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2020年9月25日 (金)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(10)~シングル「噂の女/だまって行かないで」

前回ご紹介した8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』(発売日不明)と恐らくほぼ同時期に、「愛の旅路を」に続く内山田洋とクール・ファイブ5枚目のシングルがリリースされた。

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● シングル05

A) 噂の女
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲・編曲

B) だまって行かないで
山口洋子 作詞/内山田洋 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1095 1970年7月5日発売

ジャケットではグループ名表記と比べて“唄/前川 清”の文字がやたら大きいが、この「噂の女」は、第4回でもご紹介したように、既に1969年11月5日発売のファースト・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』にアルバム・トラックとして収録されていた曲である。同アルバムから「逢わずに愛して」が1か月後の12月5日にシングル・カットされた際、候補として争った曲のひとつであることも、第4回第6回で触れた。その後に「愛の旅路を」を挟み、アルバム・リリースから実に8か月後に5枚目のシングルとして登場したわけである。

作者の二人、まだ新人だった作詞の山口洋子と、森進一のヒット連発で勢いに乗る作曲の猪俣公章については、第4回で「一度だけなら」を紹介する際にも触れたが、こちらは書き下ろしではない。山田競ディレクターがアルバム用の曲を猪俣に依頼しようとしたところ、「ビクターの磯部(健雄)さんのところに森君用に預けてある曲があって、レコーディング予定がとりあえずなければもらえるかも知れないよ」との返事があり、それが「噂の女」だった。山田によれば「レコーディングのとき、スタジオで作曲の猪俣公章さんが、“冗談じゃないぜ、この曲はざる蕎麦の味なんだぜ。それをレストランで食わせる気か”といい出したんです。私は私で“クール・ファイブのキャラクターは、レストランのざる蕎麦なんです”といって、ひと悶着あったんです」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)とのことだが、3連のロッカ・バラードながらマイナー・スケールで、アルバムの中でも演歌色のひときわ強かった「噂の女」が最終的にシングルに選ばれたのは、社内(特に営業だろう)からの強い要望を反映してのことでもあった。

「逢わずに愛して」同様、シングル化に際し、前川清はヴォーカルをすべて録り直しているが、かなりエグみのある歌い方に変えていて、全体的にパワーが増している。特にサビの「♪うわさ~の」の「さ~」の部分でアルバムではストレートに上がっていたところ、シングルではポルタメントを大胆に効かせるあたりに顕著だ。この歌い直しは大正解で、チャートでは「長崎は今日も雨だった」以来の最高2位を記録、売り上げも50万枚を突破した。コーラスと伴奏はミックスまで同じで、マスタリングの際にイコライジングの調整が行われた程度だと思われるが、何故かアルバムでは“毛利 猛 編曲”、シングルでは猪俣が作・編曲を手掛けたことになっていて、どういうことなのか謎だ。ネットで検索しても毛利のプロフィールは出てこないが、猪俣のペンネームなのだろうか?

「逢わずに愛して」のシングル・ヴァージョンはその後オリジナル・アルバムへの収録はなかったが、「噂の女」の再録の方は、改めて1970年9月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』の冒頭に収録されることになる。以後のベスト・アルバムで、シングルではなく最初のアルバム・ヴァージョンが収録されてしまったものに『豪華盤「内山田洋とクール・ファイブデラックス」第1集』(JRS-9089~90、1972年2月)、『内山田洋とクール・ファイブ・ベスト24デラックス』(JRS-9185~6、1973年11月)、『内山田洋とクール・ファイブ~オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集』(JRX-9、同)がある。

当初森用に用意された「噂の女」が、磯部ディレクターの机の引き出しに眠ったままになっていた経緯はわからない。磯部の判断だったのか、他に優先すべきネタがあったのか。森はこの曲のことを知っていたのか(恐らく知らなかっただろう)。それはともかく、クール・ファイブが大ヒットさせた後になって、森もこの曲をレコーディングすることになる。

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1970年12月5日発売の『演歌』(Victor SJV-489~490)は、「デビュー5周年記念豪華アルバム」と但し書きの付いた2枚組で、各サイドにそれぞれ「森進一が唄う最新ヒット・アルバム」「森進一が選んだ森進一ベスト・ヒット」「森進一の抒情歌」「森進一がつづる全国夜の盛り場」というテーマが設けられた構成となっていた。この中の「最新ヒット・アルバム」サイドに、森自身の最新ヒット「銀座の女」、藤圭子の「命預けます」、野村真樹の「一度だけなら」などと共に「噂の女」も収録されたというわけだ。編曲は、クール・ファイブのシングル担当を「噂の女」で初めて外れた森岡賢一郎で、コーラスがないこともあってかややあっさり気味の仕上がり。森も個性は出しているが、あくまでも“カヴァー” の範疇を超えるものではなく、やはり結果的にはクール・ファイブに回るべき運命だったのだろう。

カップリングの「だまって行かないで」は同じ山口の作詞で、作曲は内山田洋が担当。シングルB面はデビュー以来城美好作品が4曲続いたが、ここでメンバーの作品がシングルへの初起用となった。同じ3連ながら、A面の泥臭さとは打って変わって洋楽的雰囲気もある、洒落たタッチの作品に仕上がっている。編曲は森岡で、ギターの使い方もギタリストである作曲者の意図が反映されている感じだ。

前回も触れたように、この曲は8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』にいち早く収められたが、次のアルバム『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』では見送られ、オリジナル・アルバムへの収録が叶うのは1971年12月の『港の別れ唄/内山田洋とクール・ファイブ 第3集』まで待たされることになる。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年9月 3日 (木)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(9)~8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』『演歌』

紹介はまだ先になるが、1972年3月5日にリリースされた内山田洋とクール・ファイブの2枚組ベスト・アルバムに『豪華盤「内山田洋とクール・ファイブデラックス」第2集』(JRS-9093~4)というのがある。その1か月前の2月5日にリリースされた『同・第1集』と対になったもので、『第1集』が「悲恋」までのシングルAB面曲を中心にしたオリジナル集だったのに対して、『第2集』は全曲がカヴァーで構成されていた(カヴァー・シングルの「女の意地/京都の夜」は両者に重複して収録)。

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クール・ファイブのカヴァー・アルバムはこの時点で、前回(第8回)紹介した『夜のバラード』の後、『影を慕いて』(1971年5月5日発売)と『赤と黒のブルース』(1971年11月5日発売)の2種が出ていて、当然その3枚からの選曲がメインだったが、初登場のものも4曲あった。このベストのために新たに録音されたものなのか、あるいは何かの機会に録音しておいたものなのか不明だったが、ようやく主たる出どころが判明した。それが、6月2日にアップした記事「8トラック・カートリッジ・プレーヤー導入とカートリッジ・テープ修復の巻」で触れた8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』である。

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●ミュージック・テープ1

クールファイブ デラックス
Apollon AE-5014 1970年リリース

Program I
1) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲

2) 不知火の女
新野 新・村上千秋 共作詞/森岡賢一郎 作曲(正しくは城 美好作曲)

3) わかれ雨
鳥井 実 作詞/彩木雅夫 作曲

4) だまって行かないで
山口洋子 作詞/内山田洋 作曲

5) 涙こがした恋
中山淳太郎 作詞/城 美好 作曲

Program II
1) 愛の旅路を
山口あかり 作詞/藤本卓也 作曲

2) 夜毎の誘惑
山上路夫 作詞/城 美好 作曲(正しくは山口あかり作詞)

3) 長崎詩情
中山貴美 作詞・村上千秋 補作/城美好 作曲

4) 明日はないの
村上千秋 作詞/城 美好 作曲

5) あなたが欲しい
内山田洋 作詞・作曲

Program III
1) 逢わずに愛して
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲

2) 捨ててやりたい
川内康範 作詞/城 美好 作曲

3) 一度だけなら
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲

4) 女のまごころ
宮本悦朗 作詞・村上千秋 補作/宮本悦朗 作曲

5) 恋の花火
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲

Program IV
1) 花と蝶
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲

2) 熱海の夜
荒川利夫・藤木美沙 作詞/山岡俊弘 作曲

3) 京都 神戸 銀座
橋本 淳 作詞/筒美京平 作曲

4) 知りたくないの
D. Robertson 作詞/H. Barnes 作曲(正しくはBarnes作詞、Robertson作曲)

5) あなたのブルース
藤本卓也 作詞・作曲

唄・演奏:内山田洋とクールファイブ
編曲:森岡賢一郎

国立国会図書館に行けないこともあってメーカーの資料が確認できず、発売日はまだ特定できていない。スリーヴケース裏の短い解説に「最新曲『愛の旅路を』まで」(同曲は1970年4月5日発売)と書いてあり、次の「噂の女」(7月5日発売)は未収録だが、そのB面の「だまって行かないで」がすでに収録されているので、リリースは「噂の女」とほぼ同時期ではないかと推測される。上記の通り、作者クレジットにいくつか誤表記があり、編曲に関しても実際には森岡賢一郎ではない既発曲も含まれている(II-3は竹村次郎、II-4は宮川泰、II-5は内山田洋、III-3は毛利猛、III-4は宮本悦朗が正しい)。

プログラムIからIIIまでがオリジナル曲。「長崎は今日も雨だった」から「愛の旅路を」までシングル4枚のAB面曲(I-1/I-5、I-3/I-2、III-1/III-3、II-1/II-2)、そのうち最初の2枚分4曲を除くファースト・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』収録曲が6曲、そして前述の「だまって行かないで」(次回紹介予定)で15曲という構成になっている。ファーストから漏れたのは「噂の女」とシングル・ヴァージョンで収められた「逢わずに愛して」の2曲だが、前者は既にヴォーカルを録り直していたシングルのリリースとぶつかるため、あえて外したのではないかと思われる。なお、8トラック・カートリッジの構造上、4つのプログラムの各収録時間を極力揃える必要があるため、プログラムIに収録された「長崎は今日も雨だった」のフェイドアウトが10秒ほど早く、通常はカットアウトの「涙こがした恋」がエンディング直前でフェイドアウトとなっている。

そして本作を特徴づけているのが、いずれも初出のカヴァー曲で構成されたプログラムIVである。冒頭で触れた『豪華盤「内山田洋とクール・ファイブデラックス」第2集』でレコード初登場となった4曲中3曲が頭から並んでいるのだが、実際に聴いてみたら「花と蝶」がまったくの別アレンジだったので驚いた次第。

川内康範(作詞)、彩木雅夫(作曲)という、クール・ファイブとも縁の深い二人が書いた「花と蝶」は、森進一の9枚目のシングルとして1968年5月5日に発売され、オリコン最高8位と大ヒットした。森進一もクール・ファイブの2種も、編曲はすべて森岡。森のオリジナルではイントロや間奏でメロディを奏でるトランペットが、8トラック・ヴァージョンではサックスに置き換えられた感じで、基本的な組み立ては割と似ている。また、エンディングをエレキ・ギターのジャジーなフレーズで締めているのもポイント。それに対し、レコード『豪華盤…第2集』でのリアレンジ版では、ストリングスとサックスの大胆な絡みによってイントロの間奏のメロディーやフレーズが一新され、スケール感も増している。

続く2曲はレコードともヴァージョンは同じ。「熱海の夜」は箱崎伸一郎(後に晋一郎と改名)のデビュー曲として1969年1月10日に発売され、オリコン最高は34位。ここでの森岡のアレンジは、川口真によるオリジナル・アレンジを踏襲している。「京都・神戸・銀座」は橋幸夫の103枚目のシングルとして1969年3月5日発売。新機軸を打ち出すべく、いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」のヒットで波に乗る橋本淳(作詞)と筒美京平(作・編曲)の強力コンビに楽曲を依頼し、見事にトップ10入りしたヒット曲。これもアレンジは原曲に比較的忠実。

そして、ここでしか聴くことができないのが、4曲目の「知りたくないの」である。表題はこのようになっているが、前川清はここで原曲の「I Really Don’t Want To Know」どおりに英語で歌っている。この曲はカントリーのソングライター、ドン・ロバートスンが作曲、ハワード・バーンズが詞を付けて1953年に発表したワルツ。同年の内にレス・ポール&メアリー・フォード、エディ・アーノルドのレコードが出て、どちらも翌年までに大ヒットを記録した(前者はポップ・チャートで11位、後者はカントリー・チャートで1位)。ドゥ・ワップ・グループのフラミンゴズによる1954年のヴァージョンもいい。1960年代に入るとカヴァーが一気に増え、ざっと拾っただけでもジョニー・バーネット、ソロモン・バーク、コニー・フランシス、アンディ・ウィリアムズ、エスター・フィリップス、イーディ・ゴーメ、ジーン・ピットニー、アル・マルティーノ、ヴィック・ダモーン、ロニー・ドーヴ、ブルック・ベントン、ロレッタ・リン…と書ききれない。

この曲にはもともと「たそがれのワルツ」という邦題が付いていたが、これを取り上げることになったのが菅原洋一である。タンゴが好きで音楽喫茶で歌っていたところを早川真平に見出され、早川の指揮するオルケスタ・ティピカ東京(日本のタンゴ楽団では最高峰)の専属歌手になったのが1958年秋。同楽団の看板だった歌手の藤沢嵐子からは「ほとんど全部を学んだ」という。だがタンゴよりもむしろボレロが得意で、スペイン語ではなく日本語で歌いたいとの願望もあった菅原は、1962年頃には楽団を辞め、1963年7月に歌謡曲歌手としてポリドールからデビュー。しばらくヒットが出なかったところに、ディレクターの松村慶子(第8回で「夢は夜ひらく」を発掘して園まりに歌わせたエピソードを紹介した)が用意したのが、アルジェリア生まれのエンリコ・マシアスがタンゴのリズムで書いたシャンソン「恋心」である。マシアスが1964年に書いて歌っていたこの曲に最初に目を付けたのは、1965年にフランスを訪れた岸洋子で、自らぜひ歌いたいと持ち帰り、評論家の永田文夫に訳詞を依頼。松村はそれをそのまま菅原にも歌わせるのではなく、シャンソンの訳詞をしながら作詞家への転身を考えていたなかにし礼に電話を掛け、新たな訳詞を書かないかと持ちかけたのだった。

そしてそのB面として用意されたのが「たそがれのワルツ」だった。先に触れたようにこの曲の海外でのカヴァーは続いていたが、この時点で取り上げることになったきっかけは何だったのだろう。ともかく松村から素材を与えられたなかにしは、この曲を聴いてそれまでにないひらめきを感じ、「知りたくないの」という女言葉の歌詞を書き上げた。

永田が訳詞を手掛けた岸の「恋心」はキングから1965年9月20日発売。なかにしの訳詞による菅原の「恋心/知りたくないの」はわずかに遅れて10月5日発売だったが、「恋心」に関して言えばヒットしたのは岸が歌った方で、歌詞もその永田版で定着する。その一方、菅原はB面だった「知りたくないの」を、レギュラー出演していたホテル高輪のラウンジで毎晩歌い続けていた。

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ラウンジでのステージの様子を伝えるオリジナル・ジャケット。画像はネットから拝借した。バックで演奏しているのはロス・インディオス。歌い続けたことでじわじわとリクエストが増え、ポリドールは1967年に入ってから同じ番号のままAB面を入れ替えジャケットも替えて再リリースした(これも画像はネットから)。

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結果的にこの曲は大ヒットとなり、菅原は同年の第18回NHK紅白歌合戦にも初出場。なかにしもこれをきっかけに人気作詞家の仲間入りを果たすことになる。このヒットを受け、黛ジュンが1967年に、黒木憲が1968年に、西田佐知子が1969年に、それぞれが持ち味を生かしながらアルバムの中で取り上げた。クール・ファイブによるここでのカヴァーも、その流れに沿ったものと言えなくもないが、前述のとおり英語のままで歌っているのがひとつの大きなポイントである。メジャー・デビュー前(時期的には菅原洋一がヒットさせた後)の銀馬車のステージでも英語で歌っていたのだろうか。イントロの美しいストリングスに導かれて前川がソフトに歌い出すと、ピアノがカントリーっぽい伴奏を添えていく。これでペダル・スティール・ギターでも入れば、グッとカントリー度が増すのだろうが、そこまではしていない。いかにもクール・ファイブ的なギターやコーラスもさりげなく絡んでいき、2分30秒ほどの小品に仕上がっているが、このレアな8トラック・カートリッジ以外ではまったく聴くことができないのは惜しい。メンバーも関係者も、こんな録音があったことすらすっかり忘れているのではないだろうか。なお、前川の敬愛するエルヴィス・プレスリーは1971年になってこの曲を取り上げている。自分のスタイルに強引に引き寄せて歌い上げるところはさすがエルヴィスだが、RCAからの国内盤シングルの邦題はしっかり「知りたくないの」となっていた。

最後に収録されているのは「あなたのブルース」。矢吹健のデビュー曲として1968年6月5日にリリースされた藤本卓也作品で、この曲については藤本が作曲した「愛の旅路を」を紹介した第7回でも触れたが、『豪華盤…第2集』より早く、冒頭でも触れたカヴァー・アルバム第3弾『赤と黒のブルース』に収録された。タイトルに「…ブルース」が付く12曲で構成された企画ゆえに、8トラック音源がそのまま選ばれたのだろう。

さて、『豪華盤…第2集』でレコード初登場となったのは4曲だったが、そのうちこの8トラックが初出だったのは、プログラムIVの最初の3曲。ではもう1曲は何だったかというと、「あなたのブルース」と同様に藤本が書いて矢吹が歌った「私にだって」(1969年2月5日発売)なのだが、それが別のオムニバス・8トラック・カートリッジに「京都 神戸 銀座」「あなたのブルース」と共に収録されているのを、これも偶然発見できた。ヴァージョンはどれも同じである。

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●ミュージック・テープ番外(オムニバス)

演歌
Apollon AL-3039 1970年リリース(推定)

Program I
1) 釧路の夜/森 進一(オリジナルは美川憲一、1968年7月発売)
2) 雨の赤坂/園 まり(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、1968年12月)
3) 京都 神戸 銀座/内山田洋とクール・ファイブ(橋 幸夫、1969年3月)
4) 大利根月夜/千田浩二(田端義夫、1939年秋)

Program II
1) 君は心の妻だから/奥村チヨ(鶴岡雅義と東京ロマンチカ、1969年3月)
2) 京都の夜/森 進一(愛田健二、1967年6月)
3) 帰ろかな/千田浩二(北島三郎、1965年4月)
4) 兄弟仁義/木の実ナナ(北島三郎、1965年3月)

Program III
1) あなたのブルース/内山田洋とクール・ファイブ(矢吹 健、1968年6月)
2) 旭川ブルース/園 まり(中坪 健、1968年2月)
3) さよならのあとで/奥村チヨ(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、1968年10月)
4) 柳ヶ瀬ブルース/森 進一(美川憲一、1966年4月)

Program IV
1) 熱海の夜/園 まり(箱崎伸一郎、1969年1月)
2) 網走番外地/木の実ナナ(高倉 健、1965年1月)
3) 女ですもの/奥村チヨ(西城 健、1968年11月頃)
4) 私にだって/内山田洋とクール・ファイブ(矢吹 健、1969年2月)

編曲:森岡賢一郎
演奏:ブルーライト・スタジオ・オーケストラ

渡辺プロダクション所属の歌手6組のうち、千田浩二とは馴染みのない名前だが、彼は仙台市役所職員だった1965年にコロムビアの歌謡コンクールで入賞し、チャーリー石黒にスカウトされて上京、猪俣公章に弟子入りする。1967年3月にポリドールから「ソーラン哀歌」でデビューし、計5枚のシングルをリリース後、大船渡(わたる)と改名し1970年9月5日にRCAから「板前さんよ」で再デビュー(ディレクターは山田競)。9月末に東京・有楽町の日劇で行われた『クール・ファイブ・ショー――やめて!噂の女」にも出演した。その後は大船わたるとして作曲活動などを続けている。ということで、ここではまだ大船渡ではなく千田浩二名義での収録となっていることから、またパッケージ・デザインが一部『クールファイブ デラックス』と共通することからも、発売時期は1970年前半と推測される。

他の歌手の当時の所属レコード会社は、森進一がビクター、園まりがポリドール、奥村チヨが東芝、木の実ナナがキングだが、ここに収められたアポロン独自音源は、どれもレコードでは出なかった。園まりの「雨の赤坂」は1969年7月5日リリースのカヴァー・アルバム『恋のささやき』にも収録されているが(未聴)、そこでは小谷充編曲となっていて、また未レコード化のアポロン音源をCD化した編集盤『夜のムード』(ソリッド、2015年8月)にしっかり収められていることから、ヴァージョンはまったく異なると思われる。奥村チヨのアポロン音源はかなりCD化されているが、ここでの3曲は漏れているし、その他の音源もどれも8トラックでしか聴けない貴重なものばかり。むしろほとんどが(ここでの3曲はすべて)時期の遅れはあってもレコードにも収録されたクール・ファイブが、例外的ということになる。

それでは、アポロンから出たクール・ファイブの8トラック・カートリッジは他にどんなものがあるのか。まずネットで画像を見つけたのが、8曲入りの『長崎詩情』(AP-1085)。

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Ap1085b

ファースト・アルバムから8曲を収めたもので、恐らく1969年末頃の発売。「噂の女」以外は『クールファイブ デラックス』と曲目は重複する。そして、1972年秋のカタログ(これもネットから)に載っていたのが、鶴岡雅義と東京ロマンチカとのスプリット・アルバム『競演!クールファイブと東京ロマンチカ』(AL-3180)。恐らく1972年の発売。曲目はこう書いてある。

女の詩集/年上の女/女心の唄/愛のきずな/よこはまたそがれ/花と蝶/京都・神戸・銀座/私にだって/君は心の妻だから/愛のフィナーレ/港町ブルース 他全16曲

Al3180

各プログラム4曲ずつと考えると、「よこはまたそがれ」から「私にだって」までがプログラムIIでクール・ファイブのパートということになる。「よこはまたそがれ」だって? 実はクール・ファイブはこの曲の録音を残しているが、それは1975年9月5日発売の4枚組BOX『昭和の歌謡五十年史』に於いてであり、編曲はあかのたちおとなっていたので、ヴァージョンが異なる可能性も高い。またプログラムIVの4曲がまったく不明だ。やはり一度国立国会図書館に足を運び、少なくとも曲目を確認する必要がありそうだ。そしてこの8トラック・カートリッジの現物が入手できる日は来るのだろうか。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年7月28日 (火)

8トラック・カートリッジの成り立ちと当時のミュージック・テープ事情

今回は、6月2日にアップした記事「8トラック・カートリッジ・プレーヤー導入とカートリッジ・テープ修復の巻」でも触れた、内山田洋とクール・ファイブの8トラック・カートリッジ『クールファイブ デラックス』(アポロン)を紹介する予定だったが、その前提として8トラック・カートリッジの成り立ちと当時のミュージック・テープ事情について書き始めたところ、とても長くなってしまったので、結局『クールファイブ デラックス』の紹介は次回に回すことにした。

始めにお断りしておくと、本来であれば今回書いた内容は、国立国会図書館に赴くなどして各レコード/テープ・メーカーの総目録や雑誌『テープ・マンスリー』、ドライバー向けに出ていたという8トラックの情報誌などに当たって確認すべきところだが、なにしろコロナウイルスの影響で外出を控えている状況のため、ほとんど手元にある資料およびインターネットで得られた情報のみをベースとしている。そのため調査が不十分である点はご容赦いただきたい。

8トラック・カートリッジはアメリカ合衆国で、主にカー・ステレオでの使用を前提に1965年に製品化された。オープンリール・テープは車内での操作はほぼ不可能、1962年に開発されたコンパクト・カセット(我々が普通にカセットと呼んでいるもの)はその時点ではまだ音質的にも機能的にも未成熟で、オーディオ用としては認知されていなかった。8トラックの開発にも関わった米RCAは、1965年のうちに175タイトルのカートリッジを発売。大手自動車メーカーも8トラックを再生できるカー・ステレオを組み込んで、セールス・ポイントのひとつにするようになっていった。
当時の米RCAヴィクターのLPのカンパニー・スリーヴにはこんな広告も載っていた。

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8トラック・カートリッジとはどのようなものか、改めて書いておくと、オープンリールと同じ幅に8トラック分が録音されたテープが、横10cm×縦13.5cm×厚さ2.2cmほどのカートリッジ・ケースの中に1リールのエンドレスで巻かれたもので、内周部から窓の部分に送り出され、再生ヘッドと内蔵されたピンチローラーを経て外周部に巻き取られたテープが、ひと巻き分再生し終ってテープの繋ぎ目に貼られたセンシング箔を機械が感知する度に、再生ヘッドがガチャッと下に送られて4つのステレオ・プログラムを順番に再生していくというもの(4チャンネル録音の場合はプログラムは2つとなり、対応する再生機が必要)。4つ目のプログラムが終わると最初に戻り、ほっておくとずっとエンドレスで再生し続ける仕組みになっている。構造上巻き戻しは不可能、早送りも同様で、機種によってはできるものもあるようだが、いずれにしても高速ではできない。基本的に操作できるのはプログラム・チェンジだけだ。

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手間いらずのようでいて、この不自由さと大きさが、刻々と進化を遂げていったコンパクト・カセットに後々シェアを奪われる最大の要因となる。プログラムが進む前に長いブランクが発生しないよう、各プログラムの演奏時間はほぼ同じになるように編集されている。アルバム(LP)をそのまま8トラック化しようとしても、片面の演奏時間のちょうど真ん中に曲の切れ目がくることはまずないため、曲順が入れ替えられたり、中間に位置する曲がフェイド・アウト~フェイド・インで2つに泣き別れした形で収められたり、というケースが多く発生する。もっともそれはアメリカ合衆国など海外での話で、日本の場合は少し事情が異なっていた。

