月には、プグリエーセ楽団とピアソラ六重奏団のステージ上での共演がオランダで実現している。

トロイロは、1935年にはバルダーロ楽団を離れ、いくつかの楽団を経て1937年に自己の楽団を旗揚げ。1938年にオデオンに2曲のみ録音。1941年からRCAに本格的に録音を始める。アルゼンチンが第二次世界大戦に参加しなかったことで輸出が伸び、バブル景気に見舞われたことが、1940年代にタンゴが新たな黄金時代を迎える大きな要因となったことは、番組でも紹介されていたが、それに先駆けたタンゴ界の動きとして、1934~35年のダリエンソ楽団の再デビューがあった。そもそもダリエンソは1928年に一度デビューしているが、その時は特に特徴のない平均的なスタイルだった。それがレパートリーを古典に絞り、スタッカートを極端に強調して“電撃のリズム”と呼ばれたスタイルに大胆に転換、自身はヴァイオリンを置いて指揮に専念する。そして1935年にロドルフォ・ビアジ(ピアノ)が参加してその手法に磨きが掛けられて、ダリエンソはタンゴ復興の象徴となった。その影響もあり、初期のトロイロは、デ・カロやバルダーロの流れを汲みながら、ダリエンソを意識したかのような、軽快でテンポの早いスタイルも持ち合わせていた。そのエネルギーのほとばしりには、初期のトロイロ・サウンドを担った天才ピアニスト、オルランド・ゴニ(トロイロと組む前、ゴビともトリオで活動)と、ピアソラも愛したタンゴ史上最強のコントラバス奏者、エンリケ・“キチョ”・ディアスの力も存分に反映されていた。

バルダーロ楽団で第2ヴァイオリンを務めたバラリスは、1938年にトロイロ楽団に参加。1939年、毎日演奏を聴きにやってくるピアソラに目を付け、年末には楽団参加の仲立ちもした。ピアソラがトロイロ楽団脱退後、1940年代後半~1950年代前半に率いた楽団(50年代前半は録音活動のみ)では第1ヴァイオリンを務め、1954年のフアン・カナロ楽団の日本公演(ピアソラが多くの編曲を提供。歌手としてマリア・デ・ラ・フエンテも参加)では実質的なリーダーを務めた。時期は不明だがアルフレド・ゴビ楽団にも参加。ピアソラのオクテート・ブエノスアイレス(1955~57年)やコンフント9(1971年~1972年)では第2ヴァイオリンを務めている。

そして、アルフレド・ゴビ。彼について小松氏は番組で次のように熱く語っている。

「アルフレド・ゴビという人が忘れられていくということがあってはならないと思うし、ある意味ではアストル・ピアソラよりももっと偉い人です。なんでかと言うと、タンゴというジャンルそのもののど真ん中を作った人。もちろん、軽いものから重いものから、いろんなタンゴがあるんだけれども、タンゴというのは基本的にこうであるという、すべてのタンゴに共通する価値観というものを確立した人だと思うんですよね」

アルフレド・ゴビ(ミドル・ネームはフリオ、1912年5月14日~1965年5月21日)はパリ生まれ。同名の父親アルフレド・ゴビ(ミドル・ネームはエウセビオ)と母親のフローラ・ロドリゲスはタンゴ黎明期の歌手コンビで、「ゴビ夫婦 (Los Gobbi)」もしくは「ゴビと妻 (Gobbi y señora)」という名前で活動。同時期に活動を共にしたアンヘル・ビジョルドは、タンゴ界最初のシンガー・ソングライターとして「エル・チョクロ」などを残している。1907年にはゴビ夫婦とビジョルドでパリに渡り、録音活動も行う。手元に当時のレコードが1枚あるが、夫婦漫才のような雰囲気だ。

T39

息子アルフレドがパリ生まれなのは、そういう理由による。1912年末には帰国、6歳からピアノやヴァイオリンを学んでいる。前述の通りデ・カロに憧れてタンゴ界入りし、1927年にバンドネオン奏者フアン・マグリオ・“パチョ”の楽団に参加。バルダーロ=プグリエーセ楽団参加前には、オルランド・ゴニ、バンドネオンのドミンゴ・トリゲーロ(特に有名な人ではない)とのトリオでも活動している(ゴビ以上にボヘミアンだったゴニは1945年に31歳で死んでしまい、ゴビは「オルランド・ゴニに捧ぐ」を書いて追悼した)。バルダーロ=プグリエーセ楽団解散後は、プグリエーセとのデュオ(または楽団?)を経て、1935年にはプグリエーセの後を追って(?)ペドロ・ラウレンス楽団に参加。その後もいくつかの楽団を転々とした後、1942年に自己の楽団を結成する。

以前「アストル・ピアソラ五重奏団、1973年の超貴重映像」という記事で紹介したウルグアイのテレビ番組『タンゴの土曜日』出演の際、「アルフレド・ゴビの肖像」の演奏前にピアソラが司会のミゲル・アンヘル・マンシに語ったエピソードが、小松亮太著『タンゴの真実』(旬報社)に翻訳されている(p143~144)。詳しくは同書を読んで頂くとして(必読なので!)、近所に住んでいたゴビの家を訪れて「アレンジ譜を買わせてほしい」と頼む話が出てくる。ピアソラは「私の記憶では19歳の頃(1940年)だ」「まだ私が独身で…」と述懐しているが、ゴビ楽団の結成は1942年だ。ピアソラが結婚するのは1942年10月なので、その直前の出来事だとすれば、何とか辻褄は合う。ゴビの初録音は結成5年後の1947年5月だが、ブエノスアイレスの事情通の間で語られてきたのが、ゴビが本当に凄かったのは、まだレコード会社と契約できる前のことだったという話。それでも、残された録音で聴くゴビは特別だ。ただし、タンゴ界にありがちなボヘミアン気質その他いろいろな事情があり、ゴビ楽団が公式に残した録音は、決して多くはなく、1958年7月までの82曲がすべてだ。

小松氏は『タンゴの真実』の中で、ゴビについてこう書いている。「僕の実家にもゴビの音源はひとつもなかった。両親やその周辺の人たちがゴビという人の話をしていた記憶もない」「理由は「中庸だから」、いや、「中庸に見えているから」。これに尽きる」。まあ、確かにそうなのかも知れないし、日本で出たゴビのアルバムは、オムニバスに収められた以外の単独盤は『黄金時代のアルフレド・ゴビ』(1969年9月発売)ただ1枚だけだったので、仕方のないことだったのかも知れないが、実はもう一つ理由がある。戦後のタンゴ評論の世界を牛耳っていた高山正彦氏や、その一番弟子だった大岩祥浩氏が、ゴビのことをまったく評価していなかったのである。1954年発行の高山正彦著『タンゴ』(新興楽譜出版社)では、「現代タンゴ界の展望」と題されたパートで、個別の項目ではなくその他の扱いで、次のように記されている。

「同様にRCAヴィクトルに属する、アルフレド・ゴビは、「ヴィオリン・ロマンティコ・デル・タンゴ」の通り名がありますが、実の所は一向それらしくもない、むしろキメの荒い感じのヴァイオリンで、演奏も決して非力ではないのでありますが、魅力に乏しいうらみがあります」

たったこれだけである。その後の石川浩司氏や高場将美氏の登場によって、ようやくゴビへの正当な評価への兆しが表れたと言えるだろう。「中南米音楽」の1969年1月増刊『タンゴのすべて2』には「アルゼンチン一線評論家が選んだタンゴ十大楽団・十大歌手」という記事があり、そこでは次の楽団が選ばれている(順位はなし)。

フリオ・デ・カロ楽団
カルロス・ディ・サルリ楽団
オスバルド・プグリエーセ楽団
アニバル・トロイロ楽団
アルフレド・ゴビ楽団
オラシオ・サルガン楽団
オスバルド・フレセド楽団
アストル・ピアソラ
フランシスコ・カナロ楽団
アルマンド・ポンティエル楽団(またはフランチーニ=ポンティエル楽団)

ダリエンソが入っていないのが面白いが、納得の結果である。編集部(おそらく高場氏)によるゴビ楽団へのコメントを読んでみよう。

「1940年代から活動し、ムラはありましたが、1965年にゴビが没するまで存続しました。日本ではレコードがほとんどないこともあり、一般には良く知られていない楽団ですが、アルゼンチンでの評価は、この選出にあらわれた通りです。レコードは、ビクターの「黄金時代のタンゴ」シリーズ第三期のなかで発売されるので、それに期待しましょう」

そして「中南米音楽」1969年9月号の『黄金時代のアルフレド・ゴビ』紹介欄(下の写真は同内容のアルゼンチン盤)。

Cal2989

高場氏は見出しで「日本ではほとんど認識されていなかった一流楽団ゴビのオルケスタの真価を問うもの」と書き、本文では「気持のよいスイング感が、ゴビ楽団のいちばん大きな魅力だろう。その上に展開される演奏は、誇張や気取りがなく、タンゴの本当の楽しさにあふれている。古典タンゴと現代のスタイルとの融和としては、もっとも理想的なもののひとつといえよう」と評価する。石川氏も著書『タンゴの歴史』(青土社、2001年)で「評価を見直したいアルフレド・ゴビ」と見出しを付け、「筆者は現在では40年代のゴビ楽団はトロイロには及ばないもののプグリエーセよりは上だったのではないかと考えている」と書く。もっとも、プグリエーセが真価を発揮するのは1950年代になってから、という前提での評価ではあるが。

不肖ながら私も、岩岡吾郎編『タンゴ…世紀を超えて』(音楽之友社、1999年)の「タンゴの名流100撰」でゴビを担当させてもらい、次のように書いた。

「アルフレド・ゴビの例えようのない素晴らしさを、どのように書けばいいのだろう。ゴビのサウンドの中には、デ・カロもトロイロもディ・サルリもプグリエーセもある。そうした様々な要素、しかもおいしい部分が魔法のようにミックスされ、それが独特のスウィング感に乗って展開されていくのである。理論では説明不可能で、これはまさに天才的感性の賜物としか言いようがない」

なお、ゴビ楽団を支えた重要なメンバーとして、バンドネオンのマリオ・デマルコを挙げておこう。優れた作曲家で編曲家でもあったデマルコは、結成から1951年まで楽団を支えた後に独立、ゴビのスタイルを継承した自己の楽団を結成したが、1954年に解散。解散間際のデ・カロ楽団、再びゴビ楽団に短期間参加した後、プグリエーセ楽団に参加し、1959年まで力を揮った。その他楽団に去来したメンバーには、セサル・サニョーリ、エルネスト・ロメロ、ロベルト・シカレ、オスバルド・タランティーノ(以上ピアノ)、エデルミーロ・ダマリオ、アルベルト・ガラルダ、エドゥアルド・ロビーラ(ゴビ楽団に提供した「ゴビ風に(El engobbiao)」は傑作!)、オスバルド・ピーロ(以上バンドネオン)、アルシーデス・ロッシ、オスバルド・モンテレオーネ(以上コントラバス)、アントニオ・ブランコ、ウーゴ・バラリス(以上ヴァイオリン)などがいる。歌手はホルヘ・マシエル、エクトル・マシエル、アンヘル・ディアス、エクトル・コラル、アルフレド・デル・リオ、ティト・ランドーほか。

ゴビの録音は、全曲が次の5枚に収められてCD化されているが、入手はやや難しいか。

Eu17008
Colección 78 RPM - Alfredo Gobbi 1947/1953 (Euro EU 17008)

Eu17028
Colección 78 RPM - Alfredo Gobbi 1949/1957 (Euro EU 17028)

Eu16012
Archivo RCA - Alfredo Gobbi y sus cantores (Euro EU 16012)

Eu18007
Archivo Columbia - José Sala 1953/1954 - Alfredo Gobbi 1958 (Euro EU 18007)

Eu14027
“Entrador” Alfredo Gobbi Instrumental (1947-1958) (Euro EU 14027)

このうち、インストゥルメンタル全曲とエクトル・マシエルが歌う「ティエリータ」を収めた最後のCDが、現在Spotifyに挙げられている。とにかく聴くべし。

ピアソラは1961年4月、キンテート(ヴァイオリンはバルダーロ、コントラバスはキチョ・ディアス)によるアルバム『ピアソラか否か』に、ゴビが自身の楽団では録音できなかった「私の贖罪 Redención」を収録するにあたり、当時極度のアル中で録音活動から見放されていた 作者ゴビをスタジオに招いた。ピアソラはゴビのスタイルに忠実に演奏し、ゴビは演奏を聴きながら泣いていたそうである。トロイロが「悲しきミロンゲーロ (Milonguero triste)」を捧げた1965年、ゴビは亡くなった(同曲の録音は1月、亡くなったのは5月)。ピアソラは、自身もスランプにあえいでいた1967年に「アルフレド・ゴビの肖像」を初録音。ゴビの「放浪者(El andariego)」のフレーズをそこに織り込んだことは、小松氏が番組で語っていたとおりである。

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2021年5月 5日 (水)

NHK-FM「今日は1日“ピアソラ”三昧」放送の巻

【5月6日追記】NHKラジオ「らじる★らじる 聴き逃し」で5月7日(金)正午から1週間の配信が決定! リンクはこちら!【追記ここまで】

【5月8日追記】らじる★らじるの配信で番組をすべて聴き直した。自分の話したことは大体覚えていて、あまり変なことは言っていなかったが、唯一残念だったのが、ミルバ&ピアソラ「行こうニーナ」の紹介の際、小松さんから「ニーナって誰のことでしょうね」と聞かれ、「ちょっとわからない」と答えてしまったこと。記憶が飛んでいたが、ライヴ盤のライナーにはしっかり書いていた。以下はアメリータ・バルタールの証言だ。「このタンゴは1971年7月にパリで書かれたの。セーヌ川に面したパリ市庁舎の近くにトラック運転手のための大衆食堂があって、そこで私たちがいつも見ていた人物が描かれている。とても美しい昔ながらの店で、私たち3人はいつも食事をしたものよ。そこに、黒い身なりで厚化粧の、小犬を両腕に抱いた酔っ払いのお婆ちゃんが現れるの。彼女のことを『ニーナ』と名付けたのはオラシオ(・フェレール)よ、自分の言葉で彼女のことを歌にするためにね。みんなで帰国してから、レジーナ劇場で初演したの」。【追記ここまで】

こちらでは告知できないままに終わってしまったが、昨日5月4日(火・祝)、NHK-FMで12時15分から21時15分まで、ニュース中断30分を挟んで8時間30分にわたり、「今日は一日“ピアソラ”三昧」がオンエアーされた。私は、案内役を務めたバンドネオン奏者の小松亮太さん(先日出版された著書『タンゴの真実』は必読!)から依頼を受け、企画から選曲まで、全面的に携わらせていただいた。番組の前半は裏でリクエストの仕分けと選曲・選盤を手伝い、後半には一緒に出演してトークも担当した。

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長時間のこのプログラム、いくつかのコーナーを設け、テーマごとに解説しながら曲を掛けていった。以下はそのプレイリスト。

●オープニング

01. Revirado / Astor Piazzolla y su Quinteto Tango Nuevo(オープニングテーマ)(『ライヴ・イン・ウィーン』より)

02. Milonga del ángel〈天使のミロンガ〉 / Astor Piazzolla y su Quinteto Nuevo Tango(ブエノスアイレス滞在経験のある竹内香苗アナウンサーからのリクエスト、『ニューヨークのアストル・ピアソラ』より)

●リクエスト・コーナー

03. Escualo〈鮫〉 / Astor Piazzolla y su Quinteto(『Live in Tokyo 1982』より)

04. Oblivion / 小松亮太、イ・ムジチ合奏団

●ピアソラの音楽の魅力(ゲスト:国府弘子)

05. Adiós Nonino / 国府弘子(小松亮太参加)

06. Tres minutos con la realidad〈現実との3分間〉 / Astor Piazzolla (& The New Tango Sextet) (『現実との57分間』より)

07. Libertango / Yo-Yo Ma

●リクエスト・コーナー

08. Tangata / Astor Piazzolla y su Quinteto Tango Nuevo(『AA印の悲しみ』1986年ライヴより)

●ピアソラと先輩たち、基礎を作った人たちの演奏、交流

09. La bicoca / Juan D'Arienzo y su Orquesta Típica(1940年録音)

10. Tigre viejo〈老いた虎〉 / Elvino Vardaro y su Orquesta(1933年録音、アセテート音源)

11. Se armó / Astor Piazzolla y su Orquesta Típica(1947年録音)

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12. Fugitiva / María de la Fuente(1952年録音、ピアソラ伴奏指揮)

13. El andariego〈放浪者〉 / Alfredo Gobbi y su Orquesta Típica(1951年録音)

14. Retrato de Alfredo Gobbi〈アルフレド・ゴビの肖像〉 / Astor Piazzolla y su Quinteto(『レジーナ劇場のアストル・ピアソラ1970』より)

15. Flores negras〈黒い花〉 / Julio De Caro y su Orquesta Típica(1927年録音)

16. Decarisimo / Astor Piazzolla y su Quinteto(『ピアソラ、ピアソラを弾く』より)

17. Zum / Astor Piazzolla y su Conjunto 9(『ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第1集』より)

18. Zum / Osvaldo Pugliese y su Orquesta Típica(『サン・テルモの夜』より)

●コメントとリクエスト:鈴木明子さん

19. Libertango / Astor Piazzolla y su Quinteto Tango Nuevo(『ライヴ・イン・ウイーン』より)

●革命のピアソラ

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20. Tanguango / Ahmed Ratip y sus Cotton Pickers(1951年録音)

21. Marron y azul〈栗色と青色〉 / Octeto Buenos Aires("Tango moderno"より)

22. La cumparsita / Astor Piazzolla, su Bandoneón y su Orquesta de Cuerdas("Tango en Hi-Fi"より)

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23. Azabache / Astor Piazzolla, su Bandoneón y su Orquesta de Cuerdas(1956年録音)

24. A fuego lento〈とろ火で〉 / Quinteto Real("Quinteto Real"より)

●美輪明宏×小松亮太対談(事前収録)

25. Mi Buenos Aires querido〈わが懐かしのブエノスアイレス〉 / Carlos Gardel(1934年録音)

26. Caminito / Libertad Lamarque(1953年メキシコ録音)

27. Nostargias / 藤沢嵐子 伴奏=早川真平とオルケスタ・ティピカ東京(『タンゴとともに20年』より、ピアソラ編曲)

28. 夜のプラットホーム / 藤沢嵐子 (伴奏)ミゲル・カロとオルケスタ・ティピカ(『ブエノス・アイレスの藤沢嵐子』より)

29. Poema / 美輪明宏

●彷徨えるピアソラ(ここから斎藤も参加)

30. Suite para piano - Preludio / 黒田亜樹(『Tango Prelude - Piazzolla Piano Works』より)

31. Tres Movimientos Sinfónicos, Buenos Aires - Moderato / Conductor: Gisèle Ben Dor, Bandoneón: Juanjo Mosalini, Santa Barbara Symphony("The Soul of Tango"より)

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32. Les amoureux de novembre〈11月の恋人たち〉 / Michèle Arnaud(1961年録音)

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33. Orchids in the Moonlight〈月下の蘭〉 / Astor Piazzolla and his Orchestra(『イヴニング・イン・ブエノスアイレス』より)

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34. Lullaby of Birdland〈バードランドの子守唄〉 / Astor Piazzolla, His Quintet & Rhythms(『テイク・ミー・ダンシング!』より)

35. La Muerte del Angel〈天使の死〉 / Astor Piazzolla & Gary Burton(『ニュー・タンゴ(モントルー・ライヴ)』より)

●リクエスト・コーナー

36. Concierto Para Bandoneón - I. Allegro marcato〈バンドネオン協奏曲 第一楽章〉 / バンドネオン:小松亮太 指揮:ミシェル・プラッソン 管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団(小松亮太5月5日発売新譜『ピアソラ:バンドネオン協奏曲 他』より)

37. El día que me quieras〈想いの届く日〉 / Astor Piazzolla(『タンゴ ガルデルの亡命』サウンドトラックより)

●コラボのピアソラ

38. Summit / Gerry Mulligan - Astor Piazzolla(『サミット』より)

39. Nous avons le temps〈コンドルは飛んで行く〉 / Georges Moustaki(『ムスタキ(詩人の叫び)』より)

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40. Siempre se vuelve a Buenos Aires〈いつもブエノスアイレスに帰る〉 / Astor Piazzolla y su Quinteto, Canta: José Angel Trelles("Volver"サウンドトラックより)

41. Introducción a héroes y tumbas〈英雄と墓へのイントロダクション〉 / Astor Piazzolla y su Nuevo Octeto, recita: Ernesto Sábato(『タンゴ・コンテンポラネオ』より)

42. Fábula para Gardel〈ガルデルへの寓話〉 / Astor Piazzolla - Horacio Ferrer(『エン・ペルソナ』より)

●コメントとリクエスト:米倉涼子さん

43. Yo soy María / María Volonté("Yo soy María"より)

●リクエスト・コーナー

44. Milonga de la anunciación〈受胎告知のミロンガ〉 / Astor Piazzolla - Amelita Baltar(『ブエノスアイレスのマリア』より)

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45. Il Pleut Sur Santiago〈サンチェゴに雨が降る〉 / Astor Piazzolla(『サンチャゴに雨が降る』サウンドトラックより)

●小松亮太五重奏団スタジオ・ライブ

46. La calle 92〈92丁目通り〉 / 小松亮太五重奏団(ライブ)

47. Prepárense〈プレパレンセ〉 / 小松亮太五重奏団(ライブ)

48. Contrabajeando〈コントラバヘアンド〉 / 小松亮太五重奏団(ライブ)

49. Coral〈コラール〉 / 小松亮太五重奏団(ライブ)

50. Concierto para quinteto〈五重奏のためのコンチェルト〉 / 小松亮太五重奏団(ライブ)

~ニュース中断~

●コメントとリクエスト:椎名林檎さん

51. El choclo / Astor Piazzolla y su Gran Orquesta(『タンゴの歴史 第1集~グアルディア・ビエハ』より)

●ピアソラから広がる新たな響き

52. Sónico / Eduardo Rovira y su Agrupación de Tango Moderno("Sónico"より)

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53. Al diablo con el diablo〈悪魔なんかくそくらえ〉 / Rodolfo Mederos y Generaci ón Cero("Fuera de broma"より)

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54. Ballade pour un fou (Loco, Loco)〈ロコ・ロコのバラード〉 / Julien Clerc(1975年録音)

55. La primera palabra〈最初の言葉〉 / Chany Suarez("En caso de vida"より)

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56. Le diable (El diablo)〈悪魔〉 / Jairo("Le diable"より)

●ピアソラと日本

57. Inspiración〈霊感〉/ Orquesta Juan Canaro(1954年録音、"El tango en Japón"より)

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58. Lo que vendrá〈来るべきもの〉 / 早川真平とオルケスタ・ティピカ・東京(『タンゴ・エン・トウキョウ(タンゴ喫茶店巡り)』より)

59. Mort〈死〉 / Tee & Company(『Dragon Garden』より)

60. Che bandoneón / Astor Piazzolla with Ranko Fujisawa(『Live in Tokyo 1982』より)

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61. Vamos, Nina〈行こうニーナ〉 / Milva & Astor Piazzolla(『Live in Tokyo 1988』より)

●リクエスト・コーナー

62. Buenos Aires hora cero〈ブエノスアイレス零時〉 / Astor Piazzolla y su Quinteto Nuevo Tango(『ある街へのタンゴ』より)

63. Vuelvo al Sur〈南へ帰ろう〉 / Astor Piazzolla et son Quintette, chante par Roberto Goyeneche(『スール その先は…愛』サウンドトラックより)

64. Invierno Porteño〈ブエノスアイレスの冬〉 / Astor Piazzolla y su quinteto(『レジーナ劇場のアストル・ピアソラ1970』より)

●エンディング

65. Concierto para Bandoneón y Orquesta - Presto〈バンドネオン協奏曲 第三楽章 プレスト〉 / Astor Piazzolla with The Athens Colours Orchestra, Conducted by Manos Hadjidakis(『バンドネオン・シンフォニコ~アストル・ピアソラ・ラスト・コンサート』より)

66. Adiós Nonino / Astor Piazzolla with The Athens Colours Orchestra, Conducted by Manos Hadjidakis(『バンドネオン・シンフォニコ~アストル・ピアソラ・ラスト・コンサート』より)

盛りだくさんの内容、「踊りの伴奏に過ぎなかったタンゴを芸術の域に高めた」的な誤ったピアソラの神格化に異議を唱え(それは私もまったく同感だ)、たくさんの例証とともに丁寧な説明を繰り出していく小松さんの熱いトークで、常に時間と闘いながらの進行だった。有名曲、アメリータ・バルタールやロベルト・ゴジェネチェの歌はあえてプログラムに入れずにリクエストに期待するという方法で、なんとか乗り切った。それでも、リクエストの多かった「ミケランジェロ70」やアサド兄弟の演奏など、入りきらないものも多かった(アサド兄弟の「タンゴ組曲」は、ニュース中断前のエンディングで、かろうじてバックに流れた)。生涯最後の録音となった最後の「アディオス・ノニーノ」、完奏する予定だったがクライマックスで時間切れ、フェイド・アウトとなったのは残念だったが。

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とにもかくにも無事に終了し、最後に小松さん、美しい声を聴かせてくださったアナウンサーの竹内香苗さんと記念撮影。皆さんお疲れさまでした。

 

2021年4月15日 (木)

