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2019年12月 5日 (木)

“RCA”と“ビクター”と“ニッパー”の関係とその歴史

内山田洋とクール・ファイブのレコードについての連載が始まったばかりだが、いきなり脱線させていただく。というのも、クール・ファイブがデビューしたのが、歴史ある日本ビクター内に発足して間もなかったRCAレーベルからだったので、“RCA”と“ビクター”とその商標“ニッパー”との、わかっているようでわかりにくい関係について、一度整理しておく必要があると感じたからだ(長文ご容赦)。なお本稿では、Victorの称号に対して、英語圏のものは「ヴィクター」、スペイン語圏のものは「ビクトル」、日本国内のものについては「ビクター」と表記させていただく。

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蓄音機とそのラッパを覗き込むフォックス・テリア犬“ニッパー”のイラストは、1898年に英国の画家、フランシス・バロウが描いた絵が元になっている。当時は、1877年にトマス・エディスンが発明したシリンダー型の蝋管蓄音機(フォノグラフ)と、1887年にエミール・ベルリナーが発明したディスク型の蓄音機(グラモフォン)が、それぞれに改良を続けながらフォーマット争いを繰り広げていた時代。最終的には、一台で録音と再生が可能なシリンダー型に対し、ソフトの複製と収納が容易なディスク型が勝利を収めることになるわけだが、バロウが当初描いたのはシリンダー型の蓄音器の方だった。

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ニッパーはもともと、亡くなったバロウの兄のマークの飼い犬で、バロウがイメージしたのは、シリンダーに刻まれた亡き飼い主の声に不思議そうに耳を傾けるニッパーの姿であり、“ヒズ・マスターズ・ヴォイス”(HMV)という標語もそこから採られている。

1899年、バロウは絵を買い取ってもらおうと、ロンドンにあるエディスンの会社、エディスン・ベル・コンソリデーテッド・フォノグラムに持ち込むが断られる。改めて出向いたのが同じくロンドンのグラモフォン・カンパニー。ワシントンDCにユナイテッド・ステイツ・グラモフォン・カンパニーを設立していたベルリナーからディスク型蓄音器のヨーロッパでの特許権を委託されたウィリアム・オーウェンが1898年に設立した会社である。バロウが蓄音器をグラモフォン社の新製品に描き直すことで、オーウェンとの交渉が成立した。

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ベルリナーは1900年にロンドンを訪れた際、ニッパーの絵を見て気に入り、アメリカ合衆国での使用権を買い取ったが、この頃には自身の米国グラモフォン社は立ち行かなくなっていた。その一方、ベルリナーの協力者だったエルドリッジ・ジョンスンはコンソリデーテッド・トーキング・マシーン・カンパニーを設立し、そこから発展する形で1901年、ニュージャージー州キャムデンを本拠地とするヴィクター・トーキング・マシーン・カンパニーが誕生した。ジョンスンが60%、ベルリナーが40%の株を所有し、この時点で米国グラモフォンは消滅。ニッパーの権利は英国ではグラモフォン(ヨーロッパから中近東、インドまでエリアを拡げ、1931年にはEMIに発展)が、米国ではヴィクターがそれぞれ所有することになった。

グラモフォンでは当初、ニッパーの図案を広告やポスターにのみ使用していた。オーウェンが自身の考案したエンジェルのレーベル・マークに拘っていたためだ。先行して使われたHis Master's Voiceのロゴとともに、ニッパーのマークがレーベル・デザインに採用されるのは、オーウェン退陣後の1909年のことだった。なお今回はこれ以降の、主にヨーロッパでのHMV~EMI系の話は割愛する。

一方1902年からニッパーのマークをレーベルに使い始めたヴィクターは、米国を代表するメジャー・レーベルにまで発展していくことになるが、カナダなどのほか、南米の拠点となるアルゼンチンにも支社を置き、勢力を伸ばしていく。手元にある78回転のSP盤は、ほとんどがアルゼンチン“ビクトル”盤なので、ここからは主にそれらを通して変遷を見ていく。

手元にある最も古いビクトルのSP盤は、1917年に録音されたエドゥアルド・アローラス楽団の「ラウソン」あたりだが、この頃はまだブエノスアイレスで録音された原盤を米国キャムデンの工場でプレスし、逆輸入するという形だった。

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フリオ・デ・カロ楽団の「ブエン・アミーゴ」は1925年5月12日録音。INDUSTRIA ARGENTINAと記されている通り、このあたりからプレスもアルゼンチン本国で行われるようになる。

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そしてSP時代の大変革といえば、アコースティック録音から電気録音への進化である。1924年に電気録音法の特許を取ったウェスタン・エレクトリックのシステムによる最初の電気録音を米国のヴィクターが実現したのは、1925年3月のことだった。アルゼンチンのビクトルでもその1年後には電気録音への切替が行われた。タンゴでは1926年3月1日に録音されたロシータ・キロガの「ラ・ムーサ・ミストンガ」が最初の電気録音である。

フリオ・デ・カロ楽団の「アグア・カリエンテ」は1926年5月11日録音。上下2か所にある、電気録音であることを示すVEの文字のほか、Grabación Ortofónica(英語で言う“オーソフォニック”とは“正しい音”という意味の造語で、ヴィクター製の蓄音器の名称などでも使われた)とも書かれ、新方式による録音であることが謳われている。

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電気録音開始から2年後の1927年(昭和2年)9月13日、米国ヴィクターの全額出資により日本ビクター蓄音器株式会社が設立され、翌1928年2月1日に第1回新譜が発売された。この時点でヴィクター・トーキング・マシーンは創立者ジョンスンの手を離れ、2つの銀行の傘下にあったが、1929年には、1919年に電機メーカーとして創業し、ラジオ放送(NBC)まで事業を拡大していたレイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)に買収され、その一部門となった。

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これは1930年5月23日録音のカルロス・マルクッチ楽団「ミ・ドロール」。アルゼンチンでは、それまでヴィクター・トーキング・マシーンのアルゼンチン支社と書かれていた下部の社名表記が、RCAビクトル・アルヘンティーナという独立した会社名に変わっているのがわかる。

資本は変わったものの、社名にRCAの文字は入らなかった日本ビクター蓄音器は、東芝(の前身)と三井財閥から出資を受ける一方、RCAからは技術支援を受け、1931年には蓄音器の製造も始めている。1936年には日米関係の悪化からRCAが資本を撤退(以降も協力関係は続く)、日産コンツェルン傘下を経て1937年には東京電気(1939年に芝浦製作所と合併し東京芝浦電気となる)傘下となる。戦時中の1943年、日本音響へと改称を余儀なくされるが、レーベルのVictor表記は守られた。1945年に第二次世界大戦が終わり、日本ビクター株式会社となるが、戦災による設備の損傷は甚大だった。同じく日産~東芝傘下にありながらスタジオと工場が無傷だった日本コロムビアへの委託プレスという形で、新譜の発売に漕ぎ着けられたのは1946年9月だった。

ちょうどその頃、米ヴィクターや亜ビクトルでは、レーベルの表記が変更された。1929年にRCA傘下となって以降も長く使われていたシンプルなVictorの表記が、RCA Victorに改められたのだ。米国では1946年の春頃、そしてアルゼンチンでは、オスマル・マデルナ楽団で見てみると1947年3月20日録音の「ティエンポ」までVictor、そして4月25日録音の「ファンタシア・エン・ティエンポ・デ・タンゴ」からRCA Victorとなっている。

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日本ビクターの親会社は1949年に東芝から日本興業銀行へ、1953年春には松下電器産業へと移り変わるが、戦後のビクターの復活を印象付けたのは、1947年4月にリリースされた平野愛子の「港が見える丘」だろう。RCAとの提携も復活したが、国内制作、RCA原盤を含め、この時点でRCAの付かないVictorの名称をニッパーと共に使い続けるのは世界でも日本のみとなった。

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この頃の世界での大きな出来事が、マイクログルーヴ・レコードの登場、そしてテープ・レコーダーによるレコーディングの開始である。1948年6月、米国のコロンビアが33 1/3回転で30cm(12インチ)および25cm(10インチ)の長時間レコード(LP)を公式に発表し、8月からリリースを始めた。コロンビアは各社にLPへの参入を呼びかけたが、それに唯一応じなかったのが、別のフォーマットを準備していたRCAヴィクターだった。RCAは1949年2月に17cm(7インチ)で45回転のレコード(EP)を発売したのである。幸運だったのは両者に互換性があったことで、LPはクラシックを中心に長時間演奏に、EPはポピュラーなどの曲単位の演奏に対応した。結局RCAヴィクターは1950年1月からLPのリリースを始め、コロンビアなど各社も45回転盤を出し始める。

アルゼンチンではやや遅れて、1952年頃からLPのリリースが始まるが、SPも1963年まで存続していた。この時期のSP盤のレーベルにはいろんなパターンがあるので、並べておこう。

アルフレド・ゴビ楽団「エル・アンダリエゴ」(1951年6月録音だが、これは1952年終わりか1953年初め頃の再発盤)

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同「トリステ・デスティーノ」(1954年12月14日録音)

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同「カマンドゥラーヘ」(1955年6月13日録音)

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ロベルト・カロー楽団「ラドリージョ」(1956年10月17日録音)

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アルフレド・ゴビ楽団「エントラドール」(1956年7月16日録音)

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オスマル・マデルナ象徴楽団「ノ、ノ・ジョレス・マス」(1959年6月17日録音)

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ここからは、EPおよびシングルは割愛して、LPを米盤、亜盤、国内盤を取り混ぜて紹介していく。1954年の米RCAヴィクター盤のレーベル・デザインとジャケットのロゴはこんな感じだ。

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アルゼンチンも同様だったが、この時期のものは今は手元にないので、既に手放してしまった10インチ盤を写真に撮っておいたものを載せておく。これは色違い(緑)もあるようだ。

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米RCAヴィクター盤のレーベル・デザインは、1955年頃にはニッパーがカラーのものになり、細部の変更はあっても1968年まで変わらなかった。

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手元にある1950年代後半リリースのアルゼンチン盤LPはこのデザインに差し替えられたセカンド・プレスばかりなので、正確な変更時期は特定しがたい。こちらも1968年まで大きな変更はなし。

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復興した日本ビクターがLPのマスタリングとプレスを開始したのは1953年9月からだが、これは1956年11月1日に発売され話題となったタンゴのオムニバス『タンゴの歴史』。当時ビクターは、東京芝浦電気(1960年10月から東芝音楽工業)が1958年頃から発売し始めることになる赤盤に先駆けて、青いヴィニール盤でリリースしていた。

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日本ビクターの青盤の時代は短く、1961年5月発売のこのオムニバスの時点で、レーベルも黒になっている。

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このデザインはこの後もあまり変わらず、ニッパーはカラーにならなかった。

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なお、ステレオ盤は米国も日本も1958年に発売開始、アルゼンチンも海外原盤のリリースについてはそうそう遅れなかったのではないかと思うが、タンゴに限ればブエノスアイレスでのステレオ録音は1963年4月のアニバル・トロイロ楽団まで待たなければならなかった。

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RCAをめぐる大きな変化は、1968年後半(国によっては1969年前半)に起こった。企業イメージの大胆な刷新を図ったのだ。

それまで日本以外ではおおむねRCA Victorと表記されていたものが、RCAの新しいロゴがメインになり、Victorの文字はサブ的に添えられる形に変わった。そしてなによりも、あのニッパーが消えてしまった。米国での社名はレイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカからRCAコーポレーションに変わる。

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ジャケットの表記は当初はこのような感じで、左上にRCA、右上にVictorの文字が置かれる。これは米国もアルゼンチンも、もともとニッパーの使えなかったイギリスも同様だ。

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その後はRCAとVictorが上下になる。

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最終的にVictorの文字はジャケットから消える。

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ただしそれは米国での話で、アルゼンチンではVictorの文字はそのまま残った。

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日本では日本ビクター内にRCA事業部が発足したが、これは世界的な統一を図ろうとした米国RCAからの指示によるものだろう。そして、1968年10月25日にRCAレーベルから最初の新譜が発売された。

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それまでビクターのレーベルで出ていたRCA原盤の洋楽は、すべてRCAレーベルからの発売に切り替えられたが、日本ビクターからの発売であっても、RCAのものは「RCAビクター」となったりVictorの文字が使われたりはせず、単に「RCA」と表記された。新設されたRCA邦楽からはまず、和田アキ子を含む新人4組がデビュー。一方、ビクター邦楽のアーティストはなんら変更なく、そのままビクター・レーベルからニッパーのマーク付きでのリリースが継続された。

日本ビクターでは50年代以降、ドット、エレクトラ、リプリーズ、ブレスティッジ、ヴォーグなどRCA以外のレーベルの洋楽も扱ってきたが、それらはビクター・ワールド・グループという括りでのリリースだった(別扱いのものに1960年スタートのフィリップスもあった)。また、RCAと区別なくビクター・レーベルとしてリリースされていたものには、ダンヒル原盤などもあった。もちろんビクター洋楽はぼRCA原盤というのが基本的な図式だったが、RCAが独立したため、来日アーティストと直接契約しての単発の日本録音や、海外からの買取などで個別のレーベルを設けるまでもないもの、その他邦楽ジャズなどに関しては、旧ビクター洋楽と差別化を計るためか、これ以降ビクター・ワールド・グループのレーベルが使われるようになる。

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ビクター・ワールド・グループ・レーベルの盤が手元には1枚もなかったので、Discogsから写真を拝借した。

1972年4月25日、日本ビクターの音楽ソフト制作部門が独立し、ビクター音楽産業株式会社となった。RCAもビクター音産内の一部門となる。そしてこの時点でビクター・ワールド・グループの名称が使われなくなり、日本制作や原盤買取などの洋楽に、初めてカラーのビクター・レーベルが使われるようになる。

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ただしビクター邦楽は、黒ではないにせよ割と地味なレーベル・デザインのままだった。

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1975年9月、RVC株式会社(RVCはRCA Victor Corporationの略)が設立され、関連会社ではあるものの、RCAが遂にビクターから離れることになった。会社が替わってもRCAのデザインに変更はなく、アナログ時代の終りまで続くことになる。米国では1976年から、アルゼンチンでも1977年にはRCAのレーベル・デザインはこのように変わり、ニッパーが復活する。

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米国盤のジャケットのロゴはRCAのままだったが、アルゼンチンではRCAとビクトルの表記のほか、こちらにもニッパーが再登場する。

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ビクター音楽産業のロゴとレーベル・デザインは、創立50周年を迎えた1977年9月に大きく変わる。赤は邦楽、青は洋楽で、ニッパーが小さくなってしまった。これはアナログ時代の終焉まで続く。

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1986年、RCAの経営危機により、レコード部門は西ドイツのベルテルスマン傘下となり、RCA/アリオラ・インターナショナルを経てBMGミュージックとなった。日本でもベルテルスマンとビクターの合弁で1987年10月にBMGビクターが設立されるが、既にCD時代に突入していた時期でもあり、各レーベル共通デザインの紙のレーベル(ラベルと言った方がわかりやすいか)が盤面を飾っていた時代は終わりを告げる。以後、BMGがかつてのライヴァルだったソニーに完全に吸収されてしまうまでの話は、さすがに追う気力もない。

ビクター音楽産業がJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントとなった今も、日本ではニッパーはロゴとして生き続けているが、キャラクター商品の発売や認知活動はともかく、着ぐるみの「ニッパーくん」が登場するに至っては、違和感を感じざるを得ないのが正直なところだ。

参考文献:
岡敏雄『レコードの世界史 ―SPからCDまで―』音楽之友社 音楽選書(1986年8月第2刷)
中村とうよう「EMIという会社のこと」レコード・コレクターズ1988年7月号
ほか