その日本では、ニッポン放送の系列会社として1966年10月に設立されたニッポン放送サービス(1970年にポニーと改称)が、既成のレコード会社からも音源提供を受ける形で1967年4月に「ポニーパック(PONY Pak)」の名称で販売を開始したのが最初。今のところ手元にあるカートリッジの数は微々たるものだが、当時のポニーパックが1本ある。

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山田太郎「友情のうた」(1965年9月)以外は1967年8月から10月までにリリースされたシングルおよびそのB面曲が並んでいるので、1967年11月頃の発売ではないだろうか。〈クラウン・ヤング・ヒット・パレード〉と、クラウンの音源を使用していることが売りになっている。

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同年には渡辺プロダクションと文化放送の合弁によるアポロン音楽工業も設立されている。ビクターなど旧来のレコード会社も8トラックのリリースを順次始めていったが、実際に普及が進んだのは1968年に入ってからだろう。手元にある雑誌『中南米音楽』1968年1月号には「オーディオ教室~テープ・トラック」(文:坪井謙旺)という記事があり、その中で8トラック・テープにも触れられているが、「我が国ではあまり見られませんが、カー・ステレオやBGM用に使用されています」とコメントされている。それが同誌でも3月号になると「タンゴとラテン 各社新譜リスト」に、キングから出るセルジオ・メンデス&ブラジル66の8トラックなどが他のLPに交じって掲載されるようになり、9月号には「最近はテープ界の進出がめざましく発展していますが、最近発売されたテープをリストにしてみました」として2ページにわたる単独の「各社テープ新譜リスト」が掲載されるに至った。タンゴや広義のラテンが対象なので、歌謡曲やポピュラー全般、ジャズ、クラシックと比べたら数的には微々たるものだろうが、紹介された本数をメーカー別(掲載順)、種類別に表にしてみた。

メーカー

4トラック

オープンリール

8トラック

カートリッジ

4トラック

カセット

合計

キング

2

   

2

ポリドール

2

 

1

3

東芝

1

4

 

5

ビクター

 

2

 

2

フィリップス

   

1

1

アポロン

   

2

2

エース・パック

 

3

 

3

メッカ

 

3

 

3

ポニー

 

1

 

1

合計

5

13

4

22

ここで注目すべきは2点。まず、数的には8トラックが優勢ながら、この時点で既にカセットもリリースされていたこと。実は同誌6月号には前述の坪井による「オーディオ教室~テープレコーダーの新方式――『カセット』」という記事が既に掲載されていて、この新しいメディアの将来性について語られている。文末で坪井は「一般用テープレコーダーはやがてカセットに統一される可能性が濃厚である」と書いているが、実際にその通りになるわけで、1968年の時点でこれを書いた坪井の先見の明も大したものである。もう1点は、既成のレコード会社以外に、先ほども触れたポニーやアポロン以下ミュージック・テープ専門メーカー(当時)各社の商品が登場していること。そう、これこそが海外と異なる日本の特殊事情の話に繋がってくるのだが、詳しい説明は後にして、1969年にかけてのリリース状況もみておこう。以後『中南米音楽』誌に毎月掲載されていた「各社テープ新譜リスト」は1969年5月号を最後に途絶えてしまうが、その間にはCBS・ソニーが新規に参入したり、日本ではビクターから出ていた海外RCA原盤が、日本でも同じ日本ビクター内のRCA事業部から出るようになったり(詳しくは「“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史」参照)、というような動きがあった。1968年9月号から1969年5月号までに掲載された全タイトルの合計は以下の通り。

メーカー

4トラック

オープンリール

8トラック

カートリッジ

4トラック

カセット

合計

キング

9

15

4

28

ポリドール

12

6

12

30

東芝

1

8

2

11

ビクター/RCA

2

19

2

23

フィリップス

1

1

15

17

CBS・ソニー

3

7

8

18

コロムビア

0

6

4

10

テイチク

0

2

0

2

アポロン

0

5

4

9

エース・パック

0

8

0

8

メッカ

0

15

0

15

ポニー

4

18

13

35

TDK

4

0

0

4

TBS

0

2

0

2

合計

36

112

64

212

こうしてみても、当時のトレンドは8トラックでありながら、カセットも意外と出ていたんだなということがわかる。メーカー毎のフォーマットの使い分けも様々で、単独のフォーマットでのみリリースされるもの、複数のフォーマットでリリースされるものなど様々だった。これは偶然だろうが、同じ日本ビクターでもビクター/RCAは8トラックが多く、フィリップス(日本フォノグラムとしてビクターから独立するのは1971年のこと)はカセットがメインだったりしている。

さて、ここからはメーカー/レーベルの話。上の表ではテイチクまでが既存のレコード・メーカー、アポロン以下がテープ専門メーカーとなり、それらも放送局系、オーディオ・テープ・メーカー、独立系の3つに分類できる(後にレコード制作まで手を伸ばしたところもいくつかある)。そのうち放送局系では、文化放送系のアポロン、ニッポン放送系のポニーに加え、TBS(東京放送)系のTBSサービスで制作されたものがトミー音芸制作工業から出ていた(ベルテック、クラリオンといったカー・オーディオ・メーカーからも出たようだが実態は不明)。またリスト外ではABC朝日放送系で制作音源がテイチクからレコード化もされていた朝日ミュージパック(朝日ミュージック・サービス)というのもあったが、TBSもABCも先行2つのようなシェアは築けないままに終わった。オーディオ・テープ・メーカーとしては、TDKのほかにオープンリールのみだがティアックも独自にミュージック・テープをリリースしていた(以前「キンテート・レアルによる日本の歌謡曲集」で触れたオープンリール作品『キンテート・レアル イン スタジオ』をその後入手できたので、どさくさ紛れに写真を載せておく)。

Atp2010

それ以外は独立系で、ラテン系にも積極的だった名古屋のメッカレコード・パックなど、リスト外ではJASS(日本音楽工業)、GM PAK、DELLAなどがあった。使われる音源も、独自音源を制作したり、既存のレコード会社等から提供を受けたりと、様々だった。

そう、この辺りが、基本的には既存のレコード会社がLPと同内容のものを(曲順の変更等はあるにせよ)リリースしていた海外と異なる、日本固有の特殊事情ということになる。そして既存のメーカーからリリースされたタイトルも、ザッと見渡した限り、LPとは別のラインでの編集ものや独自テーマによる企画ものの方が数としては多かったようである。

独自制作の立場から音源を確保する上で、各レコード会社と密接な協力関係を持ったラジオ局系メーカーが有利であることはある意味当然だろう。どちらかというと、コロムビアやビクター、キング、テイチクといった古参メーカーは自社で、そこから枝分かれしたクラウンやミノルフォンといった新しめの会社はポニーなどに音源を提供し、というのが当初の傾向だったようである。

そしてアポロンの場合は更に、単なる放送局系に留まらない強力なアドヴァンテージがあった。それは先に触れたように、アポロンが渡辺プロダクション(ナベプロ)と文化放送の合弁によって誕生した会社だからである。ナベプロと言えば、1961年8月20日に東芝音工からリリースされた植木等「スーダラ節」を皮切りに、原盤権ビジネスを開始したことでも知られている。それ以前の日本では、原盤権はレコード会社にあるのが慣例だったが、ナベプロは企画制作からマスターテープ作成までを手掛け、東芝はプレスから販売までを受け持ったのである。1962年10月には渡辺音楽出版も設立され、アーティスト・マネージメントから音楽出版権管理、原盤制作まで含めたトータル・プロデュースを可能にしていく。原盤の提供先は、加山雄三やザ・ドリフターズ、奥村チヨなら東芝、ザ・ピーナッツや布施明ならキング、園まりやザ・タイガースならポリドール、森進一ならビクター、ジャッキー吉川とブルー・コメッツならコロムビア(CBS・ソニー発足まではCBSレーベル)というわけだ。アポロン発足後は、当然ながらミュージック・テープはアポロンからのリリースとなるわけだが(契約先の各レコード会社からテープが発売されるケースもある)、そうした中からレコードの形では出ないテープ独自企画も生まれるようになる。

ザ・タイガースを例にとると、1967年12月13日に東京・大手町のサンケイホールで行われた『ザ・タイガース・チャリティーショー』のライヴ録音が、1968年2月にアポロンからオープンリール・テープ『ザ・タイガース・チャリティーショー実況録音テープ』としてリリースされた。その後カセット『THE TIGERS A GO! GO!』と8トラック『LET’S GO THE TIGERS』でも出たが、なんとこの3種では曲目も曲順も異なっているという。それらの収録曲を網羅し演奏順に並べ直してCD化した復刻盤が、2000年6月にポリドールから出たCD12枚組BOX『1967-1971 THE TIGERS PERFECT CD BOX MILLENNIUM EDITION』のDisc 12『The Tigers A Go! Go!』である(下はそのジャケット写真で、オープンリールのパッケージを模したデザインになっていた)。

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1968年にアポロンから8トラックとカセットで出た伊東きよ子(コロムビアからCBS・ソニーに移籍する狭間)とザ・ハプニングス・フォー(東芝)の『花のマドンナ』は2000年12月に新星堂から『オー・ガンソ』としてCD化。1970年頃に8トラックで出たザ・ハプニングス・フォーの洋楽カヴァー企画(原題不明)は1999年にWEA JAPANから『決定版!R&Bベスト16』としてCD化。このほか、ブルー・コメッツや奥村チヨのカヴァー集なども複数がCD化されている。このように、グループ・サウンズやポップス系女性歌手のテープ独自音源の復刻はある程度進んでいるのに対し、演歌系などはまったく顧みられていないのではないか。ということで、ようやくクール・ファイブの話になるのだが、この続きは次回。

2020年6月24日 (水)

8トラック・カートリッジ・プレーヤー再生への道

【6月25日:文末に重要な追記あり】

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Img20200624_00033128

先月(5月)導入したSONYの8トラック・カートリッジ・プレーヤーのTC-6(導入記はこちら)、右チャンネルは普通に音が出ていたが、左チャンネルの方はレヴェルが低く、音もこもっていて、その程度はソフトによって多少差がある感じだった。

Img_8250

いつ買ったかわからないオーディオテクニカのヘッドクリーニング液(写真左)でクリーニングは行っているが、とりあえずヘッドを消磁してみようと、消磁器を物色。またまたヤフオクでSONYのHE-3、取扱説明書付、動作確認済みというのが出品されていて、クーポンも使って1,000円ちょっとで落札できた。

Img_8242

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実際に消磁してみても、音の出方はほとんど変わらなかったが、どうせ必要なものだし、格安で買えたのはよかった。消磁器はTDKのカセットテープ型のを持っていたが、長いこと使っておらず、電池を交換しても表示ランプが付かなくなっていた。

現状のTC-6は出力が低く、まともに音が出る右チャンネルでも、アンプのヴォリュームが通常9時ぐらいの位置に対し、11時半ぐらいまで上げないと充分な音量にならず、左は更に音がまともに出ていないため、パソコン上で調整してみることにした。もともと、再生したアナログ盤をパソコンに取り込んでデジタル化するために、オーディオ・アンプのテープ入出力端子は、RMEのBabyfaceというインターフェース(A/DコンバーターとD/Aコンバーター)を経由してパソコンと繋がっている。

Img_8254

そこでBabyface用のミキサーであるTotalMix FXの出番となったわけである。当初は左チャンネルのアナログ入力のゲインを33~36dB程度、右チャンネルを27~30dB程度で様子を見た。聴感上左右のエネルギーバランスは揃ってきたが、レヴェルインジケーターはむしろ左が高め。ヴォーカルがセンターにピタッと定位せず、どうにも違和感がある。先日まとめて安く購入したカートリッジに、1本だけモノラル音源(柳家三亀松の都々逸)があったので掛けてみると、まるで疑似ステレオのよう。

Img_8253

そう、音がこもった感じがしたのは、中~高音域が出ていなかったからなのだ。そこでTotalMixのイコライザーの登場である。モノラル音源の右チャンネルの方をON/OFFしながらほぼ近い状態まで持っていったら、こんな感じになった(わかりづらいが、左チャンネルのイコライザー・カーヴに注目)。

Totalmix-fx-for-tc6

左右のゲインは結局30dBで揃えた。要するに左右の入力レヴェルは同じにして、左チャンネルの中音域以上を思い切り上げたところで、左右のバランスが取れたのである。左チャンネルだけ中高音域が出ていないのはなぜなのか。ヘッドの摩耗なのか、回路的な問題なのか。と思いつつ、ヘッドの写真を撮ってみたらすぐにピンときてしまった。

Img_8251

ヘッドの下側の右チャンネル読み取り部がほとんど無傷なのに対し、上側の左チャンネル読み取り部とその周囲は擦り傷だらけではないか。恐らくこれが原因だろう。パソコン側での増幅とイコライジングという対処療法でとりあえずはまともに聴けるようになったのだから、御の字である。

【以下 6月25日追記】

...と、ここまで書いたのが23日の夜のことだったが、ヘッドの傷がなんとかならないかと調べたりして、何の気なしに綿棒にいつものオーディオテクニカのヘッドクリーニング液を付けて、いつもよりは強めに丁寧にこすり続けてみたら、なんとこんな状態に!

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なんてこった。左チャンネル読み取り部周囲を覆って中高音域の減衰を招いていたのは、キズではなく頑固な汚れだったのだ。早速再生してみると、みごとに左右均等なバランスで音が流れだした。求めていたのはこの自然な音だ。アンプのヴォリュームを上げさえすれば、もはやコンバーターを通してイコライジングする必要はない。それにしても私はこの1か月半近く、いったい何をやっていたのだろう。

【更に6月25日夜追記】

原因と対応にたどり着くのに時間が掛かったのは、恐らく最初の時点で、実際には不十分極まりなかったがクリーニング液によるヘッド・クリーニングを一応行っていたため、汚れが原因という発想が持てなかったからだと思う。Facebookの方で、「テープの磁性体はこびりついたら頑固」というコメントをもらい、思い当たることがあった。プレーヤーの入手当初は、まだ左チャンネルの中高音域減衰は、それほどでもなかった印象もあるのだ。ヘッドの左チャンネル部分に磁性体がある程度こびりついていた状態で、それを落とせないまま再生を繰り返したことで、磁性体の更なる付着を招いたのだとすれば、おおよその流れの説明もつくように思う。ヘッドをピカピカにできたことで、音の出方が明確になり、音量も多少上がったようにも思える。あとはこの状態を保つことが大事だろう。

2020年6月 2日 (火)

8トラック・カートリッジ・プレーヤー導入とカートリッジ・テープ修復の巻

5月初旬のこと、内山田洋とクール・ファイブの『クールファイブ デラックス』という8トラック・カートリッジがヤフオクに出品されているのを見つけた。RCAではなくアポロンからリリースされていたもので、パッケージには見たことのない写真が使われていたが、曲目を見てビックリ。RCAではレコード化されていない曲が入っているではないか! それは菅原洋一がヒットさせた「知りたくないの」のカヴァーだった。

これまで8トラとはまったく無縁で、もちろん再生環境はないし、商品のコメント欄に「再生は確認していません。※ジャンクとして、宜しくお願い致します」との記載があったが、とりあえず入札し、そのまま競ることもなく800円で落札。さてどうしよう。機械をお持ちの方にデジタル化をお願いしようかと動き出しかけたが(最初に声を掛けた方にはご迷惑をお掛けしてしまった。申し訳ない)、念のためと思ってヤフオクで検索してみた。8トラの機械というとカラオケ用の仰々しいものが多いが、オーディオ・システムに繋げられるデッキ・タイプのものもいくつか出ていて、「古いSONYの8トラック ジャンク品」というのが目に留まった。たいていジャンクというと「通電のみ確認、動作未確認」というようなものがほとんどだろうが、コメント欄には「正常に音が出ます古い物ですジャンク扱いです」とあった。しかもたったの500円。もうこれは買うしかあるまいと入札し、こちらも競ることなく落札できた。

まず5月9日にクール・ファイブのカートリッジ・テープが届いた。劣化が多いというピンチローラーとパッド(スポンジ)は、とりあえず見た目では大丈夫そうだ。そして12日午前中にプレーヤーが到着。

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SONYのTC-6(呼称:カートリッジ プレーヤー8)という1968年9月発売のモデルで、ソニー初のホーム・オーディオ用再生専用機。付いているスイッチはプログラムのセレクター・ボタン1個だけ(4つのプログラムを順送りするだけ)。カートリッジの挿入で電源ON、引っこ抜けばOFFなので、電源ボタンもない。なんとシンプルなことか。ウッド・キャビネットで見た目も美しいし、ラックへの収まりも良い。

Tc6catalog

これは読みにくいが当時のカタログからの画像で、ネットから拾ったもの。ちなみにSONYから、1971年にはイジェクト機能付きのTC-7(カートリッジプレーヤーNEW 8)と録音・再生ができるデッキのTC-8000、4ch再生ができるプレーヤーのTC-8040が出ている。

カートリッジ・テープも10本おまけに付いていて、最初は「別に要らないけどな」と思っていたが、これが実はとても役に立った。付いていたのはこんなカートリッジたちだった(最終的に2本は破棄)。

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[1]『有線リクエスト・ベスト16』ジャス・オールスターズによるインスト。詳しくは後述。
[2]『ラテンヒット16』カルロス・ロメス・オーケストラによるインスト。
[3]『夜空のトランペット』ルイ・コックランなる奏者によるインスト。
[4]『心のふるさと 童謡』天地総子、松島みのりほかの唄。
[5]『世紀のビートルズ・サウンズ 1962~1966』演奏者表記なしのインスト、外箱なし。
[6] ラベル剥がれ、外箱なし→あとからザ・ベンチャーズのベスト(タイトル不明)と判明。詳しくは後述。
[7] 同上→ザ・ベンチャーズ『ゴールデン・ポップス』と判明。これも後述。
[8]『SONY 8トラック・デモンストレーション・テープ』外箱なし。恐らくプレーヤー購入時の付属品。
[9] エレクトーンによるインスト(タイトル失念)。テープ・ダメージあり破棄。
[10] くだらない内容で、聴くに堪えないため破棄。

このうち[5][6][8]の3本は、テープが切れた(正しくは繋ぎ目のセンシング箔が剥がれて離れた)状態で、端も外に出ていないため繋げられず、このままでは再生不可。[8]はピンチローラーも割れてしまっていた。とりあえず[1]と[2](現在までトラブルなし)を掛けてみて、プレーヤーは特に問題なく正常に動作することを確認。これが、おまけが付いていて役に立ったことの1つ目。プログラム1のインジケータ―は点灯しないが、これは当初からコメントに書かれていたので、問題はない。中を見たらこんな感じだった。こんなパーツどこかにあるかな。

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そして肝心のクール・ファイブを掛けようとしたが、なんと再生できないではないか。テープが回っている様子がないのだ。これは中を開けてみないといけない。開けるためには、カートリッジに貼っているラベルを綺麗に剥がして、中央あたりにあるネジを外す必要があるのだが、シールタイプのラベルではなかったので、やりかけたがうまく剥がれず汚くなってしまった。紙質を考えれば、綺麗に剥がすのは無理だともっと早く判断できたはずなのに。

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仕方なく、ラベルのネジにあたる部分と、蓋と本体に跨っている背の部分に切り込みを入れることにした。ネジは外せたが、爪が引っ掛かっているようで、蓋がうまく開かない。おまけのカートリッジそれぞれを見比べると、規格の範囲内で蓋と本体を留める爪の位置や内部の形状などがいろいろ異なったりしている。その中で[9]の形状がクール・ファイブのと同じだったため、先に[9]を開けてみて、爪がどう引っ掛かっているかを確認し、不用意に爪を割ってしまったりすることがないようにできたのだ。これがおまけが役に立った2つ目。

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開けてみて、再生できない理由がわかった。内周からテープを引き出す部分が固く巻かれた状態で引き出せず、無理に引っ張ろうとするとテープが伸びてしまう危険な状態だった。そして巻かれている途中に巻きムラと言うか辺に浮いたようになっている部分があり、あとでわかったことだが、テープが何か所も、幾重にも折り畳まれた状態になってしまっていたのだ。これは巻き直しをする以外に解決方法がない。エンドレス・テープなので、とりあえず切らずに巻き直そうとリールから不用意に外してしまった。これが大きな間違いだった。切らずに巻き直すなんてことは現実的に不可能で、一度切って繋ぎ直すしか方法はないのだが、経験則がないことは恐ろしいことだ。

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画像のようなこんな状態のあと、どんどんねじれてこんがらがり、にっちもさっちも行かなくなってしまった。元に戻す方法としては、テープの任意の場所を1か所切断し、空のリールに反対向きに一度巻いてから、元のリールにきれいに巻き直す。そして切断個所をオープンリール用のスプライシング・テープで繋ぐ。これが正しいやり方ということになる。そのために、テープの切れた不要なカートリッジをどれか開けてテープを取り出し、一時巻取り用のリール代わりにする必要があった。本当はオープンリールのデッキがあればそんなこともせず作業は楽なのだが、ないので手作業するしかない。

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とりあえずテープ切れで得体の知れない[6]の蓋を開けてテープを抜き取り、リール替わりとしたが、収拾がつかず、[9]もバラしてリールをもう1つ用意し、根気よく作業を続けるしかなかった。

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巻き直しの途中で、センシング箔の貼られたテープの本来の端の部分を発見。

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折れ曲がった部分は反対向きに巻く時に注意深く巻いたが、やはりこれだけ癖がついてしまっている。

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とりあえず何とか巻き終わった。ここまでに少なくとも8時間以上掛かってしまった。

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繋ぎ直しのために買ったスプライシング・テープはこれ。1,650円なのでプレーヤーとカートリッジ・テープを足した金額より高い! もう45年ほど前の話だが、高校時代は放送部に在籍して番組作りなどをしていたので、オープンリール・テープを切ってスプライシング・テープで繋ぐ作業自体は経験済み。

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なんやかんやで修復はなんとか終了し、蓋をして恐る恐る再生してみると…。

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音が出た! 無事に再生出来た時には、安心するやら力が抜けるやら。とにかく元に戻せてよかったと、胸をなでおろすことができた。テープが折れた箇所のドロップアウトはまあ致し方ないが、さほど酷くはなく、鑑賞に支障はなかった。テープを切って繋いだ場所も、どこだかまったく聞き分けられない。クール・ファイブのテープの中身については、次回の「クール・ファイブのレコード(9)」で詳しく紹介する予定だが、「知りたくないの」は前川清が英語で歌っていた。そしてもう1曲、森進一のカヴァー「花と蝶」がレコードとはまったく別のヴァージョンだったのも大きな発見だった。

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そしてこれは偶然なのだが、クール・ファイブ絡みで言うと、おまけのカートリッジ[1]のインスト集は編曲がチャーリー石黒で、「ベスト16」と言いながら自分が書いたクール・ファイブのシングルB面曲を入れたり、やりたい放題だったので笑ってしまった。

ここまで修復できたのだからと、テープ切れ(センシング箔剥がれ)のカートリッジも、繋いで聴いてみることにした。当初再生できていた[3][4][7]も、その後同様の状態に陥っていたのだ。これにはスプライシング・テープは使えず(繋ぐことはできるが、プログラムが自動で切り替わらない)、センシング箔の代用品を作るしかない。で、今度は安くあげようと、こちらのサイトの記事を参考に、ロッテのチョコレート(包み紙のアルミを使うため)と両面テープを買いに行った。が、ここでまた失敗。DAISOに行ったのはよかったが、間違えてアクリルフォームの厚手の両面テープを買ってしまったのだ。翌日買い直した正しいテープはこちら。

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次の写真は上が本来のセンシング箔、下が手作りの簡易センシング箔(LOTTEのロゴが見える)。

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この手作りのセンシング箔で再生とプログラム切り替えはできるようになったが(反応が鈍い時もあり、強度や耐久性にも問題はありそうなので、折を見てこちらのサイトで推奨しているアルミシートに交換した方がよさそうではある)、一部ピンチローラーに問題があり、[5]は回転ムラが出てしまうため、[10]からピンチローラーを移植。[3]はローラーの表面が削れて小さな屑が発生してしまうため、[9]から移植。[6]はパッドがボロボロだったため[3]から移し、[3]には[9]のパッドを当てた。[9][10]は破棄扱いとしたが、パーツはそのように他のカートリッジに生かされ、ケースとリールも残したので、無駄にはならなかった。ピンチローラーの割れていた[8]はケースがネジ止めではなく5か所が爪で留められていたが、この爪が固く、ケースをかなり痛めながらこじ開ける羽目に。一度は破棄しようとしたが、一応中身を確認したくて、回転ムラを覚悟で[5]のピンチローラーをはめて残すことにして再生してみたら、やはりムラは如何ともしがたかったが、手でカートリッジを押さえながらであれば、何とか聴くことはできた。

得体の知れなかった[6]をまた苦労して巻き直し(それでも作業は格段に早くなった)、再生してみたところ、いきなり「10番街の殺人」が飛び出したのでビックリ。そう、中身はベンチャーズだったのだ。調べてみたら、確かに東芝のカートリッジは基本的に邦楽が赤、洋楽が青で、リバティ・レーベルのものは黒だったようだ。私はベンチャーズのさほど熱心なファンというほどでもなく、持っているのは山下達郎が監修したCD2枚組『ベンチャーズ・フォーエバー』、オリジナルのCD化『ノック・ミー・アウト!』、それに貰い物の「ハワイ・ファイヴ・オー/スパイ大作戦」のシングルぐらいだったので、なんとか曲目を調べてみた。国立国会図書館に行って東芝の年度別総カタログか「テープ・マンスリー」を見れば一発でタイトルや番号までわかるのだが、今は行ける状況ではないので仕方がない。まだ全曲はわからないが、こんな感じ。