新たな機材の導入でノイズのないディスクリート4チャンネル・レコードの再生が実現

※過去の記事『CD-4を中心とした4チャンネル・レコードの再生』と併せてお読みください。

2月23日に前掲記事をアップした際、最後に「CD4-30をフォノイコとしての通常のステレオ盤再生もいい感じなので」と書いた。これは実際にその通りで、調整されたAさんによればはっきりとした理由があるという。

「RIAA補正というのは御存じのように、レコード作成時に低域を抑え、高域を持ち上げた特性でレコード溝を作成し、再生時にイコライザアンプで低域をブーストし、高域をカットして録音時と同じ平坦な特性に戻すことを指します。
イコライザアンプは世界規約であるRIAA特性カーブを忠実に補正(イコライズ)するのが一番重要な要素となるので、高級アンプでは高価な誤差の少ないコンデンサや抵抗部品をあえて使用して実現させています。
通常のプリアンプ部では一つのイコライザ回路でこれをやるのですが、RIAA特性をさらに忠実に再現するため、さらに高級なアンプでは低域のブースト部と高域のカット部を分けた2段構成のイコライザアンプを用意して、低歪率と正確なRIAA補正を実現しています。
CD-4デモジュレータではイコライザアンプで高域をカットしたら30KHzで変調された4CHのサブ信号がなくなってしまうことになりますので、何と超高級アンプに使用されている方法と同じ2段構成のイコライザアンプを用意しているのです。
(中略)
CD-4デモジュレータには2CH出力に切り替えられるスイッチポジションもありますから、MMカートリッジでレコードを聴きたいなら高価なイコライザアンプを用意しなくても、4CHとか関係なしに落札されずに残っているCD-4デモジュレータが一番お勧めとなります。
でも世間の人は、CD-4デモジュレータとイコライザアンプは別物と思っている人が多いようですが・・」

ということで、長年愛用してきたMC専用のフォノイコライザー、LINNのLINTOは思い切って手放すことにした。そしてメインのMCカートリッジであるaudio-technicaのAT33PTG/IIやモノラル用カートリッジの同AT33MONOをCD4-30でも鳴らせるよう、初めてのMC昇圧トランスの購入を検討し、Phase TechのT-3の中古をヤフオクで落札。それが届いたのが3月8日だった。

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一聴して実在感が増した感じで、最初の感触は良かった。

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AT33PTG/IIはマイクロリニア針(ラインコンタクト針の一種)で再生周波数15~50,000Hzだったので、実際に繋いでみてCD-4盤の4ch再生も可能なことがわかったが、残念ながらノイズが乗りやすかった。

そのノイズの原因を探っていた矢先、またもやAさんから中澤さん経由で願ってもいない情報がもたらされた。とある4chレシーヴァーに第3世代ディモジュレーター用の例の「CD4-392」ICチップが搭載されていることに気付き、「IC自体が生きている事は確認出来たそうで、今後、それの載った基板を単体CD-4デモジュレイターに移植して使えるかどうかを探っていく」のだという。それが3月17日の夜のこと。その夜遅くAさんにリクエストを送り、「うまく動作させられるかは現時点では未知数です。移植先としてはCD4-10のケースを使用することを考えています。うまくいったときには改めてお声かけさせていただきます」とのお返事を頂いたのが18日の午前中。それがなんと19日の夕方には「作業が完了しました」とのメールが届いたので驚いてしまった。ただし予定よりも費用が掛かってしまったので、とりあえず貸し出すから使ってみてほしいとのことで送っていただき、3月22日の午前中に到着。

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早速そのCD4-10“改造機”をセッティングし、ortofon MC-3 Turboで聴いてみて、ノイズの除去性能が極めて高いことを瞬時に確認できた。ノイズに強いMC-3 Turboでの再生であっても、盤によって特にそれまで目立っていた、ハイハットやシンバル、サ行、その他高音部への強烈な付帯ノイズはほぼ完璧に消え、チリチリしたノイズも目立たなくなり、結果的に全体の見通しがぐんと良くなった。

具体的にどのような改造が行われたのか。まず、Aさん提供によるデフォルトのCD4-10の内部写真を見てみよう(キャプションもAさんによる)。

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・左側基板:電源基板
・中央大きな基板:CD4デコーダ及びANR(Auto Noise Reduction)回路基板
・上部基板:信号分離用基板

ここに、レシーヴァーから取り出した、CD4-392を搭載した次の基板を組み込むのだという(これも画像はAさん提供)。

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CD4-392の特徴をまとめると、「PLL(Phase Locked Loop)内蔵でCD4デモジュレート機能はもちろんの事30KHzキャリア信号の自動補正機能、ANR(Auto Noise Reduction)機能、信号分離・混合機能まですべて含んだものであり、第二世代のCD4-10やCD4-30の機能のほとんどがこのICの中で実現されてしまっていることになる」とのこと。技術的なことは私にはわからないのだが、Aさんの詳細な改造作業メモから、作業工程の大まかな要点を私なりに整理してみた。

(1) レシーヴァー側のマザー基板を調査し、CD4ディモジュレーター基板ソケットの役割を見つける

(2) CD4-10の改造:使用しない基板の撤去、電源部のメンテナンス、配線、ランプのLED化など

(3) CD4-392 ICチップ使用のデコーダー基板組み込み、調整

改造後の内部はこんな感じで(Aさん提供画像はここまで)、本来の基板のうち「利用するのは電源基板と第一イコライザ基板(RIAAのLOW-UP)のみ」で、組み込まれた上部の基板にディモジュレーター機能が集約されているため、このようにスカスカになるのだという。

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改造の効果は絶大だったが、そもそもなぜこのような七面倒くさい改造が必要なのか。CD4-392 ICチップを使用したディモジュレーターを最初から探せばいいのではないか、と思われるかも知れないが、そのようなものは手の届くところには存在していないのだ。1974年、CD4-392の開発によりCD-4再生の大きな弱点であったノイズ発生が克服されたというのに、その事実も知られないまま、既に4chは終焉期を迎え、各オーディオメーカーも見切りをつけていた。それでもビクターからは業務用のCD4-1000(当時の価格で48万円!)が出て、1976年にはその設計思想を受け継いだという民生用ディモジュレーターの最終機CD4-50(99,800円)が登場したが、受注生産品であり、幻の存在と化しているという。ただしCD4-392を載せた基板は、いくつかのレシーヴァーにひっそりと使用されていた。なのでこの改造は、そうした現実に即しているという意味で理に叶っているというわけだ。

CD-4の再生能力のみならず、CD4-10改造機はフォノイコライザーとしての性能も向上しているように感じたが、これについてAさんからは「CD4-392 ICには前後の和信号と差信号をMIXする部分も搭載しているので、ロールオフ部はCD4-392の基板上になります。ローアップのイコライザ部は底蓋を開けると見えます。CD4-30ではオペアンプを使用した簡易型のものでしたが、CD4-10では3石ディスクリート構成の立派なものが搭載されています」とのコメントを頂いた。

ただし、通常の2chステレオはともかく、AT33PTG/IIから昇圧トランスT-3を経由してのCD-4再生は、期待してみたもののやはり無理だった。CD4-30で聴くよりはだいぶまともだったが、内周近くでは全体にノイズが乗り、歪みっぽくなってしまう(後に判明したその理由については後述)。トランス経由での再生について、改造機をリクエストした際にAさんに尋ねてみたところ、Aさん自身はトランス経由でCD4再生した経験はないと前置きされた上で「トランスはインダクタンスを持っており、周波数が上がればインピーダンスが増加します。なのでCD4のように50KHzまで平坦な特性が要求される用途には不向きであるような気がします」との返答を得ていた。

ということで、昇圧トランスに換えてMCヘッドアンプの導入を検討することになった。VenetorのVT-MCTLというのが良さそうだったが、8万円台ではいかんせん高過ぎ、というか予算がない。ヤフオクで検索してみても、トランスと比較してヘッドアンプの選択肢はより少ない感じだったのだが、マークレビンソン JC-1DC(1974年発売)の回路をベースにしたという電池駆動式の自作ヘッドアンプが目に留まった。即決価格27,000円で、コンスタントに売れているようだった。評価欄のコメントのみが頼りだったが、思い切って落札し、3月29日に到着。

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CD4-10改造機の上に載っているのが、その無印のヘッドアンプ。実は昇圧トランスのノイズの原因の一つは、AT33PTG/IIを取り付けたカートリッジとアームとの接点の汚れだったことが後からわかったのだが、それを解決してもノイズは完全には消えなかった。結局昇圧トランスは入手から1か月足らずで手放すことになったが、ヘッドアンプとの聴き比べの様子を以下にまとめておく。ハムノイズが出やすいのはトランスの方で、ヘッドアンプはヴォリュームを最大にしても問題なかった。

AT33PTG/IIからのステレオ再生:
トランスとヘッドアンプでは一長一短。ポップス系のマルチトラックレコーディングではトランスにやや分があった。太田裕美のシングル「九月の雨」の右チャンネルのギターのカッティングがトランスでは浮き上がって聴こえるが、ヘッドアンプでは埋もれがち。一方タンゴやクラシックなどのアコースティック録音の表現力はヘッドアンプの方が上だった。この結果は予想とは逆だった。

AT33PTG/IIからの4ch再生:
トランスよりヘッドアンプの方が、ノイズの出方はいくらか抑えられた。このノイズというのは、CD4-30での再生時にみられた、CD-4盤特有の不快なノイズとはまったく性格が異なり、ひび割れ、ザラツキ、かすれのようなものであり、特定の盤、特定の個所に現れる。また、キャリア信号を読み取るレーダーランプが時折弱くなることがある。

AT33MONOからのモノラル再生:
トランスとヘッドアンプの違いよりも(あまり突き詰めて比較しなかったが)、CD4-10の片チャンネル再生とMozart Phono(管球式モノラル専用フォノイコライザー)の違いの方がいくらか大きく、RIAAカーヴに限定すればCD4-10の方がより生き生きと鳴る。

MC-3 Turboによる再生:
ステレオであれ4chであれ、AT33PTG/IIを遥かに凌駕するクリアでワイドで生き生きとした再生能力を発揮。この差はなんだろう。そもそもAT33PTG/IIを長年リファレンスとして使ってきたのは、ソースや盤のコンディションをあまり選ばず、クリアでフラットな再生をしてくれるところが気に入っていたからなのだが、そのお株をすべてMC-3 Turboに奪われた形になってしまった。だとすると、今使っているAT33PTG/IIには何か問題があるのだろうか。今のは二代目で、2019年6月に新品で購入したもの。針先はジェルタイプのスタイラスクリーナー(DS Audio ST-50)で常にきれいにしているので、トラブルは考えにくいのだが。

MC-3 Turboは出力電圧3.3mVの高出力MCカートリッジだから、ディモジュレーターのMM入力端子に直接繋ぐのが適切な接続方法なのだろうが、いろいろ試していて、繋ぎ換えが面倒だったのでヘッドアンプを挟んだ状態のままで鳴らしてみたら、何とこれがベストだった。ヘッドアンプを通すことで余裕が生まれるのだろう、ステレオでも4chでも、より堂々とした力強い表現が聴けるようになったし、ノイズにも更に強くなった。主にAT33PTG/IIのために用意したヘッドアンプがMC-3 Turboのよりよい再生に役立つとは、まったく思いも寄らなかったことだが、結果良ければすべて良し。ノイズと無縁になったCD-4サウンドを最強の組み合わせで聴けるのは実に恵まれたことだが、この感動を容易に他者と分かち合えないのが歯がゆくもある。

【2021年9月19日追記】上に書いた、ヘッドアンプを通してのMC-3 Turboの再生には問題があることが判明した。詳しくは9月18日の記事「アストル・ピアソラ・コレクション紹介/ディスクリート4チャンネル再生のその後」を併読されたい。

2021年3月 2日 (火)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その6 タンゴあれこれ~アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ

旧サイト「tangodelic!」に連載していた記事「タンゴ入門講座」再掲載の第6回(元の連載の第17~18回分)。今回はコラム。

タンゴあれこれ(1)「アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ」その1
(初出:2001年8月1日)

タンゴは19世紀の終わり近く、アルゼンチンの首都であり南米屈指の貿易港でもあったブエノスアイレスの、船員や娼婦などがたむろする場末のいかがわしい界隈で発生した踊り、およびその音楽である。ただし、ラ・プラタ川を挟んだ小国ウルグアイの首都モンテビデオ(距離的にも近い)でも、タンゴにまつわる現象は同時発生的に起こっていたと思われ、著名なタンゴ人も多く排出している。それでも、経済的な規模などが違い過ぎるために、ブエノスアイレスが文化の中心となるのは必然だった。アルゼンチンは広大な国土を持つが、タンゴが盛んなのはブエノスアイレス及び2~3の地方都市に限られた。地方に生まれてタンゴを演奏したいと思った者は、ブエノスアイレスに出る以外にほとんど方法はなかった。あくまでもタンゴは、都会の音楽であり、ブエノスアイレスに暮らす人々の感情の拠りどころともなったのである。そうしたこともあって、タンゴ・アルヘンティーノ(アルゼンチン・タンゴ)ではなく、タンゴ・リオプラテンセ(ラ・プラタ流域のタンゴ)と呼ぶべきだと主張する人もいるくらいである。

1910年前後から、ヨーロッパに渡って活動するタンゴの演奏家や踊り手が増え始めたことで、フランスやドイツなどにもタンゴの種が蒔かれ始めた。そして、1925年のフランシスコ・カナロ楽団によるパリ公演の成功を機に、大きなブームが起こる。ヨーロッパ独自のタンゴ文化が生まれ、1920年代後半から30年代にかけて、各国でオリジナルのタンゴが作られるようになったのである。有名な作品といえぱ、「ジェラシー Jalousie」(デンマークのヤコブ・ガーデ作)と「碧空 Blauer Himmel」(ドイツのヨゼフ・リクスナー作)が双璧だろう。当時の演奏家としては、ドイツのヴァイオリン奏者バルナバス・フォン・ゲッツィ(1897~1971)率いる楽団が特に有名である。こうしたヨーロッパ製タンゴのことは、コンチネンタル・タンゴと呼ばれるが、実はこの呼称は日本独特のものである。

ヨーロッパで独自に発展したタンゴは、まさにヨーロッパ的と言える優雅で美しい旋律を特徴とするものが多い。反面、アルゼンチン・タンゴが本来持っていたリズムの面白さはほとんど感じることができない。曲の構造も違えば、演奏スタイルも異なり、弦楽器が主体で、通常バンドネオンは入らず、代わりにアコーディオンが入ったりする。1940年代、ブエノスアイレスではフアン・ダリエンソやアニバル・トロイロ、オスバルド・プグリエーセらの台頭などによってタンゴが音楽的に成熟し、大衆の幅広い人気を得たのに対し、ヨーロッパのタンゴは第二次世界大戦の影響などもあり、音楽的に発展することが出来ず、大衆音楽としては明らかに衰退していった。

そのコンチネンタル・タンゴが、いささか歪んだ形で紹介されたのが、戦後の日本だった。日本では戦前からタンゴが親しまれていたが、アルゼンチンのタンゴもヨーロッパのタンゴもひとまとめにしてヨーロッパ経由で紹介されることが多く、コンチネンタル・タンゴのファンも多かった。そうした経緯があったことから、一部のレコード会社やプロモーターが、ヨーロッパでは既に落ち目のコンチネンタル・タンゴを盛んにプッシュしたのである。そのピークは1960年代半ばのことだった。日本でのコンチネンタル・タンゴ・ブームの立役者となったのが、西ドイツ(当時)のアルフレッド・ハウゼ(指揮)と、オランダのマランド(アコーディオン、指揮)。例えばハウゼは、本国では放送局のオーケストラの指揮者を務めていて、タンゴはレパートリーの一部に過ぎなかったが、日本ではタンゴ専門の楽団として売り出され、成功したのである。しかし、ハウゼやマランドの音楽は、形骸化したムード音楽に過ぎず、タンゴ本来の魅力からは極めて遠い位置にあった。そして、日本でのコンチネンタル・タンゴ人気は、更なる弊害をも生み出した。日本の制作サイドが、例えばエンリケ・マリオ・フランチーニのようなアルゼンチンの一流のタンゴの演奏家に、日本向けにコンチネンタル・タンゴのレパートリーを演奏させる現象まで起きてしまったのである。本人たちは、普段とは違うレパートリーを楽しんで演奏したのかも知れないし、それなりにアレンジの面白さも感じられるものの、やはりどこか本質を見誤っていた気がしてならない。

Francini2
エンリケ・マリオ・フランチーニ
タンゴ界最高のヴァイオリン奏者は、どんな思いでコンチネンタル・タンゴを弾いたのだろうか。

タンゴあれこれ(2)「アルゼンチン・タンゴとコンチネンタル・タンゴ」その2
(初出:2001年8月8日)

戦前のヨーロッパで特にタンゴが盛んだったのは、フランスとドイツである。戦後のドイツでコンチネンタル・タンゴが衰退していったのは、前回書いた通りだが、フランスでは少し事情が違っていた。アニバル・トロイロやマリアーノ・モーレスなど、アルゼンチンでの新世代台頭の影響を受けて、ヨーロッパ風にアレンジされた従来のタンゴとは異なる、アルゼンチンのタンゴ本来のスタイルにより近い演奏をする楽団がいくつか現れたのである。モーレスは1953年から翌年にかけてパリに滞在し、演奏活動やレコーディングを行っているし、アストル・ピアソラも1954年、モーレスと入れ替わるようにパリに渡った。ピアソラの渡仏の目的はクラシックの勉強だったが、結果的には弦楽オーケストラ編成(パリ・オペラ座の楽団員が中心)で16曲の録音を行い、自身の新しいタンゴを世に問うことになった。こうしたモーレスやピアソラのパリでの活動が、当地のミュージシャンたちに刺激を与えただろうことは、想像に難くない。

1950年代のフランスで、アルゼンチン・スタイルの演奏を得意としていたのは、プリモ・コルチア楽団やマルセル・フェイジョー楽団などである。バンドネオン奏者フェイジョーはアルジェリア生まれのフランス人で、楽団を結成したのは1945年のこと。ピアソラとフェイジョーはパリで「S.V.P.(シル・ヴ・プレ)」を合作し、お互いに自分の楽団で録音した。またピアソラはフェイジョーに「バンドー」を捧げている。パリでのピアソラはほかにも「ミ・テンタシオン(わが欲望)」(ラモン・シロエとホセ・モラネス作)、「エスタモス・リストス(用意はできた)」(アンジェロ・ブルリ作)といったパリのタンゴ人たちの作品を取り上げていて、様々な交流があったことが伺える。一方、ピアソラがパリで書いた作品には、例えば「グアルディア・ヌエバ」や「セーヌ川」など、コンチネンタル・タンゴ風とまでは言わないまでもヨーロッパ的な雰囲気を漂わせたものが目につく。ピアソラのパリ滞在(~1955年)を契機にタンゴ・ブームが起こる、というようなことはなかったものの、ピアソラの影響力はじわじわとフランスの音楽界に浸透していった。

Feijoo
(左)マルセル・フェイジョー
(右)録音スタジオのピアソラ(手前)とフェイジョー(1955年)

そのフランスを中心に新しいタンゴの波が起こったのは、1970年代以降のことである。ピアソラは1974年、イタリアのローマに移住し、ミラノのスタジオ・ミュージシャンたちをバックにアルバム『リベルタンゴ』を録音、76年からはパリに移り、他ジャンルの音楽家との共演を含めて積極的な演奏活動を続けた。77年、歌手スサーナ・リナルディのバックでパリを訪れたバンドネオンのフアン・ホセ・モサリーニは、亡命する形でそのままパリに残る(1976年から83年までアルゼンチンは軍事政権下にあり、自由な活動を制約された多くの文化人が亡命した)。ほかにもフアン・セドロンなど何人もの音楽家がこの時期にヨーロッパに移り住み、70年代後半から80年代にかけて前述のスサーナ・リナルディやセステート・マジョール、オラシオ・サルガンとウバルド・デ・リオ、オスバルド・プグリエーセ楽団などが、頻繁に演奏旅行で各地を訪れたことから、ヨーロッパのタンゴ・シーンが活性化されていった。特にモサリーニは、演奏家としてのみならず、バンドネオンの教授として後進の指導にも大きな役割を果たしてきた。

後にブロードウェイを席巻し、タンゴ・ダンス・ショーのブームの先駆けとなった『タンゴ・アルゼンチーノ』のスタートは、1983年のパリだった。84年には、イタリアの人気歌手ミルバとピアソラ五重奏団とのショー『エル・タンゴ』がパリでスタートし、スイスの室内楽団イ・サロニスティがアルゼンチンのバンドネオン奏者オスカル・ギディをゲストに迎えて秀逸なタンゴ・アルバムをリリース…。もはやここまでくると、かつてのコンチネンタル・タンゴの面影は微塵もない。アルゼンチン・タンゴの世界的な展開といった感じである。そしてヨーロッパのあちこちから新しいグループが登場し様々なアプローチを展開、90年代半ばに始まるピアソラ・ブーム以降は、クラシック界からの新規参入も盛んになって現在に至るというわけだ。

ヨーロッパといっても広く、どこの国でも同じような状況だったわけではない。たとえばフィンランドは、いわゆるコンチネンタル・タンゴとはまったく別のところで独自のタンゴ文化を築いてきた国である。フィンランドではタンゴは国民音楽のように親しまれて来たが、レパートリーはほとんどが自国で作られた歌入りのタンゴだった。それが10年ほど前からは、ピアソラの作品やアルゼンチン・タンゴ全般、あるいは過去のフィンランド・タンゴの人気曲などをインストゥルメンタルで演奏するグループがいくつも登場している。果たしてヨーロッパのタンゴは、これからどのように展開していくのだろうか。

2021年3月 1日 (月)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その5 タンゴの音楽形式~ワルツ/カンドンベその他

旧サイト「tangodelic!」に連載していた記事「タンゴ入門講座」再掲載の第5回(元の連載の第14~16回分)。音楽形式の最終回。

タンゴの音楽形式(6) 「ワルツ」
(初出:2001年7月11日)

ワルツは4分の3拍子の曲。スペイン語では「バルス Vals」となるので、タンゴ・ファンの中には、この呼び方を好む人も少なくない。タンゴは、ハバネラやミロンガなどの他に、ヨーロッパのダンス音楽であるワルツやポルカなどの要素も含んでおり、タンゴ楽団も自然とワルツをレパートリーに取り入れるようになった。ブエノスアイレスで、主にタンゴ楽団のレパートリーとして書かれたワルツは、バルス・クリオージョ(南米風もしくは土地っ子のワルツ)と形容されるものが多いが、特にタンゴの初期においては、ヨーロッパから伝えられたウィンナ・ワルツもよく演奏されていたようだ。エドゥアルド・アローラスのCD "Homenaje a la guardia vieja del tango" (El bandoneon EBCD 125)には、アローラス楽団が1913年から1918年にかけて録音した貴重な20曲が復刻されているが、この中にワルツが3曲あり、うち2曲は後述のバルス・クリオージョ、残り1曲は「スケートをする人々(スケーター・ワルツ)」で有名なフランスのエミル・ワルトトイフェルの「愛と青春」という曲だった。

現在も聴かれるアルゼンチンのワルツで、時代の古いものというと、だいたい1910年代の作品ということになる。主なものを挙げてみよう。

 フランシア(オクタビオ・バルベーロ作曲、1910年)
 トゥ・ディアグノスティコ(ホセ・ベティノッティ作曲作詞、1910年)
 ラグリマス・イ・ソンリサス(涙と笑い)(パスクアル・デ・グージョ作曲、1913年)*
 エル・アエロプラーノ(飛行機)(ペドロ・ダッタ作曲、1915年)
 パベジョン・デ・ラス・ロサス(バラの館)(ホセ・フェリペッティ作曲、1915年)*
 デスデ・エル・アルマ(心の底から)(ロシータ・メロ作曲、1917年)

*印の2曲が、アローラスのCDに含まれていたバルス・クリオージョである。「トゥ・ディアグノスティコ」はアニバル・アリアスとオスバルド・モンテスのCDなどで聴ける。続いて、1930年前後にもワルツの傑作がまとまって世に出ている。

 コラソン・デ・オロ(黄金の心)(フランスシコ・カナロ作曲、ヘスス・フェルナンデス・ブランコ作詞、1928年)
 ラ・プルペーラ・デ・サンタ・ルシア(サンタルシアの酒場の娘)(エンリケ・マシエル作曲、エクトル・ブロンベルグ作詞、1929年)
 パロミータ・ブランカ(白い子鳩)(アンセルモ・アイエータ作曲、フランシスコ・ガルシーア・ヒメネス作詞、1929年)
 スエニョ・デ・フベントゥー(青春の夢)(エンリケ・サントス・ディセポロ作曲作詞、1931年)

1940年代には、オルケスタ・ティピカと専属歌手たちが個性も華やかに活躍し、多くの優れたタンゴ歌曲が生まれた。この時代を代表するワルツとしては、次のようなものがある。いずれ劣らぬ傑作揃いで、特に「カセロン・デ・テハス」は最近でも多くの歌手が取り上げている。

 カセロン・デ・テハス(瓦屋根の家)(セバスティアン・ピアナ作曲、カトゥロ・カスティージョ作詞、1941年)
 ペダシート・デ・シエロ(空のひとかけら)(エクトル・スタンポーニ、エンリケ・マリオ・フランチーニ作曲、オメロ・エスポシト作詞、1942年)
 ロマンセ・デ・バリオ(下町のロマンス)(アニバル・トロイロ作曲、オメロ・マンシ作詞、1947年)