2019年11月17日 (日)

内山田洋とクール・ファイブのレコード(1)

だいぶ間が開いてしまったが、3つ前の記事、「ホセ・リベルテーラによる日本の歌謡曲集」で予告したように、今回からしばらく、内山田洋とクール・ファイブのレコードを順を追って紹介していきたいと思う。

長崎のグランドキャバレー「銀馬車」で活動していたクール・ファイブは、1969年2月にRCAから「長崎は今日も雨だった」で全国デビュー、またたく間に歌謡界の人気グループとなった。リード・ヴォーカルの前川清は1980年9月にソロでの初コンサート(ライヴ録音あり)を行って以降、グループと平行してソロ活動も行うが、彼が1986年に正式に脱退するまで、クール・ファイブは一度もメンバー・チェンジすることなく活動を続けた。

前川の脱退後もクール・ファイブはヴォーカリストを入れ替えたりしながら活動を続け、現在まで続く前川のソロ・キャリアはクール・ファイブ時代よりも長くなった。2006年11月、リーダーの内山田洋が死去。前川清は残りのオリジナル・メンバー4人に声を掛け、同年末の紅白歌合戦で一夜限りの再結成を果たすが、これが評判となり、現在までソロと平行して「前川清とクール・ファイブ」としての活動も続けている。

このブログで当面取り上げていくのは、前川在籍時のオリジナル・クール・ファイブの時代が対象である。人気グループだったからレコードの種類は大変多い。リアル・タイムでリリースされたすべてのアナログ盤を分類別に整理してみると、以下の通りとなる(4曲入り17センチ33回転盤は除外)。

 (1) シングル…50タイトル(A面曲同士のカップリング替え再発除く)

 (2) オリジナル・アルバム…18タイトル

 (3) カヴァー中心のアルバム…10タイトル(うち4枚組ボックス1タイトル)

 (4) ライヴ・アルバム…9タイトル

 (5) テーマ別の編集盤(シングル曲、(2)(3)収録曲などを組み替えたもの)…13タイトル

 (うち(3)の4枚組のバラ売り4タイトル、非LP化音源含むカセット1タイトル)

 (6) ベスト・アルバム…39タイトル(うち3枚組以上のボックス5タイトル)

 (7) 4チャンネル盤…15タイトル

 (8) 藤圭子とのスプリット・アルバム…11タイトル(うち4ch盤1タイトル)

 (9) RCA所属歌手集合のライヴ・オムニバス…1タイトル

 (10) 通販商品(8枚組ボックス)…1タイトル

このうちメインで紹介していくのは当然(1)と(2)(すでに蒐集は完了)、そして(3)と(4)(未入手のものが各1タイトルずつ)である。これらと曲目の重複する(5)と(6)は特に収集対象としていないため、基本的には曲目紹介に留めておくが、初出音源を含む場合などに関しては適宜紹介していく。

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これらは、一部のものを除けば中古での入手は比較的容易である。それだけ世間に広く浸透していたわけだし、今でもカラオケで歌う、という人たちもいらっしゃるだろう。だが、「評価」という意味ではどうだろう。彼らの革新性、オリジナリティはどこまで語られてきたのか。そもそもシングルA面曲以外のオリジナル・アルバム収録曲は、ほとんどCD化すらされていない。テレビの画面では後ろの方で「♪ワワワワ~」と歌っているだけに見えたメンバーたちの存在意義は? そのあたりにも触れていければと考えている。

まずは、グループの結成からデビューまでの動きを追っておきたいが、実は詳しく書かれた資料が極めて少ない。ここでは、1975年3月リリースのLP7枚組+1『内山田洋とクール・ファイブ全100曲集』(RCA JRS-9251~7)のブックレットに掲載されたメンバー座談会「我れらクール・ファイブ」(司会:玉置 宏)で語られている内容をベースに、他の資料に書かれた内容と照合しながら整理してみたいが、複数の資料で記述が異なり、当事者間の発言内容にも食い違いがみられるなど、整合性が取れない部分が実は多く、この拙文を公開することで、より正しい情報に修正していけることを期待している。

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恐らくは1964年の前半頃、福岡の米軍キャンプで活動していたキーボード奏者、高橋勝(1934年10月12日、山口県宇部市生まれ)が、ヴォーカルの中井昭(1936年7月8日、下関生まれ)に声を掛け、ムード・コーラス・グループ、高橋勝とコロラティーノが結成される。結成時のメンバーとしてギターの山下昭二(1942年8月31日生まれ)のほか、もう1人のギタリストとして福岡県柳川出身の内山田洋(1936年6月6日-2006年11月3日)も参加していたようだ。

彼らは結成して間もなく長崎のクラブに出向くのだが、そこで働いていたのがベースの小林正樹(1943年1月1日、長崎県佐世保生まれ)だった。コロラティーノを初めて観た時の印象を、小林はこう語っている。「まだ全国的なコーラス・グループというのはマヒナスターズをのぞいてはなかった時代でしたから、ビックリしましたね。イヤーッ、こんなグループが長崎にもあるんかいなと」(前述の座談会より)。小林はウッド・ベース担当としてコロラティーノに参加するが、ドラムスに転向して福岡に叩きに行っていた時期もあったという。小林にドラムスを勧めたのが、後にコロラティーノのフルート/サックス奏者として「思案橋ブルース」をはじめレパートリーの多くを作詞・作曲した川原弘(1939年10月23日長崎生まれ)だというから、彼もこの頃にはグループに参加していたのだろう。

その後、コロラティーノからメンバーのひとりが脱退したため、ドラマーとして森本繁(1942年10月23日、鹿児島県鹿児島生まれ)がスカウトされた。話があったのが、森本が福岡から地元鹿児島に戻った翌日だったので、一度は断ろうとしたところを、福岡にいるドラムの師匠から「コロラティーノはいいバンドだから行け」と進言されたのだとか。次いで、福岡のキャバレーにいたサックス/フルートの岩城茂美(1942年1月5日、熊本県八代生まれ)を内山田が引き抜いた。内山田は「彼はそのときアルトを吹いていたんだけど、デスモンドのようなトーンで、この音は僕らもほしかったんです」と語る。デスモンドとはもちろん、デイヴ・ブルーベック(p)との共演で知られるポール・デスモンドのこと。

それから半年ほどして(1966年)、従妹に連れられて内山田のところにやってきたのが、エルヴィス・プレスリーに憧れていた前川清(1948年8月19日、長崎県佐世保出身)だった。真偽の程は不明だが、その時前川がまともに歌うことができたのは、加山雄三の「君といつまでも」たった1曲だったというエピソードも残っている。当時内山田のもとにはギタリスト志望の若者が20人ほど習いに来ていたというが、そんな中からヴェンチャーズ風のエレキ・バンドが結成され、前川もヴォーカルとして加えてもらえることになった。そのグループが、サンライズである。

ダンスホール「八十番館」で演奏活動を開始したサンライズにはオルガン奏者が必要ということになり、「ムーンライト」というダンスホールでピアノを弾いていた宮本悦朗(1948年1月15日、長崎県対馬出身)を内山田がスカウトしてきた。「〈マイアミ・ビーチ・ルンバ〉かなんかを、一生けんめいひいてたな。ちょっと古いスタイルだが、ああ、これは基礎をちゃんとやってるなと思った」と内山田が語り、「僕はクラシックしかやれなかったものだから、サンライズの舞台を見てビックリし、僕にやれるかなと思いましたよ」と宮本が続ける。

その後中井昭・高橋勝とコロラティーノは分裂し、内山田ら4人がグループを飛び出す。コロラティーノは残った高橋、中井、山下、川原に加えて菊池宏典(ベース)、浜島純昭(ドラム)というメンバーでクラブ「十二番館」を根城に活動を続け、1968年4月には日本コロムビアから前述の「思案橋ブルース」でデビューする。

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そして、コロラティーノを脱退した内山田、小林、森本、岩城の4人と、サンライズの前川、宮本が合体する形で、内山田洋とクール・ファイブが誕生するのが、1967年9月のことである。彼らは、十二番館と競合する銀馬車の専属バンドとして活動を開始する。

(文中敬称略、次回に続く)

2019年9月18日 (水)

最高だったフランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ東京公演

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前回もご紹介したとおり、奇跡かと思われたフランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズの再来日公演が実現した。2014年1月の初来日(それも奇跡だったが)の時は18日に日比谷公会堂で1公演のみで、どちらかというと年齢層高めでマニアックな洋楽ファンが頑張って集まったという感じだったが、今回は9月10日と11日が昭和女子大学 人見記念講堂、13日が大阪のフェスティバルホールと、3公演に拡大。もちろんその間には『ジャージー・ボーイズ』を巡る様々な動きがあり、それが再来日実現に繋がったことは間違いない。ちなみに日本で映画が公開されたのは2014年9月27日で、次いでブロードウェイミュージカルのキャストが2015年6月25日から7月5日まで来日公演を行い、その後は、私は観に行っていないが日本人キャストによるミュージカルの日本版まで上演されている。

今回私が観たのは11日の公演。とにかく、10日の公演が終わった時点でFacebookには「楽しかった」「凄かった」「よかった」という声が溢れていたので、期待を更に膨らませて出かけた訳だが、会場の大半を埋めていたのは『ジャージー・ボーイズ』を通過して来た幅広い層の観客たちで、その様子を見るだけでも感無量といった感じだった。

そして肝心のコンサートだが、これがもう凄かった。79歳だった5年半前と比較しても、やはり懸念されたのは85歳という年齢による健康面への影響。私は日頃高齢者と接する仕事をしているので、平均的な85歳がどのような状態にあるかはわかっているつもりだが、ステージに登場したフランキー・ヴァリは、歩く姿こそゆっくりだが、声も佇まいもまったく衰えを感じさせなかった。「年齢の割には…」などという表現がまったく通用しない、現役感バリバリのステージ運び。前回もそうだったが、「神に誓って」の間奏部分で一度引っ込む以外はまったく休憩なしで、数箇所ある曲間のしゃべりも必要最小限。本編とアンコールの間もバンドはそのまま、フランキーが一瞬引っ込んですぐ出てくるという感じで、結局全25曲(曲目は後述)ほぼほぼ歌いっぱなしだった。

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開演前に今回の公演プログラムを開いて驚いたのが、コーラスとダンスを担当する4人もバンドのメンバーも、ほぼ入れ替わっていたことだ。フランキーが全幅の信頼を置いているバンマスでキーボードのロビー・ロビンスンは当然ながら不動だが、あと変わっていないのはサックス/フルートのリック・ケラーだけ。ステージを構成するメンバーやセットリストなどの動向については、ここのところチェックをさぼっていたので、まったく知らずにいたというわけだ。調べてみたらギターのベイジル・ファングは2017年から、ほかの新メンバーたちは2018年から、そしてパーカッションのクリスティアン・モラーガのみ2019年に入ってからの参加ということで、一気に顔触れを一新していたことが判明。

バンドの編成もやや異なり、ギターが2人から1人になり、逆にキーボードがもう1人(サンドロ・レベール)加わった(前回はキーボードも兼任していたケラーは管楽器とパーカッションに専念)。前回は5人いた現地調達の「トーキョー・ホーン・セクション」は2人だけ(トロンボーンとトランペット)に減っていたが、特に物足りなさは感じなかった。そして、全体のアンサンブルは若返った感じでまとまりもよく、各メンバーの力量はもとより、ロビンスンの統率力の強さにも改めて感心させられた。

これまでコーラスとダンスを担ってきた4人、すなわちトッド・フォーニア(2002年参加)、ランドン・ベアード(2003年参加)、ブライアン・ブリガム(同)、その弟のブランドン・ブリガム(2006年参加)は、各自離脱したりしていた時期もありながら、長年にわたりフランキーを支えてきたが、昨年フランキーに祝福されながら独立して新しいグループ、ザ・モダン・ジェントルマンを旗揚げしたとのこと。

新メンバーのうち、エリック・ベイツは2005年から2006年までフォー・シーズンズのコーラスを務め、その後2011年にはブロードウェイ版『ジャージー・ボーイズ』で一時期トミー・デヴィート役を務めたこともあった。残りの3人はロネン・ベイ、クレイグ・ケイディ、ジョセフ・オットで、それぞれ主にミュージカルで活躍してきた若手ということだ。

実は、昨年11~12月のイギリス公演も、今回の日本公演同様「フェアウェル・ツアー」とアナウンスされていて、今後の動向が注目されるところだが、こうした「最後の」一連の公演を前にメンバーをゴソッと入れ替えてリフレッシュさせる、というのはなかなかできることではないだろう。フランキーの体力的にみて、海外への大掛かりな公演は難しくなるが、国内を中心とした演奏活動はこれからも続けてくれる、ということであれば納得もいくのだが。

それでは、当日のセットリストをご紹介しよう(3日間とも同じ)

1. Working My Way Back To You 君のもとに帰りたい
2. Opus 17 (Don't You Worry 'Bout Me)
3. Beggin' 悲しきプロポーズ
4. Save It For Me
5. Dawn (Go Away) 悲しき朝やけ
6. Tell It To The Rain 雨に言っておくれ
7. I've Got You Under My Skin 君はしっかり僕のもの
8. Swearin' To God 神に誓って
9. Silence Is Golden
10. The Night
11. Fallen Angel 天使の面影
12. Grease
13. Who Loves You 愛はまぼろし
14. Call Me
15. Spanish Harlem
16. My Girl/Groovin'
17. My Eyes Adored You 瞳の面影
18. December, 1963 (Oh. What A Night) 1963年12月(あのすばらしき夜)
19. Can't Take My Eyes Off You 君の瞳に恋してる
20. Sherry
21. Big Girls Don't Cry 恋はヤセがまん
22. Walk Like A Man 恋のハリキリ・ボーイ
23. Bye, Bye, Baby (Baby, Goodbye)
(Encore)
24. Rag Doll 悲しきラグ・ドール
25. Let's Hang On!