Program I
1. 10番街の殺人
2.
3. ブルドッグ
4. ペネトレーション
5. モア
Program II
1. ウォーク・ドント・ラン'64
2. テルスター
3. バンブル・ビー・ツイスト
4.
5.
Program III
1. パイプライン
2. 木の葉の子守唄
3. マンデー・マンデー
4.
5.
Program IV
1. ハワイ・ファイヴ・オー
2.
3. アウト・オブ・リミッツ
4. 日曜はダメよ
5. エスケイプ

そして[7]もベンチャーズだった。「京都の恋」から始まり「京都慕情」に終わるという流れで、歌謡曲のカヴァーが多くを占める。こちらも調べてみたら、どうも1970年のアルバム『ゴールデン・ポップス』のようだ。最初にその曲目を見て、「京都慕情」がないと思ったが、この曲は当初は「パレスの夜」という題だった。ただ、入っているはずの「真夜中のギター」(オリジナルは千賀かほる)がない。結局この曲は、1967年の『ポップス・イン・ジャパン』に収録されていた「涙のギター」(オリジナルは寺内タケシとブルー・ジーンズ、でいいのかな?)と差し替えられていたことが判明。これは曲名が似通っていたが故のミスなのか、あるいは意図的なものなのか? 曲目・曲順は以下の通り(曲名のわからないオリジナル2曲は、ネット上の画像などで確認できた演奏時間をもとに判断)。

Program I
1. 京都の恋 Kyoto Doll
2. 何故に二人はここに Why
3. 涙のギター Sentimental Guitar
Program II
1. 夜明けのスキャット Scat In The Dark
2. 或る日突然 Suddenly Someday
3. 禁じられた恋 Forbidden Love
Program III
1. 時には母のない子のように Sometimes I Feel Longing For A Motherless Child
2. この道を歩こう On A Narrow Street(オリジナル)
3. さすらいの心 The Wanderer(オリジナル)
Program IV
1. いいじゃないの幸せならば Why Do You Mind
2. 別れた人と Wakareta-Hito-To
3. パレスの夜(京都慕情) Reflections In A Place Lake

これがなかなか気に入ってしまった。「或る日突然」あたりのアレンジも良いし、オリジナル2曲も素晴らしい。苦労して繋いだ甲斐があったというものだ。

2020年5月30日 (土)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(8)~アルバム『夜のバラード』

前回ご紹介した内山田洋とクール・ファイブ4枚目のシングル「愛の旅路を/夜毎の誘惑」リリースと同じタイミングで、2枚目のアルバム『夜のバラード』がリリースされた。

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・アルバム02(カヴァー・アルバム01)

夜のバラード
RCA JRS-7075 1970年4月5日リリース

Side 1
1) 夜霧よ今夜もありがとう
浜口庫之助 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

2) 女の意地
鈴木道明 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

3) 京都の夜
秋田 圭 作詞/中島安敏 作曲/森岡賢一郎 編曲

4) ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー
鈴木道明 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

5) ひとり酒場で
吉川静夫 作詞/猪俣公章 作曲/森岡賢一郎 編曲

6) 霧にむせぶ夜
丹古晴巳 作詞/鈴木 淳 作曲/森岡賢一郎 編曲

Side 2
1) 港町ブルース
深津武志 作詞・なかにし礼 補作/猪俣公章 作曲/森岡賢一郎 編曲

2) 夢は夜ひらく
中村泰士 作詞/曽根幸明 作曲/森岡賢一郎 編曲

3) 赤坂の夜は更けて
鈴木道明 作詞・作曲/森岡賢一郎 編曲

4) 夜霧の第二国道
宮川哲夫 作詞/吉田 正 作曲/森岡賢一郎 編曲

5) 池袋の夜
吉川静夫 作詞/渡久地政信 作曲/森岡賢一郎 編曲

6) グッド・ナイト・ベイビー
ひろ・まなみ 作詞/むつ・ひろし 作曲/森岡賢一郎 編曲

内山田洋とクール・ファイブ 唄/前川 清
Side 1(4) 唄/内山田洋
Side 2(6) 唄/小林正樹

ゲートフォールド(見開き)ジャケットで前川清の二つ折りポスター(写真提供:週刊「明星」)付。

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ジャケット内側には浅井英雄のライナーと歌詞、前月リリースの藤圭子のファーストなどRCAのアルバム3点のカタログが掲載されていて、そこでは彼らのファースト・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』が『魅惑のコーラス/内山田洋とクール・ファイブ』というタイトルで紹介されている(以後のアルバムのカタログ部分でも同様)。ファースト・アルバムそれ自体には『魅惑のコーラス』などという表記は一切見当たらないのだが。

また、本作のジャケットには紺がベースのものと白のものと2パターンあり、紺の方が初回盤だが、違いは色だけではない。

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紺盤ではジャケット内側のアーティスト表記が誤って「内山田洋とクール・フィブ」となっていたのが白盤で訂正され、

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歌詞カードも「港町ブルース」と「夢は夜ひらく」が実際に歌われている通りに改められた(詳細は曲目解説にて)。

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ファーストがオリジナル作品集だったのに対し、曲目をみればわかるように、本作はすべてカヴァーで構成されている。クール・ファイブのアルバムはこれ以降、基本的にオリジナル・アルバムとカヴァー・アルバム(とライヴ・アルバム)に分けてリリースされていく。

この中では、鈴木道明(どうめい、1920年11月12日東京生まれ、2015年12月23日没)の作詞・作曲作品が3曲取り上げられているのが目につく。発表順に行くとまず「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」。この曲と作者の鈴木については、音楽評論家の安倍寧が名古屋テレビ広報誌『若い11』1966年3月号に寄稿した文章(同年の著書『流行歌の世界』に再録)をご本人がブログ『好奇心をポケットに入れて』に転載されていたので、是非そちらもお読みいただきたい。以下はそこからの引用である。

昭和三十七年(1962年)のことである。
ひとり暮しだった鈴木道明氏は、日曜日だというのに愛車をガレージから引き出して食事に出掛けた。小雨がけぶる夕暮れどきで、フロント・グラスのワイパーが、忙しく動いていた。
「ちょうど表参道あたりだったかな。日曜日だけど、ゆきつけのレストランは、やってるかなと思いながらハンドルを握っていると、あのメロディーが、自然に湧いてきたんだ。もちろん、歌詞といっしょにね」

安倍によれば、東京放送(TBS)のテレビ・ディレクターでとりわけジャズに造詣の深い鈴木が、自身の手掛ける番組の中で“あまり有名でない”ジャズ歌手の水島照子にこの曲を歌わせたところ、各社からレコード化の依頼が殺到したとのこと。ちなみに水島の歌った録音は江崎実生監督、石原裕次郎主演の日活映画『黒い海峡』(1964年12月31日公開)の挿入歌として使われているはずだが、この音源はレコード化されておらず、DVDは出ているものの筆者は内容を確認できていない。各社競作となったこの曲は、1965年1月に日野てる子(ポリドール、編曲は前田憲男)と越路吹雪(東芝、編曲は藤家虹二、演奏は藤家虹二セクステット)、2月に和田弘とマヒナ・スターズ(ビクター、編曲は和田弘)とアイ・ジョージ(テイチク、編曲は中川昌、演奏は永尾公弘とノーカウンツ・オーケストラ)、3月にブレンダ・リー(テイチクのデッカ・レーベル、日本語ヴァージョンと英語ヴァージョンのカップリング、編曲者クレジットなし)とリリースが相次いだ。

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それぞれ歌はもとよりアレンジにも大いに趣向が凝らされていて、聴き比べも楽しいが、どう料理されても映えるメロディの良さは特筆すべきもの。ところがこの曲(日本語)には2種類のまったく異なる歌詞がついている。歌い出しはそれぞれこんな感じだ。

タイプA)
ワン・レイニーナイト・イン・トーキョー
濡れた舗道には
ゆれる灯(ともしび)が
何故か切なくて

タイプB)
小雨降る夜は
なぜか淋しくて
しんみりあなたと
お話ししたいの

英語)
One rainy night in Tokyo
One lonely boy  no place to go
One lovely girl  raindrops in hair
Two people meet  they make a pair

ジェフリー・セルドンとメンディ・ブラウンによる英語詞の元にもなったタイプAを歌っているのは日野、アイ・ジョージ(一番が英語、二番がタイプAの一番)、ブレンダ・リー、青江三奈(ビクター、アルバム『グッド・ナイト』、1969年、編曲は寺岡真三)、石原裕次郎(テイチク、アルバム『石原裕次郎 女心を歌う』、1972年12月、編曲は山倉たかし)など。タイプBは越路、マヒナ、西田佐知子(ポリドール、アルバム『愛ひとすじに』、1971年11月、編曲は広瀬雅一)など。時代を経て、2010年代になってから八代亜紀(タイプA、アルバム『夜のアルバム』、2012年12月)川上大輔(タイプB、アルバム『ベサメムーチョ~美しき恋唄』、2013年3月)、なかの綾(タイプA、アルバム『わるいくせ』、2014年9月)と話題作への収録が相次いだのも興味深い。

クール・ファイブはタイプBで、コーラス・ハーモニーを生かした森岡のジャジーなアレンジもいいが、リード・ヴォーカルを前川清ではなく内山田洋が担当し、ちょっとノスタルジックな響きのクルーナー・ヴォイスを披露しているのが最大のポイント。彼らは1974年8月18日に東京のロイヤル赤坂で録音されたライヴ・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ・リサイタル』の中でも、東京をテーマにした3曲メドレーの中で「ラブ・ユー東京」と「ウナ・セラ・ディ東京」に挟まれる形でこの曲(表記は「ワン・レイニ・ナイト・イン・トウキョウ」)を1コーラスのみ披露しているが、そこでは前川清がタイプAの歌詞の方を歌っているのが面白い。

ところでこの曲はハリー・ウォーレン作曲の映画『ムーラン・ルージュ』(1934年)主題歌「夢破れし並木道(Boulevard of Broken Dreams)」に類似しているとして、鈴木と日音がアメリカの音楽出版社、レミック・ミュージック・コーポレーションから訴えられた。最終的に最高裁まで争われたが、「偶然の暗合」は著作権侵害にはならないとして1978年に上告は棄却された。確かに原曲を聴いたときには、メロディーが「まぁ似てるかな」と思った程度だったが、ある人から教えられてアート・テイタムによるソロ・ピアノ演奏(恐らく1959年のアルバム『More Of The Greatest Piano Of Them All』収録)を聴いてみたら、ほとんど同じ曲としか思えなかったので、念のため書き添えておく。

「女の意地」も鈴木の代表作のひとつで、西田佐知子のヒット曲としてよく知られているが、実はオリジナルはマヒナ・スターズで、1965年9月に「女の恋ははかなくて」のタイトルでリリースされている(編曲は寺岡真三。歌詞は後の「女の意地」とまったく同じ)。そしてそのカップリングがやはり鈴木作の「赤坂の夜は更けて」(編曲は和田)だった。この2曲が生まれた経緯についても前述の安倍の文章から引用しておく。

「赤坂の夜は更けて」は、夜の赤坂界隈のものうい雰囲気を伝えてあまりある曲だが、氏の頭にこのメロディーが浮かんだのは、仕事があって会社のデスクにおそくまで残っていたときだったという。(いうまでもなく東京放送は赤坂・一ツ木通りにある)
「会社を出たとき、時計を見たら十一時十五分だった。銀座で一杯やりたいけれど、十一時半がカンバンの銀座にゆくには、時間がない。どうしようかなと思いまどっているときに、でてきたんだ」
マヒナ・スターズのヒット曲、「女の恋ははかなくて」を作ったときも、会社でおそくまで残業していたときだった。人気のない部屋に、ひとりぽつんといると、たぶん「東芝日曜劇場」カメリハでも終わったのだろう、池内淳子が石井ふく子プロデューサーといっしょに入ってきた。
深夜、編成局の片隅から、いくぶん疲れの見える池内淳子を暼見したとしたら、道明氏でなくても「柳沢真一との結婚生活に破れてからの彼女は、しあわせなのだろうか。仕事はうまくいっているけれども、私生活では幸福なんだろうか」と思わずにいられないだろう。「女の恋は」のモデルが池内だというのではないが、深夜、垣間見た彼女に触発されて、この歌ができたことだけは、間違いないようである。

西田はマヒナのシングルにあった2曲のAB面を入れ替え、B面のタイトルを「女の意地」として1965年10月5日にリリース(編曲は2曲とも川上義彦)。「赤坂の夜は更けて」は同時期に島倉千代子もコロムビアから出しているが、売れたのは西田の方だった。鈴木の描く都会的な雰囲気と、西田のクールな歌唱は相性もピッタリだった。「女の意地」は最初B面だったものの、西田のお気に入りとなり、彼女は大切に歌い続けていた。そんなこともあって、クール・ファイブも2曲とも取り上げることにしたのだろうが、この『夜のバラード』リリースから半年後の1970年10月5日、3枚目のシングルで「女の意地」を取り上げたのが、1972年に「バス・ストップ」をヒットさせることになる平(たいら)浩二である(編曲は有明春樹)。佐世保出身で前川清とは小・中学校で同級生だった平にとって、このカヴァーが初のヒット(オリコン42位)となった。この動きに刺激されてか、西田もオケはそのまま歌を録音し直したシングルを12月1日にリリース、改めて大ヒットとなった(オリコン7位)。当初この『夜のバラード』からシングルは切られなかったが、リリースから1年近く経過した1971年2月25日になって「女の意地」がクール・ファイブ8枚目のシングルとしてカットされたのには、そんな事情もあったのである(オリコン43位)。

歌われた歌手とヴァリエーションの多さで群を抜くのが「夢は夜ひらく」だろう。私もすべては把握できていないし、リストアップするだけで膨大な量になってしまうため、ここでは簡単な紹介に留めておく。作曲したのは曽根幸明(1933年12月28日世田谷生まれ、2017年4月20日没)。未成年の時に事件を起こし、東京少年鑑別所(通称:ネリカン)に9か月間収監されていた時、シャバにあこがれてふと口をついて出て来たのが、あのメロディーとこんな歌詞だった。

いやな看守に にらまれて
朝も早よから ふきそうじ
作業終わって 夜がくりゃ
夢は夜ひらく

曽根は1959年に藤田功の芸名で歌手デビューしたが売れず、1966年に藤原伸として再デビューするが、そのデビュー曲「ひとりぽっちの唄」とは、ネリカンで作ったあの曲だった。自身で新たな詞を付け、作詞家としては川上貞次を名乗った。「ひとりぽっちの唄」は高橋英樹と和泉雅子主演の日活映画『男の紋章 竜虎無情』(1966年1月14日公開)の主題歌に起用されたが、やはり売れなかった。そんなこの曲に目を付けたのが当時ポリドールのディレクターだった(のちに音楽プロデューサー)松村慶子で、担当していた園まりにこの曲を歌わせることにした。新たな歌詞を中村泰士と富田清吾が書き、最初の歌詞にあった「夢は夜ひらく」をタイトルにして意匠替え。1966年9月にリリースされた園のレコード(作曲クレジットに曽根の名はなく、「中村泰士 採譜補曲」となっている)は大ヒットとなり、たちまち何組かの歌手との競作となったが、みんなそれぞれ違う歌詞を歌っている。組み合わせを見てみると、緑川アコ(クラウン、デビュー盤)が水島哲作詞、バーブ佐竹(キング)が藤間哲郎作詞、梅宮辰夫(テイチク)が志賀大介作詞、という塩梅である。芸名を藤田功に戻した曽根自身も愛真知子とのデュエットの形でリリースしたが(テイチク)、こちらの作詞は大高ひさをである。

独自詞によるインパクトといえば、やはり石坂まさをが作詞した藤圭子(RCA)の「圭子の夢は夜ひらく」にとどめを刺すだろう。このシングルの発売は『夜のバラード』と同日の1970年4月5日で、前月の3月5日リリースの藤のデビュー・アルバム『新宿の女/“演歌の星”藤 圭子のすべて』にも「夢は夜ひらく」として収録されていたが、実は1969年9月に彼女が「新宿の女」でデビューする時点で既にこの曲は用意済だったという。最初にバンと売れてしまって失速しないよう、シングルのリリース・スケジュールは「新宿の女」~「女のブルース」~「圭子の夢は夜ひらく」と周到に計算されていたというのである。

このような独自の歌詞によるリリースは主にシングルの場合で、アルバムにカヴァー曲として収録する場合は、誰かのヴァージョンを歌うというパターンが多かったはず。クール・ファイブもここでは園まり版に準じた内容で歌っているが、歌詞が六番まであるうち、歌われているのは一、三、五、六番のみである。ところが、紺盤の時点ではジャケット内側に一、二、三番の歌詞が掲載されてしまったため、白盤で改められた。一方、作詞は中村・富田の2名のはずだが、白盤では富田の名前が消えてしまった(レーベル面は最初から中村の名前しかない)。

以上4曲の解説に手間取ってしまったので、あとはさらっと流していく。オープニングを飾る「夜霧よ今夜もありがとう」(本来のタイトルは「夜霧よ今夜も有難う」)は1967年2月にテイチクからリリースされた石原裕次郎の代表曲のひとつ。浅丘ルリ子と共演した3月公開の同名日活映画(1942年の米映画『カサブランカ』の翻案。監督は前述の『黒い海峡』同様江崎実生)主題歌として、浜口庫之助が作詞・作曲した(編曲:山倉たかし)。

「京都の夜」は、京都府出身の愛田健二のセカンド・シングルとして1967年6月にポリドールからリリースされ、ヒットを記録した(編曲:川上義彦)。作曲の中島安敏は、エミー・ジャクソン「涙の太陽」や黛ジュン「霧のかなたに」など主にポップス系の作品で知られる。作詞の秋田圭の他の作品については調べがつかなかった。“馬鹿だなぁ”で始まる間奏の語りの部分は省略されているが歌詞カードには載っていて、これは白盤でも訂正されなかった。

猪俣公章が作曲した森進一(ビクター)のヒット曲が2曲。「ひとり酒場で」は1968年7月にリリースされた10枚目のシングルで、森にとって初のワルツだった。そして「年上の女」を挟んで1969年4月にリリースされた「港町ブルース」は100万枚を超え、最大のヒットとなった。雑誌「平凡」同年2月号で歌詞が一般公募され、優秀作として選ばれた7人(一番を書いた深津武志が全員を代表して作詞者としてクレジットされた)の書いた歌詞をなかにし礼が再構成した。それまで森の歌う猪俣作品はすべて猪俣自身がアレンジしていたが、この曲では初めて森岡賢一郎が担当し、どちらかといえばストイックな猪俣アレンジに対し、カラフルでスケールの大きな作品に仕上げた。『夜のバラード』に選ばれ森岡がアレンジした12曲の内、原曲も森岡が編曲を手掛けていた唯一の曲で、もちろんクール・ファイブ向きにコーラス・パートなども加えて独自の色に染め上げているが、アレンジの完成度ではさすがに森のオリジナルに分があるだろうか。ちなみにここでは歌詞が六番まであるうち三番と四番は歌われていないが、紺盤では歌詞カードにすべて掲載され、「※印のみ唄っています」と一、二、五、六番の頭に印が付いていた。白盤では実際に歌われている部分のみの掲載に改められたが、この注釈が意味なく残ってしまっていた。ところでこのアルバムのあと、森岡は森のアルバム用に「港町ブルース」の新アレンジを2度も書いている。

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1970年7月5日リリースの『森進一のブルース』にはクール・ジャズ風。

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1974年7月25日リリースの『森進一グランド・デラックス』にはカントリー・ロック風と、それぞれ趣が異なるテイストに仕上げていて面白い。

「霧にむせぶ夜」は1968年4月にリリースされた黒木憲(東芝)のセカンド・シングル(編曲:湯野カオル)で、オリコン第3位を記録し、彼の代名詞となった。作曲の鈴木淳は、後にクール・ファイブに7枚目のシングルとなる「すべてを愛して」を提供することになる。

フランク永井の「夜霧の第二国道」(ビクター)は作品としては最も古く、1957年10月にSP盤(78回転)およびドーナツ盤(45回転)でリリースされている(編曲:寺岡真三。ステレオ再録音は1962年1月の10インチLP『ステレオ・魅惑の低音傑作集』に収録)。1か月後にリリースされた「有楽町で逢いましょう」と並び、ジャズを愛する豊かな“魅惑の低音”の持ち主である永井と、洗練されたメロディーを編み出すことに長けた吉田正の出会いによって生まれた、都会派ムード歌謡の先駆的傑作。第二国道とは、国道1号線のうち、品川区西五反田から横浜市神奈川区までを走る第二京浜のことだそうだ。

「池袋の夜」は青江三奈(ビクター)の16枚目のシングルとして1969年7月にリリースされ(編曲:寺岡真三)、「伊勢佐木町ブルース」や「長崎ブルース」を凌ぐ彼女最大のヒットとなった。作曲の渡久地政信は沖縄出身。

ここまではすべてソロ歌手のヒット曲が並んだが、それぞれをクール・ファイブ流にうまくアレンジし、表現してきている。厳密にいえばマヒナ・スターズがオリジナルの鈴木作品も2曲あったが、そもそもマヒナとクールではヴォーカル・パートの組み立て方がまったく異なるので、そのまま置き換えるということはありえない。そして他のグループのヒット曲を取り上げた唯一の曲が、最後を飾るザ・キング・トーンズの「グッド・ナイト・ベイビー」ということになる。リーダーの内田正人を中心に1960年からステージ活動を続けてきた彼らは、1968年5月にポリドールからこの曲でデビューし、1969年3月まで掛かってオリコン第2位まで押し上げている。作曲のむつ・ひろしとはポリドールで担当ディレクターだった松村孝司のペンネームで、作詞のひろ・まなみは後に大日向俊子として野口五郎や和田アキ子に多くの作品を提供することになる。キング・トーンズは直接的にドゥ・ワップ・スタイルを取り入れていて、この曲にも当然ながらそのエッセンスは十二分に盛り込まれている。一方クール・ファイブにおいて通常、ドゥ・ワップ的な要素は隠し味的なものに留まっているが、この曲ではファルセット担当の小林正樹を(いささか不安定ながら)リード・ヴォーカルに据えることで、普段とは違う色合いを出そうとしているのがよくわかる。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年4月13日 (月)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(7)~シングル「愛の旅路を/夜毎の誘惑」

大ヒットとなった「逢わずに愛して」に続く、内山田洋とクール・ファイブ4枚目のシングルは、「噂の女」ではなく、この曲だった。

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●  シングル04

A) 愛の旅路を
山口あかり 作詞/藤本卓也 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 夜毎の誘惑
山口あかり 作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1075 1970年4月5日発売

かねてからの話の通り、彩木雅夫の手を離れて初のシングルとなった第4弾「愛の旅路を」では、作曲に藤本卓也が起用された。1990年代には評論家の湯浅学、漫画家の根本敬ら「幻の名盤解放同盟」により再評価され、“夜のワーグナー”の称号も付けられた藤本(本名:柚木公一)は、1940年生まれ。生地について、湯浅は藤本の歌手としての初アルバム『相棒』(1996年)のライナーで「中国の大蓮」(大連―中国語表記では大连―の間違い?)としているが、安田謙一は『昭和歌謡職業作曲家ガイド』(馬飼野元宏監修、2018年)で北海道としている。

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1958年4月に、この時は本名で、岡田朝光とザ・キャラバンというロカビリー・バンドの歌手としてデビュー。ちなみにザ・キャラバンは1967年になってザ・ヴァン・ドッグスというGSバンドとしてユニオン(テイチク)からデビューするが、そのサード・シングル「雪国の誓い」(1968年2月5日発売)の作曲は新居一芳(=彩木雅夫)だった。藤本がまだ柚木公一を名乗っていた1962年秋には、第5回で紹介したゴールデン・ヴェール=由木まなみが波多マユミ時代に参加していたのと同じオムニバス『カッコイイ10人 ―東京ジャズ喫茶めぐり―』に参加し、クラリネット奏者アッカー・ビルクの「白い渚のブルース」(もとはインスト曲で、ヴォーカル版はドリフターズなど)をカヴァーしているが(編曲のチャーリー石黒ともここで繋がる)、これが初レコーディングだったということだ。その後作家に転じ、1965年にはザ・キャラバンが伴奏を受け持つなどしていた紀本ヨシオに「だから泣かないで」(『相棒』にセルフ・カヴァーを収録)を提供。これは作詞・作曲のみだったが、以降は紀本や他の歌手への提供作品の多くで編曲まで手掛けるようになる。

カルト的な名作・迷作も数多いが、藤本と言えばやはり矢吹健だろう。藤本に弟子入りしてきた矢吹に書いたデビュー曲「あなたのブルース」(1968年6月5日発売)はヒットし、第10回日本レコード大賞で新人賞を獲得。作詞・作曲・編曲ともに藤本によるもので、矢吹の刹那的な歌唱、女声ソプラノのハミングも効果的なアレンジともあいまって、強烈な世界観が表現されていた。

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これは「あなたのブルース」「蒸発のブルース」から山口洋子=筒美京平作品「他人のままで」までを収録した1970年のベスト盤。なお、クール・ファイブは後のカヴァー企画アルバムで、矢吹の歌った藤本作品から「あなたのブルース」「私にだって」を取り上げている。