1953年にアルフレド・デ・アンジェリス楽団(歌:カルロス・ダンテ)でヒットした「ケ・ナディエ・セパ・ミ・スフリール(誰も知らない私の悩み)」と言う曲は、ペルー人アンヘル・カブラルが作曲し、アルゼンチン人エンリケ・ディセオが作詞したバルス・ペルアーノ(ペルー風のワルツ)である。バルス・ペルアーノは、8分の6拍子と4分の3拍子が組み合わされているなど、それまでのアルゼンチンのワルツに比べて異なった雰囲気を持っていた。なおこの曲は後にエディット・ピアフによって、シャンソン「群衆 La foule」として生まれ変わっている。ペルーのワルツといえば、ペルーを代表する女性シンガー・ソングライターであるチャブーカ・グランダの代表作のひとつ「ラ・フロール・デ・ラ・カネーラ(肉桂の花)」が、50年代末にマリアーノ・モーレス楽団やアニバル・トロイロ楽団によって取り上げられている。

そして、アストル・ピアソラも、数は少ないが意欲的なワルツを書いている。1950年、当時の妻に捧げて書いた「デデ」は、オーボエをフィーチャーした斬新な作品だったし、オラシオ・フェレールと組んで1968年に発表した「チキリン・デ・バチン」も、新しいスタイルの歌曲として幅広い人気を得た。翌69年の作品で、ピアソラ=フェレールの最高傑作と名高い「バラーダ・パラ・ウン・ロコ(ロコへのバラード)」も、基本はタンゴだが、途中にワルツのパートが挟まっている。

タンゴ楽団が演奏するワルツは、タンゴほどに楽団の個性を写し出すものではないし、どこか息抜きのようなところもあるが、やはりないと寂しい気がする。そんな中で、見事なアレンジとオーケストレーションで古典ワルツに新しい解釈を施し、聴き手に強烈な印象を与えた演奏として、オスバルド・プグリエーセ楽団の「デスデ・エル・アルマ」(上記1910年代の作品一覧参照、プグリエーセ楽団の録音は1979年)を挙げておこう。

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「デスデ・エル・アルマ(心の底から)」の楽譜表紙
形式名が「バルス・ボストン」と書かれているが、特に音楽的な意味合いはなさそう。

タンゴの音楽形式(7) 「カンドンベほか」その1
(初出:2001年7月18日)

タンゴ楽団や歌手のレパートリーには、これまでにご紹介したタンゴ、ミロンガ、ワルツ以外に、どんなものがあるのだろうか。演奏される機会は少ないものの、幾つかの音楽形式があり、それらは大きく二つに分類出来る。ひとつは、タンゴ楽団のダンス・バンドとしての性格上演奏された外来のダンス音楽で、例えば次のようなものがある。

【フォックストロット】 1910年代にアメリカ合衆国で流行ったダンス音楽。1920年代からアルゼンチンでも好まれた。
【ポルカ】 19世紀前半にヨーロッパで生まれた2拍子の舞曲。初期のタンゴにも影響を与え、19世紀末にはアルゼンチンでも流行した。
【パソ・ドブレ】 スペイン生まれの舞曲。行進曲風の2拍子もしくは3拍子で、1920年代にはアルゼンチンやフランスでも流行した。
【ルンバ】 19世紀にキューバで生まれた音楽だが、1930年代には形を変えて、社交ダンスとしてアメリカやヨーロッパで流行した。

また、マズルカ(ポーランド生まれの舞曲)などの影響のもと、ブエノスアイレスで生まれた音楽形式にランチェーラがある。2拍目にアクセントがある民謡調の3拍子で、1920年代から30年代にかけて流行した。女性歌手アダ・ファルコンが歌ってヒットした「メ・エナモレ・ウナ・ベス(一度恋に落ちた)」(フランシスコ・カナロ作曲、イボ・ペライ作詞、1932年)のように、作品として生き残ったものもあるが、音楽としては完全に過去のものである。

今挙げたようなダンス音楽は、フランシスコ・ロムート楽団やオスバルド・フレセド楽団などが1930年代前後に比較的多く取り上げていたし、1940~50年代にも、タンゴやワルツと共にこうした曲を専門に演奏していたエンリケ・ロドリゲス楽団のような存在もあったが、一般的に幅広く演奏されるほどの内容があったとは言い難い。

もうひとつの流れは、新しい音楽形式の開拓といえるもので、代表的な例としてはカンドンベがある。カンドンベはもともと、18世紀後半から19世紀前半にかけて、ウルグアイのアフリカ系黒人たちの儀式として始まった。その後黒人の減少とともに本来の形は失われ、19世紀末には、3種の太鼓(それぞれチコ、レピーケ、ピアノと呼ばれる)によるリズム・パターンとしてカーニヴァルの中に取り込まれていった。カンドンベはタンゴの成立にも多少の影響を与えたとも考えられていて、タンゴのルーツ指向が強まった1930年代後半から、新しい形のカンドンベが生み出されるようになった。この動きは、1930年代にセバスティアン・ピアナらの手によってミロンガが蘇生したのとも関連している。

新しいカンドンベは、ミロンガのリズムを基本に、先に触れた3種の太鼓によるリズム・パターンを加えてアフロ色を強くしたものである。ただしそれは、カンドンベの文化的背景をより強く持つウルグアイでの話で、アルゼンチンの作品のほとんどはそこまで本格的なものではなかった。だいたいはミロンガにカンドンベ的なビート感を加味した作品で、形式名もミロンガもしくはミロンガ・カンドンベとなっていた。セバスティアン・ピアナのいくつかの作品のほか、1942年にミゲル・カロー楽団が初演、ピアソラによるユニークな録音もある「アサバーチェ」(エンリケ・フランチーニ、エクトル・スタンポーニ作曲、オメロ・エスポシト作詞)などが知られている。一方ウルグアイでカンドンベ復活の立役者となったのは、<「ミロンガ」その2>にも登場したピアニスト、ピンティン・カステジャーノスで、「カンドンベ・オリエンタル(ウルグアイのカンドンベ)」(1940年)などの作品を残している。

ウルグアイとアルゼンチンでは演奏スタイルも異なり、カンドンベを得意としたウルグアイのロメオ・ガビオリ楽団は、3種の太鼓を加え複雑なリズムを表現したのに対し、アルゼンチンの楽団はせいぜいパーカッションを補強する程度だった。フアン・ダリエンソ楽団の「カンドンベ・オリエンタル」にはパーカッションが入っておらず、多少ビートの強いミロンガにしか聞こえない。アルゼンチンでのカンドンベ普及に一役買ったのは歌手のアルベルト・カスティージョで、ウルグアイで作られた作品を積極的に取り上げて、それがトレードマークのひとつとなった。

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ヴァイオリン奏者/楽団指揮者/作曲家のロメオ・ガビオリ(1912~1957)

タンゴの音楽形式(8) 「カンドンベほか」その2
(初出:2001年7月25日)

アルゼンチン産のユニークなカンドンベとしては、マリアーノ・モーレスが1954年に映画『わが街の声』の中の1曲として発表した器楽曲「ファンダンゴ」がある。この曲のモーレスによる最初の録音は、バンドネオン抜きでオルガンの入ったタンゴ管弦楽団+打楽器+コーラスという編成だった。次いで1956年、アストル・ピアソラは弦楽オーケストラを率いてウルグアイでLPを録音したが、その中にピアソラが書いた唯一のカンドンベ、「ジョ・ソイ・エル・ネグロ(オレは黒人)」(カルロス・グロスティーサ作詞、歌はホルヘ・ソブラル)が含まれていた。ウルグアイでの録音というのがミソで、ちょっと聴き取りにくいが、ちゃんと3種の太鼓を使っている。曲調はミロンガ的ではない2拍子で、ピアソラ流のモダニズムと伝統的なカンドンベ本来のリズムがうまく結びついている。また、最近では、1980年代にダニエル・ビネリbnとウーゴ・ロメロgのデュオが、ウルグアイのパーカッション奏者カチョ・テヘラらのサポートを得てカンドンベの現代化に取り組んでいた。

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アストル・ピアソラ(1956年)
「ジョ・ソイ・ネグロ」を含む10インチLP"Lo Que Vendra"(Antar PLP-2001)の裏ジャケットより

カンドンベ以外では、フランシスコ・カナロがタンゴン(ミロンガ+ルンバといった感じ)など、カナロ楽団出身のマリアーノ・モーレスがバイアンゴ(バイオン+タンゴ)など、いくつかの新しい音楽形式を発表したが、これは単なる思いつきというか企画倒れの感もあり、それなりの面白さはあっても、新しい形式としての必然性を感じるところまではいかない。実際のところ、ほかには普及することなく終っている。そうした一連の作品と一線を画するものとして、アストル・ピアソラが1951年に発表した「タングアンゴ」を挙げておこう。この曲は当時アニバル・トロイロ楽団とオスバルド・フレセド楽団が録音している。トロイロ楽団のレコード(SP盤)に表記された形式名は“ヌエボ・リトゥモ・パラ・トーダ・オルケスタ”(すべての楽団のための新しいリズム)となっていた。フレセド楽団のレコードでの表記は未確認だが、資料によれば単に“ヌエボ・リトゥモ”(新しいリズム)と書かれていたようだ。ピアソラがこの形式名を用いたのはこの異色作のみだが、<「タンゴ」その3>でもご紹介したように、この曲には後にピアソラのトレードマークとなる3-3-2のリズムが大々的に使われていた。ピアソラは、その後の多くの作品に於いて3-3-2のリズムを曲の要所要所で使うようになるのだが、全体をそのリズムで押し切るという作り方はせず、タンゴの基本である4ビートなどとうまく組み合わせることによって、より効果的なアプローチを見せるようになったわけである。それが「タングアンゴ」ではほぼ全編がそのリズムで構成されていて、しかもそれがパーカッションによって強調されていたところが、実験作たる所以(ゆえん)である。

最後に、2回に分けて紹介して来た2つの流れ(外来のダンス音楽と、新たに創造されたリズム)のどちらにも属さない音楽形式として、カンシオンを挙げなければならない。カンシオンとはずばり、「歌」である。基本的にはタンゴでも、より自由なスタイルを持ち、ほかの音楽形式にも転用可能な歌曲は、タンゴ・カンシオンなどと呼ばれたが、更に自由度を高めたものが単なるカンシオンであり、間違いなくその代表作と言えるのが、カルロス・ガルデル一世一代の名曲「エル・ディア・ケ・メ・キエラス(想いのとどく日)」(カルロス・ガルデル作曲、アルフレド・レ・ペラ作詞、1935年)。この曲は作者たちの意図通り、タンゴの枠を遥かに越えて中南米諸国全体で歌われ愛されるスタンダードになったのである。

2021年2月27日 (土)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その4 タンゴの音楽形式~タンゴ

旧サイト「tangodelic!」に連載していた記事「タンゴ入門講座」再掲載の第4回(元の連載の第11~13回分)。音楽形式の第2回は、そのものずばりタンゴだ。

タンゴの音楽形式(3) 「タンゴ」その1
(初出:2001年6月20日)

「ミロンガ」の項では、ミロンガという言葉の持ついくつかの意味について説明したが、タンゴという言葉も、広義の意味での“ジャンルとしてのタンゴ”と、その中の“音楽形式としてのタンゴ”とに分けて考えてみた方が判りやすい。あるいはそこに、“精神論としてのタンゴ”という項目を付け加えてもいいかも知れない。音楽形式の話をする前に、ジャンルと精神論について少し説明しておこう。

タンゴの楽団や歌手が演奏したり歌ったりするレパートリーは、そのほとんどが(形式としての)タンゴ、ミロンガ、ワルツ(スペイン語だとバルス)に分類される。これらの音楽が主にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス及びウルグアイの首都モンテビデオ(この二つの都市はそれぞれラ・プラタ川を挟んだ対岸に位置する)で育まれて来たことから、これらを総称して“ムシカ・ポルテーニャ”(ポルテーニャ音楽。ポルテーニョ/ポルテーニャとは「港の」という意味の形容詞だが、転じて「ブエノスアイレスの」という意味で使われる)とか“ムシカ・リオプラテンセ”(ラ・プラタ川流域の音楽)などと呼ぶこともあるが、一般的ではないしなかなか判りにくい。ミロンガやワルツもひっくるめて、“タンゴ”と総称して全然構わないのである。

もうひとつの“精神論としてのタンゴ”だが、要するに、伝統的な形式に捕われずにタンゴのスピリットを持ち得た音楽のこと。その代表選手こそ、かのアストル・ピアソラである。ピアソラがきっかけでタンゴを聴き始めた方には信じ難い話かも知れないが、未だに多くの古典タンゴ・ファンにとって、ピアソラの音楽は「タンゴではない」のである。何故そういう話になるのか。それは、何を基準として、あるいはどこに視点を置いてタンゴに接するかという話にまでなるのだが、そのあたりはいずれ別項で詳しく触れるとして、ここではとりあえず、そういう考え方もあるということを記憶の隅に留めて頂きたい。

さて、本題に入ろう。タンゴ、あるいはその前身としてのミロンガの成り立ちは、「ミロンガ」の項でも簡単に書いたが、繰り返しておくと、19世紀の半ばから後半にかけて、同じリズムを持った3つの音楽、すなわちキューバから主にヨーロッパ経由で伝えられたハバネラ、スペインのアンダルシア地方から伝えられた(フラメンコの中の)タンゴ、パンパの吟遊詩人たちが歌うミロンガが、渾然一体となった中から、徐々に形作られてきたとされている。もちろんそこにはほかの様々な要素も複雑に絡んでいて、例えばヨーロッパ経由のダンス音楽であるワルツやポルカ、更にはウルグアイの黒人の間に伝えられて来たカンドンベなどからの影響も少なくなかった。ただし、レコードもない時代の、ブエノスアイレスの場末にあるボカという地区で起きた話であり、こうした経緯が正確な記録として残っているわけでない。後から研究者たちによっておおよその流れが解明されたような、曖昧さを残した物語なのである。

初めてタンゴという形式名で書かれた楽譜が出版されたのは1880年のこと。「バルトーロ」という曲で、今日演奏されることはまずない。今日まで演奏される最も古い曲といえば、1897年にロセンド・メンディサーバルpが作曲した「エル・エントレリアーノ(エントレリオス州の人)」。力強いリズム、自然な展開が印象的な作品で、後にアニバル・トロイロ楽団(編曲はピアソラ)やフアン・ダリエンソ楽団などによって立派な器楽タンゴに仕立て上げられた。手元にあるこの曲の一番古い録音は、1913年頃のターノ・ヘナロbnの五重奏によるもの。その録音時点で既に作曲されてから15年以上経過し、タンゴ界にバンドネオンが導入されたこともあって、演奏スタイル自体が作曲当時とは形を変えているはずだが、ミロンガ的なシンコペーションがベースになったその演奏は、今日の耳では随分のどかに聞こえる。それが後年のトロイロやダリエンソの演奏となると、ミロンガ的な感覚は一掃され、タンゴのリズムで押し切る感じになる。つまり、同じ曲でも演奏される時代によってリズム・パターンが変化したりするわけである。

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「エル・エントレリアーノ」の楽譜表紙

タンゴの音楽形式(4) 「タンゴ」その2
(初出:2001年6月27日)

タンゴにとって黎明期といえる1900年代から1910年代前半ぐらいに演奏されていた、タンゴのベーシックなリズム・パターンは、だいたい次の3つが1曲の中に組み合わされたような感じだったと思われる。

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Aがミロンガ的なパターン、Bはその変形(細かいパターン違いはほかにもあり、ここでは一つの例として挙げてみた)、Cが1910年代後半以降定着するタンゴの基本パターンである。Aは、ミロンガ的とはいっても、1930年代以降のミロンガのようにテンポは速くない。楽団編成にバンドネオンが加わり、フルートが淘汰され、ギターがピアノにその座を譲るのと歩調を合わせるかのように、タンゴの演奏パターンはA主体からC主体へと変わっていくのである。

ここで、前回ご紹介した「エル・エントレリアーノ」以降、1900年代までに生まれ、今日まで演奏され続けている主なタンゴをいくつか挙げておこう。

 ドン・フアン(エルネスト・ポンシオ作曲、1898年頃作曲)
 ウニオン・シビカ(市民連合)(ドミンゴ・サンタ・クルス作曲、1904年)
 ラ・モローチャ(エンリケ・サボリード作曲、アンヘル・ビジョルド作詞、1905年)
 (グラン・)オテル・ビクトリア(フェリシアーノ・ラタサ作曲、1906年)
 フェリシア(エンリケ・サボリード作曲、1907年)
 ヌエベ・デ・フリオ(7月9日)(ホセ・ルイス・パドゥラ作曲、1908年)

これらの曲は、いずれも作曲当時はAパターン主体で演奏されていたと思われるが、今日では、当時の雰囲気を再現する意図での演奏を除けば、通常はCパターンで演奏される。曲の根底を成すリズムパターンが変わっても命脈を保ち続けて来た、これらタンゴ黎明期の作品の生命力には、感嘆してしまう。

有名な「エル・チョクロ」(1903年)の作曲者であるアンヘル・ビジョルド(1861~1919)は、タンゴ界初のヒット・メーカーと言える存在である。代表作には「エル・エスキナーソ(街角)」(1902年?)「エル・ポルテニート」(1903年)などがある。そのビジョルドの一連の作品は、先に挙げた同時期の他の作曲家の作品と比べて、やや性格が異なる。彼の作品は、形式名が“タンゴ”と表記されていても、実際にはかなりミロンガに近く、上記の作品群のようにCパターンで演奏しても、どこかしっくりこない。それは、ビジョルドならではの個性が現れた結果とも言えるだろう。確かに「エル・チョクロ」は、Aパターン(というか、テンポの速いミロンガ)でもCパターンでも、どちらの演奏にもいいものがある。前者にはフルートをフィーチャーしたアルマンド・ポンティエル楽団の演奏などがあり、後者ではカルロス・ディ・サルリ楽団の演奏が定番だろう。一方、例えば「エル・ポルテニート」は、ミロンガ風に演奏しないとなかなか雰囲気が出ない。Cパターンで押し切るフアン・ダリエンソ楽団の演奏には違和感すら覚えるほどである。

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「エル・チョクロ」の楽譜表紙と作曲者のアンヘル・ビジョルド

ビジョルドに続く世代の優れた作曲家としては、ビセンテ・グレコ(1888~1924)、エドゥアルド・アローラス(1892~1924)の二人が挙げられよう。いずれもバンドネオン奏者であるところが、時代の変化を物語っている。グレコの出世作は「ロドリゲス・ペーニャ」「オホス・ネグロス(黒い瞳)」の2曲(いずれも1910年発表)。リズミカルで古典的な「ロドリゲス・ペーニャ」は割とどんな演奏も似合うが、美しいメロディを持ちスケールの大きな「黒い瞳」は、Cパターン、それもある程度凝ったアレンジの演奏でこそ映える。実際にこの曲は、モダン派の演奏家たちに特に好まれているのである。1911年の「ラ・ビルータ(カンナくず)」、1914年の「ラシング・クルブ(レーシング・クラブ)」は、いずれもアルフレド・ゴビ楽団の名演奏があり、もはや堂々たるタンゴといった印象が強い。一方のアローラスは、「バンドネオンの虎」の異名をとり、1910年代後半に「ラ・カチーラ」「デレーチョ・ビエホ」「エル・マルネ」など傑作の数々を残した大人物。処女作は、1909年の「ウナ・ノーチェ・デ・ガルーファ(酒宴の一夜)」で、アローラス自身の楽団による1913年のレコードが残されているが、既にAパターンよりCパターンの方の比重が大きくなっている。1916年の作品「ラ・ギタリータ」の自作自演盤(1917年録音)になると、もう完全にCパターンのみ。

グレコもアローラスも、30代でその短い命を閉じた。彼らが活躍したのは短い期間だったが、それはタンゴにとって最初の激動期と、見事に重なっていたのだった。この時代のほかのアーティストや作品の解説は、また次回。

タンゴの音楽形式(5) 「タンゴ」その3
(初出:2001年7月4日)

ビセンテ・グレコやエドゥアルド・アローラスに続いて作曲面で1910年代の立役者となったのは、ロベルト・フィルポ(「夜明け」「アルマ・デ・ボエミオ」)やフランシスコ・カナロ(「エル・チャムージョ」「エル・インテルナード」ほか)だったが(「コンフント」その1参照)、ここではもう一人の重要な作曲家であるアグスティン・バルディ(1884~1941)を紹介しておこう。本職は鉄道会社のサラリーマンで、演奏活動はほんの片手間に行った程度のバルディだが、作曲の才に恵まれ、1910年代から20年代にかけて「ティンタ・ベルデ(緑のインク)」「ロレンソ」「ケ・ノーチェ(何という夜)」「C.T.V.(セ・テ・ベ)」「エル・バケアーノ」「ティエリータ」「ラ・ウルティマ・シータ(最後の逢いびき)」「ヌンカ・トゥーボ・ノビオ(恋人もなく)」といった名作を残した。

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タンゴ史上最高の作曲家のひとり、アグスティン・バルディ
オラシオ・サルガンは「ドン・アグスティン・バルディ」を、オスバルド・プグリエーセは「アディオス・バルディ」を作曲し捧げている。

バルディの代表作のひとつに、1917年に発表された「ガジョ・シエゴ(盲目の雄鳥)」がある。この曲の第1部は次の譜例集のパターン〔a〕のような譜割りのモチーフの繰り返しで成り立っている。

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同じ譜割りのパターンは、例えばアローラス(バルディの親友でもあった)が同時期に書いた「レティンティン」や「ラ・ギタリータ」のメロディにも登場するが、バルディの「ガジョ・シエゴ」のほうがパターンが長く繰り返され、よりリズミカルである。この曲のように、メロディライン(あるいはそれ以外の対旋律など)に細かいリズムを構成する要素が内包されている作品が、タンゴには多い。メロディの譜割り〔a〕に対応する「ガジョ・シエゴ」の基本的なリズムは〔c〕と考えていいが、〔d〕や〔e〕への応用も可能である。そして、〔a〕もアクセントの位置を〔b〕のように変えてみると、また違ったビート感が生まれて来る。実際にオスバルド・プグリエーセ楽団による「ガジョ・シエゴ」では、〔b〕のアクセントのイントロが付いている。

さて、1910年代から20年代へと向かうにつれ、作曲家や作品の数も飛躍的に増え、タンゴの楽団演奏は、4分の2拍子から8分の4拍子へと変化していく。1920年代のカナロやフィルポの楽団などの録音を聴くと、譜例〔f〕のような、踏み締めるような4拍子の演奏が主体となっている。ただしそれは、ややもすると一本調子となりがちで、今日の耳には変化に乏しく感じる。そんな20年代において、一早くアレンジの重要性に着目し、メリハリの効いた個性的な音作りを目指したのがフリオ・デ・カロ六重奏団だった。デ・カロは、1曲の演奏の中にいくつものリズムパターンを散りばめた。先に挙げた〔c〕パターンや〔d〕パターンなども、曲の中で効果的に使われている。ちなみに、デ・カロ楽団の演奏で、彼ららしさが特によく出ているのは、優れた作曲家でもあったデ・カロ自身やメンバーたちによる作品の数々である。

時は流れ、個性的なオルケスタ・ティピカの数々が覇を競った1940年代以降、古典から当時の新しいレパートリーに至るまで、さまざまなアレンジが施されるようになり、それだけリズムパターンも多彩になった。基本となる4拍子〔f〕も、20年代の諸楽団に比べると表情は豊かである。オスバルド・プグリエーセが1946年に発表した「ラ・ジュンバ」は、プグリエーセのリズムに対するコンセプトが明快に提示された傑作。最初に耳に飛び込んで来るのは、バンドネオン・セクションを中心に繰り出される1拍3拍の強烈なスタッカートだが、その間を縫うように2拍4拍では、ピアノを弾くプグリエーセの左手が譜例〔g〕のように最低音部の鍵盤に叩き付けられ、ビート感を更に際立たせていた。そのプグリエーセ楽団の主要メンバーたちが楽団を脱退して1968年に結成したセステート・タンゴは、プグリエーセからの影響を明らかにしつつ独自の方向性を打ち出すために、2拍4拍に全体のアクセントを置いた演奏スタイルを打ち出していた。

ほかにもいろいろな例があるが、ちょっと変わったものでは、オラシオ・サルガンとウバルド・デ・リオがキンテート・レアルなどで多用する、シンコペーションの効いた〔h〕パターンがある。これは「ウンパ・ウンパ」と呼ばれるもので、4拍目と次の小節の1拍目とは、スラーで繋がっている。

最後に、アストル・ピアソラが得意とする3+3+2のパターン(譜例〔k〕)について説明しておこう。「アディオス・ノニーノ」や「リベルタンゴ」をはじめとして、多くの曲に登場するこのパターンの元になったのは、譜例〔i〕および〔j〕のパターンである。〔i〕は《「ミロンガ」その2》でご紹介した、セバスティアン・ピアナ作曲の「悲しきミロンガ」(ゆったりしたテンポのミロンガ)などのパターン。また、〔j〕はプグリエーセが1940年代後半に作曲し、ピアソラも1956年に弦楽オーケストラ編成で録音した「ネグラーチャ」などに使われていたパターンである。〔k〕のパターンは、ピアソラ自身の作品では、1948年の「ビジェギータ」に最初に現れ、1951年の実験作「タングアンゴ」(パーカッションを含む編成による録音)で大々的に使われた。以後、このパターンはピアソラのトレードマークのひとつとなり、モダン派のアーティストたちにも流用されている。

2021年2月23日 (火)

CD-4を中心とした4チャンネル・レコードの再生

オーディオの黒歴史とすら言われた4チャンネル・レコードの再生環境づくりが進んでいる。きっかけは、昨年(2020年)10月4日のFacebookへの次の書き込みだった。

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家では4チャンネルを聴ける環境にないのに、「資料だから」と集めているクール・ファイブの4ch盤。それでも、通常のステレオで聴いてもミックス違いが楽しめる曲もある。鳴り物入りでの発売から衰退までが短かった4chだが、ちょうど彼らの全盛期とダブっているので、全部で15タイトルも出ている。先日ようやくここまで揃った。残りはライヴ1種、カヴァー2種だから、彼らのオリジナル曲は一応カヴァーできたことになる。

これを書いた時点では、実際に“4チャンネルを聴ける環境”が作れるとはまったく考えていなかったし、どうすればいいかという知識もなかった。ところが、これに対して「是非、家で4chを聴ける環境にしましょう」とコメントしてきたのが、“4ちゃんねらー”として4チャンネル愛好家に知られる中澤邦明氏であった。躊躇する私に「リアスピーカーは小さいものでもいいと思います。後ろから音を出せる事が重要なので」と畳み掛けられ、心が大きく動いた。もしかしたら実現できるのか?