実に見事な構成だった。オープニングから60年代中期の強力ヒットを立て続けに6曲やって、まずノックアウト。そして個人的にフォー・シーズンズ芸術の頂点と信じるコール・ポーター作品(7)の後は、主に70年代の曲を並べ、『ジャージー・ボーイズ』でのピークを象徴する(13)へと盛り上がっていくわけだが、ここでの最大のポイントと言いたいのが、初来日公演でお預けをくらった(10)を遂に聴けたこと。1972年のモーウェストからのアルバム『カメレオン』収録曲で、一般的な知名度では他のヒット曲群に劣るが、英国でのフォー・シーズンズ再評価への決定打となったグルーヴィな傑作である。18年振りとなった2012年のイギリス公演でロビンスンによる新アレンジで披露され、そればかりかスタジオ・ヴァージョンも録音された。以降イギリス公演は毎年行われ、この曲がハイライトのひとつになってきたと思われる。それはともかく、その2012年の新録が1972年のオリジナルと共に収録された英国編集のCD2枚組“Working My Way Back To You”、折角来日記念盤『君のもとに帰りたい~ニュー・ベスト』(WPCR-18256/7)として国内発売されたにも拘らず(当然会場でも売られていた)、肝心の「ザ・ナイト」が2ヴァージョンともに他の曲と差し替えられてしまっていたことに関しては、前回も触れたとおり。5年前にはやらなかったこの曲が遂にステージでも聴けただけに、なんともやりきれない。

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さて、気を取り直して(14)~(16)は2007年のカヴァー・アルバム“Romancing The '60s”からのコーナーで、前回からは「レット・イット・ビー・ミー」が削られた(このほかに全体を通して、前回やって今回やらなかったのは「ステイ」)。(16)のテンプテーションズ~ラスカルズ・カヴァーのメドレーがやたらウケていたが、これは観客の大多数がこのカヴァー集の存在を知らないということ。知らないのが悪いのではなくて、『ジャージー・ボーイズ』がいくら盛り上がっても、来日があっても国内盤を出そうともしない(これは『カメレオン』を丸々収めた2枚組“The Motown Years”も同様)ユニバーサル・ミュージックの怠慢によるものである。

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相変わらずの名唱(17)、そしてコーラスの4人をフィーチャーした(18)の後は、怒涛の大団円へ。(19)のサビなど、フランキーからみんなで歌うように促されてもなかなか声が揃わなかったのは致し方ないが、客席も大いに盛り上がった。正に夢のような時間だった。本当に、もう「次」はないのだろうか。大阪公演を観た知人の話では、「また帰ってきたい」との言葉も本人の口から出たということで、期待を胸に生きて行きたい。

2019

会場で売られていた公式プログラムは、本国でのオフィシャルなものをベースに作られていると思われ、写真も満載で、内容はとても充実していた。日本向けに、フランキー本人からのメッセージも英語と日本語訳で掲載されていた。更にオマケとして、「日本盤シングル・リリース」のページも設けられ、私は国内盤はほとんど蒐集していないこともあり、これも見応えがあった。

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ただし、フォー・シーズンズについてはこれで完璧だろうが、フランキー・ヴァリの国内ソロ・シングルについて言うと、少なくとも「天使の面影」(東芝)と「パリでダンスを」(ビクター)が抜けていて、そこがちょっと残念だった。

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今回の公演に接し、改めてフランキー・ヴァリやフォー・シーズンズについて詳しく知りたい、きちんと聴いてみたいと思われた方も多いのではないかと思う。

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最後にまた宣伝になってしまい恐縮だが、彼らの歩みを詳細に追った拙著『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』(スペースシャワーブックス)、まだまだ在庫はあるので、興味のある方はぜひご一読頂ければ幸いです。

2019年8月16日 (金)

フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ来日迫る!/『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』正誤表更新

フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズが“最後の”来日を果たす。…って、公表されたのは6月19日だというのに、ご案内がすっかり遅くなり、とっくにチケットも発売中。何とも間の抜けた話で申し訳ない。とりあえず公式ホームページはこちら

2014年1月の初来日公演は、18日の東京・日比谷公会堂公演1回きりだったが、今回は東京2公演、大阪1公演だ。公演日は9月10日(火)・11日(水)が東京・昭和女子大学 人見記念講堂、13日(金)が大阪・フェスティバルホール。私は11日のチケットを確保した。

来日記念盤としては、ワーナーミュージック・ジャパンから2枚組ベスト『君のもとに帰りたい~ニュー・ベスト』(WPCR-18256/7)が8月21日に出るというのを、雑誌「レコード・コレクターズ」9月号の広告で知った。これは2012年にイギリスで出たCD2枚組“Working My Way Back To You”(Rhino 8122797259)がオリジナルで、イギリスでのフォー・シーズンズ再評価に重要な役割を果たした強力曲「ザ・ナイト」が、72年のオリジナル・ヴァージョン(アルバム『カメレオン』より)と、まさかの2012年新録ヴァージョンと併録されているのが最大のポイントだった。今回は日本盤のみのボーナス・トラックとして「ネイティヴ・ニューヨーカー」を追加した全42曲を収録ということで、ふむふむと納得していたが、さっきワーナーのサイトで曲目を確認して、唖然とした。肝心の「ザ・ナイト」が2ヴァージョンとも削られ、「燃える初恋」「神に誓って」と差し替えられているではないか! もちろんこの2曲はフランキー・ヴァリのソロとしての重要曲だが、なぜ「ザ・ナイト」を外す? 他に差し替えられる曲はいくらでもあるのに、何か「ザ・ナイト」が収録できない理由でもあったのだろうか?

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さて、ということで、彼らの全キャリアを詳しくご紹介すべく2015年に上梓した拙著『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』(スペースシャワーブックス)に、再度ご注目頂ければ、というのが遅ればせながらの本記事の趣旨である。もう書店で見掛けることはまず無理だろうが、まだまだ在庫はたくさんあるようなので、興味のある方は、ネット経由ででもお求め頂ければ幸いである。

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ほったらかしになっていた正誤表(前回のものはこちら)も、4年ぶりに更新した。実は2年以上前、さる高名なラジオDJの方から細かくご指摘頂いたのだが、反映できないまま時間だけが経過してしまった。申し訳ありません。ページと行表示の後に★が付いているのが、そのご指摘に沿って今回追加した部分、★★は自分で気付いて今回改めた部分である。

『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』正誤表(2019年8月版)

13ページ(目次)終りから6行目、256ページ11行目、260ページ6行目、同7~8行目★
(誤)(イン・グロウン・アップ・クローシズ)
(正)(イン・グロウン・アップ・クローズ)

48ページ終りから5行目★
(誤)ムーディに歌う
(正)ムードたっぷりに歌う

54ページ6行目
(誤)(クライド)マクフィター
(正)マクファター

91ページ10行目
(誤)歩いているの見た
(正)歩いているのを見た

142ページ7~8行目
(誤)〈シェリー〉〈あの日の涙〉に関しては
(正)〈シェリー〉に関しては

169ページ4行目、6~7行目、終わりから2行目
(誤)レスリー・キャロン
(正)レズリー・キャロン

176ページ2行目
(誤)〈ドント・ピック・オン・マイ・ベイビー〉
(正)〈ドント・ピック・アップ・マイ・ベイビー〉

203ページ1行目
(誤)スパーリングの自作曲
(正)ゴスティングの自作曲

206ページ1行目★
(誤)コード
(正)コーエド

208ページ最終行の後に次の2文を追加
 〈ドント・レット・ゴー〉は六七ページでも紹介した通り、一九五七年一〇月に録音されたザ・フォー・ラヴァーズのシングル〈パッカー・アップ〉でアレンジを手掛けたジェシー・ストーンがそれと同時期に書き、黒人歌手ロイ・ハミルトンがヒットさせた曲のカヴァー。大変珍しいことに、ニック・マーシがハミルトンに似せてリード・ヴォーカルを担当している。
 〈踊ろよ、ベイビー〔ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ダンス〕〉は、サンフランシスコ出身の黒人シンガー・ソングライター、ボビー・フリーマンの自作で、一九五八年に全米五位、R&Bチャートでは二位を記録した。これはピアノ基調のロックンロールだったが、一九六二年にクリフ・リチャード&ザ・シャドウズがギター中心のアレンジにして全英二位とした。フォー・シーズンズはメロディを少し変え、ホーンも入れてカヴァーしている。ザ・ビーチ・ボーイズの一九六五年のヴァージョン(全米一二位)も完成度が高いが、メロディはフォー・シーズンズ版をベースにしている。

250ページ終りから5行目
(誤)そして六月二二日に発売
(正)そして六月二八日に発売

278ページ終りから3行目
(誤)マイ・ワールド・ビューティフル・バード
(正)マイ・ワイルド・ビューティフル・バード

287ページ5行目★
(誤)ホエン・イット・レインズ・イット・プアーズ
(正)ホエン・イット・レインズ・イット・ポーズ

331ページ6行目★
(誤)ウォーキング・マイ・ウェイ・バック・トゥ・ユー
(正)ワーキング・マイ・ウェイ・バック・トゥ・ユー

348ページ終りから3行目
(誤)《グッド・タイムス》
(正)《グッド・タイムズ》

357ページ終りから2行目
(誤)付属している確立
(正)付属している確率

381ページ5行目★
(誤)アソシエイテッド・プレス紙
(正)AP通信

388ページ終りから6行目
(誤)ニック・マッシ
(正)ニック・マーシ

417ページ4行目
(誤)後にも先にも唯一の経験となった
(正)数少ない経験のひとつとなった

422ページ1行目
(誤)『トイ・ストーリーズ』
(正)『トイ・ストーリー』

429ページ5~6行目
(誤)マヘリア・ジャンスンに
(正)マヘリア・ジャクスンに

446ページ9行目
(誤)ハイ・ホー・シルヴァー・リニング
(正)ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング

459ページ左 "RARITIES, VOLUME 2" 14曲目
(誤)A NEW MORNING
(正)A NEW BEGINNING

481ページ左 "B) POOR FOOL" 作者クレジット★
(誤)A. Ruzicka)
(正)(A. Ruzicka)

505ページ左 Motown M 1251F 見出し★
(誤)[Bonus tracks]
(正)[Promotional Copy]

506ページ3~6行目
(誤)波の音のSEから始まり、スケール感のある作品に仕上がっている。実はこの曲にはヴァージョンが二つあり、女性コーラスがハーモニーを付けているのが、ここでシングルになったフランキーのソロ。メンバーがハーモニーを付けたフォー・シーズンズ版も作られたが当時は未発表に終わっている。
(正)スケール感のある作品に仕上がっている。実はこの曲にはヴァージョンが二つあり、女性コーラスがハーモニーを付けているのが、ここでシングルになったフランキーのソロ。波の音のSEから始まり、メンバーがハーモニーを付けたフォー・シーズンズ版も作られたが、当時はイタリア盤にのみ収録された。

520ページ3行目
(誤)コーラス・ハーモニー入りの未発表別ヴァージョン
(正)コーラス・ハーモニー入りのレアな別ヴァージョン

524ページ1行目★
(誤)ナサン・ジョーンズ
(正)ネイサン・ジョーンズ

562ページ4~5行目★★
(誤)マイケル・オマーティアン
(正)マイケル・オマーシャン

610ページ8行目
(誤)ドゥ・ワップを歌っていたベトナム戦争から
(正)ドゥ・ワップを歌っていた。ベトナム戦争から

616ページ8行目
(誤)涙の分かれ道
(正)涙の別れ道

618ページ2行目
(誤)私は二度
(正)筆者は二度

632ページ最終行
(誤)クラレンス・クレモンス
(正)クラレンス・クレモンズ

2019年8月 2日 (金)

ホセ・リベルテーラによる日本の歌謡曲集

ピアニストのオラシオ・サルガン率いるキンテート・レアル。タンゴ界きっての名五重奏団である彼らが1969年の3度目の来日の折、クラウンからの依頼を受け、日本の歌謡曲を独自の解釈で演奏した珍品アルバム『年上の女 ―キンテート・レアル・イン・赤坂―』を当ブログで紹介したのは、2017年8月のことだった。そこでは「60年代後半の日本では、アルゼンチンの楽団に日本の曲を演奏させる企画がほかにもいくつもあり」と書き、他の例も簡単に紹介したが、70年代以降になるとこの手の企画はほぼ消滅する。今日はその唯一の例外といえそうなホセ・リベルテーラの『タンゴ・ミーツ・ジャパン』を紹介する。

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バンドネオン奏者のホセ・リベルテーラ(1933~2004)は1948年のプロ・デビュー以降、様々な楽団や歌手の伴奏などで活動し、1967年にはキンテート・グローリアのメンバーとして名歌手エドムンド・リベーロと一緒に来日を果たしている(1974年にはカルロス・ガルシーア率いるタンゴ・オール・スターズのメンバーとして再来日)。そして1973年に同じくバンドネオン奏者のルイス・スタソと共同で立ち上げたセステート・マジョールが、名実共に彼の代名詞となった。

現代感覚と大衆性を兼ね備えた、つまり大変洗練されていて同時に親しみやすいタンゴを送り届けてくれたセステート・マジョールは、1973年から80年代半ばまでアルゼンチンEMIに充実した録音の数々を残し、内外のステージでも大活躍を続ける。

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彼らは80年代中盤以降、パリからブロードウェイを経て世界的人気を博したステージ『タンゴ・アルヘンティーノ』の演奏面での中核としてタンゴ・ブームを牽引した。

彼らの存在はなんとロック界からも注目され、ブライアン・フェリーの『Bête Noire』(1987年)にはリベルテーラ、スタソ、ヴァイオリンのマリオ・アブラモビッチの3人で、Tボーン・バーネットの『The Talking Animals』(1988年)には全員+『タンゴ・アルヘンティーノ』参加ミュージシャン5名で、1曲ずつだが参加しているほどだ。後者の参加曲「Image」はバーネットの自作曲だが、なんとアレンジがヴァン・ダイク・パークスで、ヴォーカルにルベン・ブラデスらが参加という異色の顔合わせによるものだった。

ホセ・リベルテーラ楽団は1978年に来日し、2月24日から5月20日まで全国長期公演を行った。これはセステート・マジョールにバンドネオン2台、ヴァイオリン3本を加えオルケスタ・ティピカ編成とし、リベルテーラを単独リーダーとしたもので、当時マジョールの第2ヴァイオリンだったマウリシオ・ミセは体調を崩していたため、エドゥアルド・マラグアルネーラが代役を務めた。公演にはセステートのみの演奏パートも含まれていたとのことだ。このメンバーでツアー終盤近くの5月16日、東芝EMI第1スタジオにて行方洋一氏のプロデュースのもと、ダイレクト・カッティング盤『これがタンゴだ!!』(Toshiba LF-95018)も録音された。

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リベルテーラ楽団のステージでは、1977年に大ヒットした石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」もタンゴに意匠換えして演奏されたという。同曲をトップに据えた『タンゴ・ミーツ・ジャパン』はホセ・リベルテーラの個人名義で、来日の翌年にあたる1973年3月20日に東芝EMIからリリースされている。当時レギュラー新譜の価格がおおむね2,500円だったのに対し、2,000円というやや廉価仕様でのリリース。雑誌「中南米音楽」4月号のディスコ・ガイド欄で紹介されているが、1年前の公演で大いに盛り上がったアーティストの新譜としては同誌での扱いは低い。なによりレヴュワーがアルバムのライナー執筆者でもある蟹江丈夫氏で、お荷物扱いの感は否めなかった。

私も、資料として盤を持ってはいたものの、普段聴くことはなく、ずっと棚にしまわれていたままだった。それを今回紹介することにしたのは、数ヶ月前フランス人の某バンドネオン奏者に「聴いてみたい」と頼まれてデジタル化したのがきっかけだった。改めて聴いてみたら、なかなか工夫が凝らされていて実に面白く、ついでに取り上げられた楽曲の元歌もちゃんと聴いてみたら(もともと持っていたのは西田佐知子の「女の意地」だけだった)、意外な方向へ展開することになってしまった(それについては後述)というわけだ。まずは曲目を紹介しよう。キンテート・レアルの回に倣い、各曲の作詞・作曲者(と今回は編曲者も)、オリジナル歌手、シングルの発売年月日を加え、以下にまとめてみた。

『タンゴ・ミーツ・ジャパン』(EMI Odeon EOS-60029)
(演奏)ホセ・リベルテーラ 1979年3月20日発売

A面

1. 津軽海峡・冬景色
作詞:阿久 悠/作曲・編曲:三木たかし
歌:石川さゆり(1977・1・1)

2. 昔の名前で出ています
作詞:星野哲郎/作曲:叶 弦大/編曲:斉藤恒夫
歌:小林 旭(1975・1・25)

3. コモエスタ赤坂
作詞:西山隆史/作曲:浅野和典/編曲:秋葉 洋
歌:ロス・インディオス(1968・5・1)

4. そんな夕子にほれました
作詞:海老名香葉子/作曲:山路進一/編曲:竜崎孝路
歌:増位山太志郎(1974・8・10)
※マキシム・レコードからのオリジナル
1977年に編曲:かみたかしで再録音し、ユニオン(テイチク)から再リリース

5. そして、神戸
作詞:千家和也/作曲:浜 圭介/編曲:盛岡賢一郎
歌:内山田洋とクール・ファイブ(1972・11・15)