「愛の旅路を」では藤本は作曲のみで、作詞には山口あかり(本名:山崎裕世、1934年05月26日長野県上田市生まれ、2007年05月10日没)が起用された。山口は平尾昌晃とコンビを組んで、じゅん&ネネ「愛するってこわい」(1968年7月1日発売)、伊東ゆかり「知らなかったの」(1969年2月1日発売)などをヒットさせている。クール・ファイブ人脈関連では、森進一「おんな」(1969年7月25日発売)が山口作詞/城美好(=石黒)作曲/森岡賢一郎編曲というラインナップだったので、彼女の起用にはそこからの流れもあったのかも知れない。山口=藤本コンビの作品は、恐らく「愛の旅路を」が唯一。サビの「♪あなたと あなーたぁーとー」の部分は、「あなたのブルース」を意識している? 編曲は森岡賢一郎で、藤本作詞・作曲、森岡編曲という組み合わせでは過去に早坂紘子「こんな筈では」(1967年)というのがあったとのことだが、残念ながら未聴。

ロマンチックなロッカバラードの「愛の旅路を」では、前川清のヴォーカルと分厚めのバック・コーラスとのコンビネーションも良く、江藤勲と思われるゴリゴリのベースと森岡お得意の美しいストリングスとの対比もまた見事で、オリコンでは第4位を記録。藤本作品では最高のチャート・アクションを示したが、彼の代表作というと「あなたのブルース」や1972年に五木ひろしに続けて提供したソウル~グルーヴ歌謡の傑作「待っている女」「夜汽車の女」(いずれも作詞は山口洋子、編曲は藤本)ばかりが挙がり、「愛の旅路を」はやや忘れられた形だ。まとまりが良い分、歌謡マニアが彼の作品に求める(?)情念というか凄みのようなものが弱いせいだろうか。

カップリングの「夜毎の誘惑」は山口=城=森岡という組み合わせ(つまり前述の森「おんな」と同じ)による佳曲で、「一度だけなら」に近いリズムの、シャッフルするワルツ。城はこれでシングルB面に4作連続で作品を提供したことになる。シングル両面とも、後にアルバム『内山田洋とクール・ファイブ 第2集』に収録される。

このシングルから歌詞カードの末尾に(ディレクター 山田 競)というクレジットが掲載されるようになった。元和田弘とマヒナ・スターズの山田哲也は、この時点では後の競生(きそお)ではなく競(きそう)を名乗っていたことになる。

なお余談だが、1970年になってRCAのカンパニー・スリーヴに登場するアーティストの顔ぶれが入れ替わった。日本ビクター内にRCAレーベルが設立された1968年10月25日以降、邦楽部門から掲載されていたのは、第1回リリース組だったザ・リード、新藤恵美、ザ・ブルーインパルス、和田アキ子の4組である(写真下)。

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クール・ファイブではこの「愛の旅路を」から使用されたはずの新スリーヴでは、その4組の中で和田のみが生き残り、1969年にデビューした内山田洋とクール・ファイブ、森田健作、藤圭子、シング・アウト、北野ルミ(デビュー順)と併せて6組が掲載され、洋楽の方も一部入れ替えが行われた。

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このスリーヴが使われたのは1971年夏ぐらいまでで(クール・ファイブでは7月25日発売の「港の別れ唄」まで)、以降はRCAのロゴのみのデザインとなる。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年3月16日 (月)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(6)~シングル「逢わずに愛して/捨ててやりたい」

デビュー・アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』リリースの1か月後、内山田洋とクール・ファイブのシングル第3弾として、「逢わずに愛して」がアルバムからシングル・カットされる。

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● シングル03

A) 逢わずに愛して
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 捨ててやりたい
川内康範 作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1045 1969年12月5日発売

第4回の「一度だけなら」の項でも軽く触れたとおり、内山田洋は1978年12月リリースのメンバー自選ベスト『<スター・マイ・セレクション・シリーズ> 内山田洋とクール・ファイブ』のライナーでこの曲についてこう書いている。

実は、その当時シングル盤の候補曲が10数曲あり何度か熱っぽく討議を重ねた結果発売されたのがこの曲です。翌(昭和)45年シングル・カットされ大ヒットとなった「噂の女」と同じRCAレーベルの野村真樹君のデビュー・ヒットとなった「一度だけなら」が、その時の最終的に残った競争相手です。

一方、やはり第4回でも触れたとおり、RCAの山田競生は、3枚目のシングルまでは彩木雅夫に書いてもらう約束になっていたと言う。第2弾の「わかれ雨」を「あんな曲」と切り捨てた山田は、「逢わずに愛して」が届いた時のことをこう振り返る。「彩木さんが、曲ができたと喜び勇んで北海道から出て来たんです。その譜面を見た瞬間、ホッとしましたよ。彩木さんと会うについては、私は腹に晒を巻いている気持ちだったんですから。もし駄目な曲なら、身体を張っても、とさえ思っていたんですから。これで彩木さんと揉めずにすんだと、ホッとしました」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)。そして彩木は山田に対し、自分の匂いが付かないよう、これからは他の人に書いてもらうように、自分は2年後にまた書かせてもらうから、と告げたとのことだ。

1か月の違いではあるが、「逢わずに愛して」がシングルに先んじてアルバムに収録されたということは、アルバムのための曲集めと、次のシングルの準備が、だいたい同時進行で進められていたということになるのだろう。そして、シングル化に際しては、アルバムに収められたヴァージョンに手が加えられた。

まず、テナー・サックスとヴォーカルが差し替えられている。イントロ1発目のサックス、わかりやすくキーをCで表現してみると、アルバムでは

 ミミーーー ドドレミソソーーー

だったのが、シングルでは

 ミーーーー ドドレミソーーーー

と、音を伸ばしている。なので、頭の部分を聴くだけで、どちらのヴァージョンかは判断しやすい。音楽的な必然というよりは、区別をわかりやすくするための処理、という気もしないでもない。

そして前川清のヴォーカル。5枚目のシングルとなる「噂の女」でもヴォーカルは録り直され、かなり歌い方を変えることになるが、ここではさほどの目立ったニュアンスの違いはなく、よく聴かないとわからない程度。違いを感じやすい箇所としては、サビの

 あゝ 永久にちりばめ

の終わり方が挙げられる。アルバムでは「め」をそのまま短めに伸ばし、あっさり切っているが、シングルでは最後をやや丸めるような感じにしている。

ミックスもいじられ、イントロから歌に入る直前のサックスの後ろの「♪あー あー あー」というコーラスと、「♪夢の夢のかけらを」の所で左チャンネルに入るタンバリンの音量が上げられているが、この処理は正解。

かくして12月5日にリリースされた「逢わずに愛して」は、20日間で30万枚近くも売れたとのことだ。クール・ファイブを代表するシングルと言えばまず「長崎は今日も雨だった」、次いで「そして、神戸」「東京砂漠」が挙げられ、「噂の女」あたりがそれに続くのだろうが、売り上げという意味ではオリコン調べで69.9万枚、メーカー発表(1975年1月現在)で96.3万枚と、この曲が全シングル中の第2位であり、なによりも唯一のオリコン・シングル・チャート第1位獲得曲でもある。

確かに「わかれ雨」と比べて曲のイメージは明快で、グループとして安定した活動を続けていく上でも重要なヒット曲となった。山田は語る。「<長崎は今日も雨だった>でクール・ファイブに向きかけたお客が、<わかれ雨>でそっぽを向いちゃった状況の中で、こうした売れ方をしたことは、他人事のようないい方ですけど、とにかく不思議な現象でした」(前掲書)

更に、この曲を語る上で欠かせない重要な要素がもう一つ、その直情的な歌詞にある。

作詞は川内康範(かわうち・こうはん、本名:川内潔、1920年2月26日函館市生まれ、2008年4月6日没)。履歴書に堂々と記した通りの高等小学校卒。家庭環境故ではなく、自分の意志で中学には進まず独学を貫き、職を転々とした後、作家を目指して17歳で無一文で上京。苦労の末に日活撮影所に入り、その後東宝の演劇部へ。海軍に応召するが太平洋戦争開戦直前に病気理由で除隊。その後散っていった戦友たちへの思いが、戦後自費で10年間続けた海外戦没者遺骨収集活動に繋がっているという。1941年には文芸誌に作品が掲載され、作家デビューを果たす。戦後は、恋愛ものなどの小説や映画の原作・脚本などを多く手掛けるが、代表作はテレビドラマの草分けでもある『月光仮面』だろう。極めて低予算で制約も大きかったが、輸入ものに頼らない国産のヒーローものを作りたいというスタッフたちの強い意志のもと、大道具や照明の経験も豊富な川内はそれに見合った脚本を書き、主題歌2曲も作詞した。なお、番組を制作した宣弘社の社員募集に応じてきた若者の中には、後の作詞家・阿久悠もいた。「憎むな、殺すな、赦しましょう」がキャッチフレーズの『月光仮面』は、1958年2月からラジオ東京テレビ(KRT、後のTBS)で放映が開始され、電気店の店頭のテレビに子どもたちが群がる人気番組となった。ところが、子どもたちが月光仮面の真似をして高所から飛び降りては怪我をする事故が続いて、PTAや良識派からの反発を招き、番組は1959年7月で打ち切りとなった。

川内が作詞家としても本格的に活動を開始したのはその後のこと。出世作となった「誰よりも君を愛す」は、月刊『明星』に1958年から連載中だった同名の小説をもとにしたもので、ビクターの磯部健雄ディレクターと作曲した吉田正からの求めに応じ、小説のエッセンスを歌詞にまとめた。当初は和田弘とマヒナ・スターズのみでレコーディングの予定だったが、新宿のクラブ歌手だった松尾和子の歌を聴いて惚れ込んだ川内が強く推薦し、マヒナと松尾の共演となったシングルは1959年12月にリリース。目論見通りに大ヒットとなり、1960年の第2回レコード大賞を受賞した。

「恍惚のブルース」(作曲:浜口庫之助)は『週刊現代』に連載していた『恍惚』がベースとなっている。やはりクラブで歌っているところを川内に発掘され、この曲で1966年5月30日にビクターからデビューした青江三奈は、その芸名自体が『恍惚』のヒロインの名前から採られている。川内は以降も、1968年の第10回日本レコード大賞・歌唱賞を受賞した「伊勢佐木町ブルース」(作曲:鈴木庸一)を含む、1968年春までの彼女のシングルの大半を作詞している。

そのほか、1966年1月東芝から再デビューの城卓也(実力はありながらテイチクで低迷していた歌手、菊地正夫にこの新しい芸名を授けたのも川内)「骨まで愛して」(当時の妻の川内和子名義。作曲:文れいじ―城卓也の兄、北原じゅんの別名―)は『女性自身』に、才能を持て余して借金とスキャンダルまみれだった水原弘にとって起死回生作となった1967年2月の「君こそわが命」(作曲:猪俣公章)は『アサヒ芸能』に、それぞれ連載していた小説がもとになっている。

そして森進一。川内は森の芸能活動の様々な局面でバックアップ役を務めるほど、繋がりは深かった。森が歌った川内作品は全部で33曲とのことだが、シングルA面曲に限ると「花と蝶」(作曲:彩木雅夫、1968年5月5日発売)「花と涙」(作曲:宮川泰、1969年10月5日発売)「銀座の女」(作曲:曽根幸明、1970年9月15日発売)「おふくろさん」(作曲:猪俣公章、1971年5月5日発売)「火の女」(作曲:彩木雅夫、1971年9月5日発売)「命あたえて」(作曲:猪俣公章、1981年9月21日)「語りかけ」(作曲も、1999年8月2日発売)の7曲だけで、意外と少ない感じがする。ちなみに「花と涙」リリース後の1969年10月27日、NET『アフタヌーン・ショー』に出演予定だったが森が体調を崩したため、代わりに前川清が初めてグループから離れて一人で急遽代役を務め、この曲を披露している。

森と川内といえば、川内の晩年、2007年1月に巻き起こった「おふくろさん」騒動が記憶に新しい。森が冒頭に新しい語りの部分を付けて歌っているのを知った川内が不快感を表明したのだが、改変が原作者に対する冒涜だという思いだけでなく、そのことを知らされていなかったことに対しての憤りでもあった。そしてその指摘に対する森側の煮え切らない、突き放したような態度が、更に問題を大きくした。結局和解に至らないまま川内は他界、その後川内の遺族とは話がついて、騒動以来森が封印していた川内作品を「おふくろさん」を含めオリジナルのまま歌い続けるという方向で落ち着いた。

そんな波乱万丈な人生を歩んでいた川内への作詞の依頼は、逆転ホームランを狙う山田のアイディアだったのか。衒いのない愛のかたちをストレートに表現する川内の歌詞が、ヒットの要因の一つであることは確かだろう。

なお、今回川内の軌跡を紹介するにあたり、主に次の2つの記事を大いに参照させて頂いた。素晴らしい内容なので併読をお勧めする(マンガショップのサイトからリンクが張られた東奥日報の画像は、小さくてとても読みづらいが)。

関川夏央『人間晩年図巻』2000年代編<第1回-2>「生涯助ッ人」―川内康範―

東奥日報 2006年10月27日~『あおもり はやり歌 人もよう』作詞家 川内康範(1)~(12)

大ヒット曲となった「逢わずに愛して」は、この後リリースされた彼らのベスト盤にはもれなく収録されることになるが、実はシングル・ヴァージョンではなくアルバム・ヴァージョンで収められてしまったものも少なからずあるのでご注意を。手元に盤があって確認できただけでも、1971年10月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ(パネル・デラックス)』(RP-9115~6)、1972年8月5日発売の『内山田洋とクール・ファイブ・オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集』(JRX-1)、同年11月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ・ベスト24』(JRS-9121~2)、1973年11月25日発売の『内山田洋とクール・ファイブ・オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集』(JRX-9)、1978年9月5日発売の『内山田洋とクール・ファイブ 10年の軌跡』(RVL-4013~7)の5種が該当する。

「逢わずに愛して」の影に隠れがちだが、森岡賢一郎による軽快なボサ・ノヴァ風のアレンジが施されたB面の「捨ててやりたい」も、少なくとも個人的には極めて重要な曲である。作詞はA面同様川内、作曲はB面への提供がこれも3枚連続となる城美好(=チャーリー石黒)。これまで紹介してきた曲はすべて3連のリズムで書かれていたので、これはそこから離れた初めての曲となり、サックスではなくフルートがフィーチャーされている。そんな洒脱なアレンジに、川内の濃厚な歌詞と前川のいつもの歌い方が乗っかるというミスマッチ感がたまらない。この録音ももちろん良い出来なのだが、第4回で「わかれ雨」を紹介する内山田のMCについて触れたのと同じ、1970年9月27日の日劇でのリサイタルを収録した2枚組『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』で聴ける、クール・ファイブ自身の演奏によるライヴ・ヴァージョンの方にこそ、洋楽をベースに持つ彼らならではの特質が、より色濃く現れていると思う。

最後に、これはまったくの余談だが、「逢わずに愛して」はブラジルRCAからもリリースされている(ジャケット写真はネットから拝借)。

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どうやら4曲入り17cm盤らしく、他の収録曲目も不明だが、ブラジルの日系人向けのリリースだったのだろうか。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年3月 8日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(5)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜についての再検証

3枚目のシングル「逢わずに愛して/捨ててやりたい」に進む前に、書いておかなければいけないことができたので、少し時間を戻す。

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「長崎は今日も雨だった」を遠く札幌の地で作曲した彩木雅夫が、2010年4月28日にリリースされたCD3枚組『GOLDEN☆BEST deluxe 内山田洋とクール・ファイブ A面ヒット曲集』(GT Music MHCL-1730)のブックレットに『「長崎は今日も雨だった」に寄せて』という一文を寄稿していた。私はこのCDを持っていなかったのだが、さる方のご協力を得て読むことができ、いろいろなことがわかってきたので、これまでに(特に第2回)書いてきたものに追加・訂正する形で紹介しておく。

彩木によれば、森進一「命かれても」(1967年9月10日発売)をヒットさせていた彼がクール・ファイブのことを知るのは、1968年1月頃、銀馬車の吉田孝穂が繰り返し掛けてきた電話からだった。最初は無視していたが、あまりにしつこいので話を聞いてみると、競合する十二番館所属の中井昭・高橋勝とコロラティーノが「思案橋ブルース」で大ヒット(最終的にオリコン3位となるが、コロムビアからのリリースはこの先の4月25日なので、実際には、評判となりメジャー・デビューも決まり、ぐらいのニュアンスだったか)、われわれ銀馬車としては見過ごせないので、ぜひ作曲をお願いしたい、という内容だった。彩木としては森進一「花と蝶」のレコーディングが進行中で(発売は1968年5月5日)、「見知らぬ長崎のキャバレー戦争に参加する理由はないとの思いから丁重にお断り」したが、やがて送られてきた「西海ブルース」のテープを聴いてみたところ、「バックコーラスがとても新鮮に聞こえ、プラターズ<オンリー・ユー>のコーラスを聴いているような気が」したのだと言う。

その後のやりとりを経て、吉田が直接彩木のもとを訪れたのは5月初旬頃のことだという。彩木は何編かの歌詞を預かり、代わりに1枚のレコードを手渡す。それがこれだ。

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彩木の寄稿を読んであわてて検索するまで気づかなかったが(そして運よく、速攻で入手できたが)、チャーリー石黒が城美好のペンネームで書いた「涙こがして」は、1967年7月には既にこうしてポリドールからレコードが出ていたのだった(後のクール・ファイブ盤「涙こがした恋」では作詞は中山淳太郎と村上千秋の共作詞とクレジットされるが、ここでは中山作詞、村上補作詞となっている)。アルトの歌声で気だるく歌っている由木まなみについては後述するが、これが何故売れないのか石黒から分析を依頼されていたものだという。彩木は閃いたのだろう、この曲を吉田に託してみたのだった。

話がそれるが、ここで石黒について改めて紹介しておくと、チャーリー石黒(本名:石黒寿和)は1928年1月20日東京都港区芝生まれ(1984年12月14日没)。小学生の時にトランペットを始め、ブラス・バンドで活躍、早稲田大学に進学後、音楽部で研鑽を積み、ブラス・バンドのキャプテンとなる。慶応義塾大学のグループと合流してレッド・ハット・ボーイズに参加し、当初はトランペット、その後はヴァイブやドラムスを手掛ける。そして1954年、19人編成のラテン・バンド、チャーリー石黒と東京パンチョスを結成し、ダンスホール飯田橋松竹、銀座ハーレムの専属となる。1959年から日本グラモフォン(レーベルはポリドール)でレコーディングも開始し、歌謡曲の伴奏なども多く手掛けるようになる。渡辺プロダクションでは音楽プロデューサーとして、森進一のほか中尾ミエや布施明なども手掛けた。テレビの歌番組での伴奏でも活躍したが、TBS系特撮テレビドラマ『仮面ライダーストロンガー』第9話「悪魔の音楽隊がやって来た!!』(1975年5月31日放映)には本人役でバンドごと出演しているそうである。【2020年3月11日追記】『仮面ライターストロンガー』は大阪の毎日放送制作だったので訂正。詳しくはコメント欄の中澤さんの投稿参照。

彩木は文中で「涙こがして」の歌手名を由木まなみではなく、誤って香月サコとしていたが、香月も由木も同じ石黒門下で同じポリドール専属だったので記憶違いをしたのだろう。ちなみに北上川サコ名義での録音もあった香月のデビュー・シングル「赤い夕日/白い肌」は1968年6月25日リリースなので、吉田と会った時点では出ていないし、彼女のディスコグラフィーに「涙こがして」は存在しない。

そして由木まなみである。この名義でのシングルは「涙こがして/別れ別れて」1枚きりだが、1943年4月25日北京生まれの彼女の最初の芸名は波多マユミだった。ザ・ベビーズというバンドを経て1960年4月に東京パンチョスの専属歌手となり、1961年4月にポリドールから「シュシュシューベルト」でデビュー。1962年秋には石黒が編曲と案内役を務めた10インチのオムニバス『カッコイイ10人 ―東京ジャズ喫茶めぐり―』(1997年11月にPヴァインからCD化)に参加して「可愛い子チャン」を歌っている。その後芸名を波多まゆみと改め、「夜霧のしのび逢い」などのカヴァー・ポップスのリリースを続けていた。ところが何を思ったか、1967年4月にはゴールデン・ヴェールという覆面歌手として「命こがして/私、明日はないの」をリリースしている。

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このB面の曲名をみてビックリ。アルバム『内山田洋とクール・ファイブ』のB面最後に収録されていた「明日(あした)はないの」は、これのリメイクだったとは! メロディーに手を加えられているほか、歌詞も一部異なっていて、ゴールデン・ヴェール盤では新野新作詞、村上千秋補作詞、クール・ファイブ盤では村上千秋単独の作詞となっていた(クレジット・ミスではないのだろうか)。歌詞の変更は次のような感じ。

二番(ゴールデン・ヴェール):
死ぬまで一緒に 暮らそうと
口づけされて 云われたら

二番(クール・ファイブ):
死ぬまで一緒と 口づけされて
恋の炎が 燃えました

三番(ゴールデン・ヴェール):
恋と恋との 明け暮れに
涙も声も 枯れました

三番(クール・ファイブ):
嘘と真実(まこと)が この世のさだめ
愛も涙も 枯れました

また、編曲は全面的に異なるが、手掛けたのはここでも宮川泰であり(補作曲編曲とクレジット)、彼の名前がクール・ファイブのレコードで唯一クレジットされていた理由もなんとなく理解できた。

このシングルの3か月後に由木まなみとして「涙こがして」をリリースするわけだが、名前の横には小さく(ゴールデン・ヴェール)と書かれ、その正体を明かしている。作者は異なっても、「涙こがして」というタイトルは「命こがして」から繋がっているが、結局これが彼女にとって最後のシングルとなってしまった。

さて、彩木から吉田の手に渡った「涙こがして」は、内山田洋の編曲でクール・ファイブによって録音されたわけだが、受け取った彩木は「狙い違わず素晴らしい出来でした。早速故チャーリー石黒氏に届け、折り返し絶賛の言葉が返ってきました」と、当時を振り返る。由木盤では歌詞は六番まであったが、クール・ファイブはややテンポを落とし、元の歌詞のうち四番と五番を省いて六番を四番とし、全部で四番までの構成にしている。歌詞の変更はなし(二番の「弱いわ女」を「弱いは女」に、音は同じで表記のみ変更)。

ここからの流れは、彩木の書いたものと、第2回で引用したRCAの久野義治がかいたものとでかなり異なっていて、どちらがより正確か判断するのは難しい。

彩木によれば、8月頃タレントキャンペーンがあり、RCAのディレクターも同行してきたので、テープを聴いてもらった。東京に戻ったそのディレクターが慌てて電話してきて、長崎の有線放送で「涙こがして」(どの時点で「涙こがした恋」と改題されたかは記述によって異なる)が1位となっているので至急RCAからデビューさせたい、なのでB面の曲を作曲して送ってほしいとの依頼を受けた、ということだ。

一方繰り返しにはなるが、久野によれば、年末に札幌でキャンペーンがあり、同行したRCAの永田章蔵が彩木のもとを訪れたところ、「長崎に自主制作のテープで地元の有線放送リクエスト1位になっているグループがいますョ。マネージしている作詞家の吉田孝穂氏に、新曲の作曲を依頼されてるんですが、ご紹介しましょうか」と言われ、テープを持ち帰った、となる。

興味深いのは、RCAからの当初の依頼は、B面用の曲だったということ。そして「涙こがして」が有線で1位となった1968年秋には、彩木は作曲を始めていたのだった。以下、少し長くなるが彩木の文章を引用しておく。

作曲は孤独な作業です、1フレーズ毎、自分に問いかけ、自分で回答を、当時は勤務中ですので土曜日の朝3時頃から始め、日曜日も同じく朝早くからと、出来なければまた翌週の早朝土曜日へ、こんな作業ぶりですので1曲を作曲するのに3ヶ月はかけていました。そんな日々のくり返しの中で一つの発想にたどり着きました。それは今までマイナーの曲(短調)ばかりで作曲していたのをメジャー(長調)で、そしてプラターズのコーラスのようにポップス的に、それに長崎のイメージを重ね合わせながら、また「前川 清」の落ちついた歌唱が似合うように考えた作曲でした。もともと私の作曲法はメロディー先行なので詞の字数は重要ではないのですが、いざ預かった詞の中から当て込むのには大変苦労し、言葉の足りないところは2回繰り返し、あまり演歌調にならぬように言葉を選びながら加えたりしました。特に歌の終わりには無謀にも4拍目に5個の音を入れ印象を強くしました。何せ預かった何編かの中から当て込んだ詞のタイトルは「長崎の夜」でしたから……。

5月に手渡された数篇の歌詞の中に「長崎の夜」があったということは、その時点で「西海ブルース」のレコード化は作者の尾形よしやすから却下されていたという解釈でいいだろうか。第2回でも書いたように、クール・ファイブは1977年になってようやくこの曲をシングルにするわけだが、実は1969年の時点でこれもレコードになっていたのを見落としていた。