1970年代前半に登場した4チャンネル・レコードには、大きく分けて2つの方式があった。ひとつは周波数シフト応用のディスクリート(完全分離)方式で、ビクターが開発し商品化したCD-4が代表的なもの。もうひとつは位相シフト応用のマトリクス方式で、サンスイが開発したQSとそこから派生して業界の標準となったRM(レギュラー・マトリクス)、ソニーと米CBSが提唱したSQが中心だが、互換性が確保されながらも微妙に異なる他の方式もある。こうした方式の乱立ぶりとソフトの不揃いさが音楽ファン、オーディオ・ファンの間での混乱を招き、普及を妨げた大きな要因であるとは、広く言われていることである。

SQおよびQS/RM方式のレコードは、通常の2チャンネル・ステレオとしても再生できるが、クール・ファイブはRCAからのリリースだから、4ch盤はCD-4方式である。ステレオ再生は可能だが盤がダメージを受けやすく、あまり勧められるものではない(詳しくは後述)。中澤さんがまず教えてくれたのは、CD-4の再生には何が必要で、それを入手するにはどうすればいいかということだった。

CD-4は、左右それぞれのチャンネルの可聴帯域(20Hz~15kHz)にフロント+リアの和信号、可聴帯域外である30kHzのキャリア(搬送波)にFM変調された差信号が記録されているため、その帯域以上を読み取れる特殊なレコード針(シバタ針またはラインコンタクト針)を備えたカートリッジと、そこからの信号をフォノイコライザー機能も兼ねながら4チャンネル分の信号に復調して出力するディスク・ディモジュレーターが必要だ。対応するMM型カートリッジは、当時ビクターが開発し主力商品としたMD-1016の中古が比較的出回っているのでそれを入手できればよく、針に関してはビクターの4ch用シバタ針4DT-1Xと同等品のJICO 30-1Xが今でも新品として買えるということだった。

問題はディモジュレーターの方だが、中澤さんから思いがけない情報が得られた。多くはジャンク品としてオークションに出品されているディモジュレーターや4chアンプなど1970年代当時の機器を落札しては修理・調整してしまうという奇特な方と知り合いになり、中澤さんにとって“4chの師匠”だというそのAさんに、周囲で4chに興味を持った人を既に何人も紹介しているというのだ。機器の良し悪しも修理に関しても皆目見当がつかないこちらとしては、これ程ありがたい話はない。早速問い合わせてもらうと、修理済みのビクターのディモジュレーターCD4-30(1972年秋の発売。ちなみに海外でのブランドと品番はJVC 4DD-5)が1台あるという。これを適価で譲って頂けることになった。

さて、入り口の方はわかったが、出口まで、つまりアンプとスピーカーをどうするか。予算やスペースの問題もあり、往年の4chアンプもしくは現在普及している5.1chのAVシステムを導入して、システムを肥大化させるつもりはなかった。現在のオーディオシステムをそのままフロント部として使い、簡易的なリア部をそこに組み込んでしまえばいいと考えたわけで、ヒントになったのは、先に紹介した中澤さんの「リアスピーカーは小さいものでもいいと思います」の一言だった。当初4chなんて無理と思っていたのは、リアスピーカーなんて置く場所もないと考えていたからだが、卓上タイプの小さいものなら、可動式CDラックの上に置けそうだ。もともと部屋のオーディオはニアフィールド・リスニング用のセッティングだから、スピーカーは隅に置くのではなく、中央寄りに小ぢんまりと置けばいいのではないか。ということでアンプ内蔵のパワードモニタースピーカーで手軽な物はないかなと検討し、TASCAMのVL-S3に決定。実売9,000円程度だが、メルカリで6,000円で買えた。

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CD4-30をAさんのところに引き取りに行く1週間ほど前にVL-S3が届いたので、パソコンからの4ch再生を先に始めることになった。パソコンからの再生については、パソコンとオーディオを繋いでデジタル⇔アナログ変換を担うオーディオ・インターフェイスとしてRMEのBabyfaceを使っていたのが、結果的に大変役に立った。調べてみると、パソコン上のBabyface用オーディオミキサーTotalMix Fxで、パソコンで再生したDVDやブルーレイの5.1chを4.0チャンネルにダウンミックスすることが可能だった。そしてBabyfaceのアナログ側のステレオ入出力ケーブルはオーディオ・アンプのテープ入出力端子と繋いでいるのだが、それとは別にリアの音声をヘッドホン端子から取り出せることがわかった。前後のヴォリュームは別々に調整しなければならないが、分けて出せればとりあえずOK。

また、SQ/QSデコーダーがなくても、パソコンに取り込んだマトリクス音源(エンコードされたものであれば、ソースはLPでもCDでもYouTubeでも良い)のWAVファイルをデコードソフトを使って4ch化できることもわかった。これを実践するにあたり、尾上祐一さんのブログ記事『昔あった4チャンネル・ステレオ・レコードを聴く』が大変参考になった。4chレコードで一番流通量が多いのがCBS・ソニーのSQ盤だが、手持ちは多くないので、このやり方で今のところ間に合っている。

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そして10月29日、念願のCD4-30をAさんの事務所から持ち帰ってセッティング。Facebookには翌日このように報告した。

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昨日、調整済みのビクターのCD-4ディモジュレーター、CD4-30が我が家にやってきた(CD-4は、日本ビクターが開発したディスクリート方式4チャンネル・レコード)。準備しておいたCD-4用カートリッジ(MD-1016+JICOの新品シバタ針30-1X)をセットし、セパレーション調整を行い、ついに再生環境が整った。その2日前までには、ビクターが1972年から75年にかけて国内向けに制作したタンゴの4チャンネル・レコード、それも状態の良いもの9点が一気に揃えられたのも嬉しかった。ということで我が家でのCD-4リスニングはこの25枚(+テスト・レコード1枚)からスタート。

かくしてCD-4の再生環境が整ったのだが、いろいろと気になることも出てきた。一番厄介だったのは、特に内周部のレベルの高い部分に頻繁に付帯するバリバリという非常に耳障りなノイズだ。CD-4盤は高周波数帯まで再生する必要もあり、線速度が遅くなるだけでもノイズの影響を受けやすく、キャリアの読み取り精度も落ちることから、内周の送り溝の部分は通常のレコードよりも幅を広くしてある。

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それでも中古のCD-4盤には、見た目は奇麗でも実際に4チャンネル再生すると酷いノイズを発生する盤も多いと聞いていた。専用ではない一般のカートリッジを使い、針先の形状と針圧が適切でなかった場合にダメージを受けやすいというのが主な原因のようだ。

本来CD-4盤の再生には、専用のカートリッジを使用しなければならないはずだった。Aさんがディモジュレーターのおまけに付けてくれた調整用テスト・レコードには「このレコードは、CD-4用カートリッジで再生して下さい。従来のステレオ用カートリッジでこのレコードを演奏しますとレコードを痛めますので絶対に御使用にならぬようお願い致します(針圧は2.0g以下で演奏して下さい)」との注意書きがあった。だが実際に商品として販売されたものには「このレコードを従来のステレオ装置にかけますと、2チャンネル・ステレオとしてお楽しみいただけます」と書かれた下に小さく「将来、4チャンネルでお聞きになる場合も考えて、できるだけ針圧の軽いピック・アップをご使用ください」と遠慮がちに書いてあり、米RCAのquadradisc(CD-4の商標)にも"THIS COMPATIBLE STEREO / 4-CHANNEL RECORD is designed for performance on stereo or discrete CD-4 quadraphonic systems"と書いてあった。恐らくは間口を広げないとなかなか売上げに結びつかないという事情が背景にあったのではないかと推察される。

もともと4chは定位が不明確になりがちだが、もうひとつ気になったのが、フロント左右の音量差。どうも右が弱いので、ヴォーカルがセンターに定位せず左に寄ってしまい(リアは問題なし)、原因もこの時はわからないまま。先のノイズの発生率の高さ、スクラッチノイズがやたら増幅される点などとも相まって、落ち着いて音楽に没頭できる雰囲気ではなくなり、段々と聴く機会も減っていってしまった。

そんな折の12月下旬、またも中澤さん経由でAさんから驚くべき情報がもたらされた。要約すると、私も入手したCD4-30はビクターのディモジュレーターの中でも第2世代に当たり、普及率は高かったが耐ノイズ性能にはまだ問題があったという。1975年に登場した第3世代ディモジュレーター用のCD4-392というICチップでは大幅な改善がみられたが、既にCD-4の衰退期にあたり、これが使われた機器はほとんど普及せず、あっても非常に高価である。Aさんは、たまたま入手した「名もない4チャンネルレシーバー」にそのICチップを載せた基板が使われているのを発見し、手持ちのCD4-10(CD4-30と同世代の上位機)を改造してその基板を移植してみたところ、ノイズが酷くて死蔵していたレコードや、内周付近でノイズが目立っていたレコードが「全くノイズを発生することなく再生可能となった」というのである。

この話に私も色めき立ったが、かといってどうすることもできない。私なりに調べてみたところ、そのICを載せた基板が使われた機種はいくつか特定できたが、いずれもサンスイやアカイといった国産メーカー製ながら、海外市場向けで日本国内では販売されておらず、eBayなどに出ていても高価である。海外(主に米国)向けということは、向こうの方が4ch衰退の速度が緩やかだったということだろう。

中澤さんが年末から年始にかけて、Aさんが改造したそのCD4-10を自宅で試聴しレポートされていたが、その中で気になったのが「カートリッジをオルトフォンMC-3 Turboに交換する事でもノイズをかなり減らす事が出来ました」と書かれた部分。中澤さんは、ファインライン針(=ラインコンタクト針)付きでフォノイコライザーのMM入力に直結できる高出力MCカートリッジであるMC-3 Turbo(海外では1997年、国内では1999年発売)を、安くなっていたから4ch用ではない普段聴き用のカートリッジとして買ったのに、再生周波数帯域20Hz~30kHzというスペックをみてCD-4を再生できるのではないかと思い、試してみたところ問題なく再生できてしまった、という話だった(これは昨年11月の話)。だが、改造版CD4-10との相乗効果の話としては、この時点では私はまだディモジュレーターの改造による改善の方に気を取られていたのだった。だから、1月24日の時点で中澤さんの「残念ながら、MC-3 Turboは生産終了だそうです」という書き込みを目にした時も、そうか、ぐらいにしか思わなかった。

それが一変するのは、2月13日のこと。中澤さんが、生産終了になったMC-3 Turboが某ショップの通販で61%引きの17,800円で売られている、在庫処分だろうから買うなら今のうちだと教えてくれたのだ。書き込みがあったのが午前3時前。朝その情報を見た私が「通常の第2世代ディモジュレーターではビクターのカートリッジと比較してどうですか?」と質問したところ、「私はこちらの方が良いと思いました。なんと言っても、経年劣化に怯えなくてもいいというのが利点です」との答え。これはもう買うしかあるまい。11時過ぎに注文を済ませ、18時にはもう販売は終了していた。危なかった。

翌2月14日、商品が無事到着。早速余っていたオーディオテクニカのヘッドシェルに取り付けて音出し。いきなり衝撃を受けて、思わずFacebookの4チャンネルのグループにこう書き込んだ。

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いやこれ凄い! まだ聴き始めたばかりですが、音がクッキリして空間表現力に優れ、ノイズが激減しました。
思うに、私の買ったMD-1016+4DT-1Xは明らかに問題があったような気がします。

あれほど悩まされていた嫌なノイズが、100%とは言わないが90%以上消えたのだから、驚くやら嬉しいやら。これがディスクリート4チャンネルの世界かと、その表現に初めて納得がいった。第3世代ディモジュレーター用のICチップに頼らずとも、ここまで再生できれば何の文句もない。MC-3 Turboと完璧に調整されたCD4-30との組み合わせは、実に強力だったのだ。MD-1016の方は、往年の名器とはいえ、個体差はあるだろうが少なくとも私の入手したものに限って言えば、さすがに経年劣化はかなりのものだったようだ。

そして、これは私一人の感想ではなかった。私にとって4ch再生では中澤さん同様先輩にあたるKさんも同時にMC-3 Turboを購入され、「こ、これは凄い!ノイズ感ゼロで、低域もふくよか。もう4MD-1Xに戻れない!」「なんと今までのビクターのカートリッジと比べようもないノイズと歪み感のないすばらしい4チャンネル再生。コレクション、全部聴き直します!」とFacebookにコメントされたのである。ちなみに4MD-1Xというのは、当時MD-1016と4DT-1Xとのセット販売の際に付けられた品番。

さて、このように高いポテンシャルをいきなり発揮したMC-3 Turboだが、4ch再生についての評価をネットで探してみても、何も見つからなかった。見つけたと思ったら、どれも中澤さんが書かれたと思われるものばかりだった。もちろんオルトフォンはこのカートリッジをCD-4再生可能という名目で売っていたわけではない。中澤さんも偶然発見したわけだが、今まで本当に、誰一人としてそのことに気付かなかったのだろうか。

もっともこれは日本国内での話。海外のフォーラム quadraphonicquad.com を覗いてみてもMC-3 Turboの名前を挙げていたのは見つけた限りではオルトフォンの米国でのディーラーだという一人だけだったが(書き込みはこちら)、海外の根強いCD-4ユーザーの間では、オルトフォンのMC(例えばMC20 Super)を含めた様々なカートリッジが使われていることがわかった。原則的にシバタ針かラインコンタクト針のものに限るのは自明として、使用例が報告されているカートリッジの中には周波数帯域の上限が30kHzに満たないものも含まれているのだが、これについてはある人が、カタログに載っているスペックは最低保証で実際にはそれ以上の対応能力があるので、30kHzのキャリア信号も大抵読み取れると書いていた。むしろMCおよび組み合わせる昇圧トランスからの出力レベルが高すぎたり低かったり、トランス不要の高出力MCが実際にはディモジュレーター側から見て必要なレベルに満たないことなどにより、うまく動作しないこともあるとのことだ。そこでのいくつかの情報から拾い出すと、現行のMMカートリッジの中では、オルトフォンの2M Bronze(無垢ファインライン針、20Hz~29kHz)、オーディオテクニカのVM750SH(無垢シバタ針、20Hz~27kHz)あたりがCD-4の再生に対応できそうだ。テクニカはMCカートリッジのAT33シリーズをずっとメインで使ってきたので、VM750SHもいつかは試してみたいものだが、当面はMC-3 Turboをじっくりと味わっていきたい。CD4-30をフォノイコとしての通常のステレオ盤再生もいい感じなので。

2021年2月17日 (水)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その3 タンゴの音楽形式~ミロンガ

旧サイト「tangodelic!」に連載していた記事「タンゴ入門講座」再掲載の第3回(元の連載の第9~10回分)。今回から3回に分けて、タンゴの音楽形式を紹介する。今回はミロンガで、この後タンゴ、ワルツとカンドンベその他と続く。

タンゴの音楽形式(1) 「ミロンガ」その1
(初出:2001年6月6日)

「ミロンガ」という言葉はタンゴで頻繁に使われるが、その意味はひとつではないので、整理しておく必要がある。ただし、それら複数の意味も裏では繋がっていると言えなくもない。一つ目は音楽形式としてのミロンガ。これは本稿のメイン・テーマであり、後で詳しく説明する。二つ目は、いわゆるダンスホールを指す言葉。「今日はミロンガに(タンゴを)踊りにいこう」といった感じで使われる。

そしてこれが重要なのだが、三つ目は、気分としてのミロンガというか、ある種の演奏傾向を指す。つまり、力強くはっきりしたリズムのタンゴの演奏に対して使われる言葉であり、具体的にはピアノの低音部の強調などにその傾向が現れる。もともとは1910年代にフランシスコ・カナロがリズムを強調したタンゴのことを「タンゴ・ミロンガ」と呼んだのが始まりだと思われるが、今日では、ピアノの低音部を強調した1940年代頃のオルケスタ・ティピカ、例えばカルロス・ディ・サルリ、オスバルド・プグリエーセ、アルフレド・ゴビらに対して「ミロンゲーロ(ミロンガ的な人、もの)である」といった形容がなされることが多い。ミロンゲーロの象徴的な存在といえば、アニバル・トロイロ楽団の初代ピアニスト、オルランド・ゴニがまず思い浮かぶ。1941年にトロイロ楽団(もちろんピアノはゴニ)が初演して、作曲者アルマンド・ポンティエルの出世作となった「ミロンゲアンド・エン・エル・40(クアレンタ)」には、「華麗なる40年代」とか「1940年代のミロンガ」といった邦題が付けられているが、直訳すれば「40年代にミロンガしながら」といった感じになるだろうか。

Goni
タンゴ界きってのミロンゲーロ、オルランド・ゴニ(1914~1945)
僅か31歳で夭折したのが惜しまれる。

それでは、本題に入ろう。音楽形式としてのミロンガは、4分の2拍子のリズムで成り立っている。そしてそのリズムは、キューバからヨーロッパ経由で伝えられたハバネラ(フランスのビゼエの歌劇『カルメン』に流用されたスペインのイラディエル作「ラ・パロマ」などが有名)や、スペインのアンダルシア地方から伝えられたタンゴ(フラメンコの中の一形式)と同じである。簡単に音符で表すと、次のようになる。

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ミロンガの起源は、だいたい1870年頃まで遡る。ブエノスアイレス周辺のパンパ(大草原)のバジャドール(吟遊詩人)が、ギターを鳴らしながら即興的に歌う音楽形式のひとつとして、この頃ミロンガが流行していたのである。パジャドールが歌うミロンガはブエノスアイレスやモンテビデオ(ウルグアイの首都。ブエノスアイレスとはラ・プラタ川を挟んで対岸に位置する)の場末に伝えられて、ダンス音楽として徐々に発展していく。同じリズムを持ったハバネラやスペインのタンゴやミロンガは、ほかの様々な要素と混ざりながら、19世紀の終りまでには“タンゴ”という一つの名のもとに集約されていく。その詳しい経緯については「タンゴ」の項に譲るが、そんなタンゴの前身としてのミロンガは、タンゴに吸収合併(?)されて、その役割を一旦終えるのである。

1900年代から1910年代前半にかけての(形式名としての)タンゴは、曲にもよるが、まだミロンガ的なシンコペーションを含んだ4分の2拍子のものが多かった(例えば1903年のアンヘル・ビジョルド作「エル・チョクロ」)。それが、1915年頃を境に8分の4拍子へと変化して行く。前身であるミロンガの痕跡は、どんどん薄れていき、タンゴの第1次黄金時代と言われる1920年代には、ミロンガはほとんど忘れられた存在だった。ミロンガが劇的な復活を遂げるには、1930年代の到来まで待たなければならなかったのである。

タンゴの音楽形式(2) 「ミロンガ」その2
(初出:2001年6月13日)

忘れられた存在だったミロンガを復活させたのは、ピアニストで作曲家のセバスティアン・ピアナ(1903~1994)だった。ピアナは1931年、作詞のオメロ・マンシ(1907~1951)と組んで「ミロンガ・センティメンタル」を発表する。このミロンガは、かつての素朴な形のものではなく、音楽的に洗練された新しいものだった。またこの作品はマンシにとっても出世作となった。後年の「スール」などで高い評価を得る彼も、当時はまだ駆け出しの新人だったのである。「ミロンガ・センティメンタル」は、翌年ペドロ・マフィアの大編成オルケスタが演奏してから評判となり、多くの歌手や楽団が取り上げる人気曲となった。ピアナ=マンシのコンビは続いて「1900年のミロンガ(ミロンガ・デル・ノベシエントス)」を発表。この2曲はテンポの早いミロンガだが、ピアナ=マンシのもうひとつの傑作ミロンガである「悲しきミロンガ(ミロンガ・トリステ)」はタイプが異なり、ゆったりとしたテンポで牧歌的な香りを漂わせている。かつてパジャドールたちが歌った草原のミロンガは、タンゴとフォルクローレ(民謡)に枝分かれしていったわけだが、フォルクローレの分野でもアタウアルパ・ユパンキらによって、音楽的にはシンプルながら文学性を備えた新しい形に生まれ変わりつつあった。「悲しきミロンガ」には、そうしたフォルクローレ界の新しい動きからの影響も反映されていたのである。

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ミロンガ復興の功労者、セバスティアン・ピアナ(1937年)

1930年代のミロンガというと、「ラ・プニャラーダ」(邦題は「ナイフで一突き」または「刃物さわぎ」)をめぐるエピソードが面白い。ウルグアイのピアニスト、ピンティン・カステジャーノス(1905~1983)は1933年、この曲をタンゴ・ミロンゴンという形式名で発表した。これは前回ご紹介したタンゴ・ミロンガ(昔風の力強いリズムのタンゴ)を更に強調した言い方らしい。発表して3年後の1936年、カステジャーノスがモンテビデオを訪れたフアン・ダリエンソにこの曲を聴かせたところ、ダリエンソ楽団のピアニスト、ロドルフォ・ビアジがミロンガにアレンジし直して楽団のレパートリーとしたのである。37年4月に録音されたダリエンソ楽団の「ラ・ブニャラーダ」は大ヒットし、それ以降この曲はミロンガの定番のひとつとなった。なお、フランシスコ・カナロ楽団は1937年6月にこの曲をもとのタンゴのまま演奏しているが、何とも間の抜けた感じで、全く面白くない。

それでは、1930年代以降に書かれたミロンガから、現在までよく演奏される代表的な作品をいくつか挙げてみよう。

 わが愛のミロンガ(ミロンガ・デ・ミス・アモーレス)(ペドロ・ラウレンス作曲、1937年発表)
 マノ・ブラバ(すご腕)(マヌエル・ブソン作曲、1940年頃)
 ラ・トランペーラ(うそつき女)(アニバル・トロイロ作曲、1950年)
 タキート・ミリタール(軍靴の響き)(マリアーノ・モーレス作曲、1952年)
 コラレーラ(アンセルモ・アイエータ、1950年代半ば)
 エル・フィルレーテ(マリアーノ・モーレス作曲、1950年代後半)
 ノクトゥルナ(フリアン・プラサ作曲、1959年)

いま挙げたのは、すべてテンポの早いミロンガである。「悲しきミロンガ」のようなゆったりしたものは、作品の数自体が少ない。その一方で、例えばユパンキ作「牛車にゆられて(ロス・エヘス・デ・ミ・カレータ)」のように、フォルクローレのミロンガをタンゴ楽団がレパートリーに加える場合もある。こうした作品は、タンゴに於けるミロンガと区別するために、ミロンガ・カンペーラ(田園のミロンガ)とかミロンガ・パンペアーナ(パンパのミロンガ)などと呼ばれたりする。

オスバルド・プグリエーセ楽団のバンドネオン奏者、オスバルド・ルジェーロが作曲し、1962年に同楽団が録音した「ボルドネオ・イ・900(ノベシエントス)」は、テンポの遅い部分と早い部分とで構成される、かなり凝った作りのミロンガである。タイトルのボルドネオとは、かつてのミロンガの土台をなした、ギターの低音弦のこと。900は1900年を指す。様々な要素を複合的に絡ませたこの作品の芸術的価値は高い。最後に、ミロンガといえばピアソラ作品も忘れてはならないが、ピアソラはテンポの早い一般的なイメージのミロンガは1曲も書いていない。「天使のミロンガ」「悪魔のロマンス」「ミロンガ・フォー・スリー」といった代表的なミロンガは、どれもテンポが遅い。かといってフォルクローレ的な雰囲気を漂わせているわけでもなく、これはピアソラ独自の表現というべきだろう。

2021年2月13日 (土)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その2 タンゴの楽団編成~コンフント/グラン・オルケスタ

旧サイト「tangodelic!」に連載していた旧記事「タンゴ入門講座」再掲載の第2回。今回は第4回から第7回まで4回に分けて掲載した「コンフント」と、第8回に掲載した「グラン・オルケスタ」をまとめて紹介する。

タンゴの楽団編成(4) 「コンフント」その1
(初出:2001年5月2日)