6. 乾杯
作曲:ホセ・リベルテーラ

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B面

1. 北の宿から
作詞:阿久 悠/作曲:小林亜星/編曲:竹村次郎
歌:都はるみ(1975・12・1)

2. 女の意地
作詞・作曲:鈴木道明/編曲:川上義彦
歌:西田佐知子(1965・11)
※「赤坂の夜は更けて」B面。1970年12月1日にA面曲として再リリース

3. 知りすぎたのね
作詞・作曲:なかにし礼
歌:ロミ山田(1967・9・15)編曲:渡辺たかし
歌:ロス・インディオス(1968・8・20)編曲:早川博二

4. おゆき
作詞:関根浩子/作曲:弦 哲也/編曲:丸山雅仁
歌:内藤国雄(1976・5・1)

5. わたし祈ってます
作詞・作曲:五十嵐悟/編曲:竜崎孝路
歌:敏いとうとハッピー&ブルー(1974・7・25)

6. 出船
作詞:勝田香月/作曲:杉山長谷夫

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A面・B面共、最後の曲だけは現代の歌謡曲ではないという構成もキンテート・レアルの『年上の女』と同様で、キンテート・レアルの盤ではそれぞれ「ラ・クンパルシータ」「エル・チョクロ」というタンゴの有名曲が置かれていたが、リベルテーラの方はA面6曲目が日本のファンに捧げた彼自身のオリジナル(曲調も歌謡曲を意識した感じ)、そしてB面6曲目の「出船」は1922年(大正11年)に発表され、1928年(昭和3年)に藤原義江が歌ってヒットさせた曲で、これを現代風にアレンジしている。この曲はフルビオ・サラマンカ楽団『城ヶ島の雨 アルゼンチン・タンゴ・イン・ジャパン』(1966年2月発売)、フロリンド・サッソーネ楽団『“ダイナミック”サッソーネ 日本の名曲集』(1966年12月発売)という、アルゼンチンのタンゴ楽団が日本の曲を取り上げたものとしては比較的初期にあたる2枚で、かつて取り上げられていたことがあった(未聴だが、ロス・セニョーレス・デル・タンゴ『ロス・セニョーレス・デル・タンゴ・イン・ジャパン』[Union UPS-28] にも収録されている)。

そもそもこの手の、日本の曲をタンゴ楽団が演奏するという企画がいつ始まったのか、ちょっと辿ってみた。まず、1959年7月に単身来日し、日本に於けるタンゴの普及に貢献したチェロ奏者、リカルド・フランシアが同年末に発表した10インチ盤『世界のタンゴ』(Polydor LPP-1032)。これは、フランシアが日本人の楽団(その実体は、小沢泰とオルケスタ・ティピカ・コリエンテスのメンバーが中心とのこと)を率いて録音したもので、冒頭の「エル・チョクロ」以外はメキシコの「ある恋の物語」、イタリアの「オー・ソレ・ミオ」、ロシアの「黒い瞳」、ドイツの「カペシータ」、フランスの「愛の賛歌」といった、ヨーロッパのタンゴを含む各国のよく知られたメロディーの曲を、本格的なタンゴにアレンジしてみせるというものだった。この最後に日本のメロディーとして収められていたのが「出船」だった。

では、日本のタンゴ楽団はどうだったか? 更に遡ると、戦前から戦中・戦後にかけて活躍した日本に於けるタンゴの草分け、桜井潔とその楽団(サクライ・イ・ス・オルケスタ)まで辿り着いてしまった。西村秀人氏の企画監修によるCD8枚組(+1)『タンゴ・エン・ハポン 1940-1964』(Victor VICG-60178~85)に蟹江丈夫氏が書かれた解説から引用してみよう。

桜井潔がサクライ・イ・ス・オルケスタを結成して映画館のアトラクションに出演した時、聴衆の反応は今一つであった。桜井は「まだ大衆にアルゼンチンの、またヨーロッパの曲をそのまま演奏してぶつけるのは早いな」と思い、日本のメロディーを軽快に演奏して先ず聴衆にぶつけてみようと思い立った。

これはだいたい1937年頃の話だが、この時最初にアレンジした3曲が、「宵待草」「出船」「荒城の月」だった。「出船」は残念ながらレコーディングはされなかったのだが。

話を戻して、キンテート・レアルの『年上の女』は、いささか強引なアレンジのピンキーとキラーズ「恋の季節」まで、ほとんどが1968年1年間のヒット曲で占められていたが、リベルテーラの『タンゴ・ミーツ・ジャパン』の方は、もう少し幅広い時代の作品から、より演歌寄りの作品にしぼって選曲されていて、タンゴとの相性の良さも感じられる。サルガンが築き上げた独自のスタイルは強固なものであり、そこにどんな曲を当てはめても一応それらしく聴こえるという利点はあっただろうが、『年上の女』の録音に際しては、ハードな全国ツアーの合間に、体調も優れない中で短期間で編曲から録音までをこなさなければならなかったわけで、さすがにやっつけ感も出ている。それに対して『タンゴ・ミーツ・ジャパン』は、企画から選曲、編曲から録音までのスケジュールがどのようなものだったかは定かではないが、時間を掛けて丁寧にアレンジされた感じはアルバム全体から伝わってくる。

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残念なのは、曲目表記や解説に誤表記が目立つこと。「津軽海峡・冬景色」の「・」がなく「津軽海峡冬景色」となっていたのは仕方ないとして、「そして、神戸」の「、」もなかったし、「わたし祈ってます」が「私祈ってます」ではニュアンスも違ってしまう。「そんな夕子にほれました」が「惚れました」になっていたのも同様だが、なにより歌手名が「増位山志太郎」では失礼だ(正しくは「太志郎」)。各曲にはスペイン語タイトルも付けられているが、「津軽海峡冬景色」"Estampa de invierno"のinviernoがinvrrno、「昔の名前で出ています」"Me presento nombre de ayer"のnombreがmombreと、スペルミスも多い。「北の宿から」が"Desde cuna del norte"となっているが、"Desde hostal del norte"とすべきではなかったか。

『タンゴ・ミーツ・ジャパン』には『年上の女』と共通するレパートリーが1曲だけある。なかにし礼が作詞だけでなく作曲も手掛けた「知りすぎたのね」がそれで、以前書いたように当初ロミ・山田が歌い、オリコンで33位まで上がったが、翌1968年にはロス・インディオスがカヴァーし、4位の大ヒットとなっている。ヴォーカルの棚橋静雄、アルパやギター、チャランゴをこなすチコ・本間を中心に1962年に結成され、ラテン音楽をレパートリーにしていたロス・インディオスは、これに先駆けてリリースした「コモエスタ赤坂」(これもここで取り上げられている。オリコンで75位)でラテン系ムード・コーラス歌謡グループとしての新しいキャリアをスタートさせたところだった。女言葉を男性コーラスで歌うというスタイルが、確かにこの曲に関してはマッチしている。そしてこの曲にはバンドネオンも使われていた。

ロス・インディオスの2曲や、敏いとうとハッピー&ブルーの「わたし祈ってます」(原曲は1970年にリリースされた松平直樹とブルー・ロマンの「幸せになってね」だと、その後知った。松平は元マヒナ・スターズ)を聴いて、がぜんムード・コーラスに興味が沸いてきたのだが、止めを刺された感じとなったのが、「そして、神戸」を歌う内山田洋とクール・ファイブである。

クール・ファイブに関しては、かなり以前から一度はちゃんと聴きたいと思っていたのだが、折り良く4月に関内のディスク・ユニオンのセールで、『内山田洋とクール・ファイブ・ゴールデン・ヒット・デラックス16』(似たようなベスト盤が多数あるが、これは1976年11月発売のもので、フィーチャーされた当時の最新曲は「女の河」)を140円でゲットして、衝撃を受けてしまった。

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「そして、神戸」に於ける、千家和也(今年の6月13日に惜しくも逝去)の不条理極まりない歌詞と、それを歌う前川清の圧倒的なヴォーカルが象徴的だが、それだけではない楽曲や表現の多彩さ。リード・ヴォーカルとバック・コーラスの絶妙な関係。これも後で知ることになるのだが、各メンバーはそれぞれ卓越したミュージシャンでありながら、スタジオ録音ではほとんどコーラスに専念するのみで、その表現場所はステージであったということ(各メンバーの作品のみで構成されたアルバムも2枚ある)。その世界を知るには、当然ベスト盤1枚で満足できるものではなく、レコード探索の旅が始まった。

さすがは人気グループ、出ているシングルやアルバムの数も多いが、一部を除いて入手は容易かつ安価なので、前川清在籍時のクール・ファイブに限れば、3か月半で大半の音源は揃えることができた(ほとんど全てアナログ、今のところCDはBOXを1セットのみ)。というわけで、それらの詳しい紹介を、次回以降続けていければと考えている。

2019年3月20日 (水)

パソコンの内蔵ハードディスク・ドライブの交換

「パソコン買いました」のタイトルで、NECのValueOneというWindows XPパソコンの購入について書いたのは、訳書『ピアソラ 自身を語る』が出た直後の2006年9月のことだった。その5年後の2011年9月には次のパソコンを購入しているが、買い替えに踏み切った直接の理由はよく覚えていない。この時買ったのは、PCワンズというショップのBTOパソコン(一応Micro gear A3850/H)という型番が付いていた)で、OSはWindows 7 Professional 64Bit、起動ドライブはSSD(Crucialの64GB)、データはHDD(Western Digitalの1TB)という構成を選択。本体の合計価格は98,785円だった。ディスプレイはLGの21.5型液晶タイプ(E2260V)を別途購入し(amazonで12,817円)、キーボードはValueOneのものをそのまま継続して使用。

SSDの64GBというのは、当時としては標準的な容量ではなかったかと思うが、少しずつ膨れ上がり、移動可能なファイルをことごとくDドライブのHDDに移しても、まったく余裕がなくなってしまったので、2017年10月にSanDiskの240GBのもの(SSD PLUS)に交換。2011年には64GBで11,980円だったものが、6年後には240GBで9,649円とは安くなったものだと実感。Crucialの64GBのものもケース内に残し、一時ファイル置きとして使えるようにしてある。

2018年2月にはバッファローのブルーレイドライブ(パイオニアのOEM)が動作不良となったため、パイオニアのバルク品(BDR-209BK/WS2)と交換。これもだいたい同じようなスペックで12,800円→8,425円と安くなっていた。

そんなこんなでその後も使い続けていたが、数日前から、急に動作が遅くなり、フリーズには至らないものの、頻繁に「(反応なし)」の表示が出るようになり、どうにもならなくなった。原因を探るうちに、「ハードディスク エラーの修復に関する手順」というメッセージが。ついにHDDが寿命を迎えつつあるということが判明し、早急にデータを取り出さねばならないことになった。外付けの1TBのハードディスクもあるが、いろいろ入っているし、整理している時間はない。いずれにしても内蔵HDDの交換は必至であるということで、SEAGATEの2TBで7,200rpmのもの(BarraCuda ST2000DM008)がコストパフォーマンスが良さそうなので買ってきた(6,280円!)。

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さて、動きの非常に遅くなった状態で、どうやってデータをうまく移すか。ケースを開け、CrucialのSSDに繋いであったシリアルATAケーブルと電源をBarraCudaに繋ぎ替え、まずはフォーマット。Fドライブが割り当てられた。

Acronis True Image WD EditionでDドライブ→Fドライブのクローン化を試み、途中までは何とか進んだが、手順どおり作業中に再起動したところで、先に進まなくなってしまい断念。次にEaseUS Todo Backup Freeでやはりクローン化しようとしたが、途中で「パーティションサイズ変更の範囲取得に失敗しました」とエラーが出てアウト。

最終的に、エクスプローラで隠しファイルも表示するようにした上で、すべてのファイルとフォルダを普通にコピーすることにした。データの分量は合計で550GBほどだったのだが、すべてコピーし終わるのになんと20時間以上掛かった。I/Oデバイスエラーでコピー出来なかったファイル(どちらも重要なものではなかった)が2つあった程度で、なんとかコピーは完了。

後は、データを移された新しいHDDを、何事もなかったかのようにDドライブとして使えるようにする必要がある。コンピューターの管理→「ディスクの管理」を開くと、

ディスク0
システムで予約済み(システム、アクティブ、プライマリ パーティション)
(C:)(ブート、プライマリ パーティション)
ディスク1
(D:)(ページ ファイル、アクティブ、プライマリ パーティション)
ディスク2
(F:)(プライマリ パーティション)

となっているので、Fドライブを右クリックして「パーティションをアクティブとしてマーク」する。ページファイルの設定は後にして、いったんシャットダウン。

ここで古いHDDを外し、新しいHDDをその場所にセット。セーフモードで立ち上げると、ページファイルが設定されていない云々と出るが、とりあえず無視し、再び「コンピューターの管理」→「ディスクの管理」を開く。外したDドライブも「システムで予約済み(D;)」としてリストに載っているので、これを任意のドライブ(とりあえずZにした)に変更し、FドライブをDドライブに変更。そしてページファイルの設定を行い、再起動。

エラーが出たらどうしようという心配は杞憂に終わり、何事もなかったように立ち上がり、Dドライブのファイルにアクセスできている。動きもスムーズだ。

2019年3月 7日 (木)

エドゥモンダ・アルディーニとピアソラの貴重な共演盤、配信開始

アストル・ピアソラ五重奏団1973年の貴重映像について紹介した前回のエントリーでも簡単に触れた、イタリアの女優エドゥモンダ・アルディーニのアルバム『Rabbia e Tango(嫉妬とタンゴ)』(Ricordi SMRL 6117)。

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ピアソラ=オラシオ・フェレール作品(歌詞は1曲を除きイタリア語に翻訳)をピアソラ自身がコンフント9もしくはそれに準じる編成で伴奏しているこの幻のアルバムは、1974年初頭にリコルディからリリースされたまま、ほとんどのピアソラ・ファンにその存在すら知られないまま長い年月が経過した。私は2000年9月にようやく入手し、雑誌「ラティーナ」同年12月号で簡単に紹介。拙ブログでも2005年2月のエントリー「エドゥモンダ・アルディーニとアメリータ・バルタールとピアソラ(改定版)」で詳しく紹介した。

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『Rabbia e Tango』に収録された8曲のうち「Ballata Per Un Suonato (Balada Para un Loco)(ロコへのバラード)」「Rinascero' (Preludio Para el Año 3001)(3001年へのプレリュード)」「Balada Para Mi Muerte(わが死へのバラード)」の3曲には、アメリータ・バルタールがコンフント9の伴奏で歌った再録音ヴァージョン(オリジナルは、ピアソラが名前を出さずに伴奏オーケストラを指揮したCBS録音)とまったく同じオケが使われていた。アメリータ+コンフント9版のこの3曲は、イタリアでのマネージャーだったアルド・パガーニがピアソラの死後各国の様々なレーベルに売りさばいて乱発された一連のCDでお馴染みになったもの。これらCDのソースとなったのは、アルゼンチンRCAからのシングル数枚と、それらを元にいずれも1975年に組まれた次の2種のLPだった。

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10曲入りのブラジル盤『Amelita Baltar』(Fermata 304.1045)

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8曲入りのスペイン盤『Amelita Baltar』(Ariola 88.714-I)

エドゥモンダとオケがダブる上記3曲はアルゼンチンでは当時未発売、上のブラジル盤が初出で、スペイン盤には未収録だった(その代わりスペイン盤には、ブラジル盤に未収録の「El gordo triste(悲しきゴルド)」を初収録)。そのことが最終的に判明したのは、スペイン盤の入手が叶った2009年6月のことだった。それについては当時「アメリータ・バルタールのレコード、最後の(?)謎解き」で記事にしているが、同じオケで歌うアメリータとエドゥモンダ、録音したのがどちらが先だったのかは不明なままだ。

エドゥモンダ・アルディーニの『Rabbia e Tango』は一切未復刻、未CD化のままで、いくら内容について解説したところでピアソラ・ファンのみなさんに聴いて頂けない空しさを常に感じていたが、なんと先月(?)から、ギリシャのミキス・テオドラキス作品を歌った1970年の『Canta Theodorakis (Canzoni in Esilio)』共々、SpotifyApple Musicで配信やダウンロードがスタートしていた! これでようやく胸のつかえが取れた感じだ。ピアソラの文字が一切ないので、検索しにくいのが難点ではある。

Rabbia e Tango by Edmonda Aldini on Spotify

Rabbia e Tango by Edmonda Aldini on Amazon Music

そしてなんと、エドゥモンダが「Madre Terra, Madre Mia (La Primera Palabra)(母なる大地、わが母〈最初の言葉〉)」を歌うテレビ映像がYouTubeに上がっていた!