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「佐世保観光協会推薦盤」と書かれているが、歌っている花菱エコーズは九州のグループではない。元黒沢明とロス・プリモスの福田徳朗(サックス)と大川光久(ギター)を中心に、品川芳輝(ヴォーカル)、原田時美(ベース)、藤村隆(ドラムス)というメンバーで結成された彼らは、落語家の林家三平が名付け親となり、1968年6月1日に東芝音工から「泣いても泣いても/女の泣く町」でデビューしている。「西海ブルース/新宿のふたり」(TP-2129)は「あき子はひとり/夜に咲く花」に続く3枚目のシングルだと思われる。発売日は特定できないが、一つ番号の若い黒木憲「夢はいずこに」(TP-2128)が1969年3月1日発売なので、そのあたりだろう。それにしても、作者の尾形がクール・ファイブによるレコード化を拒んだ「西海ブルース」を、どうして彼らはレコーディングすることができたのか。しかも歌詞は尾形によるオリジナルではなく、拒む理由となった、永田貴子が書き換えた方なのである(クール・ファイブの1977年録音ともかなり異なっているが、これがデビュー前のクール・ファイブが歌っていた本来の歌詞だと思われる)。尾形はクール・ファイブに提供しなかったことを悔やんだのではないか。後のクール・ファイブ盤で聴きなれた耳には、ユニゾンやハモリが多用された花菱エコーズの歌は新鮮にも聴こえるが、ヒットには至らなかった。

(文中敬称略、次回に続く)

2020年2月15日 (土)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(4)~シングル「わかれ雨/不知火の女」とアルバム『内山田洋とクール・ファイブ』

前回、1969年2月5日にリリースされた内山田洋とクール・ファイブのデビュー・シングル「長崎は今日も雨だった」を紹介した際、大事なことを書き忘れていた。伴奏に参加した主要メンバーが判明していたのだ。ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫による、サックス奏者村岡建(たける)へのインタヴュー「【証言で綴る日本のジャズ】村岡建<第3話>」(詳しくはこちら)によれば、彼はスタジオ・ミュージシャンとして最初に加山雄三の「君といつまでも」(1965年12月リリース、編曲は森岡賢一郎)に参加した後、沢田駿吾クインテット(ギターの沢田、テナー・サックスの村岡のほか、ベースが池田芳夫、ピアノが徳山陽、ドラムスが日野元彦)のメンバーとして、1967年2月にリリースされた石原裕次郎のシングル「夜霧よ今夜も有難う」(浜口庫之助作詞・作曲/山倉たかし編曲)のレコーディングに参加したという。そして「長崎は今日も雨だった」について、「日本ビクターがまだ築地にあったときで、これも沢田さんのバンド」と語っている。ただし、少なくともベースの池田は1968年頃にはバンドを抜けていて(彼は本来アコースティック・ベース奏者である)、ここで印象的なエレキ・ベースを弾いているのは、すでに日本を代表するスタジオ・ミュージシャンとして活躍中だった江藤勲である。

さて、前回触れたように「長崎は…」は、5月に入ってからチャートを上昇。これを受けての第2弾として7月5日にリリースされたのが「わかれ雨」である。

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●シングル02

A) わかれ雨
鳥井 実 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 不知火の女
新野 新・村上千秋 共作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1027 1969年7月5日発売

作曲は「長崎は…」に引き続いての彩木雅夫、作詞は1967年9月の森進一6枚目のシングル「命かれても」で彩木と組んでいた北海道出身の鳥井実(1935年生まれ、2018年8月30日没)が起用された。「長崎は…」でエンジニアを務めた内沼映二は、以降独立後の前川清のソロも含め、一部の例外を除く大半のレコーディングでエンジニアを務めることになる。この曲も築地のビクター・スタジオでの録音のはずだ。

「わかれ雨」は、ハープとグロッケンシュピールによる幻想的な導入部も印象的な3連のロッカバラード。「♪帰らぬ恋ぃと~」の「と~」と伸ばす部分、そしてサビの部分の「♪イヤイヤ~」のところなど、「長崎は…」ではまだ抑え気味だった、前川清独特のある種過剰なヴィブラートが、この曲で初めて表出されている。ただ、大ヒット曲に続く第2弾としては、曲調も歌詞もかなり渋いとも言える。実際のところ「長崎は…」のチャート2位、72.8万枚(オリコン調べ。公称では100万枚)に対し、「わかれ雨」はチャート32位、12.8万枚(同。公称で30万枚以下)という結果で、売り上げはかなり伸び悩んだ。

担当ディレクターの山田競生は1981年のインタヴューでこう語る。「作曲の彩木さんとは、三作まで書いてもらう約束になっていたんです。これは私のレベルではなく、私がクール・ファイブ担当に決まる前に、上の方で約束していた話なんです。<長崎は今日も雨だった>に関しては、私は後から乗ったんですから、二作目の<わかれ雨>があんな曲でしたので、もし三作目が駄目な曲だったら彩木さんに降りてもらうしかない、と思っていました」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)

担当者に「あんな曲」と言われてしまった「わかれ雨」だが、少年時代の桑田佳祐がとりわけ夢中になった曲でもある。そして1970年9月27日の日劇でのリサイタルを収録した2枚組『豪華盤「クール・ファイブ・オン・ステージ」』(1970年12月25日リリース)では彼ら自身の演奏によるこの曲が聴けるが、内山田洋はMCで「大変私たちは素敵な曲だと信じております」と紹介してからこの曲を演奏し始める。そこには「あまり売れませんでしたが、でも…」という言外のニュアンスが込められているように思えるのだ。

同じ3連のロッカバラードでも、より親しみやすいカップリングの「不知火の女」は、城美好(チャーリー石黒)の作曲。有明海をテーマにしたご当地ソングだが、作詞の新野新(しんの・しん。1935年生まれ)は大阪市生まれの放送作家。「涙こがした恋」同様、共作詞者として村上千秋が名を連ねている。

そして、いよいよアルバムが登場する。

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●アルバム01(オリジナル・アルバム01)

内山田洋とクール・ファイブ
RCA JRS-7045 1969年11月5日リリース

A面
1) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

2) わかれ雨
鳥井 実 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

3) 涙こがした恋
中山淳太郎・村上千秋 共作詞/城美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

4) 噂の女
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲/毛利 猛 編曲

5) 長崎詩情
中山貴美 作詞・村上千秋 補作/城美好 作曲/竹村次郎 編曲

6) あなたが欲しい
内山田洋 作詞・作曲・編曲

B面
1) 逢わずに愛して
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

2) 不知火の女
新野 新・村上千秋 共作詞/城 美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

3) 一度だけなら
山口洋子 作詞/猪俣公章 作曲/毛利 猛 編曲

4) 女のまごころ
宮本悦朗 作詞・村上千秋 補作/宮本悦朗 作曲・編曲

5) 恋の花火
川内康範 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

6) 明日はないの
村上千秋 作詞/城 美好 作曲/宮川 泰 編曲

記念すべきデビュー・アルバム。何よりも画期的だったのは、全曲オリジナルであること。当時の歌謡界では、アルバムといえば自身のシングル曲以外は、他の人気歌手のヒット曲のカヴァー、過去の名曲などで構成するのが常だったからだ。

山田は語る。「オリジナルとカヴァー、並の歌手ならそれでよかった。でもクール・ファイブは違う。稀に見る逸材だ、これからの会社を背負って立つアーティストだ、そのファースト・アルバムは絶対にオリジナルでなくては、というのが僕の信念でしたね」(CDボックス『結成40周年メモリアルBOX こ・い・う・た~内山田洋とクール・ファイブBEST100~』ブックレットより。2007年8月7日、BMG JAPANにて。聞き手:鈴木啓之、高護)

過去2枚のシングルAB面曲4曲以外は、すべてクール・ファイブのための書き下ろしだが、そもそも並のラインナップでなかったことは、その後の彼らにとっていずれも重要なヒット曲となった「逢わずに愛して」(第3弾シングル)「噂の女」(第5弾シングル)がすでに含まれていることからもわかるだろう。その2曲については、シングル紹介の項で詳しく書くことにしよう。

それらに続く重要曲は「一度だけなら」。「噂の女」と同じ作詞・作曲家コンビ、すなわち東映ニュー・フェイスからクラブ・ホステスを経て作詞家に転身したばかりだった山口洋子(1937年5月10日名古屋市生まれ、2014年9月6日没)と、古賀政男門下からスタートし森進一の一連のヒット曲を手掛けていた猪俣公章(1938年4月11日福島県会津生まれ、1993年6月10日没)による、同じ3連でも12拍子のロッカバラードではなく9拍子のワルツ風の曲。内山田洋によれば、「逢わずに愛して」が次のシングルとなる際、候補として最後まで争ったのが「噂の女」と「一度だけなら」だったということである。結果的にこの曲は、同じRCAから“歌謡界の若獅子”のキャッチフレーズで1970年6月5日にデビューした野村真樹(現:将希)の最初のシングルとなり、オリコン10位の大ヒットとなった。1952年11月13日北九州市生まれ、尼崎市育ちで、前川清と共通する感覚もありながら、より線の細い野村は、担当も同じ山田ということもあり、クール・ファイブの面々にも可愛がられた。楽曲の行き来も少なからずあったが、牧歌的な雰囲気もある「一度だけなら」に関しては、野村のキャラクターによりフィットしていたということは言えるだろう。なお野村は、このクール・ファイブのファースト・アルバム収録曲からは「涙こがした恋」「不知火の女」「噂の女」も後にアルバムの中で取り上げることになる。

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(これは1975年リリースのベスト・アルバム『野村真樹大全集』。クール・ファイブと関係する曲目がまとめて聴ける)

森進一「年上の女」を書いた中山貴美の作詞、城美好作曲による「長崎詩情」は、ロマンチックなロッカバラード。編曲は、クール・ファイブでは主にカヴァー曲でその手腕を振るうことになる竹村次郎(1933年8月26日東京生まれ)。この曲はメンバーたちも大変気に入っていたようで、長崎をテーマにした企画アルバム『長崎詩情』(1972年3月25日リリース)のタイトルおよびリード曲(録音は同じ)となるほか、1978年12月5日リリースのメンバー自選ベスト『<スター・マイ・セレクション・シリーズ> 内山田洋とクール・ファイブ』にも「長崎は今日も雨だった」「逢わずに愛して」と共に収められている。そのライナーで内山田は、「我々にとっては切っても切れない“長崎”の四季を歌い込んだ曲で、望郷の想いを慰めてくれる、いわば我々の心のテーマ・ソングと云えるものです」とコメントしている。

クール・ファイブの音楽的中心となる内山田洋と宮本悦朗、それぞれのオリジナル作品が収録されたのも大きなポイント。「港の別れ唄」「東京砂漠」など、折々で重要曲を作曲することになるリーダーの内山田だが、作詞も編曲も手掛けたのは、「あなたが欲しい」が唯一。どこか可愛らしい風情の曲だ。もちろんクニ・河内が書いたザ・ハプニングス・フォーの同名の曲(1967年11月5日リリース)とは何の関係もない。

一方、洋楽的なセンスがなかなかお洒落な「女のまごころ」は、主にステージで編曲や音楽監督的なポジションを担っていくことになる宮本が、村上の手を借りながら同様に作詞までこなした作品。

「恋の花火」は、川内康範作詞、彩木雅夫作曲、森岡賢一郎編曲という「逢わずに愛して」と同じ組み合わせによる佳曲。川内については、「逢わずに愛して」のシングル紹介の折に、詳しく触れたい。そして最後の「明日(あした)はないの」は、村上が単独で歌詞を書き、城が作曲したもの。ザ・ピーナッツの育ての親としてもお馴染みの宮川泰(ひろし。1931年3月18日北海道留萌市生まれ、2006年3月21日没)が編曲しているが、彼がクール・ファイブのレコードを手掛けたのはこの曲が唯一。【2020年3月21日追記】「明日はないの」は、ゴールデン・ヴェールの1967年4月のシングル「命こがして」のB面曲「私、明日はないの」(新野新作詞、村上千秋補作詞)のリメイクだった。詳しくは第5回参照。

以上12曲、すべて3連のリズムで書かれながらバラエティーにも富み、クール・ファイブの魅力を広くアピールする力を持ったこのデビュー・アルバムは、30万枚を超える売り上げを記録した。クール・ファイブの全LPの中で、オリジナル・フォーマットのままCD化されたことのある唯一のアルバムでもある。

ところでこのアルバム、今は手元に2枚あるが、B面最後のマトリクス番号が刻まれた送り溝の幅が大きく異なっているのが興味深い。JRS 7045 B 111+++のものはかなり幅広く(つまり曲中の溝と溝の間が狭い)、

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JRS 7045 B 122+++の方は逆にかなり狭い。

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A面はどちらもその中間の通常のバランスとなっている。カッティングによるこのような差は、どうして生じたのだろうか。

(文中敬称略、次回に続く)



2019年12月30日 (月)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(3)~シングル「長崎は今日も雨だった/涙こがした恋」

それでは今回から、内山田洋とクール・ファイブがデビューから1986年に前川清が脱退するまでの間にリリースしたすべてのレコードを、順を追って紹介していく。

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●シングル01

A) 長崎は今日も雨だった
永田貴子 作詞/彩木雅夫 作曲/森岡賢一郎 編曲

B) 涙こがした恋
中山淳太郎・村上千秋 共作詞/城美好 作曲/森岡賢一郎 編曲

RCA JRT-1015 1969年2月5日発売

「長崎は今日も雨だった」が出来上がるまでの経緯は、だいたい前回書いた通り。銀馬車のマネージャーだった吉田孝穂が、永田貴子のペンネームで「長崎の夜」という歌詞を書き、札幌の彩木雅夫に作曲を依頼したが、彩木は歌詞もほとんど書き換え、タイトルを「長崎は今日も雨だった」としたのだった。前川清によれば「ど素人が書いたひどい歌詞で、彩木先生は気に入らなくてずいぶん手直ししてた。元の歌詞に『雨』なんてなかったし、原型がなくなるほど8割くらい変わった。変なタイトルで意味が分からなかったし、メロディーラインもあまりしっくりこなくて、最初は気に入ってなかったです」(スポーツ報知『前川清、「長崎は今日も雨だった」は思い入れゼロだった』[2017年5月22日]より)とのことだ。

彩木雅夫(1933年8月5日帯広生まれ)は、これも前回書いた通り本業は北海道放送(HBC)のディレクターで、作曲家としては本名の新居一芳名義でジャッキー吉川とブルー・コメッツに書いたインスト曲「愛の終りに」(1966年4月シングル発売)が処女作。その後彩木を名乗り、1967年から68年にかけて森進一に「命かけても」「花と蝶」「年上の女(ひと)」を提供しヒットさせている。

編曲には、チャーリー石黒の推薦で森岡賢一郎(1934年3月4日八代市生まれ、2018年8月19日没)が起用された。前川が初対面の内山田洋に披露した曲でもある加山雄三「君といつまでも」(1965年12月発売)も、彩木が森に提供した「花と蝶」「年上の女」も、森岡の編曲だった。そしてこの出会いはクール・ファイブにとって非常に大きかった。これ以降クール・ファイブの主要曲の多くで森岡は腕を奮うことになる。

記念すべきこのデビュー曲のレコーディングは、1969年1月8日に東京のビクター築地スタジオ(第一スタジオ)で行われている。前川は語る。「寝台特急『さくら』で夜中に関門海峡を通って人生で初めて本州に入ったんです。僕は一番年下だから、3段ベッドの一番上。寝転がったら天井ギリギリで狭かった。一睡もできずに12時間以上かけて東京に着いて、その足で築地のビクタースタジオに行きました」(前掲のスポーツ報知記事より)。

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録音エンジニアは内沼映二(1944年群馬県生まれ)。1960年代から現在に至る日本の商業録音の生き字引存在である内沼が本年(2019年)に著した「内沼映二が語るレコーディング・エンジニア史」(DU BOOKS)には興味深いエピソードが満載で、レコードやその録音に関心のある人々には必読の書と言えるが、彼がそれまでのテイチクからビクター(RCA)に移籍して最初に手掛けたのが「長崎は今日も雨だった」だった。以下は内沼の述懐。「初めて使うスタジオだったことで勝手がわからず苦労した記憶があります。築地のスタジオはブースがなく、すべてのミュージシャンが一同に介す同時録音でした(ライブでのステージ配置と思っていただければ)。発売当初あまり売れなかったために宣伝担当から『音が良くないから売れない』、『リヴァーブが多すぎる』など散々なことを言われましたが、結果的に記録的なセールスとなり、胸を撫で下ろしました」(前掲書より)。

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興味深いのは、これが6チャンネル録音だったと書かれていたこと。アンペックスの300シリーズというレコーダーで、1チャンネルと2チャンネルには3~6チャンネル以外の楽器をステレオで録音、3チャンネルがベースとドラム、4チャンネルがテナー・サックスとエレキ・ギター、5チャンネルがコーラス、6チャンネルがヴォーカルという振り分けだった。クール・ファイブのメンバーは楽器は弾かずコーラスを受け持っただけだが、森岡が手掛けた編曲というか楽器編成は、当然ながらメンバー自身によるライヴ演奏も想定してのものだろう。

レコーディングについて前川は、「ヘッドホンがなくて、スピーカーから小さいカラオケの音が流れる中で歌って、自分の声はモニターできない。戸惑いながら4~5時間歌いました。徹夜で調子が悪くて、声の伸びも最悪。翌日もう一回歌わせてもらったけど、不思議なことに初日の方が声の仕上がりが良くて採用された。上京した直後で必死に一生懸命、何も考えずに歌ったのが良かったのかな。あの歌い方はもうできない」(前掲記事より)と語る。一方、内山田がこの曲に託したイメージは「プラターズのコーラスのようにポップス的に」というものだったという。

カップリングの「涙こがした恋」は、これも前回触れたようにチャーリー石黒(=城美好)が書いた「涙こがして」が、彩木の推薦でクール・ファイブの手に渡り、内山田がアレンジした自主制作録音(「西海ブルース」もそうだが、存在したのはオープンリールのテープのみで、盤としてはプレスされていないはずだ)が長崎の有線放送で1位となったもの。編曲は森岡だが、内山田のオリジナル・アレンジがベースになっているのではないかと推測される。録音データも不明だが、「長崎は今日も雨だった」と同日だったと考えるのが自然だろう。作詞の中山淳太郎には守屋浩「田舎教師」(1963年)、山田太郎「明日を信じよう」(1964年)といった作品がある。共作者の村上千秋は、11月にリリースされるクール・ファイブのファースト・アルバムでも、何曲かに共作者や補作者として登場することになる。作家の村上春樹の父親(国語教師だった)と同姓同名だが、さすがに同一人物ではないだろう。

「長崎は今日も雨だった」は1969年2月5日にリリース。ジャケットには「RCA流行歌路線第1弾!」「有線放送で、人気第1位のムード・コーラス艶歌の決定盤!」とキャッチコピーが躍り、グループ名表記の内山田洋にはルビが振られていた。だが、RCAからのデビューが決まっても、あくまでも地元長崎を拠点にするのか、安定した生活を捨てて東京に進出するのか、メンバーの間でも迷いはあったようだ。進出を決断した内山田の説得に応じ、全員で長崎を後にしたのが2月10日。翌11日には恵比寿のマンションで男6人の合宿生活が開始された。2月15日にはフジTV系『歌のスターパレード』でテレビ初出演。2月21日から27日までは国際劇場での『森進一ショー』に出演。長崎から彩木のいる札幌まで全国縦断キャンペーンも行われたが、なかなか火は点かなかった。

それが一転するのは、渡辺プロダクションで彼らのマネージャーとなった和久井保が、テレビ露出を利用したキャンペーンを展開してからのこと。4月中旬(または下旬)の1週間、コント55号の番組『お昼のゴールデン・ショー』(フジTV系)に今週の歌のコーナー等で出演したのだ。RCAの山田競生は当時をこう語る。「連休明けに私が会社に出ると、電話が鳴りっ放しなんです。それが〈長崎は今日も…〉のオーダーで、営業の連中が電話を受けながら、私にサインを送っているんです。これは一生忘れられない感激です。涙が出るほどでした」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)

シングルはゴールデン・ウィーク明けにオリコンにチャート・イン。5月23日には東京プリンスホテルにて初めてのファン・クラブの集いが開催。6月23日付オリコン・チャートで最高位2位を記録(1位は森進一「港町ブルース」)。7月9日には長崎公会堂で凱旋公演。そして7月31日には「長崎は今日も雨だった」100万枚突破記念パーティーが開催された。10月28日には新宿音楽祭で新人賞を受賞。11月12日には日本有線大賞で新人賞獲得。そして12月31日にはレコード大賞の新人賞を受賞し、NHK『紅白歌合戦』への初出場を果たした。

(文中敬称略、次回に続く)

2019年12月13日 (金)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(2)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜

【2020年3月9日追記】本記事の内容について、追加及び訂正が多数あります。詳細については最新の記事『内山田洋とクール・ファイブのレコード(5)~「長崎は今日も雨だった」誕生前夜についての再検証』をご参照ください。

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1967年9月に結成された内山田洋とクール・ファイブは、グランド・キャバレー「銀馬車」の専属バンドとして活動を開始した。当時どのようなレパートリーを演奏していたのかという詳細なデータは手元にないが、もともと各メンバーは洋楽志向が強く、新旧様々な洋楽を取り上げていたようだ。その幅広さは、デビュー以降に残された各種ライヴ盤に散りばめられた洋楽カヴァーの数々からも感じ取ることができる。一方で客のリクエストに応じる必要から歌謡曲も演奏する中で、歌謡曲への興味や志向も強くなっていったというのが、だいたいの流れだったのではないかと思われる。

1968年、銀馬車のマネージャーである吉田孝穂が、佐世保で流しのギタリストとして活動していた尾形義康(よしやす)の書いた「西海ブルース」という曲を地元の有線放送経由で見つけてきた。吉田は永田貴子(たかし)の筆名で自ら歌詞を書き直し、クール・ファイブに歌わせることにした。自主制作で録音された「西海ブルース」のテープは長崎放送や地元の有線放送に持ち込まれて評判となり、ローカル・ヒットを記録したのである。

この後「長崎は今日も雨だった」を作曲することになる札幌在住の作曲家、彩木雅夫(本名:新居一芳、本業は北海道放送のディレクター)とクール・ファイブとの繋がりがどの時点で出来たのかは不明だが、「西海ブルース」の評判は遠い長崎から伝わっていたのかも知れないし、クール・ファイブ側からのアプローチが先だったかのかも知れない。【2020年3月9日追記】これは1968年1月頃、吉田が彩木に何度か電話をしたのがきっかけだった。詳しくは第5回参照。

クール・ファイブを中央の音楽シーンにスカウトすることになるチャーリー石黒(ラテン・バンド、東京パンチョスのリーダー。作曲家としてのペンネームは城美好)がクール・ファイブのことを知るのも、彩木からの電話だった。曰く、君の書いた「涙こがして」はいい曲だから、グループに歌わせてヒットさせたいと。この曲は内山田のアレンジで自主制作されて「涙こがした恋」(作詞は中山淳太郎と村上千秋)となり、1968年秋には長崎の有線放送で1位を記録した。【2020年3月9日追記】第5回に追加情報あり。

TBS系の番組「ロッテ歌のアルバム」で伴奏を担当していた石黒は、公開放送収録のために長崎を訪れた際に銀馬車に立ち寄り、実際にクール・ファイブの生演奏に触れている。渡辺プロダクションに籍を置き、新人発掘の役割も担っていた石黒には、森進一を発掘し育てた実績もあり、クール・ファイブの将来を確信した。

クール・ファイブは石黒の紹介で渡辺プロダクションと契約を結ぶことになり、メジャー・デビュー曲には「西海ブルース」が候補に挙がったが、作者の尾形が別の歌詞によるレコード化を認めなかったために却下(1977年になって再録音が実現し、30枚目のシングルとなる)。競合する十二番館からご当地ソングの「思案橋ブルース」でヒットを飛ばした高橋勝とコロラティーノに対抗し得る、新たな長崎ものを準備する必要に迫られた吉田(=永田)は、「長崎の夜」という歌詞を書き、札幌の彩木のもとに飛ぶ。【2020年3月9日追記】第5回に訂正あり。

クール・ファイブより一足早く、1968年12月に日本ビクターのRCAレーベルからデビューしたコーラス・グループに、渚一郎とルナ・ジェーナ(R&B系GSの4人組ザ・ホークスとブルー・ジーンズ~マヒナ・スターズのヴォーカル、渚一郎が合体してできたグループ)がいる。そのデビュー曲「銀座の恋をサッポロに」の札幌でのキャンペーンのために、RCA営業部の久野義治はマスコミ用の航空券を2枚手配した。ところが前日になり取材予定の1名がキャンセルしたため、折角のチケットを無駄にしないよう、課長の永田章蔵(RCA設立前はビクター内のフィリップス洋楽部門のディレクター)が同行することになった。札幌に着いた永田は、年末の挨拶をすべく彩木を訪れたところ、「長崎に自主制作のテープで地元の有線放送リクエスト1位になっているグループがいますョ。マネージしている作詞家の吉田孝穂氏に、新曲の作曲を依頼されてるんですが、ご紹介しましょうか」(『内山田洋とクール・ファイブ全100曲集』ブックレット掲載の「クール・ファイブと私」[文:久野義治]より)と言われ、「涙こがした恋」のテープを持ち帰る。

一方、クール・ファイブの地元事務所代表の針尾洋一郎から「涙こがした恋」のテープを取り寄せた石黒も、各レコード会社への売り込みを続けた末、かつて森進一を育てたビクターの永野恒男(後にRVC社長)にたどり着いたという。この2つのエピソードの前後関係は不明だが、ともかくクール・ファイブは日本ビクターに新設されて間もないRCAレーベルから全国デビューすることが決まった。