“コンフント”というのは、スペイン語でバンドとか楽団といった意味。同じく楽団を意味する“オルケスタ”よりも小編成のものを指すことが多いが、はっきりと人数で線引き出来るわけではない。フリオ・デ・カロ型の六重奏団をオルケスタと呼んでもかまわないわけだし、アストル・ピアソラの九重奏団の名称は“コンフント9(ヌエベ)”である。まあ、二重奏から五重奏ぐらいまでは明らかにコンフントと呼ぶべきだろう。六重奏以上の編成は、楽器の組み合わせや音楽性などから判断して、オルケスタの小規模なものか、コンフントの大きめのものか、という分け方をすればいいのではないかと思う。

オルケスタ・ティピカ誕生以前の話をしておくと、だいたい1890年代から1900年代にかけてのタンゴは非常に素朴なもので、主にメロディを奏でるヴァイオリン、リズムを刻むギター、メロディを装飾するフルートという感じでトリオで演奏されることが多かった。このほかにはハープやマンドリン、アコーディオンなどが使われることもあったらしい。ヴァイオリン、ギター、フルートの編成にバンドネオンが加わって四重奏になるのはだいたい1910年頃で、それ以降バンドネオンはタンゴの演奏に欠かせない楽器になっていく。ピアノは当時は高級品で、この頃まではほとんどソロでしか演奏されることはなかった。ピアノ入りの楽団の登場は、1913年にピアノ奏者ロベルト・フィルポが楽団(当初はバンドネオン、ヴァイオリンとのトリオだったが、すぐに編成は大きくなっていった)を率いてデビューするまで待たなければならなかった。こうした、タンゴ黎明期の小編成楽団は、オルケスタ・ティピカが生まれるまでの過渡期的な存在といえる。今回ご紹介するのは、ティピカが一般的となってから登場したさまざまな形のコンフントについて、である。

ティピカ全盛期のコンフントで最も有名なものは、ロベルト・フィルポ四重奏団と、フランシスコ・カナロ率いるピリンチョ五重奏団である。先程名前を挙げたばかりのフィルポが再び登場したことにお気付きだろうか。フィルポは1884年、カナロは1888年生まれ。つまり二人は同年代で、共に1900年代半ばから演奏活動を始め、1910年代には楽団を率いて第一線で活躍するようになった、いわば好敵手である。二人は徐々に大型化するオルケスタ・ティピカを率いて活躍を続けていたが、1930年代半ば、相次いでコンフントを結成して演奏活動を開始する。フィルポの四重奏団はバンドネオン、ピアノ、ヴァイオリン×2という編成、ピリンチョ五重奏団はこれにコントラバスを加えた編成である。いずれもコンセプトは明解で、タンゴの行き詰まりを打破すべく、古典(具体的には1910~20年代の作品および演奏スタイル)の完全復興を目指したものだった。演奏技術は格段に進歩していたが(特にバンドネオン)、音楽的には特に新しいものを生み出したわけではない。

今日に繋がるコンフントの最初のものは、トロイロ=グレラ四重奏団である。アニバル・トロイロは1953年、タンゴの歴史を回顧した音楽劇『モローチャの中庭』を上演した。トロイロはオルケスタ・ティピカにハープや木管楽器、金管楽器まで加えた大編成の楽団(ピアソラが編曲を担当)を率いて舞台に立ったが、その中で古典タンゴを象徴する役回りとして、トロイロのバンドネオンとロベルト・グレラのギターをメインに、第2ギターとコントラバスを加えた四重奏団の演奏場面が設定された。ただし、素材は古典であっても、その解釈の仕方が、フィルポやピリンチョのように脱古典のベクトルを持たないものとは根本的に異なっていた。つまり、トロイロ=グレラの演奏には、アンサンブルにおける楽器の生かし方の斬新さなどのモダンな感覚が、自然な形で現れていたのである。結局この四重奏は大きな人気を呼び、劇の終了後も演奏活動を続けることになった。

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トロイロ=グレラ四重奏団
左からロベルト・グレラ(ギター)、エクトル・アジャラ(第2ギター)、アニバル・トロイロ(バンドネオン)、キチョ・ディアス(コントラバス)。

タンゴの楽団編成(5) 「コンフント」その2
(初出:2001年5月9日)

小編成のもっとも規模が小さいものはドゥオ(スペイン語で二重奏。英語ではデュオ)だが、これは気心の知れたミュージシャン二人がその気になれば、原則的にはどんな組み合わせも可能だろう。演奏者自身の楽しみや余興の範囲に留まったものが多いため、意外に残されたレコードは少ないのだが、昔から随分いろいろなコンビが存在した。バンドネオン×2(ペドロ・マフィアとペドロ・ラウレンスなど)、ギター×2(ラス・ギターラス・デ・オロなど)、ピアノ×2(オスバルド・ベリンジェリとオスバルド・タランティーノなど)のように同じ楽器の組み合わせもあるし、バンドネオン+ギター、バンドネオン+ピアノ、ヴァイオリン+ピアノ、ピアノ+ギターといった比較的オーソドックスなものから、ヴァイオリン+オルガンとか、ヴァイオリン+コントラバスのように風変わりなものまで実に多彩である。

コンフントの基本といえば、やはりトリオ(三重奏。スペイン語も英語も同じ)だろう。タンゴのトリオ編成というと、現代ではバンドネオン、ピアノ、コントラバスの組み合わせがまず思い浮かぶが、これはそれほど歴史のある編成ではない。正確な記録がないが、ウルグアイのピアノ奏者セサル・サニョーリが、ブエノスアイレスでのいくつかのオルケスタ・ティピカでの演奏活動を終えて帰国した1954年にバンドネオンのルイス・ディ・マテオらと組んだトリオが、恐らく最初ではないかと思われる。レパートリーは古典曲が中心で、特にモダンな指向を持っていたわけではないサニョーリ・トリオだが、がっしりと骨太で重心の低い演奏は、それまでの古典指向のコンフントのそれとは明らかに異なっていた。

Zagnoli
トリオを率いてモンテビデオ大学で演奏するセサル・サニョーリ(1961年)
ピアノの向こう側、横顔が見えるのがルイス・ディ・マテオ(バンドネオン)。

その後ブエノスアイレスでもこの編成のトリオがいくつも登場するようになったが、技術的にも音楽的にも特に秀でていたのは、1970年に結成されたトリオ・フェデリコ=ベリンジェリだろう。バンドネオン奏者の最高峰に位置するレオポルド・フェデリコ、トロイロ楽団出身でジャズの素養もあるテクニシャンのオスバルド・ベリンジェリにコントラバスのフェルナンド・カバルコスという顔合わせのこのトリオによる凄みのある演奏は、この編成でどこまで音楽的に豊かになれるかという実験のようでもあった。また、演奏と編曲の両面における斬新さという点では、やはり70年代に活躍したバングアトリオ(オマール・バレンテp、ネストル・マルコーニbn、エクトル・コンソーレb)も忘れ難いし、ピアソラ以降のモダンな感覚を追求したトリオとして、モサリーニ=ベイテルマン=カラティーニ(80年代にパリを拠点に活躍)の存在も重要である。

バンドネオン+ピアノ+コントラバス以外にも、バンドネオン+ギター×2(シリアコ・オルティス・トリオ、このトリオは歴史が古い)、バンドネオン+ギター+コントラバス(エドゥアルド・ロビーラ・トリオ)、ピアノ+ギター+コントラバス(タンゴスール・トリオ)、ピアノ+ヴァイオリン+コントラバス(エル・タンゴ・ビーボ+近藤久美子)など様々な組み合わせのトリオが存在するが、どれもあまり一般的とは言えないだろう。

クアルテート(四重奏。英語でクァルテット)となると、組み合わせのパターンは更に増えるが、バンドネオン+ピアノ+コントラバスのトリオにもう1つの楽器が加わるパターンが多い。やはり特に多いのはヴァイオリンが加わった編成で(つまりこれでオルケスタ・ティピカを構成する最低限の楽器が揃う)、エストレージャス・デル・タンゴやレイナルド・ニチェーレ四重奏団などが代表格。また、エレキ・ギターが加わったものとしては、アニバル・トロイロ四重奏団(前回ご紹介したトロイロ=グレラ四重奏団とは別物)などがある。トロイロ=グレラ四重奏団のようにバンドネオン+ギター×2(もしくはギターとギタロン〔大型の低音ギター〕)+コントラバスという編成(フェデリコ=グレラ四重奏団など)もあれば、フルートやチェロなどが加わったものもありと、やはり例を挙げていったらキリがない。また、クラシックの弦楽4重奏と同じヴァイオリン×2+ヴィオラ+チェロという編成の、プリメール・クアルテート・デ・カマラ・デル・タンゴというグループもあった。

タンゴの楽団編成(6) 「コンフント」その3
(初出:2001年5月16日)

最近のタンゴ・ファンに最も親しまれているコンフントと言えば、やはりアストル・ピアソラ五重奏団(五重奏団はスペイン語でキンテート、英語ではクィンテット)にとどめを刺すだろう。いくつものアンサンブルを作っては壊したピアソラにとって、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、エレキ・ギター、コントラバスという五重奏団(1960年結成)は最も理想的な編成となり、長い期間にわたって安定した活動を続けることになった。ピアソラは五重奏団結成後も、八重奏団(ヌエボ・オクテート、1963年)や九重奏団(コンフント・ヌエベ、1971~72年)など、より編成の大きなコンフントを率いての活動も行っているが、これは五重奏団に楽器を増やしたものである。逆に五重奏より少ない編成では活動することはなかった。このことからも、五重奏がピアソラにとっての基本だったことが判る。

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アストル・ピアソラ五重奏団(1966年頃)
(左から)オスバルド・タランティーノ(ピアノ)、アントニオ・アグリ(ヴァイオリン)、アストル・ピアソラ(バンドネオン)、キチョ・ディアス(コントラバス)、オスカル・ロペス・ルイス(エレキ・ギター)。

ピアソラ五重奏団の登場以降、ピアソラの後を追って、いくつもの同じ編成の五重奏団が登場し、今日に至っている。最近のものでは、モサリーニ=アントニオ・アグリ五重奏団(ギターはエレキではなくアコースティック)や小松亮太&ザ・タンギスツ(彼らも自由自在にその編成を変えるが、やはり基本は五重奏にあると見るべきだろう)などがお馴染みだろう。だが、この編成の五重奏は、ピアソラが最初に始めたわけではなかった。ピアソラ五重奏団の結成に先立つ1年前の1959年に誕生したキンテート・レアルが、その先駆である。

同じ編成といっても、キンテート・レアルとピアソラ五重奏団とでは、その音楽的構造がかなり異なるのが面白い。そもそもキンテート・レアルは、オラシオ・サルガン(ピアノ)とウバルド・デ・リオ(エレキ・ギター)のデュオをベースに生まれたグループなので、五重奏になっても、あくまでもサウンドの要はピアノとギター。そこに他の楽器が絡んで来る感じで、例えばバンドネオンはさほど前面に出て来る感じではない。一方ピアソラ五重奏団は、バンドネオンを中心に各楽器が自己主張し合い、緊張感を保ちながら演奏を展開していくが、その中でギターだけは縁の下の力持ち的な役割を担っている。

これまでにご紹介して来たように、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバスはいずれもオルケスタ・ティピカ以来使われてきた基本的な楽器だが、エレキ・ギターはそうではない。ピアソラが1955年にブエノスアイレス八重奏団を結成した時に初めて導入され(奏者はオラシオ・マルビチーノ)、物議をかもしたのがこの楽器。ピアソラによる伝統破壊の象徴とすらみなされたのである。だが、「すべて異なる楽器の五重奏」によるアンサンブルを組み立てる上で、エレキ・ギターが極めて有効に機能することを、ピアソラやサルガンは証明してみせた。この編成は、コンフントの一つの理想とすら言えるだろう。ただ、サルガンもピアソラも類稀な個性の持ち主であるが故に、この編成による五重奏の新たな在り方を提示できる才能がその後現れていないのも、また事実である。

彼ら以外の編成というと、やはり第4回で紹介したピリンチョ五重奏団のような、バンドネオン+ヴァイオリン×2+ピアノ+コントラバスという古典的な編成のものが多いが、それ以外にもヴァイオリンではなくバンドネオンが2台のもの(キンテート・グローリアなど)、フルートなどが加わった古典復興傾向のもの、弦楽器のみのもの(キンテート・アルヘンティーノ・デ・クエルダス)など、様々なタイプの五重奏団が存在する。

タンゴの楽団編成(7) 「コンフント」その4
(初出:2001年5月23日)

これまでドゥオ(二重奏)、トリオ(三重奏)、クアルテート(四重奏)、キンテート(五重奏)とご紹介して来たが、セステート(六重奏、英語ではセクステット)になると、様子が変わって来る。様々な種類の楽器の組み合わせによるものは少なく、多くの六重奏がバンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ピアノ、コントラバスという編成に落ち着くのである。つまりそれは、《「オルケスタ・ティピカ」その1》でご紹介した、1920年代のフリオ・デ・カロ楽団(六重奏団)と同じ編成ということである。そのデ・カロ自身の楽団をはじめとして、オルケスタ・ティピカ編成が大型化していった1930年代以降も、この編成の楽団は実際に存在していたのだが(例えばピアソラに多大な影響を与えたエルビーノ・バルダロ六重奏団など)、ここでは比較的新しい時代のものに話をしぼることにしよう。

この編成の楽団で特に有名なのが、セステート・タンゴ(1968年結成)とセステート・マジョール(1973年結成)の二つである。オスバルド・プグリエーセ楽団の主力メンバーたち(オスバルド・ルジェーロ、ビクトル・ラバジェン、フリアン・プラサ、エミリオ・バルカルセほか)が独立して作ったセステート・タンゴは、プグリエーセ譲りの豪快さと緻密さが交錯する音作りに定評があった。一方、バンドネオンのホセ・リベルテーラとルイス・スタソを中心に結成されたセステート・マジョールは、現代的な感覚をエンターテインメント性豊かにアピールすることで、幅広い人気を獲得してきた。彼らに共通していたのは、演奏と編曲の両面で特に優れた技術を持ったメンバーが集まっていたことで(両方とも、特にリーダーは定めていない)、たった6人でもかつてのオルケスタ・ティピカに匹敵する、重厚で迫力あるサウンドを奏でることができることを証明してみせたのである。つまり彼らは、コンフントというよりもむしろ、オルケスタ・ティピカの縮小現代版と呼ぶ方がふさわしく、実際にこの編成であればオルケスタと名乗ることが多い。

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セステート・マジョール(1980年頃)
(左から)ホセ・リベルテーラ(バンドネオン)、オスカル・パレルモ(ピアノ)、ルイス・スタソ(バンドネオン)、キチョ・ディアス(コントラバス)、マウリシオ・ミセ(ヴァイオリン)、マリオ・アブラモビッチ(ヴァイオリン)。

現在活躍中のこの編成の楽団には、セステート・スール(音楽的にはちょっと納得できないが)、オランダのセステート・カンジェンゲなどがある。また、この編成にキーボードを加えたオルケスタ・コロール・タンゴや、エレキ・ギターを加えたオルケスタ・エル・アランケは、いずれも七重奏団(スペイン語でセプティミノもしくはセプテート)ではあるが同じ流れに属するものと考えて構わない。コロール・タンゴは、セステート・タンゴ同様にプグリエーセの流れを汲む楽団、一方のエル・アランケは成長著しく現在最も注目すべき若手楽団のホープである。

もちろんこうした編成以外の、オルケスタではなくコンフントと呼ぶにふさわしい六重奏団にもいくつかあって、例えばバンドネオン1台でチェロを加えたもの(エンリケ・フランチーニvnの六重奏)、ヴァイオリンを1本にしてエレキ・ギターを加えたもの(オマール・バレンテpやホセ・コランジェロpの六重奏)などがある。短命に終ったアストル・ピアソラ六重奏団(セステート・ヌエボ・タンゴ、1989年)は、バンドネオン×2、チェロ、ピアノ、エレキ・ギター、コントラバスという変則的な編成だった。また、重要なコンフントのひとつであるマリアーノ・モーレスpのセステート・リトゥミコ・モデルノ(モダン・リズム六重奏団、1963年~)は、その名に反してピアノ、バンドネオン、オルガン、エレキ・ギター、ヴィブラフォン、コントラバス、ドラムスという七重奏である。

六重奏よりも編成の大きなコンフントにも様々なものがあり、一つ一つ紹介することは困難だが、その中では1950年代後半に画期的な方法論を打ち出した2つのグループが極めて重要である。ひとつはピアソラが1955年に結成したオクテート・ブエノスアイレス(デ・カロ型の六重奏にチェロとエレキ・ギターを加えた八重奏団)、もうひとつは卓越した編曲家であったアルヘンティーノ・ガルバンが音楽監督を務めた七重奏団、ロス・アストロス・デル・タンゴ(ヴァイオリン×2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、バンドネオン、ピアノという編成)で、いずれもそれまでにない斬新な編曲と演奏でセンセーションを巻き起こした。彼らは、オルケスタ・ティピカの時代からコンフントの時代へと移り変わる過渡期を象徴する存在とも言え、タンゴ史上に果たした役割は非常に大きかった。オクテート・ブエノスアイレスにおけるピアソラの実験は、やがてピアソラ五重奏団の結成で実を結び、ロス・アストロス・デル・タンゴのようなバンドネオン+ピアノ+弦楽セクションの組み合わせによるコンフントは、エドゥアルド・ロビーラのアグルパシオン・デ・タンゴ・モデルノ(現代タンゴ集団)などに引き継がれていったのである。

タンゴの楽団編成(8) 「グラン・オルケスタ」
(初出:2001年5月30日)

「タンゴの楽団編成」の章では、これまでオルケスタ・ティピカとコンフントについてご紹介してきた。最後に、そのどちらにも属さないものとして、ティピカとは異なるタイプの大編成楽団を紹介しておこう。具体的には、オルケスタ・ティピカでは通常使われない管楽器や打楽器などの楽器を加えるなどして、ティピカよりも編成を大きくした楽団などが対象となる。こうした楽団に対しては“グラン・オルケスタ”という呼び方があるが、その定義はあってないようなもので、その名称が使われるとは限らない。大編成ゆえの経済的な問題などから、決してタンゴの主流にはならなかったにせよ、その存在を覚えておくことは無駄ではないだろう。

こうした大編成への試みは、既に1930年代から行われていた。例えば1936年にフリオ・デ・カロが率いたオルケスタ・メロディカ・インテルナシオナル(インターナショナル・メロディック・オーケストラ)は、金管楽器やドラムスを加えた16人編成だったが、実を言うとこれは大変評判が悪かった。1930年代のタンゴ界は、アメリカ合衆国から押し寄せてきたジャズの猛威にさらされながら、変革を求められていた時期で、そうした中での迷いが中途半端な編成に表れたといえる。タンゴ史に偉大な足跡を残したデ・カロでも、このような試行錯誤の時期があったのである。また、こうした流れとは全く別のものとして、「カミニート」や「バンドネオンの嘆き」の作者として知られるフアン・デ・ディオス・フィリベルトが1932年に結成したオルケスタ・ポルテーニャがある。これは通常のティピカで使われる楽器にフルートとクラリネットを加えた14人編成の楽団だった。

より音楽的な必然性を持った形で大編成楽団が登場するのは、1950年代半ば以降である。最も重要な楽団として、アストル・ピアソラの弦楽オーケストラ(オルケスタ・デ・クエルダス)と、マリアーノ・モーレスのグラン・オルケスタ・リリカ・ポプラールの二つを挙げておこう。ピアソラが最初に弦楽オーケストラを結成したのはパリ留学中の1955年。オペラ座の管弦楽団の団員を中心としたこの楽団は、バンドネオン、ピアノ、ヴァイオリン×8、ヴィオラ×2、チェロ×2、ハープ、コントラバスという16人編成だった。ピアソラは帰国後にはタンゴ界の腕利きを集めて同様の楽団を組織、その豊かな響きは、それまでのピアソラの集大成とも言えるほどの充実したものだった。一方、芸術指向のピアソラに対して、「タンゴを世界に」のモットーのもと、大衆指向を持ちながら新しいタンゴの創造に燃えていたモーレスは、自らのピアノを中心に金管楽器、木管楽器、弦楽器、打楽器、コーラスまで取り入れたカラフルなオーケストラ・サウンドを作り上げた。それはさながら映画音楽のような雰囲気を醸し出していたのである。なお、ピアソラは1967年に、グラン・オルケスタ名義で古典曲ばかりを集めた2枚のアルバムを制作したが、これは彼の五重奏団に弦楽器やヴィブラフォンなどを加えたもので、かつての弦楽オーケストラとは性格が異なる。

その後のグラン・オルケスタ的なものというと、ピアソラはもとより、《「コンフント」その4》で紹介したロス・アストロス・デル・タンゴやエドゥアルド・ロビーラの現代タンゴ集団などの流れを汲むものが多い。すなわち、バンドネオン+ピアノ+弦楽セクション+αという編成である。例えばアティリオ・スタンポーネpやラウル・ガレーロなどが代表的な例に挙げられるだろう。1977年の日本公演用に特別に編成されたエンリケ・フランチーニとシンフォニック・タンゴ・オーケストラ(ヴァイオリン×12、ヴィオラ×2、チェロ×2、コントラバス、フルート、オーボエ、ホルン、ピアノ、エレキ・ギター、バンドネオン)というのもあった。

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フランチーニとシンフォニック・タンゴ・オーケストラ
中央に立っているのがエンリケ・フランチーニ(ヴァイオリン)。その向かって左はバンドネオンと編曲のディノ・サルーシ。

タンゴを大編成で演奏するには、それなりの難しさが付きまとうと思われる。大編成になればなるほど、タンゴ的な微妙なニュアンスが出しにくくなり、ムード音楽的に流されてしまう危険性が出て来るからである。指揮者や編曲者の力量が問われるところだ。運営の難しい大編成楽団だが、現在では例えばクラシックのオーケストラ+バンドネオンなどのゲスト、という在り方が一般的になりつつある。それを実践しているのがウルグアイのモンテビデオ・フィルハーモニー管弦楽団だ。今年(2001年)4月に人知れず来日したフェデリコ・ガルシーア・ビヒルが指揮を、トト・ダマリオが第1バンドネオンと編曲を担当しているのがこの楽団。ただし彼らの場合、管楽器も打楽器も入らず、バンドネオンは5台なので、サウンドは極めてオルケスタ・ティピカ的である。

2021年2月12日 (金)

【旧記事再掲】タンゴ入門講座 その1 タンゴの楽団編成~オルケスタ・ティピカ

ピアソラ生誕100年と、先日紹介したユニバーサルミュージックからのピアソラ7タイトル復刻とに絡めて、同社のサイトに「ピアソラが貫いたタンゴのモダン化とブエノスアイレスへのこだわり」という一文を寄稿した。ご一読いただければ幸いである。

さて、かつて2019年2月12日の記事「メールアドレスの変更とブログの引っ越し」でも触れたように、私自身の不注意から、自分のサイト「tangodelic!」は2016年11月に消滅してしまった。旧サイトでは2001年1年間かけて、全34回の「タンゴ入門講座」というのを連載していたのだが、最近とあるところから、学生向けにタンゴをわかりやすく解説してあるサイトはないかと相談を受け、思い出したのがその連載。幸い旧サイトのhtmlのイメージだけはパソコンに保存してあったので、今でも見ることができる。読み返したら、ネタ的に古い部分は当然あるものの、このまま使えないこともないのではないかということで、当時の原稿をそのまま当ブログに再掲することにした。全34回分を12回程度にまとめ、明らかに古い記述には注釈を付け加えることにした。今回は最初の3回分、オルケスタ・ティピカについてである。

タンゴの楽団編成(1) 「オルケスタ・ティピカ」その1
(初出:2001年2月14日)

オルケスタ・ティピカとは、アルゼンチン・タンゴでもっとも基本となる編成の楽団のこと。英語で言うとティピカル・オーケストラ、つまりスペイン語で“標準的楽団”という意味だが、中南米各国でそれぞれ自国の音楽を演奏する上での標準的な編成のことを指しているので(現在では頻繁に使われているとは言い難いが)、タンゴの場合は「アルゼンチンでの標準」ということになる。

タンゴの世界で初めてオルケスタ・ティピカを名乗ったのは、1910年のビセンテ・グレコ(バンドネオン)の楽団が最初だが、これは今日で言うところのティピカ編成とは異なる。あくまでも大まかな「当時の標準」だったということだ。この時の編成は、バンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ギター、フルートという6重奏だった。ギターとフルートは、いずれも初期のタンゴ(特にバンドネオンの本格的な導入以前)のアンサンブルでは重宝された楽器だが、ギターはピアノに取って変わられ、またフルートはバンドネオンにその役割を奪われて、基本的な編成から姿を消していく。ギターの低音弦(ボルドーナ)が奏でていた響き(ボルドネオ)は、コントラバスの導入などで補われていった。

バンドネオンとヴァイオリン、ピアノ、コントラバスという組み合わせによる、現代の標準となるオルケスタ・ティピカの基本的な形は、1910年代後半から1920年代初頭にかけてエドゥアルド・アローラス(バンドネオン)やオスバルド・フレセド(バンドネオン)、フアン・カルロス・コビアン(ピアノ)らがそれぞれ率いていた楽団(おおむね5重奏から6重奏)によって徐々に形づくられていったが、歴史的に見て最も重要なオルケスタ・ティピカは、1924年に結成されたフリオ・デ・カロ楽団(6重奏)である。アローラス、フレセド、コビアンといずれの楽団にも参加して腕を磨いてきたヴァイオリン奏者のデ・カロは、兄で楽団のピアニストを務めたフランシスコ・デ・カロらの協力のもと、バンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ピアノ、コントラバスという6重奏のスタイルを完成の域にまで高めることに成功した。