伴奏はカラオケでピアソラの姿はなく、歌もレコードとまったく同じなので口パクのようだが、貴重である。観客の反応はなんだか今ひとつだが。

2019年3月 1日 (金)

アストル・ピアソラ五重奏団、1973年の超貴重映像

1973年はアストル・ピアソラにとって、残された記録の少なさという点で空白に近い年である。1971年末から1972年にかけて率いたコンフント9(ヌエベ)では音楽的に高い成果を上げたが、1973年に入って間もなく経済的な理由から解散を余儀なくされ、従来のキンテート(五重奏団)のフォーマットに戻ることになった。ピアソラ(バンドネオン、編曲)、アントニオ・アグリ(ヴァイオリン)、オスバルド・タランティーノ(ピアノ)、オラシオ・マルビチーノ(エレキ・ギター)、キチョ・ディアス(コントラバス)という新しい組み合わせで活動を開始したのは4月だが、10月25日にはピアソラ自身が心臓発作で倒れ、実質的な活動は半年で中断されてしまう(ちなみに、体調が回復したピアソラが1974年3月にイタリアに拠点を移して以降も、このメンバーでのライヴはブラジルなどで行われている)。

1973年の公式録音は、この年に一部が録音された可能性があるイタリアの女優エドゥモンダ・アルディーニとのアルバム『Rabbia e Tango』を除くと、コンフント9での最後の録音となった[※注]「Jeanne y Paul(ジャンヌとポール)/El penúltimo(エル・ペヌルティモ)」(RCA Victor 31A-2286)と、オーケストラ編成で7月24日に録音されたフォード・ファルコンのCM曲「Un día de paz(平穏な一日)」(31A-2341)の3曲のみである。

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※注:2005年にアルゼンチンのソニー/BMGからEditión Críticaシリーズの1枚としてリリースされたコンフント9の『Música Popular Contemporánea de la Ciudad de Buenos Aires (Vol. 2)(ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第二集)』(RCA 8287 674270-2)にボーナス・トラックとして収められた際、録音日が「1973年2月8日」と初めて記載されたが、監修のディエゴ・フィシェルマン氏自身が、1972年に録音された本編と「同年に録音された」と解説に書き、他の様々な状況と照らし合わせても、実際には1972年録音である可能性が高い。
Critica

「平穏な一日」はキンテートでも録音したとのことだが、日の目は見ていない。現在ファルコンのCMは1962年から1992年までの分をYouTubeでまとめて観ることができる。

「平穏な一日」が使われたCMはここで確認できる限り4種類あり、1973年から1980年頃までの長期間使われたようだが、いずれもオルケスタによる同じ演奏である(最初の2種は、レコードにないスローなエンディングが付け加えられている。該当部分は動画の27分27秒あたりから31分17秒までで、上の埋め込みではその箇所からスタートするよう設定してある)。

1973年のピアソラ・キンテートと言えば、1997年10月にフランスのミランからリリースされた秀逸なライヴ盤『Muerte del Angel』(Milan Sur 74321 51140-2)をご記憶のピアソラ・ファンも多いだろう。国内では2000年8月にBMGファンハウス(当時)から(BVCF-35024)、2005年8月にビクターエンタテインメントから(VICC-60450)『天使の死~オデオン劇場1973』のタイトルでリリースされ、いずれも私がライナーを執筆した。
Muerte

その邦題にもあるように、この未発表ライヴは1973年7月にブエノスアイレスのオデオン劇場で録音されたものと明記されているが、実はこれは誤りのようだ(これは人づてに聞いた話なので、100%の確証はない)。研究団体ブエノスアイレス・タンゴ・クラブ(BATC)会長のミゲル・アンヘル・フェルナンデス氏によれば、この録音はそもそも、クラブの古くからのメンバーであるサンタフェ州ロサリオ(アグリの出身地でもある地方都市)在住の某氏が、当地でのコンサートの折に録音機材を持ち込んでクロムテープ(カセット)に演奏を収め、クラブに提供したものだという。このテープはピアソラの周辺でシェアされていたようで、実は私も個人的に、ピアソラの盟友だったチェロ奏者のホセ・ブラガートから、CD化より前にここからの2曲が含まれたカセットを頂戴しており、それは今も手元にある。

Casette

ピアソラの死後、録音主がテープをミランに持ち込んで商品化された際に、なぜ同時期のオデオン劇場でのライヴということにされたのか、その理由はわからない。キンテートはオデオン劇場でも実際に演奏しているが、その時の録音は一切残されていないとのこと。そのことをひっそりと証明すべく、BATCではコレクター向けCD-Rの形で『Quinteto en Vivo - Rosario 1973』として一時期リリースしており、日本でもラティーナが取り扱っていた(現在は品切れ)。
Rosario

聴き比べると、明らかに同じ演奏、同じ録音だが、ミラン盤ではBATC盤の方で聴ける長い拍手やカウント、ピアソラの曲目紹介などをカット、またイコライジングなどで音をいじっている。BATC盤の方がより自然だが、各トラックの終わりに無音部分が出来てしまっているので、私はパソコンに取り込んでその部分を削除し、自然な流れで聴けるように細工している。

さて、そのロサリオでのライヴ録音が唯一と思われた1973年のキンテートだが、なんとそれ以外に、超貴重な映像が残されていた! 6月にウルグアイのモンテビデオを訪れた際、4チャンネルの番組『Sábados de tango(タンゴの土曜日)』に出演した時のものである。
Miguel_angel_manzi_piazzolla

写真の向かって右に写っているウルグアイの名物司会者ミゲル・アンヘル・マンシ(1910~1984)が案内役のこの番組は、1971年にスタートし、ブエノスアイレスからも後述する多くの大物を招いている。当時2インチVTR(テープが大変高価だったため、放送後上書きして再利用するのが一般的で、世界的にどの放送局でもほとんどの番組がまともに保存されていない)で録画されたこの番組からの貴重なソースが、40年以上を経て遺族ら関係者の手によって発掘され、YouTubeにて公開されている。

EL TANGO CON MIGUEL ANGEL MANZI

状態は悪いが、恐らくここにアップされているのが現存している映像の全てだと思われるので、出演順は不明だがその顔触れを挙げておく。

チャルロ(歌手)
フアン・ダリエンソ(楽団。歌手はオスバルド・ラモス、アルベルト・エチャグエ)
オラシオ・フェレール(作詞家)
フロレアル・ルイス(歌手)
アニバル・トロイロ(四重奏団)
アストル・ピアソラ(五重奏団)
エドムンド・リベーロ(歌手)
ロベルト・ゴジェネチェ(歌手)
フリアン・センテージャ(詩人)
ロシータ・キロガ(歌手)
サンティアゴ・ゴメス・コウ(俳優)

他のアーティストのものはまだ一部しか観ることができていないが、とりあえずはピアソラである。マンシとピアソラやメンバーとの会話を挟みながらの全8曲で、トータル58分34秒という圧巻の内容である。1~2曲のテレビ出演や、映画やドキュメンタリー番組の一部といった断片的な形でなく、また当て振り(あらかじめ録音された音に合わせて、弾いている振りをする)でもなく、インタヴューや街の風景などの映像が演奏の途中でかぶさることもなく、これだけまとまった形で演奏それ自体を堪能できるものとしては、ピアソラにとって現存する最古のものであり、とんでもなく貴重なものである。

何はともあれ1曲ごとの映像を埋め込んでおく。ピラーボックス(左右の黒い帯の部分)に挟まれた画面が、通常の横4:縦3ではなく横3:縦4という縦長のいびつな状態になってしまっていて、音量もかなり小さいなど、視聴にはかなり問題が多い状態だが、これを改善してまともな形に直すやり方はあるので、後で詳しく説明する。

01. Verano porteño(ブエノスアイレスの夏)

02. Buenos Aires hora cero(ブエノスアイレス零時)

03. Lunfardo(ルンファルド)

04. Todo Buenos Aires(トード・ブエレスアイレス)

05. Fracanapa(フラカナパ)

06. Retrato de Alfredo Gobbi(アルフレド・ゴビの肖像)

07. Adiós Nonino(アディオス・ノニーノ)

08. Otoño porteño(ブエノスアイレスの秋)

前述した“ロサリオでの”ライヴ盤『天使の死』と並ぶ、1973年のピアソラ・キンテートの貴重な記録だが、曲目の重複が少ないのも魅力。ちなみに『天使の死』はこんな曲目だった。

01. Verano porteño(ブエノスアイレスの夏)
02. Los poseídos(ロス・ポセイードス)
03. Milonga del ángel(天使のミロンガ)
04. Muerte del ángel(天使の死)
05. Adiós Nonino(アディオス・ノニーノ)
06. Otoño porteño(ブエノスアイレスの秋)
07. Retrato de Milton(ミルトンの肖像)

重複は3曲だが、「ブエノスアイレスの夏」は番組ではメンバーが一人ずつ呼び込まれ演奏を始めていくという演出がなされているし、「アディオス・ノニーノ」のタランティーノによるインプロ成分の多い冒頭のカデンツァもかなり違うし、番組では時間の関係で途中がカットされた「ブエノスアイレスの秋」も、タランティーノのソロが短い代わりに、終わりにマルビチーノのソロがたっぷりフィーチャーされている。そして何よりも、演奏はテンションが高くて最高、「トード・ブエノスアイレス」や「アルフレド・ゴビの肖像」といった、1978年以降のキンテートでは一切演奏されていない曲の映像も、極めて価値が高い。2インチVTRによる録画は編集が利かず録りっ放しなのだが、ここでは加えてカット割りは一切なし、1台のカメラの移動だけですべてを録画するというユニークな手法が採用されている。

それでは、この縦長の観にくい画面を、どうやったら横長に変換できるか説明する。

まず、YouTubeにアップされている動画をダウンロードする。YouTubeのヘルプ画面には「YouTube では、他のユーザーの動画をダウンロードすることはできません」と書かれてあるが、これはダウンロードが禁止されているという意味ではなく、デフォルトでは設定されていないということである。もちろんダウンロードした動画は個人的使用の範疇に留まることをお忘れなく。Windowsパソコンの場合、RealPlayerがインストールされていれば、RealDownloaderで簡単にダウンロードできるはず。

ダウンロードしたファイルは、1280×720(16:9)のフレームの中に、960×720(4:3)ではなく540×720(3:4)という縦長の状態で収まってしまっている。また、音量レヴェルがものすごく低い。
01_1

これをHandBrakeVideo Clip QuickToolという二つのフリーソフト(どちらも得手不得手がある)を使い分けて、本来の960×720(4:3)のサイズで、音量も充分にあるまともなファイルに変換しようというわけだ。

最初にHandBrakeで、画面左右のピラーボックス(黒い帯状の部分)を切り落とし、純粋な映像部分だけにする。

HandBrakeでファイルを読み込み、
01_2a

Dimensionsのタグを選択
01_2b

Anamorphic:でNoneを選択、Keep Aspect Ratioのチェックは外さない。
CroppingでCustomを選び、LeftにもRightにも370と入力すると、Width:は自動的に540になる。
下のSave As:の欄に任意のファイル名を入力(ファイルの種類はmp4でいいだろう)。
01_2c

上のStart Encodeボタンを押す。下のように出力されれば成功。
01_3b

次にVideo Clip QuickTool V0.3.1を立ち上げ、HandBrakeから出力したファイルを画面左上のLoad Video File...ボタンで読み込む。
Output OptionsのFrame SizeでCustomを選び、ProportionとAdd Padding to Fit Customize Frame Sizeのチェックを必ず外し、540×720となっているサイズを960×720にする。
右下のSound VolumeのCharge Toを選び数字を入力する。私は350%にしたが、これは好みで変えてもいいだろう。
下のProcessボタンを押し、任意のファイル名を入力する。
01_4

これで出来上がり。
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あとはこのまま観てもよし、各曲を繋げて観られるよう細工してもよし。私は映像のない前後の部分を削除してDVD-Rに焼いて鑑賞している。これこそ真のお宝である。

2019年2月21日 (木)

【お知らせ】過去に拙ブログ(旧URL)に頂いたコメントを新URLに貼付

2月12日のエントリー「メールアドレスの変更とブログの引越し」でご案内した通り、拙ブログの過去の内容はココログの引越しツールによってそのまま新URLに引き継がれたわけだが、各エントリーに対して頂いたコメントは仕様により移動できていなかった。

せっかく頂いたコメントが消えてしまうのは申し訳ないので、どうすればいいか考えていたが、無理にコメント欄に貼ろうとせず、単純にコメント部分(投稿者名と投稿日時含む)を本文の後ろにそのままコピペしてしまえばいいことに気付いた。先ほどすべてのコメント(明らかな営業1件除く)の貼り付けが完了したので、お知らせまで。

2019年2月16日 (土)

オルリンズ? オーリアンズ? オーリンズ! 幻のセカンド・アルバム

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ギタリストのジョン・ホールを中心に、1972年2月にニューヨーク州ウッドストックで結成されたオーリンズ(Orleans)。1973年の秋ごろにabcレコーズからリリースされたマッスル・ショールズ録音のファースト・アルバム『Orleans』(abc ABCX-795)は、日本でも東芝EMIからリリースされたが、タイトルおよびアーティスト表記は『オルリンズ』だった(Probe IPP-80912)。
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※画像はネットから

今回これからご紹介する幻のセカンド・アルバムに関するごたごたを経て、アサイラムと契約したオーリンズは、1974年9月から10月にかけてロサンゼルスでニュー・アルバムを録音し、1975年3月に『Let There Be Music』(Asylum 7E-1029)としてリリース。4月にシングル・カットされたタイトル曲は初ヒットとなり、5月にビルボードで55位。そして7月にカットされた「Dance With Me」は10月に6位となり、彼らの代表曲となった。ワーナー・パイオニアからの国内盤『歌こそすべて』は7月25日発売だが、アーティスト表記は「オーリアンズ」とされ、これが日本では定着してしまった。
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当時の担当者は、なぜこのような表記を採用したのか。このバンド名は当然、音楽の聖地ニューオーリンズおよび当地の音楽家たちに由来しているのだろうから、やはり「オーリンズ」とか「オーリーンズ」とするのが自然なはず。「オーリアンズ」なんて、聖地へのリスペクトを表明した彼らをバカにしていないだろうか? 実はこの表記への疑問については、セカンド・アルバムの紹介に絡めて2016年5月にFacebookで2つのグループに投稿したことがあり、さまざまなコメントも頂戴した。デイヴィッド・クロズビーのファースト・ソロ・アルバム『If I Could Only Remember My Name』に収録されていた「Orleans」(邦題は「オルレアン」で、地名や建物名を並べてフランス語で歌われる)を参考にしたのではないかという説がある、とか。ジョン・ホール脱退後のInfinityからのアルバムを国内でリリースしたビクターでは「オーリンズ」の表記をちゃんと採用していたことも教えていただいた。