このRCAレコード事業部設立の経緯については、前回のブログ記事「“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史」を参照して頂きたいが、基本的にすべて新人アーティストからなる邦楽セクションを立ち上げるにあたり、3人の有能なディレクターが揃えられた。和田アキ子やシング・アウト(樋口康雄在籍)、シモンズ、そして西城秀樹などを手掛けることになるロビー和田。日本コロムビアのデノンからデビュー予定だった藤圭子を、粘り強い交渉の末に引っ張ってきた榎本襄。そして、クール・ファイブを担当することになるのが、山田競生である。

1933年生まれの山田は、学生時代からハワイアン・バンドでウッド・ベースを弾き、ポス宮崎とコニー・アイランダーズを経て、1958年から和田弘とマヒナ・スターズのメンバーとして活動。1967年、マヒナがビクターから東芝に移籍するタイミングで脱退し、ビクターに残ってマハロ・エコーズを結成したが、1年ほどで活動休止。その後ディレクターとしてRCAにスカウトされたのである。

「こういうコーラス・グループがあるけど、ディレクションしてみないか、という話があったとき、あー、嫌だなと思いました。私自身、コーラス・グループにいましたから、コーラス・グループだけは手がけたくないと思っていたんです。(中略)テープの〈長崎は今日も雨だった〉を聴かされまして、それまで持っていた歌謡コーラスへの固定観念みたいなものが、ふっ飛んでしまったんです。何だ、こいつらは、と興味が湧いたのがきっかけなんです」(中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』[白夜書房]より)

この1981年のインタヴューで山田は、「長崎は…」のテープが長崎の有線放送で一位になっていることは知っていた、とも発言している。ただしこれは状況からみて、再録音されて「長崎は…」のB面になった「涙こがした恋」の事例と記憶がゴッチャになっていたのではないかと思われるが、どうだろうか。

一方、作曲を依頼されていた彩木は、3連の魅力的なロッカ・バラードを書き上げた。吉田が書いてきた歌詞もほとんど書き換え、タイトルを「長崎は今日も雨だった」とした。新しい歴史がこの曲から始まろうとしていた。

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(文中敬称略、次回に続く)

2019年12月 5日 (木)

“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史

内山田洋とクール・ファイブのレコードについての連載が始まったばかりだが、いきなり脱線させていただく。というのも、クール・ファイブがデビューしたのが、歴史ある日本ビクター内に発足して間もなかったRCAレーベルからだったので、“RCA”と“ビクター”とその商標“ニッパー”との、わかっているようでわかりにくい関係について、一度整理しておく必要があると感じたからだ(長文ご容赦)。なお本稿では、Victorの称号に対して、英語圏のものは「ヴィクター」、スペイン語圏のものは「ビクトル」、日本国内のものについては「ビクター」と表記させていただく。

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蓄音機とそのラッパを覗き込むフォックス・テリア犬“ニッパー”のイラストは、1898年に英国の画家、フランシス・バロウが描いた絵が元になっている。当時は、1877年にトマス・エディスンが発明したシリンダー型の蝋管蓄音機(フォノグラフ)と、1887年にエミール・ベルリナーが発明したディスク型の蓄音機(グラモフォン)が、それぞれに改良を続けながらフォーマット争いを繰り広げていた時代。最終的には、一台で録音と再生が可能なシリンダー型に対し、ソフトの複製と収納が容易なディスク型が勝利を収めることになるわけだが、バロウが当初描いたのはシリンダー型の蓄音器の方だった。

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ニッパーはもともと、亡くなったバロウの兄のマークの飼い犬で、バロウがイメージしたのは、シリンダーに刻まれた亡き飼い主の声に不思議そうに耳を傾けるニッパーの姿であり、“ヒズ・マスターズ・ヴォイス”(HMV)という標語もそこから採られている。

1899年、バロウは絵を買い取ってもらおうと、ロンドンにあるエディスンの会社、エディスン・ベル・コンソリデーテッド・フォノグラムに持ち込むが断られる。改めて出向いたのが同じくロンドンのグラモフォン・カンパニー。ワシントンDCにユナイテッド・ステイツ・グラモフォン・カンパニーを設立していたベルリナーからディスク型蓄音器のヨーロッパでの特許権を委託されたウィリアム・オーウェンが1898年に設立した会社である。バロウが蓄音器をグラモフォン社の新製品に描き直すことで、オーウェンとの交渉が成立した。

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ベルリナーは1900年にロンドンを訪れた際、ニッパーの絵を見て気に入り、アメリカ合衆国での使用権を買い取ったが、この頃には自身の米国グラモフォン社は立ち行かなくなっていた。その一方、ベルリナーの協力者だったエルドリッジ・ジョンスンはコンソリデーテッド・トーキング・マシーン・カンパニーを設立し、そこから発展する形で1901年、ニュージャージー州キャムデンを本拠地とするヴィクター・トーキング・マシーン・カンパニーが誕生した。ジョンスンが60%、ベルリナーが40%の株を所有し、この時点で米国グラモフォンは消滅。ニッパーの権利は英国ではグラモフォン(ヨーロッパから中近東、インドまでエリアを拡げ、1931年にはEMIに発展)が、米国ではヴィクターがそれぞれ所有することになった。

グラモフォンでは当初、ニッパーの図案を広告やポスターにのみ使用していた。オーウェンが自身の考案したエンジェルのレーベル・マークに拘っていたためだ。先行して使われたHis Master's Voiceのロゴとともに、ニッパーのマークがレーベル・デザインに採用されるのは、オーウェン退陣後の1909年のことだった。なお今回はこれ以降の、主にヨーロッパでのHMV~EMI系の話は割愛する。

一方1902年からニッパーのマークをレーベルに使い始めたヴィクターは、米国を代表するメジャー・レーベルにまで発展していくことになるが、カナダなどのほか、南米の拠点となるアルゼンチンにも支社を置き、勢力を伸ばしていく。手元にある78回転のSP盤は、ほとんどがアルゼンチン“ビクトル”盤なので、ここからは主にそれらを通して変遷を見ていく。

手元にある最も古いビクトルのSP盤は、1917年に録音されたエドゥアルド・アローラス楽団の「ラウソン」あたりだが、この頃はまだブエノスアイレスで録音された原盤を米国キャムデンの工場でプレスし、逆輸入するという形だった。

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フリオ・デ・カロ楽団の「ブエン・アミーゴ」は1925年5月12日録音。INDUSTRIA ARGENTINAと記されている通り、このあたりからプレスもアルゼンチン本国で行われるようになる。

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そしてSP時代の大変革といえば、アコースティック録音から電気録音への進化である。1924年に電気録音法の特許を取ったウェスタン・エレクトリックのシステムによる最初の電気録音を米国のヴィクターが実現したのは、1925年3月のことだった。アルゼンチンのビクトルでもその1年後には電気録音への切替が行われた。タンゴでは1926年3月1日に録音されたロシータ・キロガの「ラ・ムーサ・ミストンガ」が最初の電気録音である。

フリオ・デ・カロ楽団の「アグア・カリエンテ」は1926年5月11日録音。上下2か所にある、電気録音であることを示すVEの文字のほか、Grabación Ortofónica(英語で言う“オーソフォニック”とは“正しい音”という意味の造語で、ヴィクター製の蓄音器の名称などでも使われた)とも書かれ、新方式による録音であることが謳われている。

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電気録音開始から2年後の1927年(昭和2年)9月13日、米国ヴィクターの全額出資により日本ビクター蓄音器株式会社が設立され、翌1928年2月1日に第1回新譜が発売された。この時点でヴィクター・トーキング・マシーンは創立者ジョンスンの手を離れ、2つの銀行の傘下にあったが、1929年には、1919年に電機メーカーとして創業し、ラジオ放送(NBC)まで事業を拡大していたレイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)に買収され、その一部門となった。

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これは1930年5月23日録音のカルロス・マルクッチ楽団「ミ・ドロール」。アルゼンチンでは、それまでヴィクター・トーキング・マシーンのアルゼンチン支社と書かれていた下部の社名表記が、RCAビクトル・アルヘンティーナという独立した会社名に変わっているのがわかる。

資本は変わったものの、社名にRCAの文字は入らなかった日本ビクター蓄音器は、東芝(の前身)と三井財閥から出資を受ける一方、RCAからは技術支援を受け、1931年には蓄音器の製造も始めている。1936年には日米関係の悪化からRCAが資本を撤退(以降も協力関係は続く)、日産コンツェルン傘下を経て1937年には東京電気(1939年に芝浦製作所と合併し東京芝浦電気となる)傘下となる。戦時中の1943年、日本音響へと改称を余儀なくされるが、レーベルのVictor表記は守られた。1945年に第二次世界大戦が終わり、日本ビクター株式会社となるが、戦災による設備の損傷は甚大だった。同じく日産~東芝傘下にありながらスタジオと工場が無傷だった日本コロムビアへの委託プレスという形で、新譜の発売に漕ぎ着けられたのは1946年9月だった。

ちょうどその頃、米ヴィクターや亜ビクトルでは、レーベルの表記が変更された。1929年にRCA傘下となって以降も長く使われていたシンプルなVictorの表記が、RCA Victorに改められたのだ。米国では1946年の春頃、そしてアルゼンチンでは、オスマル・マデルナ楽団で見てみると1947年3月20日録音の「ティエンポ」までVictor、そして4月25日録音の「ファンタシア・エン・ティエンポ・デ・タンゴ」からRCA Victorとなっている。

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日本ビクターの親会社は1949年に東芝から日本興業銀行へ、1953年春には松下電器産業へと移り変わるが、戦後のビクターの復活を印象付けたのは、1947年4月にリリースされた平野愛子の「港が見える丘」だろう。RCAとの提携も復活したが、国内制作、RCA原盤を含め、この時点でRCAの付かないVictorの名称をニッパーと共に使い続けるのは世界でも日本のみとなった。

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この頃の世界での大きな出来事が、マイクログルーヴ・レコードの登場、そしてテープ・レコーダーによるレコーディングの開始である。1948年6月、米国のコロンビアが33 1/3回転で30cm(12インチ)および25cm(10インチ)の長時間レコード(LP)を公式に発表し、8月からリリースを始めた。コロンビアは各社にLPへの参入を呼びかけたが、それに唯一応じなかったのが、別のフォーマットを準備していたRCAヴィクターだった。RCAは1949年2月に17cm(7インチ)で45回転のレコード(EP)を発売したのである。幸運だったのは両者に互換性があったことで、LPはクラシックを中心に長時間演奏に、EPはポピュラーなどの曲単位の演奏に対応した。結局RCAヴィクターは1950年1月からLPのリリースを始め、コロンビアなど各社も45回転盤を出し始める。

アルゼンチンではやや遅れて、1952年頃からLPのリリースが始まるが、SPも1963年まで存続していた。この時期のSP盤のレーベルにはいろんなパターンがあるので、並べておこう。

アルフレド・ゴビ楽団「エル・アンダリエゴ」(1951年6月録音だが、これは1952年終わりか1953年初め頃の再発盤)

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同「トリステ・デスティーノ」(1954年12月14日録音)

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同「カマンドゥラーヘ」(1955年6月13日録音)

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ロベルト・カロー楽団「ラドリージョ」(1956年10月17日録音)

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アルフレド・ゴビ楽団「エントラドール」(1956年7月16日録音)

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オスマル・マデルナ象徴楽団「ノ、ノ・ジョレス・マス」(1959年6月17日録音)

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ここからは、EPおよびシングルは割愛して、LPを米盤、亜盤、国内盤を取り混ぜて紹介していく。1954年の米RCAヴィクター盤のレーベル・デザインとジャケットのロゴはこんな感じだ。

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アルゼンチンも同様だったが、この時期のものは今は手元にないので、既に手放してしまった10インチ盤を写真に撮っておいたものを載せておく。これは色違い(緑)もあるようだ。

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米RCAヴィクター盤のレーベル・デザインは、1955年頃にはニッパーがカラーのものになり、細部の変更はあっても1968年まで変わらなかった。

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手元にある1950年代後半リリースのアルゼンチン盤LPはこのデザインに差し替えられたセカンド・プレスばかりなので、正確な変更時期は特定しがたい。こちらも1968年まで大きな変更はなし。

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復興した日本ビクターがLPのマスタリングとプレスを開始したのは1953年9月からだが、これは1956年11月1日に発売され話題となったタンゴのオムニバス『タンゴの歴史』。当時ビクターは、東京芝浦電気(1960年10月から東芝音楽工業)が1958年頃から発売し始めることになる赤盤に先駆けて、青いヴィニール盤でリリースしていた。

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日本ビクターの青盤の時代は短く、1961年5月発売のこのオムニバスの時点で、レーベルも黒になっている。

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このデザインはこの後もあまり変わらず、ニッパーはカラーにならなかった。

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なお、ステレオ盤は米国も日本も1958年に発売開始、アルゼンチンも海外原盤のリリースについてはそうそう遅れなかったのではないかと思うが、タンゴに限ればブエノスアイレスでのステレオ録音は1963年4月のアニバル・トロイロ楽団まで待たなければならなかった。

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RCAをめぐる大きな変化は、1968年後半(国によっては1969年前半)に起こった。企業イメージの大胆な刷新を図ったのだ。

それまで日本以外ではおおむねRCA Victorと表記されていたものが、RCAの新しいロゴがメインになり、Victorの文字はサブ的に添えられる形に変わった。そしてなによりも、あのニッパーが消えてしまった。米国での社名はレイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカからRCAコーポレーションに変わる。

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ジャケットの表記は当初はこのような感じで、左上にRCA、右上にVictorの文字が置かれる。これは米国もアルゼンチンも、もともとニッパーの使えなかったイギリスも同様だ。

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その後はRCAとVictorが上下になる。

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最終的にVictorの文字はジャケットから消える。

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ただしそれは米国での話で、アルゼンチンではVictorの文字はそのまま残った。

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日本では日本ビクター内にRCA事業部が発足したが、これは世界的な統一を図ろうとした米国RCAからの指示によるものだろう。そして、1968年10月25日にRCAレーベルから最初の新譜が発売された。

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それまでビクターのレーベルで出ていたRCA原盤の洋楽は、すべてRCAレーベルからの発売に切り替えられたが、日本ビクターからの発売であっても、RCAのものは「RCAビクター」となったりVictorの文字が使われたりはせず、単に「RCA」と表記された。新設されたRCA邦楽からはまず、和田アキ子を含む新人4組がデビュー。一方、ビクター邦楽のアーティストはなんら変更なく、そのままビクター・レーベルからニッパーのマーク付きでのリリースが継続された。

日本ビクターでは50年代以降、ドット、エレクトラ、リプリーズ、プレスティッジ、ヴォーグなどRCA以外のレーベルの洋楽も扱ってきたが、それらはビクター・ワールド・グループという括りでのリリースだった(別扱いのものに1960年スタートのフィリップスもあった)。また、RCAと区別なくビクター・レーベルとしてリリースされていたものには、ダンヒル原盤などもあった。もちろんビクター洋楽はぼRCA原盤というのが基本的な図式だったが、RCAが独立したため、来日アーティストと直接契約しての単発の日本録音や、海外からの買取などで個別のレーベルを設けるまでもないもの、その他邦楽ジャズなどに関しては、旧ビクター洋楽と差別化を計るためか、これ以降ビクター・ワールド・グループのレーベルが使われるようになる。

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ビクター・ワールド・グループ・レーベルの盤が手元には1枚もなかったので、Discogsから写真を拝借した。

1972年4月25日、日本ビクターの音楽ソフト制作部門が独立し、ビクター音楽産業株式会社となった。RCAもビクター音産内の一部門となる。そしてこの時点でビクター・ワールド・グループの名称が使われなくなり、日本制作や原盤買取などの洋楽に、初めてカラーのビクター・レーベルが使われるようになる。

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ただしビクター邦楽は、黒ではないにせよ割と地味なレーベル・デザインのままだった。

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1975年9月、RVC株式会社(RVCはRCA Victor Corporationの略)が設立され、関連会社ではあるものの、RCAが遂にビクターから離れることになった。会社が替わってもRCAのデザインに変更はなく、アナログ時代の終りまで続くことになる。米国では1976年から、アルゼンチンでも1977年にはRCAのレーベル・デザインはこのように変わり、ニッパーが復活する。

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米国盤のジャケットのロゴはRCAのままだったが、アルゼンチンではRCAとビクトルの表記のほか、こちらにもニッパーが再登場する。

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ビクター音楽産業のロゴとレーベル・デザインは、創立50周年を迎えた1977年9月に大きく変わる。赤は邦楽、青は洋楽で、ニッパーが小さくなってしまった。これはアナログ時代の終焉まで続く。

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1986年、RCAの経営危機により、レコード部門は西ドイツのベルテルスマン傘下となり、RCA/アリオラ・インターナショナルを経てBMGミュージックとなった。日本でもベルテルスマンとビクターの合弁で1987年10月にBMGビクターが設立されるが、既にCD時代に突入していた時期でもあり、各レーベル共通デザインの紙のレーベル(ラベルと言った方がわかりやすいか)が盤面を飾っていた時代は終わりを告げる。以後、BMGがかつてのライヴァルだったソニーに完全に吸収されてしまうまでの話は、さすがに追う気力もない。

ビクター音楽産業がJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントとなった今も、日本ではニッパーはロゴとして生き続けているが、キャラクター商品の発売や認知活動はともかく、着ぐるみの「ニッパーくん」が登場するに至っては、違和感を感じざるを得ないのが正直なところだ。

参考文献:
岡敏雄『レコードの世界史 ―SPからCDまで―』音楽之友社 音楽選書(1986年8月第2刷)
中村とうよう「EMIという会社のこと」レコード・コレクターズ1988年7月号
ほか

2019年11月17日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(1)

だいぶ間が開いてしまったが、3つ前の記事、「ホセ・リベルテーラによる日本の歌謡曲集」で予告したように、今回からしばらく、内山田洋とクール・ファイブのレコードを順を追って紹介していきたいと思う。

長崎のグランドキャバレー「銀馬車」で活動していたクール・ファイブは、1969年2月にRCAから「長崎は今日も雨だった」で全国デビュー、またたく間に歌謡界の人気グループとなった。リード・ヴォーカルの前川清は1980年9月にソロでの初コンサート(ライヴ録音あり)を行って以降、グループと平行してソロ活動も行うが、彼が1986年に正式に脱退するまで、クール・ファイブは一度もメンバー・チェンジすることなく活動を続けた。

前川の脱退後もクール・ファイブはヴォーカリストを入れ替えたりしながら活動を続け、現在まで続く前川のソロ・キャリアはクール・ファイブ時代よりも長くなった。2006年11月、リーダーの内山田洋が死去。前川清は残りのオリジナル・メンバー4人に声を掛け、同年末の紅白歌合戦で一夜限りの再結成を果たすが、これが評判となり、現在までソロと平行して「前川清とクール・ファイブ」としての活動も続けている。

このブログで当面取り上げていくのは、前川在籍時のオリジナル・クール・ファイブの時代が対象である。人気グループだったからレコードの種類は大変多い。リアル・タイムでリリースされたすべてのアナログ盤を分類別に整理してみると、以下の通りとなる(4曲入り17センチ33回転盤は除外)。

 (1) シングル…50タイトル(A面曲同士のカップリング替え再発除く)

 (2) オリジナル・アルバム…18タイトル

 (3) カヴァー中心のアルバム…10タイトル(うち4枚組ボックス1タイトル)

 (4) ライヴ・アルバム…9タイトル

 (5) テーマ別の編集盤(シングル曲、(2)(3)収録曲などを組み替えたもの)…13タイトル

 (うち(3)の4枚組のバラ売り4タイトル、非LP化音源含むカセット1タイトル)

 (6) ベスト・アルバム…39タイトル(うち3枚組以上のボックス5タイトル)

 (7) 4チャンネル盤…15タイトル

 (8) 藤圭子とのスプリット・アルバム…11タイトル(うち4ch盤1タイトル)

 (9) RCA所属歌手集合のライヴ・オムニバス…1タイトル

 (10) 通販商品(8枚組ボックス)…1タイトル

このうちメインで紹介していくのは当然(1)と(2)(すでに蒐集は完了)、そして(3)と(4)(未入手のものが各1タイトルずつ)である。これらと曲目の重複する(5)と(6)は特に収集対象としていないため、基本的には曲目紹介に留めておくが、初出音源を含む場合などに関しては適宜紹介していく。

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これらは、一部のものを除けば中古での入手は比較的容易である。それだけ世間に広く浸透していたわけだし、今でもカラオケで歌う、という人たちもいらっしゃるだろう。だが、「評価」という意味ではどうだろう。彼らの革新性、オリジナリティはどこまで語られてきたのか。そもそもシングルA面曲以外のオリジナル・アルバム収録曲は、ほとんどCD化すらされていない。テレビの画面では後ろの方で「♪ワワワワ~」と歌っているだけに見えたメンバーたちの存在意義は? そのあたりにも触れていければと考えている。

まずは、グループの結成からデビューまでの動きを追っておきたいが、実は詳しく書かれた資料が極めて少ない。ここでは、1975年3月リリースのLP7枚組+1『内山田洋とクール・ファイブ全100曲集』(RCA JRS-9251~7)のブックレットに掲載されたメンバー座談会「我れらクール・ファイブ」(司会:玉置 宏)で語られている内容をベースに、他の資料に書かれた内容と照合しながら整理してみたいが、複数の資料で記述が異なり、当事者間の発言内容にも食い違いがみられるなど、整合性が取れない部分が実は多く、この拙文を公開することで、より正しい情報に修正していけることを期待している。

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恐らくは1964年の前半頃、福岡の米軍キャンプで活動していたキーボード奏者、高橋勝(1934年10月12日、山口県宇部市生まれ)が、ヴォーカルの中井昭(1936年7月8日、下関生まれ)に声を掛け、ムード・コーラス・グループ、高橋勝とコロラティーノが結成される。結成時のメンバーとしてギターの山下昭二(1942年8月31日生まれ)のほか、もう1人のギタリストとして福岡県柳川出身の内山田洋(1936年6月6日-2006年11月3日)も参加していたようだ。

彼らは結成して間もなく長崎のクラブに出向くのだが、そこで働いていたのがベースの小林正樹(1943年1月1日、長崎県佐世保生まれ)だった。コロラティーノを初めて観た時の印象を、小林はこう語っている。「まだ全国的なコーラス・グループというのはマヒナスターズをのぞいてはなかった時代でしたから、ビックリしましたね。イヤーッ、こんなグループが長崎にもあるんかいなと」(前述の座談会より)。小林はウッド・ベース担当としてコロラティーノに参加するが、ドラムスに転向して福岡に叩きに行っていた時期もあったという。小林にドラムスを勧めたのが、後にコロラティーノのフルート/サックス奏者として「思案橋ブルース」をはじめレパートリーの多くを作詞・作曲した川原弘(1939年10月23日長崎生まれ)だというから、彼もこの頃にはグループに参加していたのだろう。

その後、コロラティーノからメンバーのひとりが脱退したため、ドラマーとして森本繁(1942年10月23日、鹿児島県鹿児島生まれ)がスカウトされた。話があったのが、森本が福岡から地元鹿児島に戻った翌日だったので、一度は断ろうとしたところを、福岡にいるドラムの師匠から「コロラティーノはいいバンドだから行け」と進言されたのだとか。次いで、福岡のキャバレーにいたサックス/フルートの岩城茂美(1942年1月5日、熊本県八代生まれ)を内山田が引き抜いた。内山田は「彼はそのときアルトを吹いていたんだけど、デスモンドのようなトーンで、この音は僕らもほしかったんです」と語る。デスモンドとはもちろん、デイヴ・ブルーベック(p)との共演で知られるポール・デスモンドのこと。

それから半年ほどして(1966年)、従妹に連れられて内山田のところにやってきたのが、エルヴィス・プレスリーに憧れていた前川清(1948年8月19日、長崎県佐世保出身)だった。真偽の程は不明だが、その時前川がまともに歌うことができたのは、加山雄三の「君といつまでも」たった1曲だったというエピソードも残っている。当時内山田のもとにはギタリスト志望の若者が20人ほど習いに来ていたというが、そんな中からヴェンチャーズ風のエレキ・バンドが結成され、前川もヴォーカルとして加えてもらえることになった。そのグループが、サンライズである。

ダンスホール「八十番館」で演奏活動を開始したサンライズにはオルガン奏者が必要ということになり、「ムーンライト」というダンスホールでピアノを弾いていた宮本悦朗(1948年1月15日、長崎県対馬出身)を内山田がスカウトしてきた。「〈マイアミ・ビーチ・ルンバ〉かなんかを、一生けんめいひいてたな。ちょっと古いスタイルだが、ああ、これは基礎をちゃんとやってるなと思った」と内山田が語り、「僕はクラシックしかやれなかったものだから、サンライズの舞台を見てビックリし、僕にやれるかなと思いましたよ」と宮本が続ける。

その後中井昭・高橋勝とコロラティーノは分裂し、内山田ら4人がグループを飛び出す。コロラティーノは残った高橋、中井、山下、川原に加えて菊池宏典(ベース)、浜島純昭(ドラム)というメンバーでクラブ「十二番館」を根城に活動を続け、1968年4月には日本コロムビアから前述の「思案橋ブルース」でデビューする。

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そして、コロラティーノを脱退した内山田、小林、森本、岩城の4人と、サンライズの前川、宮本が合体する形で、内山田洋とクール・ファイブが誕生するのが、1967年9月のことである。彼らは、十二番館と競合する銀馬車の専属バンドとして活動を開始する。

(文中敬称略、次回に続く)

2019年9月18日 (水)