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フリオ・デ・カロ楽団(1926年)
(左から)フリオ・デ・カロ(コルネット・ヴァイオリン、指揮)、フランシスコ・デ・カロ(ピアノ)、ペドロ・マフィア(バンドネオン)、エンリケ・クラウス(コントラバス)、ペドロ・ラウレンス(バンドネオン)、エミリオ・デ・カロ(ヴァイオリン)

それまでのタンゴの演奏は、乱暴に言ってしまえば、単純な「合奏」に近いものだった。それをデ・カロはこの6重奏団で大きく進歩させた。和声や対位法を駆使して豊かな響きを生み出し、楽団に於ける各楽器の役割を明確にさせたのである。1920年代当時の先端をいき、タンゴに於ける編曲という概念を作り上げたデ・カロこそは、後のアニバル・トロイロやオスバルド・プグリエーセ、更にはアストル・ピアソラにまで至る現代タンゴの基礎を築いた大人物と言えよう。後年ピアソラはデ・カロに捧げて「デカリシモ」(「とてもデ・カロ的な」という意味)という曲を書いている。

1930年代に入ると、他の楽団もデ・カロ自身も、更に豊かな響きを求めて、バンドネオンやヴァイオリンの数を増やし始める。そして1940年代にさしかかる頃には、バンドネオンが4人程度、ヴァイオリンに多くはヴィオラもしくはチェロ1本を加えた弦セクション4~5人程度、ピアノ、コントラバスという編成が一般的となる。これがオルケスタ・ティピカ編成の最終的な形である。あと、忘れてはならないことは、40年代当時のすべてのティピカが専属歌手制を採っていたことで、1~2名程度の歌手が楽団のもうひとつの看板となった。

要約すると、1920年代にはデ・カロ型の6重奏がオルケスタ・ティピカと呼ばれたが、現在では、オルケスタ・ティピカといえば1940年代以降定着したおおむね10~11人前後の編成のことを指し、例えば20年代のデ・カロ楽団のことは「デ・カロ6重奏団」などと呼んで区別するのが一般的、ということになる。

タンゴの楽団編成(2) 「オルケスタ・ティピカ」その2
(初出:2001年4月18日)

1940年代のオルケスタ・ティピカ人気の立役者となったのが、1935年に「電撃のリズム」をひっさげて登場したフアン・ダリエンソである。テンポを速くし、ダンス向けのタンゴのリズムを極端なまでにデフォルメしたスタイルのダリエンソは、瞬く間に人気を集め、1940年前後には、ほとんどの楽団がダリエンソの影響で演奏のテンポが速くなっていたほどである。

そして、1940年代のタンゴ黄金時代を名実共に代表したのが、バンドネオン奏者、アニバル・トロイロのオルケスタ・ティピカ。若き日のピアソラもトロイロの楽団で修業していたほか、数多くの優れた人材を排出したことでも知られている。デ・カロ・サウンドを継承する大きな存在であるトロイロ楽団は、50年代から60年代へと時代を経るごとにそのサウンドに重厚さを増していくのだが、歌手にフランシスコ・フィオレンティーノを擁し、躍動感に溢れたフレッシュなサウンドを奏でていた40年代前半の演奏はひときわ魅力的。そこで重要な役割を果たしていたのが、ピアノのオルランド・ゴニやコントラバスのキチョ・ディアスといった天才的なプレイヤーたちだった。ピアソラがそこで経験を積んだのは、非常に大きなことだったのである。

Troilo60s
1960年代のアニバル・トロイロ楽団
この時期は弦セクションをかなり増強しているのが判る。歌手ロベルト・ルフィーノの向こう側に立っているのがトロイロで、この時は指揮に専念しバンドネオンは弾いていない。第1バンドネオン(向かって一番左)はエルネスト・バッファ、その隣は若き日のラウル・ガレーロ。ピアノはオスバルド・ベリンジェリである。

1940~50年代を代表するオルケスタ・ティピカとしては、オスバルド・プグリエーセ、カルロス・ディ・サルリ、アルフレド・ゴビなどの楽団も重要だが、彼らについては別項にまとめておくことにしよう。この時期には、彼ら以外にも多くの人気楽団が活躍していたが、特に強い個性を持ったわけではない、あまり知られていないような楽団の演奏にも、注目すべきもの、ティピカ・サウンドの真髄と言えるものが数多く存在しており、当時のタンゴ界の裾野の広さを物語っている。

また、当時のオルケスタ・ティピカを語る上で欠かせないのが専属歌手の存在である。歌手は楽団の顔となり、楽団指揮者と人気を二分した。録音されたレパートリーを見ても、楽団によってその比率にバラ付きはあるものの、インストゥルメンタルよりも歌ものの方が多い。当時はタンゴ歌曲の名作が数多く生まれた時期でもあり、作曲ではトロイロやマリアーノ・モーレス、作詞ではオメロ・マンシやエンリケ・カディカモをはじめとする多くの作家たちが活躍、そうした当時の新曲を各楽団が競って取り上げるという形で、ヒット曲が次々と生まれていった。

インストゥルメンタルも同様ながら、新曲と並んで1900年代初頭の作品(例えば「エル・チョクロ」)以降の様々な時期に書かれた作品も、幅広く演奏されていた。また、各楽団の指揮者や演奏メンバーによる作品もどんどん発表されていて、自らの楽団はもとより、ほかの楽団に取り上げられることも多かった。なお、1960年代中期以降のピアソラのように、基本的に自分で書いたオリジナル作品しか演奏しないというケースは、タンゴ界では極めて例外的である。

結果的に同じ曲をさまざまな楽団が演奏することになるわけで、各楽団は編曲に趣向を凝らして差別化を計っていくことになるわけだが、そこで重要になってくるのが編曲家の存在である。指揮者や楽団員が自ら編曲を手掛けるケースがほとんどだが、アルヘンティーノ・ガルバンのような専属編曲家も活躍するようになった。ピアソラやエミリオ・バルカルセなども、自らの演奏活動以外に様々な楽団に編曲を提供していたのである。

タンゴの楽団編成(3) 「オルケスタ・ティピカ」その3
(初出:2001年4月25日)

これまでにも説明した通り、4台程度のバンドネオンに4~5本程度の弦楽器、ピアノ、コントラバスに歌手というのが、最終的に固まったオルケスタ・ティピカの編成であるが、いくつかの楽団の写真などを見たりしていると、この定型にはこだわらずに楽器を増やしているケースもあったことがわかる。前回のアニバル・トロイロ楽団の写真にもあるように、弦楽器を増やしたものが特に多いが、珍しい例としては、バンドネオンを10台以上もずらりと並べたものまであった。これは音に厚みを加えるのが主な目的だが、見た目の派手さ、豪華さを狙う側面もあったようだ。また、楽団によっては上記以外にクラリネット、ヴィブラフォン、ハープ、ドラムスなどの楽器を、あくまでも隠し味的にだが加えることもあった。そのように編成がより大きくなった場合には“グラン・オルケスタ・ティピカ”(大オルケスタ・ティピカ)などの名称が使われたりしていたが、その辺の定義はけっこう曖昧である。

全体的にオルケスタ・ティピカの演奏力が最高潮に達したのは1950年代前半だった。様々な可能性が試みられた結果として音楽的にも成熟していったわけだが、編成の制約からくる表現上の限界も見え隠れするようになっていた。それをいち早く見抜いたのが他ならぬアストル・ピアソラだった。ピアソラがブエノスアイレス八重奏団を結成してタンゴ革命ののろしを上げ、タンゴを擁護してきたペロン政権が失脚した1955年以降、新しいティピカの登場は著しく減少し、トロイロ、プグリエーセなどの一流どころを除けばティピカの解散が相次いだ。需要の減少による経済的な問題と、音楽的な飽和状態の両面から、オルケスタ・ティピカの時代は終わりを告げ、経済的な負担も少なく音楽的な自由度も高い小編成楽団の時代へと移行していったのである。

オルケスタ・ティピカは、若い演奏家たちにとっては、タンゴのエッセンスを修得する重要な場所であったし、聴き手にとっても、タンゴのダイナミズムを体感させてくれる大きな存在だった。例えば、オルケスタ・ティピカの演奏を聴く醍醐味のひとつは、バンドネオン・セクションによるバリエーション(変奏)だろう。バリエーションとは、主に曲の終盤に登場する細かい音のパッセージのことで、基本的には、バンドネオン全員が同じフレーズを一糸乱れぬ状態で紡いでいくのである。粒がビシッとそろっていながら音にふくらみもあるバリエーション、そのスリリングな盛り上がりは、感情の高まりを呼び起こしてくれる。オルケスタ・ティピカの減少は歴史の必然であったとはいえ、やはり残念な気がしてならない。

Darienzo
1959年のフアン・ダリエンソ楽団。
5人いるバンドネオン陣の手前から2人目が第1バンドネオンのカルロス・ラサリ。
バンドネオン・セクションの迫力ある演奏は、オルケスタ・ティピカの醍醐味のひとつだ。

60年代以降もオルケスタ・ティピカを率いていた巨匠たちがこの世を去っていく中、現在までティピカを率い続けているのはレオポルド・フェデリコぐらいになってしまったが(レギュラーでの演奏活動はさすがに行っていない)[注1]、最近ではフアン・ホセ・モサリーニのように、オルケスタ・ティピカ編成での演奏活動を行うケースが徐々に出て来ている。エミリオ・バルカルセのタンゴ学校オーケストラは、その名の通り、若手タンゴ・ミュージシャンにティピカでの演奏経験を積ませるのが目的で結成された楽団である。小松亮太は5月にオルケスタ・ティピカを率いてのコンサートを開催するが[注2]、これは必見だろう。オルケスタ・ティピカに果たして未来はあるのか? いや、そんなことよりも、とにかくティピカの生演奏に接する喜びを感じてみて欲しいのである。

注1:レオポルド・フェデリコは2014年12月28日に死去
注2:この翌年、2002年6月の小松亮太&オルケスタ・ティピカによるブルーノート東京での公演は『ライヴ・イン・Tokyo~2002』としてリリース

2021年2月 8日 (月)

ユニバーサルミュージックよりアストル・ピアソラの復刻CD7タイトルが登場

来る3月11日、アストル・ピアソラが生誕100年を迎える。ということで、ここのところ原稿依頼などが続き、おかげさまで忙しい日々を過ごしている。そんな中で残念なこともあって、品切れになったままの拙訳『ピアソラ 自身を語る』(ナタリオ・ゴリン著)を増刷してもらえないかと河出書房新社の担当者に打診してみたのだが、蹴られてしまった。「この本を出したころとは音楽書をめぐる状況も変わってしまいました」だそうだ。読みたい方には、古本で探していただくしか、今は手だてがない。面白いのにね。

腰の重かったユニバーサルからは、ついに『アストル・ピアソラ フィリップス&ポリドール・イヤーズ』全7Wが3月3日に出ることになり、1月中はデータチェック、全オリジナル・ジャケット貸出、ライナー執筆等の作業に忙殺されていた。音源自体はアルゼンチンで2012年から14年にかけてリリースされた"Astor Piazzolla Completo en Philips y Polydor"シリーズで使われたリマスターと同じだが、今回の国内復刻は、やはりオリジナル・ジャケットでの復刻がポイントだろう。なかなかCDが出しづらくなっている状況の中、できる範囲で頑張ったので、ぜひご贔屓に願いたい。ラインナップは以下の通り。

Uccm45001
『モダン・タンゴの20年』UCCM-45001
<Tower Records> <amazon>
デビューからの20年間に率いてきた楽団の変遷を自ら再現した1964年の画期的企画。
単なる回顧に留まらず、幻の「タンゴ・バレエ」から五重奏団用新曲まで初録音曲も多数収録。

Uccm45002
『エル・タンゴ』UCCM-45002
(ステレオでは世界初単独CD化)

<Tower Records> <amazon>
文豪ホルヘ・ルイス・ボルヘスの詩や散文に曲を付け、音楽と文学の劇的な融合が実現。
壮大な企画を彩るもう一人の主役は、タンゴ界きっての名歌手エドムンド・リベーロだ。

Uccm45003
『ニューヨークのアストル・ピアソラ+6』UCCM-45003
(オリジナル・ジャケットでは世界初CD化)
<Tower Records> <amazon>
文化使節として訪れた五重奏団NY公演の成功を受け、帰国後にスタジオ録音した大傑作。
ボーナス・トラックとして「ブエノスアイレスの夏」初録音など貴重な6曲を収録。

Uccm45004
『タンゴの歴史 第1集/グアルディア・ビエハ』UCCM-45004
(オリジナル・ジャケットでは世界初CD化)

<Tower Records> <amazon>
タンゴ勃興期を彩った古典名曲の数々を大編成オーケストラで大胆に料理する企画第1弾。
「エル・チョクロ」「ラ・クンパルシータ」がアッと驚く奇抜なアレンジで生まれ変わる。

Uccm45005
『タンゴの歴史 第2集/ロマンティック時代+7』UCCM-45005
(オリジナル・ジャケットでは世界初CD化)

<Tower Records> <amazon>
タンゴ名曲の編曲企画第2弾は、ピアソラのルーツと言える好みの音楽家たちの作品中心。
ボーナス・トラックとして、頓挫した『第3集/1940年代』用録音など貴重な7曲を収録。

Uccm45006
『コラボレーションズ』UCCM-45006
(2014年編集、世界初単独CD化)

<Tower Records> <amazon>
1974年以降拠点を欧州に移したピアソラと各国の歌手たちとの貴重な共演を1枚に編集。
ジョルジュ・ムスタキ(ギリシャ)からネイ・マトグロッソ(ブラジル)まで顔ぶれも多彩。

Uccm45007
『オランピア '77』UCCM-45007
(世界初単独CD化)

<Tower Records> <amazon>
短命に終わった1970年代“エレクトリック・ピアソラ”期では最高の内容を誇る白熱のライヴ。
息子ダニエルや故国のロック系若手と「リベルタンゴ」「アディオス・ノニーノ」を披露。

2020年12月 4日 (金)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(11)~アルバム『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』とシングル「愛のいたずら/恋は終ったの」

カヴァー・アルバム『夜のバラード』を挟み、1970年7月5日にリリースされた「噂の女」のヒットを受けて、9月24日から30日まで日劇で上演された『クール・ファイブ・ショー――やめて、噂の女』開催中の25日、オリジナル・アルバム第2弾が登場する。

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●アルバム03(オリジナル・アルバム02)

内山田洋とクール・ファイブ 第2集
RCA JRS-7097 1970年9月25日リリース

Side 1

1) 噂の女
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲・編曲

2) 愛の旅路を
山口あかり 作詞/藤本卓也 作曲/森岡賢一郎 編曲

3) 恋は終ったの
やまべはじめ 作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

4) 女の生きがい
坂口宗一郎 作詞/内山田洋 作曲/森岡賢一郎 編曲

5) この世と恋と
前川 清 作詞・山口あかり 補作/前川 清 作曲/森岡賢一郎 編曲

6) 捨ててやりたい
川内康範 作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

Side 2

1) 愛のいたずら
安井かずみ 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

2) 一人の女
鳥井みのる 作詞/猪俣公章 作曲/池田 孝 編曲

3) 愛してよかった
鳥井みのる 作詞/猪俣公章 作曲/池田 孝 編曲

4) 夜のしのび泣き
山口あかり 作詞/宮本悦朗 作曲/岩崎 洋 編曲

5) 夜毎の誘惑
山口あかり 作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

6) あきらめなんか欲しくない
山口あかり 作詞/岩城茂美 作曲/森岡賢一郎 編曲

内山田洋とクール・ファイブ 唄/前川 清

写真からロゴまで含め、ジャケット・デザインが秀逸。みんな若いというのもあるが、彼らの全アルバムの中で最もサマになっていると思うのは私だけだろうか。見開き内側に掲載された、たかたかしのライナーの“「決まったぜセニョール!」こう呼びたくなるようなLPである”との書き出しにはさすがに時代を感じてしまうが(ケーシー高峰が「セニョール」などのスペイン語を多用した医事漫談で人気者になったのがあの時代)、このライナーでは意外なネタも披露されている(詳しくは後述)。

収録曲中のシングル曲は、「逢わずに愛して」のB面だった「捨ててやりたい」、続く4枚目は「愛の旅路を/夜毎の誘惑」 の両面。次の「噂の女」はこれまでにも書いてきた通りファースト・アルバムにも収録されていたが、ヴォーカルを録り直してシングル・カットされたので、ここではその新ヴァージョンで再度収録されることになった。なお、「噂の女」のB面で、8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』にも収録されていた「だまって行かないで」は、ここでは収録を見送られ、1971年12月の『第3集』までお預けとなる。

そして、次のシングルとして10月5日に発売されることになるのが「愛のいたずら」「恋は終ったの」。当初は単にアルバム収録曲として用意されていたようで、ライナーには“「愛のいたずら」に限らず、どのオリジナル曲も各々シングル盤として立派に通用する傑作ぞろいで”と書いてあるが、この「愛のいたずら」について同じライナーの中で“RCAアーチストのライトハウスが来日した際、たまたまスタジオを訪れこの曲の録音風景を見学し、すっかりこの曲が気に入って、是非英語で歌いたいといって帰ったそうである”と紹介されているのが気になった。このエピソードがどこまで本当かはわからないが、調べてみたところ、カナダの大編成ロック・バンドのライトハウスは、大阪で行われていた日本万国博覧会(EXPO '70)に出演するために来日し、1970年7月15日から17日まで(カナダ館ではなく)オンタリオ・パビリオンで演奏したとのことだ。彼らはRCAからのサード・アルバム『Peacing It All Together』(邦題:南無妙法蓮華経)をリリースした後だったが、これを最後にGRTに移籍してしまったので、いずれにしてもコラボレーションに発展することはなかったはずだ。これは余談だが、万博といえばクール・ファイブも、5月9日に万博ホールでの『ヤング歌謡フェスティバル』に出演している。

「愛のいたずら」と「恋は終ったの」についてはこの後のシングル紹介で触れることにするとして、残り6曲が純粋なアルバム収録曲となるが、メンバーの自作曲が4曲あるのに注目したい。リーダー内山田洋は小粋なシャッフル・ナンバーの「女の生きがい」を提供。珍しく前川清と他のメンバーとのハーモニーから始まるコーラス・ワークも決まっている。作詞の坂口宗一郎は、第9回で触れた大船渡の「板前さんよ」(1970年9月5日発売)、研ナオコのデビュー曲「大都会のやさぐれ女」(1971年4月発売)などを作詞している人物。続く前川清の初作品「この世と恋と」についても、ライナーから拾っておこう。“このLPに収める十数曲の作品が集った頃、山田ディレクターのところへ前川清がおずおずと現われ、「あのー、これ駄目でしょうか?」と一枚の楽譜を差し出したので、早速彼に歌わせたところ、これがナント、2オクターブの音域がある代物―流石の山田ディレクターもぶっとんだという”。確かにかなり低い音程から歌い出す、なかなかにスケールの大きな作品に仕上がっていて、前川は山口あかりの手を借りつつも作詞まで手掛けている。宮本悦朗は「夜のしのび泣き」で夜のムードを演出。編曲を手掛けたのは岩崎洋で(クール・ファイブとは唯一のコラボレーション)、NHKで作曲や編曲を担当し、ピアニストとしてイージー・リスニング・アルバムの制作や「やさしいアレンジによるポピュラー・ピアノ曲集」などの楽譜出版も手掛けている。そして岩城茂美も作曲家デビューを果たし、アルバムの最後を飾る「あきらめなんか欲しくない」を提供した。宮本の作品も岩城の作品も、作詞は「愛の旅路を」以来の山口あかりである。

残る2曲はいずれも作詞が「わかれ雨」の鳥井実(ここでの表記は鳥井みのる)、作曲が猪俣公章で、編曲の池田孝というのは、後に北島三郎の「与作」や吉幾三の「酒よ」などを手掛けることになる池多孝春の本名である。

そして10月になり、アルバムからカットされた前述のシングルが登場する。

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●シングル06

A) 愛のいたずら
安井かずみ 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 恋は終ったの
やまべはじめ 作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1115 1970年10月5日発売

上記『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』からのシングル・カットとなった「愛のいたずら」。作曲は彩木雅夫で、「逢わずに愛して」以来3作ぶりの起用となった。作詞は安井かずみ(1939~1994)。語学に堪能で、詩を書くのも好きだった専門学校生時代、仲の良かった漣健児に誘われて訳詞を手掛けるようになる。みナみカズみという初期のペンネームを考えたのも漣だった。やがて、訳詞を提供していた伊東ゆかりやザ・ピーナッツの作詞をするようになり、1960年代後半にはザ・ワイルド・ワンズ、ザ・タイガース、布施明、辺見マリら、主に渡辺プロダクション所属の歌手やグループへ歌詞を提供していく。ちなみに、彼女の唯一のアルバム『ZUZU』がリリースされたのは、この「愛のいたずら」が出る約1か月前のことである。クール・ファイブへの曲提供もナベプロ絡みとも言えそうだが、結局これ1曲に終った。彩木雅夫とのコンビもこれ1曲だけだろう。

彼らのシングルはこれまですべて3連のロッカ・バラードだったが、これは初のワルツ。ワルツとはいっても、ズンタッタ~という感じではなく、2拍目の表と3拍目のシンコペートした裏をリムショットが刻み、ギターのアルペジオやさりげないオルガンの響きが洒落た雰囲気を醸し出している。コーラスも厚めだ。内山田はこの曲について“ジャズ・ワルツ調の自信のある仕上がりだったのですが、余りヒットしませんでした”と語っているが、オリコン最高10位、売り上げ21.8万枚という数字は、決して悪くはない。彼らの全シングル50枚中、トップ10入りしたのは8枚、20万枚を超えたのは9枚だけなのだから。あの50万枚を超えた「噂の女」の次作という点と、有線ではカップリングの「恋は終ったの」の方に人気が集まったという事実が、印象を薄くしてしまったか。

その「恋は終ったの」は、内山田も『〈スター・マイ・セレクション・シリーズ〉内山田洋とクール・ファイブ』(1978年)のライナーに“我々には珍しくラテン調の軽い感じの仕上りになっています。どういう訳か、有線では圧倒的にA面より、この曲の方が支持されたという不思議な曲です”と書いている通り、生ギター(レキントギターか?)のイントロから始まる、切なさを湛えたラテン風味の曲で、作曲は城美好(チャーリー石黒)。カタカナ読みだがスペイン語のリフレインも含む、江の島を舞台にした歌詞は、やまべはじめ作詞となっているが、これもチャーリー石黒のペンネームと思われる。1981年に羽田健太郎の新編曲でこの曲を再録音し、3月にシングル化した際には、チャーリー石黒作詞・作曲とクレジットされることになるのだった。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年9月25日 (金)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(10)~シングル「噂の女/だまって行かないで」

前回ご紹介した8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』(発売日不明)と恐らくほぼ同時期に、「愛の旅路を」に続く内山田洋とクール・ファイブ5枚目のシングルがリリースされた。

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● シングル05

A) 噂の女
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲・編曲

B) だまって行かないで
山口洋子 作詞/内山田洋 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1095 1970年7月5日発売

ジャケットではグループ名表記と比べて“唄/前川 清”の文字がやたら大きいが、この「噂の女」は、第4回でもご紹介したように、既に1969年11月5日発売のファースト・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』にアルバム・トラックとして収録されていた曲である。同アルバムから「逢わずに愛して」が1か月後の12月5日にシングル・カットされた際、候補として争った曲のひとつであることも、第4回第6回で触れた。その後に「愛の旅路を」を挟み、アルバム・リリースから実に8か月後に5枚目のシングルとして登場したわけである。

作者の二人、まだ新人だった作詞の山口洋子と、森進一のヒット連発で勢いに乗る作曲の猪俣公章については、第4回で「一度だけなら」を紹介する際にも触れたが、こちらは書き下ろしではない。山田競ディレクターがアルバム用の曲を猪俣に依頼しようとしたところ、「ビクターの磯部(健雄)さんのところに森君用に預けてある曲があって、レコーディング予定がとりあえずなければもらえるかも知れないよ」との返事があり、それが「噂の女」だった。山田によれば「レコーディングのとき、スタジオで作曲の猪俣公章さんが、“冗談じゃないぜ、この曲はざる蕎麦の味なんだぜ。それをレストランで食わせる気か”といい出したんです。私は私で“クール・ファイブのキャラクターは、レストランのざる蕎麦なんです”といって、ひと悶着あったんです」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)とのことだが、3連のロッカ・バラードながらマイナー・スケールで、アルバムの中でも演歌色のひときわ強かった「噂の女」が最終的にシングルに選ばれたのは、社内(特に営業だろう)からの強い要望を反映してのことでもあった。

「逢わずに愛して」同様、シングル化に際し、前川清はヴォーカルをすべて録り直しているが、かなりエグみのある歌い方に変えていて、全体的にパワーが増している。特にサビの「♪うわさ~の」の「さ~」の部分でアルバムではストレートに上がっていたところ、シングルではポルタメントを大胆に効かせるあたりに顕著だ。この歌い直しは大正解で、チャートでは「長崎は今日も雨だった」以来の最高2位を記録、売り上げも50万枚を突破した。コーラスと伴奏はミックスまで同じで、マスタリングの際にイコライジングの調整が行われた程度だと思われるが、何故かアルバムでは“毛利 猛 編曲”、シングルでは猪俣が作・編曲を手掛けたことになっていて、どういうことなのか謎だ。ネットで検索しても毛利のプロフィールは出てこないが、猪俣のペンネームなのだろうか?