今回彼らのセカンド・アルバムを改めて紹介することにしたのは、オランダ盤『Orleans II』を入手できたからなのだが、順を追って説明しよう。バリー・ベケットとロジャー・ホーキンズのプロデュースによる『Orleans』完成後、彼らは本拠地ウッドストックのベアズヴィル・サウンド・スタジオでセルフ・プロデュースによるセカンド・アルバムを制作。これは1974年2月頃に『Let There Be Music』という、後のアサイラム盤とまったく同じタイトル、ABCD-814の番号でリリースされる予定だったが、ヒット性がない(シングルになる曲がない)という理由で発売中止。「Dance With Me」と「Let There Be Music」(後のアサイラム盤とは当然録音は違う)が含まれているにもかかわらずだ。当時「ミュージック・ライフ」の輸入盤紹介のコーナーにジャケ写付きで紹介されていたのを見た記憶が確かにあるから、本当に直前でのキャンセルだったのではないか。ネットで調べた感じでは、プロモ盤の存在はまったく確認できていないが。

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※画像はネットから

こうしてお蔵入りしたはずのセカンド・アルバムは、なぜか日本でのみ『オルリンズ・セカンド』(Probe IPP-81048)として1974年8月20日にリリースされた。本国での当初の予定が2月だったことを考えると、8月までは間が空いているが、本国での発売中止の話はどの程度伝わっていたのだろうか。雑誌「ニューミュージック・マガジン」74年9月号「今月のレコード」では中村とうよう氏が87点を付け、「楽しい音楽だが、無責任に楽しんでるんでなく、しっかりした音楽性に裏づけられている」と評している。ちなみにとうようさんはここで「オーリンズ」と表記している。後述の『Before The Dance』で先に聴いていた私は1996年1月になって、この東芝盤を西新宿のシカゴという中古レコード店で手に入れた。
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このアルバムは当時日本とヨーロッパ(オランダ)のみでリリースされた、と言われてきた。実は昨日、そのオランダ盤『Orleans II』(abc 5C062.96627)を入手できたので、こうして記事を書いているのだが、調べていくと新たな事実がいくつか見えてきた。まず、このオランダ盤は日本盤と違い、本国オリジナル盤に使われるはずだったアートワークが採用されず、タイトルも異なっている。アートワークに関する部分以外のクレジットはきちんと載っているが、ジャケットのアートワークも裏ジャケの写真も、ファースト・アルバムから流用されている。現物を手に入れるまで、単にアートワークが届かなかったのかと考えていたが、そうではなかったようだ。
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オランダ盤のクレジットの一番下には、誤って(c)1973と表記されている。そして、1974年とされてきたリリース年は(Discogsなどでもそうなっている)、レコード番号から判断する限り、実際には1975年で間違いないはず。近い番号のものでは、スティーリー・ダンの『Katy Lied(嘘つきケイティ)』が1975年4月米国発売でオランダ盤が5C062-96277、フォー・トップスの『Night Lights harmony』が6月米国発売でオランダ盤が5C062-96635なので、おおよそその間のリリースということになる。どういうことかというと、リリース元のオランダのEMI-Bovemaは、オーリンズが本国でアサイラムから新譜をリリースし、ヒットの兆しをみせていることを知って、急いでこれをリリースしたと考えるのが自然だからである。だからもう『Let There Be Music』のタイトルは使えなかったわけで、アートワークも差し替えたのだろう。
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左が『Orleans』見開き内側左、右が『Orleans II』裏

国内盤『オルリンズ・セカンド』の音質に特に問題は感じていなかったが、オランダ盤『Orleans II』を聴いてみたら、こちらの方がベールが剥れたようなクリアな音で見通しがよく、よりオリジナル・マスターに近いように感じられた。そして驚いたことに、B面最後に収められた長尺の「The Breakdown」の演奏が終わった後、誰かがオフマイクで「グアンタナメラ」のようなメロディを低音でふざけて歌い、他のメンバーがパラパラと拍手する様子が流れてきたが、この部分は国内盤にはなかった。以後の再発ではどうなっているのだろう。

本国のabcでは、アサイラムでのブレイク後の1977年になって、ファーストとカップリングした2枚組『Before The Dance』(abc AA-1058/2)としてリリース(Discogsで1978年となっているのは誤り)、私は初めてこれで聴いた。イギリスやドイツ、カナダなどでは同じタイトルとジャケットながらセカンド単独の1枚ものでリリースされ、私はファーストは持っていたのでそのイギリス盤(ABCL-5224)で買い直した。2枚組仕様の国内盤『ビフォア・ザ・ダンス』(abc YW-8033~4-AB)は、1975年10月にabcの発売権を獲得した日本コロムビアから1978年5月25日に限定盤で発売されたが、表記は「オーリアンズ」だった。
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※画像はネットから

abcは1979年にMCAに吸収合併されて消滅。セカンド・アルバムは1985年12月にMCA(当時の発売元はワーナー・パイオニアだから表記は当然「オーリアンズ」)から『ダンス・ウイズ・ミー』のタイトルで復刻されたが、タイトル・ロゴはそのままながら原題も『Dance With Me』に改められ、ゲートフォールド(見開き)ではないシングル・ジャケになってしまっていたから、オリジナルに忠実とは言い切れない。もちろん再発は大歓迎だが、帯に「世界初のオリジナル・ジャケットで衝撃のリリース!!」とあるのはどうなんだろう。そして、盤面に(p)1975 MCA Records, Inc.とあるところを見ても、オランダ盤を初発売盤扱いにして、東芝盤をなきものにしようとしている意図が感じられる。1989年11月の初CD化以降も含め、『Dance With Me』の形でリリースされているのは日本だけである。
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※画像はネットから

アサイラムで仕切り直し後の『歌こそすべて』以降も悪くなかったが、わざわざイーグルズのマネをしなくても、という部分もあるし、西海岸のバンドという印象を持たれてしまう結果にもなった。泥臭さを残したabc時代が私は好きだが、ロサンゼルスが拠点のabcが東海岸時代のオーリンズを売り損なったのは、その地域性の違いに拠るところも大きかったのかも知れない。同じabcで東海岸出身のスティーリー・ダンが成功したのは、デビュー前にプロデューサーのゲーリー・カッツともども拠点をLAに移したのも一因だろう。

2019年2月13日 (水)

明日発売の増刊号『レコード・コレクター紳士録2』に登場

雑誌「レコード・コレクターズ」で今も続く人気連載が、「大鷹俊一のレコード・コレクター紳士録」。私が取り上げていただいたのが、拙著『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』上梓から約半年後の1998年10月号に掲載された第64回だった。
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あれから20年以上経ち、明日(2月14日)発売の増刊号『レコード・コレクター紳士録2』(大鷹俊一・著)に、当時の記事がそのまま再録されることになった。
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今回は、1994年11月号から2008年11月号までに掲載された中から52人が選ばれているが、そのうちの1人に加えていただけたのである。
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ちなみにラインナップはこんな感じである。

永井博
齋藤正紀
コモエスタ八重樫
坂本博己
落合慎二
関通孝
みうらじゅん
曽我部恵一
片岡知子
斎藤充正
吉峯譲
松澤秀文
植村和紀
若林佳起
杉本英輝
佐野勝明
坂本理
青木龍行
立見伸一郎
小松崎健郎
石川真一
尾川雄介
目黒子
吉田惠彦
<番外編> Beatles For Sale!
板橋純
川崎太郎
瀬川昌久
宮治淳一
>岡田崇
佐々木雄三
佐野史郎
安藤貢
漆畑一巳
中嶋勇二
永井英夫
村上寛
高山眞一
山口雅也
吉岡修
ハスキー中川
永田清
宮本裕二
小和敬典
寺川浩人
野沢あぐむ
キスノキヨシ
古川秀彦
有賀幹夫
田中高行
真鍋崇
鈴木やすし
三上剛志

今となっては気恥ずかしいような内容ではあるが、ぜひご覧いただければ。ただ一点、目次で私の名前が斎藤ではなく「斉藤充正」になってしまっていたのがちょっと残念。

2019年2月12日 (火)

メールアドレス変更とブログの引越し

インターネット接続を「@nifty auひかりホームタイプ ずっとギガ得プラン」から「NURO光 G2V」に変更することにした(NURO光は公式サイトでも様々なキャンペーンがあり、入口によって価格も違うので注意が必要)。NURO光の工事は二段階に分かれていて、宅内工事は2月1日に終了、16日の屋外工事が終われば、NURO光が開通する。「NURO光でんわ」も番号ポータビリティ(NTTの固定電話から電話番号を継続利用)で申し込んでいるので、そこからまた利用開始まで1~2週間はかかるらしい。3年縛りプランのauひかりで契約解除料がかからないのは2月末までなので、けっこうギリギリのタイミングではある。

auひかりはプロバイダーの選択肢が多かったので、それまでずっと使ってきたニフティにしたが、NURO光はSo-netのみ。選べない分料金も安くなっているので、これは仕方がない。というわけで、メールアドレスもこれまでのニフティのものは使えなくなる。そのニフティのアドレス、いつから使っていたか、Becky!に保存された過去のメールを探ってみたら、2001年9月からだった(それまではSo-net)。その年の10月5日に某友人宛てに送ったメールに

↓メールアドレス変わってますけど、ケーブルTVでの常時接続は高いのでやめて、 @niftyのADSLにしたのでした。

と書いてあった。ケーブルTVのそんな接続サービスを使っていたことは忘れていたが、いずれにしても1999年4月に父親が亡くなり今の実家に戻って以降のことなので、そんなに長い期間ではなかった。私がそれまで使っていたSo-netのメアドも、So-netを退会した2003年4月までは併用できていた。

今後メインで使っていくのはGmailのアドレスで、2013年3月に取得していたもの。これはdocomoの契約を更新してスマートフォンを使い始めたタイミングであり、何かの必要があって作成したのだろうが(よく覚えていない)、当時はまったく使っていなかった。2015年12月になってdocomoからauに乗り換えることになり、セット割目当てでauひかりにも申し込んだ(開通は2016年1月)。auの携帯は2年縛り、auひかりは3年縛りだったので、携帯は2年使ったところで、2018年1月に格安スマホのBIGLOBEモバイルに乗り換え。この時点で携帯のキャリアメールのアドレスが使えなくなったので、眠っていたGmailのアドレスを携帯用に引っ張り出すことにした。そして今回So-netには再入会となり、新しいIDとメールアドレスももらったが、いつまで使うかは正直わからないし、携帯もパソコンもGmailで統一しておいた方が、今後なにかと面倒はないだろう。これまでメールでいろいろとやりとりさせていただいた多くの方には、既に「メールアドレスとブログのURL変更のお知らせ」を送信済みだが、本ページ左側の「メールを送信」をクリックすれば、新アドレス宛にメールをお送りいただけるようになっている。

So-net上で2000年12月にオープンしたホームページ「tangodelic!」は2002年12月にニフティに引越し。2005年以降は更新がストップしたまま放置状態だったが、2016年11月に不注意により消滅してしまった。しかも人から指摘されて、消えていることに気付いたのは翌12月。ニフティでは「@homepage」というサービスを使っていたが、このサービスが2016年9月29日で終了になるため(実際には11月10日まで延長)、「@niftyホームページサービス」に移行しないと消えてしまう、という重要な案内のメールが同年2月に届いていたのを見落としてしまったために起こった悲劇である(データはある程度残してあるが)。自分の使っているサービスが何かを把握していなかったので(関心が薄くなっていた)、自業自得といえばそれまでなのだが。

一方、2004年5月にニフティの「ココログ・ベーシック」を使ってスタートさせたブログ「tangodelog」は、頻繁にブランクを開けながらも、現在まで続いてきた。ニフティには、プロバイダーでなくても無料で使える「ココログ・フリー」というサービスがあり、申し込めば引越しツールも使えるというので、先月17日に申請。完了次第「通知メール」が送られるというので待機していたが、なかなか届かない。そこで先週、試しに新しいページに行ってみたら、なんと引越しが終わっているではないか。通知はどうした? そして、写真は見れるが元のページの設定のようにポップアップにならず、デザインをテンプレートで替えてみても反映されない。キャッシュとCookieを削除するといいというのでやってみたら、デザインは更新されたが今度は写真が表示されなくなってしまった。そこで全ての写真を今までのページから取り込み直し、主に自分の過去記事へのリンクをすべて新ページに行けるよう直し、埋め込んでいたYouTubeの動画で削除されていたものは別のものを埋め込みなおし、スマホでも右側が切れないようにサイズを小さめに揃え、そして何とか整ったのが、今みなさんがご覧になっている新しい「tangodelog」である。無料サービスなので、広告が鬱陶しいのはお許し願いたい。

2018年12月 1日 (土)

映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』公開記念トークショー無事終了

映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』の公開を記念して、11月30日19:30より代官山T-SITE 蔦屋書店3号館2階 音楽フロアにて開催されたトークショーは、無事に終了した。
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ありがたいことに立ち見も出る盛況振りで、ご来場くださった皆さんには、お礼を申し上げたい。来日中のダニエル・ローゼンフェルド監督のサプライズ登場もあり、盛り上がったのは喜ばしい限り。
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聴きなれた自分のレコードも、エルプ社のレーザーターンテーブルで聴くとまた迫力が違っていた。
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蔦屋書店ジャズ・コンシェルジュの 及川亮子さんとトークしながらお届けした曲目(時間の関係でフェイドアウトしたものもある)を、以下に解説付きで挙げておく。曲についてのコメントは準備段階で書いたもので、実際のトークでこの通りにお話できたわけではないが、時間が押してゆっくり解説できなかった「リベルタンゴ」以外は、だいたいこのような内容をお伝えできたのではないかと思う。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

老いた虎 Tigre viejo (S. Grupillo)
Argentino Galván (1959) LP
ニューヨークでの少年時代にはタンゴに馴染めずにいたピアソラが、故郷のマル・デル・プラタに戻った後の1938年、ラジオで聴いて衝撃を受けたのが、エルビーノ・バルダーロ楽団の演奏だった。先進的過ぎてレコーディングの機会に恵まれなかった30年代当時のバルダーロ楽団が残したのは、音の悪いテスト録音の1曲のみ。創世記からピアソラまでのタンゴ史を総括すべく1959年に制作されたアルバム『オルケスタ・ティピカの歴史』(監修:ルイス・シエラ、音楽監督:アルヘンティーノ・ガルバン)では、バルダーロ楽団のの歴史的価値から、当時の演奏の完璧な再現が試みられた。

場末 Arrabal (J. Pascual)
Octeto Buenos Aires (1957) LP
1955年、パリ留学を終えて帰国したピアソラによるタンゴ革命の象徴となったのが、タンゴで初めてエレキ・ギターが導入されたオクテート・ブエノスアイレスの結成。この伝説の八重奏団用にピアソラが最初にアレンジしたのが、バルダーロ楽団の当時のピアニスト、ホセ・パスクアルが書き、同楽団で初演されたこの曲である。