最高だったフランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ東京公演

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前回もご紹介したとおり、奇跡かと思われたフランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズの再来日公演が実現した。2014年1月の初来日(それも奇跡だったが)の時は18日に日比谷公会堂で1公演のみで、どちらかというと年齢層高めでマニアックな洋楽ファンが頑張って集まったという感じだったが、今回は9月10日と11日が昭和女子大学 人見記念講堂、13日が大阪のフェスティバルホールと、3公演に拡大。もちろんその間には『ジャージー・ボーイズ』を巡る様々な動きがあり、それが再来日実現に繋がったことは間違いない。ちなみに日本で映画が公開されたのは2014年9月27日で、次いでブロードウェイミュージカルのキャストが2015年6月25日から7月5日まで来日公演を行い、その後は、私は観に行っていないが日本人キャストによるミュージカルの日本版まで上演されている。

今回私が観たのは11日の公演。とにかく、10日の公演が終わった時点でFacebookには「楽しかった」「凄かった」「よかった」という声が溢れていたので、期待を更に膨らませて出かけた訳だが、会場の大半を埋めていたのは『ジャージー・ボーイズ』を通過して来た幅広い層の観客たちで、その様子を見るだけでも感無量といった感じだった。

そして肝心のコンサートだが、これがもう凄かった。79歳だった5年半前と比較しても、やはり懸念されたのは85歳という年齢による健康面への影響。私は日頃高齢者と接する仕事をしているので、平均的な85歳がどのような状態にあるかはわかっているつもりだが、ステージに登場したフランキー・ヴァリは、歩く姿こそゆっくりだが、声も佇まいもまったく衰えを感じさせなかった。「年齢の割には…」などという表現がまったく通用しない、現役感バリバリのステージ運び。前回もそうだったが、「神に誓って」の間奏部分で一度引っ込む以外はまったく休憩なしで、数箇所ある曲間のしゃべりも必要最小限。本編とアンコールの間もバンドはそのまま、フランキーが一瞬引っ込んですぐ出てくるという感じで、結局全25曲(曲目は後述)ほぼほぼ歌いっぱなしだった。

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開演前に今回の公演プログラムを開いて驚いたのが、コーラスとダンスを担当する4人もバンドのメンバーも、ほぼ入れ替わっていたことだ。フランキーが全幅の信頼を置いているバンマスでキーボードのロビー・ロビンスンは当然ながら不動だが、あと変わっていないのはサックス/フルートのリック・ケラーだけ。ステージを構成するメンバーやセットリストなどの動向については、ここのところチェックをさぼっていたので、まったく知らずにいたというわけだ。調べてみたらギターのベイジル・ファングは2017年から、ほかの新メンバーたちは2018年から、そしてパーカッションのクリスティアン・モラーガのみ2019年に入ってからの参加ということで、一気に顔触れを一新していたことが判明。

バンドの編成もやや異なり、ギターが2人から1人になり、逆にキーボードがもう1人(サンドロ・レベール)加わった(前回はキーボードも兼任していたケラーは管楽器とパーカッションに専念)。前回は5人いた現地調達の「トーキョー・ホーン・セクション」は2人だけ(トロンボーンとトランペット)に減っていたが、特に物足りなさは感じなかった。そして、全体のアンサンブルは若返った感じでまとまりもよく、各メンバーの力量はもとより、ロビンスンの統率力の強さにも改めて感心させられた。

これまでコーラスとダンスを担ってきた4人、すなわちトッド・フォーニア(2002年参加)、ランドン・ベアード(2003年参加)、ブライアン・ブリガム(同)、その弟のブランドン・ブリガム(2006年参加)は、各自離脱したりしていた時期もありながら、長年にわたりフランキーを支えてきたが、昨年フランキーに祝福されながら独立して新しいグループ、ザ・モダン・ジェントルマンを旗揚げしたとのこと。

新メンバーのうち、エリック・ベイツは2005年から2006年までフォー・シーズンズのコーラスを務め、その後2011年にはブロードウェイ版『ジャージー・ボーイズ』で一時期トミー・デヴィート役を務めたこともあった。残りの3人はロネン・ベイ、クレイグ・ケイディ、ジョセフ・オットで、それぞれ主にミュージカルで活躍してきた若手ということだ。

実は、昨年11~12月のイギリス公演も、今回の日本公演同様「フェアウェル・ツアー」とアナウンスされていて、今後の動向が注目されるところだが、こうした「最後の」一連の公演を前にメンバーをゴソッと入れ替えてリフレッシュさせる、というのはなかなかできることではないだろう。フランキーの体力的にみて、海外への大掛かりな公演は難しくなるが、国内を中心とした演奏活動はこれからも続けてくれる、ということであれば納得もいくのだが。

それでは、当日のセットリストをご紹介しよう(3日間とも同じ)

1. Working My Way Back To You 君のもとに帰りたい
2. Opus 17 (Don't You Worry 'Bout Me)
3. Beggin' 悲しきプロポーズ
4. Save It For Me
5. Dawn (Go Away) 悲しき朝やけ
6. Tell It To The Rain 雨に言っておくれ
7. I've Got You Under My Skin 君はしっかり僕のもの
8. Swearin' To God 神に誓って
9. Silence Is Golden
10. The Night
11. Fallen Angel 天使の面影
12. Grease
13. Who Loves You 愛はまぼろし
14. Call Me
15. Spanish Harlem
16. My Girl/Groovin'
17. My Eyes Adored You 瞳の面影
18. December, 1963 (Oh. What A Night) 1963年12月(あのすばらしき夜)
19. Can't Take My Eyes Off You 君の瞳に恋してる
20. Sherry
21. Big Girls Don't Cry 恋はヤセがまん
22. Walk Like A Man 恋のハリキリ・ボーイ
23. Bye, Bye, Baby (Baby, Goodbye)
(Encore)
24. Rag Doll 悲しきラグ・ドール
25. Let's Hang On!

実に見事な構成だった。オープニングから60年代中期の強力ヒットを立て続けに6曲やって、まずノックアウト。そして個人的にフォー・シーズンズ芸術の頂点と信じるコール・ポーター作品(7)の後は、主に70年代の曲を並べ、『ジャージー・ボーイズ』でのピークを象徴する(13)へと盛り上がっていくわけだが、ここでの最大のポイントと言いたいのが、初来日公演でお預けをくらった(10)を遂に聴けたこと。1972年のモーウェストからのアルバム『カメレオン』収録曲で、一般的な知名度では他のヒット曲群に劣るが、英国でのフォー・シーズンズ再評価への決定打となったグルーヴィな傑作である。18年振りとなった2012年のイギリス公演でロビンスンによる新アレンジで披露され、そればかりかスタジオ・ヴァージョンも録音された。以降イギリス公演は毎年行われ、この曲がハイライトのひとつになってきたと思われる。それはともかく、その2012年の新録が1972年のオリジナルと共に収録された英国編集のCD2枚組“Working My Way Back To You”、折角来日記念盤『君のもとに帰りたい~ニュー・ベスト』(WPCR-18256/7)として国内発売されたにも拘らず(当然会場でも売られていた)、肝心の「ザ・ナイト」が2ヴァージョンともに他の曲と差し替えられてしまっていたことに関しては、前回も触れたとおり。5年前にはやらなかったこの曲が遂にステージでも聴けただけに、なんともやりきれない。

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さて、気を取り直して(14)~(16)は2007年のカヴァー・アルバム“Romancing The '60s”からのコーナーで、前回からは「レット・イット・ビー・ミー」が削られた(このほかに全体を通して、前回やって今回やらなかったのは「ステイ」)。(16)のテンプテーションズ~ラスカルズ・カヴァーのメドレーがやたらウケていたが、これは観客の大多数がこのカヴァー集の存在を知らないということ。知らないのが悪いのではなくて、『ジャージー・ボーイズ』がいくら盛り上がっても、来日があっても国内盤を出そうともしない(これは『カメレオン』を丸々収めた2枚組“The Motown Years”も同様)ユニバーサル・ミュージックの怠慢によるものである。

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相変わらずの名唱(17)、そしてコーラスの4人をフィーチャーした(18)の後は、怒涛の大団円へ。(19)のサビなど、フランキーからみんなで歌うように促されてもなかなか声が揃わなかったのは致し方ないが、客席も大いに盛り上がった。正に夢のような時間だった。本当に、もう「次」はないのだろうか。大阪公演を観た知人の話では、「また帰ってきたい」との言葉も本人の口から出たということで、期待を胸に生きて行きたい。

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会場で売られていた公式プログラムは、本国でのオフィシャルなものをベースに作られていると思われ、写真も満載で、内容はとても充実していた。日本向けに、フランキー本人からのメッセージも英語と日本語訳で掲載されていた。更にオマケとして、「日本盤シングル・リリース」のページも設けられ、私は国内盤はほとんど蒐集していないこともあり、これも見応えがあった。

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ただし、フォー・シーズンズについてはこれで完璧だろうが、フランキー・ヴァリの国内ソロ・シングルについて言うと、少なくとも「天使の面影」(東芝)と「パリでダンスを」(ビクター)が抜けていて、そこがちょっと残念だった。

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今回の公演に接し、改めてフランキー・ヴァリやフォー・シーズンズについて詳しく知りたい、きちんと聴いてみたいと思われた方も多いのではないかと思う。

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最後にまた宣伝になってしまい恐縮だが、彼らの歩みを詳細に追った拙著『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』(スペースシャワーブックス)、まだまだ在庫はあるので、興味のある方はぜひご一読頂ければ幸いです。

2019年8月16日 (金)

フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ来日迫る!/『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』正誤表更新

フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズが“最後の”来日を果たす。…って、公表されたのは6月19日だというのに、ご案内がすっかり遅くなり、とっくにチケットも発売中。何とも間の抜けた話で申し訳ない。とりあえず公式ホームページはこちら

2014年1月の初来日公演は、18日の東京・日比谷公会堂公演1回きりだったが、今回は東京2公演、大阪1公演だ。公演日は9月10日(火)・11日(水)が東京・昭和女子大学 人見記念講堂、13日(金)が大阪・フェスティバルホール。私は11日のチケットを確保した。

来日記念盤としては、ワーナーミュージック・ジャパンから2枚組ベスト『君のもとに帰りたい~ニュー・ベスト』(WPCR-18256/7)が8月21日に出るというのを、雑誌「レコード・コレクターズ」9月号の広告で知った。これは2012年にイギリスで出たCD2枚組“Working My Way Back To You”(Rhino 8122797259)がオリジナルで、イギリスでのフォー・シーズンズ再評価に重要な役割を果たした強力曲「ザ・ナイト」が、72年のオリジナル・ヴァージョン(アルバム『カメレオン』より)と、まさかの2012年新録ヴァージョンと併録されているのが最大のポイントだった。今回は日本盤のみのボーナス・トラックとして「ネイティヴ・ニューヨーカー」を追加した全42曲を収録ということで、ふむふむと納得していたが、さっきワーナーのサイトで曲目を確認して、唖然とした。肝心の「ザ・ナイト」が2ヴァージョンとも削られ、「燃える初恋」「神に誓って」と差し替えられているではないか! もちろんこの2曲はフランキー・ヴァリのソロとしての重要曲だが、なぜ「ザ・ナイト」を外す? 他に差し替えられる曲はいくらでもあるのに、何か「ザ・ナイト」が収録できない理由でもあったのだろうか?

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さて、ということで、彼らの全キャリアを詳しくご紹介すべく2015年に上梓した拙著『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』(スペースシャワーブックス)に、再度ご注目頂ければ、というのが遅ればせながらの本記事の趣旨である。もう書店で見掛けることはまず無理だろうが、まだまだ在庫はたくさんあるようなので、興味のある方は、ネット経由ででもお求め頂ければ幸いである。

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ほったらかしになっていた正誤表(前回のものはこちら)も、4年ぶりに更新した。実は2年以上前、さる高名なラジオDJの方から細かくご指摘頂いたのだが、反映できないまま時間だけが経過してしまった。申し訳ありません。ページと行表示の後に★が付いているのが、そのご指摘に沿って今回追加した部分、★★は自分で気付いて今回改めた部分である。

『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』正誤表(2019年8月版)

13ページ(目次)終りから6行目、256ページ11行目、260ページ6行目、同7~8行目★
(誤)(イン・グロウン・アップ・クローシズ)
(正)(イン・グロウン・アップ・クローズ)

48ページ終りから5行目★
(誤)ムーディに歌う
(正)ムードたっぷりに歌う

54ページ6行目
(誤)(クライド)マクフィター
(正)マクファター

91ページ10行目
(誤)歩いているの見た
(正)歩いているのを見た

142ページ7~8行目
(誤)〈シェリー〉〈あの日の涙〉に関しては
(正)〈シェリー〉に関しては

169ページ4行目、6~7行目、終わりから2行目
(誤)レスリー・キャロン
(正)レズリー・キャロン

176ページ2行目
(誤)〈ドント・ピック・オン・マイ・ベイビー〉
(正)〈ドント・ピック・アップ・マイ・ベイビー〉

203ページ1行目
(誤)スパーリングの自作曲
(正)ゴスティングの自作曲

206ページ1行目★
(誤)コード
(正)コーエド

208ページ最終行の後に次の2文を追加
 〈ドント・レット・ゴー〉は六七ページでも紹介した通り、一九五七年一〇月に録音されたザ・フォー・ラヴァーズのシングル〈パッカー・アップ〉でアレンジを手掛けたジェシー・ストーンがそれと同時期に書き、黒人歌手ロイ・ハミルトンがヒットさせた曲のカヴァー。大変珍しいことに、ニック・マーシがハミルトンに似せてリード・ヴォーカルを担当している。
 〈踊ろよ、ベイビー〔ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ダンス〕〉は、サンフランシスコ出身の黒人シンガー・ソングライター、ボビー・フリーマンの自作で、一九五八年に全米五位、R&Bチャートでは二位を記録した。これはピアノ基調のロックンロールだったが、一九六二年にクリフ・リチャード&ザ・シャドウズがギター中心のアレンジにして全英二位とした。フォー・シーズンズはメロディを少し変え、ホーンも入れてカヴァーしている。ザ・ビーチ・ボーイズの一九六五年のヴァージョン(全米一二位)も完成度が高いが、メロディはフォー・シーズンズ版をベースにしている。

250ページ終りから5行目
(誤)そして六月二二日に発売
(正)そして六月二八日に発売

278ページ終りから3行目
(誤)マイ・ワールド・ビューティフル・バード
(正)マイ・ワイルド・ビューティフル・バード

287ページ5行目★
(誤)ホエン・イット・レインズ・イット・プアーズ
(正)ホエン・イット・レインズ・イット・ポーズ

331ページ6行目★
(誤)ウォーキング・マイ・ウェイ・バック・トゥ・ユー
(正)ワーキング・マイ・ウェイ・バック・トゥ・ユー

348ページ終りから3行目
(誤)《グッド・タイムス》
(正)《グッド・タイムズ》

357ページ終りから2行目
(誤)付属している確立
(正)付属している確率

381ページ5行目★
(誤)アソシエイテッド・プレス紙
(正)AP通信

388ページ終りから6行目
(誤)ニック・マッシ
(正)ニック・マーシ

417ページ4行目
(誤)後にも先にも唯一の経験となった
(正)数少ない経験のひとつとなった

422ページ1行目
(誤)『トイ・ストーリーズ』
(正)『トイ・ストーリー』

429ページ5~6行目
(誤)マヘリア・ジャンスンに
(正)マヘリア・ジャクスンに

446ページ9行目
(誤)ハイ・ホー・シルヴァー・リニング
(正)ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング

459ページ左 "RARITIES, VOLUME 2" 14曲目
(誤)A NEW MORNING
(正)A NEW BEGINNING

481ページ左 "B) POOR FOOL" 作者クレジット★
(誤)A. Ruzicka)
(正)(A. Ruzicka)

505ページ左 Motown M 1251F 見出し★
(誤)[Bonus tracks]
(正)[Promotional Copy]

506ページ3~6行目
(誤)波の音のSEから始まり、スケール感のある作品に仕上がっている。実はこの曲にはヴァージョンが二つあり、女性コーラスがハーモニーを付けているのが、ここでシングルになったフランキーのソロ。メンバーがハーモニーを付けたフォー・シーズンズ版も作られたが当時は未発表に終わっている。
(正)スケール感のある作品に仕上がっている。実はこの曲にはヴァージョンが二つあり、女性コーラスがハーモニーを付けているのが、ここでシングルになったフランキーのソロ。波の音のSEから始まり、メンバーがハーモニーを付けたフォー・シーズンズ版も作られたが、当時はイタリア盤にのみ収録された。

520ページ3行目
(誤)コーラス・ハーモニー入りの未発表別ヴァージョン
(正)コーラス・ハーモニー入りのレアな別ヴァージョン

524ページ1行目★
(誤)ナサン・ジョーンズ
(正)ネイサン・ジョーンズ

562ページ4~5行目★★
(誤)マイケル・オマーティアン
(正)マイケル・オマーシャン

610ページ8行目
(誤)ドゥ・ワップを歌っていたベトナム戦争から
(正)ドゥ・ワップを歌っていた。ベトナム戦争から

616ページ8行目
(誤)涙の分かれ道
(正)涙の別れ道

618ページ2行目
(誤)私は二度
(正)筆者は二度

632ページ最終行
(誤)クラレンス・クレモンス
(正)クラレンス・クレモンズ

2019年8月 2日 (金)

ホセ・リベルテーラによる日本の歌謡曲集

ピアニストのオラシオ・サルガン率いるキンテート・レアル。タンゴ界きっての名五重奏団である彼らが1969年の3度目の来日の折、クラウンからの依頼を受け、日本の歌謡曲を独自の解釈で演奏した珍品アルバム『年上の女 ―キンテート・レアル・イン・赤坂―』を当ブログで紹介したのは、2017年8月のことだった。そこでは「60年代後半の日本では、アルゼンチンの楽団に日本の曲を演奏させる企画がほかにもいくつもあり」と書き、他の例も簡単に紹介したが、70年代以降になるとこの手の企画はほぼ消滅する。今日はその唯一の例外といえそうなホセ・リベルテーラの『タンゴ・ミーツ・ジャパン』を紹介する。

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バンドネオン奏者のホセ・リベルテーラ(1933~2004)は1948年のプロ・デビュー以降、様々な楽団や歌手の伴奏などで活動し、1967年にはキンテート・グローリアのメンバーとして名歌手エドムンド・リベーロと一緒に来日を果たしている(1974年にはカルロス・ガルシーア率いるタンゴ・オール・スターズのメンバーとして再来日)。そして1973年に同じくバンドネオン奏者のルイス・スタソと共同で立ち上げたセステート・マジョールが、名実共に彼の代名詞となった。

現代感覚と大衆性を兼ね備えた、つまり大変洗練されていて同時に親しみやすいタンゴを送り届けてくれたセステート・マジョールは、1973年から80年代半ばまでアルゼンチンEMIに充実した録音の数々を残し、内外のステージでも大活躍を続ける。

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彼らは80年代中盤以降、パリからブロードウェイを経て世界的人気を博したステージ『タンゴ・アルヘンティーノ』の演奏面での中核としてタンゴ・ブームを牽引した。

彼らの存在はなんとロック界からも注目され、ブライアン・フェリーの『Bête Noire』(1987年)にはリベルテーラ、スタソ、ヴァイオリンのマリオ・アブラモビッチの3人で、Tボーン・バーネットの『The Talking Animals』(1988年)には全員+『タンゴ・アルヘンティーノ』参加ミュージシャン5名で、1曲ずつだが参加しているほどだ。後者の参加曲「Image」はバーネットの自作曲だが、なんとアレンジがヴァン・ダイク・パークスで、ヴォーカルにルベン・ブラデスらが参加という異色の顔合わせによるものだった。

ホセ・リベルテーラ楽団は1978年に来日し、2月24日から5月20日まで全国長期公演を行った。これはセステート・マジョールにバンドネオン2台、ヴァイオリン3本を加えオルケスタ・ティピカ編成とし、リベルテーラを単独リーダーとしたもので、当時マジョールの第2ヴァイオリンだったマウリシオ・ミセは体調を崩していたため、エドゥアルド・マラグアルネーラが代役を務めた。公演にはセステートのみの演奏パートも含まれていたとのことだ。このメンバーでツアー終盤近くの5月16日、東芝EMI第1スタジオにて行方洋一氏のプロデュースのもと、ダイレクト・カッティング盤『これがタンゴだ!!』(Toshiba LF-95018)も録音された。

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リベルテーラ楽団のステージでは、1977年に大ヒットした石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」もタンゴに意匠換えして演奏されたという。同曲をトップに据えた『タンゴ・ミーツ・ジャパン』はホセ・リベルテーラの個人名義で、来日の翌年にあたる1973年3月20日に東芝EMIからリリースされている。当時レギュラー新譜の価格がおおむね2,500円だったのに対し、2,000円というやや廉価仕様でのリリース。雑誌「中南米音楽」4月号のディスコ・ガイド欄で紹介されているが、1年前の公演で大いに盛り上がったアーティストの新譜としては同誌での扱いは低い。なによりレヴュワーがアルバムのライナー執筆者でもある蟹江丈夫氏で、お荷物扱いの感は否めなかった。

私も、資料として盤を持ってはいたものの、普段聴くことはなく、ずっと棚にしまわれていたままだった。それを今回紹介することにしたのは、数ヶ月前フランス人の某バンドネオン奏者に「聴いてみたい」と頼まれてデジタル化したのがきっかけだった。改めて聴いてみたら、なかなか工夫が凝らされていて実に面白く、ついでに取り上げられた楽曲の元歌もちゃんと聴いてみたら(もともと持っていたのは西田佐知子の「女の意地」だけだった)、意外な方向へ展開することになってしまった(それについては後述)というわけだ。まずは曲目を紹介しよう。キンテート・レアルの回に倣い、各曲の作詞・作曲者(と今回は編曲者も)、オリジナル歌手、シングルの発売年月日を加え、以下にまとめてみた。

『タンゴ・ミーツ・ジャパン』(EMI Odeon EOS-60029)
(演奏)ホセ・リベルテーラ 1979年3月20日発売

A面

1. 津軽海峡・冬景色
作詞:阿久 悠/作曲・編曲:三木たかし
歌:石川さゆり(1977・1・1)

2. 昔の名前で出ています
作詞:星野哲郎/作曲:叶 弦大/編曲:斉藤恒夫
歌:小林 旭(1975・1・25)

3. コモエスタ赤坂
作詞:西山隆史/作曲:浅野和典/編曲:秋葉 洋
歌:ロス・インディオス(1968・5・1)

4. そんな夕子にほれました
作詞:海老名香葉子/作曲:山路進一/編曲:竜崎孝路
歌:増位山太志郎(1974・8・10)
※マキシム・レコードからのオリジナル
1977年に編曲:かみたかしで再録音し、ユニオン(テイチク)から再リリース

5. そして、神戸
作詞:千家和也/作曲:浜 圭介/編曲:森岡賢一郎
歌:内山田洋とクール・ファイブ(1972・11・15)

6. 乾杯
作曲:ホセ・リベルテーラ

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B面

1. 北の宿から
作詞:阿久 悠/作曲:小林亜星/編曲:竹村次郎
歌:都はるみ(1975・12・1)

2. 女の意地
作詞・作曲:鈴木道明/編曲:川上義彦
歌:西田佐知子(1965・11)
※「赤坂の夜は更けて」B面。1970年12月1日にA面曲として再リリース

3. 知りすぎたのね
作詞・作曲:なかにし礼
歌:ロミ山田(1967・9・15)編曲:渡辺たかし
歌:ロス・インディオス(1968・8・20)編曲:早川博二

4. おゆき
作詞:関根浩子/作曲:弦 哲也/編曲:丸山雅仁
歌:内藤国雄(1976・5・1)

5. わたし祈ってます
作詞・作曲:五十嵐悟/編曲:竜崎孝路
歌:敏いとうとハッピー&ブルー(1974・7・25)

6. 出船
作詞:勝田香月/作曲:杉山長谷夫

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A面・B面共、最後の曲だけは現代の歌謡曲ではないという構成もキンテート・レアルの『年上の女』と同様で、キンテート・レアルの盤ではそれぞれ「ラ・クンパルシータ」「エル・チョクロ」というタンゴの有名曲が置かれていたが、リベルテーラの方はA面6曲目が日本のファンに捧げた彼自身のオリジナル(曲調も歌謡曲を意識した感じ)、そしてB面6曲目の「出船」は1922年(大正11年)に発表され、1928年(昭和3年)に藤原義江が歌ってヒットさせた曲で、これを現代風にアレンジしている。この曲はフルビオ・サラマンカ楽団『城ヶ島の雨 アルゼンチン・タンゴ・イン・ジャパン』(1966年2月発売)、フロリンド・サッソーネ楽団『“ダイナミック”サッソーネ 日本の名曲集』(1966年12月発売)という、アルゼンチンのタンゴ楽団が日本の曲を取り上げたものとしては比較的初期にあたる2枚で、かつて取り上げられていたことがあった(未聴だが、ロス・セニョーレス・デル・タンゴ『ロス・セニョーレス・デル・タンゴ・イン・ジャパン』[Union UPS-28] にも収録されている)。

そもそもこの手の、日本の曲をタンゴ楽団が演奏するという企画がいつ始まったのか、ちょっと辿ってみた。まず、1959年7月に単身来日し、日本に於けるタンゴの普及に貢献したチェロ奏者、リカルド・フランシアが同年末に発表した10インチ盤『世界のタンゴ』(Polydor LPP-1032)。これは、フランシアが日本人の楽団(その実体は、小沢泰とオルケスタ・ティピカ・コリエンテスのメンバーが中心とのこと)を率いて録音したもので、冒頭の「エル・チョクロ」以外はメキシコの「ある恋の物語」、イタリアの「オー・ソレ・ミオ」、ロシアの「黒い瞳」、ドイツの「カペシータ」、フランスの「愛の賛歌」といった、ヨーロッパのタンゴを含む各国のよく知られたメロディーの曲を、本格的なタンゴにアレンジしてみせるというものだった。この最後に日本のメロディーとして収められていたのが「出船」だった。