「逢わずに愛して」のシングル・ヴァージョンはその後オリジナル・アルバムへの収録はなかったが、「噂の女」の再録の方は、改めて1970年9月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』の冒頭に収録されることになる。以後のベスト・アルバムで、シングルではなく最初のアルバム・ヴァージョンが収録されてしまったものに『豪華盤「内山田洋とクール・ファイブデラックス」第1集』(JRS-9089~90、1972年2月)、『内山田洋とクール・ファイブ・ベスト24デラックス』(JRS-9185~6、1973年11月)、『内山田洋とクール・ファイブ~オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集』(JRX-9、同)がある。

当初森用に用意された「噂の女」が、磯部ディレクターの机の引き出しに眠ったままになっていた経緯はわからない。磯部の判断だったのか、他に優先すべきネタがあったのか。森はこの曲のことを知っていたのか(恐らく知らなかっただろう)。それはともかく、クール・ファイブが大ヒットさせた後になって、森もこの曲をレコーディングすることになる。

Sjv489

1970年12月5日発売の『演歌』(Victor SJV-489~490)は、「デビュー5周年記念豪華アルバム」と但し書きの付いた2枚組で、各サイドにそれぞれ「森進一が唄う最新ヒット・アルバム」「森進一が選んだ森進一ベスト・ヒット」「森進一の抒情歌」「森進一がつづる全国夜の盛り場」というテーマが設けられた構成となっていた。この中の「最新ヒット・アルバム」サイドに、森自身の最新ヒット「銀座の女」、藤圭子の「命預けます」、野村真樹の「一度だけなら」などと共に「噂の女」も収録されたというわけだ。編曲は、クール・ファイブのシングル担当を「噂の女」で初めて外れた森岡賢一郎で、コーラスがないこともあってかややあっさり気味の仕上がり。森も個性は出しているが、あくまでも“カヴァー” の範疇を超えるものではなく、やはり結果的にはクール・ファイブに回るべき運命だったのだろう。

カップリングの「だまって行かないで」は同じ山口の作詞で、作曲は内山田洋が担当。シングルB面はデビュー以来城美好作品が4曲続いたが、ここでメンバーの作品がシングルへの初起用となった。同じ3連ながら、A面の泥臭さとは打って変わって洋楽的雰囲気もある、洒落たタッチの作品に仕上がっている。編曲は森岡で、ギターの使い方もギタリストである作曲者の意図が反映されている感じだ。

前回も触れたように、この曲は8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』にいち早く収められたが、次のアルバム『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』では見送られ、オリジナル・アルバムへの収録が叶うのは1971年12月の『港の別れ唄/内山田洋とクール・ファイブ 第3集』まで待たされることになる。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年9月 3日 (木)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(9)~8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』『演歌』

紹介はまだ先になるが、1972年3月5日にリリースされた内山田洋とクール・ファイブの2枚組ベスト・アルバムに『豪華盤「内山田洋とクール・ファイブデラックス」第2集』(JRS-9093~4)というのがある。その1か月前の2月5日にリリースされた『同・第1集』と対になったもので、『第1集』が「悲恋」までのシングルAB面曲を中心にしたオリジナル集だったのに対して、『第2集』は全曲がカヴァーで構成されていた(カヴァー・シングルの「女の意地/京都の夜」は両者に重複して収録)。

Jrs9093w

クール・ファイブのカヴァー・アルバムはこの時点で、前回(第8回)紹介した『夜のバラード』の後、『影を慕いて』(1971年5月5日発売)と『赤と黒のブルース』(1971年11月5日発売)の2種が出ていて、当然その3枚からの選曲がメインだったが、初登場のものも4曲あった。このベストのために新たに録音されたものなのか、あるいは何かの機会に録音しておいたものなのか不明だったが、ようやく主たる出どころが判明した。それが、6月2日にアップした記事「8トラック・カートリッジ・プレーヤー導入とカートリッジ・テープ修復の巻」で触れた8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』である。

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●ミュージック・テープ1

クールファイブ デラックス
Apollon AE-5014 1970年リリース

Program I
1) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲

2) 不知火の女
新野 新・村上千秋 共作詞/森岡賢一郎 作曲(正しくは城 美好作曲)

3) わかれ雨
鳥井 実 作詞/彩木雅夫 作曲

4) だまって行かないで
山口洋子 作詞/内山田洋 作曲

5) 涙こがした恋
中山淳太郎 作詞/城 美好 作曲

Program II
1) 愛の旅路を
山口あかり 作詞/藤本卓也 作曲

2) 夜毎の誘惑
山上路夫 作詞/城 美好 作曲(正しくは山口あかり作詞)

3) 長崎詩情
中山貴美 作詞・村上千秋 補作/城美好 作曲

4) 明日はないの
村上千秋 作詞/城 美好 作曲

5) あなたが欲しい
内山田洋 作詞・作曲

Program III
1) 逢わずに愛して
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲

2) 捨ててやりたい
川内康範 作詞/城 美好 作曲

3) 一度だけなら
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲

4) 女のまごころ
宮本悦朗 作詞・村上千秋 補作/宮本悦朗 作曲

5) 恋の花火
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲

Program IV
1) 花と蝶
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲

2) 熱海の夜
荒川利夫・藤木美沙 作詞/山岡俊弘 作曲

3) 京都 神戸 銀座
橋本 淳 作詞/筒美京平 作曲

4) 知りたくないの
D. Robertson 作詞/H. Barnes 作曲(正しくはBarnes作詞、Robertson作曲)

5) あなたのブルース
藤本卓也 作詞・作曲

唄・演奏:内山田洋とクールファイブ
編曲:森岡賢一郎

国立国会図書館に行けないこともあってメーカーの資料が確認できず、発売日はまだ特定できていない。スリーヴケース裏の短い解説に「最新曲『愛の旅路を』まで」(同曲は1970年4月5日発売)と書いてあり、次の「噂の女」(7月5日発売)は未収録だが、そのB面の「だまって行かないで」がすでに収録されているので、リリースは「噂の女」とほぼ同時期ではないかと推測される。上記の通り、作者クレジットにいくつか誤表記があり、編曲に関しても実際には森岡賢一郎ではない既発曲も含まれている(II-3は竹村次郎、II-4は宮川泰、II-5は内山田洋、III-3は毛利猛、III-4は宮本悦朗が正しい)。

プログラムIからIIIまでがオリジナル曲。「長崎は今日も雨だった」から「愛の旅路を」までシングル4枚のAB面曲(I-1/I-5、I-3/I-2、III-1/III-3、II-1/II-2)、そのうち最初の2枚分4曲を除くファースト・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』収録曲が6曲、そして前述の「だまって行かないで」(次回紹介予定)で15曲という構成になっている。ファーストから漏れたのは「噂の女」とシングル・ヴァージョンで収められた「逢わずに愛して」の2曲だが、前者は既にヴォーカルを録り直していたシングルのリリースとぶつかるため、あえて外したのではないかと思われる。なお、8トラック・カートリッジの構造上、4つのプログラムの各収録時間を極力揃える必要があるため、プログラムIに収録された「長崎は今日も雨だった」のフェイドアウトが10秒ほど早く、通常はカットアウトの「涙こがした恋」がエンディング直前でフェイドアウトとなっている。

そして本作を特徴づけているのが、いずれも初出のカヴァー曲で構成されたプログラムIVである。冒頭で触れた『豪華盤「内山田洋とクール・ファイブデラックス」第2集』でレコード初登場となった4曲中3曲が頭から並んでいるのだが、実際に聴いてみたら「花と蝶」がまったくの別アレンジだったので驚いた次第。

川内康範(作詞)、彩木雅夫(作曲)という、クール・ファイブとも縁の深い二人が書いた「花と蝶」は、森進一の9枚目のシングルとして1968年5月5日に発売され、オリコン最高8位と大ヒットした。森進一もクール・ファイブの2種も、編曲はすべて森岡。森のオリジナルではイントロや間奏でメロディを奏でるトランペットが、8トラック・ヴァージョンではサックスに置き換えられた感じで、基本的な組み立ては割と似ている。また、エンディングをエレキ・ギターのジャジーなフレーズで締めているのもポイント。それに対し、レコード『豪華盤…第2集』でのリアレンジ版では、ストリングスとサックスの大胆な絡みによってイントロの間奏のメロディーやフレーズが一新され、スケール感も増している。

続く2曲はレコードともヴァージョンは同じ。「熱海の夜」は箱崎伸一郎(後に晋一郎と改名)のデビュー曲として1969年1月10日に発売され、オリコン最高は34位。ここでの森岡のアレンジは、川口真によるオリジナル・アレンジを踏襲している。「京都・神戸・銀座」は橋幸夫の103枚目のシングルとして1969年3月5日発売。新機軸を打ち出すべく、いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」のヒットで波に乗る橋本淳(作詞)と筒美京平(作・編曲)の強力コンビに楽曲を依頼し、見事にトップ10入りしたヒット曲。これもアレンジは原曲に比較的忠実。

そして、ここでしか聴くことができないのが、4曲目の「知りたくないの」である。表題はこのようになっているが、前川清はここで原曲の「I Really Don’t Want To Know」どおりに英語で歌っている。この曲はカントリーのソングライター、ドン・ロバートスンが作曲、ハワード・バーンズが詞を付けて1953年に発表したワルツ。同年の内にレス・ポール&メアリー・フォード、エディ・アーノルドのレコードが出て、どちらも翌年までに大ヒットを記録した(前者はポップ・チャートで11位、後者はカントリー・チャートで1位)。ドゥ・ワップ・グループのフラミンゴズによる1954年のヴァージョンもいい。1960年代に入るとカヴァーが一気に増え、ざっと拾っただけでもジョニー・バーネット、ソロモン・バーク、コニー・フランシス、アンディ・ウィリアムズ、エスター・フィリップス、イーディ・ゴーメ、ジーン・ピットニー、アル・マルティーノ、ヴィック・ダモーン、ロニー・ドーヴ、ブルック・ベントン、ロレッタ・リン…と書ききれない。

この曲にはもともと「たそがれのワルツ」という邦題が付いていたが、これを取り上げることになったのが菅原洋一である。タンゴが好きで音楽喫茶で歌っていたところを早川真平に見出され、早川の指揮するオルケスタ・ティピカ東京(日本のタンゴ楽団では最高峰)の専属歌手になったのが1958年秋。同楽団の看板だった歌手の藤沢嵐子からは「ほとんど全部を学んだ」という。だがタンゴよりもむしろボレロが得意で、スペイン語ではなく日本語で歌いたいとの願望もあった菅原は、1962年頃には楽団を辞め、1963年7月に歌謡曲歌手としてポリドールからデビュー。しばらくヒットが出なかったところに、ディレクターの松村慶子(第8回で「夢は夜ひらく」を発掘して園まりに歌わせたエピソードを紹介した)が用意したのが、アルジェリア生まれのエンリコ・マシアスがタンゴのリズムで書いたシャンソン「恋心」である。マシアスが1964年に書いて歌っていたこの曲に最初に目を付けたのは、1965年にフランスを訪れた岸洋子で、自らぜひ歌いたいと持ち帰り、評論家の永田文夫に訳詞を依頼。松村はそれをそのまま菅原にも歌わせるのではなく、シャンソンの訳詞をしながら作詞家への転身を考えていたなかにし礼に電話を掛け、新たな訳詞を書かないかと持ちかけたのだった。

そしてそのB面として用意されたのが「たそがれのワルツ」だった。先に触れたようにこの曲の海外でのカヴァーは続いていたが、この時点で取り上げることになったきっかけは何だったのだろう。ともかく松村から素材を与えられたなかにしは、この曲を聴いてそれまでにないひらめきを感じ、「知りたくないの」という女言葉の歌詞を書き上げた。

永田が訳詞を手掛けた岸の「恋心」はキングから1965年9月20日発売。なかにしの訳詞による菅原の「恋心/知りたくないの」はわずかに遅れて10月5日発売だったが、「恋心」に関して言えばヒットしたのは岸が歌った方で、歌詞もその永田版で定着する。その一方、菅原はB面だった「知りたくないの」を、レギュラー出演していたホテル高輪のラウンジで毎晩歌い続けていた。

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ラウンジでのステージの様子を伝えるオリジナル・ジャケット。画像はネットから拝借した。バックで演奏しているのはロス・インディオス。歌い続けたことでじわじわとリクエストが増え、ポリドールは1967年に入ってから同じ番号のままAB面を入れ替えジャケットも替えて再リリースした(これも画像はネットから)。

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結果的にこの曲は大ヒットとなり、菅原は同年の第18回NHK紅白歌合戦にも初出場。なかにしもこれをきっかけに人気作詞家の仲間入りを果たすことになる。このヒットを受け、黛ジュンが1967年に、黒木憲が1968年に、西田佐知子が1969年に、それぞれが持ち味を生かしながらアルバムの中で取り上げた。クール・ファイブによるここでのカヴァーも、その流れに沿ったものと言えなくもないが、前述のとおり英語のままで歌っているのがひとつの大きなポイントである。メジャー・デビュー前(時期的には菅原洋一がヒットさせた後)の銀馬車のステージでも英語で歌っていたのだろうか。イントロの美しいストリングスに導かれて前川がソフトに歌い出すと、ピアノがカントリーっぽい伴奏を添えていく。これでペダル・スティール・ギターでも入れば、グッとカントリー度が増すのだろうが、そこまではしていない。いかにもクール・ファイブ的なギターやコーラスもさりげなく絡んでいき、2分30秒ほどの小品に仕上がっているが、このレアな8トラック・カートリッジ以外ではまったく聴くことができないのは惜しい。メンバーも関係者も、こんな録音があったことすらすっかり忘れているのではないだろうか。なお、前川の敬愛するエルヴィス・プレスリーは1971年になってこの曲を取り上げている。自分のスタイルに強引に引き寄せて歌い上げるところはさすがエルヴィスだが、RCAからの国内盤シングルの邦題はしっかり「知りたくないの」となっていた。

最後に収録されているのは「あなたのブルース」。矢吹健のデビュー曲として1968年6月5日にリリースされた藤本卓也作品で、この曲については藤本が作曲した「愛の旅路を」を紹介した第7回でも触れたが、『豪華盤…第2集』より早く、冒頭でも触れたカヴァー・アルバム第3弾『赤と黒のブルース』に収録された。タイトルに「…ブルース」が付く12曲で構成された企画ゆえに、8トラック音源がそのまま選ばれたのだろう。

さて、『豪華盤…第2集』でレコード初登場となったのは4曲だったが、そのうちこの8トラックが初出だったのは、プログラムIVの最初の3曲。ではもう1曲は何だったかというと、「あなたのブルース」と同様に藤本が書いて矢吹が歌った「私にだって」(1969年2月5日発売)なのだが、それが別のオムニバス・8トラック・カートリッジに「京都 神戸 銀座」「あなたのブルース」と共に収録されているのを、これも偶然発見できた。ヴァージョンはどれも同じである。

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●ミュージック・テープ番外(オムニバス)

演歌
Apollon AL-3039 1970年リリース(推定)

Program I
1) 釧路の夜/森 進一(オリジナルは美川憲一、1968年7月発売)
2) 雨の赤坂/園 まり(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、1968年12月)
3) 京都 神戸 銀座/内山田洋とクール・ファイブ(橋 幸夫、1969年3月)
4) 大利根月夜/千田浩二(田端義夫、1939年秋)

Program II
1) 君は心の妻だから/奥村チヨ(鶴岡雅義と東京ロマンチカ、1969年3月)
2) 京都の夜/森 進一(愛田健二、1967年6月)
3) 帰ろかな/千田浩二(北島三郎、1965年4月)
4) 兄弟仁義/木の実ナナ(北島三郎、1965年3月)

Program III
1) あなたのブルース/内山田洋とクール・ファイブ(矢吹 健、1968年6月)
2) 旭川ブルース/園 まり(中坪 健、1968年2月)
3) さよならのあとで/奥村チヨ(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、1968年10月)
4) 柳ヶ瀬ブルース/森 進一(美川憲一、1966年4月)

Program IV
1) 熱海の夜/園 まり(箱崎伸一郎、1969年1月)
2) 網走番外地/木の実ナナ(高倉 健、1965年1月)
3) 女ですもの/奥村チヨ(西城 健、1968年11月頃)
4) 私にだって/内山田洋とクール・ファイブ(矢吹 健、1969年2月)

編曲:森岡賢一郎
演奏:ブルーライト・スタジオ・オーケストラ

渡辺プロダクション所属の歌手6組のうち、千田浩二とは馴染みのない名前だが、彼は仙台市役所職員だった1965年にコロムビアの歌謡コンクールで入賞し、チャーリー石黒にスカウトされて上京、猪俣公章に弟子入りする。1967年3月にポリドールから「ソーラン哀歌」でデビューし、計5枚のシングルをリリース後、大船渡(わたる)と改名し1970年9月5日にRCAから「板前さんよ」で再デビュー(ディレクターは山田競)。9月末に東京・有楽町の日劇で行われた『クール・ファイブ・ショー――やめて!噂の女』にも出演した。その後は大船わたるとして作曲活動などを続けている。ということで、ここではまだ大船渡ではなく千田浩二名義での収録となっていることから、またパッケージ・デザインが一部『クールファイブ デラックス』と共通することからも、発売時期は1970年前半と推測される。

他の歌手の当時の所属レコード会社は、森進一がビクター、園まりがポリドール、奥村チヨが東芝、木の実ナナがキングだが、ここに収められたアポロン独自音源は、どれもレコードでは出なかった。園まりの「雨の赤坂」は1969年7月5日リリースのカヴァー・アルバム『恋のささやき』にも収録されているが(未聴)、そこでは小谷充編曲となっていて、また未レコード化のアポロン音源をCD化した編集盤『夜のムード』(ソリッド、2015年8月)にしっかり収められていることから、ヴァージョンはまったく異なると思われる。奥村チヨのアポロン音源はかなりCD化されているが、ここでの3曲は漏れているし、その他の音源もどれも8トラックでしか聴けない貴重なものばかり。むしろほとんどが(ここでの3曲はすべて)時期の遅れはあってもレコードにも収録されたクール・ファイブが、例外的ということになる。

それでは、アポロンから出たクール・ファイブの8トラック・カートリッジは他にどんなものがあるのか。まずネットで画像を見つけたのが、8曲入りの『長崎詩情』(AP-1085)。

Ap1085a

Ap1085b

ファースト・アルバムから8曲を収めたもので、恐らく1969年末頃の発売。「噂の女」以外は『クールファイブ デラックス』と曲目は重複する。そして、1972年秋のカタログ(これもネットから)に載っていたのが、鶴岡雅義と東京ロマンチカとのスプリット・アルバム『競演!クールファイブと東京ロマンチカ』(AL-3180)。恐らく1972年の発売。曲目はこう書いてある。

女の詩集/年上の女/女心の唄/愛のきずな/よこはまたそがれ/花と蝶/京都・神戸・銀座/私にだって/君は心の妻だから/愛のフィナーレ/港町ブルース 他全16曲

Al3180

各プログラム4曲ずつと考えると、「よこはまたそがれ」から「私にだって」までがプログラムIIでクール・ファイブのパートということになる。「よこはまたそがれ」だって? 実はクール・ファイブはこの曲の録音を残しているが、それは1975年9月5日発売の4枚組BOX『昭和の歌謡五十年史』に於いてであり、編曲はあかのたちおとなっていたので、ヴァージョンが異なる可能性も高い。またプログラムIVの4曲がまったく不明だ。やはり一度国立国会図書館に足を運び、少なくとも曲目を確認する必要がありそうだ。そしてこの8トラック・カートリッジの現物が入手できる日は来るのだろうか。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年7月28日 (火)

8トラック・カートリッジの成り立ちと当時のミュージック・テープ事情

今回は、6月2日にアップした記事「8トラック・カートリッジ・プレーヤー導入とカートリッジ・テープ修復の巻」でも触れた、内山田洋とクール・ファイブの8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』(アポロン)を紹介する予定だったが、その前提として8トラック・カートリッジの成り立ちと当時のミュージック・テープ事情について書き始めたところ、とても長くなってしまったので、結局『クールファイブ デラックス』の紹介は次回に回すことにした。

始めにお断りしておくと、本来であれば今回書いた内容は、国立国会図書館に赴くなどして各レコード/テープ・メーカーの総目録や雑誌『テープ・マンスリー』、ドライバー向けに出ていたという8トラックの情報誌などに当たって確認すべきところだが、なにしろコロナウイルスの影響で外出を控えている状況のため、ほとんど手元にある資料およびインターネットで得られた情報のみをベースとしている。そのため調査が不十分である点はご容赦いただきたい。

8トラック・カートリッジはアメリカ合衆国で、主にカー・ステレオでの使用を前提に1965年に製品化された。オープンリール・テープは車内での操作はほぼ不可能、1962年に開発されたコンパクト・カセット(我々が普通にカセットと呼んでいるもの)はその時点ではまだ音質的にも機能的にも未成熟で、オーディオ用としては認知されていなかった。8トラックの開発にも関わった米RCAは、1965年のうちに175タイトルのカートリッジを発売。大手自動車メーカーも8トラックを再生できるカー・ステレオを組み込んで、セールス・ポイントのひとつにするようになっていった。
当時の米RCAヴィクターのLPのカンパニー・スリーヴにはこんな広告も載っていた。

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8トラック・カートリッジとはどのようなものか、改めて書いておくと、オープンリールと同じ幅に8トラック分が録音されたテープが、横10cm×縦13.5cm×厚さ2.2cmほどのカートリッジ・ケースの中に1リールのエンドレスで巻かれたもので、内周部から窓の部分に送り出され、再生ヘッドと内蔵されたピンチローラーを経て外周部に巻き取られたテープが、ひと巻き分再生し終ってテープの繋ぎ目に貼られたセンシング箔を機械が感知する度に、再生ヘッドがガチャッと下に送られて4つのステレオ・プログラムを順番に再生していくというもの(4チャンネル録音の場合はプログラムは2つとなり、対応する再生機が必要)。4つ目のプログラムが終わると最初に戻り、ほっておくとずっとエンドレスで再生し続ける仕組みになっている。構造上巻き戻しは不可能、早送りも同様で、機種によってはできるものもあるようだが、いずれにしても高速ではできない。基本的に操作できるのはプログラム・チェンジだけだ。

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手間いらずのようでいて、この不自由さと大きさが、刻々と進化を遂げていったコンパクト・カセットに後々シェアを奪われる最大の要因となる。プログラムが進む前に長いブランクが発生しないよう、各プログラムの演奏時間はほぼ同じになるように編集されている。アルバム(LP)をそのまま8トラック化しようとしても、片面の演奏時間のちょうど真ん中に曲の切れ目がくることはまずないため、曲順が入れ替えられたり、中間に位置する曲がフェイド・アウト~フェイド・インで2つに泣き別れした形で収められたり、というケースが多く発生する。もっともそれはアメリカ合衆国など海外での話で、日本の場合は少し事情が異なっていた。

その日本では、ニッポン放送の系列会社として1966年10月に設立されたニッポン放送サービス(1970年にポニーと改称)が、既成のレコード会社からも音源提供を受ける形で1967年4月に「ポニーパック(PONY Pak)」の名称で販売を開始したのが最初。今のところ手元にあるカートリッジの数は微々たるものだが、当時のポニーパックが1本ある。

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山田太郎「友情のうた」(1965年9月)以外は1967年8月から10月までにリリースされたシングルおよびそのB面曲が並んでいるので、1967年11月頃の発売ではないだろうか。〈クラウン・ヤング・ヒット・パレード〉と、クラウンの音源を使用していることが売りになっている。

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同年には渡辺プロダクションと文化放送の合弁によるアポロン音楽工業も設立されている。ビクターなど旧来のレコード会社も8トラックのリリースを順次始めていったが、実際に普及が進んだのは1968年に入ってからだろう。手元にある雑誌『中南米音楽』1968年1月号には「オーディオ教室~テープ・トラック」(文:坪井謙旺)という記事があり、その中で8トラック・テープにも触れられているが、「我が国ではあまり見られませんが、カー・ステレオやBGM用に使用されています」とコメントされている。それが同誌でも3月号になると「タンゴとラテン 各社新譜リスト」に、キングから出るセルジオ・メンデス&ブラジル66の8トラックなどが他のLPに交じって掲載されるようになり、9月号には「最近はテープ界の進出がめざましく発展していますが、最近発売されたテープをリストにしてみました」として2ページにわたる単独の「各社テープ新譜リスト」が掲載されるに至った。タンゴや広義のラテンが対象なので、歌謡曲やポピュラー全般、ジャズ、クラシックと比べたら数的には微々たるものだろうが、紹介された本数をメーカー別(掲載順)、種類別に表にしてみた。

メーカー

4トラック

オープンリール

8トラック

カートリッジ

4トラック

カセット

合計

キング

2

   

2

ポリドール

2

 

1

3

東芝

1

4

 

5

ビクター

 

2

 

2

フィリップス

   

1

1

アポロン

   

2

2

エース・パック

 

3

 

3

メッカ

 

3

 

3

ポニー

 

1

 