勝利 Triunfal (A. Piazzolla)
Aníbal Troilo "Pichuco" y su Orquesta típica (1953) CD
Osvaldo Fresedo y su Orquesta típica (1953.9.14) LP
Astor Piazzolla con Orquesta sinfónica de Radio Sprendid (1952) CD-R
Astor Piazola & his Quintet (1959.04.26) LP
Astor Piazzolla y su Quinteto (1961) LP
49年に自身の楽団を解散した後、ピアソラはアニバル・トロイロなど他楽団への作曲・編曲の提供、スプレンディド放送局楽団の指揮の仕事の傍ら、クラシックの作曲家としての成功を夢見ていた。52年に書かれたこの曲は、その時期に残した代表的タンゴ作品で、54年のパリ留学時、ナディア・ブーランジェに渋々聴かせ、「これがピアソラね。あなたはタンゴを捨ててはいけない」と諭された、ピアソラの生涯を決定付けた重要曲。トロイロ楽団とオスバルド・フレセド楽団というタイプの異なる2楽団による当時のタンゴのオーケストレーションの成熟ぶり、スプレンディド放送局楽団でのクラシカルな手法を取り入れた実験、59年に失意のニューヨークで試みた異色の“ジャズ=タンゴ”、そして61年にたどり着いた、究極の編成となるキンテート(五重奏団)での決定版の5種を聴き比べる。

マンドラゴラ Mandrágora (A. Piazzolla)
Astor Piazzolla y su Quinteto (sin violín) (1966) CD-R
66年2月、ピアソラは家族を捨てて家を出る。ピアソラはディアナの質問に答えて「家族を省みず、音楽に集中したかった」と語るが、その裏にはピアソラが当時夢中になっていたノルマという女性の存在があった。有毒の植物を指すこの曲は彼女に捧げられたが、数回演奏されただけで「出来が悪い」とボツになった。当然レコードはない。ヴァイオリン抜きの四重奏で演奏されるこの曲のライヴ録音を、本トークショーのわずか10日前に奇跡的に入手できたのでお聴き頂こう。この曲のピアソラによるピアノ演奏(!)が、映画でもピアソラが家を出る場面で使われるが、曲目リストをチェックしている段階では何の曲かわからず「不明」とせざるを得なかったのが惜しまれる。

リベルタンゴ Libertango (A. Piazzolla)
Astor Piazzolla y su Quinteto (1983.10) LP
本来代表曲ではないのにピアソラの代名詞となってしまったこの曲の本来の姿は、実はきちんと知られていないのでは? 理解と共感の充分得られない本国での活動に見切りをつけてヨーロッパに移住した74年、イタリアで当地のスタジオ・ミュージシャンらと最初に制作したアルバムのタイトル曲で、プロデューサーのアルド・パガーニから「ジュークボックスで掛けられるように」と2分45秒の長さであっさりフェードアウト、イタリアとフランスでは実際にシングル・カットされた。ジャズやロックへの大胆なアプローチを続ける中、ライヴではコンサートのオープニングを飾り、メンバーのインプロヴィゼーションと共にどんどん長くなった(映画の中でもその一部を観ることができる)。キンテートに戻っての83年のウィーンでの演奏は一転してコンパクトだ。

2018年11月18日 (日)

映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』公開とトークショーのお知らせ

ご存知の方もいらっしゃるだろうが、アストル・ピアソラ・ファン必見のドキュメンタリー映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』(監督:ダニエル・ローゼンフェルド)が、12月1日にロードショー公開される。

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まずは予告編をご覧頂こう。本編の魅力をうまく2分間にまとめてあると思う。

次に、気になる今後の各地での公開予定を書いておこう。

12/1(土)~
東京:Bunkamura ル・シネマ(渋谷) 03-3477-9264
北海道:札幌シアターキノ 011-231-9355

12/15(土)~
愛知:名演小劇場 052-931-1701

12/29(土)~
京都:京都シネマ 075-353-4723
大阪:テアトル梅田 06-6359-1080

2019/1/11(金)~
長野:アイシティシネマ 0263-97-3892
兵庫:シネ・リーブル神戸 078-334-2126

2/9(土)~
長崎:長崎セントラル劇場 095-823-0900

以後順次公開
神奈川:川崎市アートセンター アルテリオ映像館 044-955-0107
静岡:シネマイーラ 053-489-5539
福岡:KBCシネマ 092-751-4268

これはいったいどんな映画なのか。監督のローゼンフェルドは1973年ブエノスアイレス生まれ。監督としての初の長編作品が、なんとバンドネオン奏者のディノ・サルーシを取り上げた『Saluzzi- rehearsal for a bandoneon and three brothers』(2002年、日本未公開)だった。これを観たピアソラの息子、ダニエル・ピアソラから直々に、父アストルのドキュメンタリー映画の製作を提案されたのだという。そして昨2017年、ピアソラ没後25周年を記念してブエノスアイレスで開催された回顧展にあわせる形で完成したのが、この映画である。原題は『Piazzolla, los años del tiburón』で(日本公開版では英題の『Piazzolla, The years of the shark』で表記される)、訳すと『ピアソラ サメの時代』となる。日本では、これでは一般層に内容が伝わりにくいとの判断から『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』というタイトルが採用された。

ピアソラで“サメ”と言えば、思い浮かぶのが「エスクアロ(鮫)」という曲名だろうが、映画ではなぜ“エスクアロ”ではなく“ティブローン”なのか。手元にある2種類の西和辞典ではどちらも意味は同じで、ティブローンの方には、別に“野心家”などの意味もあるが、特にかけているわけではない。映画で引用されているピアソラのインタヴューでもダニエルの想い出話でも、ピアソラの趣味のサメ釣りの話題で“ティブローン”という単語が使われている。この言葉の方が一般的で、曲名にはヒネリを加えたのだろうか。いずれにしてもピアソラを指す重要なキーワードとして“サメ”がタイトルにまで採用された理由は、本編の中でご確認いただきたい。

この映画は、息子ダニエルの全面的な関与により、主にピアソラの没後製作された他のドキュメンタリーとは明確に一線を画す内容となった。ピアソラ家に大切に保管され、今回初公開となった1950~60年代のアーカイヴ(8mmフィルムやオープンリール・テープなど)には驚かされるばかりだ。そして各地に散らばる貴重なテレビ映像などの数々も画面を彩るが、語り部として登場するダニエルの嗜好や思いを反映して、彼がメンバーとして参加した70年代中期のコンフント・エレクトロニコ時代のヨーロッパでのテレビ局出演時の映像の比重が高い。

更に、2009年に亡くなった娘(ダニエルの姉)のディアナ・ピアソラが1987年に上梓した伝記『Astor』のために父を取材した際のテープが残されていて、これがまた重要な素材となっている。

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私は今回、光栄にも字幕監修を担当させて頂き、パンフレットにも「父として、アーティストとしてのピアソラ」なるコラムを寄稿した。そして、公開前夜の11月30日(金)19時30分から、代官山T-SITE 蔦屋書店3号館2階 音楽フロアにて開催されるトークショーにも出演することになった。せっかくの機会なので、他ではまず聴くことのできない音源もお掛けしたいと思うので、ぜひお出掛けいただきたい。詳しくは下記リンクから。

【イベント】JAZZトーク スペシャル版 映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』公開記念トークショー

11月20日発売の雑誌『ラティーナ』12月号では、映画・音楽ライターの圷(あくつ)滋夫さんの「『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』 偉大なる音楽家の真実と、父と子の儚い物語」という一文に続く形で、「ピアソラのお宝探索の旅は終わらない」という記事を執筆しているので、併せてお読みいただければと思う。

Latina201812

また、映画の広報大使に選ばれたバンドネオン奏者、三浦一馬がキンテート編成で録音した最新アルバム『LIBERTANGO』(キング KICC 1471、10月24日発売)では曲目解説を担当したので、そちらもぜひどうぞ。

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2018年9月 5日 (水)

ケビン・ジョハンセンと仲間たち(2)

予告から1年以上間が開いてしまったが、「ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する」シリーズの最終日でめでたくケビン・ジョハンセン+ザ・ナダの『City Zen』に到達したので、このタイミングを逃してはと、「ケビン・ジョハンセンと仲間たち」のシリーズを再開することにした。

友達同士だったケビン・ジョハンセン(ヴォーカル、ギター)とフリアン・ベンハミン(ヴォーカル、キーボード。先日紹介したハビエル・カラマーロとも同級生だったという)は一緒に曲を書くようになり、ロベルト(ドラムス?)とダニエル(ベース)のクラウセ兄弟とインストゥルクシオン・シビカ(当初はサラトゥストラ――ツァラトゥストラのスペイン語読み――という名前だったという記述もあり)を結成する。2曲を録音したところでクラウセ兄弟が抜けてしまったが、スタジオが予約済みだったため、ベンハミンがドラムスのフェルナンド・サマレアを呼び寄せ、録音を続行する。この時はグスタボ・ドネースがベースを担当した。その後CBSと契約を果した時点で、ベースのダニエル・クラウセが復帰。そして85年6月から10月にかけてアルバム『Obediencia Debida』(訳すと「しかるべき服従」)(CBS 120.756)を録音し、翌86年にリリースする。

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収録された9曲は2人の合作がメインで、2人で詞を書き、ジョハンセンが曲を書くというパターンが多かった。ジョハンセンの単独曲が1曲あるが、ベンハミンの単独曲はなし。ヴォーカルも2人で分け合っている。タイトル曲のみ、曲はジョハンセンとクラウセの合作となっている。サマレアはドラムス(シモンズ?)とローランドのリズム・マシーンTR-707のプログラミングを担当。サマレアはこのバンドの後、チャーリー・ガルシーアのバンドのドラマーを長く務め、バンドネオン奏者としてもユニークな活動を続けることになる。もう一人、クラリネットのアレハンドロ・テランも正式メンバーに加わっている。また、ゲストとしてセバスティアン・ションがアルト・サックスで、アクセル・クリヒエールがフルートで参加している。この2人とも、00年代以降もジョハンセンと関わることになる。
音はいかにもニュー・ウェイヴ以降といったシンプルでポップなロックで、00年以降のジョハンセンにみられるような多面性を兼ね備えたものではない。このアルバムはアルゼンチン以外の中南米諸国でも注目され、とりわけペルーではゴールド・ディスクに輝いた。(続く)

2018年9月 3日 (月)

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(10日目)

10日前のFacebookへの投稿を転載したこの企画も、今日で最終回。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。10日目/10日

Cityzen

Kevin Johansen + The Nada / City Zen (Los años luz 2-509201)

(続き)
スピネッタやチャーリー・ガルシーアとは違った意味でアルゼンチン・ロック史に大きな足跡を残してきた一人に、リト・ネビアがいる。アルゼンチン・ロックの黎明期にロス・ガトス・サルバーヘス(1964年~)、そこから発展したロス・ガトス(1967~1970)のヴォーカリストとして活躍したネビアは、ソロ活動も69年からスタートさせ、ジャズからタンゴ、フォルクローレに至るさまざまなタイプの音楽家(例えばパーカッションのドミンゴ・クーラ、バンドネオンのディノ・サルーシ、サックスのベルナルド・バラフ、フォルクローレ・コーラスのクアルテート・スーパイなど)との共演もこなしているが、最も注目すべきは、主宰するMelopeaレーベルのプロデューサーとして、新録や貴重音源の発掘に力を注いできた点にある。その中には、アストル・ピアソラ五重奏団が63年に残した放送音源の復刻や、晩年のロベルト・ゴジェネチェの新録音なども含まれる。
90年代前半には、タンゴやフォルクローレ以外の同レーベルの新譜CDなどもラティーナ代理部(同誌の物販部門)にはぽつぽつ入荷するようになっていたこともあって、「ラティーナ」では93年12月号に「ディスコス・メロペアの確かな足どり [上]タンゴ篇」、94年1月号に「ディスコス・メロペアの前向きな作戦 [下]MPA篇」と、2回に分けて紹介記事を書かせてもらった。MPAとはムシカ・ポプラール・アルヘンティーナの略で、ブラジルのいわゆるMPBに対応する言葉として(あまり一般的ではないが)使っている。実際にはこれにMPU、つまりウルグアイのポップ音楽も加わる。
ウルグアイ勢の中心となっていたのはルベン・ラダ、ウーゴとオスバルドのファトルーソ兄弟(元ロス・シェーカーズ、オパ)、オスバルドのパートナーだったマリアーナ・インゴールなどだ。とりわけ、コンガを叩きながらカンドンベをソウルフルに歌う黒人のルベン・ラダはお気に入りとなった。彼のアルバムは旧譜も含め、2000年の『Quién va a cantar』までだいたい聴いていたが、それ以降はご無沙汰となってしまっていた。
しばらくぶりに彼のアルバムに接したのは2015年9月のこと。たまたま立ち寄った新宿のディスク・ユニオンで2013年の『Amoroso pop』を見つけたら、これがポップ感覚全開の傑作で、ハマってしまった。そこから欠けていた部分を集め、参加作、関連作を含めてアルバム60枚ほどを一通り聴き、整理していたところで、「ラティーナ」2015年12月号でウルグアイ特集をやるというのでまとめたのが、『黒い魔術師ルベン・ラダ―変幻自在の軌跡をたどる―』という5ページの記事だった。
というわけで、ラダのアルバムも紹介したいところだが(1枚選ぶなら2004年の傑作ライヴ『Candombe Jazz Tour』だが、入手困難なのが口惜しい。また、タンゴとミロンガに正面から向き合った2014年の2枚組『Tango, Milonga & Candombe』も良い)、選んだのはそこから派生した1枚。人気者のラダはゲスト参加作も非常に多く、すべてを把握しきれていないが、判明している範囲でいくつか集めていた中に、ケビン・ジョハンセン+ザ・ナダのアルバムがあった。それを聴いて、今度はそのケビンたちのひょうひょうとしてユニークな音楽にすっかりやられてしまった。これほど自分のツボにはまったアーティストも久しくなかったと言えるほど、彼らとの出会いは衝撃的だった。これまでにリリースされた8枚のアルバム(内2枚はライヴ)はどれも甲乙つけ難いが、今回は2016年7月に最初に買った記念すべき1枚ということで、ラダ以外にもフェルナンド・カブレラやホルヘ・ドレクスレルといったウルグアイの人気ソングライターたちが参加した2004年の第3作『City Zen』を選んだ。

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※写真上のアルゼンチン盤は19曲入りだが、米国盤や写真下の英国盤は12曲入り(メドレーの数え方が異なるので実際は13曲入り)なので注意が必要。

ケビンについてはこれまでにもFacebookで何度か紹介しているが、2016年の大晦日に書いた次の文章を少し手直しして再掲しておく。
Kevin Johansen (「ラティーナ」など極めて限られた日本のメディアでは「ヨハンセン」と表記されているが、本人も周りも「ジョハンセン」と発音している)は、1964年6月にアラスカで生まれ、主にサンフランシスコやブエノスアイレス(一時期はウルグアイのモンテビデオ)で育った。父親は米国人、母親はアルゼンチン人。
80年代半ばにはブエノスアイレスで、インストルクシオン・シビカというニュー・ウェイヴ・バンドで活動し、アルバム2枚を残すが、この時関わったミュージシャンには、フェルナンド・サマレアやアクセル・クリヒエールといった、後にアルゼンチン音響派の一角を占める人材もいた。90年代はニューヨークで、パンク/ニュー・ウェイヴのメッカとして名高い、かのCBGB'sなどでハウス・バンドのメンバーを務めていた。
そして2000年、CBGB'sで録音したファースト・ソロ・アルバム『The Nada』をアルゼンチンの気鋭のレーベル、ロス・アーニョス・ルスからリリース。基本的にはポップだが幅広いジャンルの要素をぶち込んだ、人懐っこいけどぶっ飛んでる独自の世界が確立されていた。このアルバム・タイトルを冠したバンド、ザ・ナダをブエノスアイレスで結成し、2002年の『Sur O No Sur』以降、そのメンバーを中心に様々なゲストを迎えて、アルバムが作られている。