では、日本のタンゴ楽団はどうだったか? 更に遡ると、戦前から戦中・戦後にかけて活躍した日本に於けるタンゴの草分け、桜井潔とその楽団(サクライ・イ・ス・オルケスタ)まで辿り着いてしまった。西村秀人氏の企画監修によるCD8枚組(+1)『タンゴ・エン・ハポン 1940-1964』(Victor VICG-60178~85)に蟹江丈夫氏が書かれた解説から引用してみよう。

桜井潔がサクライ・イ・ス・オルケスタを結成して映画館のアトラクションに出演した時、聴衆の反応は今一つであった。桜井は「まだ大衆にアルゼンチンの、またヨーロッパの曲をそのまま演奏してぶつけるのは早いな」と思い、日本のメロディーを軽快に演奏して先ず聴衆にぶつけてみようと思い立った。

これはだいたい1937年頃の話だが、この時最初にアレンジした3曲が、「宵待草」「出船」「荒城の月」だった。「出船」は残念ながらレコーディングはされなかったのだが。

話を戻して、キンテート・レアルの『年上の女』は、いささか強引なアレンジのピンキーとキラーズ「恋の季節」まで、ほとんどが1968年1年間のヒット曲で占められていたが、リベルテーラの『タンゴ・ミーツ・ジャパン』の方は、もう少し幅広い時代の作品から、より演歌寄りの作品にしぼって選曲されていて、タンゴとの相性の良さも感じられる。サルガンが築き上げた独自のスタイルは強固なものであり、そこにどんな曲を当てはめても一応それらしく聴こえるという利点はあっただろうが、『年上の女』の録音に際しては、ハードな全国ツアーの合間に、体調も優れない中で短期間で編曲から録音までをこなさなければならなかったわけで、さすがにやっつけ感も出ている。それに対して『タンゴ・ミーツ・ジャパン』は、企画から選曲、編曲から録音までのスケジュールがどのようなものだったかは定かではないが、時間を掛けて丁寧にアレンジされた感じはアルバム全体から伝わってくる。

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残念なのは、曲目表記や解説に誤表記が目立つこと。「津軽海峡・冬景色」の「・」がなく「津軽海峡冬景色」となっていたのは仕方ないとして、「そして、神戸」の「、」もなかったし、「わたし祈ってます」が「私祈ってます」ではニュアンスも違ってしまう。「そんな夕子にほれました」が「惚れました」になっていたのも同様だが、なにより歌手名が「増位山志太郎」では失礼だ(正しくは「太志郎」)。各曲にはスペイン語タイトルも付けられているが、「津軽海峡冬景色」"Estampa de invierno"のinviernoがinvrrno、「昔の名前で出ています」"Me presento nombre de ayer"のnombreがmombreと、スペルミスも多い。「北の宿から」が"Desde cuna del norte"となっているが、"Desde hostal del norte"とすべきではなかったか。

『タンゴ・ミーツ・ジャパン』には『年上の女』と共通するレパートリーが1曲だけある。なかにし礼が作詞だけでなく作曲も手掛けた「知りすぎたのね」がそれで、以前書いたように当初ロミ・山田が歌い、オリコンで33位まで上がったが、翌1968年にはロス・インディオスがカヴァーし、4位の大ヒットとなっている。ヴォーカルの棚橋静雄、アルパやギター、チャランゴをこなすチコ・本間を中心に1962年に結成され、ラテン音楽をレパートリーにしていたロス・インディオスは、これに先駆けてリリースした「コモエスタ赤坂」(これもここで取り上げられている。オリコンで75位)でラテン系ムード・コーラス歌謡グループとしての新しいキャリアをスタートさせたところだった。女言葉を男性コーラスで歌うというスタイルが、確かにこの曲に関してはマッチしている。そしてこの曲にはバンドネオンも使われていた。

ロス・インディオスの2曲や、敏いとうとハッピー&ブルーの「わたし祈ってます」(原曲は1970年にリリースされた松平直樹とブルー・ロマンの「幸せになってね」だと、その後知った。松平は元マヒナ・スターズ)を聴いて、がぜんムード・コーラスに興味が沸いてきたのだが、止めを刺された感じとなったのが、「そして、神戸」を歌う内山田洋とクール・ファイブである。

クール・ファイブに関しては、かなり以前から一度はちゃんと聴きたいと思っていたのだが、折り良く4月に関内のディスク・ユニオンのセールで、『内山田洋とクール・ファイブ・ゴールデン・ヒット・デラックス16』(似たようなベスト盤が多数あるが、これは1976年11月発売のもので、フィーチャーされた当時の最新曲は「女の河」)を140円でゲットして、衝撃を受けてしまった。

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「そして、神戸」に於ける、千家和也(今年の6月13日に惜しくも逝去)の不条理極まりない歌詞と、それを歌う前川清の圧倒的なヴォーカルが象徴的だが、それだけではない楽曲や表現の多彩さ。リード・ヴォーカルとバック・コーラスの絶妙な関係。これも後で知ることになるのだが、各メンバーはそれぞれ卓越したミュージシャンでありながら、スタジオ録音ではほとんどコーラスに専念するのみで、その表現場所はステージであったということ(各メンバーの作品のみで構成されたアルバムも2枚ある)。その世界を知るには、当然ベスト盤1枚で満足できるものではなく、レコード探索の旅が始まった。

さすがは人気グループ、出ているシングルやアルバムの数も多いが、一部を除いて入手は容易かつ安価なので、前川清在籍時のクール・ファイブに限れば、3か月半で大半の音源は揃えることができた(ほとんど全てアナログ、今のところCDはBOXを1セットのみ)。というわけで、それらの詳しい紹介を、次回以降続けていければと考えている。

2019年3月20日 (水)

パソコンの内蔵ハードディスク・ドライブの交換

「パソコン買いました」のタイトルで、NECのValueOneというWindows XPパソコンの購入について書いたのは、訳書『ピアソラ 自身を語る』が出た直後の2006年9月のことだった。その5年後の2011年9月には次のパソコンを購入しているが、買い替えに踏み切った直接の理由はよく覚えていない。この時買ったのは、PCワンズというショップのBTOパソコン(一応Micro gear A3850/H)という型番が付いていた)で、OSはWindows 7 Professional 64Bit、起動ドライブはSSD(Crucialの64GB)、データはHDD(Western Digitalの1TB)という構成を選択。本体の合計価格は98,785円だった。ディスプレイはLGの21.5型液晶タイプ(E2260V)を別途購入し(amazonで12,817円)、キーボードはValueOneのものをそのまま継続して使用。

SSDの64GBというのは、当時としては標準的な容量ではなかったかと思うが、少しずつ膨れ上がり、移動可能なファイルをことごとくDドライブのHDDに移しても、まったく余裕がなくなってしまったので、2017年10月にSanDiskの240GBのもの(SSD PLUS)に交換。2011年には64GBで11,980円だったものが、6年後には240GBで9,649円とは安くなったものだと実感。Crucialの64GBのものもケース内に残し、一時ファイル置きとして使えるようにしてある。

2018年2月にはバッファローのブルーレイドライブ(パイオニアのOEM)が動作不良となったため、パイオニアのバルク品(BDR-209BK/WS2)と交換。これもだいたい同じようなスペックで12,800円→8,425円と安くなっていた。

そんなこんなでその後も使い続けていたが、数日前から、急に動作が遅くなり、フリーズには至らないものの、頻繁に「(反応なし)」の表示が出るようになり、どうにもならなくなった。原因を探るうちに、「ハードディスク エラーの修復に関する手順」というメッセージが。ついにHDDが寿命を迎えつつあるということが判明し、早急にデータを取り出さねばならないことになった。外付けの1TBのハードディスクもあるが、いろいろ入っているし、整理している時間はない。いずれにしても内蔵HDDの交換は必至であるということで、SEAGATEの2TBで7,200rpmのもの(BarraCuda ST2000DM008)がコストパフォーマンスが良さそうなので買ってきた(6,280円!)。

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さて、動きの非常に遅くなった状態で、どうやってデータをうまく移すか。ケースを開け、CrucialのSSDに繋いであったシリアルATAケーブルと電源をBarraCudaに繋ぎ替え、まずはフォーマット。Fドライブが割り当てられた。

Acronis True Image WD EditionでDドライブ→Fドライブのクローン化を試み、途中までは何とか進んだが、手順どおり作業中に再起動したところで、先に進まなくなってしまい断念。次にEaseUS Todo Backup Freeでやはりクローン化しようとしたが、途中で「パーティションサイズ変更の範囲取得に失敗しました」とエラーが出てアウト。

最終的に、エクスプローラで隠しファイルも表示するようにした上で、すべてのファイルとフォルダを普通にコピーすることにした。データの分量は合計で550GBほどだったのだが、すべてコピーし終わるのになんと20時間以上掛かった。I/Oデバイスエラーでコピー出来なかったファイル(どちらも重要なものではなかった)が2つあった程度で、なんとかコピーは完了。

後は、データを移された新しいHDDを、何事もなかったかのようにDドライブとして使えるようにする必要がある。コンピューターの管理→「ディスクの管理」を開くと、

ディスク0
システムで予約済み(システム、アクティブ、プライマリ パーティション)
(C:)(ブート、プライマリ パーティション)
ディスク1
(D:)(ページ ファイル、アクティブ、プライマリ パーティション)
ディスク2
(F:)(プライマリ パーティション)

となっているので、Fドライブを右クリックして「パーティションをアクティブとしてマーク」する。ページファイルの設定は後にして、いったんシャットダウン。

ここで古いHDDを外し、新しいHDDをその場所にセット。セーフモードで立ち上げると、ページファイルが設定されていない云々と出るが、とりあえず無視し、再び「コンピューターの管理」→「ディスクの管理」を開く。外したDドライブも「システムで予約済み(D;)」としてリストに載っているので、これを任意のドライブ(とりあえずZにした)に変更し、FドライブをDドライブに変更。そしてページファイルの設定を行い、再起動。

エラーが出たらどうしようという心配は杞憂に終わり、何事もなかったように立ち上がり、Dドライブのファイルにアクセスできている。動きもスムーズだ。

2019年3月 7日 (木)

エドゥモンダ・アルディーニとピアソラの貴重な共演盤、配信開始

アストル・ピアソラ五重奏団1973年の貴重映像について紹介した前回のエントリーでも簡単に触れた、イタリアの女優エドゥモンダ・アルディーニのアルバム『Rabbia e Tango(嫉妬とタンゴ)』(Ricordi SMRL 6117)。

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ピアソラ=オラシオ・フェレール作品(歌詞は1曲を除きイタリア語に翻訳)をピアソラ自身がコンフント9もしくはそれに準じる編成で伴奏しているこの幻のアルバムは、1974年初頭にリコルディからリリースされたまま、ほとんどのピアソラ・ファンにその存在すら知られないまま長い年月が経過した。私は2000年9月にようやく入手し、雑誌「ラティーナ」同年12月号で簡単に紹介。拙ブログでも2005年2月のエントリー「エドゥモンダ・アルディーニとアメリータ・バルタールとピアソラ(改定版)」で詳しく紹介した。

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『Rabbia e Tango』に収録された8曲のうち「Ballata Per Un Suonato (Balada Para un Loco)(ロコへのバラード)」「Rinascero' (Preludio Para el Año 3001)(3001年へのプレリュード)」「Balada Para Mi Muerte(わが死へのバラード)」の3曲には、アメリータ・バルタールがコンフント9の伴奏で歌った再録音ヴァージョン(オリジナルは、ピアソラが名前を出さずに伴奏オーケストラを指揮したCBS録音)とまったく同じオケが使われていた。アメリータ+コンフント9版のこの3曲は、イタリアでのマネージャーだったアルド・パガーニがピアソラの死後各国の様々なレーベルに売りさばいて乱発された一連のCDでお馴染みになったもの。これらCDのソースとなったのは、アルゼンチンRCAからのシングル数枚と、それらを元にいずれも1975年に組まれた次の2種のLPだった。

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10曲入りのブラジル盤『Amelita Baltar』(Fermata 304.1045)

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8曲入りのスペイン盤『Amelita Baltar』(Ariola 88.714-I)

エドゥモンダとオケがダブる上記3曲はアルゼンチンでは当時未発売、上のブラジル盤が初出で、スペイン盤には未収録だった(その代わりスペイン盤には、ブラジル盤に未収録の「El gordo triste(悲しきゴルド)」を初収録)。そのことが最終的に判明したのは、スペイン盤の入手が叶った2009年6月のことだった。それについては当時「アメリータ・バルタールのレコード、最後の(?)謎解き」で記事にしているが、同じオケで歌うアメリータとエドゥモンダ、録音したのがどちらが先だったのかは不明なままだ。

エドゥモンダ・アルディーニの『Rabbia e Tango』は一切未復刻、未CD化のままで、いくら内容について解説したところでピアソラ・ファンのみなさんに聴いて頂けない空しさを常に感じていたが、なんと先月(?)から、ギリシャのミキス・テオドラキス作品を歌った1970年の『Canta Theodorakis (Canzoni in Esilio)』共々、SpotifyApple Musicで配信やダウンロードがスタートしていた! これでようやく胸のつかえが取れた感じだ。ピアソラの文字が一切ないので、検索しにくいのが難点ではある。

Rabbia e Tango by Edmonda Aldini on Spotify

Rabbia e Tango by Edmonda Aldini on Amazon Music

そしてなんと、エドゥモンダが「Madre Terra, Madre Mia (La Primera Palabra)(母なる大地、わが母〈最初の言葉〉)」を歌うテレビ映像がYouTubeに上がっていた!

伴奏はカラオケでピアソラの姿はなく、歌もレコードとまったく同じなので口パクのようだが、貴重である。観客の反応はなんだか今ひとつだが。

2019年3月 1日 (金)

アストル・ピアソラ五重奏団、1973年の超貴重映像

1973年はアストル・ピアソラにとって、残された記録の少なさという点で空白に近い年である。1971年末から1972年にかけて率いたコンフント9(ヌエベ)では音楽的に高い成果を上げたが、1973年に入って間もなく経済的な理由から解散を余儀なくされ、従来のキンテート(五重奏団)のフォーマットに戻ることになった。ピアソラ(バンドネオン、編曲)、アントニオ・アグリ(ヴァイオリン)、オスバルド・タランティーノ(ピアノ)、オラシオ・マルビチーノ(エレキ・ギター)、キチョ・ディアス(コントラバス)という新しい組み合わせで活動を開始したのは4月だが、10月25日にはピアソラ自身が心臓発作で倒れ、実質的な活動は半年で中断されてしまう(ちなみに、体調が回復したピアソラが1974年3月にイタリアに拠点を移して以降も、このメンバーでのライヴはブラジルなどで行われている)。

1973年の公式録音は、この年に一部が録音された可能性があるイタリアの女優エドゥモンダ・アルディーニとのアルバム『Rabbia e Tango』を除くと、コンフント9での最後の録音となった[※注]「Jeanne y Paul(ジャンヌとポール)/El penúltimo(エル・ペヌルティモ)」(RCA Victor 31A-2286)と、オーケストラ編成で7月24日に録音されたフォード・ファルコンのCM曲「Un día de paz(平穏な一日)」(31A-2341)の3曲のみである。

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※注:2005年にアルゼンチンのソニー/BMGからEditión Críticaシリーズの1枚としてリリースされたコンフント9の『Música Popular Contemporánea de la Ciudad de Buenos Aires (Vol. 2)(ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第二集)』(RCA 8287 674270-2)にボーナス・トラックとして収められた際、録音日が「1973年2月8日」と初めて記載されたが、監修のディエゴ・フィシェルマン氏自身が、1972年に録音された本編と「同年に録音された」と解説に書き、他の様々な状況と照らし合わせても、実際には1972年録音である可能性が高い。
Critica

「平穏な一日」はキンテートでも録音したとのことだが、日の目は見ていない。現在ファルコンのCMは1962年から1992年までの分をYouTubeでまとめて観ることができる。

「平穏な一日」が使われたCMはここで確認できる限り4種類あり、1973年から1980年頃までの長期間使われたようだが、いずれもオルケスタによる同じ演奏である(最初の2種は、レコードにないスローなエンディングが付け加えられている。該当部分は動画の27分27秒あたりから31分17秒までで、上の埋め込みではその箇所からスタートするよう設定してある)。

1973年のピアソラ・キンテートと言えば、1997年10月にフランスのミランからリリースされた秀逸なライヴ盤『Muerte del Angel』(Milan Sur 74321 51140-2)をご記憶のピアソラ・ファンも多いだろう。国内では2000年8月にBMGファンハウス(当時)から(BVCF-35024)、2005年8月にビクターエンタテインメントから(VICC-60450)『天使の死~オデオン劇場1973』のタイトルでリリースされ、いずれも私がライナーを執筆した。
Muerte

その邦題にもあるように、この未発表ライヴは1973年7月にブエノスアイレスのオデオン劇場で録音されたものと明記されているが、実はこれは誤りのようだ(これは人づてに聞いた話なので、100%の確証はない)。研究団体ブエノスアイレス・タンゴ・クラブ(BATC)会長のミゲル・アンヘル・フェルナンデス氏によれば、この録音はそもそも、クラブの古くからのメンバーであるサンタフェ州ロサリオ(アグリの出身地でもある地方都市)在住の某氏が、当地でのコンサートの折に録音機材を持ち込んでクロムテープ(カセット)に演奏を収め、クラブに提供したものだという。このテープはピアソラの周辺でシェアされていたようで、実は私も個人的に、ピアソラの盟友だったチェロ奏者のホセ・ブラガートから、CD化より前にここからの2曲が含まれたカセットを頂戴しており、それは今も手元にある。

Casette

ピアソラの死後、録音主がテープをミランに持ち込んで商品化された際に、なぜ同時期のオデオン劇場でのライヴということにされたのか、その理由はわからない。キンテートはオデオン劇場でも実際に演奏しているが、その時の録音は一切残されていないとのこと。そのことをひっそりと証明すべく、BATCではコレクター向けCD-Rの形で『Quinteto en Vivo - Rosario 1973』として一時期リリースしており、日本でもラティーナが取り扱っていた(現在は品切れ)。
Rosario

聴き比べると、明らかに同じ演奏、同じ録音だが、ミラン盤ではBATC盤の方で聴ける長い拍手やカウント、ピアソラの曲目紹介などをカット、またイコライジングなどで音をいじっている。BATC盤の方がより自然だが、各トラックの終わりに無音部分が出来てしまっているので、私はパソコンに取り込んでその部分を削除し、自然な流れで聴けるように細工している。

さて、そのロサリオでのライヴ録音が唯一と思われた1973年のキンテートだが、なんとそれ以外に、超貴重な映像が残されていた! 6月にウルグアイのモンテビデオを訪れた際、4チャンネルの番組『Sábados de tango(タンゴの土曜日)』に出演した時のものである。
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写真の向かって右に写っているウルグアイの名物司会者ミゲル・アンヘル・マンシ(1910~1984)が案内役のこの番組は、1971年にスタートし、ブエノスアイレスからも後述する多くの大物を招いている。当時2インチVTR(テープが大変高価だったため、放送後上書きして再利用するのが一般的で、世界的にどの放送局でもほとんどの番組がまともに保存されていない)で録画されたこの番組からの貴重なソースが、40年以上を経て遺族ら関係者の手によって発掘され、YouTubeにて公開されている。

EL TANGO CON MIGUEL ANGEL MANZI

状態は悪いが、恐らくここにアップされているのが現存している映像の全てだと思われるので、出演順は不明だがその顔触れを挙げておく。

チャルロ(歌手)
フアン・ダリエンソ(楽団。歌手はオスバルド・ラモス、アルベルト・エチャグエ)
オラシオ・フェレール(作詞家)
フロレアル・ルイス(歌手)
アニバル・トロイロ(四重奏団)
アストル・ピアソラ(五重奏団)
エドムンド・リベーロ(歌手)
ロベルト・ゴジェネチェ(歌手)
フリアン・センテージャ(詩人)
ロシータ・キロガ(歌手)
サンティアゴ・ゴメス・コウ(俳優)

他のアーティストのものはまだ一部しか観ることができていないが、とりあえずはピアソラである。マンシとピアソラやメンバーとの会話を挟みながらの全8曲で、トータル58分34秒という圧巻の内容である。1~2曲のテレビ出演や、映画やドキュメンタリー番組の一部といった断片的な形でなく、また当て振り(あらかじめ録音された音に合わせて、弾いている振りをする)でもなく、インタヴューや街の風景などの映像が演奏の途中でかぶさることもなく、これだけまとまった形で演奏それ自体を堪能できるものとしては、ピアソラにとって現存する最古のものであり、とんでもなく貴重なものである。

何はともあれ1曲ごとの映像を埋め込んでおく。ピラーボックス(左右の黒い帯の部分)に挟まれた画面が、通常の横4:縦3ではなく横3:縦4という縦長のいびつな状態になってしまっていて、音量もかなり小さいなど、視聴にはかなり問題が多い状態だが、これを改善してまともな形に直すやり方はあるので、後で詳しく説明する。

01. Verano porteño(ブエノスアイレスの夏)

02. Buenos Aires hora cero(ブエノスアイレス零時)

03. Lunfardo(ルンファルド)

04. Todo Buenos Aires(トード・ブエレスアイレス)

05. Fracanapa(フラカナパ)

06. Retrato de Alfredo Gobbi(アルフレド・ゴビの肖像)

07. Adiós Nonino(アディオス・ノニーノ)

08. Otoño porteño(ブエノスアイレスの秋)

前述した“ロサリオでの”ライヴ盤『天使の死』と並ぶ、1973年のピアソラ・キンテートの貴重な記録だが、曲目の重複が少ないのも魅力。ちなみに『天使の死』はこんな曲目だった。

01. Verano porteño(ブエノスアイレスの夏)
02. Los poseídos(ロス・ポセイードス)
03. Milonga del ángel(天使のミロンガ)
04. Muerte del ángel(天使の死)
05. Adiós Nonino(アディオス・ノニーノ)
06. Otoño porteño(ブエノスアイレスの秋)
07. Retrato de Milton(ミルトンの肖像)

重複は3曲だが、「ブエノスアイレスの夏」は番組ではメンバーが一人ずつ呼び込まれ演奏を始めていくという演出がなされているし、「アディオス・ノニーノ」のタランティーノによるインプロ成分の多い冒頭のカデンツァもかなり違うし、番組では時間の関係で途中がカットされた「ブエノスアイレスの秋」も、タランティーノのソロが短い代わりに、終わりにマルビチーノのソロがたっぷりフィーチャーされている。そして何よりも、演奏はテンションが高くて最高、「トード・ブエノスアイレス」や「アルフレド・ゴビの肖像」といった、1978年以降のキンテートでは一切演奏されていない曲の映像も、極めて価値が高い。2インチVTRによる録画は編集が利かず録りっ放しなのだが、ここでは加えてカット割りは一切なし、1台のカメラの移動だけですべてを録画するというユニークな手法が採用されている。

それでは、この縦長の観にくい画面を、どうやったら横長に変換できるか説明する。

まず、YouTubeにアップされている動画をダウンロードする。YouTubeのヘルプ画面には「YouTube では、他のユーザーの動画をダウンロードすることはできません」と書かれてあるが、これはダウンロードが禁止されているという意味ではなく、デフォルトでは設定されていないということである。もちろんダウンロードした動画は個人的使用の範疇に留まることをお忘れなく。Windowsパソコンの場合、RealPlayerがインストールされていれば、RealDownloaderで簡単にダウンロードできるはず。

ダウンロードしたファイルは、1280×720(16:9)のフレームの中に、960×720(4:3)ではなく540×720(3:4)という縦長の状態で収まってしまっている。また、音量レヴェルがものすごく低い。
01_1

これをHandBrakeVideo Clip QuickToolという二つのフリーソフト(どちらも得手不得手がある)を使い分けて、本来の960×720(4:3)のサイズで、音量も充分にあるまともなファイルに変換しようというわけだ。

最初にHandBrakeで、画面左右のピラーボックス(黒い帯状の部分)を切り落とし、純粋な映像部分だけにする。

HandBrakeでファイルを読み込み、
01_2a

Dimensionsのタグを選択
01_2b

Anamorphic:でNoneを選択、Keep Aspect Ratioのチェックは外さない。
CroppingでCustomを選び、LeftにもRightにも370と入力すると、Width:は自動的に540になる。
下のSave As:の欄に任意のファイル名を入力(ファイルの種類はmp4でいいだろう)。
01_2c

上のStart Encodeボタンを押す。下のように出力されれば成功。
01_3b

次にVideo Clip QuickTool V0.3.1を立ち上げ、HandBrakeから出力したファイルを画面左上のLoad Video File...ボタンで読み込む。
Output OptionsのFrame SizeでCustomを選び、ProportionとAdd Padding to Fit Customize Frame Sizeのチェックを必ず外し、540×720となっているサイズを960×720にする。
右下のSound VolumeのCharge Toを選び数字を入力する。私は350%にしたが、これは好みで変えてもいいだろう。
下のProcessボタンを押し、任意のファイル名を入力する。
01_4

これで出来上がり。
01_5

あとはこのまま観てもよし、各曲を繋げて観られるよう細工してもよし。私は映像のない前後の部分を削除してDVD-Rに焼いて鑑賞している。これこそ真のお宝である。

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