1

合計

5

13

4

22

ここで注目すべきは2点。まず、数的には8トラックが優勢ながら、この時点で既にカセットもリリースされていたこと。実は同誌6月号には前述の坪井による「オーディオ教室~テープレコーダーの新方式――『カセット』」という記事が既に掲載されていて、この新しいメディアの将来性について語られている。文末で坪井は「一般用テープレコーダーはやがてカセットに統一される可能性が濃厚である」と書いているが、実際にその通りになるわけで、1968年の時点でこれを書いた坪井の先見の明も大したものである。もう1点は、既成のレコード会社以外に、先ほども触れたポニーやアポロン以下ミュージック・テープ専門メーカー(当時)各社の商品が登場していること。そう、これこそが海外と異なる日本の特殊事情の話に繋がってくるのだが、詳しい説明は後にして、1969年にかけてのリリース状況もみておこう。以後『中南米音楽』誌に毎月掲載されていた「各社テープ新譜リスト」は1969年5月号を最後に途絶えてしまうが、その間にはCBS・ソニーが新規に参入したり、日本ではビクターから出ていた海外RCA原盤が、日本でも同じ日本ビクター内のRCA事業部から出るようになったり(詳しくは「“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史」参照)、というような動きがあった。1968年9月号から1969年5月号までに掲載された全タイトルの合計は以下の通り。

メーカー

4トラック

オープンリール

8トラック

カートリッジ

4トラック

カセット

合計

キング

9

15

4

28

ポリドール

12

6

12

30

東芝

1

8

2

11

ビクター/RCA

2

19

2

23

フィリップス

1

1

15

17

CBS・ソニー

3

7

8

18

コロムビア

0

6

4

10

テイチク

0

2

0

2

アポロン

0

5

4

9

エース・パック

0

8

0

8

メッカ

0

15

0

15

ポニー

4

18

13

35

TDK

4

0

0

4

TBS

0

2

0

2

合計

36

112

64

212

こうしてみても、当時のトレンドは8トラックでありながら、カセットも意外と出ていたんだなということがわかる。メーカー毎のフォーマットの使い分けも様々で、単独のフォーマットでのみリリースされるもの、複数のフォーマットでリリースされるものなど様々だった。これは偶然だろうが、同じ日本ビクターでもビクター/RCAは8トラックが多く、フィリップス(日本フォノグラムとしてビクターから独立するのは1971年のこと)はカセットがメインだったりしている。

さて、ここからはメーカー/レーベルの話。上の表ではテイチクまでが既存のレコード・メーカー、アポロン以下がテープ専門メーカーとなり、それらも放送局系、オーディオ・テープ・メーカー、独立系の3つに分類できる(後にレコード制作まで手を伸ばしたところもいくつかある)。そのうち放送局系では、文化放送系のアポロン、ニッポン放送系のポニーに加え、TBS(東京放送)系のTBSサービスで制作されたものがトミー音芸制作工業から出ていた(ベルテック、クラリオンといったカー・オーディオ・メーカーからも出たようだが実態は不明)。またリスト外ではABC朝日放送系で制作音源がテイチクからレコード化もされていた朝日ミュージパック(朝日ミュージック・サービス)というのもあったが、TBSもABCも先行2つのようなシェアは築けないままに終わった。オーディオ・テープ・メーカーとしては、TDKのほかにオープンリールのみだがティアックも独自にミュージック・テープをリリースしていた(以前「キンテート・レアルによる日本の歌謡曲集」で触れたオープンリール作品『キンテート・レアル イン スタジオ』をその後入手できたので、どさくさ紛れに写真を載せておく)。

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それ以外は独立系で、ラテン系にも積極的だった名古屋のメッカレコード・パックなど、リスト外ではJASS(日本音楽工業)、GM PAK、DELLAなどがあった。使われる音源も、独自音源を制作したり、既存のレコード会社等から提供を受けたりと、様々だった。

そう、この辺りが、基本的には既存のレコード会社がLPと同内容のものを(曲順の変更等はあるにせよ)リリースしていた海外と異なる、日本固有の特殊事情ということになる。そして既存のメーカーからリリースされたタイトルも、ザッと見渡した限り、LPとは別のラインでの編集ものや独自テーマによる企画ものの方が数としては多かったようである。

独自制作の立場から音源を確保する上で、各レコード会社と密接な協力関係を持ったラジオ局系メーカーが有利であることはある意味当然だろう。どちらかというと、コロムビアやビクター、キング、テイチクといった古参メーカーは自社で、そこから枝分かれしたクラウンやミノルフォンといった新しめの会社はポニーなどに音源を提供し、というのが当初の傾向だったようである。

そしてアポロンの場合は更に、単なる放送局系に留まらない強力なアドヴァンテージがあった。それは先に触れたように、アポロンが渡辺プロダクション(ナベプロ)と文化放送の合弁によって誕生した会社だからである。ナベプロと言えば、1961年8月20日に東芝音工からリリースされた植木等「スーダラ節」を皮切りに、原盤権ビジネスを開始したことでも知られている。それ以前の日本では、原盤権はレコード会社にあるのが慣例だったが、ナベプロは企画制作からマスターテープ作成までを手掛け、東芝はプレスから販売までを受け持ったのである。1962年10月には渡辺音楽出版も設立され、アーティスト・マネージメントから音楽出版権管理、原盤制作まで含めたトータル・プロデュースを可能にしていく。原盤の提供先は、加山雄三やザ・ドリフターズ、奥村チヨなら東芝、ザ・ピーナッツや布施明ならキング、園まりやザ・タイガースならポリドール、森進一ならビクター、ジャッキー吉川とブルー・コメッツならコロムビア(CBS・ソニー発足まではCBSレーベル)というわけだ。アポロン発足後は、当然ながらミュージック・テープはアポロンからのリリースとなるわけだが(契約先の各レコード会社からテープが発売されるケースもある)、そうした中からレコードの形では出ないテープ独自企画も生まれるようになる。

ザ・タイガースを例にとると、1967年12月13日に東京・大手町のサンケイホールで行われた『ザ・タイガース・チャリティーショー』のライヴ録音が、1968年2月にアポロンからオープンリール・テープ『ザ・タイガース・チャリティーショー実況録音テープ』としてリリースされた。その後カセット『THE TIGERS A GO! GO!』と8トラック『LET’S GO THE TIGERS』でも出たが、なんとこの3種では曲目も曲順も異なっているという。それらの収録曲を網羅し演奏順に並べ直してCD化した復刻盤が、2000年6月にポリドールから出たCD12枚組BOX『1967-1971 THE TIGERS PERFECT CD BOX MILLENNIUM EDITION』のDisc 12『The Tigers A Go! Go!』である(下はそのジャケット写真で、オープンリールのパッケージを模したデザインになっていた)。

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1968年にアポロンから8トラックとカセットで出た伊東きよ子(コロムビアからCBS・ソニーに移籍する狭間)とザ・ハプニングス・フォー(東芝)の『花のマドンナ』は2000年12月に新星堂から『オー・ガンソ』としてCD化。1970年頃に8トラックで出たザ・ハプニングス・フォーの洋楽カヴァー企画(原題不明)は1999年にWEA JAPANから『決定版!R&Bベスト16』としてCD化。このほか、ブルー・コメッツや奥村チヨのカヴァー集なども複数がCD化されている。このように、グループ・サウンズやポップス系女性歌手のテープ独自音源の復刻はある程度進んでいるのに対し、演歌系などはまったく顧みられていないのではないか。ということで、ようやくクール・ファイブの話になるのだが、この続きは次回。

2020年6月24日 (水)

8トラック・カートリッジ・プレーヤー再生への道

【6月25日:文末に重要な追記あり】

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先月(5月)導入したSONYの8トラック・カートリッジ・プレーヤーのTC-6(導入記はこちら)、右チャンネルは普通に音が出ていたが、左チャンネルの方はレヴェルが低く、音もこもっていて、その程度はソフトによって多少差がある感じだった。

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いつ買ったかわからないオーディオテクニカのヘッドクリーニング液(写真左)でクリーニングは行っているが、とりあえずヘッドを消磁してみようと、消磁器を物色。またまたヤフオクでSONYのHE-3、取扱説明書付、動作確認済みというのが出品されていて、クーポンも使って1,000円ちょっとで落札できた。

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実際に消磁してみても、音の出方はほとんど変わらなかったが、どうせ必要なものだし、格安で買えたのはよかった。消磁器はTDKのカセットテープ型のを持っていたが、長いこと使っておらず、電池を交換しても表示ランプが付かなくなっていた。

現状のTC-6は出力が低く、まともに音が出る右チャンネルでも、アンプのヴォリュームが通常9時ぐらいの位置に対し、11時半ぐらいまで上げないと充分な音量にならず、左は更に音がまともに出ていないため、パソコン上で調整してみることにした。もともと、再生したアナログ盤をパソコンに取り込んでデジタル化するために、オーディオ・アンプのテープ入出力端子は、RMEのBabyfaceというインターフェース(A/DコンバーターとD/Aコンバーター)を経由してパソコンと繋がっている。

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そこでBabyface用のミキサーであるTotalMix FXの出番となったわけである。当初は左チャンネルのアナログ入力のゲインを33~36dB程度、右チャンネルを27~30dB程度で様子を見た。聴感上左右のエネルギーバランスは揃ってきたが、レヴェルインジケーターはむしろ左が高め。ヴォーカルがセンターにピタッと定位せず、どうにも違和感がある。先日まとめて安く購入したカートリッジに、1本だけモノラル音源(柳家三亀松の都々逸)があったので掛けてみると、まるで疑似ステレオのよう。

Img_8253

そう、音がこもった感じがしたのは、中~高音域が出ていなかったからなのだ。そこでTotalMixのイコライザーの登場である。モノラル音源の右チャンネルの方をON/OFFしながらほぼ近い状態まで持っていったら、こんな感じになった(わかりづらいが、左チャンネルのイコライザー・カーヴに注目)。

Totalmix-fx-for-tc6

左右のゲインは結局30dBで揃えた。要するに左右の入力レヴェルは同じにして、左チャンネルの中音域以上を思い切り上げたところで、左右のバランスが取れたのである。左チャンネルだけ中高音域が出ていないのはなぜなのか。ヘッドの摩耗なのか、回路的な問題なのか。と思いつつ、ヘッドの写真を撮ってみたらすぐにピンときてしまった。

Img_8251

ヘッドの下側の右チャンネル読み取り部がほとんど無傷なのに対し、上側の左チャンネル読み取り部とその周囲は擦り傷だらけではないか。恐らくこれが原因だろう。パソコン側での増幅とイコライジングという対処療法でとりあえずはまともに聴けるようになったのだから、御の字である。

【以下 6月25日追記】

...と、ここまで書いたのが23日の夜のことだったが、ヘッドの傷がなんとかならないかと調べたりして、何の気なしに綿棒にいつものオーディオテクニカのヘッドクリーニング液を付けて、いつもよりは強めに丁寧にこすり続けてみたら、なんとこんな状態に!

Img_8264

なんてこった。左チャンネル読み取り部周囲を覆って中高音域の減衰を招いていたのは、キズではなく頑固な汚れだったのだ。早速再生してみると、みごとに左右均等なバランスで音が流れだした。求めていたのはこの自然な音だ。アンプのヴォリュームを上げさえすれば、もはやコンバーターを通してイコライジングする必要はない。それにしても私はこの1か月半近く、いったい何をやっていたのだろう。

【更に6月25日夜追記】

原因と対応にたどり着くのに時間が掛かったのは、恐らく最初の時点で、実際には不十分極まりなかったがクリーニング液によるヘッド・クリーニングを一応行っていたため、汚れが原因という発想が持てなかったからだと思う。Facebookの方で、「テープの磁性体はこびりついたら頑固」というコメントをもらい、思い当たることがあった。プレーヤーの入手当初は、まだ左チャンネルの中高音域減衰は、それほどでもなかった印象もあるのだ。ヘッドの左チャンネル部分に磁性体がある程度こびりついていた状態で、それを落とせないまま再生を繰り返したことで、磁性体の更なる付着を招いたのだとすれば、おおよその流れの説明もつくように思う。ヘッドをピカピカにできたことで、音の出方が明確になり、音量も多少上がったようにも思える。あとはこの状態を保つことが大事だろう。

2020年6月 2日 (火)

8トラック・カートリッジ・プレーヤー導入とカートリッジ・テープ修復の巻

5月初旬のこと、内山田洋とクール・ファイブの『クールファイブ デラックス』という8トラック・カートリッジがヤフオクに出品されているのを見つけた。RCAではなくアポロンからリリースされていたもので、パッケージには見たことのない写真が使われていたが、曲目を見てビックリ。RCAではレコード化されていない曲が入っているではないか! それは菅原洋一がヒットさせた「知りたくないの」のカヴァーだった。

これまで8トラとはまったく無縁で、もちろん再生環境はないし、商品のコメント欄に「再生は確認していません。※ジャンクとして、宜しくお願い致します」との記載があったが、とりあえず入札し、そのまま競ることもなく800円で落札。さてどうしよう。機械をお持ちの方にデジタル化をお願いしようかと動き出しかけたが(最初に声を掛けた方にはご迷惑をお掛けしてしまった。申し訳ない)、念のためと思ってヤフオクで検索してみた。8トラの機械というとカラオケ用の仰々しいものが多いが、オーディオ・システムに繋げられるデッキ・タイプのものもいくつか出ていて、「古いSONYの8トラック ジャンク品」というのが目に留まった。たいていジャンクというと「通電のみ確認、動作未確認」というようなものがほとんどだろうが、コメント欄には「正常に音が出ます古い物ですジャンク扱いです」とあった。しかもたったの500円。もうこれは買うしかあるまいと入札し、こちらも競ることなく落札できた。

まず5月9日にクール・ファイブのカートリッジ・テープが届いた。劣化が多いというピンチローラーとパッド(スポンジ)は、とりあえず見た目では大丈夫そうだ。そして12日午前中にプレーヤーが到着。

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SONYのTC-6(呼称:カートリッジ プレーヤー8)という1968年9月発売のモデルで、ソニー初のホーム・オーディオ用再生専用機。付いているスイッチはプログラムのセレクター・ボタン1個だけ(4つのプログラムを順送りするだけ)。カートリッジの挿入で電源ON、引っこ抜けばOFFなので、電源ボタンもない。なんとシンプルなことか。ウッド・キャビネットで見た目も美しいし、ラックへの収まりも良い。

Tc6catalog

これは読みにくいが当時のカタログからの画像で、ネットから拾ったもの。ちなみにSONYから、1971年にはイジェクト機能付きのTC-7(カートリッジプレーヤーNEW 8)と録音・再生ができるデッキのTC-8000、4ch再生ができるプレーヤーのTC-8040が出ている。

カートリッジ・テープも10本おまけに付いていて、最初は「別に要らないけどな」と思っていたが、これが実はとても役に立った。付いていたのはこんなカートリッジたちだった(最終的に2本は破棄)。

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[1]『有線リクエスト・ベスト16』ジャス・オールスターズによるインスト。詳しくは後述。
[2]『ラテンヒット16』カルロス・ロメス・オーケストラによるインスト。
[3]『夜空のトランペット』ルイ・コックランなる奏者によるインスト。
[4]『心のふるさと 童謡』天地総子、松島みのりほかの唄。
[5]『世紀のビートルズ・サウンズ 1962~1966』演奏者表記なしのインスト、外箱なし。
[6] ラベル剥がれ、外箱なし→あとからザ・ベンチャーズのベスト(タイトル不明)と判明。詳しくは後述。
[7] 同上→ザ・ベンチャーズ『ゴールデン・ポップス』と判明。これも後述。
[8]『SONY 8トラック・デモンストレーション・テープ』外箱なし。恐らくプレーヤー購入時の付属品。
[9] エレクトーンによるインスト(タイトル失念)。テープ・ダメージあり破棄。
[10] くだらない内容で、聴くに堪えないため破棄。

このうち[5][6][8]の3本は、テープが切れた(正しくは繋ぎ目のセンシング箔が剥がれて離れた)状態で、端も外に出ていないため繋げられず、このままでは再生不可。[8]はピンチローラーも割れてしまっていた。とりあえず[1]と[2](現在までトラブルなし)を掛けてみて、プレーヤーは特に問題なく正常に動作することを確認。これが、おまけが付いていて役に立ったことの1つ目。プログラム1のインジケータ―は点灯しないが、これは当初からコメントに書かれていたので、問題はない。中を見たらこんな感じだった。こんなパーツどこかにあるかな。

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そして肝心のクール・ファイブを掛けようとしたが、なんと再生できないではないか。テープが回っている様子がないのだ。これは中を開けてみないといけない。開けるためには、カートリッジに貼っているラベルを綺麗に剥がして、中央あたりにあるネジを外す必要があるのだが、シールタイプのラベルではなかったので、やりかけたがうまく剥がれず汚くなってしまった。紙質を考えれば、綺麗に剥がすのは無理だともっと早く判断できたはずなのに。

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仕方なく、ラベルのネジにあたる部分と、蓋と本体に跨っている背の部分に切り込みを入れることにした。ネジは外せたが、爪が引っ掛かっているようで、蓋がうまく開かない。おまけのカートリッジそれぞれを見比べると、規格の範囲内で蓋と本体を留める爪の位置や内部の形状などがいろいろ異なったりしている。その中で[9]の形状がクール・ファイブのと同じだったため、先に[9]を開けてみて、爪がどう引っ掛かっているかを確認し、不用意に爪を割ってしまったりすることがないようにできたのだ。これがおまけが役に立った2つ目。

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開けてみて、再生できない理由がわかった。内周からテープを引き出す部分が固く巻かれた状態で引き出せず、無理に引っ張ろうとするとテープが伸びてしまう危険な状態だった。そして巻かれている途中に巻きムラと言うか辺に浮いたようになっている部分があり、あとでわかったことだが、テープが何か所も、幾重にも折り畳まれた状態になってしまっていたのだ。これは巻き直しをする以外に解決方法がない。エンドレス・テープなので、とりあえず切らずに巻き直そうとリールから不用意に外してしまった。これが大きな間違いだった。切らずに巻き直すなんてことは現実的に不可能で、一度切って繋ぎ直すしか方法はないのだが、経験則がないことは恐ろしいことだ。

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画像のようなこんな状態のあと、どんどんねじれてこんがらがり、にっちもさっちも行かなくなってしまった。元に戻す方法としては、テープの任意の場所を1か所切断し、空のリールに反対向きに一度巻いてから、元のリールにきれいに巻き直す。そして切断個所をオープンリール用のスプライシング・テープで繋ぐ。これが正しいやり方ということになる。そのために、テープの切れた不要なカートリッジをどれか開けてテープを取り出し、一時巻取り用のリール代わりにする必要があった。本当はオープンリールのデッキがあればそんなこともせず作業は楽なのだが、ないので手作業するしかない。

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とりあえずテープ切れで得体の知れない[6]の蓋を開けてテープを抜き取り、リール替わりとしたが、収拾がつかず、[9]もバラしてリールをもう1つ用意し、根気よく作業を続けるしかなかった。

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巻き直しの途中で、センシング箔の貼られたテープの本来の端の部分を発見。

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折れ曲がった部分は反対向きに巻く時に注意深く巻いたが、やはりこれだけ癖がついてしまっている。

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とりあえず何とか巻き終わった。ここまでに少なくとも8時間以上掛かってしまった。

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繋ぎ直しのために買ったスプライシング・テープはこれ。1,650円なのでプレーヤーとカートリッジ・テープを足した金額より高い! もう45年ほど前の話だが、高校時代は放送部に在籍して番組作りなどをしていたので、オープンリール・テープを切ってスプライシング・テープで繋ぐ作業自体は経験済み。

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なんやかんやで修復はなんとか終了し、蓋をして恐る恐る再生してみると…。

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音が出た! 無事に再生出来た時には、安心するやら力が抜けるやら。とにかく元に戻せてよかったと、胸をなでおろすことができた。テープが折れた箇所のドロップアウトはまあ致し方ないが、さほど酷くはなく、鑑賞に支障はなかった。テープを切って繋いだ場所も、どこだかまったく聞き分けられない。クール・ファイブのテープの中身については、次回の「クール・ファイブのレコード(9)」で詳しく紹介する予定だが、「知りたくないの」は前川清が英語で歌っていた。そしてもう1曲、森進一のカヴァー「花と蝶」がレコードとはまったく別のヴァージョンだったのも大きな発見だった。

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そしてこれは偶然なのだが、クール・ファイブ絡みで言うと、おまけのカートリッジ[1]のインスト集は編曲がチャーリー石黒で、「ベスト16」と言いながら自分が書いたクール・ファイブのシングルB面曲を入れたり、やりたい放題だったので笑ってしまった。

ここまで修復できたのだからと、テープ切れ(センシング箔剥がれ)のカートリッジも、繋いで聴いてみることにした。当初再生できていた[3][4][7]も、その後同様の状態に陥っていたのだ。これにはスプライシング・テープは使えず(繋ぐことはできるが、プログラムが自動で切り替わらない)、センシング箔の代用品を作るしかない。で、今度は安くあげようと、こちらのサイトの記事を参考に、ロッテのチョコレート(包み紙のアルミを使うため)と両面テープを買いに行った。が、ここでまた失敗。DAISOに行ったのはよかったが、間違えてアクリルフォームの厚手の両面テープを買ってしまったのだ。翌日買い直した正しいテープはこちら。

Img_8238

次の写真は上が本来のセンシング箔、下が手作りの簡易センシング箔(LOTTEのロゴが見える)。

Img_8239

この手作りのセンシング箔で再生とプログラム切り替えはできるようになったが(反応が鈍い時もあり、強度や耐久性にも問題はありそうなので、折を見てこちらのサイトで推奨しているアルミシートに交換した方がよさそうではある)、一部ピンチローラーに問題があり、[5]は回転ムラが出てしまうため、[10]からピンチローラーを移植。[3]はローラーの表面が削れて小さな屑が発生してしまうため、[9]から移植。[6]はパッドがボロボロだったため[3]から移し、[3]には[9]のパッドを当てた。[9][10]は破棄扱いとしたが、パーツはそのように他のカートリッジに生かされ、ケースとリールも残したので、無駄にはならなかった。ピンチローラーの割れていた[8]はケースがネジ止めではなく5か所が爪で留められていたが、この爪が固く、ケースをかなり痛めながらこじ開ける羽目に。一度は破棄しようとしたが、一応中身を確認したくて、回転ムラを覚悟で[5]のピンチローラーをはめて残すことにして再生してみたら、やはりムラは如何ともしがたかったが、手でカートリッジを押さえながらであれば、何とか聴くことはできた。

得体の知れなかった[6]をまた苦労して巻き直し(それでも作業は格段に早くなった)、再生してみたところ、いきなり「10番街の殺人」が飛び出したのでビックリ。そう、中身はベンチャーズだったのだ。調べてみたら、確かに東芝のカートリッジは基本的に邦楽が赤、洋楽が青で、リバティ・レーベルのものは黒だったようだ。私はベンチャーズのさほど熱心なファンというほどでもなく、持っているのは山下達郎が監修したCD2枚組『ベンチャーズ・フォーエバー』、オリジナルのCD化『ノック・ミー・アウト!』、それに貰い物の「ハワイ・ファイヴ・オー/スパイ大作戦」のシングルぐらいだったので、なんとか曲目を調べてみた。国立国会図書館に行って東芝の年度別総カタログか「テープ・マンスリー」を見れば一発でタイトルや番号までわかるのだが、今は行ける状況ではないので仕方がない。まだ全曲はわからないが、こんな感じ。

Program I
1. 10番街の殺人
2.
3. ブルドッグ
4. ペネトレーション
5. モア
Program II
1. ウォーク・ドント・ラン'64
2. テルスター
3. バンブル・ビー・ツイスト
4.
5.
Program III
1. パイプライン
2. 木の葉の子守唄
3. マンデー・マンデー
4.
5.
Program IV
1. ハワイ・ファイヴ・オー
2.
3. アウト・オブ・リミッツ
4. 日曜はダメよ
5. エスケイプ

そして[7]もベンチャーズだった。「京都の恋」から始まり「京都慕情」に終わるという流れで、歌謡曲のカヴァーが多くを占める。こちらも調べてみたら、どうも1970年のアルバム『ゴールデン・ポップス』のようだ。最初にその曲目を見て、「京都慕情」がないと思ったが、この曲は当初は「パレスの夜」という題だった。ただ、入っているはずの「真夜中のギター」(オリジナルは千賀かほる)がない。結局この曲は、1967年の『ポップス・イン・ジャパン』に収録されていた「涙のギター」(オリジナルは寺内タケシとブルー・ジーンズ、でいいのかな?)と差し替えられていたことが判明。これは曲名が似通っていたが故のミスなのか、あるいは意図的なものなのか? 曲目・曲順は以下の通り(曲名のわからないオリジナル2曲は、ネット上の画像などで確認できた演奏時間をもとに判断)。

Program I
1. 京都の恋 Kyoto Doll
2. 何故に二人はここに Why
3. 涙のギター Sentimental Guitar
Program II
1. 夜明けのスキャット Scat In The Dark
2. 或る日突然 Suddenly Someday
3. 禁じられた恋 Forbidden Love
Program III
1. 時には母のない子のように Sometimes I Feel Longing For A Motherless Child
2. この道を歩こう On A Narrow Street(オリジナル)
3. さすらいの心 The Wanderer(オリジナル)
Program IV
1. いいじゃないの幸せならば Why Do You Mind
2. 別れた人と Wakareta-Hito-To
3. パレスの夜(京都慕情) Reflections In A Place Lake

これがなかなか気に入ってしまった。「或る日突然」あたりのアレンジも良いし、オリジナル2曲も素晴らしい。苦労して繋いだ甲斐があったというものだ。

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