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ザ・ナダのメンバーも、ギターのチェバ・マッソロ、チャランゴほかのマキシム・パディン、フルートやサックスのカイオ・レボラティほか腕利き揃いだが、ピアソラやガト・バルビエリなどとの幅広い共演歴を持つ名ドラマー、エンリケ“スルド”ロイスネル(2016年の最新作『Mis Américas Vol. 1/2』のジャケット写真に写っているのが彼)が正式メンバーとして加わっているのが心強い。

Misamericasbi

セルジュ・ゲンズブールやレナード・コーエンからの影響を公言し、曲をカヴァーもしているように、低音のヴォーカルが魅力のひとつ。2012年の2枚組『Bi』に収められたコーエンのカヴァー「Everebody Knows」は、オルケスタ・エル・アランケを迎えて本格的なタンゴに仕上がっていて、秀逸な出来だった。どのアルバムも引き出しが多く、仕掛けもいろいろあって、聴きどころ満載。もっともっと多くの人に、その存在を知って欲しい。

2018年9月 2日 (日)

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(9日目)

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。9日目/10日

Villavicio

Javier Calamaro y su Orquesta Pirata presentan "Villavicio" (Típica 077-02)

(続き)
昨日スピネッタのライヴBOXを取り上げた際、私が初めて「ラティーナ」に寄稿したのは、85年12月号に掲載された「ロックとタンゴの無関係な関係」という記事だったと書いた。そこでは、ロックがレゲエやアフリカン・ビートなどを取り入れるようにタンゴのリズムを導入することは不可能だ、などと書いている。もちろん、20世紀の前半にブエノスアイレスからパリ経由で世界に広まったタンゴのリズムは、さまざまな形で各国のポピュラー音楽に取り入れられているし(「黒ネコのタンゴ」や「だんご3兄弟」も、分類としてはここ)、ロックに限っても、ルイス・フューリーの「ハスラーズ・タンゴ」やスラップ・ハッピーの「カサブランカ・ムーン」のような例はある(よく聴けばどちらも「ラ・クンパルシータ」をモチーフにしている)。私がそこで話題にしたのは、オスバルド・プグリエーセに代表されるアルゼンチン・タンゴのリズムの「揺れ」の特殊性についてである。タンゴには基本的にパーカッションが入らず、ピアノの特に左手と、アルコ(弓弾き)を多用したコントラバスを中心に組み立てられたリズムが、曲の中で揺れながらめまぐるしく変化していく。そのような特殊性ゆえに、反復するビートを基本とするロックやアフロ系音楽とは容易に相容れない、ということを言おうとしていたのである。例外はやはりピアソラだが、70年代のエレクトリックな編成によるジャズ=ロック的なアプローチは、彼が多用してきた3-3-2のリズムを援用することで可能となった。
そんなことを書いたりしていただけに、特に90年代末以降、アルゼンチンやウルグアイのロック系ミュージシャンがタンゴに大胆にアプローチしたり、タンゴ・エレクトロニコという新しいジャンルまでが登場したことを考えると、感慨深かったりするのだ。トム・ウェイツのようなダミ声でタンゴが本来持っていた猥雑な雰囲気を再現する怪人ダニエル・メリンゴ(元ロス・アブエロス・デ・ラ・ナダ)の登場はとりわけ衝撃的だった。女性ヴォーカルのドロレス・ソラーとソングライターのアチョ・エストルのユニット、ラ・チカーナもコンセプトはやや近い。スピネッタが組んだバンドの一つ、ペスカード・ラビオーソのメンバーだったキーボードのカルロス・クタイアの描く架空サントラ的世界もユニークだ。ヴォーカリストのフアン・カルロス・バリエートは90年代から、キーボードのリト・ビターレと組んでタンゴやフォルクローレの新解釈に取り組んでいる(当初はタンゴ・ファンからボロクソに言われていたらしい)。
ロス・アブエロス・デ・ラ・ナダでメリンゴと同僚だったアンドレス・カラマーロは、タンゴやフォルクローレ、ボレロなどで構成されたスペイン録音の『El Cantante』を2004年にリリースしているが、今日紹介するハビエル・カラマーロはその弟。オルケスタ・ティピカ(標準的楽団)ならぬオルケスタ・ピラータ(海賊楽団)を率いて、本格的なタンゴに挑戦する。レパートリーはオリジナル(キーボードとアレンジのレアンドロ・チアーペとの合作)と、アニバル・トロイロ作品を中心とした歌のタンゴで構成されている(エルナン・フィゲロア・レジェスのフォルクローレも1曲)。その歌いっぷりは堂々としたもので、歌も演奏も、タンゴっぽさとロックっぽさの重なり合い具合が絶妙。トロイロ=カトゥロ・カスティージョ作「La última curda(最後の酔い)」にはルベン・フアレスがバンドネオンで、「Yuyo verde(みどりの草)」には女ゴジェネチェの異名を取るアドリアナ・バレーラがゲスト参加。この『Villavicio』は2006年のアルバムだが、カラマーロは2014年にタンゴ・アルバム第2弾『La vida es afano』をリリースしている。

2018年9月 1日 (土)

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(8日目)

過去7日間に続き、10日前のFacebookへの投稿を転載する。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。8日目/10日

Spinetta1

"Spinetta y Las Bandas Eternas"(レーベルなし、番号なし)

(続き)
86年にシエテ・デ・オロでブエノスアイレスに演奏旅行に行く1年前の85年7~8月、私はリーダーの齊藤一臣さんの鞄持ちのような形で、初めてブエノスアイレスの地に降り立った。初めて生で聴くオスバルド・プグリエーセ楽団は衝撃だったし、ほかにも印象的なライヴを観ることができた。レコードもいろいろ買ったが、それはタンゴだけではなかった。当時の日本では、アルゼンチンのロックについての情報など皆無だったが、やはり彼の地のロックがどういうものなのか気になった私は、スーパースター的存在のチャーリー・ガルシーア、美声のニト・メストレ(この2人はスイ・ジェネリスというフォーク・ロック・デュオで一緒だった)、レオン・ヒエコ(ニール・ヤング的な感じからスタートし、フォルクローレにも大胆にアプローチしていく)、セル・ヒラン(後述)のアルバムなどを適当に見繕って買ってきたのである。デビュー間もなかったフィト・パエスのファースト・アルバム『Del '63』のジャケットを手に取った記憶はあるが、この時は買わなかった。まさかその後シーンを牽引する存在になるとは思いもよらなかったな。
私が初めて「ラティーナ」に原稿を書いたのは85年12月号で、それは「ロックとタンゴの無関係な関係」という記事だった。そこでもそれらのレコードについて軽く触れているが、まだ全体像が見えておらず、今読み返すとかなり見当違いのことを書いていて恥ずかしい。その後もアルゼンチンのロックのことが気になったりはしていたが、現地でのレコード集めは、どうしてもタンゴを優先させていたので、あまり進まなかった。むしろ90年代に入り、西新宿のレコード店に中古盤がぽつぽつ入ってきたり(リストをみてオーダーすることも出来たりした)、ディスクユニオンやヴァージンメガストアなどに新譜CDが少しずつ入って来るようになってきて、ようやく見通しがよくなってきた。キーボードのチャーリー・ガルシーア、ギターのダビッド・レボン、ベースのペドロ・アスナール(パット・メシーニ・グループでも活躍)、ドラムスのオスカル・モロの4人組、セル・ヒランの92年の再結成アルバム『Seru Giran 92』、元MIAのリト・ビターレがペドロ・アスナールほかフォルクローレからジャズに至る多彩なゲスト陣を招いて完成させた『Juntando almas』(93年)といった傑作の登場も大きかった。チャーリー・ガルシーアと並ぶ大物でありながら、何となく全体像の見えにくかった(ルイス・アルベルト・)スピネッタがようやく視界に入ってきたのもその頃だった。
何故全体像が見えにくかったか。とにかくスピネッタほど変幻自在な存在もほかにいないからである。68年にスタートさせた最初のバンド、アルメンドラはサイケデリック、72年結成のペスカード・ラビオーソ(ダビッド・レボン在籍)はブルース・ロック、74年のインビシーブレはプログレ、77年にソロになってからはAORやニュー・ウェイヴ、80年のスピネッタ・ハーデはフュージョンと、その時期ごとのバンドで幅広いアプローチを見せたが、もちろん単純に分類できるわけではなく、それぞれにおいてさまざまな要素が複雑に絡み合っている。97年の『Spinetta y Los Socios del Desierto』ではロックの原点に立ち返ったようなソリッドなサウンドを展開していて驚かされた。そして00年代に入り、新たなバンド編成で更にリフレッシュし、充実したアルバムを連発していったのである。

Spinetta2

38.5cm×29.5cmの大型パッケージにCD3枚とDVD3枚、写真集2冊が収められたこのBOXは、2009年12月4日にブエノスアイレスのベレス・スタジアムで行われた、3時間以上におよぶ集大成的ライヴを収めた完全版。現在のバンドによる鉄壁のアンサンブルを基調に、彼のキャリアを彩ってきた各バンドの当時のメンバーも集結。チャーリー・ガルシーア、フィト・パエス、元ソーダ・ステレオのグスタボ・セラティ、人気ヒップホップ・ユニット、イリャ・クリャキ&ザ・バルデラマスで活躍する息子ダンテ・スピネッタら豪華ゲストも参加した一大絵巻だ。
アルゼンチン・ロック界の真のカリスマだったスピネッタは、数多くの名曲が詰まったこの素晴らしい記録を遺し、2012年2月8日に62歳でこの世を去ってしまった。こんな音楽家はもう現れないだろう。

オープニングの「Mi elemento」。

2018年8月31日 (金)

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(7日目)

過去6日間に続き、10日前のFacebookへの投稿を転載する。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。7日目/10日

Halfandhalfb

Frankie Valli & The 4 Seasons / Half & Half (Philips PHS 600-341)

80年代から90年代の頃には、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・キンクスなど、60年代に登場したバンドを改めて聴き直すことも多かったが、当時は視界に入ってこなかったのがフォー・シーズンズだ。そもそも、アルバム『ペット・サウンズ』の再評価、ブライアン・ウィルスンの復活とその後の安定したソロ活動などにより、新たなステイタスを獲得したビーチ・ボーイズと比べて、フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズはロック・ジャーナリズムの世界でも長年無視され続けてきた(大瀧詠一×山下達郎対談を含む「レコード・コレクターズ」92年3 〜4月号の特集など数少ない例外はあったにせよ)。
そんなフォー・シーズンズの音楽がようやく見直されるきっかけとなったのが、彼らを題材として2005年にブロードウェイで開幕したミュージカル『ジャージー・ボーイズ』がロングランとなったこと。ただしこれはアメリカ合衆国本国での話で、ミュージカルを観ることの叶わない日本にはなかなか波及しなかった。それでも2007年には彼らの歩みをまとめたCD3枚+DVDのセット『... Jersey Beat... The Music Of Frankie Valli & The 4 Seasons』も出て、私はこれを聴いてようやく彼らの奥深い魅力に気付かされた。しかも、本国でも彼らの人気が低迷していた60年代終盤から70年代前半の時期にも充実した作品群を残していたことには、心底驚かされた。それからは、彼らが残した全作品や関連作を集め、ブログでも2012年3月から彼らについて継続的に紹介し始めた。そうこうする内に、夢かと思われた彼らの初来日公演も2014年1月に実現し、同年には『ジャージー・ボーイズ』がクリント・イーストウッド監督により映画化されて話題となり(日本公開は9月)、ミュージカルも2015年6〜7月に来日。それに合わせて拙著『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』をスペースシャワー・ブックスから上梓することも出来た。
信じられないようなことが続いたが、結局のところ、『ジャージー・ボーイズ』という作品が人気を得ただけであって、残念ながらその音楽を作り出したフォー・シーズンズの再評価には結び付かなかった。私ごときの力でどうなるものでもないとは言え、口惜しい限りである。
とりわけ私が光を当てたかったのは、ベーシストがジョー・ロングの時代の諸作、アルバムでいうと67年の『New Gold Hits』から、69年のコンセプト・アルバム『The Genuine Imitation Life Gazette』、今回紹介する『Half & Half』、MoWestからの唯一のアルバムとなった72年の『Chameleon』までの4枚が該当する。
70年4月にPhilipsからの最終作としてFrankie Valli & The 4 Seasons名義でリリースされた『Half & Half』には、ローラ・ニーロの「Emmie」をタイトルを変えてカヴァーした「Emily」から、バート・バカラック作「Any Day Now」とエドウィン・ホーキンズが有名にした「Oh Happy Day」のメドレーまで、フランキー・ヴァリのソロ曲とフォー・シーズンズとしての曲が5曲ずつ収められている。メンバーのボブ・ゴーディオ、長年彼らのアレンジを手掛けてきたチャールズ・カレロのほか、デニー・ランデル、ハッチ・デイヴィ、ジョー・スコットという豪華編曲陣によるふくよかでコクのあるサウンドに載せて、フランキーたちは充実した歌唱を聴かせてくれる。私にとってはこれが彼らのベスト。「Sherry」も「Can't Take My Eyes Off You(君の瞳に恋してる)」も「Who Loves You(愛はまぼろし)」ももちろん素晴らしいが、それだけではない彼らの魅力に、もっと多くの人々が気付いて欲しい。

2018年8月30日 (木)

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(6日目)

過去5日間に続き、10日前のFacebookへの投稿を転載する。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。6日目/10日

Almostprettyb

Tony Kosinec / Almost Pretty (Vivid Sound VSCD-069)

タンゴが自分の中に占める比重が高くなったとはいえ、他の音楽、とりわけロックやポップスを聴かなくなったわけではなかった。私は89年から97年まで、レンタルショップに専門にCDを卸す会社(代行店と呼ばれた)の一つに勤務し、出荷業務などのほか、各メーカーから毎月届けられる新譜案内をもとに、顧客向けの新譜案内を作ったりしていた。だからこの時期は洋楽邦楽を問わず、どんな新譜が出るか把握出来た。サンプル盤もいろいろ来るし、新譜はシールドを剥いてレンタル用のシールが貼られた状態で入荷するから、オーダーさえあれば、聴いてみたいものはいくらでも聴くことが出来た。
だが、この時期によく聴いたアーティストやアルバムで、今でも聴き続けているものは実は多くはない。せいぜいプリファブ・スプラウトぐらいだろうか。むしろ現在までの愛聴盤は、その後の時期に現れた。
イギリス生まれ、カナダ育ちのシンガー・ソングライター、トニー・コジネクの人気盤といえば、ピーター・アッシャーがプロデュースした70年のセカンド『Bad Girl Songs』にとどめを刺すだろうが、私は73年の『Consider The Heart』の方が彼らしい気がして好きだった。85年にカナダのTrue Northから『The Passerby』が出たことはどこかの輸入盤店の広告で知ったが、入荷が少なかったようで、手に入れられないまま長い年月が過ぎた。
だから、日本のヴィヴィッド・サウンドが2000年にその『The Passerby』と、78年に録音されながらお蔵入りしていた『Almost Pretty』を世界初CD化してくれた時は、ホントに嬉しかった。どちらも期待に違わぬ出来だったが、とりわけマイケル・ケイメン(元ニューヨーク・ロックンロール・アンサンブル、その後映画音楽の大家に)がプロデュースとストリングス・アレンジを手掛けた後者はお気に入りとなった。以来18年間ずっと聴き続けているが、全然飽きることがない。そもそも79年にMercuryからのリリースが見送られたアルバムであり、一般的な評価も人気もわからないのだが、コジネク本人が自身のアルバム中のフェイヴァリットに挙げているのは納得。彼の本質は、このくらいポップでカラフルなサウンドにこそ現れていると思う。

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